0 はじめに

永井均先生の古希記念の退官記念的なワークショップを視聴した。

(多分互いに影響を与え合う存在である)入不二基義、(千葉大学時代の教え子である)青山拓央、(日本大学時代の教え子である)谷口一平というメンバーであり、入不二ファンであり、青山さんの本も何冊か読んでいる僕としては楽しみしかなく、かなり早めに会社に休暇の申請をして心待ちにしていた。(谷口さんのことは知らなかったけれど、永井さんの繋がりでTwitterで拝見していたあの方か、と納得。)

視聴した感想としては、まずは、「やっぱり、土俵が重なっている人同士の話って面白いなあ!」というもの。一を伝えれば十を知ってもらえる安心感というのかな。こんな人々に囲まれて、自分の哲学の周囲でワイワイガヤガヤやってくれたら、永井先生も嬉しいだろうなあ。永井先生は、自分に対するコメントより、入不二・青山・谷口の3者での相互のコメントを聞きたい、と言っていたけれど、なんとなく気持ちがわかる。

とっても似ているけれど、実は結構違う4人、できれば、そこに僕や(少なくとも何割かの)聴衆も含めたなかで、何か化学反応が起きないはずはなく、それがとても面白かった。ここからは、その面白かった中身について書いていきたい。

だけど、このイベントは録画配信も予定されておらず、また、当然、録画や録音も禁止とのことだったので、その詳細を書くことはできない。がんばってメモはとったけれど、メモの内容を詳細にネット上に上げることは避けるべきだろう。だから、ここでは、このイベントで何があったかよりも、そこであったことに僕がどう感じ、考えたか、を中心に記録しておきたい。

1 永井の鑑識眼

このイベントでの僕にとっての盛り上がりのピークはふたつあった。

ひとつ目のピークは、永井が、応答の冒頭で、自分がもし優れていたとすれば、鑑賞者として優れていたに過ぎないという話をしていた箇所である。「独在性を有意味に問うことはできないのでは」という風間質問と、無内包の現実性という入不二提案の2つの最重要事項を取り逃がさなかったという点にだけ、永井の哲学には価値があったという話である。

これは、謙遜でもなんでもなく、そのとおりなのだろうと思う。実は僕は、永井のことをそのようには見てこなかった。永井は、幼い子供の頃から自ら設定してきた「私」という自分だけの問題についてだけ考え、それを表現するためだけに、風間くんであれ、入不二であれ、ウィトゲンシュタインであれ、ただ利用してきたのだと思っていた。それは半面では正しいのだけれど、実は永井にとっては、昨日までの自分のアイディアすらも、今日の思考においては単に利用されるものに過ぎない。自分のことも、風間くんのことも、入不二のことも、ただ鑑賞し、そこに含まれているものを丁寧に取り出そうとだけしているのが永井なのである。思い起こせば、確かに永井はそのように哲学をしているのだなあ、ということに気付かされる。僕はそれが見えていなかったのだなあ、と思った。

永井哲学の深まりは、気をつけないと見過ごしてしまう。同じことを繰り返しているように見えてしまう。永井の言葉だけを借用し、哲学の問題設定にもタテとヨコがあるとするならば、そう見えてしまうのは、永井はひたすら、問題をタテに更新し続けているからなのだろう。だが実は永井は、自分の問題設定にこだわりなどなく、風間くんや入不二といった他者の指摘を貪欲に取り入れ、問題を掘り下げ続けているだけなのだ。そして今、永井が取り組んでいるのは、(昔の永井の)私の問題ではなく(風間の)独在性と(入不二の)無内包の現実の問題なのである、ということなのだろう。そうだとすれば、永井が、自分の優れたところは、風間質問と入不二提案に驚くことができたという鑑識眼にこそある、と述べたのは、字義通り、そういうことなのだろう。

2 2つの大事なもの

もうひとつのピークは、永井が青山に対して、神秘的なものが〈私〉と意識という2つもあるのは多すぎるのでは、と指摘したところから始まった応答である。青山が、神秘的なものを一つにしたいという誘惑に簡単に負けてはいけない、と応じると、永井は、自分にも神秘的なものが2つあると認める。青山の〈私〉&意識に対して、永井の2つの神秘とは〈私〉&ロゴス(言語・カテゴリー)である。更に、入不二は、自分ならば、現実性&潜在性であると応じる。(そのときに谷口は発言していなかったと思うが、きっと谷口ならば、〈〉と〈〉を埋める実質の2つである、と言うのだろう。)

このやり取りを通じて、僕の中では4人の違いがかなり明瞭になってきたように思う。

後述するように、僕は谷口に狂言回しの役割を担わせたいので、永井・入不二・青山という3人に注目すると、この場は、3つのベクトルに引き裂かれているように感じた。図にすると次のようになる。

まず、この場では、(その内実はともあれ)入不二の無内包の現実の問題が重要であるということは共有されているので、「無内包の現実」を始発点に置くことに異論はないだろう。青山はそこから意識を重視し、偶然的で常識的なこの世界を描写することを目指す。永井は言語(カテゴリー)を重視し、独在論的な構造でどこまで説明できるかに挑んでいる。

なお、この二者の関係で気をつけなければならないのは、青山は、言語(カテゴリー)も重視しているという点にある。つまり、青山は正確には、無内包の現実・言語・意識という3つの武器を装備しているということである。

一方で、永井は、無内包の現実と言語(カテゴリー)は一体化していると考えている。永井にとっては、言語により、今の私というかたちでカテゴリー化された現実こそが無内包の現実なのである。(入不二との応答でこの点を確認できたことも収穫であった。)だから、永井が重視している〈私〉&ロゴス(言語・カテゴリー)とは不可分であり、癒着した一つのものであるはずである。だからこそ、青山が重視しているものは、〈私〉+ロゴス(言語・カテゴリー)&意識というように2つと数えることができる。

それに対する入不二の立場は少々特殊であり注意が必要だ。なぜなら、入不二は現実性と潜在性という2つを重視していると述べたが、そこでの現実性とは、僕の図で丸で囲むかたちで示した「無内包の現実」ではないからだ。では、どこに「現実性」があるのかといえば、入不二ならばきっと、「この図に書くことはできない。強いて言えば、潜在性のベクトルの先「入不二(現実性)」と書いたところにこそある。」と述べるのだろう。つまり、青山と永井が重視する2つとは、真ん中の丸とそこから出る矢印の2つだが、入不二が重視する2つとは、この図では、矢印と矢印の先の四角という2つとなり、その位置づける場所がずれているのだ。

このような重なりとズレを伴いながら、4人の話は深まっていった。これはとてもスリリングだけど、どこか温かみがある、とてもいい場だった。

3 谷口の立場

僕はさきほど、谷口を狂言回しの役割を担ってもらうと述べた。だが狂言回しというのは不適切かもしれない。谷口は単なる狂言回しではなく、いくつかの役割を担っていたはずだからだ。

まず、実はかなり重要なことだと思うけれど、谷口は、この場を動かす燃料となってくれたように思う。入不二や青山は、その時間配分に応じた適度な発表を行ったけれど、谷口の発表は明らかに過剰だった。だけど、過剰な内容だったからこそ、そこには皆を触発する何かがあり、例えば、冒頭で紹介した、風間くん問題に対する永井のコメントなども引き出すことができた。

そして、その過剰な熱さは、それ自体でとても興味深いものだった。そこには、永井に導かれるようにして哲学の沼にはまり込んでいった一人の哲学者の姿があったし、その哲学者の発言にはいちいち共感できたからだ。

僕は谷口の話のなかで、クオリア問題を否定してみたら、クオリアが感じられなくなった、という話が気に入った。言われてみれば、生きることが哲学に影響を与えるだけでなく、哲学が生きることに影響を与えるということは確かにある。哲学の違いとは生き方の違いではあるだろうが、加えて、生き方の違いとは哲学の違いでもあるのは確かだろう。人は、ある程度は、考えたように生きていくのだろう。

先ほど図にした三人の違いとは、実はそのような違いなのかもしれない。僕は入不二派だから、どうして永井や青山は現実性をそのように捉えるのだろう、なんて疑問に思ってしまうけれど、谷口が言っていたように、考えが異なれば、見える景色自体が違うのかもしれない。

4 谷口の立場2

そして、谷口の話は、当然ながら、その哲学的な内容としても興味深いものだった。僕なりの理解では、谷口は、入不二と永井がどこで袂を分かつのかを見届けようとしたのだろう。クオリアや物自体や時間といったものを入不二と永井の中間にあるものとして捉え、それらを引き裂くようして、入不二の道筋と永井の道筋は別れていくと考えたのだ。

そこでのキーワードは世界寄与性である。何らかのかたちで世界に寄与しているならば、そこにある寄与成分は言語で世界の側から捉えることができる。しかし世界に寄与していないものについては、そこに何か内包があったとしても、それを捉えることができない。つまり、内包の有無と世界寄与性の有無にはずれがありえ、世界寄与性がなくても内包がある、という場合がありうると谷口は考えた。「無寄与的な内容成分」というものがありうる、ということである。谷口によれば、これが入不二のマイナス内包であり、認めるのが入不二であり、認めないのが永井である、ということになる。

そして、谷口は、そのマイナス内包とは、実は時間におけるA変容であると考えた。語りえぬものしかか語ることできないA変容言語によってだけ捉えることができるA変容である。これこそが、時間の最奥部にあるものだと言ってもよい。つまり、谷口によれば、時間こそがマイナス内包、現在の入不二用語で呼ぶならば、潜在する無限内包である、ということになる。

谷口の入不二に対する発言によれば、谷口は、入不二の潜在するマイナス内包に比べ、自分のA変容は顕在しているという点に大きな違いを見出している。入不二はどこまでも現実性は潜在するものだと考えているけれど、このようなかたちで、それを炙り出し、顕にすることもできるのではないか、というのが谷口の主張である。

5 退隠する入不二

僕はここにこそ、入不二と残る3人の立場の違いがあると感じる。

谷口に限らず、永井も青山も、無内包の現実性とは、何か議論の基底にある静的なものであるかのように捉えている。本当にそのように考えているかどうかはわからないけれど、少なくとも、そのようなものとして位置づけようとしているように僕には思える。

一方で入不二は異なる。当日の議論のなかで入不二は言っていたけれど、入不二は、自らの現実論を、永井の独在性のような議論が問えなくなる方向に進めようとしている。つまり、入不二の現実とは、永井の独在性の議論から、どこまでも退隠しようとするものである。入不二のマイナス内包(潜在性)とは、静的に議論の基盤として位置づけられるようなものでなく、動的にどこまでも把握から逃れようとするものなのである。

だから、谷口が行ったように、入不二のマイナス内包(潜在性)を、自らの独在性の議論の枠組みに取り入れ、位置づけることは、必ず失敗しなければならない。なぜなら、それが現実性だからである。

なお、入不二の無内包の現実性は、まずは潜在性として議論されるが、やがて、議論の中心は力としての現実性へと移っていく。それは、退隠する潜在性としての無内包の現実性から、退隠からも解き放たれた無関係の力としての無内包の現実性へと議論は進んでいく、と言い換えてもいいはずだ。

だが、(今回のイベントが永井のイベントだから当然だとは言え)これこそが入不二哲学の肝であるにも関わらず、永井、青山、谷口の誰もが、遍在的な力としての現実性については注目しなかった。この無関心さこそが、「無内包の現実性」とは、永井の独在性の議論と、入不二の現実性の議論の接触点であることを示しているのだろう。入不二はそこから、永井の独在性から距離をとるようにして現実性の議論を深めていき、永井(や青山)はそこを基盤として、独在性の議論に進んでいく。だから、入不二の議論の深まりの方には無頓着とならざるを得ない。(まあ、時間の都合で触れなかっただけかもしれないけれど、とにかく優先順位は低くならざるを得ない。)

6 青山の真摯さ

ここまで、入不二vs永井・青山という図式で考察してきたけれど、もうひとつの対立軸を、青山vs永井・入不二というかたちで描くこともできるように思う。(谷口はトリックスターなのであえて位置づけていない。)

青山は、自らが重視する意識を不純物として描写する。確かに、入不二の現実性や永井のロゴス的な独在性は真実のある側面を描写してはいるけれど、それだけでは足りないのではないか、そこには何か不純物が必要ではないか、という問題意識である。そして、その必要となる不純物とは、なぜかこの世界にあるこの身体と重なり合わせることができる意識なのではないか、という提案を行う。

この日のイベントでは明示的な発言はなかったけれど、きっと、ここでまず問われるべきは、「その必要となる不純物とは意識なのか。」ではなく「なんのために、意識という不純物を必要とするのか。」であろう。

僕の想像では、青山の答えは、「この当たり前の世界を説明できるようにするため。」というものになるのではないか。

そして、これも僕の想像だけど、永井も入不二も、その目的に賛同しないのではないか。きっと、彼らは、そんなことよりももっと別のことに興味があると考えていそうだし、なんで、そっちに興味があるのかと聞かれたら、そっちのほうが面白いから、とだけ答えるのではないだろうか。永井と入不二には、共通して、そんな社会不適合者感が漂っている。

それに比べて、青山は、もっと世の中に真摯に向き合っているように思う。もしかしたら青山も同じ穴の狢で、たまたま彼の興味がそういうものだった、というだけの話かもしれないけれど。

とにかく僕は、議論の隙間を見つけ、それを不純物で埋めていくという青山の姿勢は、とても真摯なものだと感じるのだ。

そんなことを考えていて、僕はどっちのタイプなのだろうなあ、とふと思った。青山にとっての永井のような人が僕にもいたら、僕も青山のようになれるのかもしれないなあ、それはとても幸せなことだろうなあ、と、なんとなく羨ましく思った。

7 一方向性

ここまで、あまり発表の詳細には触れないようにしていたけれど、僕は入不二ファンなので、入不二の発表にあった断裂と循環の議論については触れておきたい。永井の風間くん問題に見いだされる一方向性には、断裂と循環があるという指摘である。(入不二は、自分の発表のパートだけは動画で残すと言っていたので、これからでも観ることができると思う。)

入不二の診断によれば、永井の「私」としてカテゴリー化された無内包の現実性には、〈私〉から《私》という一方向の推移を達成する力はない。なぜなら、〈私〉には、それぞれの〈私〉としての《私》を能動的に構成する力はなく、〈私〉と《私》の間には断裂があるからである。

また、仮に〈私〉から《私》への一方向の推移が成し遂げられてしまったら、〈私〉も《私》も同列に位置づけられてしまい、それは一方向ではなく循環になってしまうからである。

風間くん問題について、一方向性として描写することには、いずれにせよ無理があるのだ。

だが、入不二は、一方向性の議論におけるこのような障害は、一方向性の議論の誤りを示しているのではなく、それが語りうる正しさのぎりぎりの際に到達していることの証左であると考えているだろう。一方向性の議論は、断裂と循環があるからこそ正しいのである。

なぜそう言えるかと言えば、入不二の現実性の議論も、同様の問題を抱えているからだ。入不二が『現実性の問題』で提示した(僕が好きな)円環モデルによれば、入不二の円環モデルの12時のところには、絶対に超えられないけれど、そこを超えてしまったらなかったことにされてしまうギャップがある。入不二自身はそうは言っていなかったけれど、ここにあるのも断裂と循環である。永井の断裂と循環と、入不二の断裂と循環が全く同じものかどうかはわからないけれど、かなり近いものであることは確かだと思う。

そして、ここにこそ、谷口のA変容というアイディアが活きてくるように思う。(非公開の文書を引用するのはよくないかもしれないけれど、一部なので許してください。)谷口のテキストに「概念は、時間によって、そしてただ時間によってのみ、受肉する。」という記載があった。主語を概念としていいかどうかはわからないけれど、超えられるはずのない断裂(ギャップ)を飛び越え、それをなかったものにして循環させてしまうのは受肉する時間である、ということは、かなり言えそうな予感がある。

ただし、そこでのA変容とは「コンロの上で熱湯がぽこぽこしている」のような内包があるものとすることはミスリーディングだと思う。まさしく、ギャップを飛び越えてしまう不思議としてだけ、時間を捉えるべきであるように思える。

8 行われなかった応答

という訳で、結局、この文章が最も伝えたかったことは、このイベントはとても面白くて、刺激的で、色々考えさせられた、ということなのだけど、もうちょっと、このあたりも聞きたかったなあ、という思いも実は少し残っている。

ひとつは、永井先生が入不二先生への応答で、「入不二の議論では、なぜ私が特異点になるかを示せていない。」というものがあったが、入不二先生から、この指摘に対する応答が聞いてみたかった。

もうひとつは、その逆の質問になるのだけど、「なぜ永井は私や今といったカテゴリーを現実性と結びつけ、そこを議論の始発点とするのか。」という疑問が僕のなかにはあり、こちらは永井先生から答えが聞きたかった。

だけど、実は答えは予想できていて、「そう考えるのが面白いから。」とか「そうとしか考えることができないから。」というものになるのだろう。谷口のクオリア否定のエピソードを踏まえるならば、そのように問い、考えることしかできないということこそが、その哲学者の生き方ということなのだろう。(そういえば、永井先生はイベントの中で「根拠はないけれど、そっちのほうがうまく説明できそうな気がするから、くらいの軽さで哲学的な立場は選んでいいと教わった。」というような話をしていた。)

そういう哲学が、平日にも関わらず、何百人に視聴され、こんなに人気を集めるなんて、なんて楽しい世界なんだろう。という感想でした。