※15000字くらいあります。退行催眠とか気功とか怪しいことも触れてます。

1 まとまっていない

僕は自分自身がうまく生きることができていないと感じている。

僕は自分の人生に色々不満があるのだ。仕事が嫌だとか、やりたいことに集中できてないとか、面白い人に出会えないとか、時間が足りないとか。

では、具体的に僕はどのような生き方を望んでいるのだろうか。あらためてよく考えてみると、僕はイーロン・マスクのように金持ちになりたい訳でもないし、自分の会社を大きくしたい訳でもない。中国皇帝やアメリカ大統領になって大きな国を支配したい訳でもない。ハーレムで美女がうじゃうじゃ、というのはちょっと憧れるけれど、人生をかけてそれをしたい訳でもない。ジャニーズに入れるようなイケメンになるのもいいけれど、それだけじゃつまらない。

僕が望む生き方としてまず思いつくのは、あえて言うならば、芸術家のような生き方だ。それも、絵を描くこと自体が喜びで、その絵を誰かが買ってくれることできちんと生活が成り立っていて、絵を描くことによって周囲の人とつながっているような芸術家の生き方だ。芸術家が芸術家としてきちんと生きることができているような生き方と言ってもいい。僕はそういう生き方が羨ましい。ただし、より正確には、僕が目指すのは、芸術家ではなく哲学者である。僕が思い浮かべるのは大学の哲学科の先生というよりは、古代ギリシアの哲学者のような感じなので、芸術家という表現を用いている。

さて、なぜ望ましい生き方のことなど考えたのかというと、ふと、宝くじが当たるようなことがあって、そのお金で哲学ができたら幸せなのかなあ、なんて妄想したからだ。だけど、よく考えてみると、それは悪くはないけれど、芸術家のような生き方に比べれば、ベストではない。うまく言えないけれど、宝くじの当せん金で哲学をするような生き方は、「まとまっていない」と感じるのだ。

では、どうすれば「まとまっている」ことになるのだろうか。この文章では、今のところこんな漠然とした言葉でしか表現できない問題をもう少しうまく表現し、そしてその当面の答えを出すことを目指してみたい。

2 内と外の問題

では、「まとまっている」のことを考えるために、少し遠いところから始めたい。まずは、哲学とは関係ない僕の仕事の話である。

僕は、アラフィフのサラリーマンで、年功序列的に管理職のような仕事もするようになっている。そこで重要となるのは、部下との付き合い方である。人間相手というのは、どうしても複雑で難しい問題となってしまう。

そこで僕はこの問題を少しでも単純に捉えたいと思い、こっそりと、ひとつのモノサシを導入している。それは、「この人は、一緒に働きたいと思える人か、そう思えない人か。」というモノサシである。

もし一緒に働きたいと思えるならば、多少の欠点は目をつぶって、なるべくポジティブに捉える。なるべく長所を見るようにして、短所も個性だと思うようにする。つまりその人を否定しない。一方で、ある一線を越えてしまって、この人は同じ組織にいるべきではない、と判断したならば、その人のことをとことん、ネガティブに捉える。後者に該当する人は割合的にはほぼゼロだけど、その人が信頼を失うようなことを繰り返したり、人間性を疑うようなことをしたりして、ある一線を越えてしまったならば、僕は冷徹にその人を組織から排除すべく全力を尽くす。

そのように割り切ることで、「あの人もいいところがある。」「悪い人でない。」「家族もいるのにかわいそう。」などと考え、判断に迷うことはなくなる。排除すべき人を明確にすることで、そうではない人を迷わずポジティブに捉えることができるようになる。それがモノサシの効用である。

さて、なぜ、こんな話をしたのかというと、僕のこの捉え方は「(組織の)内と外の問題」に着目した把握の仕方であると言えるからだ。内と外とは、つまり、組織の内側の人だと認める限りはとことんポジティブに捉えるが、一旦、組織内にいるべきではない外側の人だと判断したならば、とことんネガティブに捉えるということである。僕はそのようにして部下の管理という複雑な問題を単純化していることになる。

同様に、僕の人生の問題も「内と外の問題」として、単純化して捉えることができるのではないだろうか。僕は、僕の人生がうまく「まとまっていない」と感じる。だから僕は、「うまく生きることができていない」と感じる。それならば、僕の人生を内と外に分けて単純化して捉えることが、「まとまって」捉えることに役立つのではないだろうか。

これが僕が最近思いついたアイディアである。僕は、僕の人生を内側からうまくまとめることで、うまく生きることができるのではないだろうか。そんなアイディアを思いついたから、このような文章を書いて、そのアイディアを検証してみることにしたのだ。

3 芸術家の生き方

と書いても、これだけでは僕のアイディアにピンと来ないだろうから、きちんと説明したい。

僕が憧れる芸術家の生き方を考えてみよう。彼の人生の内側には芸術しかない。彼にとっては、芸術こそが生きる喜びであり、芸術こそが生活の手段であり、芸術こそが生きる世界そのものである。彼の人生は芸術で満たされており、そこにその他の夾雑物が入り込む余地はない。彼の人生は芸術で統合されており、だから彼には迷いなどなく、幸せである。理想的な芸術家というものを、僕はそのように考えている。

僕の考えに基づくなら、もし、芸術家として満足していた人が、急に権力欲も持ってしまったら、彼は不幸になるだろう。なぜなら、彼は、どんなに素晴らしい絵を書いても、権力を持つことはできないし、彼が権力を得るために政治活動をしていたら、その間は絵を描くこともできなくなってしまうからだ。彼の人生は芸術家の人生と政治家の人生に引き裂かれてしまうことになる。これこそが人生の不幸である。

もっと他に取り上げるべき人生の不幸があると考える方もいるだろう。確かに、芸術家と政治家が両立しないという不幸よりも、身近な人がいなくなるという不幸や、祖国が戦争になるという不幸や、自分自身が認知症になり絵を描けなくなることのほうが、より重大な問題であるように思える。

だが、身近な人がいなくなっても、戦争になっても、認知症になっても、芸術に没頭できたなら、芸術家としての彼は幸せだろう。外国の軍隊に占領され、家族が殺されたとしても、もしアトリエに閉じこもり、思い通りに絵を描くことさえできたなら、彼は幸せなのである。周囲の人はそれを狂気と呼ぶかもしれないけれど、その周囲の声は彼の心の内側に届くことはない。ここには、内と外の明確な境界がある。彼の内側には芸術しかなく、彼の人生は世間の荒波など関係なく、芸術で統合されている。

特に認知症の例は別の観点からも示唆があるように思う。芸術家にとっては、芸術活動自体に価値があり、その結果としての作品には価値がない。芸術活動こそが人生の内側にあり、作品は芸術家の人生の外にあるのである。だから、たとえ認知症になって客観的には質が高い作品を残せなくなっても、芸術に没頭できればそれでいいのである。

このような意見に世の芸術家が同意するどうかはわからないけれど、芸術とは哲学の比喩であり、この芸術家とはつまり僕が目指す哲学者のことだから、それは問題とならない。僕が考える芸術家、つまり哲学者とは、そのようなものなのである。実際、僕自身は、今書いているこの文章は哲学的な文章であると考えているけれど、このような文章を書くことに価値はあっても、結果として書かれた文章にはたいした価値がないと思っている。

(ただし、僕にとっては、読まれるという期待も含めて書くということだから、少なくとも、書いている瞬間は、誰かが僕の文章に価値を認め、読んでほしいとは願っている。ただし、書いた後に、それを実際に読んでもらうことには、たいしてこだわりがない。このことについては、更に考えるべきことがありそうな気がする。)

4 拒否の道と受容の道

 以上のとおり、僕の人生をうまく生きることができていない、という問題に対する僕の処方箋は「内側からの人生の統合」であることを確認した。

僕の主訴は、僕の人生が引き裂かれてしまっている、というものである。持って回った表現ではなく率直に言うならば、もっと哲学をする時間がほしいけれど、仕事があるし、哲学だけじゃなくて、旅行のような趣味の時間もほしい。家族のことだって大事だ。あちらを立てればこちらがたたずで困ってしまう、という問題である。

当初は宝くじが当たればいい、と思っていた。だが、確かに宝くじが当たれば、仕事の問題は解決するけれど、やはり、哲学と家族と趣味は僕の中で競合したままなので、どれかを選ぶという困難は残ってしまう。

芸術家の例を考えるならば、僕には狂気が足りないのかもしれない。哲学だけに没頭したり、仕事だけに没頭したり、趣味だけに没頭したり、といったことのうちどれかができれば、僕は引き裂かれず、幸せになれるのかもしれない。だけど、僕にはできない。僕の中にあるもののうち、もっとも狂気に近いのは、高校生の頃に思いついた哲学的問題への執着だろう。だけど、だからといって、僕はそれだけで生きている訳ではない。家にこもって哲学をするだけではなく、時々は、素敵な景色のリゾートでのんびりして、美味しいものを食べ、できれば、かわいい女の子とプールサイドでいちゃいちゃしたい。数日すれば、やがて哲学的な問題についても考えたくなるだろうけれど、当面のバカンスの喜びにおいては、哲学なんて全く関係ない。僕はそういう凡人である。

では、狂気が足りない凡人の僕の人生は引き裂かれたままで、真の意味で幸せになることはできないのだろうか。ここで幸せになれないなどという言葉を使うのは不適切かもしれない。たしかに僕はお金に困っていないし、家族もいて、おまけにネコもいる。哲学をやる才能にもそこそこ恵まれていると思う。これで不幸と言ったらバチが当たるかもしれない。けれど、僕の人生が引き裂かれたままでは、真の意味では幸せになることはできないのではないだろうか、と問う資格はあるはずである。

ここまで、僕が思いついた人生の統合の方策は、狂気による統合と呼ぶべきものであった。狂気とはつまり、それ以外のものに目を向けなくなるからこそ狂気である。普通の人なら、芸術以外のこともきちんと目配りするはずなのに、その普通のことができないから、その芸術家は狂人として幸せなのである。つまり狂気による人生の統合とは、特定のものごと以外のことへの目配りの「拒否」による統合だと言ってもいいだろう。創作活動に没頭して恋人のことをほったらかしにしている芸術家は「恋人のことも考えたらどうですか。」とアドバイスされても「恋人なんてどうでもいい。」と躊躇なく拒否できるから幸せなのである。だから、もし、恋人をぞんざいに扱っていることへの呵責から、恋人を拒否しきることができないならば、彼は幸せではない、ということになる。哲学にせよ、仕事にせよ、趣味にせよ、それだけに注力し、それ以外を拒否することができれば、その特定の何かにより人生は統合され、その人は幸せになれる。これが狂気による統合であり、つまり、拒否による統合である。

だが、他にも、もう少しましな人生の統合の方法があるのではないだろうか。なんというか、狂気による幸せへの道だけしかないというのは狭すぎて、不自然すぎるのではないか、という直感が僕にはある。

そこで僕が仮定するのは、狂気が拒否による幸せの道だとするならば、ちょうど反対側に、受容による幸せの道がある、というものである。今のところ、この直感には根拠はない。ただ、狂気による幸せの道への違和感が僕にそう思わせるだけである。

5 ストーリー

ここで思い浮かべるべきはやはり「仕事」だろう。僕の人生が引き裂かれ、統合されていないと感じている最大の要因は仕事である。仕事以外のもの、つまり哲学や趣味や家族については、たまには面倒なことはあっても実際にはたいした問題にはならない。確かに、宝くじに当たるというような思考実験をすれば、仕事以外のもの同士にも亀裂を入れることもできるけれど、現実には、そのような問題は生じず、問題となるのはいつも、仕事とそれ以外との間での不整合である。そのようなものである仕事を僕の人生の内側に整合的に位置づけることさえできれば、事態は大きく改善するに違いない。

世の中には仕事とそれ以外のことをうまく整合させて生きている人も多いだろう。仕事自体が趣味であり、世界そのものである、という人も少数はいるだろうが、それでは先程の狂気の芸術家の話になってしまう。僕がここで取り上げたいのは、そこまでいかなくても、うまく仕事を受け入れ、自分の人生の中に整合的に位置づけることができている人のことである。大多数とは言わないけれど、一定の割合の人がそのようにできているのではないだろうか。だけど残念ながら、僕はそうではない。その違いをどのように捉えたらいいのだろうか。

うまく仕事と折り合いをつけることができている人は、仕事とそれ以外のもの(趣味や家族など)を統合するストーリーを持っているように見える。「仕事をして稼いでいるからこそ、趣味にお金を費やしたり、家族を養ったりできる。」というストーリーや、「仕事を通じて人と出会うことができ、それが趣味や人間関係の広がりにつながる。」といったストーリーである。そのようなストーリーを持ち、それを信じることができている人は、きっと、仕事のせいで趣味の時間がない、といった不満はかなり軽減されるだろう。

何かしら、仕事とその他のことをうまくひとつのストーリーで結びつけ、僕の人生をそのストーリーで統合することができれば、僕の人生は引き裂かれることはなく、僕は幸せになることができるのは確かだろう。それは、世間で広く行われていることであり、選ばれたごく一部の人だけができるようなものではない。これは、採用できるならば最優先で採用するべき対応策だろう。

だけど僕自身は、哲学でこじらせてしまったからか、世間で広く言われているようなストーリー、例えば、仕事があるおかげで趣味にお金を費やせる、というようなストーリーだけでは満足できない。僕には、もう少し手が込んだストーリーが必要となりそうだ。どんなストーリーがあるか、考えてみたい。

6 自由意志による選択、自然科学的な決定

考えてみて、僕自身を説得できるかどうかはともかくとして、かなり説得力があるストーリーを思いついた。それは、「自由意志による選択」とでも言うべきストーリーである。「お前は自由意志でその仕事するという選択をしたのだから、それを受け入れるしかないだろう。」というストーリーである。考えてみれば、僕が哲学をするのも、海外旅行をするのも、家族のためにケーキを買って帰るのも、そして、この仕事をしているのも、それはすべて僕自身の自由意志による選択の結果である。このストーリーに基づくならば、僕の人生はすべて、自由意志による選択というかたちで統合され、僕はその人生を整合的に受け入れることができることになる。

ブラック企業でサービス残業続きでも、もし嫌なら辞めればいいのに、あえてそこに勤め続けているということは、自由意志でそれを選択しているということであり、つまりそれは、自由意志により自分の人生を統合して生きることができているということであり、つまり幸せなのである。このようなアイディアは、悪く言うならば、自己責任論の一種とも言えるものであり、世間では広くはびこっている考え方のひとつであるように思う。

または、「自由意志による選択論」とは対極にある「自然科学的決定論」でも同程度に説得力があるストーリーを描くことはできるだろう。

これはつまり、僕が仕事をするということは、すでに自然科学と因果律により決定していたのである、という考えである。もう少し単純な行動、例えば僕は今、鼻の頭が痒くて掻いたけれど、これを例としてみよう。この場合、僕が自らの自由意志に基づき掻いた、とも言えるけれど、痒みを脳が検知して、脳が鼻の頭を掻くように指示した、とも言える。僕の思考とは脳の中での化学的な反応により生じていると考えるならば、そこに自由意志など介在させる必要はなく、自然科学と因果律だけによって僕の行動のすべてを説明することができるはずである。だから、僕が哲学のことを考えて文章を書くことや、出勤して仕事をするということも、すべて自然科学と因果律だけで説明がつく、ということになる。これが、(一般的な言い方かどうかは知らないけれど)「自然科学的決定論」である。これも、世間で広く受け入れられている考え方だと思う。

だけど、僕は残念ながら、哲学にかぶれてしまったから、そういう口当たりがいいアイディアを簡単に信じ込むことはできない。例えば、この両極端の二つのアイディアを両方並べることで、簡単にこれらのアイディアに含まれる問題を提示することができるだろう。自由意志による選択論に基づくならば、自然科学と因果律をどう処理するのか、また、自然科学的決定論に基づくならば自由意志をどう処理するのか、という問題である。いずれかの問題を解決し、そのアイディアの正当性を立証することはできるかもしれないが、そのためには哲学的な議論を尽くす必要があり、その過程で、それらのアイディアの口当たりの良さという長所は消え去ってしまうはずである。いずれにせよ僕は、より深く考えなければならない。

7 今を生きる

ここまで僕は「自由意志による選択論」と「自然科学的決定論」という二つの道筋を提示し、いずれも一見口当たりはいいけれど、実は更に哲学的に議論を尽くすべき課題があるということを指摘した。

ここからは、このうち「自由意志による選択論」のほうをベースに、議論を掘り下げてみたい。なぜなら、僕は人生の問題を「内と外の問題」として捉えることを目指しているけれど、「自然科学的決定論」とは、いわば、自分の心の内側を無視する議論だからだ。「自然科学的決定論」を出発地点にしてしまっては、うまく「内と外の問題」を描くことができない。

一方の「自由意志による選択論」のほうも、いわばすべてを自分の心の内側の問題に帰する議論だと言えるけれど、よほどの独我論者でない限り、自分の心の外側に世界が広がっていることまでは否定しないだろうから、「内と外の問題」という問題設定と相性はよいはずである。

さて、「自由意志による選択論」に基づくならば僕は、人生において自由意志に基づく選択をしているはずであり、確かにそのとおりである。そして、自由意志に基づいて選んだものなのだから、その選んだものを受け入れるべきだ、というアイディアには一定の説得力がある。

だけど、自由意志を無化するような究極的な状況を想像することで、その説得力は消え去ってしまうだろう。先ほど僕は、ブラック企業のサービス残業を例としたけれど、それでも自己責任論を持ち出すことができると考えるならば、更に厳しい状況、例えばアウシュビッツのユダヤ人や、激しいいじめを受けている小学生を想像してみればいいだろう。彼らには、どこにも自由意志による選択の余地などない。

僕ならば末期的な病気により、ベッドから動けず、治癒も見込めず、痛みに苦しんでいる状況を想像する。これは他の例に比べ僕にとってそれほど実生活からかけ離れた想定ではない。なぜならば、もう7年前くらいになるけれど、僕は胃がんになり手術をした後、ICUに1日だけ入って、こんな思いをしたからだ。僕はその日のことを忘れることができない。あれが死ぬまで続いたらどうなるだろう、と考えると怖くなる。あれは、自由意志による選択など無化された状況だと言っていいと思う。

そのような厳しい状況でも人生をうまく生きるためにはどうすればいいのだろうか。究極的な状況において通用するやり方こそが、日常においても用いるべき方策となるはずだから、そのようなことに思いを馳せることは無駄ではないだろう。

そこで着目するべきは「今」である。やがて死に至る病のために苦しむことがわかっていても、または、数分後にはガス室送りになることがわかっていても、または、明日学校にいけば苛烈ないじめに会うことがわかっていても、「今」だけは、「今」のことについて考えるくらいの余裕はあるはずである。だからこそ僕は、人生をうまく生きるためにはどうすればいいのだろう、などということを考えているのである。どんな厳しい状況でも、人生をうまく生きたいと望むならば、そのように考えることができている「今」に着目するべきである。

これはきっとデカルトが「我思う故に我あり」と言っていたこととほぼ同じことである。どんな状況でも今において考えることができていることを否定することはできない。たとえどのような状況であっても、僕は「今」を経路として、「うまく生きる人生」にアクセスすることができるはずなのである。

そして僕は、ストーリーにより人生を統合することで、人生を内側からうまく生きることができると考えている。その最小のストーリーとは、この「今」というストーリーなのではないだろうか。「今を内側から生きる」というストーリーに基づくことで、僕は僕の人生を内側から統合し、僕は人生を引き裂かれることなく、うまく生きることができるのではないだろうか。

考えてみれば、僕が病気で死ぬとか、ガス室送りになるとか、明日学校でいじめられるといったことは、やがて起こることではあるけれど、まだ起こっていない未来の出来事であり、よって僕の外にあるものごとである。また、病気の痛みで苦しんだこととか、アウシュビッツに灼熱の中を列車で連れてこられたこととか、昨日も学校でいじめられたといったことは、すでに起こった過去のことであり、よって、やはり僕の外にあるものごとである。僕の内側にあるのは、わずかな時間かもしれないけれど、人生をいかに生きるべきか、などといったことを考えることができる、この今という瞬間だけである。あとはすべて、未来か過去のことであり、要は僕の外のことである。

そして、僕は、管理職が組織の内部にいるべきと判断した部下だけを大事にするように、僕の内側にある、この今の瞬間のこの思考だけを大事にするべきなのである。それが、自由意志により「今」を選択するということであり、どんな状況であっても可能な、唯一の自由意志の発揮なのである。そして、それが「今を内側から生きる」という最小の、最も汎用性の高いストーリーを生きるということなのである。

8 一と二

これはかなりいい答えだと思う。だけど、いい答えすぎて、僕自身には不釣り合いすぎるとも言える。僕自身、では、この答えを受けて、具体的にどうすればいいのかがよくわからない。

僕の人生の内側を、「今」という瞬間だけに最小化することにより、病気やアウシュビッツやいじめといった問題を外に追放することに成功はしたけれど、では、一瞬だけという最小の内側において僕は具体的に何をできるというのだろうか。

僕はこうして文章で書いているのだから、その具体的な何かを言語化できなければならない。だけど具体的に言語化するためには、一瞬よりも大きい場所が必要である。なぜなら、何かを言葉で描写するということは、その描写に対応する反実仮想をも立ち上げるということだからである。例えば「ネコがベッドで丸くなっている」という言葉が有意味なものとなるためには、反実仮想としての「ネコがベッドで丸くなっていない」という言葉も有意味に成立していなければならない。両者が成立し、両者を対比できるからこそ「ネコがベッドで丸くなっている」と「ネコがベッドで丸くなっていない」のうちの、「ネコがベッドで丸くなっている」のほうである、ということを表現できるのである。つまり、言語が成立するためには、少なくとも「二」が必要である、ということになる。だが、「今」は一瞬であり、そこには「一」が成立する余地しかない。言語で捉えるためには、一瞬は短すぎるのである。

本当ならば、僕は、「今を肯定する」ということこそが、「今を内側からうまく生きる」ための秘訣だと言いたい。だけど、「今を肯定する」と言ってしまったとたん、そこには「今を否定する」が立ち上がってしまい、一瞬の今には収まりきらなくなる。その証拠に、「今を肯定する」ということが具体的にどういうことなのか、僕にはうまく説明できない。うまく説明できてしまったら言語が成立してしまい、言語の「二」が今の「一」を溢れ出てしまうからである。

9 遠い過去と遠い未来

そこから哲学の最も面白いところが始まるとも言えるけれど、僕がここでやろうとしているのは哲学を掘り下げることではなく、僕がうまく生きる道筋を探すことだから、多少、当面の現実に折り合いをつける必要があるだろう。そのためには、慎重に今の「一」を拡大し、言語の「二」が収まるようなスペースを確保しなければならない。

そうするためには、ただ「今」という瞬間だけに注目するのではなく、最小限は過去と未来にも目を向ける必要があるだろう。なぜなら、今を今としてただ肯定することよりも、過去を過去としてただ肯定することや、未来を未来としてただ肯定することのほうが簡単だからだ。今を今としてただ肯定するというのは修行を経た仙人のような人にしかできないと思えるのに対して、過去を過去としてただ肯定することや、未来を未来としてただ肯定することは、多くの人が日常的に行っていることである。(なお、ここでの「ただ肯定する」とは、今や過去や未来の具体的な内容に着目するのではなく、ただ、今海まであり、過去が過去であり、未来が未来であるということだけをもって、その今や過去や未来をただ肯定するということを指している。)

今を今としてただ肯定するとはどういうことなのか、僕にはよくわからない。例えば、今、大学受験に合格したならば、今をただ肯定することは容易であるように思えるけれど、よく考えてみれば、それはネットに受験番号が出ていたという過去の出来事を喜んでいるだけだと言える。または、未来の大学生活への期待から嬉しい気持ちを抱いているだけだとも言える。傍目から見てどんなに今、幸せそうな状況であっても、その当事者は、今を今としてただ肯定するなどということはしていない。

一方で、過去についてはそうではない。過去を過去としてただ肯定するということには明確な実例がある。過去を過去としてただ肯定するということが象徴的に示されるのは、例えば、はるか遠い過去を過去として懐かしむような状況である。たいていの過去は、それがたとえ忌まわしい過去であっても、やがて思い出として肯定的に受け止めることができるようになる。数十年前、僕が学生時代にやらかしてしまった失敗は、当時は、なかったことにしたいものだった。だけど、今ならば、あのときの失敗があったからこそ、今の僕があったとさえ思うことができる。このように思うとき、過去をその内容のいかんにかかわらず肯定しているという意味で、僕は、過去を過去としてただ肯定することができているように思える。その過去が今から遠く離れているほど、その過去を過去として肯定することが容易になるのである。

同様のことが、未来を未来として肯定する場合にも言えるだろう。直近の未来については、なかなか未来をそのまま肯定することは難しい。競馬場に行き、自分が買った馬券が当たるかどうか気になっているときに、数十分後の未来がどのような内容であってもただ肯定するという態度をとることは難しい。当然、自分が賭けた馬が一着になることが肯定すべき未来であり、そうでない未来は否定すべき未来である。だけど、もう50歳になる僕にとって、数十年後の未来はそうではない。いわば、そこに未来があるということだけで肯定したくなるような未来である。年寄りは若者に対して、若いというだけで素晴らしいことだと言いたくなるけれど、それは、その若者には、その内容はともかく、未来があるからだ。未来を未来として肯定するとはそのようなことである。その未来が今から遠く離れているほど、その未来を未来として肯定することが容易になるのである。

過去を過去として肯定するとは、はるか遠い昔を懐かしむようなものであり、未来を未来として肯定するとは、はるか遠い未来を夢見るようなものである。そんなにも遠い過去があるということ自体が喜ばしく、そして、そんなにも遠い未来があるということ自体が喜ばしい。そういう思いは、多くの人に想像がつくだろうし、実際、僕ぐらいの年齢となった人であれば、多くの人の共感が得られるように思う。

以上のことに同意いただけたなら、そのようなありがちな話を少々操作し、はるか遠い過去のことをより近い過去にも適用し、はるか遠い未来のことをより近い未来にも適用することもできるはずである。昨日のことであっても、それが過去としてそこにあるということだけをもって過去を肯定することはできるし、明日のことであっても、それが未来としてそこにあるということだけをもって未来を肯定することはできる。確かに、僕のような凡人では、それが壮絶ないじめを受けた昨日であったり、ガス室送りになる明日であれば、なかなかそのように肯定することはできないけれど、たいていの日常的な日々についてであれば、そのように肯定することは、心がけ一つで実際に可能であるように思える。

こうして、今から視線をずらし、未来と過去に目を向けることで、それ自体を「ただ肯定する」ことは容易に可能となるのである。

10 ワクワクと光

僕は、このようにして見出すことができる未来と過去の肯定性を、「ワクワク」と「光」という言葉に象徴させることとしたい。「ワクワク」のほうは簡単である。数十年後の未来であっても、明日であっても、未来を肯定するとは、未来にワクワクするということである。今やっている駄作朝ドラでいうならば「ちむどんどん」でもいいけれど、すぐに忘れ去られそうだから「ワクワク」にしておく。未来を未来として肯定するとは、その未来にワクワクするということである。買った馬券が当たっても当たらなくてもどちらでもいい。ただそのわからなさ、不確定さにワクワクするのである。ドラゴンボールで孫悟空は強敵との勝負の前、「オラ、ワクワクすっぞ~!」と言うけれど、このワクワクである。孫悟空は勝つか負けるか不確定な勝負に挑むことができるからワクワクするのである。未来の内容ではなく、その不確定さ自体に肯定性を見出す態度が「ワクワク」である。

一方の「光」は多少説明が必要だろう。この話は僕の私的で多少眉唾な経験に基づいている。僕は以前、退行催眠療法のようなものを受けたことがある。催眠により前世まで遡ることができる、との噂を聞き、興味本位で受けてみたのだ。カウンセラーの家に行き、催眠を受け、記憶?を遡っていくうちに、僕の感覚は小中学生まで遡っていった。だけど、僕は、小中学校の頃が嫌なものであったことまで思い出してしまい、そこで退行が止まってしまった。そこでカウンセラーが、子供の頃の僕に、光をあてて癒やしてあげましょう、と言ったのだ。ただ光を当てることをイメージすればいいらしいのでそのようにした。結局僕は、それ以上遡るのはいいです、と断って、僕の退行催眠は終了したけれど、なぜか、そのときにやった光を当てるという作業がずっと心に残っている。本当に僕は退行催眠に入ることができたのか、また、本当に過去にアクセスすることができたのか、といったことはよくわからないし、正直、かなり怪しいと思う。だけど、過去に光を当てるという作業だけは、そこに何らかの真実が含まれているように感じるのだ。

過去に光を当てるとは、つまり、過去の内容ではなく、その過去自体に肯定性を見出す態度であると言ってもいいだろう。どんなに楽しい過去でも、どんなに苦しい過去でも、過去は確定してそこにある。過去とは、その内容によって肯定されたり否定されたりするものではなく、そこに確定した過去があるということだけをもって、ただ肯定されるものなのである。その肯定を表現するのが、過去に光を当てるという行為なのである。

未来の不確定性を肯定するのが「ワクワク」であり、過去の確定性を肯定するのが「光」である。未来と過去の間にある今を生きる僕は、未来にワクワクし、過去に光を当てるようにして生きることで、ほぼ、今を内側から肯定的に生きることができていることになる。ワクワクと光とは、語りうる最小限の人生のストーリーにかなり近いと考えられる。

11 特異点

だが、未来と過去は今ではない。未来と過去をどれほど肯定しても、または、未来と過去をどれほど一般化し、具体的な内容から遠ざけたとしても、それは今という最小限の内側を肯定したことにはならない。

それでも僕は、少なくともある側面では、未来と過去を肯定することが、今を肯定することに直結すると言えると考えている。なぜなら、今とは、未来と過去が重なる地点のことである、という捉え方もできるからだ。今とは、未来と過去が重なる特異点のことであり、未来の不確定性と過去の確定性が重なる特異点である、という捉え方は、「今」のある一面を的確に把握できていると思う。

それならば、今をうまく生きるための方法は、未来と過去をうまく生きるための方法を応用すればいい。僕は、今にワクワクし、今に光を当てるように生きることで、今をうまく生きることができるはずなのである。今が持つ不確定性の側面に対しては僕はワクワクし、今が持つ確定性の側面に対しては僕はただ光を当てるようにして生きる。これが、今のところ思いつく、最良の人生のうまい生き方である。

12 厚み・気功

理論的には以上のようにまとめることができるけれど、そこには加えて実践面での難しさがある。一瞬でしかない今をうまく捉え、そこに未確定の未来の側面と、確定済みの過去の側面の両面を見出すということが技術的に難しいことは明らかだろう。

ここから実践面を考察するために念のため確認しておきたいが、この問題を解決するために、外部にある未来と過去を今に取り込むかたちで今を拡大することはできない。あくまで僕は、今という内側に未来と過去の両側面を見出そうとしているのであり、外在する未来と過去を内側に混入させようとしている訳ではないからである。

それならば、とるべきは、今を今として拡大するという道筋であり、いわば今に厚みを持たせるという方策となるだろう。

そこで実践的なヒントとなるのが気功である。以前から僕はヨガが好きだったけれど、最近、ちょっと気功&太極拳をかじってみている。哲学からは離れてしまうが、ここで、そのような話をしてみたい。眉唾なので話半分で聞いてもらいたい。

さて、ヨガでは呼吸を大事にする。吸気と呼気に意識を向け、体の中に気を巡らせる、なんていう捉え方もする。だけど、気功ではそうではないようだ。先日、初めて気功を体験したとき、ヨガっぽく、動きと呼吸を連動させていると、どうも息が続かなくて苦しくなってきた。そこで先生に聞いてみると、どうも呼吸はあまり気にしないほうがいいらしい。吸っているようで吐いていて、吐いているようで吸っている、という感じがいいようだ。また、興味深いことに、手の動きが、ヨガと気功では逆になる。体の前に出した手を左右に開いて閉じる動作を繰り返すとき、ヨガならば開くときに息を吸い、閉じるときに息を吐くことになると思う。手を開くにつれて肺が拡がると考えれば、これが自然だろう。だけど、気功では逆で、開くときに息を吐き、閉じるときに息を吸うらしい。きっとこれは、自然な動きとあえて逆の動きをすることで、吸っているようで吐いていて、吐いているようで吸っている、を体現しているのではないだろうか。

なぜこんな話をしたのかというと、僕は、ヨガにおける吸気を未来と結びつけ、そして呼気を過去に結びつけているからだ。別に、逆の組み合わせでもいいのだけど、大事なのは、呼吸と未来・過去の時間とを結びつけることができるというアイディアである。そこから、呼吸というかたちで未来と過去を重ね合わせることにより、今を描き出せるという話を導くことができる。これは先ほどのアイディア、つまり特異点としての今を未来と過去の重ね合わせとして捉え、そして今の肯定を、未来と過去の肯定に読み替えるというアイディアとつながっている。

一方で気功では、呼吸の呼気と吸気の違いをあいまいなものとし、呼吸と未来と過去の関係をあいまいにしてしまう。これはつまり、今を未来と過去の重ね合わせとして捉えるのではなく、今に厚みを持たせ、そのなかに渾然一体となった未来と過去を見出すことだと言ってもいいのではないだろうか。気功が実際にそのように考えているのかどうかは知らないけれど、僕にはそのようなことを体現しているようにしか思えない。

素人の僕が解釈した気功によれば、今は一瞬ではない。今には厚みがあり、その今において呼気と吸気が渾然一体となって行われている。今の厚みとは、気功における気、それ自体の厚みであると言ってもいいだろう。気は丹田に貯まるらしいけれど、その気は全身をめぐる。つまり、気には少なくとも体の幅だけの厚みがあることになる。達人は気を大きく練ることができるから、その気の範囲の中で重心移動やら何やらをうまくこなすことができる。それは、つまり自分の気の範囲のなかで対処できるということであり、または、今の範囲のなかで対処できるということである。

ここまでの文脈に基づくならば、気功とは、今に厚みを持たせるよう練り上げられるものだと言ってもいいだろう。(または、永井均的に言うならば、〈私〉に厚みを持たせるように練り上げられるものだと言ってもいいだろう。)

僕は今にワクワクして、そして今に光を当てる。これこそが気を練り上げるということであり、そして今に厚みを持たせるということなのではないだろうか。

これが当面の、気功の秘訣であり、そして、僕がうまく生きる方法だということにしておきたい。続きがありそうだけど。