(読み返すとまとまっていないので、今のところ備忘録です。)

僕は、哲学カフェ・哲学対話ガイドという、哲学カフェを紹介するサイトを運営している。
時々「どうして、そんなサイトを運営しているの?」と聞かれる。
そんなときは「僕が哲学カフェというものを知ったとき、情報を見つけようとしても、なかなか一覧性のある情報がなくて困ったから。」というような返事をしている。
そのこと自体は嘘ではないのだけど、もうすこしきちんと説明しておいたほうがいいと思い、この文章を書くことにした。

僕にこんなことを聞く人は、こんな手間がかかることをして偉いねえ、というニュアンスを込めて質問しているように思う。直接僕と話すことのない人たち、このサイトを見るという関わりしかない人たちからも、誰かのために役立つことをしていて偉いなあ、と思われていそうな気がする。
僕の活動は倫理的に正しいものとして扱われている。それがなんとなく居心地が悪い。
確かに人の役に立っているように思うし、褒められるのは好きだから、もっと褒めて、ちやほやして、と思うけれど、やっぱり、どこか後ろめたい。

僕にとっての、このサイトははっきり言って名刺代わりだ。
僕は、哲学対話、つまり哲学の対話をする、または対話的な哲学をするということには哲学的に重要な意義があると考えている。
だから、この業界には、長期的かつ主体的に関わっていきたいと思っている。この業界のなかでの人間関係を密なものにしたいと考えている。
その目的に最も合致していて、最もオーソドックスなやり方は、哲学対話の研究者になり、修士、博士といった肩書を得て、学術的に関わるというものだろう。
ただ、40代社会人の僕には、そこまで金をかけられない。それに、今更、既存の学問の枠内に押し込まれて自由な活動ができないのは嫌だ。そんな時間はない。
だから次善の策として、僕の活動を効果的にアピールするという道筋を考えた。人に役立つようなもの(情報)を提供することで、その見返りに人から認知をもらうというやり方だ。

この業界は、明らかに売り方が下手だ。お金にできるかどうかだけでなく、こんなに魅力的なコンテンツを広めるのが下手だと思う。そこに、僕がつけ入る隙があったのだ。だから僕は、こんな紹介サイトを構築している。

なんていうことを当初は書こうと思っていた。
だけど書き進めるうちにわからなくなってきた。
そもそも僕は、何を得ようとしてこんなサイトを運営しているのだろうか。

人のためではない。自分のためだ。
僕は、この哲学対話業界に入っていきたい。そのための名刺代わりだ。
僕のことを認知してもらって、そこでの人間関係を築きたい。そのためだ。
ここまでは確かだ。
だけどわからなくなる。
認知してもらって、人間関係を築いて、その先で、僕は何をしたいのだろう。

それは、僕の哲学のためであったのではないのか。僕の「対話の哲学」のためであったのではないか。
整理しよう。僕は哲学において何をしたいのか。
僕は、僕が考える「対話の哲学」というアイディアに磨きをかけ、そして残していきたい。
当然、誤りがみつかれば撤回し、よりよいアイディアを探すということも込みでだけど。

そのためには、哲学対話界隈での僕の認知を高めることは、例えば本を出したり、多くの人に読んでもらったり、といったことにつながるだろう。それは僕の哲学に役立つ。
ただ、それは必須ではない。本ならばお金さえ払えば出せるだろうし、僕の哲学を残すことは読者の数が問題になる訳でもない。せいぜいあったほうがいい、というくらいの話だ。

この界隈は哲学対話について真剣に考えている人が多いから、そのなかには僕の「対話の哲学」に役立つアイディアを持っている人もいそうだし、もしかしたら僕のアイディアを色々と批評してくれる人もいるかもしれない。そのような人たちの力を借りて、僕は僕自身のアイディアをもっと良いものに練り上げることもできそうだ。そのような役立ち方もありそうだ。
だけど、あえて哲学対話の人間関係限定ではなくてもいい気がする。ある面ではアカデミックな哲学の場のほうが、より深い考察につながりそうにも思う。これまでのところ、実際にそうなっている気もする。

そう考えていくと、哲学対話のサイトの運営と僕の哲学とをつなげることには少々無理がありそうだ。
どうも僕は、僕の哲学とはあまり関係なく、ただ、この界隈の人たちに出会いたかっただけなのかもしれない。確かに、これまでの出会いはとてもよいものだった。そして、僕がこのサイトをやっていたからこそ出会えた人も多いように思う。

僕は、何かのため、という言い訳がほしかっただけなのかもしれない。
哲学のためでもなんでもなく、ただ、人と出会いたい、そんな理由で人との出会いを求めるのが恥ずかしかったのかもしれない。

また、こうして考えてみると、否定したかった、世のため人のためにこのサイトを運営しているというのもあながち間違いではないような気がしてきた。世に僕が好きな哲学が広まるといいなあ、そんな気持ちも僕の心のどこかにある。それが人のためかどうかはわからないけど。ただ、それでも、哲学対話を通じて広まっているあの哲学が、僕が大好きなこの哲学と同じものかどうかは慎重に検討する必要がある。

なお、僕は哲学カフェの開催もしているが、それはもう少し哲学的な意義があるように思う。なぜなら、哲学カフェでの対話は、直接的に哲学の刺激になるし、哲学をして消耗した僕を癒やしてくれもするからだ。そして、主催者としての関わり方は、参加者としての関わりとは少し違う。より深い刺激となり、また、より深い癒やしとなる。
最初はそこまで考えず、やはり名刺代わりの一環として、という思いもあったが、最近はそう思う。ただ、やりすぎると得るものよりも消耗するもののほうが多い気がするけど。