1 はじめに

最近、哲学カフェでなにかトラブルがあったようだ。詳しくないので推測だけど、進行役の対応により参加者を傷つけてしまったという問題のようだ。その詳細にはあまり興味がないけれど、僕は初心者向けに哲学カフェを紹介するサイトを運営している立場でもあり、きちんと僕自身の考えを表明しておいたほうがいいように思ってこの文章を書くことにした。(だから今回の件が全く筋違いだったらすみません。)

僕は僕が運営するサイトのなかで、独自考察だと前置きしつつ、哲学カフェには「特にルールはない!」ということを強調している。つまり僕は、哲学カフェが放任的という意味での自由に深く関わっていると考えている。それならば、今回のように、その自由奔放さ故に参加者が傷つくことについての僕なりの考えを述べるべき立場にあるのかもしれない。

2 癌の思考実験

僕はこの問題の具体的な内容を知らないけれど、僕自身、似たような問題に出会ったことがある。僕は数年前癌になった(今は問題ありません)のだけど、手術をしてそれほど経たない頃、哲学カフェに一参加者として参加した。話の詳細は忘れてしまったけれど、そのなかで、別の参加者が、確か「癌のような病で死ぬのと、事故で死ぬのとでどちらがいいか。」というような思考実験的な文脈で、癌についての発言をした。そのとき、僕はその場にいる人達と僕自身との距離を感じ、何も言えなかった。それを傷ついたと言うのかはわからないけれど、「この人達は癌に関する本当のことを何も知らないのだから、話しても仕方ない。」というようなどこか悲しい気持ちになって黙ってしまったのを覚えている。きっと今回の問題は、この僕の体験と同じ方向のものだろうと思っている。

3 放任型哲学カフェと配慮型哲学カフェ

このような問題設定を踏まえると、哲学カフェは二種類に分類できるのではないだろうか。ひとつは、放任的で、このような問題が発生することに頓着しないもの。これを放任型哲学カフェとしよう。そしてもうひとつが、このような場合には参加者が傷つかないような配慮が必要である考え、参加者への配慮を重視するもの。これを配慮型哲学カフェとしよう。僕は、放任型哲学カフェと配慮型哲学カフェの違いはとても大きいものだと考えている。

(僕は、哲学対話には哲学を重視する「哲学」対話と、対話を重視する哲学「対話」がある、という話をしたことがあるけれど、同じ話だ。放任型が「哲学」対話で配慮型が哲学「対話」となる。)

4 継続性と誠実性

当然、僕は放任型哲学カフェを信奉する立場にある。どうしてそのように考えるのかを説明しようと思う。

そこでキーワードとなるのは、継続性と誠実性だ。

僕は以前、哲学カフェにおいて重要なのは継続性と誠実性である、という考察をしたことがある。(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2020/07/05_Oikawa_Article_2020.pdf

継続性とは、哲学カフェのなかで対話を継続させるということであり、いわば、言葉のキャッチボールをしっかり行うことだと言っていいだろう。また誠実性とは自分に正直に発言するということで、変に格好をつけたり、取り繕ったり、ということも含め、広い意味で嘘をつかないということだ。

きっと、多くの人が、哲学カフェにおいてそのようなものが重要だということは認めてくれるだろう。だけど僕が強調したいのは、哲学カフェにおいて重要なのはそれだけだ、というところにある。つまり、継続性と誠実性のほかには、他者への配慮といったものも含め、何も要らないと僕は考えている。(ここまでは以前の文章でも書いていないし、明確なかたちで述べたこともないと思う。)

5 継続性と誠実性が重要であるということの現実的な切り口からの説明

僕がそう考える理由について、現実的な切り口と、論理的な切り口との二通で示したいと思う。まず現実的なほうから。

先ほどの癌の例で考えてみよう。癌になったばかりの人を前にして、癌を思考実験に使うという場面では、どうすれば、より望ましい哲学カフェになっていたのだろうか。

まず、癌のようなセンシティブな話をそもそも持ち出さないという選択肢がありうるだろう。つまり参加者自身が発言を控えるという方策だ。次に、もし参加者が発言してしまったなら、進行役が軌道修正するという方策がありうる。「そのような具体例だと他の参加者が嫌な気持ちになるかもしれないから違う例にしましょう。」などと仕切ればそれ以上の問題は生じないに違いない。最後の手段として、もし進行役も対応してくれなかったなら、発言の聞き手(癌の例だと僕自身)が対応するという方策が残っている。「僕は癌になったばかりなので、その喩えは止めてもらえますか。」などと指摘することで、それ以上被害が及ばないようにすることができる。つまり、問題が生じないようにするためには、①話し手の対応、②進行役の対応、③聞き手の対応という3段階のチャンスがあったはずだということになる。

ここで重視したいのは、最終段階の聞き手の対応だ。確かに、話し手や進行役が配慮してくれれば問題は解決する。だけど、もし僕が「僕は癌になったばかりなので、その喩えは止めてもらえますか。」と発言していれば、僕が嫌な気持ちを抱えることはなかったはずなのだ。だけど実際の僕はそうせず、黙ってスルーしてしまった。だから問題が生じたのであり、問題はここに尽きているのではないだろうか。

いや、それはあくまでも次善の策ではないか、という反論がありうるだろう。いくら事後的に異議を唱えても、既に僕は嫌な気持ちになってしまっている。それよりも発言者が発言自体を控え、進行役が積極的に軌道修正することで未然防止したほうがより望ましいはずだという考え方だ。

だけど僕の哲学カフェでの経験上、このような問題は一旦顕在化させたほうがうまくいく。僕が癌の思考実験の不快さを指摘したとしても、それを更に否定するような配慮に欠けた参加者は少ないし、少なくとも進行役が僕の発言を尊重しないということは考えられない。だから未然防止にはそれほど利点がない。

さらに重要なのは、僕の「僕は癌になったばかりなので、その喩えは止めてもらえますか。」という言葉こそが哲学カフェが求めるものだ、という点だ。大抵の場合、僕のこのような言葉は他の参加者(や進行役)に気付きを与え、その哲学カフェをより意義深いものとする。僕自身にとっても、困難を乗り越えて、僕の癌を他者に受け入れてもらえたという体験は、とても意義深いものとなるだろう。そのように考えると、受け手自身が異議を申し出るという対応は、最後の選択肢であるとともに最善の選択肢だと言えるのではないだろうか。

このような僕の捉え方を支えているのは、哲学カフェにおいては継続性と誠実性が重要だという信念だ。つまり、哲学カフェではどんな困難でも、誠実な対話を継続することによって乗り越えることができるはずだという信念だと言ってもいい。あのときの僕は、癌を思考実験とするような発言に反応せず、受け流してしまった。それはつまり、対話を打ち切り、継続性を損なったということである。そして、そのような発言に傷ついたという自分自身の心に正直になることができず、いわば誠実性を欠くことになったということである。僕は哲学カフェにおいて大切なものである継続性と誠実性を欠いてしまったのだ。対話で生じた問題は対話により乗り越えることができるはずなのに。

以上が、現実的な述べ方による、哲学カフェにおける継続性と誠実性の重要性の話である。哲学カフェにおいては継続性と誠実性さえ十分に満たしていれば、癌の思考実験を控えるというような他者への配慮は不要であるばかりではなく、邪魔なものでさえありうると僕は考えている。

6 継続性と誠実性が重要であるということの論理的な切り口からの説明

 以上が現実的な切り口からの説明となるが、同じことを論理的、または形而上学的な切り口からも説明しておこう。つまりこれから行う説明は、「この活動が哲学カフェと呼ばれる活動であることから、継続性と誠実性の重要性や、更には継続性と誠実性のほかには重要なものはないということが自ずと導かれる。」というものになる。

 さて、哲学カフェとは、どのようなものなのだろうか。

この問いに対する答え方のひとつとして、哲学カフェという言葉に含まれる「哲学」とは何か、という切り口から答えるというやり方がありうるだろう。なぜなら少なくとも哲学カフェと広義の哲学との間には何らかの関係があるはずだから。

では哲学とは何だろうか。答え方を更に恣意的に限定してしまうが、答え方の一つとしてはphilosophyという言葉の語源から答えるというやり方があるだろう。Philosophyとは知を愛するということだ。つまり知を愛することこそが哲学であり、それを何人かで集まって行う営みを哲学カフェと呼ぶのだということになる。

哲学カフェとは、複数人で集って知を愛する営みである。このような定義を出発地点とするならば、どのような帰結に至ることになるだろうか。

ひとつ考えられるのは、過去の偉大な哲学者の知的遺産などの知的な創造物に敬意を払うべきだ、というような帰結である。哲学カフェを「哲学」と名付けるからには、何かしらの知性の尊重があるべきだという考えが哲学カフェ関係者に広まっているように思うし、僕もそれは否定しない。

だけど僕は、その手前に注目したい。知的遺産であれ何であれ、それを哲学カフェで考慮するためには、まず、対話の場に提出されなければならない。そこでまず必要なのは発言することであり、そして、それをきちんと聞き届けることだろう。そのうえで、その発言が真に知性の尊重に値するものであったかどうかを判断すればよい。そのような意味で、哲学カフェにおいて最重要なのは、発言することと聞き届けることであり、つまり対話することである。

更には、発言が知的なものとなるためにも対話は必要である。経験上、対話が知的なものとなるためには、一定時間対話を継続し、対話が深まり、議論がせり上がっていくことが必要だ。そうして偉大な哲学者の議論が登場する必然性が生じるからこそ、ようやく過去の知的遺産が登場する素地ができあがる。そのように議論が盛り上がっていない状況で単に哲学者の言葉を引用しても、それは知的活動とは程遠いものとなってしまう。

加えて、対話ののなかでの発言が知的なものかどうかを判断するためにも対話は必要であるという点も重要だ。一見、粗雑で考慮に値しないような言葉であっても、実は深い知的意図が隠されているということはありうる。または当初は無意識の発話であっても、対話を続けた結果、そこに新たな哲学的含意を見出すということもありうる。これらは対話についての対話であり、いわばメタ対話と言ってもいいだろう。そのようなものも含めて、対話は継続されていくことで、知性が尊重されたものとなっていくのであり、更に言えば、知性を尊重するためには対話の継続が必要なのである。

当然、単に言葉を重ねれば良い訳ではない。そこにはある種の真摯さが必要だろう。自分の内面に正直であり、自らが語るべきと思ったことだけを語る必要がある。僕はそれを誠実性と呼んでいる。(ただし、最重要なのはあくまで誠実性よりは継続性だろう。なぜなら、対話を継続してさえいれば、偽りの言葉もいつか訂正され、誠実なものになる可能性を秘めているからだから。)

以上のような意味で、僕は哲学カフェにおいては継続性と誠実性が重要であると考えている。

重要なのは、知を愛するというphilosophyの語源から出発する限り、哲学カフェのどこにも他者への配慮などといったものは登場しないという点にある。知性を尊重することのみに合意※した参加者が対話を真摯に継続さえしていれば、他には何も要らないのだ。

(※知性の尊重への合意が、哲学カフェにおいて必要かどうかは議論がありうるだろう。僕は話を先に進めるためにとりあえずは必要ということにしているが、実は、対話の継続性さえ理想的に確保されていれば、対話のなかで二次的に獲得可能と考えている。つまり知性の尊重への合意は継続性のなかに含意されているということになる。)

7 哲学カフェの時間制限

ここまで僕は、哲学カフェにおいては、継続性と誠実性のほかには、他者への配慮などといったものは要らない、ということを二通りのやり方で示してきた。では、他者への配慮は本当に要らないのか。

 僕は自分でも時々哲学カフェを開催しているけれど、実は、参加者への配慮について大いに気にしている。自分自身の癌の思考実験の体験も踏まえて、同じようなことが起きないようにと心がけて進行役をしている。

 なぜそのような配慮をするのかといえば、哲学カフェには時間制限があるからだ。例えば2時間という時間制限のなかで、哲学カフェでの対話を進め、ひとつのイベントとして完結させ、形を整えるためには、ある程度のコントロールが必要となる。コントロールのひとつとして、他者を傷つけそうなリスクを冒さない、という点は重要だ。

 理想的には、無制限に対話を継続していれば、たいていの問題は解決するはずだ。どんなに攻撃的で、知的なるものに敬意がない参加者であっても、無限に話し続ければ、いつかはわかってもらえるはずだし、傷ついた参加者の傷を言葉で癒やすこともできるはずだ。少なくとも、哲学カフェでの対話を終わらせない限り、哲学カフェを通じて参加者が傷ついてしまったという帰結に至ることを先送りすることはできるはずだ。

 だが当然、現実にはそのようなことは不可能で、大抵は2時間というような時間制限がある。その時間が過ぎたら対話で生じた問題を対話によって解決することはできなくなる。だから進行役は対話をコントロールし、そのような問題が生じないようにしなければならない。

 つまり、継続性と誠実性というような哲学カフェにおいて本質的な事柄とは別次元の問題として、もっと処世術的で現実的な意味で、時間制限がある哲学カフェにおいては、他者への配慮が必要となるのだ。

 僕は他者への配慮の重要性は認める。だがそれは、あくまで運営上の現実的な理由によるもので、哲学カフェが本質的に持つ特徴に由来するものではない。

8 哲学カフェの本質的重要性と処世術的重要性の違いの重要性

僕はここまで哲学カフェにおいては、継続性と誠実性という本質的に重要な事項と、他者への配慮のような現実に即した、いわば処世術的に重要な事項とを分けて捉えるべきことを強調してきた。

なぜ、そのようなことを強調する必要があるのか訝しがる人もいるかもしれない。どちらも重要ならば、その重要性の由来などどうでもいいではないか。2時間であれ一週間であれ、哲学カフェには時間制限は不可欠なのだから、他者への配慮が時間制限に由来するならば、それは本質的に重要だと言ってもよいのではないか。

だが、僕はこの違いはいくつかの意味で非常に重要だと思う。

第一に、この違いが哲学カフェでの議論における前提条件の設定の仕方に影響するからだ。もし哲学カフェにおいて、他者への配慮が本質的に重要ならば、それは哲学カフェと呼ぶべきではないだろう。あえて名付けるならば、それは「他者への配慮カフェ」と呼ぶこともできるだろう。なぜなら、他者への配慮が本質的に重要であるならば、そこで行われる議論も、それを前提とするはずであり、それを否定することを許さないはずだからだ。前提を加え、議論を限定しているという点で、そこでの活動は前提を置かない哲学カフェほどに広い分野をカバーしていないことになるのだから、その活動には異なる名前が与えられてもよいのではないか。(同様に、もし民主主義の重要性を前提に対話するならば、それは民主主義カフェ、人種差別的な発言を禁じて対話するならば、それは反人種差別カフェというように名付けたほうがいいのではないだろうか。)

僕はそのような活動があること自体を否定しないが、なんら前提を置かない哲学カフェとは混同しないようにしなければ、参加者が誤解してしまうという実害が生じるのではないだろうか。

哲学カフェの本質的重要性と処世術的重要性を区別する第二の理由は、そこにこそ、哲学カフェの終了時間になったときに言われる「モヤモヤを持ち帰りましょう」という言葉の含意があると思うからだ。

確かに哲学カフェには現実的な理由により時間制限があり、そこで対話を終えざるを得ない。だけど自分だけでも問題意識を持ち帰り、その後も自分との内なる対話を続けることはできる。もしかしたら友人や家族をつかまえたり、次回の哲学カフェに参加したりして対話を続けることもできるかもしれない。現実にはなかなか難しい理想論かもしれないけれど、そのような意味を込めて「モヤモヤを持ち帰りましょう」と言っているのだろう。

実際、僕は数年前のあのときの(癌という発言をめぐる)モヤモヤを持ち帰り、考え続けたからこそ、このような文章を書いているのだし、きっと、今回の問題の当事者やそれに触発された僕のような人はモヤモヤと考え続けているのだろう。そのようにして行っていることも哲学カフェの延長戦と考えるならば、哲学カフェでの対話はどこまでも続いている。

もし僕たちが哲学カフェの参加者であり哲学者であるならば、僕たちはモヤモヤを持ち帰り、一生哲学をし続けるのだ。そのように考えるならば、哲学カフェにおいては継続性と誠実性だけが必要であり、それ以外は何も要らないと考えることは、現実から乖離した単なる理想論ではないのかもしれない。

9 さいごに

以上のような理由から僕は放任型哲学カフェを信奉する。そこでは継続性と誠実性だけが重要であり、そのように対話が続けられることですべての問題はいつか解決するはずだ。そのような楽観主義に僕の哲学カフェ観は裏付けされている。

僕も大人だし、色々と経験しているから、そんなにうまくいかないことは知っている。だから、処世術的な配慮として、人を傷つけるような不用意な発言がないように気をつけもする。それ以外にも、皆が自由に話しやすいような雰囲気をつくったり、2時間の対話の時間が終わったときに、ある程度満足できるように対話のテンポをコントロールしたりもする。このような配慮はすべて、哲学カフェの理想と現実とをなんとかすり合わせるための工夫だと言ってもいいだろう。

重要なのは、このような工夫や配慮はあくまで便宜的なものであり、可能な限りできればよいような類のものであり、決して哲学カフェの本質に由来するような必須の事柄ではないという点だ。だから哲学カフェの主催者や進行役が十分に配慮や工夫ができなかったからといって、そのことを責められるべきではない。本人がもう少しうまくやりたいと願うくらいでちょうどいい。哲学カフェは危険ではないか、と非難されたら、残念ながらそのとおりです、なるべく気をつけますが・・・と答えればいい。そのような不完全さこそが哲学カフェにはふさわしいと僕は思う。

僕は配慮型哲学カフェを信奉する人に、放任型哲学カフェを信奉してほしいとは思わない。「他者への配慮カフェ」というような別の名前を名乗るべきというのも単なる誇張表現だ。だけどせめて、配慮型哲学カフェとは全く別なものとしての放任型哲学カフェという道筋がありうるということは知っておいてほしいと願う。

きっとそこでも必要なのは放任型哲学カフェ信奉者と、配慮型哲学カフェ信奉者との間での対話なのだろう。

10 蛇足:私的な怨念

 ここまで、かなり配慮型哲学カフェを攻撃的に論じてきたけれど、その動機としては実は私的な怨念がかなり含まれている。

僕は子供の頃から、あまり他者への配慮ができない子供だった。大人になり、場数をこなし、なんとなくそういうこともできるようになってきたけれど、どうしても他者への配慮が求められるこの世の中に馴染むことができない。そんな違和感を癒やしてくれるのが哲学であり、哲学カフェであったような気がする。

他者への配慮について、その要否を留保して客観的に議論することによって、ようやく僕は他者への配慮という呪縛から自由になることができる。そのような作業を自分一人で哲学というかたちでやることは楽しいし、何人もの人と哲学カフェというかたちでできることはなお楽しい。

だから僕は、哲学カフェの中に僕にとっての夾雑物が入り込んでくることに敏感だ。この僕の聖域にまで、世間の風が吹き込んでくることが正直、不快になってしまう。

他者への配慮を主張する人には、こういう人がいるということを、きっと極めて少数だろうけれど、このような人がいるということを知っておいてほしいと願う。