身体の3時制 視線・呼吸・笑顔

1 ヨガにおける視線の重要性への疑問

「ドリスティ」というヨガ用語がある。ヨガの流派のひとつであるアシュタンガ・ヨガの用語で「視線」という意味なのだけど、ヨガにおいて重要なもののひとつとされている。このポーズのときには鼻先を見ろ、このポーズだと床の一点を見ろ、などと決められているのだけど、どうして視線が重要なのか、正直よくわかっていなかった。

アシュタンガ・ヨガにおいて視線以外に重要なものとしては、呼吸やバンダ(下腹部の引き締めというような意味)が挙げられるが、これらはなんとなくわかる。実は、ヨガ的には呼吸やお腹の引き締めの真の重要性は僕の理解より深いところにあるのだろうけれど、僕にもその重要さの方向性はわかる。

それに比べて、視線の重要さはわかりにくい。インストラクターからは、目からの情報に惑わされないようにするために視線を固定するため、という話もあった気がするけれど、それならば目を閉じていればいいようにも思う。視線を定めることには、視覚情報を遮断するという消極的な意味合いはあっても、積極的な意味などないように思える。それなのに、どうして視線が呼吸などと同等に重要なものとして位置づけられるのだろう。

2 視線の重要性についての僕なりの答え

オンラインのヨガフェスタで聞いた吉川めい先生の話をなんとなく考えていて、その答えを思いついた。それを思いつくまでの過程というのは、冗長で、読者の方にはあまり重要ではないだろうけれど、僕にとっては重要なことなので書き残しておこう。

吉川めい先生は、呼吸は一定に行うものであり、呼吸を一定に行うためには吸い(吐き)始めで吸い(吐き)すぎないように注意するといい、という話をしていた。

ヨガでは動きにあわせて呼吸をするから、直立の姿勢から前屈しながら息を吐き、前屈から伸び上がるように息を吸う、というような動作と呼吸の合わせ方をする。そうすると、例えば前屈から立ち上がるのと合わせて、勢いをつけるように息を吸いすぎてしまいがちだ。そうすると、立ち上がり、伸び上がり切るまでに息を吸いきって、呼吸が止まってしまう。それならば、動作を切り替え、呼気から吸気に切り替える際に、息を吸いすぎないように心がけるといい、という話だ。息を吸いすぎないためには、細いストローを吸うような意識を持ついい、という話もあった。

確かにそのとおりなのだけど、動作の切り替えで勢いがつくのに、あえて息を細くするというのはどうも不自然だ。我慢して息だけ細めている感じがある。自然であるべきヨガがそんな不自然なことを求めるのだろうか、と僕は疑問に思い、心に引っかかっていた。

考えているうちに僕なりの解決策をみつけた。いきなり前屈から伸び上がる動作に切り替え、同時に呼気から吸気に切り替えるから難しくなる。すべてを一気に切り替えるから、どうしても勢いがついてしまう。それならば、動作と呼吸の切り替えのタイミングをずらすか、動作・呼吸とは別の何かを先行して切り替えればいいのではないか。

僕はまず、試しに動作を先行してみた。悪くない。呼吸を細く始めることができる。だけど、動作と呼吸がバラバラになると、動作も呼吸もスムーズに流れなくなってしまう。だから、徐々に動作の先行幅を狭め、限りなく微細な先行に抑えるようにしてみた。

そうすると、そこに残ったのは、次の動作に入ろうとする意識と、視線の動きだけであることに気づいた。(僕はヨガの上級者ではないから、正確には、理念的に、そうなる「だろう」ことに気づいた。)

前屈しているとき、次の伸び上がる動作に入る準備段階として、上に伸び上がろうとする意識とともに目が上を向こうとする。この準備動作に注意を向けてから息を吸い始めると、勢いをつけずに呼吸を始動させることができるのだ。

きっと、あえて心がけなくても、伸び上がろうとする時、視線は上に向いているし、上に向こうとする意識は生じている。だが、その視線や意識に注意を向けると、その後の動作や呼吸がうまくいく。

これがドリスティ「視線」の重要さなのではないだろうか。これを呼吸に対する動作の先行と解釈するのか、または、呼吸・動作に対する意識・視線の先行と解釈するべきなのかともかく、アシュタンガ・ヨガが言っていることはこういうことなのではないだろうか。

3 日常生活における視線とマインドフルネス

ヨガにおける視線の重要さに気づいてから、日常生活でも視線が重要な働きをしているという仮説を立てて、ちょっと実験してみた。実験と言っても、視線に注意して街を歩いてみる、といった程度のことだけど。

店の看板や、公園の木や、すれ違うサラリーマン。僕はいろいろなものに視線を向けている。そして、たしかに視線を向けるごとに意識が切り替わり、僕の動作も切り替わっている。いや、動作は切り替わっていないのではないか。何を見るかに関わらず、歩くという動作は継続しているではないか、と思うかもしれない。確かにそうなのだけど、「歩く」よりも微細なレベルで、「看板を見ながら歩く」から「サラリーマンを見ながら歩く」に切り替わるというようなかたちで動作が切り替わっていると考えることもできる。視線に注意を向けるとは、このような微細な違いに気づいていくということなのだ。

そのように考えるならば、視線に注意を向けることは、マインドフルネスにつながっているだろう。店の看板を見る視線に注意することは、マインドフルに看板を見ることでもある。注意深く看板をじっくり見ることで、これは鳥貴族の看板だなあ、黄色地に赤の文字なんだなあ、フォントが変わってるなあ、なんて気づくことができる。

マインドフルネスという見地から「視線を向けること」を広義に「注意を向けること」と解釈するならば、僕の視線が向かうのは、看板や木やサラリーマンのような世の中のものごとに限らないだろう。僕の心の中のものごと、例えば、二日酔いによる不快感に視線を向けることができるし、人種差別的な事件についてのニュースを見たときにわきあがる怒りにも視線を向けることができる。

このように、鳥貴族の看板から不快感や怒りといった感情まで、幅広いものごとに注意を向けることと、ドリスティ「視線」はつながっている。

4 身体的な作業への変換

僕はマインドフルネスに興味があるのだけど、マインドフルでいることは難しい。マインドフルであるとは、ものごとに注意深くあることだとするならば、注意深くあるように心をコントロールすることが難しい。きっと心のあり方というようなとらえどころのないものをコントロールするのは至難の業なのだ。僕だけでなく大多数の人にとって難しいからこそ、瞑想法といった方法論が編み出され、訓練が必要になるのだろう。

だけど、視線という手がかりがあると、かなり難易度が下がる気がする。視線をどこに向けるかは、あくまで身体的な問題だから、身体レベルでコントロールが可能だ。鳥貴族の看板に対して注意深くマインドフルであれ、と言われてもなかなかできないけれど、鳥貴族の看板に視線を向けろ、と言われたら少しは楽にできるに違いない。

これは、自分の内面という物理的な視線が届かない領域であっても同じだろう。自分の中にわきあがる感情をマインドフルに見つめろ、と言われたら難しいけれど、意識的に自分の足元のあたりを見ろ、と言われたなら簡単だ。僕は自分の感情を捉えようとするとき、視線を下に落とすことが多い。奥さんと口喧嘩をしているとき、奥さんの顔を見たままでは自分の感情に注意を向けられないけれど、視線を足元に落とすと、自分の内面を見つめ、怒りで肩が震えそうになっている自分に気づくことができる。視線を意識的に動かすことで、心の動きをある程度までコントロールすることができる。

このようにして、マインドフルにものごとに注意を向けるという抽象的な作業は、視線の移動という身体的な動作に置き換えることができる。完全な置き換えが可能かどうかはともかくとして、これは重要なノウハウだと思う。

5 未来と視線

ここまではヨガやマインドフルネスについての考察だったが、例によって、ここからは哲学の話につなげていきたい。

(この文章だけを読んだ方にお伝えしておくと、僕は、哲学が好きで、そのなかでも存在論や時間論が大好きなのです。)

ここまで述べてきた視線とは、指向性と言い換えられるだろう。そうすると、ここまでの話は、心・意識がある対象に向かうことを、身体的な動作としての視線の動きとして置き換えることができる、という話だったことになる。

では、心・意識・視線は何に向かっていたのだろう。

ここまでの例では、それは鳥貴族の看板や奥さんに対する怒りのようなものごとだったのだが、そのような描写は少々不正確であって、より正確に述べるならば、視線が向かう先とは「未来」なのではないだろうか。

僕が街なかの看板に目を向ける時、僕はまだ看板を見てはいない。僕は看板がある方向に目を向け、それから、それが看板であることを認識し、そして鳥貴族の看板であることに気づき、さらには書体が独特であることに気づいたりもする。

僕が目をある方向に向ける時、あえて言うならば、僕は、未来の鳥貴族の看板に目を向けている。だが、正確には、僕の目は具体的な何かには向かっていない。または、僕の目は空白の未来に向かっている。

このように考えるならば、視線と未来は深く関わっている。僕は視線を定めることにより、未来を選択していると言っていいだろう。または、未来をコントロールしていると言ってもいいかもしれない。僕の身体は視線を通じて未来と接続している。

6 現在と呼吸

未来と視線がつながっているとするならば、現在は呼吸とつながっているだろう。

僕はこれまでも呼吸の重要性について書いてきたので詳細は省略するけれど、瞑想では呼吸に意識を向けるし、ヨガでも呼吸は重要だ。明らかに、呼吸は今ここの自分につながっている。

ここで気をつけなければならないのは、「呼吸に意識を向ける」ということに潜む矛盾だ。

どこに問題があるのかといえば、「意識を向ける」という表現にある。意識を向けることには指向性が含まれている。それならば、ここには未来に視線を向けるというかたちでの未来性が含まれている。つまり、呼吸は現在であり、意識を向けることは未来なのだから、呼吸に意識を向けるとは、現在と未来が矛盾的に接続するということである。

なお、この矛盾は拒否すべきものではない。未来と現在という相反するものを接続させるという極めて大切な働きをしているものだ。「呼吸に意識を向ける」という瞑想法の極意は、この意味で重要なのだろう。呼吸に意識を向けるとは、未来と現在との接点に焦点を合わせることであると言ってもいいだろう。

一方で、呼吸という現在を、未来性を介在させることなしに取り出すことはできないことに留意することも重要である。呼吸に意識を向けることなしに、呼吸というかたちで身体化されている現在を捉えることはできないのは明らかだろう。

現在を純粋なかたちで取り出すことの困難性は、フローやゾーンについての話として述べることもできる。

僕もあまり詳しくないけれど、フローやゾーンとは、話し合いに集中していて気づかないうちに数時間経っていたり、バッターボックスでの一瞬が長い時間に感じたりするようなことを指すようだ。

僕自身の少ない経験に基づくならば、僕は、フローやゾーン状態になっている時点では、そのときの自分自身の心境を客観的に捉えることはできない。自分を冷静に捉えようとすると、そのような状態から冷めてしまう。フローやゾーン状態とは、リアルタイムで捉えることはできず、あとになって振り返って、あのときにそのような状態だったなあ、と気づくしかないようなあり方をしている。

このことと、現在のみを純粋に取り出すことの難しさの話は同じことである。現在とはただ体験することしかできないものなのだ。

(なお、マインドフル状態と、フロー・ゾーン状態の違いが問題になることが多いようだが、僕の考えによれば、両者は全く違うものだ。あえて言うならば、マインドフルネスを長時間行っていると、マインドフルネス実践のゾーン状態とでも言うべき状況は生じる。だが、サーチ・インサイド・ユアセルフでチャディー・メン・タンが言っているように、一呼吸だけでもマインドフルネスは可能だとするならば、このゾーン状態はマインドフルネスにとって必須のものではない。ただ、マインドフルネス実践のゾーン状態とは、マインドフルネスが到達できる未来と現在の接続点から、一歩、純粋な現在に踏み込もうとするものだとは言えるだろう。)

7 過去と笑顔

ここまでで、視線としての未来、呼吸としての現在が登場したが、まだ過去が登場していない。視線、呼吸というように、身体的に未来・現在・過去という3時制を描くならば、過去とはなんだろう。

ヨガ初心者なりにインストラクターから言われることを思い出してみると、過去とは笑顔のことなのではないだろうか。

ヨガのクラスを受けていると、時々、ヨガニドラというものをすることがある。理論や歴史的なことは知らないので体験した限りでだけど、ヨガニドラとは大の字になって横たわり、体の部位ごとに少しずつ力を抜いていき、全身をリラックスするというものだ。

そのなかで、特に効果的だと感じているのが、顔の筋肉を緩めていく動作だ。指示されるままに目の奥を緩めたり、下の付け根を緩めたり、頬を緩めたりしていくと、普段から変なところに力が入っていたのだなあ、と気づく。

そして、顔の筋肉が緩んだとき、僕自身がなんとなく笑顔になっている気がする。僕は大の字になって横になり、少しにやけた顔をしている。傍目からは気持ち悪いだろうけれど、僕自身は気持ちいい。

過去とは笑顔のことではないか、というときの笑顔とは、この笑顔のことだ。

リラックスして自然とにじみ出る笑顔こそが、過去なのではないだろうか。

視線が未来と接続し、呼吸が現在と接続するように、笑顔は過去と接続している。僕は笑顔により過去と接続し、過去をコントロールすることができる。笑顔になるだけで、僕のこれまでの人生を肯定したくなる。なんだか僕の人生は幸せなものだったような気がしてくる。

笑顔とは、このような効果があるのなのではないだろうか。

このように僕は、視線、呼吸、笑顔というようにして、身体における3時制を駆け足で描いてきた。いずれも重要なものばかりだけど、あえてそのなかで最も重要なものを選ぶとすれば、それは笑顔だろう。笑顔は簡単な割に効果が高いから。

いずれ僕は死ぬ。死んだら視線を動かすことも、呼吸を続けることもできない。だけど、笑顔でいることはできる。笑顔だけは死後に残すことができる。それが過去の特権だろう。

そして僕が死んだなら、笑顔に加えて、今昔物語の入道のように口から蓮の花が咲いたら、なおいいなあ。