ヨガの先生が言っていたことが、先生自身の意図とは違うかもしれないけれど、僕にとってはとても興味深かったので書き残しておく。

先日、ヨガスタジオでヨガのクラスに出ていたとき、先生が「普通の深呼吸だと、息を吐きながら脱力するけれど、今は息を吸うときに力を抜いて、息を吐くときに力を入れてね。」というようなことを言っていた。確か体をねじるポーズかなにかのときだった気がするけれど、そのあたりはあやふやだし、先生の言葉自体も正確には覚えていない。

僕はなんとなく、息を吸う=力をためる、息を吐く=力を抜く、だと思っていたので、その逆の場合があるというのが新鮮だった。確かに言われてみれば既にやっていたことだけど、明確に言葉で整理できたことが新鮮だったのだ。

実際は、ヨガをやっていると、息を吐きながら力を入れることもあれば、息を吐きながら力を抜くこともある。つまり、息を吸う・吐くと力を入れる・抜くでは、2×2=4通りの組み合わせがあって、場面によって使い分けている。同じ前屈でも、少しでも深く前屈しようとするときは、息を吐きながら筋肉を使って体を前に倒しているし、後屈のあとにリラックスのために前屈するときは、息を吐きながら力を抜いて腰を伸ばしている。

既にやっていたことを言葉で捉え直すことで、いつでもそれを意識的にできるようになるし、更に別の場面でも応用できるようになる。

これは日常生活の場面にも応用できるのではないだろうか。日常生活のなかでも緊張・弛緩と呼吸の組み合わせのバリエーションを増やせるのではないだろうか。既に同じようなことは、日々の生活でもやっていて、それを意識的に行うことで、もっとうまく精神と肉体をコントロールできるのではないだろうか。そんなことに気づいたという点でヨガの先生の言葉は興味深かったのだ。

僕はヨガを少しやっているから、仕事のときにも多少は呼吸を意識することがある。仕事のストレスで呼吸が浅くなっていることに気付き、深呼吸をして気持ちを落ち着けることもある。

だけど、深呼吸はリラックスのためだけのものではない。深く息を吸いながら体と心を緩めることで、より多くの空気を取り入れ、深く注意深く息を吐きながら精神を集中することで、よりテンションを上げることもできる。深呼吸によりテンションを上げ、集中力を高めるようなコントロールもできるようになる。まだ慣れていないけれど、そういうこともできそうな気がする。

今までは呼吸による力の抜き方しかわからなかったけれど、どうやら呼吸により力を込めることもできそうだ。僕はブレーキの踏み方しか知らず、アクセルは勝手に上がるままにしていたけれど、両方をうまく使えるようになれば、ブレーキも上手に踏めるようになるはずだ。僕は少し自律神経失調気味なところがあるけれど、これからは多少上手に自分のテンションをコントロールできそうな気がする。これが今回の収穫である。

更に、呼吸そのものから少し離れ、アナロジーになるけれど、ここで述べたことは僕たちの思考と行動というあり方にも応用できそうに思う。僕たちは何かをするとき、思考と行動という二段階を経るけれど、それが息を吸うことと吐くことに似ているように思うのだ。例えば僕が仕事帰りにコンビニに寄って、晩酌のお酒を買う場面を考えてみる。僕はお酒コーナーの前で立ち止まり、ビールにしようかな、酎ハイにしようかな、それともハイボールにしようかな、よし、ちょっと疲れたしアルコール度数が高い酎ハイにしよう、なんて思考する。そして酎ハイの500ml缶を手に取り、レジに向かったとする。このうちの酎ハイを手に取るまでが思考という段階で、実際に手にとってからは行動という段階となる。厳密には色々と問題はあるけれど、だいたい、このような二段階を経るということに異論はないだろう。なんとなく、思考と吸気、行動と呼気という対応関係があるように思う。

この思考と行動という組み合わせについても、呼吸と同様に、更に、力を込めた思考、力を抜いた思考、力を込めた行動、力を抜いた行動という4つの組み合わせに細分化することができるのではないだろうか。

なお、力を込めた思考と力を抜いた思考という組み合わせは、演繹と帰納(正確にはアブダクションかな※)という組み合わせと結びつけて考えることができると思う。

演繹は力を込めた思考である。厳密で脱線を許さない。「ツバメは空を飛ぶ」ということから「イワツバメは空を飛ぶ」は許しても「鳥は空を飛ぶ」は許さない。

一方で帰納は力を抜いた思考であり、脱線を許容する。「ツバメは空を飛ぶ」ということから「鳥は空を飛ぶ」というアイディアを思いつき、「スズメは空を飛ぶ」を発見したり、「ペンギンは空を飛ばない」を発見したりする。

厳密に考察を進める時、僕は議論に漏れがないかどうか気にしつつ、集中して思考を行う。ツバメが空を飛ぶということから言えることと言えないこととを厳密に判断する。一方で、新しいアイディアを考える時、僕は少し力を抜いてみる。ツバメが空を飛ぶのならば、他の鳥も空を飛ぶのかな、なんて連想してみる。

演繹と帰納という区分と完全に一致するかどうかは自信がないけれど、思考には、厳密な力を込めた思考と自由な力を抜いた思考の二通りがあるというのは確かだと思う。

また行動にも、力を込めた行動と力を抜いた行動との二種類があるのも確かだろう。僕がコンビニで酎ハイを手に取り、レジに向かうのは力を抜いた行動の代表例だ。一方で、例えばプロサッカー選手がサッカーの試合をしているときは力が込められているだろう。そういうときにはきっと、思考面ではうまく力が抜かれ、行動面でのみ力が入っているはずだ。だからこそ自然と体が動き、独創的なプレイを生み出すこともできるはずだ。こういうとき、フロー状態やゾーン状態に入ったと呼ぶのだろう。これが力を込めた行動の代表例である。

なお、高所恐怖症の僕が恐る恐る崖を歩くような場面は、一見、力が込められているようで、そこに集中しきれていないという点で、実際に力は込めきれていないだろう。うまく行動に力を込めるためには、断崖絶壁の恐怖心といったような思考の力を抜くことが必須であるように思える。

プロスポーツ選手や断崖絶壁のような極端な場面ではなくても、僕にとっても、思考と行動のどこに力を入れて、どこに力を抜くかは大事なことなのだろう。単に思考と行動の両方に力を入れてしまったら、ただ緊張するだけとなってしまい、うまく体も頭脳も動かない。単に思考と行動を弛緩させるだけでは眠くなるだけで日常生活を送ることはできない。重要なのは意識的に緩めるところと力を入れるところを使い分け、繊細な心と体の使い方をすることなのだろう。

更に、特に思考については、思考の一部に力を入れ、一部を緩めるようなことも可能だ。例えば、思考を弛緩させることに思考を集中するような場合だ。このようなことができるのは、思考に関してはメタ的な思考が可能だという特性を活用している。このメタ的な適用は更に積み重ねることもできるはずで、思考を弛緩させるという思考を弛緩したかたちで行い、その思考を更に弛緩したかたちで行い、更にその思考を弛緩したかたちで行い、ただし、最も外側の思考は集中したかたちで行う、というようなメタ的な思考の階層的な適用も可能なはずだ。僕はうまくできないけれど、これが瞑想やマインドフルネスなのだろう。ポイントは、メタ的な弛緩を積み重ね、集中をできるだけ遠ざけるというところにある。集中を遠ざけることにより、その分、最も外側にある集中は高まることとなり、高度な弛緩と集中が同居することになる。

または、集中した思考をメタ的に積み重ねるという道筋もありうる。集中した思考を行うことに集中し、更にそのことにも集中する、というかたちで最高度に集中した思考を積み重ねた先に、思考の最高度の弛緩(というか解放)が生じうる。これが高度な弛緩と集中を同居させるためのもうひとつのやり方だろう。僕は具体例として、僕が好きな入不二基義の議論を思い描いている。彼がやっていることはマインドフルネスや瞑想とは真逆の、もうひとつの悟りへの道なのかもしれない。瞑想が密教的だとすれば、神に到達する顕教的道筋である。(ここには二種類の最高度自由が描かれていると思う。※※)

僕はプロスポーツ選手ではないし、瞑想もうまくできないし、入不二ほどの厳密な思考もできない。だけど、ここで僕が書いたようなことは多少なりとも僕自身に役立つような気がする。なぜなら、身体はともかく、思考の集中・弛緩は、ある程度までは呼吸でコントロールできるように思うからだ。

ただ僕は、呼吸と集中・弛緩を4通りのかたちで組み合わせることで、思考についても集中に集中を重ねたり、弛緩に弛緩を重ねたりすることができるはずだ。これについては実際にやってみて確かめるしかないけれど。

※ 僕はアブダクションを帰納に含めているけれど、その理由を簡単に触れておく。帰納法で「ツバメは空を飛ぶ」を論証するためには、ツバメが空を飛ぶという複数事例を観察しなければいけないけれど、そこには、ひとつめの事例であるツバメと、ふたつめの事例であるツバメが同じツバメであるという前提が隠れている。これはつまり「複数事例を観察することが可能である」という未論証の命題の導入である。この導入が飛躍でありアブダクションであると僕は考えている。

※※ マインドフルネス的な自由は、リバティとも言える自己統制的自由の最高度の形態であり、入不二の自由は、フリーダムとも言える無制約的自由の最高度の形態だと思う。