僕の家にはチーズというネコがいる。

僕の家には、チーズとタックンという二匹のネコがいる。あまり固有名詞を書くと身バレしてしまうかもしれないけれど、名前をきちんと書き残しておくことは、身バレのリスクよりも大事なことのように思えるので、あえて書き残しておくことにする。

この文章で書き残しておきたいのは、二匹のネコのうちチーズのことだ。実は今、チーズはうちにはいなくて入院している。心筋症という病気なので、どんなにすべてが良く転がっても、長くても数ヶ月の命だということがわかっている。だから、僕の家にはチーズというネコがいる、と現在形で書いていいのかわからなくなる。僕が書き残したいのが、チーズが元気だった頃のことだから、余計にわからなくなってしまう。だけど、あえて現在形で書いておくことにする。もしかしたら、今後、数ヶ月であっても、おまけのご褒美のような日々があるかもしれないからだ。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

だけど、もしそうならなくても、十分、彼女(チーズは女の子)には楽しませてもらった。これからは彼女の好きにしたらいいと思う。彼女が生きようとする限り、僕と妻は、それをサポートするだけだ。この思いは、実際に近くにチーズというネコが今いるかどうかはあまり関係ない。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

チーズの体調のこと

僕は以前、飼っていた別のネコについての文章を書いたことがある。『ハナの死で考えたこと』https://dialogue.135.jp/2018/03/17/hana/という文章だ。

今は読み返したくないのであやふやな記憶だけど、この文章の中心は彼女(ハナちゃんも女の子)の調子が悪くなってからのことが中心だったと思う。一方で、この文章で僕が書きたいのはチーズが元気だった頃のことだ。

だけど、とりあえずの記録として、ハナちゃんと同じように、チーズの調子が悪くなってからのことも書き残しておく。本編は元気だった頃のことなので、そこまで読み飛ばしてください。

さて、チーズの体調に関係ありそうな話は出生の頃まで遡る。チーズは、妻の知人の知人が赤ちゃんネコを保護し、ハナちゃんがいなくなって寂しがっていた妻が譲り受けてきたネコだ。妻が聞いたところによると保護の経緯は、路上に可愛そうな赤ちゃんネコの死体があると思ったら生きていた、というものだったそうだ。死にかけネコだ。きっとチーズの体調の悪さはこのあたりにも起源があるような気がする。(チーズという名前は、保護した家の子供が名付けたそうだ。)

なお、うちに来たときは、もう1歳近くなっていて、死にかけの赤ちゃんネコではなくなっていたけれど、痩せて小さいネコだった。その頃から元気いっぱいという感じではなく、ご飯もあまり食べない子だった。

その後はご飯を食べないながらも元気にしていたけれど、昨年の秋頃、つまりチーズが多分5歳半くらいの頃、突然まっすぐに歩けなくなり、足をひきつるような感じになってしまった。あわてて救急病院に連れて行ったところ、アンモニアが高いということだった。原因がわからないのでアンモニアを下げる薬を飲ませたところ、時々、同様の症状は出るけれど、最初のときほど長時間ではなかったので、てんかんか何かと思い、様子見していた。なお、今もその理由はわからない。

そのような状況が半年ほど続き、今年のゴールデンウィークの前半、ネコの世話は娘に任せ、久しぶりの夫婦での3泊旅行から帰ったところ、どうもチーズの様子がおかしかった。苦しいような、怒ったような、変な感じだったのだ。だが、時間が経つと元に戻ったので深くは考えず、連休明けに一応病院に連れて行こう、と妻と話していた。ただ、ふたりとも、なんとなく、この数ヶ月、元気がどことなくないような感じはしていた。

そして連休明け、ちょっと遠くの専門的な感じの動物病院に妻がタクシーで連れていったところ、待合室でいきなりパニックのようになり何回も吐いてしまった。その結果、誤嚥性肺炎になってしまった。そして、肺炎の検査をするなかで、心臓も心筋症の疑いがあるということが判明した。

月曜日にパニックになり、そして1週間かけて徐々に調子が悪くなり、木曜日にはレンタルした酸素室の中に入れても見ていられないほど息苦しそうになってしまった。妻は連日のように病院に連れていき、誤嚥性肺炎の治療をしていたけれど、今日、金曜日になって、ようやく、息苦しいのは、誤嚥性肺炎だけでなく、主に心筋症による胸水のせいだということが判明した。そして今は、胸水を抜いた経過観察のために、チーズは入院している。

胸水がたまるほどの心筋症というのはかなり深刻だ。ネットで調べた限りでは、うまくいけば数ヶ月生きる可能性はあるが、すぐにでも心臓が止まって突然死してしまう可能性もある。更に誤嚥性肺炎があり、多分肝臓のせいでアンモニアが高いということも考えると、チーズは満身創痍だと言っていいだろう。かなり厳しい状況である。

以上がチーズの体調についての記録だ。

このように書いてみると、ハナちゃんのときは僕が看病でがんばったけれど、チーズについては妻ががんばっているので、これはほぼチーズと妻についてのストーリーだと言ってもいい。だからこれは、書く権利がない者が、それでも書かずにはいられないから書いた、排泄物のような文章にすぎない。

排泄物と表現したけれど、僕がこのようなことを書いているのは、もう二度とこのことを書かないで済むようにするためだ。

書くことで、今後は、その書いたことについて思い出さなくて済むようになる。なぜなら、あえて思い出さなくても、ここにそのときの記憶が保存されるからだ。文章として、まるで剥製のようにチーズの記憶を残しておくのは、悪趣味かもしれないけれど、僕なりの過去との折り合いの付け方である。

あともうひとつの理由として、似たような症状のネコを飼う飼い主のなにかの役に立つかもしれない。

チーズの紹介

 さて、いよいよ、チーズが元気な頃の話に移る。

 うちには、チーズとタックンという二匹のネコがいるけれど、チーズは妻に懐いていて、タックンは僕に懐いている。だからチーズはいわば隣のネコだ。だから、やはりチーズが元気な頃の話も妻の方に書く権利がある。僕は傍観者として、チーズの元気な頃の記憶を剥製として残すような作業をしている。そうしたくなるほどには僕も傍観者として落ち込んでいる。

 ただし、チーズが元気な頃の話をすることの意義は、それだけではないような気もしている。もう少しマシな意味がどこかにあるような気がしている。そんなものが本当にあるかどうかを確かめるためにも書き進めてみたい。

 さて、まずはチーズのことを紹介しておきたい。誰かが飼っているネコのことなんて知りたくないと多くの人は思うだろうけれど、奇特な人はいるかもしれないし、僕自身のためになるし、こうやって書き連ねていくうちに、なにか気づくことがあるかもしれない。

 チーズは6歳のハチワレで、体重が3kg少々しかない小さいやせっぽちのネコだ。しっぽは短くて、手足が白くて、鼻と肉球はきれいなピンクで、キョトンとした顔をしている。妻はその顔の可愛さにやられて連れてきたようだ。

 さきほども書いたけれど、食が細くて、元気なときでもなかなかご飯を食べない。チュールくらいは嬉しそうに食べるけれど、それほど量は食べない。唯一、猫草は嬉しそうに食べる。もう一匹のタックンも猫草が好きだから、このときだけは奪い合いになる。だから、僕が猫草を摘んで帰ったときは、なぜわかるのかは不明だけれど、玄関から出そうになって二匹で待っている。僕はそれをどかしてうまく家に入る。草が好きだからか、ベランダにあるオリーブの木の葉も、どこまで飲み込んでいるかはわからないけれど、バリバリと引きちぎる。

 ただ、猫草を食べても食べなくてもだけど、しょっちゅう吐く。だいたい、ドライフードが膨らみすぎてしまったときに吐くようだ。胃が小さいのかもしれない。それが少々心配だったけれど、今や心臓や肺が大問題なので、それは杞憂だったということになる。

 警戒心が強くて来客があっても絶対に出て来ない。宅急便がインターフォンを鳴らすと「ウ~」と唸る。

 声も独特で、可愛い顔なのに「ウギャ」という感じの濁点が多めのダミ声で、声が大きい。ゴロゴロするときの音も大きくて、チーズが隠れていても、ゴロゴロする音でどこにいるかわかるほどだ。

 本ニャンは公表してほしくないかもしれないけれど、チーズは脱腸気味だ。時々お尻をシーツにこすりつけ、赤い筋を書く。やめてほしい。

 チーズはタックンと仲がいい。先にチーズが来て、一匹じゃ寂しいかと思ってタックンを2ヶ月後くらいに迎え入れた。タックンのほうが大きいので、じゃれながら喧嘩になっていくとチーズが折れるかたちにはなるが、基本的に、チーズのほうが先住猫としての威厳があるように思える。年齢は逆だけど、力がある弟を、「仕方ないなあ」と見守る姉のような感じだ。

 だから寒いときはくっついて丸くなっているし、互いに毛づくろいもしている。タックンがチーズの頭を押さえてペロペロ舐めるから、チーズの眉間のところはツバ臭いことが多い。

 チーズは人間が好きなネコだ。よく妻の顔にくっついて寝ているようだし、妻がいないときなどは僕の股の間で寝ることもある。僕は寝相が悪いので僕が寝たあとはどこかに行ってしまうようだが、妻の顔のところで寝ているときは、朝までそのままのこともよくあるようだ。

 人間が集まって話していると、そこがテレビの音などでうるさくない限り、必ず近くにいる。人間が食卓を囲んでいるときだけは不思議といないことが多いけれど、それ以外はだいたい近くにいる。僕がパソコン椅子からベッドに足を投げ出していると、二匹が奪い合うように膝に乗ってくる。チーズはベストな場所をタックンにとられて、その隙間に潜り込むように座っている。妻がソファーに横たわってテレビを観ているときも同様だ。

 二匹はだいたい一緒にいて、妻の観察によれば、最近はたいてい、午前中は僕のベッドに二匹でいて、午後は妻のベッドに二匹でいるようだ。

 あと、チーズは器用なネコだ。引き戸をすぐ開けられるようになったし、小さい頃はよくボールをドリブルしていた。紐のおもちゃで遊んでいても、タックンは捕獲しようとする感じだけど、チーズは手でうまく挟んでキャッチしようとする。チーズの手が人間みたいだったらいいのになあ、と思う。

 どうでもいいネコ自慢になってしまうけれど、チーズは仕草がかわいい。ベッドの上に手だけを出しておもちゃを攻撃してみたり、レンジフードの上に置いたダンボールから顔をのぞかせたりする。(レンジフードを踏み台にして天窓に登ってしまうと危ないのでダンボールで封鎖しているのだ。)パソコンを使っていると、たいてい僕でも妻でも邪魔をしにきて、キーボードの上に乗る。だから、謎の文字が入力されてしまう。それはそれで困るけれど、とてもかわいい。

 一人遊びも上手で、ネズミのおもちゃを咥えて、ウ~と唸りながら僕や妻のところに持ってきてくれる。偉いね~と褒めると満足そうにしている。妻が洗濯物を干して、2階のベランダから1階に空のカゴを持って下りるときは、そのなかに入る。妻はそれをネコエレベーターと呼んでいる。妻が洗濯物を畳んでいると、バスタオルに勝負を挑み、ケリケリする。

 ひとつひとつは、ネコならよくあることなのかもしれないが、全体として、チーズは控え目で仕草がやさしいのだ。あまり野性的じゃない、と言えばいいのだろうか。

 だから、妻が爪を切るときも協力的だし、妻に目やにを取ってもらうのも好きだ。印象深いのは、チーズと紐のおもちゃで遊んでいるときのことだ。すると、たいてい、体が大きいタックンが割り込んできて、おもちゃを奪ってしまう。そんなとき、チーズは不満そうに「フッ」と息を吐いて少し離れる。それはまさに、仕方ないなあ、と弟におもちゃを譲る姉の仕草だ。

 控えめだけど、決して運動神経は悪くない。以前飼っていたハナちゃんは生まれつき体が弱かったのであまりジャンプもできなかったが、チーズは体が小さいせいかそこそこ身軽だ。若い頃は吹き抜けの天窓まで上がることもあったし、今も虎視眈々と食器棚にジャンプして入ろうと狙っている。そして数日に一度は侵入を許してしまい、皿にはネコの毛がついている。チーズは体重が軽いので、階段の上り下りも軽やかだ。タックンだと、トントントンと音がするけれど、チーズの場合はトコントコンという音がする。調子が悪くなる直前、スケルトン階段の下から階段を下りるチーズを眺めていた一瞬を忘れたくない。まるで空を飛んでいるみたいだった。

 そして、一番のチーズの特徴は、よくしゃべるということだろう。ハチワレはよくしゃべるというけれど、チーズは本当によくしゃべる。啼く、ではなく、しゃべるのだ。チーズが前で待っているのでベランダに出る戸を開けてあげると、必ず、「ニャッ」と言いながら外に出る。明らかに僕に軽く声をかけている。チーズは脱腸気味なので時々お尻を拭いてあげると、「ニャー!」と一声だけ怒る。これは明らかに「やめてよ、もう」と怒っている。僕はあまりやらないけれど、妻が何か話しかけると、よく「ウニャウニャ」と相づちを打つ。また、チーズが何かを話しかけてきて、妻が「そうだね~」と相づちを打つこともよくあるそうだ。僕もよく目撃しているけれど、確かに会話をしているようにしか見えない。

 よくしゃべるからだろうか。チーズは頭がいいように感じる。特に印象的だったのは、僕がタックンを予防接種に連れていったときのことだ。妻によれば、チーズは妻の回りをグルグルと回り、僕とタックンが立ち去る方向に向かってニャーと啼いていたそうだ。それはまるで、「ママ、タックンが連れてかれた~!」と訴えているようだった、とのことだ。

妻とも意見が一致しているけれど、チーズは一言で言うと不思議なネコだ。不思議なほどに色んなことがわかっている。当然、ひとつひとつの仕草はネコなのだけど、すべてをつなげると、かなり人間味があるし、言葉が通じない分、しばしば人間より賢いのではないかと思わせるような存在だ。妻は妖精で天使だと言っている。

執着がなくて儚げで、控えめで優しい存在。この家にちょっと訪問してみました、という感じで数年間滞在してくれているような存在。それが僕にとってのチーズ像だ。

チーズの生命

チーズは病気の特性上、長くてもあと数ヶ月しか生きることはできない。状況はもっとひどいから、遅かれ早かれ、命が尽きようとしている、と考えた方がいいだろう。

だけど、チーズは今まで5年間、我が家にいた。そして今もいる。この生きてきて、そして今も生きているチーズとは一体何なのだろう。チーズが元気だった頃のことを現在形によって書くことで、そのことを僕は考えておきたい。今が、チーズのことを現在形で書き、考えることができる最後のチャンスかもしれない。

チーズの生命は二通りに捉えることができるだろう。チーズ自身にとってのチーズの生命と、僕たちにとってのチーズの生命だ。一人称の生命と二人称の生命と言ってもいい。

僕たちにとってのチーズの生命とは、多分、幸せの塊のようなものだ。そして、チーズとは、僕たちにその幸せを届けてくれる天使のような存在である。もう一匹のタックンも当然僕たちを幸せにしてくれている。けれど、彼はネコっぽいネコなので、勝手に自分自身が幸せになり、僕たちも勝手に幸せになっている、という感じがする。一方のチーズは、チーズがいることで僕たちが幸せになることを、チーズ自身が自覚していて、意図的に僕たちを幸せにしてくれているような感じがする。その意味で「幸せを届けてくれる」という表現がふさわしい。だから天使なのだ。

そして、僕たちも、その幸せの受け手としてふさわしい存在であると思いたい。僕も妻もチーズの具合が悪くなるまできちんと話し合ったことはなかったけれど、ともに、チーズが元気である限られた時間のなかで、その瞬間ごとの幸せを受け取ることに自覚的であろうとしていた。そうすることで、チーズが届けてくれるものを漏れなく受け取ろうとしていた。チーズが横で寝てくれている瞬間、チーズが挨拶してくれている瞬間、そんな瞬間ごとをかけがえのないものとして受け止めようとしていた。そして、僕たちはきちんと受け取ることができた、と信じたい。

チーズがいてくれていた5年間は我が家の黄金期と言っていいと思う。子供の病気など色々ありはしたが、家があって、そこに人間3人とネコ2匹の家族がいて、仕事にも不安はなくて、介護の問題もなく、物質的に充実していた。今後も別のかたちでの幸せはあるだろうけれど、この5年間は、中年の僕たちに典型的な人生の充実期だったのだろうと思う。チーズを失おうとしている今、これはチーズが運んできてくれた期間限定の幸せなのだろうなあ、と噛み締めている。僕たちは次のフェイズに進み、そこで、チーズ抜きでも別な形で幸せになれるということをチーズに見せてあげたい。

チーズは5年間、僕たちを見守り、応援してくれ、そして幸せを届けてくれた。それが少なくとも今までのところでのチーズの生命の僕たちにとっての意味のような気がする。

では、チーズの生命のチーズ自身にとっての意義とはどのようなものなのだろうか。

まず言えることとしては、チーズが僕たちに幸せを届けてくれているのと同様に、僕たちもチーズを幸せにしていると信じたい、ということがある。チーズの生命とはチーズ自身に幸せをもたらすものであって、その幸せを僕たちが手助けできていればいいなあ、と僕は願う。

だが、チーズの生命は、チーズ自身にしか捉えることはできない。それは当たり前のことなのだけど、加えて優しく控えめだという彼女特有の性格もある。彼女の病気は心筋症という先天性のものだ。だからチーズは自ら寿命を決めているとも言える。多少看病の仕方に不手際があって、僕たちが彼女の寿命を縮めてしまったということはあるかもしれない。強制給餌をもっと丁寧にすればよかったとか、もっと早く診察すればよかったとか、後悔はある。だけど、それは多少の誤差であって、おおむね、彼女は自らの生命のあり方も自らで選ぼうとしているように僕には見える。チーズはこんなところまで、僕たちに配慮してくれて、優しいのだ。彼女は、不手際を後悔している僕たちに、「関係ないよ。私が決めたことだから大丈夫だよ。」と言ってくれているような気がする。

そのような事情もあり、結局、チーズの生命とは何か、という問題はチーズがあえて自分自身だけで背負っている問題であり、彼女自身にしかわかりえないものである。そこにはいわゆる一人称特有の問題がある。

人間同士であれば、考察はここで終わるか、または哲学的な方向に進むだろう。だが、チーズはネコであり僕たちのペットであるとともに、僕たちにとっては天使のような、妖精のような存在だ。そんなチーズに対しては、もう少し語ることがあるような気がする。

まず、チーズはペットであり、まさに子供のような存在であり、僕たちが保護し、面倒をみてあげるべき存在だ。だから、チーズの生命とは何か、という問題については僕たちが答えを出してあげなければならない。それは生命の冒涜ではなく、僕たちとチーズはそのような関わり方しかできないのだ。

もしそうならば、僕たちは、チーズの生命を幸福で定義するしかないだろう。僕たちがチーズをどれだけ幸せにし、そしてチーズがどれだけ幸せそうにしているかでチーズ自身の生命の意義は決まる。僕たちはそうするしかないし、チーズはそうされるしかないのだ。これがひとつの答えである。

更に、チーズは単なるペットであるだけでなく天使で妖精でもある。彼女は単なる動物ではなく、僕たちにとって彼女は僕たちに幸せを届けてくれる存在であり、幸せの使徒のような存在だ。それならば僕たちは彼女をそのように処遇しなければならない。

幸せの使徒としてのチーズを信じるならば、僕たちはどこまでも、チーズ自身にとってのチーズの生命とは、幸せの使徒としての生命であると信じなければならない。それならば、幸せの使徒たるチーズの生命を輝かせるのは、やはり幸せによってであるはずだ。チーズのおかげで僕たちが幸せになり、その幸せをチーズに感謝し、その幸せをチーズに返すことによってこそ、幸せの使徒であるチーズ自身の生命はより輝くはずだ。

つまり、チーズがペットであるにせよ、幸せの使徒であるにせよ、いずれにせよ、チーズにとってのチーズ自身の生命とは、幸福により定義されるものなのである。そして、その幸福とは、決して漠然としたものではなく、僕たち家族が具体的に把握し、判断することができるものなのである。

明らかにチーズは僕たちに幸せを届けてくれている。病院の酸素室で息苦しくしているだろう今だってそうだ。彼女がいるからこそ、僕はこの幸せな5年間を噛みしめることができている。この文章は、チーズに対する感謝の手紙だ。この気持ちが彼女に届くといいなあ、と僕は願っている。そう願うこと自体が僕を幸せにしてくれる。

そして、同じように、チーズに幸せが届いていればいいなあ、と僕は願う。僕たちがしたことによりチーズが幸せになっていて、そして僕たちに感謝してくれていて、その感謝の表現こそがチーズが僕たちに幸せを届けるということだといいなあ、と僕は願う。

つまり、僕の願いは、僕たちとチーズの間で幸せの循環が成立している、ということである。お互いに、幸せにしてくれたことに感謝し、互いを幸せにしようとするという、まさにその営みこそが、幸せである、という意味での幸せの循環である。

つまり、チーズが幸せの使徒であると考えるならば、僕たちもチーズにとっての幸せの使徒にならなければならないということである。そして、ある程度まではそれを成し遂げているということである。

これは根拠のない単なる願いだけど、そう的外れなものではないと思う。僕たち家族はそのような関係を築けていると信じたい。そして僕自身は、幸せの使徒として、もっと幸せを感じ、もっと感謝し、もっと幸せを届けられるよう成長したい。そうでないとチーズに不釣り合いだ。チーズに笑われてしまう。