2013年5月3日の作品。意外と長い。

これは、あまり哲学的な文章ではなく、どちらかといえば政治的な文章です。
だけど、大好きなアイディアなので書きました。とのこと。

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01 ジェイミー王国人
私は日本人ではなくジェイミー王国人だ。(本当は、「○○(私の本名)王国」人だが、そのままでは伏せ字ばかりになってしまうので、この文章では私のハンドルネームを使ってジェイミー王国としよう。)
ジェイミー王国は、私の家を国土とし、私の家族を国民とし、私を王として主権を有する。誰にも言っていないし、家族もよもやジェイミー王国民にされているとは思っていないだろうが、そういうことになっている。
ただし、私は生まれたときからジェイミー王国人だった訳ではない。私はもともと日本人だった。(正確には、日本人だと思っていた。)しかし、数年前にこのアイディアを思いつき、ジェイミー王国人になった。隣国の日本は、気付かずに私のことを日本人として扱ってくれているし、日本人だということにしておいた方が都合もいいので、そのままにしている。出勤のたびにパスポートをチェックされるなんて面倒くさいから、毎日こっそり日本に密入国している。

02 鳥取とタイ
日本人であった頃のことを思い出すと、なんて面倒なものに囚われていたのだろうと思う。
数年前まで、私は日本人として、例えば鳥取とタイとでは、鳥取の方が自分に近いと思っていた。タイで起こった事件よりも鳥取で起こった事件の方が気になったし、鳥取の人が幸せかどうかの方が、タイの人が幸せかどうかよりも気になっていた。
しかし、よく考えてみると、私は関東地方に住んでおり鳥取には一度も行ったことがないが、タイは好きで何度も行ったことがある。これまでの家族旅行の行き先は、日本を除けば半分くらいがタイだ。鳥取よりもタイの方が身近なような気さえする。
確かに、鳥取の方が近いと思う理由はたくさんある。同じ日本語を話している。(ジェイミー王国の公用語は日本語だ。)住民の顔立ちも似ている。(私はタイ人に間違われることもあったけど・・・)また、同じ日本のテレビ番組を見ることができる。(ジェイミー王国は日本のテレビを受信できる。NHKにも料金を払っている。)しかし、どれも決め手に欠ける。
元々私が日本人だったということを除けば、鳥取とタイとでどちらが身近なのかは、どのような視点から判断するかによりけりだ。要はどちらでもよい。
だから今は、ジェイミー王国人の私は、あまり鳥取のニュースは気にしていない。というか、タイのニュースと同じくらいに気にしている。
今は、鳥取の人とタイの人は、同じような意味で、どうなってもいいし、どうなってもよくない。こうして、私は少し身軽になった気がする。

03 教育または洗脳
なぜ、自分自身のことをジェイミー王国人ではなく日本人だと思っていたのだろうか。
少なくとも、法律や慣習で決まっているから、ではない。法律や慣習は、私の行動を裁き、強制することはできても、私の思考を強制することは出来ない。日本国憲法で内心の自由が定められていなくても、そもそも内心は自由だ。
では何故、日本人だと思っていたのかと言えば、そのように教育されたからだ。教育と言っても学校での教育に限らない。世の中全体が、私が日本人だということを前提にして私に接した。そういう意味での社会的な教育があったからだ。特にテレビの力は大きかったように思う。同じテレビ番組を見ることで、私は日本全国とコミュニケーションをとっているような気がして、そこに深いつながりを感じた。そして、私はなんとなく日本人だと思いこんでしまった。この教育の力は、洗脳と言い換えてもよいかもしれない。この教育、または洗脳により、私は自分のことを日本人だと思い込んでいたということだ。

04 日本人だと自覚することの意味:一般的には
それでは、日本人だと思い込むことは悪いことなのだろうか。
「思い込む」だと悪いことだと決め付けている感じがあるので、中立的に言うならば「日本人だという自覚を持つ」ことは悪いことなのだろうか。
この問いに対する私の答えは、「日本人だという自覚を持つことは、一概に悪い訳ではないが、現在の日本の現状を踏まえると悪いことである。」というものだ。
このような考えがあるからこそ、私はジェイミー王国を建国したと言ってもよい。こんな国でも独立の理由がある。
その私の考えを述べる前に、まずは「日本人だという自覚を持つ」ということの意味について、一般的にありそうな考えを列挙してみることにしよう。
思いつくままに挙げると、ちょっと石原慎太郎っぽいが、長い歴史を持つ由緒ある素晴らしい国家である日本に属しているという自覚を持つことで自信を持つことができる、というような考えがありそうだ。また逆に、昔の社会党っぽいが、戦争という過ちを犯した罪深い国家である日本に属しているという自覚を持つことで謙虚になれる、というような考えもあるかもしれない。これらの考えは一見正反対だが、日本という国家が有している歴史や印象のようなものに着目しているという点で似ている。
その他にも、社会契約論的に言えば、日本人だという自覚を持つことで、日本という法治国家に属していることを意識し、国家権力に服する心構えをもつことができる、という考えもありそうだし、逆にアナーキズム的には、国家という暴力装置に対しては力で反抗すべきという考えを持つことができる、という考えもあるかもしれない。これらの考えについても、一見正反対だが、日本を「国家」という制度面から捉えているという点で似ている。
ここまで挙げた考え方は、日本の歴史や印象という話にしても、国家の制度という話にしても、日本または国家を特別なものとして捉え、そこに何らかの意味を見出しているという意味で共通点がある。

05 日本人だと自覚することの意味:私にとっては
一方で、私が着目したい「日本人だという自覚を持つ」ということの意味は、そのように、なにか特別なものとして捉えることで見出されるものではなく、日本に限らず、国家に限らず、共同体であれば普遍的に見出すことができるものである。
その意味を説明するために、私自身のこんな体験を持ち出したい。
突然だが、私は海外の一人旅が好きだ。いわゆるバックパッカーもどきだ。最近は家族旅行ばかりだが、昔はよく一人でアジア方面に行っていた。好きで一人旅をしているのに、旅の途中は寂しくなることもあった。そんな寂しい気持ちのとき、例えばタイ南部のビーチにある安宿の食堂で日記を書いているとき、ふと日本人を見かけると嬉しくて話しかけたくなった。そこには、日本語が通じるからうれしい、ということ以外に、どこかに自分と同じ日本人だから安心する、というような感情があった。
自分と同じ日本人、私が日本というものに見出すのはこんな意味だ。
日本人だという自覚を持つことで、日本人同士の繋がりが得られ、寂しくなくなり安心する。これが、私にとっての、日本という共同体に属していたことの一番大きな意味である。私はこの意味に着目したい。

06 共同体
念のための確認だが、ここでは共同体という言葉を「単なる人の集まり」という程度の意味で使っている。共同体には色々な単位がある。家族、集落、都道府県というような規模別の単位や、地縁、血縁、企業というような種類別の単位がある。日本人であるということは、いくつもある共同体の単位のうちのひとつである、国家という単位の共同体に所属しているということを意味するに過ぎない。
ここで日本という共同体について、日本というものの特別さや、国家というものの特別さを読み込もうとすると、私が着目したいものとは別の、先ほど列挙したような特別な「日本人だという自覚を持つ」ということの意味につながってしまう。
普遍的な意味で共同体という言葉を使い、共同体が持つ、普遍的な意味に着目しているということを、念押ししておきたい。

07 寂しさ
先ほど、日本人だという自覚を持つことには、日本人同士の繋がりが得られ、寂しくなくなり安心するという意味があると述べた。このことをもう少し丁寧に述べたい。
私自身の寂しさの例として一人旅のある場面を挙げたが、皆が一人旅をしている訳でもないと思うので、もう少し他の例を挙げてみよう。寂しさといえば、やはり、上京である。東京の大学に進学し、いなかから上京してきて東京で一人きりで暮らす、というようなシチュエーションが、寂しさの例としてはぴったりだ。
私はもともと、首都圏に住んでいるので上京したことはないけれども、寂しさと言えば上京である。親元を離れて、土が付いた一万円札を手に握り締め、尾崎豊を聞きながら上京する、倉本聰的なあの感じだ。
・・・と強引に述べてきたが、実はこの文章における話の筋道として最も危ういと思っているのが、この部分だ。
実は当初、寂しさというものは、言わなくても伝わるだろうと思い、この部分は適当に書いてみた。しかし、それではまずいと思い、丁寧に書き直そうとした。しかし、そうは思ってはみたものの、今度はその困難さに気付いた。いくら言葉を尽くしても、一人旅、上京と例をいくら列挙しても、寂しさ、というものが読者に伝わらない場合がありうる。一人でも別に寂しくないよ、と言われればそれまでである。
実は、この問題は私にとっての大きな哲学的な問題である。作者が言葉を尽くしても読者の共感が得られない場合、間違えているのはその内容なのか、それとも相手を読者だと思ってしまったことなのか、という問題がそこにはある。
私は、この問題については、読者の問題であり、そのような読者は諦めるしかない、という当面の答えを持っている。よって、そのスタンスに従い、いくら例を挙げても寂しさというものが伝わらない人は無視して先に進むこととしたい。
だから、ここからは、私と「寂しさ」というものを共有している読者ばかりということになる。だから私が寂しさと言えば倉本聰をイメージして欲しい。それで話は伝わるということになる。

08 県人会
皆さんが私と同じ感性を持っていることを信じて、更に強引な連想ゲームを続けたい。寂しさと言えば上京、そして、上京と言えば県人会である。
やっと私が使いたかった県人会という言葉にたどりついた。しつこいけれど、私は首都圏出身で、そのままずっと首都圏に住んでいるので県人会というものを詳しくは知らない。しかし、この県人会というものは、人と繋がり寂しくなくなり安心するという共同体の普遍的な意味を、かなり純粋に体現している格好の例なのではないだろうか。
国家という共同体は先ほど列挙したとおり、石原慎太郎的なものだったり、アナーキズム的なものだったりと特別な意味を持っている。その他にも、例えば、家族、企業というような共同体は、それぞれ特別な意味を持っているだろう。
一方、県人会や大学単位の同窓会のようなものは比較的、特別な意味が少ない。だから、共同体本来の普遍的な意味が見えやすい。
つまりは、県人会の主な目的は、同じ県出身の人同士を繋げることだ。なぜ繋げるのかと言えば、主に、寂しくなくなり安心するためだ。
そう考えると、県人会を念頭に置くことで、私が重視している普遍的な共同体の意義をイメージしやすくなるのではないか。私は、国家というものに、県人会と同じような意義を見出していると考えてもらえればよい。

09 言い換え
繰り返し登場しているのでおわかりだと思うが、私が重視しているのは「寂しさ」という感情である。この「寂しさ」という、馴染み深い言葉を、次の議論につなげるため、「他者」と「関係者」という言葉を用いて、もう少し明確だが、馴染みにくい言葉で表現してみたい。
そうすると「寂しさ」という感情は、「関係者が身近におらず、他者ばかりが身近にいるときに感じるマイナスの感情。」というように言い換えることができる。「他者」「関係者」という言葉の具体的な意味については、これから考えていきたいが、なんとなく、このような言い換えができることは了解いただけるのではないだろうか。
そして、人間には寂しさから逃れたいという欲求、つまり「他者ではなく関係者が身近にいて欲しい」という欲求があるとも言えるということも了解いただけるのではないだろうか。

10 マイナスの感情
「他者」、「関係者」という言葉を説明する前に、「マイナスの感情」という用語について、ちょっと触れておきたい。
「マイナスの感情」と言えば、悲しさだったり、怒りだったり、といったようなものが思い浮かぶ。そのような感情はできれば味わいたくない。だからマイナスだ。
一方で、マイナスがあればプラスもある。「プラスの感情」とは、例えば、喜びだったり、楽しさだったり、というようなものが思い浮かぶ。
ここまでは、それほど異論はないだろう。
しかし、例えば「悲しい映画を見るとすっきりするから、悲しい映画が好きだ。」というようなことはよくある話だ。私も、寂しさを感じることになると知りながら、一人旅に出る。人はあえて「マイナスの感情」を味わおうとするところがある。だから、何がマイナスで何がプラスかは、その視点によりけりで一概には言えない難しさがある。
しかし、ここでは、その難しさを指摘しつつも、素朴に悲しさや怒りのようなものが「マイナスの感情」で、喜びや悲しみのようなものが「プラスの感情」であるとし、だから、寂しさは「マイナスの感情」だとするに留めたい。

11 関係者と他者
それでは、「寂しさ」にまつわる「他者」「関係者」という言葉を説明したい。通常は、関係者といえばある組織の内部の人というような意味であり、ここでの文脈であれば家族や同僚のような人を指すだろう。一方で、他者といえば、芝居にたとえるなら、名も知らぬ通行人Aのような人がイメージされる。私の日常からすれば、私は電車通勤のサラリーマンなので、通勤電車でたまたま乗り合わせた人は他人で、家に帰れば関係者である家族が迎えてくれる、ということになる。通勤電車で他者である通行人達に囲まれて寂しさを感じ、家では関係者である家族に囲まれ癒される。本心から家族に癒されているか、というような家庭の事情は別にして、多くのサラリーマンがそのようなイメージを共有できるのではないか。
それでは、関係者と他者の境界はどこにあるのだろうか。
他者の代表例であろう通行人のなかに毎日通勤電車で一緒になる人がいるとする。毎日見かけるうちに、時には子供を保育園に連れて行くのか、小さい子と一緒に電車に乗っているのを見かけたり、クリスマスイブにケーキを買って帰るのを見かけたりしたとする。一方で、関係者の代表例であろう親戚のなかには、おじいさんの兄弟(ネットで検索すると大叔父というらしい)のような遠い親戚で、会った記憶もないような人もいる。
そのようなある意味近い通行人と、ある意味遠い親戚とで比べるならば、単に親戚だから関係者で通行人だから他者とは言えない。親戚よりも通行人に繋がりを感じ、寂しさが癒されることはありうる。関係者という言葉を寂しさについて説明するために用いる限りは、通行人の方が親戚よりも関係者だということはありうる。
他者と関係者とは、親戚なら関係者で、通行人なら他者だ、というように簡単に二分できるようなものではない。

12 死によるテスト
簡単に二分できないなら、どうすればいいのか。私はあるアイディアを思いつく。死という極端な場面を想定することで、その違いが明確になるのではないか。繋がりがある人、つまり関係者の死は悲しいはずだ。他者なら悲しくないはずだ。関係者か他者かは死を想定することで区分できるのではないか。
そのアイディアに従い、私は色々な人の死を思うことで、自分の心をテストしてみる。まず先ほどの例を思い浮かべてみる。すると、毎日みかける通行人の死の方が、会ったこともない大叔父の死よりも悲しい。つまり、前者の方が後者よりも関係者だとわかる。うまくいきそうなので、テストを続けよう。家族の死、親友の死、中学時代のクラスメイトの死、挨拶をするだけの近所のおじいさんの死、遠い親戚の死、会ったことのない近所の寝たきりらしいおばあさんの死、存在も知らない近所の人の死、テレビで一瞬見ただけのインド人の死、存在も知らないインド人の死・・・というように。このようにテストをすることで、確かに特定の悲しさの順番が浮かび上がる。順番は人それぞれだと思うが、私の場合ここで列挙した順番がちょうど悲しさの順番になる。
しかし、死のことばかり考えていると、より重要なことに気付く。程度の差こそあれ、どの死も悲しい。
悲しさの程度は違っても、どの死も悲しいということは、程度は違っても、全ての人が私にとっての関係者であるということを意味するのではないか。他者と関係者を簡単に二分できないのは、その境界を見出すのが難しいからではなく、要は程度の差だからなのではないか。存在も知らないインド人も含めた全ての人間は、程度の差こそあれ、全員が関係者である。そういうことなのではないか。
これが、私が死によるテストを経て気付いたことだ。

13 全人類
全ての人間が関係者であるということは、先ほどの県人会の話に戻せば、全人類という県人会に所属しているということを意味する。県人会の場合と同じように全人類という共同体が成立しているということだ。
同じ人類という共同体に属しているから、通行人Aであっても、その存在も知らぬインド人であっても、繋がりを感じることができる。だから、その死は悲しい。だから、そのような人たちに囲まれていることで、寂しさは紛れる。無人島に一人ぼっちでいるより、見知らぬ人ばかりの満員列車に乗っている方が寂しくはないだろう。
(なお、脱線になるが、ここでは関係者の範囲を最大でも全人類と見積もっているが、その範囲は更に拡大しうる。死のテストにより、自分のペットである犬の死や、水族館のイルカの死や、裏山の木の死や、大腸菌の死や、おもちゃの人形の死や、石ころの死が悲しいならば、人間でなくても関係者である。私はさっきトイ・ストーリー3のDVDを観たのでおもちゃの死は悲しい。そう考えれば、その対象に対して感情移入したり、擬人化したりできるか、というところに関係者かどうかの判断基準がありそうだ。しかし、この話は別の問題につながりそうなので、とりあえず、関係者は最大でも全人類としておこう。)

14 被害者の親
しかし、本当に、どの死も悲しい、よって、全人類が全て関係者だ、などと単純に言ってよいのだろうか。
例外、つまり関係者ではなく他者になりそうな人類として、まず、恨みに思っている人が思いつく。子供を殺された親が犯人に対して、死をもって償ってほしい、と言うことがある。その親は犯人の死が悲しくない。だから、死のテストによれば、被害者の親にとって、犯人は関係者ではなく他者である。つまりは、その親にとっては、ほとんどの人類が関係者であっても、子供を殺した犯人だけは他者だということになる。これは全人類が関係者であるということの例外である。

15 通り魔
それ以外にも例外が思いつく。人を人とも思っていないような人にとっての他の人間だ。極端な例としては、石ころのように人間を殺す通り魔を想像して欲しい。その通り魔にとっては、比喩ではなく、人間は石ころに過ぎないのだから、そのような人々にいくら囲まれていても寂しさは癒えないだろう。だから通り魔にとって、人類は関係者ではない。
なお、人を人とも思わない通り魔にも、いくつかのバリエーションがありうる。全ての人間を石ころのように思っている人もいれば、自分の家族だけは人間で、それ以外の人を石ころだと思っている人もいるだろう。
更にはヨーロッパ人のことは人間と思い、インディオのことは石ころだと思っている人もいるかもしれない。学校の先生だけは石ころで、それ以外の人は人間だと思っている人がいてもよい。そのような場合、その人にとっては、家族以外の人、インディオ、学校の先生は関係者ではなく、他者だということになる。
このように考えると、人を人とも思わないというのは、通り魔のような特殊な人に限るものではない。
先ほどの、被害者の親と犯人との関係についても、このなかに組み込むこともできる。被害者の親にとっての犯人と、ある時期のヨーロッパ人にとってのインディオはともに、死んでよいという意味で、石ころのようなものである。だから同様に関係者ではなく他者である。

16 違和感
被害者の親にとっての犯人の話と通り魔の話を一緒にすることに違和感があるかもしれない。相手の命の重さを知りつつも、恨みから、あえてその命を石ころのように扱わざるを得ない人と、人格の欠陥や知識の不足から相手の命を石ころのように扱う人の間には大きな違いがあると感じるかもしれない。
しかし、ここで行っている他者と関係者の区分は寂しさというものを明確に捉えるために行っているということを思い出して頂きたい。被害者の親は犯人に囲まれて生きても寂しさは紛れないし、それと同様に通り魔は他の人間に囲まれて生きても寂しいままだろう。(通り魔が寂しいという気持ちを感じることができたとして、だが。)
そのような意味で、被害者の親も通り魔も同様に考えることができる。
脱線になるが、寂しさという文脈を外れるならば、被害者の親にとって、犯人は他者ではない。自分の人生において、ある意味深い関係を有している。極めて重要な関係者だ。この違和感は、関係者、他者という一般的な言葉を、寂しさというものを説明するための特殊な言葉として用いることにより生じているのだろう。

17 友人関係、契約関係
ここまで、国をはじめとした共同体というものの、他者を関係者として取り込む力を見てきた。その典型例が県人会であり、その最たるものが全人類という共同体である。その力は被害者の親や通り魔といった例外を除き、全人類にまで及ぶ。そして、その力は重複して及ぶ。例えば、私と私の子供の間には、全人類、日本人、親戚、家族といったかたちで何重にも重複して同じ共同体に属するものとしての深い繋がりがある。
しかし、他者を関係者として取り込む方法は同じ共同体に属する以外にもある。私は少なくとも二つ思いつく。友人関係と契約関係である。もともと通行人同士でほぼ他者であった二人が何かのきっかけで友人になれば、その二人は関係者だ。同じように、見ず知らずの人同士がヤフオクで売り買いをすれば、その二人は、契約関係にあるという意味で関係者だ。
ただし、そこには大きな違いがある。共同体が築く他者との関係は強制的である。一方で友人になるかどうかや契約を結ぶかどうかは任意だ。それを受動的か、能動的かと言い換えてもよい。
共同体は受動的である。私は望むと望まざるとに限らず、私の家族のもとに生まれ、家族に所属し、住んでいる地域に所属し、日本という国家に所属している(いた)。共同体には受け入れざるを得ないという意味での強制力がある。
友人関係は、能動的に自ら友人を選び、自ら築くことができる。(クラスメイトや会社の同僚のような友人は自ら選んだとは言い切れないかもしれないが、それは学校という共同体や、会社という共同体という側面と友人関係という側面が混在しているということである。)
また、契約関係も能動的である。ヤフオクに出品するかどうかは任意に選ぶことができる。

18 共同体の役割
この強制か任意か、受動か能動か、の違いは大きい。
実は、任意で能動的に他者と繋がることは非常に難しい。なぜなら、それは、自分の弱さを認めることだからだ。能動的に他者と繋がるためには、自分の他者と繋がりたいという欲求を意識しなければならない。寂しさから逃れたいという欲求を意識し、寂しさに耐えられないという自分の弱さを意識しなければならない。それは、あまり心地よいものではない。
「友達になってください。」と申し込んだ経験がある人は少ないのではないだろうか。普通の友人関係は自然発生的であり、両思いである。女子中学生が「親友だよね。」とお互いに確認しあうのは、自分の弱さから相手に友達になってもらっているのではなく、お互いに相手から必要とされていると思いたいからだ。
契約関係については、更に巧妙なところがある。契約関係については、別に寂しくて他者と繋がりたいから取引しているんじゃなくて、経済的な必要があるから取引してるんだからね、と言うことができる。しかし、契約関係のなかには、経済的な必要と離れて、他者と繋がりたいから行なっている側面が色濃い場合もある。例に出したヤフオクなどは、単なるゲームとして行われている側面もある。そのようなことに手間をかけずに、働いて金を稼ぎ、普通に買ったほうが効率的だ。その場合、他者と繋がるために行っているとさえ言えるのではないか。また、今日一日、会話をしたのがコンビニの店員にレジでお金を払うときだけだった、と思い起こしたなら、その店員との会話で寂しさが少しは癒えたと思うのではないか。そこで買ったのはコンビニのおにぎりだけではなく、そのコミュニケーションだったのではないのか。そのような極端な場面ではなくても、多くの企業が、社会貢献を名目上は究極の目標として掲げている。それは、そもそも商取引というものが社会参加を意味しているということなのではないのか。
しかし、共同体による繋がりは違う。一旦、この世に生まれれば、強制的に父母と家族となり、近所づきあいがあり、親戚づきあいがあり、学校で先生やクラスメイトと付き合い、会社でも同僚と付き合い・・・というように、多くの共同体に所属し、多くの他者との繋がりができる。この強制的な受動性が、共同体の特徴である。だから、共同体には意味がある。

19 共同体の崩壊
ここまで、国家をはじめとした共同体の素晴らしさについて述べてきた。しかしそこで終わっては、私は単なるナショナリストになってしまう。ここからは、視点を変え、極めて現実的な見地から、そこにある問題点を指摘したい。
共同体というものについて、現在の日本における現状を論じるならば、誰もが、共同体の崩壊という事象に思い至るだろう。
その原因などを論じることは省くが、西暦2013年現在の日本の現状としては、親戚づきあいや近所づきあいも減り、終身雇用も崩壊し、明らかに、戦前や高度成長期のような昔に比べ、血縁的な共同体、集落的な共同体、企業的な共同体などの位置付けは低下している。極端に言えば、核家族的な意味での家族という共同体と、国家という共同体の2つ以外の共同体は、ほぼ崩壊していると言ってもよいだろう。これが私の共同体の現状についての認識だ。(これは常識的な話であり異論はないだろうから、詳細の説明は省くことにする。)
一方で、その穴を埋めるようなかたちで他の共同体が育っている訳でもない。
インターネットを通じたコミュニティーのような友人関係や資本主義的な契約関係による人間関係は育っていると言えるかもしれない。しかし、先ほど述べたとおり、そのような任意的な人間関係では共同体のもつ強制的な力の代替とはならない。
共同体の崩壊に伴い、残存している核家族的な意味での家族という共同体と、日本国家という共同体という二つの共同体が、これまで多くの共同体で分散して担っていた共同体としての役割をほとんど担っていると言っても過言ではない。
そこに家族、国家というものの無理が生じている。

20 限定的な反ナショナリスト
私が自らをジェイミー王国人としているのは、単なる思いつきという側面は否定しないが、実はこのような問題認識に基づいている。
国家という共同体には確かに存在意義がある。しかし、共同体の崩壊に伴い国家に過度にその役割が集中している現在、既に無理が生じている。
だから、これ以上にナショナリズムを煽り、国家に負担をかけることはできない。国家を内心では軽んじるくらいがちょうどいいのではないか。だから内心で建国くらいしてもいいのではないか。
しかし、この取り組みでは足りない。問題の解決のためには、国家を否定するだけではなく、国家ではない別のかたちでの人との繋がりが必要だ。
しかも、その繋がりとは、友人関係のような任意のものでは足りない。強制された人間関係、つまり共同体でなければならない。
能動的な自由が重視され、強制よりも任意に価値があるとされる現在において、強制的な共同体への所属が復活するようなことがありうるのか。単なる懐古趣味ではないのか。そこに、この問題の解決の難しさがある。
しかし、一応は、ジェイミー王国の建国は、国でもない核家族でもない新たな共同体の力の源泉となりうるのでではないか、という目論見もある。国家を建国するということは、日本などの既存の国家には頼らずに生きていくということだ。すると、生きるためには、国でもない核家族でもない人との繋がりがより求められる。その繋がりは、既存の共同体の繋がりとは異なるが、任意の友人関係や、契約関係とは異なる。(契約関係というものは、契約関係を保護する法制度を国家が担保しているという意味でも既存の国家の力を超えることはできない。)
あえて言えば、まだ国家の力が十分でなかった封建時代の共同体に近い。助け合わなければ生き延びることができなかった集落の繋がりにも近い。そのようなものの復権への第一歩としてジェイミー王国の建国があると考えるのは大げさだろうか。
ただ、やりすぎては国家による保証が全くなくなってしまうので、私はあくまでも、日本人のふりをした限定的な反ナショナリストです。