月別アーカイブ: 2020年10月

瞑想と哲学 実践と創造

1 この文章の問題設定 瞑想・マインドフルネスと哲学との関係

瞑想やマインドフルネスはブームだと言っていいだろう。色々な本が出版され、イベントも開催されている。僕も流行りものが好きだから、すでにいくつか文章を書いている。

哲学好きの僕は、瞑想やマインドフルネスと哲学の関係についても考えている。当然、哲学と野球よりは、哲学と瞑想のほうが関係は深いだろう。どちらも心と呼ばれる領域が重要だし、人生といったものへの対応方法をみつけようとする点も似ている。ここには考えるべきことが潜んでいるという予感がある。

まだ考えはまとまっていないけれど、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係について思いついたことがあるので、書き残しておこうと思う。

2 ヨガやスポーツの上達 芯となるもの

思いついたきっかけとなることがあった先週の土曜日(2020年10月10日)まで遡ってみよう。

僕はヨガも好きだから、その日も週1回のヨガに行っていた。クラスが始まる前の雑談で、ヨガの先生から、なんにせよ早く上達するためには自分の芯となるものがあったほうがいい、という話があった。サッカー選手なら、サッカーという芯があったうえで、サッカーにどのようにつながるかを意識しながらヨガをしたほうがいい、というような意味合いの話だ。当然、ヨガの先生なら、ヨガという芯があったうえで、ヨガにどのようにつながるかを意識しながら例えばダンスでの身体の使い方を学んだほうがいい、ということになる。

なぜ芯があったほうがいいかと言えば、芯になるものがなければ情報を取捨選択できないからだ。サッカーの先生からの指導とヨガの先生からの指導とが矛盾しているとき、サッカーとヨガが全くの対等だったら、どちらも選べず混乱してしまうだろう。だがサッカーのほうが優位だという芯があれば、迷わずサッカーを選ぶことができる。そうするとサッカーが上達するのは当然として、迷いがない分、効率よくヨガも上達できる。

確かにそうだろう。実は僕も似たようなことを考えていた。ヨガでは先生によって言うことが結構違う。あるポーズをするとき、足の外側に意識を向けるべきか、内股に力を入れたほうがいいのか、というような違いがある。そんなときは、A先生のファンだからA先生が言うことのほうを選ぼう、というように取捨選択をしている。その取捨選択はなるべく一本の筋が通っているほうがいいと感じていたのだ。

多分、最も人気のある筋の通し方は、師匠となる先生を見つけることだろう。正式な弟子にならなくても、こっそりでいいから、勝手に師匠を選び、その先生が言うことを最優先にするというやり方だ。それならば、師匠を芯とすることができ、ひとつの筋が通る。

もうひとつ、自分なりに自分で考え、自分自身を芯とするかたちで筋を通すというやり方もある。比喩的に言うならば、自分自身が開祖となってしまえばいいということだ。または、自分が自分の師匠になり、オーダーメイドで自分なりのヨガ体系を構築すると言ってもいい。こう書くとおおげさだけど、誰かの話を鵜呑みにするのではなく自分なりに考えて試行錯誤している人は多いのではないだろうか。(先日、ヨガの先生が言っていたのは、このようなやり方の効率が悪さを指摘するものだったと解釈することもできるが、いずれにせよ不可能ではない。)

なお、僕はその中間的な筋の通し方を選んでいるように思う。何人かのお気に入りのヨガの先生がいて、彼らが言うことを組み合わせて自分なりの芯となるものを構築し、その芯に沿って情報を取捨選択している。

3 その他の分野への拡張 瞑想・広義の哲学 

長々とヨガの勉強の仕方について書いてしまったが、スポーツが苦手でヨガ初級者?の僕がヨガについて書いても価値はないだろう。なぜこのようなことを書いたかと言えば、この話はヨガやスポーツに限らないと思うからだ。網羅的に検討した訳でないが、たいていのことに当てはあまるのではないだろうか。

この文章での考察に必要な限りで具体例を上げるなら、瞑想やマインドフルネスに関しては、明らかに師匠のような芯となるものがあったほうが上達は早いだろう。先日、ヨガの先生も言っていたけれど、世には数多くの瞑想法があるが、それらを全く並行して学んでいたらなかなか上達しない。どれかひとつを選び、その道を突き進んだほうが上達は早いに違いない。

また、哲学についても当てはまるように思う。と言っても、学問としての哲学ではなく、より広義に、経営哲学や人生哲学というように呼ばれるようなものとしての哲学についてではあるが。うまく会社を経営したり、人生を生きたりするためには、色々な考えを混乱したままに取り込むよりも、ひとつの芯となる哲学があったほうがいいのは明らかだろう。僕は詳しくないけれど、松下幸之助の本が中小企業の社長にもてはやされたり、相田みつをの言葉が誰かの家にトイレに貼ってあったりするのも、このあたりに理由があるような気がする。僕は彼らの言葉のありがたさはよくわからないけれど、彼らの言葉がひとつの芯となり、誰かの経営や人生に筋を通すことの重要性ならばわかる気がする。

その意味では、ニーチェやカントといった哲学者の言葉が名言として取り上げられることにも意味があるのだろう。彼らの思索の体系は理解されなくても、彼らの断片的な言葉が誰かの人生の芯となることはありうる。

4 学問・芸術 実践と創造

ここで問題としたいのは、やはり哲学についてだ。

ここまで、学問としての狭義の哲学と、人生訓のようなものも含めた広義の哲学とを分けて考察してきた。そのうえで、広義の哲学については、師匠のような芯を確保することは重要だとしてきた。では、狭義の学問としての哲学においては、師匠や芯といったものは必要ないのだろうか。

まず言えるだろうことは、大学や大学院といった教育システムにおいては、明らかに師匠は存在し必要とされている。指導教授と呼ばれるような人がそれにあたる。彼らに研究の進め方を学び、研究者として独り立ちしていくことになる。多分これは、哲学に限らず、すべての領域の学問で言えることだろう。

僕は経験がないので推測だけど、哲学に限らず研究の進め方を学ぶにあたっては、あまり多くの人の言うことに惑わされず、師匠の指導に従ったほうが上達は早いだろう。ここまではスポーツや瞑想と大きな違いはない。

だが学術研究の分野では、どこかで師匠とは袂を分かつこととなる。既存のものを組み合わせるにしても、新たなアイディアを思いつくにしても、何か新しいものを生み出さなければならない。試行錯誤をして、効率は悪くても、自分なりに何かを掴み取らなければならない。

ここに、スポーツや瞑想といったものと哲学のような学問との違いがあるように思う。プロ野球選手は新しさがなくてもホームラン本数が多いほうが評価されるし、オリジナリティがある瞑想をしなくてもマインドフルになればそれでいい。一方で学問はそうではなく、新しさ、オリジナリティが命だ。

なお、芸術は、スポーツや瞑想よりも学問に似ているだろう。上手なデッサンの仕方は学校で師匠から学ぶだろうけれど、どこまでも師匠という芯から離脱できなかったら新しい芸術は生まれない。

このように考えると、世の中には、新しさは求められずに芯となるものが重要となる実践の分野と、新しさが重要となる創造の分野があると言えるだろう。前者にあたるものとして、スポーツや瞑想や会社経営や(人生訓が役立つ限りでの)人生や(やり方を学ぶ段階での)学問や芸術といったものがあり、後者にあたるものとしては、(独り立ちした段階での)学問や芸術があることになる。

(更に厳密に捉えるならば、プレイのオリジナリティが評価されるプロスポーツプレイヤーのような場合は、スポーツであっても芸術と同様に創造性が必要となることもあるだろう。)

5 哲学と反実践 哲学の特殊性

ここまで哲学を学問全般に拡大し考察したけれど、しつこいが、僕が問題としたいのは、やはり哲学についてなのだ。

学問においては、師匠から学ぶ段階としての実践的な側面と、自分なりの新しい研究を行う段階での創造的な側面があるとした。それは哲学であっても、哲学以外の分野であっても変わらない。

だが、両者の間には本当に違いがないのだろうか。

哲学以外の分野においては、基礎となる研究の進め方というものがある。例えば自然科学なら、仮説を立てて、実験をして、検証するといったプロセスがある。そのような研究の芯は揺らぐことがない。

一方で、哲学の分野においては、そのような研究の基礎となる芯が存在しない。たとえカント研究者であっても、カントが言うことは絶対ではなく、あえて言うならば、カントを一部でも否定をして新しいことを生み出さなければ哲学者とは言えない。(多くの哲学研究者は、奥ゆかしく、カントの言葉に新たな解釈を行う、というかたちで、こっそりとカントを破壊し、否定している。)

言い換えるならば、哲学以外の分野では、(師匠から学ぶ段階としての)実践的な側面と、(自分なりの新しい研究を行う段階としての)創造的な側面という二面性が、研究の内容にまで及んでいる。師匠の実践知を引き継ぎ、そこに創造を付け加えるようなかたちで研究を進めることができる。

だが、哲学の分野では、論文のお作法というような研究のテクニックは別にして、研究の内容に実践知が入り込む余地がない。ただひたすらに最初からすべてを創造するしかない。より正確に言うならば、師匠から引き継いだ実践知を疑い、否定するところからしか研究を始めることはできない。

以上をまとめるならば、哲学以外では、実践と創造が結合しているが、哲学では反実践と創造が結合しているとも表現することができるだろう。

哲学にはやはり、このような特殊性があるのだ。

6 哲学の行き詰まりの打破 複数の体系とメタ体系

哲学は、引き継いだ実践知を否定するという反実践からしか創造を始めることはできない。それでは、哲学においては実践と創造をまったくつなげることはできないのだろうか。

僕はなんとかそれらをつなげたい。なぜなら、僕の哲学は、人生を生きるという実践から始まっているように思えるからだ。

さきほど、相田みつをの名言を例に出したとおり、人生はスポーツと同様に実践の分野に分類できるから、うまく生きるうえでは、芯となるものあったほうがいい。いい師匠をみつけて、迷わずにひたすら上達しようと努力したならば、きっとプロ野球選手がホームランを打つように、僕は人生をうまく生きることができるはずだ。だから人生において歩むべき道を示してくれるビジネス書や名言が書かれたカレンダーが売れたり、宗教が信じられたりするのだろう。

だけど、僕はそれらを受け入れることができない。だから哲学をしている。僕はそこに行き詰まりを感じている。

長い前置きだったけれど、ここでようやく、この文章で書こうとしていたことにつながる。つまり、冒頭で示した「瞑想・マインドフルネスと哲学との関係」について思いついたことの話だ。

僕は、瞑想・マインドフルネスと哲学との関係についてのアイディアを思いつき、この行き詰まり感に光明を見出したのだ。

自分自身のなかにある手持ちの駒を整理してみよう。

まず僕は、哲学以外の分野については、そんなに悪い生徒ではない。ヨガでも瞑想でも先生が言うことを素直に受け止め、それらを組み合わせて自分なりの体系めいたものを作りかけている。ある程度の成果を挙げていると言ってよいだろう。

また哲学についても、わずかだが自分なりの体系めいたものを構築しつつある。哲学においても、芯がなくて効率は悪くても、自分なりに自分だけで自分独自のものをなんとかつくることはできる。(問題は、僕の哲学体系は体系と呼ぶには貧弱なものであり、僕が求めているような人生の実践には全く役に立たないという点にある。)

このように整理してみて気づくのは、僕の手元には複数の体系があるということだ。ここに挙げただけでも、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系という3つの体系がある。あのポーズのときは後ろ足を踏ん張ったほうがいいというような身体の使い方の体系、心を落ち着けるときには呼吸に意識を向けるといいというような心の使い方の体系、神には唯一性があるというような思考の体系というように。

今までは、体系が複数あるということが悪いことであるように思っていた。なぜなら、体系が複数あるということは、それぞれの体系が担当する領域に限定があり、それが体系の限界を示していると感じていたからだ。

しかし、それぞれの体系は接していて、体系相互に影響を及ぼしていると考えることもできる。また、単に影響を及ぼすだけでなく、複数の体系が、反発し合ったり、互いを包み込んだりと様々な関わり方をしていると考えることもできる。これはつまり、ヨガの体系、瞑想の体系、哲学の体系といった体系をつつむ、メタ体系のようなものを措定できるということでもある。

これは僕にとって吉報だ。なぜなら僕の哲学の道は行き止まりではなく、メタ体系という考察の道があるということになるからだ。

7 悟りと普通の人生 哲学的思索と何かの実践を組み合わせる道筋

いや、この道は単なる哲学的考察の道ではないかもしれない。瞑想やヨガの実践という方向からアクセスすべきものであったり、もしかしたら、哲学的思索と瞑想の実践を組み合わせて進むべき道筋なのかもしれない。

実は僕はこのあたりが最も有望だと思っている。僕が想定しているのは、哲学的思索の結果を瞑想に反映し、瞑想で得られたものを哲学に反映していくというようなやり方だ。これはかなり悟りを求める作業に近づいているように思える。

(このように考えるなら、悟りはそれほど難しくないだろう。なぜなら、悟るとは、瞑想的なレベルで自らの哲学的アイディアに深く納得するということに近づくからだ。悟りが難しいと言われるのは、悟るのが難しいからではなく、それが悟った状況だと他者に説明したり、他者から理解されたりするのが難しいからなのではないだろうか。)

または、僕が進むべき道は、哲学や瞑想に限定せず、友人や家族と楽しく過ごし、趣味を楽しむことまでも含めた、人生を生きることそのものの道であるかもしれない。限定がないという点で、こちらの道筋も有望なように思える。

いずれにせよ、孤独にゼロから思索して新しいものを創造するだけでなく、瞑想であれ人生であれ、師匠や先人のノウハウを活かし、芯が確保された効率のよい実践と結びつけていくという方向には大きな可能性を感じている。当面、その方向で考えてみたい。

身体の3時制 視線・呼吸・笑顔

身体の3時制 視線・呼吸・笑顔

1 ヨガにおける視線の重要性への疑問

「ドリスティ」というヨガ用語がある。ヨガの流派のひとつであるアシュタンガ・ヨガの用語で「視線」という意味なのだけど、ヨガにおいて重要なもののひとつとされている。このポーズのときには鼻先を見ろ、このポーズだと床の一点を見ろ、などと決められているのだけど、どうして視線が重要なのか、正直よくわかっていなかった。

アシュタンガ・ヨガにおいて視線以外に重要なものとしては、呼吸やバンダ(下腹部の引き締めというような意味)が挙げられるが、これらはなんとなくわかる。実は、ヨガ的には呼吸やお腹の引き締めの真の重要性は僕の理解より深いところにあるのだろうけれど、僕にもその重要さの方向性はわかる。

それに比べて、視線の重要さはわかりにくい。インストラクターからは、目からの情報に惑わされないようにするために視線を固定するため、という話もあった気がするけれど、それならば目を閉じていればいいようにも思う。視線を定めることには、視覚情報を遮断するという消極的な意味合いはあっても、積極的な意味などないように思える。それなのに、どうして視線が呼吸などと同等に重要なものとして位置づけられるのだろう。

2 視線の重要性についての僕なりの答え

オンラインのヨガフェスタで聞いた吉川めい先生の話をなんとなく考えていて、その答えを思いついた。それを思いつくまでの過程というのは、冗長で、読者の方にはあまり重要ではないだろうけれど、僕にとっては重要なことなので書き残しておこう。

吉川めい先生は、呼吸は一定に行うものであり、呼吸を一定に行うためには吸い(吐き)始めで吸い(吐き)すぎないように注意するといい、という話をしていた。

ヨガでは動きにあわせて呼吸をするから、直立の姿勢から前屈しながら息を吐き、前屈から伸び上がるように息を吸う、というような動作と呼吸の合わせ方をする。そうすると、例えば前屈から立ち上がるのと合わせて、勢いをつけるように息を吸いすぎてしまいがちだ。そうすると、立ち上がり、伸び上がり切るまでに息を吸いきって、呼吸が止まってしまう。それならば、動作を切り替え、呼気から吸気に切り替える際に、息を吸いすぎないように心がけるといい、という話だ。息を吸いすぎないためには、細いストローを吸うような意識を持ついい、という話もあった。

確かにそのとおりなのだけど、動作の切り替えで勢いがつくのに、あえて息を細くするというのはどうも不自然だ。我慢して息だけ細めている感じがある。自然であるべきヨガがそんな不自然なことを求めるのだろうか、と僕は疑問に思い、心に引っかかっていた。

考えているうちに僕なりの解決策をみつけた。いきなり前屈から伸び上がる動作に切り替え、同時に呼気から吸気に切り替えるから難しくなる。すべてを一気に切り替えるから、どうしても勢いがついてしまう。それならば、動作と呼吸の切り替えのタイミングをずらすか、動作・呼吸とは別の何かを先行して切り替えればいいのではないか。

僕はまず、試しに動作を先行してみた。悪くない。呼吸を細く始めることができる。だけど、動作と呼吸がバラバラになると、動作も呼吸もスムーズに流れなくなってしまう。だから、徐々に動作の先行幅を狭め、限りなく微細な先行に抑えるようにしてみた。

そうすると、そこに残ったのは、次の動作に入ろうとする意識と、視線の動きだけであることに気づいた。(僕はヨガの上級者ではないから、正確には、理念的に、そうなる「だろう」ことに気づいた。)

前屈しているとき、次の伸び上がる動作に入る準備段階として、上に伸び上がろうとする意識とともに目が上を向こうとする。この準備動作に注意を向けてから息を吸い始めると、勢いをつけずに呼吸を始動させることができるのだ。

きっと、あえて心がけなくても、伸び上がろうとする時、視線は上に向いているし、上に向こうとする意識は生じている。だが、その視線や意識に注意を向けると、その後の動作や呼吸がうまくいく。

これがドリスティ「視線」の重要さなのではないだろうか。これを呼吸に対する動作の先行と解釈するのか、または、呼吸・動作に対する意識・視線の先行と解釈するべきなのかともかく、アシュタンガ・ヨガが言っていることはこういうことなのではないだろうか。

3 日常生活における視線とマインドフルネス

ヨガにおける視線の重要さに気づいてから、日常生活でも視線が重要な働きをしているという仮説を立てて、ちょっと実験してみた。実験と言っても、視線に注意して街を歩いてみる、といった程度のことだけど。

店の看板や、公園の木や、すれ違うサラリーマン。僕はいろいろなものに視線を向けている。そして、たしかに視線を向けるごとに意識が切り替わり、僕の動作も切り替わっている。いや、動作は切り替わっていないのではないか。何を見るかに関わらず、歩くという動作は継続しているではないか、と思うかもしれない。確かにそうなのだけど、「歩く」よりも微細なレベルで、「看板を見ながら歩く」から「サラリーマンを見ながら歩く」に切り替わるというようなかたちで動作が切り替わっていると考えることもできる。視線に注意を向けるとは、このような微細な違いに気づいていくということなのだ。

そのように考えるならば、視線に注意を向けることは、マインドフルネスにつながっているだろう。店の看板を見る視線に注意することは、マインドフルに看板を見ることでもある。注意深く看板をじっくり見ることで、これは鳥貴族の看板だなあ、黄色地に赤の文字なんだなあ、フォントが変わってるなあ、なんて気づくことができる。

マインドフルネスという見地から「視線を向けること」を広義に「注意を向けること」と解釈するならば、僕の視線が向かうのは、看板や木やサラリーマンのような世の中のものごとに限らないだろう。僕の心の中のものごと、例えば、二日酔いによる不快感に視線を向けることができるし、人種差別的な事件についてのニュースを見たときにわきあがる怒りにも視線を向けることができる。

このように、鳥貴族の看板から不快感や怒りといった感情まで、幅広いものごとに注意を向けることと、ドリスティ「視線」はつながっている。

4 身体的な作業への変換

僕はマインドフルネスに興味があるのだけど、マインドフルでいることは難しい。マインドフルであるとは、ものごとに注意深くあることだとするならば、注意深くあるように心をコントロールすることが難しい。きっと心のあり方というようなとらえどころのないものをコントロールするのは至難の業なのだ。僕だけでなく大多数の人にとって難しいからこそ、瞑想法といった方法論が編み出され、訓練が必要になるのだろう。

だけど、視線という手がかりがあると、かなり難易度が下がる気がする。視線をどこに向けるかは、あくまで身体的な問題だから、身体レベルでコントロールが可能だ。鳥貴族の看板に対して注意深くマインドフルであれ、と言われてもなかなかできないけれど、鳥貴族の看板に視線を向けろ、と言われたら少しは楽にできるに違いない。

これは、自分の内面という物理的な視線が届かない領域であっても同じだろう。自分の中にわきあがる感情をマインドフルに見つめろ、と言われたら難しいけれど、意識的に自分の足元のあたりを見ろ、と言われたなら簡単だ。僕は自分の感情を捉えようとするとき、視線を下に落とすことが多い。奥さんと口喧嘩をしているとき、奥さんの顔を見たままでは自分の感情に注意を向けられないけれど、視線を足元に落とすと、自分の内面を見つめ、怒りで肩が震えそうになっている自分に気づくことができる。視線を意識的に動かすことで、心の動きをある程度までコントロールすることができる。

このようにして、マインドフルにものごとに注意を向けるという抽象的な作業は、視線の移動という身体的な動作に置き換えることができる。完全な置き換えが可能かどうかはともかくとして、これは重要なノウハウだと思う。

5 未来と視線

ここまではヨガやマインドフルネスについての考察だったが、例によって、ここからは哲学の話につなげていきたい。

(この文章だけを読んだ方にお伝えしておくと、僕は、哲学が好きで、そのなかでも存在論や時間論が大好きなのです。)

ここまで述べてきた視線とは、指向性と言い換えられるだろう。そうすると、ここまでの話は、心・意識がある対象に向かうことを、身体的な動作としての視線の動きとして置き換えることができる、という話だったことになる。

では、心・意識・視線は何に向かっていたのだろう。

ここまでの例では、それは鳥貴族の看板や奥さんに対する怒りのようなものごとだったのだが、そのような描写は少々不正確であって、より正確に述べるならば、視線が向かう先とは「未来」なのではないだろうか。

僕が街なかの看板に目を向ける時、僕はまだ看板を見てはいない。僕は看板がある方向に目を向け、それから、それが看板であることを認識し、そして鳥貴族の看板であることに気づき、さらには書体が独特であることに気づいたりもする。

僕が目をある方向に向ける時、あえて言うならば、僕は、未来の鳥貴族の看板に目を向けている。だが、正確には、僕の目は具体的な何かには向かっていない。または、僕の目は空白の未来に向かっている。

このように考えるならば、視線と未来は深く関わっている。僕は視線を定めることにより、未来を選択していると言っていいだろう。または、未来をコントロールしていると言ってもいいかもしれない。僕の身体は視線を通じて未来と接続している。

6 現在と呼吸

未来と視線がつながっているとするならば、現在は呼吸とつながっているだろう。

僕はこれまでも呼吸の重要性について書いてきたので詳細は省略するけれど、瞑想では呼吸に意識を向けるし、ヨガでも呼吸は重要だ。明らかに、呼吸は今ここの自分につながっている。

ここで気をつけなければならないのは、「呼吸に意識を向ける」ということに潜む矛盾だ。

どこに問題があるのかといえば、「意識を向ける」という表現にある。意識を向けることには指向性が含まれている。それならば、ここには未来に視線を向けるというかたちでの未来性が含まれている。つまり、呼吸は現在であり、意識を向けることは未来なのだから、呼吸に意識を向けるとは、現在と未来が矛盾的に接続するということである。

なお、この矛盾は拒否すべきものではない。未来と現在という相反するものを接続させるという極めて大切な働きをしているものだ。「呼吸に意識を向ける」という瞑想法の極意は、この意味で重要なのだろう。呼吸に意識を向けるとは、未来と現在との接点に焦点を合わせることであると言ってもいいだろう。

一方で、呼吸という現在を、未来性を介在させることなしに取り出すことはできないことに留意することも重要である。呼吸に意識を向けることなしに、呼吸というかたちで身体化されている現在を捉えることはできないのは明らかだろう。

現在を純粋なかたちで取り出すことの困難性は、フローやゾーンについての話として述べることもできる。

僕もあまり詳しくないけれど、フローやゾーンとは、話し合いに集中していて気づかないうちに数時間経っていたり、バッターボックスでの一瞬が長い時間に感じたりするようなことを指すようだ。

僕自身の少ない経験に基づくならば、僕は、フローやゾーン状態になっている時点では、そのときの自分自身の心境を客観的に捉えることはできない。自分を冷静に捉えようとすると、そのような状態から冷めてしまう。フローやゾーン状態とは、リアルタイムで捉えることはできず、あとになって振り返って、あのときにそのような状態だったなあ、と気づくしかないようなあり方をしている。

このことと、現在のみを純粋に取り出すことの難しさの話は同じことである。現在とはただ体験することしかできないものなのだ。

(なお、マインドフル状態と、フロー・ゾーン状態の違いが問題になることが多いようだが、僕の考えによれば、両者は全く違うものだ。あえて言うならば、マインドフルネスを長時間行っていると、マインドフルネス実践のゾーン状態とでも言うべき状況は生じる。だが、サーチ・インサイド・ユアセルフでチャディー・メン・タンが言っているように、一呼吸だけでもマインドフルネスは可能だとするならば、このゾーン状態はマインドフルネスにとって必須のものではない。ただ、マインドフルネス実践のゾーン状態とは、マインドフルネスが到達できる未来と現在の接続点から、一歩、純粋な現在に踏み込もうとするものだとは言えるだろう。)

7 過去と笑顔

ここまでで、視線としての未来、呼吸としての現在が登場したが、まだ過去が登場していない。視線、呼吸というように、身体的に未来・現在・過去という3時制を描くならば、過去とはなんだろう。

ヨガ初心者なりにインストラクターから言われることを思い出してみると、過去とは笑顔のことなのではないだろうか。

ヨガのクラスを受けていると、時々、ヨガニドラというものをすることがある。理論や歴史的なことは知らないので体験した限りでだけど、ヨガニドラとは大の字になって横たわり、体の部位ごとに少しずつ力を抜いていき、全身をリラックスするというものだ。

そのなかで、特に効果的だと感じているのが、顔の筋肉を緩めていく動作だ。指示されるままに目の奥を緩めたり、下の付け根を緩めたり、頬を緩めたりしていくと、普段から変なところに力が入っていたのだなあ、と気づく。

そして、顔の筋肉が緩んだとき、僕自身がなんとなく笑顔になっている気がする。僕は大の字になって横になり、少しにやけた顔をしている。傍目からは気持ち悪いだろうけれど、僕自身は気持ちいい。

過去とは笑顔のことではないか、というときの笑顔とは、この笑顔のことだ。

リラックスして自然とにじみ出る笑顔こそが、過去なのではないだろうか。

視線が未来と接続し、呼吸が現在と接続するように、笑顔は過去と接続している。僕は笑顔により過去と接続し、過去をコントロールすることができる。笑顔になるだけで、僕のこれまでの人生を肯定したくなる。なんだか僕の人生は幸せなものだったような気がしてくる。

笑顔とは、このような効果があるのなのではないだろうか。

このように僕は、視線、呼吸、笑顔というようにして、身体における3時制を駆け足で描いてきた。いずれも重要なものばかりだけど、あえてそのなかで最も重要なものを選ぶとすれば、それは笑顔だろう。笑顔は簡単な割に効果が高いから。

いずれ僕は死ぬ。死んだら視線を動かすことも、呼吸を続けることもできない。だけど、笑顔でいることはできる。笑顔だけは死後に残すことができる。それが過去の特権だろう。

そして僕が死んだなら、笑顔に加えて、今昔物語の入道のように口から蓮の花が咲いたら、なおいいなあ。

マインドフルネス再考

1 この文章の位置づけ

先日、マインドフルネスについて考え、『マインドフルネスについての備忘録 居場所・愛・解脱・可能性・善』http://dialogue.135.jp/2020/09/24/mindful/ としてまとめた。

そこで書いたことは、おおまかに言うと、「マインドフルネスとは、すべてを注意深くみつめ、それを認めて、距離を置き、居場所をみつけてあげることだ。」というものだった。ポイントは、雑念を流し去るのではなく、きちんと居場所をみつけてあげるという点にある。

この話と時間、つまり過去・未来・現在の話とをつなげて考えられるのではないかと思いついたので、マインドフルネスと時間をテーマにして続きを書くこととした。

2 雑念の行き先としての過去

(1)雑念はどこかにいく

マインドフルネスにおいて、雑念を流し去るのではなく、きちんと居場所をみつけてあげればいい、という対処策の面白いところは、せっかく雑念に居場所を確保してあげても、確保したとたんに居場所はどこかに行ってしまうというところにある。気ままな子どもやネコがどこかに遊びに行ってしまうように。雑念を消そうとせず、雑念を大事に扱ってあげるほうが簡単に雑念は消える。急がば回れなのだ。実は僕自身は瞑想初心者なので上手にできないけれど、少なくとも、そのような実感はある。

(2)雑念の行き先は過去

では、せっかく大事に扱って、居場所まで確保してあげた雑念は、どこに行ってしまったのだろう。その行き先こそが過去である。雑念は現在から過去に行ってしまったのだ。

理解に役立つかわからないけど、具体例で説明しよう。
瞑想をしているとき、スマホからLINE通知の音がなり、あ、サイレントにしてなかった、なんて考えてしまったとする。そんな心の動きに気づいたときに「いけない、瞑想を続けなきゃ」と思うのではなく、LINE通知に反応したという心の中の出来事をただ受け止めて心の中に居場所をつくってあげるのがマインドフルネスである。「LINE通知に反応したこと」という出来事を擬人化し、僕を「心の中旅館」という旅館の仲居さんとするならば、僕は、旅館に到着した「LINE通知に反応したこと」様を「桔梗の間」にご案内し、どうぞおくつろぎください、とご挨拶するようなものだ。
「LINE通知に反応したこと」様が通された「桔梗の間」は、仲居さんにご案内された時点では、現在の心の中旅館の現在の一室だけど、いずれ「桔梗の間」は過去のものとなる。そうすると、現在の僕の「心の中旅館」のフロントからの内線電話では、過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様に連絡をとれなくなってしまう。これがマインドフルネス的には雑念が流し去ることができた状況だろう。現在の僕の心からは「LINE通知に反応したこと」という過去の出来事にアクセスできないのだから、もうそのような雑念は心の中に残っていないことになる。
心という概念自体が哲学的には問題含みなのだけど、とりあえず心とは巨大旅館のようなものだとしよう。そこには無数の部屋があり、様々な心のなかでの出来事を収めておくことができる。「2020年10月4日9時21分にLINE通知に反応したこと」は、桔梗の間に収められることになる。
そのうち、直接に連絡をとってアクセスできるのは出来事を収めたばかりの現在の部屋だけであり、時間が経過し、過去の部屋となってしまったら直接アクセスすることはできなくなる。

(3)過去へのアクセスの間接性

直接でなく、どのようにアクセスするのかといえば、間接的に、出来事の記憶を思い出すことによってである。僕はもう、数時間前のLINE着信音をありありと体感することはできないけれど、間接的には、記憶を呼び起こし、確かに瞑想中にスマホから突然着信音が鳴ったことを思い出すことはできる。そのとき、過去の「LINE通知に反応したこと」様がふらりと記憶として現在の心の中旅館のフロントを訪ねてきてくれるのだ。

このような捉え方に対しては「ありありと思い出すことができるならば、過去の「LINE通知に反応したこと」の記憶だって直接的なものではないか。」という反論が想定できよう。現在のありありとした体験も、過去のありありとした記憶も、いずれも直接的なものであるという直感が確かにある。

しかし、そこにある両者の間の違いに敏感になることこそがマインドフルネスなのではないだろうか。マインドフルネスとは、マインドフルに今ここに注意を向けることだとも言える。その対象はあくまでも現在である。対象を現在に限定するという側面を強調するならば、マインドフルネスでよく言われる、雑念を流し去るという言い方が成立する。注意を向けることができるのは現在だけだからこそ、雑念を現在から過去に流し去ることができるのだ。雑念は消えることなく、ただ過去に流れていく。

直接と間接の違い、そして現在と過去の違いに注目すると、さきほどの旅館の比喩のなかに潜んでいた矛盾に気づくこともできる。現在の心の中旅館のフロントにいる僕は、どうやって過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様をとり、フロントまでお越しいただくことができたのだろう。現在の僕から過去の桔梗の間に連絡をとることなどできないはずなのに。

この連絡の不可能性を強調するならば、記憶を呼び起こし、フロントにお越しいただいたお客様は、過去の桔梗の間にいる「LINE通知に反応したこと」様とは似ていても別人だということになる。うり二つの双子かもしれないけれど、過去の体験と想起された記憶は全くの別物なのだ。これが間接性を強調したマインドフルネス的な方向の解釈である。

だからマインドフルネスにおいては、過去に対する思い、つまり呼び起こされた記憶は、新たな雑念として処理されることになる。マインドフルネスにおいては、このような雑念は、例えば「2020年10月4日11時04分に2時間前のLINE通知を思い出したこと」という新たなお客様として、桔梗の間ではなく藤の間にお通しすることとなる。

一方で、常識的な解釈においては、過去の体験と想起された記憶は直接的に関係し、つながっていると考える。フロントから桔梗の間への連絡は成功するし、雑念は流すだけでは消え去ることはないし、ましてや居場所を確保するようなことをしてはいつまでも居座られてしまう。雑念を消すためには、記憶から抹消するという追加的な作業が必要となる。これが関係し、つながっているという常識的な捉え方の帰結である。

マインドフルネス的な解釈と常識的な解釈とは矛盾する。だがその矛盾はいずれかが誤りということではなく、矛盾し、両者がせめぎ合うからこそ、「現在から過去へ」という時間の流れはあるのではないだろうか。

ただし、ネガティブな記憶を無理やり抹消するという作業が求められない分、マインドフルネス的な道筋のほうが、精神的には望ましいものとなるように思える。

3 未来

ここまで過去に着目して論じてきたが、未来という時制もある。マインドフルネスにおいては、未来はどのように扱われているのだろうか。

先般の僕の文章では、未来を可能性と結びつけて論じていた。無限の可能性がある未来から、可能性が絞られて確定していく現在へ、という時間の流れとしての描写だ。
記憶の想起と過去を結びつけるのと同様に、可能性の想像(予測・予想)と未来を結びつけて扱うことができるだろう。

マインドフルネスにおいては、過去の記憶の想起とは、もともとの体験とは違う新たに現在に生じた雑念というお客様であり、心の中旅館の別のお部屋にお通しするものであった。それと同様に、未来の可能性とは、実際に訪れる未来ではなく、あくまで現在の心の中に浮かんだ想像という出来事であり、現在における雑念として処理されることになる。
つまり、未来とは可能性の想像というかたちで間接的にしかアクセスできないものなのである。これは過去についても記憶の想起というかたちで間接的にしかアクセスできなかったのと同型である。

一方で、過去については直接的なアクセスも可能であるという常識的な感覚があったが、未来については直接的なアクセスはできないと考える方のほうが多いのではないだろうか。なぜなら、一面では、直接的なアクセスができないということこそが未来の本質であろうからだ。
そのように考えると、現在を重視し、その他の時点での出来事は間接的なものとして扱うというマインドフルネス的なアプローチは、過去よりも未来に対してのほうが理解されやすいだろう。なぜなら過去においては直接的な過去という対抗馬があったが、未来においては直接的な未来というものが想定されにくいのだから。

なお、残念ながら理解されやすいことマインドフルネスを実践しやすいこととは別だろう。僕は瞑想をしていると、過去の出来事を思い出すよりも、これからの予定について考えてしまうことのほうが多い。これは、未来とは思考による間接的なアプローチしかできないものだからこそ、考えるに値することだという思いが染み付いてしまっているからなのかもしれない。

以上が、マインドフルネスにおける未来の扱いだ。

4 現在

最後に現在についても触れておこう。
ここまでも現在は、過去との関係としての現在と、未来との関係としての現在として登場していた。

過去との関係では、現在とは、過去の出来事を想起する現在である。2時間前のLINE通知を思い出しているのは今である、というかたちで現在は登場する。
また未来との関係では、現在とは、未来の出来事を想像する現在である。明日に雨が振りそうだと予測するのは今である、というかたちで現在は登場する。

二つの現在が登場するだけでも複雑なのだが、現在については更に問題が複雑化する。
2時間前のLINE通知であれば、現在と過去の間の差が大きく、現在と過去を容易に切り分けることができるが、1時間前、10分前、1分前、1秒前、0.1秒前・・・と両者を近づけていくと、ついには、現在と過去の見分けがつかなくなる。0.001秒前のLINE通知を思い出すというのは、現在の出来事を現在において思い出している、ということになるだろう。
つまり、思い出す現在とは別に、思い出される現在というものが出現する。

同様の操作は未来に対しても可能である。明日の降雨予想について、半日後、1時間後、10分後・・・というように未来と現在とを近づけていくと、ついには、未来と現在の見分けがつかなくなり、0.001秒後の降雨を予想する、という状況が生じる。これはつまり、現在において現在を想像(予想・予測)する、ということであり、想像する現在とは別に、想像される現在とが出現することとなる。

つまり、現在には、①無限小の過去を想起する現在、②無限少の過去として想起される現在、③無限小の未来を想像する現在、④無限小の未来として想像される現在という4つの現在があるのだ。

そして、この4つの区分を否定し、すべてを過去に流し去ろうとするのがマインドフルネス的な現在に対するアプローチである、ということになる。

あえて、このマインドフルネス的な視座、つまり流し去る(または認めて居場所をみつける)という作業を行う現在を第5の現在と呼ぶならば、現在は5つあり、第5の現在こそが真の現在であり、それ以外のすべての時制は雑念であるというのがマインドフルネスの主張となるだろう。

5 存在論と認識論

第5の現在はともかくとして、4つの現在については、想起・想像する現在と、想起・想像される現在という形で区分し、対比することができるだろう。

僕はこの対比を、存在論と認識論のずれとして扱うことができるのではないか、と考えている。現在を想起・想像するとは現在を認識することだと捉えるならば認識論とつながり、想起・想像される現在とは認識の客体としての存在論につながるのではないだろうか。

これは認識論中心の捉え方だとも言える。なぜなら、現在において過去を想起し、未来を想像するという心の動きという観点から現在・過去・未来という時制を捉え、その延長線上において、現在において現在を認識する、という心の動きとして捉えているからだ。そこではものごとの存在は、あくまで、認識を成立させるための、認識の客体として必要な限りで措定されているものとなる。

このように考えると、マインドフルネスとは、認識論優位の見地から、認識論と存在論について描写したものであるとも言えよう。※
過去とは想起であり、未来とは想像であり、現在とは認識であるからこそ、そのような心の動きを捨象することで解脱への道筋が開けるのだろう。

それでマインドフルネス好きの僕としては問題ないのだが、哲学者としての僕は疑問を投げかけたくなる。
では、すべてを捨て去ってしまったら、その認識の視座はどこに確保されるのか、と。
きっとそれが第5の現在なのだろう。第5の現在とは時制から解放された無時間的な場のようなものなのだろう。

しかし、このような描写では、不十分なように思える。僕が好きな入不二基義が現在進行形で論じているのは、まさにこのようなことなのではないか。彼は無内包の現実という議論から、力としての現実という方向に議論を進めているが、彼が行っていることと僕の疑問は深く関わっているような気がする。または彼の議論に触発されて、僕はこのようなことに疑問を感じているのかもしれない。

今後の哲学的な議論の深まりに合わせて、マインドフルネスに対する考え方も深めて行く必要があるように思う。
思索と実践が連動して深められていくというのはチャレンジングでとても面白い。

※ 書けなかったこととして、ジャーナリングの位置づけについての疑問もある。ジャーナリングとはマインドフルネスの手法で、紙に思いついたことを書き連ねていくというものなのだけど、これは明らかに、文字表現を優先するものであるという点で意味論に通じていると思う。この観点から、今回登場しなかった意味論についてマインドフルネス的に考察する必要があるように思う。

サニーデイ・サービス「春の風」 憧れと嫉妬

僕は、音楽を聞くときは、Spotifyなどを使って音だけを聞くのではなく、YouTubeで動画を流すことが多い。「ながら」作業ができないからでもあるけれど、僕はMVが好きなのだ。
MVにも色々なパターンがあって、短編映画のような動画も好きだけど、アーティスト本人がただ演奏しているのも好きだ。

今日、サニーデイ・サービスの「春の風」という動画を観た。僕はサニーデイ・サービスのボーカル&ギターをしている曽我部恵一のファンだ。彼は90年代後半から第一線で活躍し続けているアーティストで、ソロ名義や曽我部恵一バンド名義でも多くの作品を残している。

「春の風」は疾走感があって、若々しくて、僕とほぼ同年齢でベテランの領域にいる彼がこんな曲をつくるなんて、なんて素敵だろう、と思った。いや、歳の割に、なんて適切ではない。ただただいい曲だった。

画面の向こうで歌い、ギターをかき鳴らしている彼は、僕から遠く隔絶していて眩しかった。僕は彼に憧れて、そして、ちょっと嫉妬していた。こんな気分になったのが久しぶりだったので、僕はこんな文章を書こうと思ったのだ。

彼は僕のように、餃子を食べて口がにんにく臭くなったり、仕事に疲れて夜中にエッチな動画を開いたり、せっかくの休日に布団の中でTwitterを見て過ごしたりはしない。
彼はただ、空の下で、ギターを弾き、素敵な言葉を紡いでいる。きっと彼にも僕と同じようなちょっと格好の悪い瞬間はあるのだろうけれど、MVのなかの彼は、どこまでも透明で、どこまでも輝いていた。
僕は、そんな動画のなかの彼に憧れて、嫉妬しているのだ。

こんな嫉妬なら悪くない。嫉妬とは、自分の外側の世界に、自分が持っていない素晴らしいものがあると感じることであり、現状ではその何かを手に入れられないことに気づくことなのだろう。僕はどうも内側にこもりがちで、外の世界にはたいしたものが転がっていないと思いこむところがある。
たまには僕も自分を更新し、動画の中の彼が持っているものを目指していこう。曽我部恵一という個人が持っているかどうかは知らないけれど、MVのなかの彼が持っているあれを目指していこう。もしかしたら、僕も誰かからそんなふうに見られることがあるかもしれないと期待しつつ。

動画のなかの彼は妖精だ。人間ではなく、音楽の神に愛でられた、人間とは別の存在だ。彼はただ、音楽のためにだけ存在し、音楽を体現する存在なのだ。そんな彼のことを僕は妖精のようだと思う。(彼の曲に、中年の天使について歌ったものがあるから、妖精ではなく天使でもいいかもしれない。)

僕も哲学の神に愛でられた存在になろう。いや、そんなことは不可能だから、せめて一瞬でも、誰かにそう見られるような存在となることを目指そう。そんなことを思った。

(10/4追記)
だから僕は文章を書くのかもしれない。書いている間だけでも、そして文章の中でだけでも、僕は妖精のような純粋な存在になれるから、僕は文章を書くのかもしれない。