※8000字以上あるけど哲学濃度は低めです。前にも投資についての文章を書いたけど、また書こうかな。(https://dialogue.135.jp/2020/11/29/toushi/

1 DIE WITH ZEROの主張

『DIE WITH ZERO』という(多分有名な)ビジネス書を読んだ。

この本が言っていることは、「お金を、貯めこむのではなく、物を買うのでもなく(旅行のような)経験に使う勇気を持て」という一言に尽きるだろう。

なお、著者は「過去の経験は何度も思い出して味わうことができるから、経験の価値は複利計算で高まる」といった仮説も提示する。だが、この本に書かれている話はすべて、このたったひとつの主張に説得力を持たせるために行われているように思える。

(他にも、子供にお金を渡すなら相続ではなく早めに渡せ、とか、老後の不意の出費に備えるなら貯金ではなく保険にしろ、とかすぐにでも役立ちそうな、実務的で納得感のあるアドバイスもあった。また、お金より時間と健康が必要、といった話もあった。これらも、冒頭の主張に収斂するだろう。)

なお、この主張の述べ方は僕のオリジナルである。例えば僕は「~勇気を持て」としたが、実はこの本では「勇気」のような心構えは強調されない。事実として、経験の価値を考慮した場合の論理的な帰結を示すだけである。だが、当然、(誰もが感じるだろう)お金を手放すことの不安を考えるならば、そこには暗黙裡に「勇気」が求められるはずではないか。(だから「~勇気を持て」とした。)

一方で、この本は、その勇気を、蛮勇ではない裏付けのある勇気とするために、心構えのような精神論ではなく、論理的な語り方を選んだのだろう。そのような違いはある。

2 「物を買うのでもなく」

この主張を細かく見ていくと、まずこの主張に含まれている「物を買うのでもなく」については、僕には響かなかった。なぜなら、既に実行済みだったからだ。

お金は、必要な生活費に充てたあとは、物に使うか、経験に使うか、貯めこむしかない。

(例外として、寄付や贈与があるが、寄付は、広くはお金を通じたボランティア行為の経験とも言える。また、子孫への贈与は別に論じる。)

(誰もが最重要と認める生活費の次に)物ではなく経験に使うべき、というのは既に皆が知っている大原則だろう。「物より形に残らない経験のほうが、価値がある」というのはよく言われる話だ。

(例外的に、この大原則に反旗を翻す物重視派の方もいるかもしれないけれど、そのような人は、これだけ世間で言われても宗旨替えをしないのだから、重ねて筆者が言っても意味がない。)

いまさら筆者に言われるまでもなく、僕を含め、大多数を占める経験重視派は、すでに、物を買うより、経験にお金を使っているのである。

3 「貯めこむのではなく」

一方で、「貯めこむのではなく」は僕の心に強く響いた。確かに僕は将来が不安でお金を貯めこみすぎている。お金というのは使うためのものだから、使わずに死んでしまったらもったいない。それはわかっているけれど、足りなくなったときが心配で、つい貯めてしまう。

ところで、お金を貯めこむ方法は二つある。収入を増やすか、支出を減らすかである。収入を増やす主な方法は「仕事」で、支出を減らす主な方法は「倹約」となる。(資産運用という収入については後ほど触れる。)

だから、この本は「仕事をしすぎず、倹約しすぎるな」と言っていることにもなる。

そこで、仕事と倹約について、「お金を貯めこまない」適切なあり方を考えてみよう。

3-1 倹約

倹約には、主に将来予測と子孫に対する価値観と関わっているだろう。なぜなら、必要なお金の総額は、

「必要なお金の総額」=「自分が死ぬまでの間に使いたい額」+「子孫に残したい額」

という計算式で表せるだろうからだ。

3-1-1 将来予測

「自分が死ぬまでの間に使いたい額」に着目するならば、適切に倹約するためには、適切に将来を予測し、必要額を見積もる必要がある。

適切な見積もりとは、過大でも過少でもなく、ちょうどいいことであり、そのためには、できるかぎり正確に将来を見積もる必要がある。

ちゃんと予測しないと、不安から見積もりが過大になりがちだ。それが積み重なれば、必要額が大きく上振れする。すると倹約のしすぎとなり、結局お金が無駄になってしまう。

確かに将来はわからないものだし、そのわからなさに価値があるとも言えるけれど、適切な倹約のためには、わからないなりに、できるかぎり正確に見積もろうと努めることが必要である。

最近、FIREが流行っているけれど、その理念的な側面はともかく、FIREには、将来の必要額を適切に見積もるためのノウハウ集としての価値はあると言えるだろう。

3-1-2 子孫に残す

もうひとつのお金を倹約する動機としては、(配偶者などの存命の家族を含む)子孫にお金を残したい、というものもあるだろう。彼らに苦労をかけたくないからお金を残したいという気持ちはよくわかる。

だが、子が孫を生み、孫がひ孫を生む、というように、子孫は永遠に続くかもしれない。それならば、残すべきお金も無限大となってしまう。

(無限大は言い過ぎでも)配慮の範囲を広げると、すぐに必要額は膨れ上がり、大富豪でなければ対処できないものになる。

(全く働けなくなるといった極端なリスクにも対処するためには、一人1億円は必要になるだろう。また、子供は2人、孫は4人、ひ孫は8人と増えると考えるならば、14人に14億円残す必要がある。)

(この計算はともかく)要は、子孫にお金を残したいという欲求にはきりがなく、その欲求を満たすための倹約にもきりがないのである。

だから、適切に倹約するためには、この子孫の問題は割り切るしかない。子供が働かない場合までは気にかけない、子供は作らない、などと。

そこには論理や哲学の出番はなく、ただただ自らの想像力や価値観とも相談しながら、どこかで割り切るべきなのである。

3-2 仕事

お金を貯めこみすぎないためには、収入と支出の両面から対応が必要となるが、ここまでで、支出については、将来を適切に見積もり、また、子孫の問題は割り切るようにして倹約するというアプローチが重要であることがわかった。

一方の収入についてはどうだろうか。

収入をコントロールする主な手段は「仕事」となるだろう。(手段としては、ほかに資産運用などもある。)

なお、当然、仕事にも色々あり、また、仕事に対するスタンスも色々で、例えば、仕事こそが生きがいということもありうる。

だから、ここでは仕事とは「リソース(時間や体力や気力)をお金に変換するもの」と狭く解釈することにしよう。そのうえで、「お金を貯めこみすぎない」という問題を「リソースをどの程度お金に変換するか」という「程度」や「(お金とリソースとの)バランス」の問題として捉えるのである。

このように整理すれば、どの程度お金に変換すべきかについての答えは簡単に出るだろう。

つまり、「必要なお金の総額」=「自分が死ぬまでの間に使いたい額」+「子孫に残したい額」=「仕事で稼ぐべき額」となるのである。

先ほどの将来予測や割り切りにより「必要なお金の総額」を算出したなら、その額を仕事で稼げばいいのである。だから、常に周囲と合わせて全力で働く必要はなく、達成ペースに合わせて仕事量は調整するべきだ。また目標額に到達したら何歳であっても仕事をやめてもいい。

これは、非常に当たり前の話である。

(これを、ある信念に基づき極端にやっているのがFIREだが、そこまでの信念がなくてもいいと僕は思う。また、この収支計算には、厳密には資産運用の利率計算などが含まれる。)

4 経済的自由

この本の効用は、この当たり前を再確認することにあるだろう。必要以上は稼がず、使い切って死ぬのがいい、という当たり前の事実である。

なお、これを当たり前と整理できるのは、仕事というものを、時間や体力や気力といったリソースをお金に変換する装置として捉えたからこそである。

だが、実際は、僕だって仕事を通じて自己実現をしているし、職場の人間関係だって重要だ。僕にとっても、そして多くの人にとっても、仕事、それ自体にポジティブな価値があり、仕事とは単なるリソースの変換装置ではない。

それに対して、この本は、仕事自体のポジティブな価値をきちんと捉えられるのは、まずはいったん、変換装置としての仕事を離れ、経済的自由を手に入れたからこそだと指摘する。(そういう述べ方はしていないけれど。)

漫然と仕事をしていては、その仕事がリソースの変換装置なのか自己実現の場なのか、よくわからなくなってしまう。だから、まずは経済的自由を手に入れ、リソースの変換装置としての側面を有する仕事からいったん離脱することが重要となる。そこではじめて、仕事というものを俯瞰して眺め、本来仕事にあるはずのポジティブな価値を解像度高く捉えることが可能になるのである。

(なお、この経済的自由の獲得は想像上のものであってもいい。例えば、仕事をしながらでも、将来予測を適切に行うことで、現在の収入から、いつ経済的自由を手に入れられるかわかる。その達成後も働くことを想像するならば、その追加分は、リソースの変換装置ではなく、自己実現のようなポジティブな価値のための仕事ということになるからである。)

5 経験

ここまでは、僕なりの言葉遣いと解釈を入れ込んではいるけれど、おおむね、この本が言っていることから外れてはいない。そして、ここまでの話は非常に納得感があると、僕は思う。

だが、ここで「経済的自由を手に入れた後、僕たちはどうすればいいのか。」という疑問が生じる。

この問題に対しては、この本の筆者も「貴重な経験のためにリソースをつかうべき」という答えをすでに出しているが、僕は賛同できない。

まず、実感として、僕自身、過去の「経験」を思い出すことがあまりなく、「経験」というキーワードが全く心に響かない。

(哲学的というよりは心理学的な話として)、一般的に、人間には異なるタイプの人がいてタイプ分類できるという考え方がある。そこから僕は、過去指向、現在指向、未来指向といったタイプ分類ができるように思える。それならば僕は未来指向で、筆者は過去指向となるだろう。

このようなタイプ分類が正しいかはともかく、筆者は、「経験」を重視する自らの過去指向的な感性を、他人に押し付けているように思える。

(僕が未来指向というとなんだか偉そうだけど、過去を振り返るより、未来についての妄想が好きなだけである。)

6 人生の成果の測定

さらに大きな問題は、それを「経験」と呼ぶにせよ、(より僕が賛同できそうな)別の名前(たとえば「感覚」や「出来事」など)で呼ぶにせよ、人生の成果を積み上げて測定できるかのように捉えることの問題である。

もしそのようなことができてしまうならば、僕たちは、成果の総量を測り、互いに人生の優劣を比較できることになってしまう。(例えば、夢中で楽しむ感覚を持った時間が長いほど、その人の人生は優れている、というように。)

僕は、そのような人生観は、間違えているとは言わないけれど、視野が狭いと感じる。僕がこれまで考えてきた哲学的な様々な問題(例えば、「幸せとは何か。」というような問題)が全く無視されているのではないだろうか。

要は、「経済的自由を手に入れた後、僕たちはどうすればいいのか」という問題は、「人はどのように生きるべきか」という古くから問われ続けてきた倫理学の問題そのものであり、簡単に「貴重な経験」といった言葉で片づけることはできないのではないか。そう僕は考えているのである。

だから、僕はこれまでどおり哲学を続け、自ら考え続けなければならない。

ただ、この本の「貴重な経験」という切り口はそう悪くないとも言える。経験を、たとえば「自分の身に起きる出来事」と言い換えるならば、将来の出来事、現在の出来事、過去の出来事というように、人生のすべてを出来事という切り口で、(哲学的にはラフすぎるにせよ)とりあえずは捉えることができるからだ。

未来指向の僕としては、「人は、将来において素敵な出来事が起きることを目指して生きるべきである」と言われれば、ある程度は賛同したくなる。

7 将来

だが、将来の素敵な出来事を目指すことには、(哲学は横においても)明確な問題がある。その問題とは、何らかの出来事を目指してしまったら、未来の最も美味しいところが損なわれてしまう、という問題である。

僕にとっては未来とはわからなくて、想定外が起きることにこそ独自の価値がある。それなのに、何らかの具体的な出来事を目指してしまったら、想定外が生じなくなってしまう。少なくとも、想定外が生じにくくなり、そして、想定外を避けるような態度になってしまう。

例えば、ウユニ塩湖に行くという将来の出来事を目指して生きるとしよう。そうすると、未来は、「(画像でしか見たことはない)あの、広大で美しい景色を見ること」として定まる。だから、もし、旅の途中で旧友に偶然出会い、一緒に別のルートを旅することになったら、それは、将来計画の失敗となってしまうだろう。

またはそこまで極端でなくても、ウユニ塩湖に行くことを目指すあまり、途中で電車を乗り換えるために降りた街が、単なる経由地となってしまい、その街の固有の魅力に気づきにくくなってしまう、という問題もある。

この本の中で筆者は、将来やりたいことをリスト化することを勧めている。だが、リスト化したとたん、その未来は色褪せて、僕にとっての人生の義務のリストとなってしまう。未来が義務に覆われてしまうのである。

(なお、僕もリストはつくるけれど、そのリストの価値は行間にこそあると思う。「ウユニ塩湖に行く」というリストならば、ウユニ塩湖に行くこと自体ではなく、行くまでの計画や、行く過程で誰と出会い、何が起きるかが重要である、といった意味である。)

8 資産運用と収支予測という仕事

さらに、その将来やりたいことのリストをもとに、DIE WITH ZEROのために将来の収支を計算することになるが、これもまた面倒な作業である。

確かに、ぴったりゼロで死ぬためには、収支予測が重要だ。だが収支予測の中でも、特に、資産運用による収入を予測するのは面倒くさい。

ここで突然、資産運用の話を持ち出してしまった。収入のメインは確かに仕事だけど、仕事を辞めてからの老後も踏まえて、なるべく効率的にお金を使い切るためには、資産運用も避けて通ることはできない。(すでに使い切れないことが確定しているような資産家は別にして。)

だから、ここまでの話を反映するなら、収支予測の式の最終形は次のようなものになるだろう。

「必要経費(日々の生活費に加え、医療や介護の費用なども含む)」+「やりたいことリストの実現のためのお金」+「子孫に残したい額」=「仕事で稼ぐべき額」+「資産運用で増やすべき額」

このうち、必要経費・やりたいことのためのお金については、計算は面倒ではあるけれど、いったん試算したならば、結婚や出産など、状況が大きく変わらなければ、そのライフプランを見直す必要はない。

子孫に残したい額についても、割り切りの問題なので、見直すにしても手間はかからない。

また、仕事による収入についても、安定した仕事についていれば、おおむね予測できるし、また、仕事が不安定でも、ある程度割り切りで試算するしかない。

一方で、残る資産運用による収入については、全額を銀行の定期預金に預けている、といったシンプルな状況でない限り、株を買うか、金を買うか、などと経済状況の変化などにより、都度、見直す必要がある。

特に、この本を読むような人は、仕事以外の収入に関心が高く、資産運用にもこだわる人が多いのではないだろうか。

すると、資産運用やその運用成果を踏まえたDIE WITH ZEROのための収支予測の都度の見直しがもうひとつの仕事になってしまう。リソースの変換装置としての仕事から卒業し、経済的自由を手に入れたとしても、依然として資産運用と収支予測という仕事が残ってしまうのである。(FIREにより仕事から解放され、仕事による収入がなくなれば、余計、資産運用に固執するようになるかもしれない。)

これは、経済的自由を謳歌するためには無視できない負担である。

僕は、収支予測により、仕事から解放され経済的自由を得ることを目指すこの本のアプローチは及第点とは言えると思う。だが、このような問題があることを踏まえると、将来に向き合う態度としては、どこか改善すべき点があるように思える。

9 リソースの変換装置としての仕事

多分、問題は、この本が、仕事というものを、「リソースの変換装置としての仕事」と「自己実現などのポジティブな価値がある営み」という二面性があると捉え、前者としての仕事は(変換される金額以上の)価値のないものとして切り捨てたところから始まるのだろう。

実は、哲学的には、そう簡単に仕事というものを二つに切り分けることなどできない。

例えば、すべての概念は蜘蛛の巣のように相互に関連しあって成立している、と考えるホーリズムの立場に立つなら、仕事に限らず、ある特定の概念だけを取り出して(二面性の切り分けのような)操作をすることは不可能である。

また、僕には、哲学的直観として、単純化のために切り捨てたものにこそ大事なものが宿っているという予感がある。

時間や体力や気力といったリソースを費やして働いて、ようやく手に入れた100万円と、万馬券が当たった100万円では本当に同じ価値なのだろうか。お金とは、本当に財やサービスを手に入れるための手段に過ぎないのだろうか。

僕には、仕事やお金を単純化して捉えることで、見落としてしまっている何かがあるように思える。ここで立ち止まって考えるべきことがあるのではないだろうか。

10 自由

ここまで僕は、この本の「経験」という言葉遣いや、未来や仕事やお金の捉え方について、哲学的な見地から批判を加えた。

だが、それでも、この本には大きな啓蒙的な価値があると思う。(この本を読んですぐ、僕は、老後の介護の問題を貯金ではなく保険で対処したいと思い、急いで介護保険について調べることにした。)

特に価値があると感じるのは、仕事やお金のことになると、人は前例踏襲の自動運転モードになってしまう、という指摘である。僕たちは、「みんな定年まで働いているから」「仕事をするのも自己実現につながるから」などと周囲の状況に流されて受け身で働きがちである。だが、そうではなく、「実のところ、自分自身はどのくらい働く必要があるのか」と能動的に考えて生きるべきなのである。

自動運転モードとは、目の前に本当はあるはずの選択肢に注意を払わない生き方である。しかし、よく考えてみれば、僕たちの目の前には無限の選択肢がある。僕は、今日付けで辞表を出し、明日からユーラシア大陸横断の旅に出ることだってできる。

なお、この話において、実際に辞表を出すかどうかはともかく、目の前にあるはずの「辞表を出す」という選択肢に気づくことのほうが重要である。なぜなら、選択肢に気づいたうえで、選択肢を自ら選んで生きることこそが、能動的ということだからである。(選択肢に気づいたうえで、あえて辞表を出さない、というのもひとつの選択である。)

そして、選択肢に気づくためには、お金が役に立つ。もし、死ぬまでに十分に暮らすことができるお金さえあれば、辞表を出すという選択肢を真面目に捉えることができる。だから、能動的な生き方は経済的自由が支えている、とも言える。

この本は、この経済的自由のうちの、「経済的」のほうを強調している本だと言えるだろう。

一方で、この経済的自由のうちの、「自由」のほうを強調することもできるだろう。

僕たちは能動的に生き、そこにある選択肢にまず気づくことが「自由」である。「経済的」自由かどうかはともかく、それこそが「自由」なのである。そこから、真の人生は始まるのではないか。

読み方をちょっとずらすならば、この『DIE WITH ZERO』という本は、お金と仕事をきっかけとしつつ、実は、この普遍的な「自由」について語っているのだと誤読することもできるのではないだろうか。

筆者は、ほとんどのサラリーマンが関心を持っている、お金と仕事を入口にして、僕たちを自由で能動的な人生にいざなっているのである。