ロビン・ジョージ・コリングウッド「哲学の方法について」のアイディアの僕なりの拡張(メモ)

僕は、この本についてアマゾンにレビュー記事を書いた。
そこに書けなかった自分なりのアイディアをメモしておく。

この本の最重要アイディアである、「重複に起因する「形式の変移図」という哲学の方法のあり方」は正しいと思う。
ただし、僕のなかに取り込むにあたって4点修正を加えておきたい。
なぜなら、「重複」や「形式の変移図」というアイディア自体も弁証法的に乗り越えられなければならないからだ。
このような、いくつかの書き換えによる拡張が認められるなら、コリングウッドは、まさに僕が考えていたこと明確にし、更に、その先を示してくれた、とさえ思える。
多分、他者の哲学を理解するとは、そういうことなのだろう。コリングウッドはそんなことを感じさせる数少ない哲学者だ。

1 「形式の変移図」における類の設定の詳細化

コリングウッドの「形式の変移図」は、例えば「道徳」というような特定の類、僕の言い方ならテーマ設定がなされることから始まる。
それは正しいのが、テーマ設定はもっと厳密に行われるべきだろう。なぜなら、哲学とは、既に知っていることという出発地点(原理)と、既に知っていることのより詳しい描写という到着地点(結論)を、それぞれ照合しつつ更新するようなあり方をするからだ。
結論を厳密に考えるうちに、出発地点を捉え直し、再出発を図るということは哲学にはよくあることだろう。
そのことをうまく描写するためには、議論の出発点を「道徳」というような大枠で設定することは適切ではない。より、詳細に厳密に設定されるべきだ。厳密に設定するからこそ、出発地点を確認したり、照合したり、見直したりすることが可能になる。
多分、詳細なテーマ設定は、疑問文の形で行われるべきだろう。この意味で、コリングウッドの二つのアイディア、「問答論理学」と「形式の変移図」は接続する。
問答論理学において、問いと答えが重ねられ、問い自体が変化し推移することと、「形式の変移図」において下位の思想が上位の思想に弁証法的に置き換えられることは重なると、僕は考える。

2 「形式の変移図」の軸の単数から複数への拡張

コリングウッドにおける「形式の変移図」は、例えば「道徳」という単数の軸が固定されたうえで、きれいに下から上に積み上げられた構造物のように描かれている。
しかし、実はそうはならず、左右に揺らぐように、または蛇行するように積み重ねられていくはずだ。
なぜかと言えば、コリングウッドが言うような、下位の思想と上位の思想という、上下、つまりY軸のみの単数の評価軸では足りないからだ。

「道徳」を例とすれば、コリングウッドによれば、功利主義はカント流の義務論により完全に乗り越えられるとする。
しかし、先ほど論じたように、テーマ設定はより詳細に行われるべきだ。
その場合、コリングウッドが行ったのは「道徳的な善とは何か」というようなテーマ設定であったと言ってよいだろう。確かにこのテーマなら功利主義は義務論により乗り越えられるとしてよいかもしれない。

しかし、同じ、道徳についてのテーマであっても、功利主義者が設定したのは「どうしたら道徳を測定できるのか」や「どうしたら現実的な範囲で道徳的になれるのか」といったものだったらどうだろう。
その場合、必ずしも義務論が功利主義に対して優位に立つとは言えない。
つまり、これは、コリングウッドが導入していたY軸の評価軸とは別に、X軸やZ軸といった評価軸を導入するということである。
(多分、問いがいくらでも思いつくように、この評価軸はいくらでも設定できるのだろう。)
グラフ用紙の上に「形式の変移図」を描くなら、功利主義の左上に義務論は描かれる。この場合、Y軸(「道徳的な善とは何か」)では義務論の方が上位だが、X軸(「どうしたら道徳を測定できるのか」)では功利主義が上位となる。
これは、義務論者と功利主義者が同じ「道徳」について話しながら、別の問いを設定し、噛み合わない議論をしている状況を示した図だと言ってもよいだろう。

3 「重複」の「形式の変移図」への適用

コリングウッドのアイディア自体も、自らのアイディアの適用の例外とはならず、メタ的な適用がなされるべきだ。
つまり、コリングウッドの「重複」というアイディアを「形式の変移図」というアイディア自体に適用するなら、「形式の変移図」であることと、「形式の変移図」ではないことも重複していなければならない。
それならば、「形式の変移図」ではないということも、この「形式の変移図」のなかに書き入れられなければならない。
「形式の変移図」に書けない地点とは、評価軸のベクトルの先端の無限の彼方であろう。
それは例えば、「道徳的な善とは何か」というような問いの切先にあるということだ。
更には、これらの問いすらも「形式の変移図」に位置づけられるのだとすれば、問いについての問いの先端にあるということだとさえ言えるかもしれない。
そこでは、「形式の変移図」という図式は無力化されなければならない。
また、そこでは、これまでの哲学という積み重ねが役に立たない絶望のなかで、全面的に新しいアイディアが生まれることになるのだろう。
哲学には、コリングウッドの 「形式の変移図」 では論じられなかった、こういう側面もあるはずだ。

4 重複から包含へ

コリングウッドの言う「重複」とは、普通の重複ではない。
哲学における重要なキーワードは、重なり合うベン図のように静的な描き方はできない。
動的で、互いに互いを完全に包含し合うようなあり方をしている。
つまりは、ある哲学において、AとBという概念が重要だとすれば、全てはAであり、また全てはBであるとも言えるのだ。
このことについては、コリングウッドも「哲学的な段階に達するとそれは本来持っていた制限から解き放たれ、四方八方へと流れ出し、様々な領域へと進出していき、ついには現実そのものを完全に覆う。」としているとおり、同意してくれるだろう。
なお、すべての哲学用語が完全に互いを包含し合うようなあり方をしている訳ではないという反論があるかもしれない。
哲学用語がそのような無制限なあり方ばかりしていたら、哲学の言葉は空回りして何も語れなくなってしまうではないか。
たしかにそのとおりなのだが、コリングウッドが言うとおり「哲学の言葉は最重要であるか、何の意味もない言葉になっていく」という地点は確かにあると思う。
理想的な限界としての哲学というものがあるのなら、その哲学とは、完全な相互包含関係というかたちで描くしかないのではないか。
そうならずに人間の言語で捉えることができる範囲で収まっているのは、その哲学が突き抜けたところまで到達せず、少なくともある評価軸では「形式の変移図」がうまく働く下位の層にとどまっているからなのだろう。


(以下、自分用の章ごとのメモ)

Iはじめに
哲学特有の柔軟性

II部類[xiv]の重複
哲学は部類が重複するという特徴
「現代において、哲学は混乱の真っ只中にある。現代の思想家たちは互いの考えを容易に受け容れられず、場合によっては理解すらできずにすれ違う。」

III形式の変移図
対立と区別の部類の重複から、上位の項が下位の項を取り込みつつ乗り越える(よりよい別のかたちで把握する)という「形式の変移図」が描かれる

IV定義と描写
定義も既に定義づけられているものをより正確に定義するということ
定義も重複するから

V哲学的判断:質と量

肯定的判断と否定的判断 重複する
否定するときは対案を提示
「ある哲学的な言説を批判するということは、代わりにより良い言説を提示するということ」
肯定するときは否定が含まれる
「哲学的な考え―例えば、「哲学的な類の種は重複する」というような―を述べるときは、そこには必ず特定の考えを狙った否定が含まれているのである」
「もし哲学において何か価値のある真実を述べたいのであれば、他者の述べたことを丁寧に分析し、それらに然るべき修正を加えていく作業を怠ってはいけない」
「他の哲学者が言ったり書いたりすることを聴いたり読んだりするとき、その人が肯定していることを理解しただけで満足してはならない。必ず、そのとき同時に相手が何を否定しているのかにも注意深く耳を傾けなければならない。」


普遍・個別みたいな話 重要性低

VI断定的な考え方としての哲学
断定的な命題(科学における仮定的な命題とは違う) 語り終えることが断定かな?
超越論的証明

VII二つの懐疑的な立場
懐疑論と分析哲学 重要性低
「主題に対する興味を共有しないということ」

VIII演繹と帰納法
演繹
「哲学的議論は原理から結論へと至る一方通行なものであってはならず、原理が結論を支え、結論がまた原理を支えるというような、転換可能な[cxxxviii]ものでなければならない。」
両方を照らし合わせる
原理=なんとなく自明に思っていることかな?
「「我思う、ゆえに我あり」[cxxviii]の原理は超越論的に演繹されている。あるいは、私たちが実際に経験していること―この場合は、筋道だててものごとを疑う、という経験―がそもそも可能となるための条件として、それが示されている」
「カントは、哲学には公理が含まれてはならず、哲学の第一原理は証明を、それも独特の証明を必要としている、と述べた。」
「ヘーゲルはカントの導きに従い、哲学には自身の出発点の妥当性を示す独特の義務がある、と述べた。」

帰納 
「哲学についての理論は、それ自体が哲学の重要な一部分だ。あるいは、この原理をどれだけ明確に把握できているかは、ある哲学の成熟度を見極める基準であるともいえるかもしれない。」

IX体系の理念
「形式の変移図」という体系
「哲学の役目は、人間の知識の百科事典となることではなく、自分に特有の問いに、特有の方法で向き合っていくことである。」
「こうした状況や問題はそれぞれ独特なものである。そのため、一人の哲学者の体系は、修正なくしては他の哲学者たちに受け容れられることがない。」

X文学の一分野としての哲学
専門用語
「歴史的文章のねらいはこの「知識の核」を表現することであり、その外にある不確かさは無視する。疑念や問題をなるべく避けて通り、確信がもてることにのみ集中する。」
歴史=知っていること=読者のため 哲学=知らないこと=自分のため
「哲学的文章の真髄は告白―精神による精神自身の過ちの探究と、それを認めることによってそれを改善しようとすること―にある」

哲学書の読み方
「哲学者たちの作品を読むとき、私たちはかれらの「後に続く」[clxxxiv]。つまり、かれらの考えたことを理解し、かれらがそう考えるに至った過程をできる限り再現しようとする」
「読み手は自分から書き手の精神に入ることで、これを追体験するべき」
「優れた読み手は、優れた聴き手がそうであるように、集中するためにまずは沈黙するものである。かれは自分の考えを割り込ませようとはせず、書き手の考えをより良く把握しようと努める。それも、受け身になるのではなく、自分の活動によって、我が道をゆくことは遠慮し、書き手の導きに従う。」
「私たち自身が考えなければならない」
「読み手はそれに加えて、書き手を批判できるようになる必要もある。」
「批評家はそのため、作品の内部から仕事をする必要がある。」
「かれがまずもってすべきなのは、何かについて書き手が限られた視点から説明したものを、書き手がそのときに見落としていた側面を挙げること」

XI結論

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です