※この文章は40000字くらいあります。現在、この文章の続きを書いてます。

1 世界は時間でできている

平井靖史の『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』(以下、『できている』)という本を読んだ。これはベルクソンを平井流に解釈した本で、どこまでがベルクソンのアイディアで、どこまでが平井のアイディアかはよくわからないけれど、唯一無二のアイディアがふんだんに盛り込まれているという点で、とても素晴らしい本だ。

※この文章のなかでは、ベルクソンの言葉を引用する箇所以外は、ベルクソンのアイディアも平井のアイディアもすべて平井のアイディアということにしておく。

また、それほど多くないページ数で、広大な領域に対して明確な答えを出し、更に、素人にもわかりやすく書いてあるという点でも、読者思いの素晴らしい本だと思う。

平井は『できている』を通じて、生命、意識、クオリア、知覚、記憶、時制、自由といった広範な領域を見事に捉えきっている。これは僕が興味を持っている事柄のかなりの部分をカバーしていると言ってもいい。

そして僕が素晴らしいと思うのは、平井は、MTS(マルチ時間スケール)という、ただひとつのアイディアによって、それらをすべて関連付けて、一筆書きのように描ききっているという点にある。これが正しいかどうかはわからないけれど、少なくとも、極めて美しいアイディアだと僕は思う。

※平井自身は、『できている』はMTSと運動記憶という2つのアイディアで書かれていると言うだろうけど、僕は、運動記憶はMTSに従属的なものとして扱うほうがわかりやすいと考えている。

2 MTSの概要

(1)自然主義的世界観

まず、簡単にMTSについて説明したい。『できている』の前半で平井はとてもわかりやすく説明しているので、そちらを読んでいただいたほうがいいのだけど、あえて僕なりに再構成して説明したい。

※ なぜ、素人による説明なんていう余計なことをするのかというと、僕が論じたいように組み換えた説明を行うことで、僕にとってのMTSの意義をより明確にしたいからである。だからこれは、説明の名を借りた主張である。だから、平井のMTSを正確に理解するためには、是非、この僕の文章ではなく、平井自身の文章をしっかりと読んでほしいと思う。

さて、はじめに、MTSの出発地点を確認しておくのがよいだろう。

この世界は自然科学の法則に沿って成立しており、そこには時間が流れ、様々な生命が存在している。ほとんどの人はそのことに同意するだろう。このような世界観のことを、とりあえず、自然主義的世界観と呼ぶことにしよう。この自然主義的世界観がMTSの出発地点である。

なお、一部の方は、現在の自然科学の成果を評価しておらず、このような世界観は受け入れないかもしれない。だが、もし、現在、人類に発見されている自然科学の法則ではなく、世界は、自然自体が持つ、何らかの法則に則って成立している、と考えるならば、それでかまわない。確かに平井はMTSの説明において、自然科学の成果を用いるけれど、現在の自然科学の誤りが将来判明したとしても、MTSで論じていることの基礎は揺らがない。

しかし、例えば、神様のような自然の外の存在が世界を動かしている、と考える方は、MTSの出発地点としての自然主義的世界観を共有できないかもしれない。その場合は、僕がもう一つの文章で行う、MTSの形而上学的な拡張のほうを読んでいただいたほうがいいかもしれない。

(2)MTSが解決する問題

さて、自然主義的世界観を受け入れる人々にとっては、自然主義的世界観を採用することで生じる多くの問題を解決するうえで、平井のMTSは極めて有効である。

自然主義的世界観を受け入れた場合に生じる問題とは、例えば以下のような問題である。

「現在はどこにあるのか。現在という瞬間に幅はあるのか。」

「意識とは何か。クオリアとは何か。」

「過去とは何か。記憶はどこにあるのか。」

「生命とは何か。」

これらはどれも、現在の自然科学の延長線上に位置づけられる、いわゆる自然主義では解決が困難な難問である。これらの問題を平井は、「拡張された自然主義」(p.272)と名付けた立場に立ち、MTSを用いて手品のように全て解決してしまうのである。

MTSの肝は、現在には幅があると捉えるというところにある。更に、時間は複層的であり、レイヤーごとに異なる幅の現在があると考えるところにある。

(平井はレイヤーという言葉をあまり使わないけれど、僕は語感として、レイヤー=層として用いる。)

最も基礎的なのが、物質レベルのレイヤーである。そこに、感覚レベルのレイヤーが重ねられ、更に体験レベルのレイヤーが重なり、最上位に人格レベルのレイヤーが位置づけられる。(p.56)このように、時間を、物質/感覚/体験/人格という4段階のレイヤーで描き、それぞれに幅(スケール)の異なる現在があると考えるから、MTS(マルチ時間スケール理論)である。

そのような舞台設定をしたうえで、平井は鮮やかな手付きで、先ほど列挙したような難問を次々と解決してしまうのである。

ア 現在はどこにあるのか。現在という瞬間に幅はあるのか。

雰囲気をつかむために、簡単に問題解決の様子を概観しよう。

まず「現在はどこにあるのか。現在という瞬間に幅はあるのか。」という問題から。

現在という瞬間はとらえどころがない。あるときは現在は高校生である、と言うこともあるし、また、あるときは、現在はラーメンを食べている、と言うこともできるし、また、あるときは、現在は赤色が見えている、と言うこともできる。現在という言葉は色々な解釈ができて、どれも正しく聞こえるし、どれも正しくなくも聞こえる。つきつめると、現在とは瞬間であり、現在に幅などないようにも思えてくる。だが現在に全く幅がないとするのも色々と不都合が生じる。

このような問題を、平井はMTSを使ってきれいに整理する。平井によれば、現在という瞬間の幅は、その直近上位のレイヤーに規定される。つまり、物質レベルの現在は、直近上位の感覚レイヤーに規定され、感覚として最も狭い幅で捉えることができる現在こそが物質レベルの現在という瞬間となる。だから、視覚であれば、人間が分別可能な0.02秒の幅こそが物質レベルでの現在の幅である。同様に、感覚レベルの現在は、直近上位の体験として最も狭い幅で捉えることができる現在というかたちで規定される。以下同様である。

こうして、現在という瞬間の幅は、揺らぎなく明確に捉えることができる。現在が揺らいでいるのではない。揺らいでいたのは、レイヤーごとに複数ある明確な現在を捉える視点の方だったのだ。

イ 意識とは何か。クオリアとは何か。

この話から、「意識とは何か。クオリアとは何か。」という問題の答えも導くことができる。

先ほど、現在という瞬間の幅を処理するにあたっては、下位のレイヤーにおける一定の時間の幅を、上位のレイヤーにおける点としての瞬間に凝縮するという作業をした。例えば、物質レベルでの0.02秒の幅という有意な時間を、感覚レベルでの点としての現在の瞬間に凝縮することにより、0.02秒は感覚としての現在である、と解釈することに成功した。

この凝縮こそがクオリアを生み出している、というのがMTSにおける答えである。0.02秒間における何兆サイクルもの光の波動という量を、赤い光の感覚という感覚質に変換することで、クオリアを生み出していると、MTSは考えるのである。凝縮による、量の質への変換である。

確かに、0.02秒の間に、物質世界において生じたはずの何兆サイクルもの光の波動は、感覚世界においては雲散霧消してしまう。つまり見かけ上は減算してしまう。一方で、感覚世界においては、物質世界にはなかったはずのクオリアが、なぜか生じてしまう。つまり、見かけ上は加算してしまう。この見かけ上の減算と加算をつなげ、物質レイヤーから感覚レイヤーへの移行にあたっては、量から質への変換が生じていると考えるのである。

そして、MTSは、この物質レイヤーから感覚レイヤーへの移行で行った、量の凝縮による質への変換を、感覚/体験/人格という上位レイヤー間でも行い、そこに意識を立ち上げる。

上位レイヤーへの移行時に行われる凝縮こそが意識やクオリアを生じさせる。それは単なる変換であり、決して無から有を生み出すような魔法ではない、というのがMTSの答えである。

ウ 過去とは何か。記憶はどこにあるのか。

ここまでは、物質/感覚という下位レイヤーの関係性を中心に見てきたが、体験/人格というより上位のレイヤーにおける関係のなかで、過去や記憶もうまく位置づけることができる。

まず平井は過去の記憶をうまく位置づけることの難しさについて論じる。過去の記憶は脳にあると普通は考えるけれど、現在の脳にあるのは過去の痕跡だけであり、そこにはありありとした感覚を伴う過去の記憶はない。更には、現在の脳にあるのは現在だけであり、そこには全く過去性がない。そのような問題である。

一方で、そのような困難にも関わらず、僕には、5年前に海外旅行に行き、ビーチでビールを飲んだという、ありありとした感覚を伴う記憶がある。夕暮れのビーチでビールを飲み、そのとき涼しい風が吹いていた、という、あの感覚が、現在の知覚ではなく、過去の記憶であると言えるのはなぜなのだろうか。現在の知覚と過去の記憶を見分けるものはなんなのだろうか。そもそも現在から、すでに消え去った過去を想起できるのはどういう仕組みによるのだろうか。

MTSによれば、それは、ビーチでビールを飲むという体験が位置づけられる体験レイヤーと、その上位の人格レイヤーの関係性で説明できる。

人格レイヤーとは、その人の人格における全体験を現在として捉え、全人生を一区切りの目盛りとするようなスケールのレイヤーである。5年前の海外旅行は、体験レイヤー上は過去だけど、人格レイヤーにおいては、現在の人生における体験であるという意味で現在だ。だから僕は、現在の人格レイヤーを通じて、すでに消え去った過去の体験にアクセスできる。僕の人格上は、5年前の海外旅行体験はいまだ現在であり、過去に過ぎ去っていない。

そして、想起と知覚の違いとは、比喩的に述べるならば、視覚と触覚の違いのようなものである。

視覚上、小さく赤信号が見えるなら、その赤信号は空間的に遠く離れている。触覚で手にキーボードが触れているならば、キーボードと僕の空間的な距離はゼロである。このようにして、用いる感覚機能の違いにより、人は空間的な距離を見分けることができる。

同様に、5年前のこととして海外のビーチを想起しているならば、それは時間的に5年分離れたできごとである。実際に海外のビーチの情景を(視覚、触覚等で)知覚しているならば、現在との時間的な距離はゼロである。想起と知覚とは機能上の違いがあるから、その機能の違いにより、人は時間的な距離を見分けることができる。

MTSによるならば、視覚も触覚も想起もいずれも、人格レイヤーから下位の体験レイヤーにアクセスする手段という点で共通だから、同列に捉えることが可能なのである。つまり、空間的な把握において視覚と触覚を使い分けるように、時間的な把握においては想起と知覚を使い分けているのである。このようにして、MTSは過去や記憶という難問を解決する。

※想起と知覚の問題に対する僕の説明は、『できている』での平井の説明とは大きく異なっている。平井は、時間の問題と空間の問題の違いを強調しており、このように類比的に捉えることには慎重である。だが平井は、両者の関係性も強調しており、このように接続して語ることも、ある一面では成立することを認めるかもしれない。

エ 生命とは何か。

そして、MTSは、最上位の人格レイヤーに着目することで、「生命とは何か。」という問題についても答えを導く。

MTSによれば、生命とは、最上位の人格レイヤーのことなのである。つまり、生命とは、物理レイヤー上は数十年という幅がある時間の上に離散的に位置づけられる感覚や体験を、人格レイヤー上の一つの人生というスケール内に統合することにより、それを一生の中のできごととして位置づけること自体を指す言葉なのである。(p.164、168)

だから、このMTSは生命の数だけある、ということになる。MTSは、MTS構造の内部で時間を多元化するだけでなく、MTSが複数あるという意味でも、時間を多元化しているのである。「宇宙全体に通用するような「一つの本当の流れ」というものは存在しない」(p,38)のである。

3 MTS理解の補助線

ここまで、僕が特に重要だと思う問題に答えるかたちで、MTSについて概観した。ここまで読んでいただくことで、なんとなくでも、MTSの魅力が伝わり、『できている』を読みたいと思っていただければ、とりあえずは僕の文章は成功したと言えるだろう。

ここからは、MTSの具体的な中身について、特にその構造と構造間の相互関係に着目して説明したい。なぜ構造に着目するのかというと、MTSの魅力は、この構造にこそ詰まっているからである。ひとつの構造のなかに、数多くの哲学的難問への解を描きこんでしまうというのは、ただものすごいことだと思う。

なお、ここから僕が試みるのは、平井とは異なるかたちでMTSを描写することである。なぜそのようなことをするのかというと、僕なりの描写を補助線とすることで、『できている』の理解を深める手助けになるのではないかと考えるからである。

確かに、副題に「ベルクソン時間哲学入門」とあるとおり、『できている』は入門書である。そのとおり、MTSが導入される前半部分はかなりわかりやすい。だが、MTSに加えて運動記憶が重要な役割を果たすようになる後半部分に入ると、僕にとっては難易度が高かった。運動記憶を導入し、MTSを用いて記憶、自由などの他の事柄を説明しようとすると、とたんに解らなくなってくるのである。

僕なりの理解にたどり着くためには、平井の議論を組み換え、若干手を加え、僕がわかりやすいかたちに加工する必要があった。その試行錯誤を参考までここに残しておきたいと思っている。

だから、ここからの僕の説明は、平井の考えとは異なっている点も多い。その違いはなるべくわかるように書いていきたいが、多分、徹底できないことはご了承いただきたい。

(1) 科学的知見と偶然性

最初に、僕特有のこだわりを、注意点として述べておきたい。それは科学的知見の取り扱いである。

平井は『できている』を通じて、科学的知見に基づく説明を多用する。自らの哲学的考察を科学的知見と整合的に論ずることにより、自説を補強し、自説の科学的意義を示す。僕はこれは『できている』の魅力だと考えている。

一方で、平井のMTSを「僕の」哲学に取り入れる上では、この点には注意が必要である。

なぜなら僕は、現代科学の成果に左右されない哲学を構築したいと考えているからである。僕にとっても、ある哲学的主張が科学的成果と整合していること自体は好ましいことだが、もしその主張が科学的成果にのみ支えられていたら、僕は、注意深く、その主張を留保しなければならないと考えている。

なぜなら、哲学的主張が科学的成果にのみ基礎づけられているということは、つまり、その主張が、偶然的に成立している事実にのみ支えられて成立していることになってしまうからである。万が一、偶然にも、この世界のあり方が変わり、ものごとの科学的性質が変化してしまったら破綻してしまうような主張は、哲学的主張としては不適切なのではないか、そのような思いが僕にはあるのだ。

当然、哲学的主張が科学的事実に反することはできない。人間が紫外線を認識できないことが科学的事実だとするならば、人間が紫外線を認識できると見做さなければ成立しないような哲学的主張をすることは誤りである。だが、人間には紫外線を認識できないことのみを論拠とし、もし人間が紫外線を認識できてしまったら破綻するような哲学的主張をすることも誤りだと僕は思うのである。

そのような観点から、僕は、平井のMTSのうち、偶然的な科学的成果にのみ支えられた主張がないかどうか注意深く観察することになる。

このこだわりは、同様のこだわりがない読者にとっては、単なるノイズでしかないのかもしれない。

(2) ボトムアップの説明

ア 4階層の説明

先ほど述べたとおり、MTSは物質/感覚/体験/人格という4段階のレイヤーで構成されている。レイヤーごとに異なる現在の幅(スケール)があると考えるから、MTSマルチ時間スケール理論なのである。

簡単に図示すると次のとおりである。

平井に倣って、ボトムアップで第0層から上に向かって説明するならば、出発地点となる第0層の物質レイヤーとは、とりあえずは素粒子レベルの物理学的な領域をイメージすればいいだろう。『できている』では可視光線の電磁波の例が多用されている。1秒間に何兆周期も繰り返される電磁波の波である。だから、第0層の物質レイヤーの現在とは、何兆分の1秒というごく僅かな幅しかないということになる。図の「0物質」の1単位は何兆分の1という程度の時間であると考えてほしい。

その上には、第1層として、感覚レイヤーがある。感覚レイヤーにおける現在とは、例えば、視覚であれば、0.02秒程度とされる。なぜなら、これ以下になると、視覚として独立して認識できなくなるからである。感覚を感覚として成立させるのに必要となる最低限の幅が、感覚レイヤーの幅である。およそ0.02秒が「1感覚」の1単位である。

なお、聴覚と視覚では成立のために必要な幅が異なるだろうし、嗅覚、味覚、触覚といった他の感覚機能とも異なるに違いない。だから、感覚レイヤーの0.02秒という幅は、およそ程度のサイズ感をイメージするためのざっくりした目安である。

この第0層から第1層への移行の際に、クオリアとも呼ばれる感覚の質が生じる。この移行により光が単なる電磁波ではなく、赤色の光として見えることになる。(平井はもう少し丁寧に赤色のノートが赤く見える仕組みを描写している。p.69)

なお、赤色の質(クオリア)は、魔法のように無から生じるのではない。何兆という物質の量をひとつの感覚に凝縮する際に、量が質に変換されるのである。

平井は凝縮という語を多用するが、より正確には、後半で登場する回転という語を使うべきだろう。物質レイヤーでは量が前景化し、質は後景に退いていたが、感覚レイヤーでは、質が前景化し、量は後景に退く。この量と質のポジションの入れ替えが回転である。

※ これを、入不二哲学のファンとしては、実在化(顕在化)と潜在化という語で表現したくなる。物質レイヤーでは、量が実在化(顕在化)し、質は潜在していたが、感覚レイヤーでは、質が実在化(顕在化)し、その代わりに量が潜在化する。

なお、0.02秒という視覚による体験の現在の幅の間に、例えば赤色光は8兆回の振幅があるらしい。だから、上の図では、3:1に描いているけれど、実際には数兆:1という桁の違いがあることに留意するべきである。

以上が、第0層から第1層までの説明である。

なお、微生物のような単純な生物の場合はここで高層化が終わる。

この図は、微生物の時間は、現在の感覚がすべてであることを示している。光に向かって動いたり、接触を感知して敵から逃げたり、といったような、ひとつの刺激に対するひとつの反応のみで人格が構成されている。微生物の人格というのもおかしいけれど、微生物というひとつの生物としての独立性という意味での第3層が、現在の感覚と一致するかたちで構成されている。

※ 平井の説明では、あえて第3層を重ねるような説明はないけれど、第3層を、生物として身体的に独立して成立している状況を描写するものと捉えるならば、このような描写のほうが適切だと思う。

次に、第1層の感覚レイヤーから、第2層の体験レイヤーへの移行について説明する。

第1層の代表例が、赤色光の感覚であったとするならば、第2層とは、赤信号に出会うという体験である。ただ、赤信号だとあまりにも人間的すぎ、文化の問題なども入ってきてしまうので、例えば、ライオンに出会う、といった体験のほうがいいかもしれない。ライオンを、単なる茶色の光の集合として見るのではなく、ライオンとして見るような状況である。

平井によれば、第2層のスケール感は、およそ0.5秒から3秒程度(p.102)ということになるようである。ライオンをライオンとして認識し、ライオンに出会うという体験として整理するのに必要な時間である。

0.02秒ごとの茶色の光の感覚を1つのライオン体験に凝縮することが、第1層から第2層への移行である。ここでも、先ほどと同様の量から質への変換、正確には回転が生じている。つまり多数の光刺激の量が潜在化し、その代わりに、ライオンとの出会いの体験という体験の質が実在化(顕在化)している。

なお、0.02秒程度の第1層の視覚を100個集めれば2秒となり、およそ第2層の体験の幅となると考えるならば、この移行は、およそ100:1というようなサイズ感となるだろう。

(平井は、階層1の現在の幅を2ミリ秒とし、階層2とのスケールギャップは 3桁分(数百から千)とする。(p.303)しかし、階層1の現在の幅は別の箇所では20ミリ秒とされている。)

先ほどの第2層が微生物の領域だとするならば、これは、魚のような比較的単純な脊椎動物の領域と言ってもいいだろう。(イルカやチンパンジーのような知能が高い動物だと、次の第3層まで行ってしまいそうなので。)

(ちょっと決めつけだけど)魚の高層化はここで終わる。

※ ここでも、平井と異なり、あえて第3層を重ねていることに留意。

そして、いよいよ、最終段階の、第2層の体験レイヤーから、第3層の人格レイヤーへの移行である。どの程度の知能を持った動物が、この第3層に移行できるかはともかくとして、少なくとも人間は、赤信号に出会ったり、ライオンに出会ったりといった、現在の体験だけではなく、過去の体験の記憶や、未来の体験の記憶の予測に基づき生きていることは確かだろう。人間は、そのよう複数の体験を総合的に理解し、それらをすべて現在において統合して生きることができる。そのことを表現しているのが第3層の人格レイヤーである。

だから、人格レイヤーにおける現在とは、この人生における経験すべてのことであり、過去に起こったすべての出来事と、未来に起きるすべての出来事を含んでいる。

体験レイヤーにおけるスケールが、約2秒とするならば、数十年に及ぶ人格レイヤーは、何億もの体験を含むものとなるだろう。これは、平井が第2層と第3層のスケールギャップは、8から10桁としている(p.303)こととも一致する。

そして、何億の体験をひとつの人生に凝縮することで、ここでも質が生じる。量としての体験は後景化して潜在し、その代わりに、高度な意識としての質が前景化して顕在化する。第1層で留まる微生物や第2層で留まる魚にも何らかの意識があるかもしれないが、少なくとも人間が持つような高度な意識は、この第3層で生じる。

以上が第0層から始めて第3層まで至る、ボトムアップのMTSの説明である。

イ 超越論的説明

さて、話をひっくり返してしまって申し訳ないが、ここで指摘すべきことは、実は、以上の説明は全然ボトムアップの説明になっていない、ということである。

僕はここまで、電磁波の波動、赤色光、ライオン体験、人生の経験といった具体的なイメージを喚起するような概念を用いて各階層の意味を説明してきた。だが、これらはすべて、第3層で獲得される人間の意識にまで到達しなければ用いることができないものである。僕はボトムアップの果実を先取りし、ボトムアップの説明に用いてしまっていたのである。

純粋なボトムアップの説明を心がけるならば、そのような具体的概念による補強は拒否し、先ほど図示した、4階層の図の構造のみをただ受け入れるしかない。最下層には何らかの物質のレイヤーがあり、そして最上層には何らかの生物としての人格のレイヤーがあり、その間には内容を限定しない一般的な意味での感覚、体験がある。それだけを出発地点とし、それをただ構造化して上向きの矢印でつなぐことだけが、純粋なボトムアップの説明なのである。

これを超越論的説明と呼んでもいいだろう。受け入れる前提は以下の3つのみである。①この世界には何らかの物質がある。②この世界には人間を含めた生物がいる。③生物たちには(種類によって)感覚や体験がある。これらの3つの前提のみから、何も加えずに、これらの3つの前提のみを最も美しく満たす図式こそが、MTSの構造なのである。

当然、MTSには様々な魅力があるが、今のところ、ボトムアップ的に捉える限り、MTSとは、最低限設定した前提を最も美しく説明する、超越論的構造である、という点での魅力が捉えられたことになる。僕たちは、物質・生物・感覚・体験を前提とする限りは、より美しい構造を見つけるまではMTSを受け入れなければならない。MTSには、そのような種類の正しさがあるのだ。

ウ 現在の無視

なお、先ほど示した図には現在を書き入れていたし、説明のなかでも現在という言葉を用いていたが、ボトムアップの説明では、現在を特別視することはできない。なぜなら、現在は物質の側にはなく、生物の側にあるものだからである。あくまで物質の側から行うボトムアップの説明では、現在が混入する余地はないのである。だから、ボトムアップに構築できるのは、現在のない構造のみである。

それでも物質レイヤーから生物特有の人格レイヤーに到達するうえでは支障は生じない。なぜなら、物質レイヤーを完全に覆うように人格レイヤーは描かれるからである。ボトムからアップする限り、いつかは必ず人格レイヤーに到達する。

それは、僕たち人間が行う超越論的思考においては、物質レイヤーから人格レイヤーに到達しない事態などというものを描くことはできないということを意味する。なぜなら、それが人間が行う超越論的思考の限界だからである。いくら無視点的に構造のみを描こうとしても、人間が行うものである限り、そこには限界がある。その限界と、人格レイヤーの幅は一致し、そして、物質レイヤーの広がりとも一致するのである。物質こそすべてであり、そして、人格もまたすべてだとするならば、物質と人格は一致するのである。

(3) トップダウンの説明

ア 未完了相とアオリスト相

ボトムアップにより物質レイヤーから話を始め、構造のみを描いたうえで、ようやく人格レイヤーという最上階までたどり着いた。ここから、ようやくトップダウンの説明を行うことができるが、ここからは内容のあるイメージに訴えた説明ができるという点で話を進めやすい。ボトムアップの説明が超越論的(意味論的?)とするならば、トップダウンの説明は認識論的(現象学的?)であると言っていいだろう。なぜなら、ここから行うのは、この人間の意識に基づく説明だからである。

トップダウンの議論を始めるにあたって、まず重要となるのが、過去・現在・未来という時制の扱いである。先ほどの図のとおり、人格レイヤーにおいては、すべてが現在であるが、現在の人格から捉えられる体験は、あるものは現在の体験であり、あるものは過去の体験であり、またあるものは未来の体験である。現在の人格から過去の体験や未来の体験に到達するためには、時制を超えなければならない。これは大問題ではないか。

この問題を解きほぐすために着目するべきは、未完了相とアオリスト相というアスペクトの区別だろう。(p.36、127)

人格レイヤーにおける現在とは、つまり、未完了で現在進行形ということである。僕は人生を歩んでいる途中だから、僕の人生は閉じておらず、僕の人格は未完了相にあるのである。それを、比喩的に、僕の人生は現在進行形であると表現することもできる。当然、僕の未完了の人生のなかには、すでに過ぎ去った過去があり、そしてまだ到来していない未来もある。人格上の現在を未完了と言い換えることで、時制上の問題は雲散霧消する。「現在の人格から、過去(または未来)の体験を捉える」というと、そこには時制上の困難があり、現在と過去をつなげるにはどうしたらいいのか、というような混乱が生じるが、それを「未完了相の人格から、過去(または未来)の体験を捉える」と言い換えるだけで困難がなくなり、混乱も解消する。

そのうえで、「未完了相の人格から捉えられる過去・現在・未来の体験」のアスペクト上の位置付けが問題となる。人格のアスペクトが未完了相であるならば、体験のアスペクトはどのようなものなのだろうか。

そのことを考える上では、これらの体験は、僕の人格からは確定的に指し示すことが可能なものであるということに着目するべきだろう。過去の体験は当然確定しているが、未来の体験も、それを例えば「明日の出勤」というかたちで全体像を描写できるという意味では確定しているし、現在の体験も、例えば「赤信号との出会い」「ライオンとの出会い」というように把握できるから確定している。いずれも結局は僕の人生における体験である、という立場に立つならば、その時制が過去であっても未来であっても、体験は体験として確定的に描写することができるのである。そして、このように確定的に把握できることをアオリスト相にあると呼ぶ。僕には聞き慣れない言葉だけど、ギリシア語の動詞の時制のひとつのようである。現在形でもなく、過去形でもなく、現在完了形でも、過去完了形でもなく、アオリスト形としか言いようがないものが指し示すものだから、アオリスト相である。

つまり、上位階層の人格レイヤーは未完了相であり、下位階層の体験レイヤーはアオリスト相である、という対比ができるのである。

同様の対比は、上位階層としての体験レイヤーと、下位階層としての感覚レイヤーの間でも成立する。体験の只中においては、体験レイヤーは未完了相であり、その体験を構成する個々の感覚はアオリスト相となるのである。例えば、パラパラ漫画を見るという体験の最中においては、パラパラ漫画体験は体験は現在進行中の未完了相にあるが、一コマ一コマを見るという視覚は、すでに見終わったコマの感覚も、見ている最中のコマの感覚も、これから見るコマの感覚も、確定した絵であるという意味でアオリスト相である。

つまり、MTSにおいては、どのレイヤーとどのレイヤーを対比しても、上位レイヤーは未完了相であり、下位レイヤーはアオリスト相であるという対比が成立するのである。つまり、未完了相とアオリスト相というアスペクトの対比は、絶対的なものではなく、相対的なものなのである。

※ 平井は、未完了相、アオリスト相のほかに完了相があるとし、完了相への変換(p.24)という言葉も使うけれど、これはアオリスト相への変換でよいように思えるし、未完了相とアオリスト相の対比のほかに、あえて完了相を登場させる必要はないように思える。

イ 探索的認知

トップダウンの議論によるならば、どのように未完了相でしかありえない人格レイヤーから、アオリスト相である体験レイヤーに降りることができるのか、という問題が生じるだろう。つまり、体験を確定的に描写するにはどうすればいいのか、という問題である。

平井によれば、最も慎重な体験の確定の方法は、探索的認知(p.316)と呼ばれる。探索的認知とは、ただ見るだけでなく、別の角度から見直したり、記憶と照らし合わせたりして、フィードバックループを描くような認知の仕方である。

当然、大多数の体験は、そのような認知のされ方はせず、注意的再認とも呼ばれるように、簡単に眺めるだけで確定されるだろう。または、注意的再認にも至らず、眺めたことさえ意識せずに自動的再認として確定することのほうが大多数かもしれない。

だが、そのようにして確定されたはずの体験であっても、未完了相の人格レイヤーのもとでは、認知は完了しない。注意的再認や自動的再認により確定したように見えた体験であっても、長い人生のどこかで、あらためて探索的認知の対象となる可能性を秘めている。子供の頃のなんということのない景色が、なぜか心に残り、大人になったとき、大きな意味を持つことというようなことが往々にして起こる。それは、自動的再認が、長い時間を経て探索的認知になったと表現することができるのではないだろうか。

そのように考えるならば、すべての体験は、潜在的には探索的認知の対象であるとさえ言える。探索的認知は特殊例ではなく、すべての体験は探索的認知の可能性を秘めているという意味で、探索的認知こそをベースにして、MTSの構造は描かれるべきなのである。

そのことを受け入れ、未完了相としての人格レイヤーのあり方を最大限に誇張して表現するならば、すべての体験は、終わりのない探索的認知の対象であり、人生が終わるまでは、ある体験を確定的なアオリスト相の体験として描写することはできないということになる。探索的認知の対象となる体験レイヤーのスケールは、人生そのものの幅を持ち、体験レイヤーは人格レイヤーと一致し、癒着することになる。

だが、現実の運用を踏まえるならば、それは言い過ぎであるのは確かだろう。大多数の認知は自動的再認で終わる。歩きスマホをしていたらいつの間にか家に着いてしまうように、意識にも登らないかたちで体験が確定する。先ほど、第2層の幅はおよそ0.5秒から3秒という話があったが、最短の0.5秒というのは、きっと、この自動的再認の場合の認知に要する時間なのだろう。第1層の感覚レイヤーが0.02秒であったことを踏まえるならば、第1層と第2層の間の倍率はわずか25倍という極めて小さいものとなる。これは、自動的再認の場合の第2層は第1層にかなり接近していることを意味している。

以上をまとめるならば、第2層の体験レイヤーは全人生に近い幅を持ち、癒着するほどに第3層の人格レイヤーに接近することもあれば、わずか0.5秒の幅しか持たず、第1層に接近することもあり、つまり体験レイヤーは可変的なのである。

だが、可変的と表現すると、そこに変化のための時間が生じてしまい、話がややこしくなる。だから、グラディエーションという表現を用いたほうがいいだろう。第2層の体験レイヤーは、第3層の人格レイヤーと、第1層の感覚レイヤーとの間をゆるやかに繋ぐようなグラディエーションなのである。このグラディエーションは、どれほど注意深く、探索的認知を行うかを表現している。最も注意深く探索的認知を行うときには、第2層は第3層に限りなく接近したところに描かれ、注意を払わず、即時的に自動的再認により体験を確定するときには、第2層は、第1層に限りなく近いところに描かれる。そのような幅のある描写を許容するのが第2層の体験レイヤーなのである。

※ この可変的な第2層、またはグラディエーションとしての第2層という描写は、平井はしていない。だが平井も、MTSの各階層は固定的なものではないと考えているようなので、平井の考えには正面からは反していないと思われる。

※ 僕は、自動的再認の場合の場合の第1層と第2層の倍率は25倍にすぎない、としたが、これは、第1層と第2層は接近はしても、完全に癒着はしないという指摘でもある。

 平井は、慣れにより人は自動的に無意識に認識できるようになるとする。(運動記憶による再中和 p.284) だが、慣れにより無意識に家まで歩くことと、熱いヤカンに触ったときに無意識に手を離すのとでは、無意識の度合いが違うはずである。

 熱さを手が感知したときには、感覚レイヤーから上位の体験レイヤーには上がらず、感覚レイヤー内で処理が完結する。そのとき、視覚と同じ0.02秒ではないにせよ、それに近いスケールで処理が行われるだろう。一方の慣れによる自動運転の場合は、あくまで0,5秒の世界で反応がなされる。ここには25倍の違いがあるはずなのである。(数値はあくまで比喩である。)

ウ 想起の過去性

だが、第2層をグラディエーションとして把握するに留め、その内実を明らかにしないままでは、過去と現在と未来を区分するという、体験レイヤーに固有の仕事ができなくなってしまう。

何が、過去の体験と、現在の体験と、未来の体験を区分するのだろうか。

僕はそれは、単に生物学的に備わる機能上、想起によりアクセスできる体験が過去であり、知覚によりアクセスできる体験が現在であり、予期によりアクセスできる体験が未来である、ということに過ぎないと考えている。

それは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚という五感の知覚機能の違いと類比的である。というか、全く同じ意味での機能の違いであると言っていいかもしれない。想起と知覚には、視覚と聴覚の違いと同種の違いしかないのではないだろうか。

そのように考えるのは、僕が第2層において重要な役割を果たすと考えている探索的認知においては、想起と知覚を併用するからである。

例えば、僕は探索的認知をするとき、二度見をするかもしれない。これは二回目の現在の知覚と、一回目の過去の知覚の記憶とをすり合わせ、より正確な認知をしようと心がけるということだ。また、好きなアーティストのライブ盤の音源を初めて聴く時、スタジオで録音されたアルバム盤の音源の記憶を参照しながら、その違いに注意を払いながら聴くかもしれない。そのようなかたちでの、知覚と記憶の併用は、近所の家にキンモクセイが咲いているのを目と鼻で確認することや、極上の寿司を目と舌で楽しむことと完全にパラレルである。いずれも、複数の(広義の)知覚機能の併用である。

そうだとするならば、視覚なら空間的距離があるが味覚なら空間的距離がないという知覚機能の違いと、想起なら時間的距離があり、視覚なら時間的距離がないという知覚機能の違いも同種の違いに過ぎないのではないだろうか。

だから、過去とは、想起という知覚機能だけが働いているような体験の捉え方のことで、また、現在とは、想起以外の知覚機能が働いている(想起とその他の知覚機能が共同して働いている場合も含む)ような体験の捉え方のことなのではないだろうか。

なお、この、(広義の)知覚機能の違いにより過去と現在を切り分けるというアイディアは、過去と現在の違いを偶然的なものと捉え、哲学的な必然性はないものと見做すことを意味している。

なぜなら、生物がどのような知覚機能を持つかは偶然的な科学的事実にすぎないからである。コウモリの視覚は超音波の反射で見る能力であるように、人間はこのような想起の能力ではなく、別の想起の能力を持っていてもおかしくはなかったはずだ。例えば、僕が、視覚で知覚するときには自分自身の視点に立つことができるが、なぜか、想起するときには僕の奥さんの視点にしか立つことができない、ということも思考実験的にはありうる。きっと、そんな想起は探索的認知には使い物にならないから、もしそうだとしたら僕の時制の捉え方自体、大きく違ったものになっていたはずだ。(どんなものになるか想像もつかないけれど。)

この思考実験がうまくいっているかどうかはよくわからないけれど、ある生物が、想起も含めた広義の知覚機能をどのように具備するかには、哲学的な必然性はないことは確かだろう。

エ 予期の未来性

なお、ここまで過去の想起の話をしたが、対となる未来の予期については、平井はあまり触れていない。(あえて言うならば、自由の文脈で、予見可能性について触れているくらいだ。(p.344-))

だが、未完了相の人格レイヤーにとっては、下位層における体験は、過去・現在・未来の時制に関わらず、等しく重要である。正確には、未完了相は、それ自体では過去・現在・未来を見分けることはできないから、等しく重要であると言ったほうがいいだろう。

それを見分けるのは、先ほど指摘した通り、用いる知覚機能の違いである。過去とは、想起機能を用いるから過去であったように、未来とは、予期機能を用いるから未来なのである。

このように、過去と未来を全く同種のものとして扱うことは違和感があるかもしれない。きっとその違和感の原因は、未来は白紙であるという考えにある。過去はすでに起こったことで満ちていて、そこには無数の内容がある。一方で未来は白紙であり、そこには何も内容がない。両者には大きな違いがある。

だが、平井によれば、より下位である第2層の体験レイヤーと第1層の感覚レイヤーのレベルでは、「後からの情報を踏まえて、全体のなかで辻褄合わせをしている事例」(p.118)があるとされる。第2層の体験レイヤーは、第1層の感覚レイヤーに対して未完了相であり、体験の途上であっても、その体験の質は、その体験を構成する過去の感覚と、現在の感覚と、未来の感覚のすべてで、未完了ではあっても、とりあえず構成されている。後から辻褄合わせはされるが、それでも、とりあえずは未来の感覚も含めた、すべての感覚により、体験の質は構成されている。それは、ドレミファソラシドという体験の途中の、ドレミファソラの時点でも、とりあえず、シドが続くものと見做し、ドレミファソラシドを体験してしまうということである。第2層の未完了相の体験は、すべての第1層のアオリスト相の感覚を体験し終わる前に、未来の感覚も含めたすべての感覚に基づく体験質が生じているのである。

同様に、第3層の人格レイヤーにおいても、未完了相としての人生の途中において、第2層のすべてのアオリスト相体験を踏まえた人生としての質が生じていなければならない。未来の体験は何らかのかたちで未完了相の人生の質に影響を与えていなければならないのである。

その役割を果たすのが予期という知覚機能である。確かに予期は他の知覚機能よりも不確かで、間違いやすいけれど、何らかの未来の体験を予期するというかたちで未来にアクセスすることができているはずだ。そのような意味で、予期は広義の知覚機能なのである。

当然、予期は、視覚のように直接的に対象にアクセスすることはできない。だから、対象の側から訂正され、折り合う余地はない。(折り合いについては後述。)

なお、直接的に対象にアクセスできないのは過去の想起でも同じことだが、想起の場合には、模倣を使うことができるが、予期の場合にはそれもできない。(想起における模倣については、p.311)

そのような悪条件は重なっているけれど、だからといって、予期は知覚機能ではないとは言えない。タイプ化などの働きを用いて精一杯未来を把握しようとし、それなりに成功している。

それはまるで、目が退化したコウモリが、それでも一応は視力を使って生きているようなものである。または、人間が、目隠しして、耳栓をした状況で、あまり得意ではない嗅覚を使って周囲の状況を把握しようとしているようなものである。僕たち人間は、確かに予期という知覚機能が劣ってはいるけれど、それなりに使って未来を把握しようとするしかない。未来の予期と過去の想起や現在の知覚との間には本質的な問題はなく、そこにある問題とは、単なる技術的な問題に過ぎないのである。

オ タイプ・持続・身体・運動記憶

僕は、『できている』の議論のなかでも特にMTSに魅力を感じ、それを最大限まで拡大解釈することで平井の議論を捉え直したいと考えている。

だが、オリジナルの平井の議論では、特に『できている』の後半ではMTSと同じかそれ以上に「運動記憶」が大きな役割を果たしている。僕は『できている』の後半を理解するのが難しかったのだけど、その難しさの大部分は、この「運動記憶」をどのように理解するかという問題であったように思う。

僕にとっては、平井の「運動記憶」はトランプのジョーカーのようなものだ。最強で何にでも使える。平井は「運動記憶」を使って、自らの議論を次々に科学的知見と接続し、それを論拠として議論を進めていく。

そのこと自体は確かにわかりやすいのだけど、少し立ち止まって、「では、科学的知見を偶然的なものと見做したならば、何が偶然に左右されない哲学的な成果として残るのか。」と考えた途端にわからなくなる。つまりこのわかりにくさは、僕が意識的に科学的知見と距離を置こうとすることに由来するものであり、僕のこだわりが招いた問題なのである。

読者の方々には、僕の問題設定に偏りがあることを受け入れていただき、では、偏りがある僕がこの「運動記憶」とどのように対峙するのかを一緒に見届けていただきたい。

(だから、僕の問題意識に共感できない読者の皆様には面白くないかもしれない。)

まず僕は、平井の「運動記憶」をできるだけ限定して用いることとしたい。なぜなら、そうすることで「運動記憶」が招く混乱を最小限に留めることができるからだ。

そのうえで僕は、「運動記憶」とは、「反復して同じことを繰り返す能力である」と捉えたい。これはMTSにとって、結構大事な一歩である。なぜなら、今までのところ、MTSには反復による2回目はなかったからである。

確かに、人格レイヤーは複数の体験を含んでいるし、体験レイヤーは複数の感覚を含んでいるし、感覚レイヤーは複数の物質を含んでいる。だが、その複数性は、上位レイヤーに把握されたとたん、凝縮され、ひとつの現在になってしまう。量としての複数性は質に変換されてしまう。だから、これまでのところMTSは、どこまでも量がない構造なのである。(量のなさこそが美しさでもあるのだけれど。)

だが、ここでようやくMTSに量が導入される。「運動記憶」による反復という量である。「運動記憶」により、ライオンに会ったのは2度目だと言えるようになり、何度も赤信号で止まっているから慣れて無意識に赤信号で止まれるようになる。

そして、1ヶ月前と同じように、同じ僕が同じライオンに出会っていると言えるから、その1ヶ月前の体験と、今回の体験とが紐付けられ、その間に持続が生じる。複数性を認め、反復を認めるからこそ、その間の持続を認めることができるのである。

こうして、「運動記憶」は反復と持続を生み出す。

なお、この「運動記憶」は単なる概念ではない。「運動記憶」には身体があり、物質としてこの世界に実在している。だから、自然主義的世界観に逸脱するものではない。もし、「運動記憶」が単なる概念であったら、概念が何かを生み出すことはできないから、反復や持続は生じなかっただろう。運動記憶には身体があるからこそ、無から有を生み出すことはできない、という制限を守り、有から有を生み出すことができているのである。

そのメカニズムを平井は水路付けとして描写する。大地に水が流れ、やがて川となるように、どこまでも物質レベルで説明可能な自然現象としての水路付けにより「運動記憶」が可能となる。物質としての身体に一回目の体験により刻まれた溝が、二回目でも同じところを水が流れるように導く。このようにして物質としての身体は反復し継続することが可能となる。これが「運動記憶」である。

そして、この「運動記憶」の担い手が生命と呼ばれる。偶然なのかどうかはよくわからないけれど、「運動記憶」の担い手である生命は、MTSの最上位の人格レイヤーときれいに重なるのである。

MTSとの関係で重要なのは、「運動記憶」はタイプ化の働きを持っているという点である。同種のことを反復し、それを重ね合わせることで、1回限りのトークンがタイプ化する。「運動記憶」に出会う前のMTSはいわばトークンのみの世界だったが、ようやくここでタイプが導入されるのである。

このタイプとは、概念や言語とも言い換えていいもので、思考における材料すべてであると言ってもいいだろう。『できている』では地図という比喩もされる。(p.36)

そして、MTSの最上位のレイヤーにタイプを生み出す身体を位置づけることで、MTSは急速に豊かなものとなる。例えばそれは過去や未来との関わりの場面で顕著である。

僕たち人間は、脳のつくりの都合上、トークンとしての過去の体験にダイレクトにアクセスする能力を持っておらず、脳に刻まれた僅かな痕跡を手がかりに過去を新たに構成するしかない。そこで役立つのがタイプである。タイプとしてのライオン概念を、その僅かな痕跡に貼り付けることで、過去のライオン体験は豊かなものとなるのだ。

また、僕たちは未来の体験に直接アクセスする能力はないけれど、タイプを用いて複雑な思考をすることにより、未来における体験をある程度まで豊かに想像することができる。

このように「運動記憶」とは、反復、持続を生み出し、タイプというすべての思考の材料を生み出すという点で、極めて重要なものなのである。

「運動記憶」というと、どうしても自転車に乗れるようになる、というような、いわゆる運動の場面を想像してしまう。だが、「運動記憶」が最もその力を発揮するのは、想起や予期も含む、知覚機能全般を用いるという運動の場面であって、つまり、知覚機能を知覚機能として成立させるために必要なのが運動記憶なのである。

そして、その運動記憶を支えているのが身体であり、MTSの最上位に位置づけられる生命もやはり物質なのである、という事実である。

カ 体験レイヤー・時間の流れ

ここまで、第3層の人格レイヤーを中心に論じてきた。ここからは、階層を少しずつ降りていくこととしたい。

まず、第2層の体験レイヤーである。

この体験レイヤーでの重要な働きは、この階層でようやく時間が流れるという点にある。ここまで見てきたとおり、人格レイヤーでは時間は流れない。そこにはただ想起と知覚と予期という機能上の違いがあるのみである。そして、後ほど見るとおり、この下の物質レイヤーや感覚レイヤーでも時間は流れない。中間層である体験レイヤーでこそ、時間は流れるのである。

その仕組みについては僕は平井の説明を完全に受け入れるので、『できている』をただ読んでいただければいい。だけど、一応、簡単に書いておくと、下位層である感覚レイヤーにおける感覚の順序を体験レイヤー上で質的に保存するために時間の流れという質が必要なのである。

もう少し説明すると、平井と違う例を用いるならば、例えば、開いた手の指をさっと撫でられたような状況を思い浮かべていただきたい。これは、手を撫でられるというひとつの体験であり、体験レイヤー上は、ひとつの現在である。

だが、そこには、人差し指側から小指側へと撫でられたという質がある。だから感覚レイヤー上は、人差し指の触覚、中指の触覚、薬指の触覚、小指の触覚というように、少なくとも4つの触覚が継起的に生じていたはずである。

重要なのは、人差し指→中指→薬指→小指という順序である。もし、その逆だったら、同じ、撫でられ体験であっても、その内容は大きく異なるはずである。

だが、感覚レイヤーから体験レイヤーに移行する際には凝縮が生じ、4つの感覚は、ひとつの撫でられ体験となり、その順序は体験のどこにも位置付けられなくなってしまう。

そこでなんとかその順序を質として残そうとする。そこで、人差し指側から小指側へという流れのクオリアにより、その順序を把握できるようにするのである。これが時間の流れである。

だから、時間の流れとは、単なる凝縮の際の工夫にすぎず、生命が具備している単なる機能なのである。だから、もし生命にとって感覚の順序が重要でなければ、生命は時間の流れを感じることはなかったかもしれない。

(きっと、感覚の順序は、敵や餌の動きを知るために役立つから、なかなか不要にはならなそうだけど。)

なお、時間には、流れという質以外に、経過という質もある。平井はこれを時間クオリアと呼んでいる。バス停でバスを長時間待っているときの、あの待ち時間が経過しているという感覚である。この時間経過の質をMTSのどこに位置づけるべきかはよくわからない。この種の感覚は、通常はバスを待つというような体験ごとに生じている気もするけれど、最大では、生まれてから長く生きてきたなあ、という感覚さえ持つこともできるので、最上位の人格レイヤーに紐づけてよいのかもしれない。つまり経過という時間クオリアは人格質であり、体験質である、ということになる。

※もうひとつ、時間の流れを生み出す仕組みとして、過去と未来の非対称性もあるように思う。現在ほどではないけれど、過去のことはある程度は詳細に、事実に即したかたちで想起し、把握できる。一方で未来のことは、ある程度は予期できるけれど、その精度は、現在はおろか過去に比べても大幅に劣る。

このような非対称性がベースとなり、知っている過去から知らない未来に向かう時間の流れに乗って、僕たちは徐々に知っていくという理解が生じているのではないだろうか。

だが僕は、予期の機能が想起の機能に比べて劣っているというのは、人間の嗅覚の解像度が人間の視覚の解像度に比べて劣っているのと同程度の偶然的な事実だと考えている。よって、そのような偶然的な事実より時間の流れを根拠づけることは危険ではないだろうか。

そして、この非対称性が、因果関係という歪んだ捉え方も生んでいる。

次節で述べるとおり、物質レイヤーにおいては、物質は相互浸透し、飽和し、中和している。だから、そこには先行するものが後行するものを規定する、というような因果関係はない。いや、先行するものが後行するものを規定していると言ってもいいのだけど、そうだとすれば、相互浸透により、同程度に、後行するものが先行するものを規定していることとなり、そこには前後関係が全くないのである。

そこに、過去と未来の非対称性を混入させることにより、相互浸透のうち、先行するものが後行するものを規定するという一側面のみを顕在化し、後行するものが先行するものを規定するというもう一つの側面を無視してしまうのである。

当然、相互浸透としては、先行するものが後行するものを規定することには、部分的な正しさがあるから説得性がある。それが因果関係である。

つまり、因果関係とは、想起の解像度は予期の解像度よりも高いという偶然的な事実を世界の普遍的な法則と勘違いし、相互浸透の一側面だけを切り出して捉えてしまった、歪んだ考え方なのである。

キ 感覚レイヤー、物質レイヤー

次に、第1層の感覚レイヤー、第0層の物質レイヤーの話へと移る。

このあたりの話は、およそボトムアップで概観したとおりなので、あまり付言することはない。

ここで重要なのは、最下層の物質レイヤーにおける物質とは何か、という問題である。さきほどのボトムアップの超越論的な説明のなかでは、物質とは物質である、という以上の説明はできなかった。なぜなら、物質とはとにかく物質である、ということを前提としてボトムアップの説明を開始するということが超越論的な説明だからである。

そこからボトムアップで人格レイヤーという最上位レイヤーにたどりつき、180度向きを変えて人格、つまり人間の意識からトップダウンで説明をしてきて、ようやくここで、再び物質レイヤーに戻ってくることで、物質の具体的な内容について議論することができるようになったのである。

これはトップダウンの議論であり、人格レイヤーに起源する人間の意識に基づく議論なのだから、ボトムアップの超越論的な説明とは異なり、当然、これまでの手駒をすべて使うことができる。きっと、最も役立つのはタイプ化である。タイプを用いて概念的に思考することで、物質とは何かを規定することができるからである。

その結果導かれる答えは、きっと、「電磁波の波動や原子構造のような微小な物理的な事象こそが物質の正体である。」というものになるだろう。なぜなら、電磁波や原子といった概念を用いることができることがタイプ化の成果であり、現代に生きる人間ならば、電磁波や原子のようなものこそが物質であると考えているはずだからである。

このようにして、ようやく物質とは何か、という本来は議論の出発地点で定めるべき事柄を定めることができたのである。本来、議論の初めに決めるべきことについて、議論を一周回して、ボトムアップの議論とトップダウンの議論を経ないと決めることができない、ということが、MTSのわかりにくさだと言えるだろう。議論の始まりが、議論の終わりに依存していて、MTSは、実は、議論の開始地点を決められないという構造をしているのである。

なお、ここで留意すべきは、「電磁波の波動や原子構造のような微小な物理的な事象こそが物質の正体である。」という答えは確定的なものではない、ということである。なぜなら人格レイヤーは未完了相であり、人格レイヤーが変化すれば、それに伴い、下位レイヤーの内容も変化するからである。もし、人格レイヤーにおいて、「最も基礎的な物質は天使である。」とされたら、物質とは何か、という問題の答えはそのように書き換えられてしまうのである。

一方で、最下層の物質レイヤーは、そのような未完了相になることはなく、どこまでもアオリスト相でしかない。つまり、物質レイヤーそれ自体として、何か別様のものになる余地は全くない。物質にはそのような確定と不確定が共存している。

また、もうひとつ重要なことは、物質には質があるという点である。物質とは、それが電磁波の波動であっても、原子であっても、そこには量だけでなく質がある。ただ、物質レイヤーはあまりにも物質に満ちていて飽和しているから、その質が中和されているだけなのである。これをベルクソンは汎質論と呼んでいる。(p.83)

このような状況を描写するうえで、平井は中和という語を用いるが、飽和のほうが僕の感覚には合っている。中和して凪いでいるのではなく、その力がみなぎり、飽和し、臨界に達しているからこそ表面化しないというイメージである。物質にみなぎっている質は、そこに生命が位置付けられることで解放され、感覚、体験といったレイヤーごとの質を生じさせるというイメージである。

そのような飽和状況を説明するうえでは、『できている』の相互浸透という言葉はとても適している。MTSの図式上は、物質は順序よく並べられるかたちで書き表されるが、実は、その順序にはあまり意味がない。なぜなら、物質は相互に浸透しているからである。相互浸透は先立つものによってあとからくるものが決定されているだけでなく、あとからくるものによって先立つものが決定されるという側面もある。(p.116)だから、相互浸透は順序を無化するとも言えるだろう。または順序さえ意味がないものになるほど飽和しているから、相互浸透なのであるとも言えるだろう。

物質は、順序も無化するほどに相互浸透し、飽和している。すべての物質は、いわば、相互浸透したネットワークを築いているから、その一部分のみを取り出し、順序を論じることには意味がないのである。

それでも物質が相互浸透するためには独立した物質でなければならない。そのためには、物質にはスケールがなくてはならず、「物質は、相互作用の最小の時間スケールを定義するものとみなされる」(p.58)とされる。このわずかな時間スケールを捉えて、光の現在は準瞬時的(p.81)である、などとも表現される。また、リズム(p.79)というかたちで最低限の複数性も確保されている。

このような物質の独立性、複数性から導かれる物質の量と、相互浸透し、飽和し、潜在化した物質の質により構成される次元こそが、物質レイヤーなのである。

※ どの階層においても、質はかならずついて回る。どの階層もその質と量の総量は変わらないようにすら思える。そのように考えるならば、『できている』では量的多様体と質的多様体という区別があるけれど、完全に純粋な量的多様体は存在しないとも思える。例えば、歯ブラシと歯磨き粉の区別は、量的に二として区別されるだけでなく、同じ歯磨きに使う日用品であるという共通点をベースにしたうえで、歯ブラシには歯磨き粉ではないという質があり、歯磨き粉には歯ブラシではないという質がある、という質的な差異があるとも言えるからである。

(4) ボトムアップとトップダウンの折り合い

またもや「後出しジャンケン」のようで申し訳ないが、ここまでのトップダウンの説明にも、若干のごまかしが含まれている。ここまで僕は、人間の意識を用いて描写される、ライオンのような具体的な内容を用いて説明を行ってきたが、それらの内容は、人間の意識からのトップダウン「だけ」で決まるものではないのである。もしそうだとしたら、人間の意識だけで、何でも恣意的に決定できることになってしまう。

それらの具体的な内容は、人間の意識だけでなく、物質の側の事情を踏まえて決定されなければならない。ここにライオンがいるためには、人間が勝手に目の前にライオンがいると意識するだけでなく、実際にそこにライオンとして意識されるに足るような物質が存在していなければならない。人間の意識と物質の双方が互いに働きかけるようにしてライオンに出会うという体験がつくりあげられるのである。

平井はこれを「折り合い」と表現する。つまり、MTSの構造に基づくならば、人格レイヤーからのトップダウンの力と、物質レイヤーからのボトムアップの力とがぶつかり、そこで折り合うことによって決定されなければならないのである。

※ 平井はトップダウンの力、ボトムアップの力といった、「力」という表現はしていなかったと思う。だが、MTSという構造をつくりあげるためには何らかの力が必要であり、それを「力」と表現することはそれほど問題はないように思える。

そして、トップダウンの力とは、つまり人間の意識の力であり、そして、ボトムアップの力とは、物質の力である。人間の意識と物質にはそのような対になる力があるのである。

ただし、これを主観と客観の対比として理解することは誤りである。なぜなら、MTSにおいては、最上位の人格レイヤーは身体としての物質で構成されており、それは主観的なものではないからである。MTSはあくまで自然主義的世界観に基づき意識、体験、感覚といったものを説明することを意図したものであり、そこに純粋な主観が入り込む余地はないのである。(トップダウンの力とボトムアップの力の折り合いのなかで、主観は自然主義的につくりあげられる。)

だから、人間の意識と物質の対比ではなく、生命と物質の対比と言ったほうが誤解は少ないかもしれない。最上位の人格レイヤーとしての生命の力と、最下位の物質レイヤーとしての物質の力とがぶつかり、折り合うことによって、ライオンの体験、赤色の光の感覚といった具体的な内容を持ったMTS構造を描写することができるのである。

なお、ここで注意しなければならないのは、「生命」に人間の意識のような具体的な内容を与え、また、「物質」に電磁波や原子のような具体的な内容を与えるのも、折り合いによるという点である。先ほどボトムアップに行った超越論的な説明においては、生命とは生命であり、物質とは物質である、とし、それ以上の具体的な内容についての説明は拒否した。

そこに、物質とは電磁波である、というような具体的な内容についての説明を加えることができるのは、さきほど述べた通り、ボトムアップの説明とトップダウンの説明を一巡してからであり、つまり、ボトムアップとトップダウンの2つの力を用いた折り合いが可能になってからなのである。

超越論的な生命と、超越論的な物質とを出発地点とし、自然主義的な枠組みにおいて、生命、体験、意識、物質といったものを内容豊かに説明し尽くすことができることが、MTSの素晴らしさなのである。

ここで技術的な注意事項を述べておくと、我々人間が、この折り合いモデルを正面から描くことができるのは現在においてのみである。なぜなら、残念ながら、我々人間の機能として、過去の認識も、未来の予期も、物質からのボトムアップの力と直接ぶつかり、折り合うところまでは到達できないからである。人間は、機能的に、現在の知覚においてしか、直接、物質の状況を把握することができない。

平井はこのことのうち、過去の機能上の制限のことを、記憶の記銘と再生の非対称(p.153)として述べている。ボトムアップの力による記銘は、過去、現在、未来という時制など関係なく行われる一方で、トップダウンの力による再生は人間の機能上の問題から直接的にはボトムアップの力と出会うことができないのである。

そして、トップダウン的に行われる再生がボトムアップの物質に直接届かない代わりに行われるのが模倣である。(p.312)模倣された体験質と純粋記憶としての体験質の照合・すり合わせによりトップダウンによる過去の再生は間接的にボトムアップの物質の力に出会うことができるのである。(p,313)

一方で、未来の予期においては、模倣すらも行うことができないから、ボトムアップの物質からの力の直接的な手がかりが全くないところで、トップダウンによるタイプ化された概念のみで未来の体験を描き出すことになる。当然、未来の予期においても、その予期が成立するためには、なんらかのかたちでトップダウンとボトムアップの折り合いは成立していなければならないが、それは極めて間接的で弱い折り合いでしかないはずである。

以上でMTS理解の補助線についての説明を終えるが、なぜ、これが補助線であるのかと言えば、平井は『できている』において、ボトムアップの説明とトップダウンの説明を併用し、両方から挟撃するような議論をしているからである。それはそれで、わかりやすい面もあるのだけど、僕がここでしたように、両者を一旦は分けて説明し、そのうえで合流するような説明をすることで、理解が促される場面もあるように思われるからである。

4 平井が述べなかったこと

ここまでは、曲がりなりにも、平井が述べたことや、述べそうなことを書いてきたつもりだ。ここからは、僕が思いついたことのうち、平井が述べなかったことや、平井が述べるはずもないことや、更には明らかに平井の考えに反するだろうことを書いていきたい。

だけど、平井はあとがきで『できている』を「たたき台のひとつ」(p.363)とも言っており、平井は、このような僕の『できている』の使い方を容認してくれているように思う。

(1) 主観と客観

まず、平井が述べていないことについて論じたいが、僕の理解では、MTSは主観と客観の問題もきれいに整理する。

僕は独我論者的なところがあるのだけど、独我論の問題は、私という唯一の人間と、他者という多数の人間の対比の問題であるとも言える。私という唯一の人間だけが、なぜか鏡を使わなければ自分の顔も見れないような隠されたかたちで存在し、その他の多数の人間は、なぜか景色のひとつとして、その姿の全体を容易に眺めることが可能なかたちで存在している、という不思議な対比がそこにはある。

この不思議は、MTSを用いれば構造化して捉え直すことができる。独我論的な私とは、つまり、最上層の人格レイヤーのことであり、人格レイヤーは未完了相の現在という唯一のスケールしかないから「独」我なのである。そして、複数の他者は、その下位層である体験レイヤーにおける複数の体験として位置付けられる。

つまり、独我論とは、レイヤーの違いを無視することで混乱が生じただけの話なのである。

なお、独我論的な私とは、無から魔法で作り上げられた幻のようなものではない。なぜなら、人格レイヤーを担うものは生物であり身体を持つからである。先ほど述べたとおり、人格レイヤーには「運動記憶」が重ね合わされ、それは身体を持つ物質なのである。

そして、体験レイヤーも、物質レイヤーからボトムアップで構成されるという意味で、物質により成り立っている。人格レイヤーと体験レイヤーの関係は、どこまでも物質と物質の関係であるから、人格レイヤーとしてたち現れる私と、体験レイヤーとしてたち現れる他者との関係には、どこにも魔法のようなまやかしはない。私という唯一の生命から、体験として他者を眺めるという独我論的な世界のあり方は、MTSに裏付けられた物質的な必然なのである。

そして、これが主観と客観の問題である。僕が独我論的な私と述べたものが主観であり、そして、景色としての他者と述べたものが客観である。だが、この主観と客観とは、絶対的な区分ではなく、第3層の人格レイヤーと第2層の体験レイヤーとの相対的な関係性が主観と客観と表現されるものである。下位層である第2層から見れば、上位層である第3層は全てであり、外部を持たず、いわば閉じた内的なあり方をしている。一方で、上位層である第3層から見れば、第2層は複数が並列して並んでおり、いわば開いた外的なあり方をしている。だが、第3層についても、もし、より上位層である第4層から見れば、きっと複数が並列した外的なあり方をしているだろう。

そのような相対的な対比を、あえて絶対的に固定化した問題と捉えることで、あえて大問題にしてしまっている。だから、主観と客観の問題は疑似問題である、とさえ言えるのである。

または、あえて言うならば、主観とは、MTSにより下位レイヤーが位置付けられることにより、相対的な上位レイヤーにおいて生じるものなのである。

※ 人格レイヤーよりも高階の第4層に位置付けられそうなものとしては、例えば、『できている』においては、進化スケールの「超意識」(p.251)がある。

(2) 進化論

平井が『できている』で重視しているアイディアのうち、僕がここまでの議論で避けてきたものがいくつかある。その代表的なものは進化論である。

平井は、感覚レイヤーしか持たない微生物から体験レイヤーを持つ魚への進化、体験のレイヤーまでしか持たない魚から人格レイヤーを持つ人間への進化、というように、MTS構造の拡張と生物の進化をつなげて論じる。このようなMTS的な進化論により、どのようにして生物が高度な意識、知性を獲得したのかが説明できることは、MTSの説得力を更に強めていると僕も思う。

だけど、僕はこのような進化論の取り扱いに二つの疑問がある。

まず、いちゃもんのような受け止め側としての疑問から。僕は読後感として、平井のMTS的進化論とは、生命はより高度な意識、知性を獲得する方向に運命づけられたものとして描写されているように感じてしまった。当然、通常の進化論ではそのような運命付けなどない。キリンの首はより長くなる方向には運命づけられていないし、恐竜はより大きくなることを運命づけられていない。進化論的には、知性も、キリンの首や恐竜の体格のように、環境に応じて適切な高度化の程度というものがあるはずであり、知性の高度化はどこかで落ち着くはずである。だから、適切な程度というものを無視した知性に関する平井の進化論的な描写は、いわゆる進化論を超えたニュアンスを含んでいるように感じたのだ。平井の進化論は、自然選択の進化論ではなく、何者かに知性の高度化を運命づけられた進化論である。

一方で、平井がそのように描きたくなる気持ちはわかるような気がする。僕の中には、知性について、適切な程度、といった制限を設けるべきではないという直感がある。知性の高度化はどこまでも可能性に開かれているべきであり、それを生み出すMTSの高層化もどこまでも可能性に開かれているべきではないのか、という思いが僕の中にある。

だから、MTSをいわゆる進化論と結びつけすぎてしまうのは、知性の可能性を狭めてしまうように思える。確かに進化論的な説明はこれまでの知性の高度化のプロセスをうまく説明する。しかし、MTSはどこかで進化論的な枠組みからは離れるべきではないのだろうか。これが僕の1つ目の疑問である。

もうひとつの疑問は、進化論には時間の経過が必要となるが、この時間の経過はどこでなされるのか、という疑問である。僕の理解では、MTSの最上層である生命レイヤーは、全くの未完了相であるという意味で、時間経過とは無縁である。MTSの最下層に位置付けられる物質レイヤーにおける物質も、完全に相互浸透し、飽和し、中和しているという意味で、時間経過とは無縁である。MTSによれば、時間経過とは、トップダウンとボトムアップの間の中間層の折り合いとして生じる、持続としての体験または流れとしての感覚のクオリアである。

だからMTSによれば、物質や生命自体には時間経過はなく、時間経過は個体としての生命の内部でしか生じないと言ってもいい。あえて言うならば、図示しているMTSの構造に基づけば、時間は横ではなく縦に流れている。MTSの構造をボトムアップし、トップダウンし、折り合っていくベクトルこそが時間経過なのである。

以上のように考えるならば、平井の進化論とは、MTSの構造におけるボトムアップの力動性を捉えた描写だと言ってもいいのかもしれない。物質から感覚、感覚から体験、体験から人格、そして人格から何か、というようにどこまでも上昇していく力である。生命はMTS構造に基づきそのように進化することを運命づけられているのである。これはMTS構造自体の進化論である。

※ MTSの進化論を、自然選択による進化論ではなく、MTS構造自体の進化論と捉えると、MTSの理解や活用の場面において、生物学的な知見を用いにくくなるという欠点があるようにも思える。例えば、MTS構造の最上位の人格レイヤーに個体としての生物を位置付け、人間という種に分類される個体には体験レイヤーがあるが、魚という種に分類される個体には体験レイヤーがない、というような議論には、どこか自然選択的な進化論が含まれてしまっているようにも思う。

(3) 科学のバイパス

MTSでは体験や感覚といったものを重視する。なぜなら、MTSとは、従来の自然科学的な考え方では、体験や感覚のクオリアのようなものを説明できないという問題を乗り越えるためのアイディアでもあるからである。そして、実際にMTSは体験や感覚のクオリアなどについて説明することに成功している。

一方で、MTSには、体験や感覚をあえて関わらせなくてもいいことまで、体験や感覚のフィルターを通さなければ捉えられなくなってしまう、という弊害もあるように思える。

その弊害は、例えば、『できている』でも導入部で用いられている計測の場面で生じる。MTSの構造に基づけば、1メートルという長さは1メートルの体験の質、クオリアであるということになるだろう。トークンとしての1メートルの体験が、タイプ化されて1メートル概念が成立し、ようやく計測が可能になる、ということになる。だから、それぞれの人格または生命ごとのタイプ化の仕方に応じて1メートル概念は異なることになり、計測は共約不可能となる。MTSの多元論的な捉え方は共約不可能性を生む。

同様の問題は、電磁波や原子のような科学的な概念についても言えるだろう。例えばライオン概念であれば、人によって違いがあっていいし、実際に違いがあるだろう。僕はホワイトライオンを知っているから、ライオンは白い場合もあると考えるけれど、ホワイトライオンを知らない人なら、ライオンは必ず茶色である。それはそれでかまわない。だが、電磁波や原子のような概念について、そのような違いは認められない。科学的な概念には科学的な定義があって、それを知らない人は、単にその概念を習得しておらず、間違えているにすぎない。

このように、計測や科学的概念については、質を用いて階層化するというMTSのアプローチは、あまりうまくいかないように思えるのである。

僕は、そのような事態に対応するため、MTSに微修正を加えるべきだと考える。

MTSのうち、ボトムアップには問題はない。MTSの物質レイヤーからのボトムアップとは、ただ物質の飽和した力が上方向に開放されているに過ぎないからである。

問題は人格レイヤーからのトップダウンのほうにある。なぜなら生命の力がトップダウンに下方向に働き、その力がボトムアップの物質の力と出会い、折り合うことによってMTS構造としての体験や感覚の質が生じることになるが、トップダウンの力とボトムアップの力がどの地点で折り合うのかは生命、つまり人間の意識の側が決めているからである。

そもそもMTSは、我々が体験し、感覚する質・クオリアについて、魔法のようなものを加えずに、物質だけに基づいた自然主義的な説明をしたいという動機から作り上げられている。そのような動機があるからこそ、物質からのボトムアップの力と人格からのトップダウンの力が折り合う地点を、体験レイヤー、感覚レイヤーと呼ぶのである。だが、そのようなレイヤー構成は、厳しく捉えるならば、恣意的な選択にすぎない。我々の人格が、あえて体験と感覚に注目することにより、体験レイヤーや感覚レイヤーを作り上げたとも言えるのである。

それならば、MTSにおいて、あえて、体験や感覚に注目しないことも可能だろう。つまりトップダウンのプロセスにおいて、体験レイヤーや感覚レイヤーを経由せず、人格レイヤーと物質レイヤーとで直接折り合いをつけるということである。いわば中間層のバイパスである。人格が、感覚や体験といった質を経由せず、直接的に物質を観察し、その構造を見出す。そのとき、空間は計測できる等質的な長さにより構成され、時間は、計測できる等質的なカレンダーのようなものとして捉えられるだろう。そして、そこには観測する主体に左右されない、電磁波や原子のような科学的物質が位置付けられる。そのようなものとして、MTSを描くことも可能だろう。

だが、当然問題はある。長さにせよ原子にせよ、そのような概念の成立のためには、最初の一歩のためには、トークンのタイプ化が必要である。何らかの具体的な体験や感覚により獲得したトークンを素材として、それを人格としてタイプ化するという作業が必要なのである。なぜなら、長さや原子には、1メートル長、水素原子といった内容があり、その内容は具体的な体験や感覚により供給されるからである。つまり物差しを使って実際に長さを測って目盛りを確認したり、測定機器上の検出結果の表示を見たりするような体験と感覚である。

だから、僕が提案する中間層のバイパスは、完全なバイパスとはならない。どこまでも、感覚や体験による影響を最小限とするような努力でしかない。物差しや測定機器を用いたトークン的な体験の影響を最小化する努力である。きっと自然科学の方法論とはそういうものであり、感覚や体験による影響を極小化するためのノウハウのことを自然科学と呼ぶのではないだろうか。

(4) 自由・知性

平井は、『できている』において様々なことを論ずるなかで、自由についても論じる。自由に対比されているのは、決定と偶然である。僕たちの意思決定がすでに決定されていたら自由ではないし、また、全くの偶然であっても、それは自由ではないからだ。

平井は、そのような自由のあり方を読み替え、自由のありかを、人格レイヤーの未完了相に求める。人格レイヤー、つまり僕たちの人生はその全体として未完了であり、過去も未来も決定していない。僕たちの人生は、結婚のような人生の岐路において熟考することで、時には過去から未来までの人生のあり方をすべて作り変えるような選択をすることができる。例えば、これまでは自分のために生きてきたと思っていたけれど、結婚を決断するなかで、実は、彼女と生きるために生まれてきたのだ、と気付くことがありうる。

重要なのは、人生のうち、これからの未来についてだけ変更が加わるのではないということだ。過去も含めた人生のすべてが根本からひっくり返ってしまうのである。彼女と出会ってからではなく、生まれたときから、彼女に出会う前から、僕は彼女と生きるために生まれてきたのである。(これはあくまで例であり、僕がそう考えているという訳ではありません。)それが、人格レイヤーは未完了相である、ということであり、そのような全面的な転覆可能性こそが自由なのである。

なお、平井は人生の岐路のような特別な場面で、このような自由が発揮されてると考えているけれど、僕は日常的にも、全人生がひっくり返るような自由はあると考える。それは例えば、ライオンはすべて茶色ではなく、なかにはホワイトライオンもいると気付くような場面である。これまでの僕のライオンのタイプ認識は「茶色い動物である」、というものだったけれど、テレビでホワイトライオンの赤ちゃんが登場するCMを見て、これからは、「茶色か白の動物である」という認識に置き換わる。このタイプの変化は、その気づいた時点から後だけではなく、それ以前の認識についても当てはまる。今日までのライオンは茶色かったけれど、明日からのライオンは茶色か白になる、ということにはならない。僕が生まれたときから、実は、ライオンは茶色か白だったのである。これは僕の過去から未来までの人生の全てが根本からひっくり返る大変化である。これは自由という名にふさわしいはずだ。

あえて言うならば、人生は未完了相であり、人生がひっくり返るような出会いがあるかもしれないことを自覚することが自由だと言えるかもしれない。無自覚に生きていたら、自分の生きる意味を再考することなく結婚し、ホワイトライオンが登場するCMを見ても、それがライオン概念の変更にまでつながらないかもしれない。そのような惰性に流されるような生き方が不自由ということであり、自覚により無自覚から脱し、成長する可能性を確保することこそが自由である、ということになる。

この話は、MTSにおける探索的認知の話にもつながるだろう。ホワイトライオンが登場するCMを見るという体験を注意深く捉え、ライオンは確か茶色かったはずだぞ、という想起なども総動員することで、そのCMをきっかけに、ライオン概念の根本的な見直しに至ることができる。もし、そのCMを、単なるCMのひとつとしてぼんやり見過ごし、日常のルーティンとして、自動的再認するにとどめていたら、そのCMがライオン概念を揺るがすことはなかったはずである。同様に、結婚という出来事について注意深く探索的認知をすることで、結婚による生活の変化など、細かいことに気づき、それに対する心構えをするなかで、自分の人生の意味など、様々なことを捉え直すこともあるだろう。一方で、自動的再認かせいぜい注意的再認に留まるような程度で結婚を捉えていたら、そのような機会も失われてしまう。自由とは、人生において探索的認知をする自由だと言ってもいいかもしれない。

そして、そのような探索的認知を重視する態度は、知を愛し、知を求める態度であり、人格レイヤーにおける未完了相の自覚こそが知を愛する姿勢だと言ってもいいかもしれない。ベルクソンの「自分自身を作り直すためにこそ知は獲得しなければならない」(p.215)という言葉は、そういうことなのではないだろうか。

なお、この自由の話を、価値の話と結びつけることが許されるならば、自由とは人生に対する信頼感であると言ってもいいかもしれない。

なぜなら、自由とは、未完了相としての自らの人生を、これまでとは異なる、全く未知の人生へとアップデートする自由だからである。そこには未知の人生へと踏み出すことへの恐怖がありえるから、恐怖を克服するような信頼感が必要となる。

中立的に考えるならば、自由を発揮して、自分の人生がどのように変化するかどうかは、その自由を発揮する時点では全くの未知数である。だから、自由の発揮により、自分の人生はより幸福なものに変化するかもしれないし、そうならないかもしれない。結婚により自分の人生を問い直すことが幸福につながるのか、ホワイトライオンをライオン概念に含めることが幸福につながるのかは、その自由の発揮の時点ではわからない。

それでも自由を発揮し、未知の人生に踏み出すことができるのは、人生を肯定し、信頼しているからである。この肯定と信頼こそが自由を発揮するための必要条件であり、この信頼・肯定と信頼をそのまま自由と重ねて描いてもいいほどである。そして、人生を信頼し、肯定し、自由に生きることができる状況のことを幸せと呼ぶような気がする。

※ 自由とは、新しさに向き合う態度であるという点では、平井が「一回性」(p.186)と呼ぶものとも結びつけることができるだろう。自動的再認によりタイプ的にやり過ごすこともできる体験を、あえて一回性のあるトークンとして捉え、探索的認知をすることが自由であるからである。自由とは体験を安易にタイプ化せず、あえてトークンとして向き合う態度だとも言える。

また、新しさに向き合うことは、不飽和で受け入れる余地があることだと考えるならば、自由を、MTSの飽和・中和の話ともつなげることもできる。

MTSの物質レイヤーにおいては、物質は完全に相互浸透し、飽和し、中和している。そこに生命が生まれることで、その飽和・中和状態が崩れ、潜在していた質が顕在化する。つまり、質の顕在化とは、物質が量として不飽和であることを示している。

そして、下位レイヤーから上位レイヤーへの移行時に生じる凝縮により解消されない不飽和があれば、その解消は、より上位のレイヤーへの移行に持ち越されるのである。だから、微生物の生命は感覚レイヤーで解消される程度の不飽和であり、魚の生命は体験レイヤーで解消される程度の不飽和であり、人間の生命は人格レイヤーで解消される程度の不飽和である、ということになる。

※平井は、意識の減算テーゼ(p.275)について、遅延により生じると説明するが、ここでの文脈に当てはめるならば、より正確には、意識の減算とは、遅延によって均一な飽和が解除され、不飽和が生じている状況のことを指すと考えてよいだろう。

例えば、体験レイヤーにおけるエピソード記憶が、タイプ的イメージにより中和(飽和)しているにも関わらず、個別性(一回性)のあるトークン的な側面も残しているのは、その体験が体験レイヤーでは飽和し尽くさず、人格レイヤーにまでその不飽和性が持ち越されていることを意味する。

そのような意味で、人格レイヤーにおいて人生の不飽和を受け入れ、新しさに向き合う態度、つまり自由とは、物質レイヤーからのボトムアップを可能とし、MTSの構造を創り上げることを可能とする、生命の不飽和性そのもののことなのである。

※ 平井は、「問いそのものを未完了相のもとで立て直すこと自体が、哲学の条件になっている」(p.206)とするけれど、この未完了相とは、最上位の人格レイヤーにおける未完了相だとするならば、新しさを受け入れる自由に自覚的であることが哲学の条件であるということになるのではないだろうか。

MTSにおいては、感覚レイヤーが感覚クオリアとも呼ばれる感覚の質を説明し、そして、体験レイヤーでは時間の持続や流れといった質を説明している。だが、感覚の人生レイヤーにおける人格に固有の質が何か、僕にはわからなかった。

だが、ここまで考えたことを踏まえると、人格レイヤーに固有の質とは、この人生の肯定・信頼つまり、自由と幸福のことなのではないだろうか。僕はある程度は人生を肯定し、信頼し、自由に幸福に生きている。これが人格レイヤーにおける人生の質なのではないだろうか。

それは、人生を分割し、部分的に評価することはおかしい、という直感にも合致している。例えば「ある時点の人生は肯定できず、信頼をおけなくて、不自由で幸福ではなかったけれど、ある時点の人生は肯定でき、信頼でき、自由で、幸福であった。」というような描写はどこかおかしい。

確かに、会社の上司にいじめられた時期、家族みんなで楽しく海外旅行に行った時期、といった浮き沈みはあるだろう。だけど、それはあくまでも体験レイヤー上の問題であり、それを人生全体の評価につなげることはできない。ユダヤ人の強制収容所にいた過去があっても全体として人生が幸せなものになることはありうるし、どんなに優しい家族に囲まれても全体として人生が不幸なものになることはありうる。人生は全体としてしか評価することはできない。

肯定(否定)、信頼、自由、幸福といった評価軸は、人生を人生全体として捉える、人格レイヤーにこそふさわしいと僕は思う。

※ 平井は、ムードやフレーバーやトーンと描写できるような「感じ」(p.166)や、「あの頃性」(p.182)といったものを人格質の候補に挙げるけれど、僕には、それらは、グラディエーションとして描写できる体験レイヤーを、最大限、人格レイヤーに最も接近したものとして捉えた場合の、体験レイヤーの質のような気がする。つまり人生を生まれてから死ぬまでのひとつの体験と捉えた場合の、その体験の質である、ということである。だが、人生とは人生というひとつの体験である、と捉えるだけでは漏れてしまうものがあるということを、MTSの人格レイヤーは教えてくれている。人生とは体験ではなく人格としての生命なのである。

(5) 行為

平井が『できている』で行っている議論のうち、もうひとつ僕が避けてきたものがある。それは行為についてである。

正直、僕は行為をどのように位置づければいいのかわからないのだ。

平井は、第1層の感覚レイヤーや第2層の体験レイヤーを、「感覚-運動システム」として規定しており、この「運動」とは行為のことだと捉えるならば、運動(行為)は重要な概念である。

微生物は、接触刺激を感覚したら、即座に逃げるという運動(行為)を行う。そこには接触という感覚はあるが、敵に出会うというような体験はない。だから微生物は感覚レイヤーしか装備していない。一方で、魚は、感覚により反射的に逃げるのではなく、敵が襲ってきたという体験として理解したうえで逃げるという運動(行為)を行う。だから、近くで大きな影を知覚しても、それが同族の魚なら逃げず、天敵の魚なら逃げるという判断をすることができる。つまり魚は感覚レイヤーに加えて、体験レイヤーを装備している。

このように、感覚と運動(行為)のギャップの大きさとして、微生物と魚の違い、感覚レイヤーと体験レイヤーの違いを描写する。これが「感覚-運動システム」という視点である。

感覚・体験レイヤーは感覚で始まり、運動(行為)で終わるのである。感覚が感覚・体験レイヤーの始まりを規定し、運動(行為)が、感覚・体験レイヤーの終わりを規定すると言ってもいい。この始まりから終わりまでの幅が、感覚・体験レイヤーにおける目盛りの幅、つまり現在の幅である。

ここまで平井が明確に規定しているのに、僕が何をわからなくなっているのかというと、それは、運動(行為)の偶然性の扱いである。

確かに、僕の感覚や体験は、感覚で始まり、運動(行為)で終わる「感覚-運動システム」として捉えることは妥当と思える。だけど、僕に運動機能があることは偶然的であり、思考実験としては、僕が植物のように運動ができない生物であることもありうるのではないだろうか。または、思考実験ではない現実の問題として、僕が怪我や病気により、全く身体が動かせなくなり、「感覚-運動システム」が適用できなくなることもあるのではないだろうか。その時、僕は、MTSの構造から外れ、生命でなくなってしまうのだろうか。

もし僕が、怪我や病気により全く「感覚」がなくなってしまった場合、僕が生命でなくなる、ということには同意できるような気がする。僕は想起や予期といったものも感覚の一種と考えているから、そのような広義の感覚が全くないということは、つまり意識もないということになるからだ。そのような状況を、少なくとも人間としての生命を失っている、と僕は表現したくなる。一方で感覚があり、意識もあるのに、動けないだけで人間としての生命を失うというのは受け入れられない。だから運動能力を生命に必須のものとする「感覚-運動システム」にはどこか問題があるように思える。僕が強調したいのは、運動能力を有する生物もいれば、運動能力を有しない生物もいる、という運動能力の偶然性である。

同様の偶然性は、感覚の側にもある。人間のように想起の能力を有する生物もいれば、洞窟の魚のように視覚の能力を有しない生物もいる。想起や予期を含めた広義の感覚もそして運動も、その能力を有する生物もいれば、有しない生物もいるという点で、同様に偶然性に支配されている。

そのような偶然に委ね「感覚-運動システム」を適用することは危険である。だから僕は、「感覚-運動システム」を偶然に左右されないかたちに更新することを提案する。それは、「先行外部関与-後行外部関与システム」とでも呼ぶべきものである。

外部関与とは、感覚と運動を総合する概念である。運動はその生命の外部に働きかけるものである、という意味で外部に関与している。感覚もその生命の外部のことを知覚するという意味で外部に関与している。より厳密に描写するならば、感覚は、外部のことを知覚しようとする、という意味で能動的に外部に関与することもあれば、外部のことが自ずと知覚されるという意味で受動的に外部に関与することもある。これらをすべて総合して指し示す言葉が「外部関与」である。

そして僕は、生命は必ず、外部関与を2回以上行う、ということを明確にするため、「先行外部関与-後行外部関与システム」という語を導入したい。微生物ならば、光刺激を感覚するという先行外部関与があり、そして逃げるという運動を行う後行外部関与がある。身動きがとれない人間ならば、自由に動けた頃の家族旅行のことを想起するという先行外部関与があり、そして、その旅行の詳細を角度を変えて想起するという後行外部関与がある。生命とは、何らかのかたちで先行外部関与と後行外部関与という2つ以上の外部関与を行うものであり、「先行外部関与-後行外部関与システム」というかたちで生命を定義づけることができるのである。

ここで、動きがとれない人間がなぜ、過去の思い出を2回想起するのか、という疑問が生じるだろう。一度の想起という外部関与だけで、十分に人間なのではないだろうか。

僕は、確かに、一度だけ想起するだけという生命のあり方があることは認める。だが、その想起が、一度だけでは、その想起は深いものとはならず、それは、知覚の場面に置き換えるならば、せいぜい自動的再認のレベルに留まってしまうのである。帰宅途中にぼんやりと赤信号を認識して立ち止まるようなレベルの想起である。

僕は、正直、自動的再認レベルにとどまり、そしてそこから運動にも何にも結びつかない想起というものが想像できない。通常、自動的再認は、自動的運動とセットになっている。半ば無意識に信号を認識し、半ば無意識にいつもの道を歩いて自宅まで帰る。それならば、「先行外部関与-後行外部関与システム」として捉えることが可能である。だが、一度限りの自動的再認とは、このような状況ですらない。それは例えば、無意識に信号を眺めるだけで、そこから先に何も進まないような状況である。これを生命による(拡張された)知覚と呼ぶことができるのだろうか。

もし生命ならば、無意識に信号を眺めた後、信号を渡るという運動をするか、信号に意識を向け注意深く観察するかのいずれかをするはずである。前者が、平井が「感覚-運動システム」と呼んだものであり、後者が、平井が注意的認知と呼んだものである。つまり、生命とは、「感覚-運動システム」を注意的認知により拡張した「先行外部関与-後行外部関与システム」として捉えるべきなのである。

ここには、自動的再認を生命から排除したいという僕の意図がある。先ほど述べたとおり、僕は、注意的認知にこそ自由があり、機械的な自動的再認には自由がないと考えている。僕は、自由がないものを生命とは呼びたくないのだ。

微生物にも感覚と運動の間隙に自由の余地がある。惰性でいつもの道を歩いて自宅まで帰るサラリーマンにも自動的再認と自動的運動の間には自由の余地がある。病気により身体を動かせなくなっても、過去の記憶を思い出し、更にその詳細を思い出すという二つの想起の間には自由がある。だが何も行動せず、何も深く考えない存在には自由はなく、だから生命ではない、僕はそのように言いたいのだ。

※ 感覚と運動を同列に捉えることは、感覚と同様に、運動(行動)もタイプ化を免れることはできない(p.240)ことと相性がよいと思われる。

※ 後続する外部関与がない一回限りの自動的再認に潜む問題は、平井のジガバチの例(p.264)を使うとわかりやすいかもしれない。ジガバチは、卵を産み付けるアオムシの急所を見て、見事にそこを刺し麻痺させるそうだ。ジガバチが急所を「見る」ことは、「盲目的な知覚 -パフォーマティブな「見る」-」とも表現されるが、つまり、自動的再認のことである。つまり、後続する外部関与がない一回限りの自動的再認とは、ジガバチがアオムシの急所を見たにも関わらず、それに対して何もしない状況のことである。このジガバチは本当に見ていると言えるのか、というのが僕の問題提起であり、そのジガバチは見ておらず、だから生きていない、というのが僕の答えである。

※僕は、「外部関与」における外部をかなり広くとっており、例えば、空腹を感じるという先行外部関与があり、ご飯を食べるという後行外部関与がある、という描写も可能であると考えている。空腹を感じるのは僕の身体の内部のことではあるが、空腹を感じるという内的な感覚により、僕の胃の状況という外的な状況を把握するという意味で、外部関与であると考えるのである。

また、意味記憶に基づく抽象的な思考も外部関与であると考えている。例えば、ユニコーンの角の数を考えることは、意味記憶を想起するという内的な活動により、ユニコーンという外的な想像の産物にアクセスしようとするという意味で外部関与であると考えるのである。ユニコーンはライオンのようには外部に存在しないけれど、僕の内的な活動のなかには存在しないという意味で、外的な存在なのである。

だから僕がすることはすべて外部関与であると言ってもいいかもしれない。

(6) 僕が生まれる前の過去と僕が死んでからの未来

最後に、僕が書いているもうひとつの文章につなげる話をして終わりたい。

それは、僕が生まれる前の過去と僕が死んでからの未来をMTSはどのように位置づけるのか、という問題提起である。

MTSとは、物質レイヤー、感覚レイヤー、体験レイヤー、人格レイヤーという4つの層が関連付けられ、階層化するというアイディアである。だから、人格レイヤーとしての人生の全期間と、その人生を構成するすべての体験と、その体験を構成するすべての感覚と、その感覚を構成するすべての物質が対応付けられる。

つまり、MTSにおける体験とは、人生における体験であり、MTSにおける感覚とは人生における感覚であり、そしてMTSにおける物質とは人生における物質である。

このように、MTSの構造は、僕の人生の範囲内に閉じており、僕が生まれる前の過去や、僕が死んでからの未来は、MTSのなかには居場所がない。

同様に、空間的にも、僕がいない遠い異国の出来事は、僕の体験でも、僕の感覚でも把握できないから、MTSのなかに位置づけることはできない。

MTSは、僕が生まれてから死ぬまでに直接的に体験した、または体験することの範囲でしかその構造のなかに位置づけることができないのである。

その問題を解決するためには、平井のMTSを拡張する必要がある。僕はもうひとつの文章でそのようなことをしたいと考えている。