facebookでのやりとりで、成り行き上、共謀罪賛成の人と、共謀罪反対の人の議論の間に入った。
僕自身は、やや共謀罪賛成かな、という感じなのだけど、そんなこととは別にとても興味深いやりとりだった。

共謀罪に賛成する主な理由は、「共謀罪を導入しないと、テロ等準備罪を取り締まることができず、日本でテロが発生する危険が高まる」というものだろう。
一方、反対の主な理由は、「共謀罪を導入すると、国家が個人のプライバシーに介入する危険が高まる」というものになるだろうか。
どちらも重要な論点だが、僕が興味深かったのは、この二つの話は重なっているようで実は重なっていないという点だ。
賛成派がテロの恐怖を論証したからといって、プライバシー介入の危険を論破できる訳ではないし、反対派がプライバシー介入の危険を明らかにしたからといって、テロの恐怖を払拭できる訳でもない。
その場合、賛成派と反対派のそれぞれが、自説を強化するとともに、相手の説を論破しなければならない。きちんと議論しようとするならば、次のようなかたちで、2つの土俵で、4つの主張が繰り広げられなければならない。

(賛成派の土俵)
1) 賛成派の賛成説強化の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入しないと、テロ等準備罪を取り締まることができず、日本でテロが発生する危険が高まるという主張は確かだ。」

2) 反対派の賛成説論破の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入しないと、テロ等準備罪を取り締まることができず、日本でテロが発生する危険が高まるという主張は誤りだ。」

(反対派の土俵)
3) 反対派の反対説強化の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入すると、国家が個人のプライバシーに介入する危険が高まるという主張は確かだ。」

4) 賛成派の反対説論破の主張
「◯◯の理由により、共謀罪を導入すると、国家が個人のプライバシーに介入する危険が高まるという主張は誤りだ。」

というように。

これは、攻守が分かれているという意味で野球に近い。いや正確にはアメフトを例にしたほうがいいだろう。アメフトは、AチームとBチームが、それぞれ、オフェンスとディフェンスの二つのチームに分かれて戦う。

つまり、次のような感じで力と力がぶつかり合うことになる。

(Aチーム(賛成派)の攻撃時間)
1) Aチームのオフェンスチーム(賛成派の賛成説強化)
2) Bチームのディフェンスチーム(反対派の賛成説論破)

(Bチーム(反対派)の攻撃時間)
3) Bチームのオフェンスチーム(反対派の反対説強化)
4) Aチームのオフェンスチーム(賛成派の反対説論破)

というところだろうか。

このように、賛成派は、自らの主張の土俵と、相手方の主張の土俵の両方で戦わなければならないし、反対派も同様に、二つの土俵で二つの戦いを遂行しなければならない。
そして、ジャッジは、今、どちらのターンで、どちらの土俵で戦われているのかを整理しなければならない。ディフェンス中にクォーターバックが乱入してきたら、退場させなければならない。
共謀罪に限らず、議論においては、この整理についての共通認識を持つことが第一に重要なのではないか。というのが僕が思ったことだ。

しかし、これで整理が終わった訳ではない。
もし、賛成派の土俵では賛成派が勝利し、そして、反対派の土俵では反対派が勝利してしまったらどうなるのだろう。
一勝一敗で引き分けだから、この問題は棚上げ、という訳にはいかない。共謀罪という問題は、安易に棚上げできるものではないだろう。

更に言えば、一勝一敗になるという事態はほぼ必然だとも言える。
なぜなら、賛成派の土俵では賛成派が勝利し、反対派の土俵では反対派が勝利することはほぼ確実なのだから。
これは、ターンオーバーがあるアメフトよりも、攻撃と守備がしっかり分かれている野球で考えたほうがいいだろう。
野球では、Aチームの攻撃(回の表)では、Aチームだけが点数を獲得するチャンスがある。そして、回の裏ではBチームだけが点数を獲得できるようになっている。どんな強豪チームでも、守備中に得点することはできない。
これと同じように、共謀罪賛成派は、反対派の土俵で共謀罪賛成の主張を押し通すことはできないし、反対派も同じだ。相手の土俵でできるのは、せいぜい相手の主張を無化するところまでだ。
賛成派がどんなに華麗に「共謀罪を導入すると、国家が介入する危険が高まるという主張は誤りだ。」と論証したとしても、だから共謀罪を導入すべきとはならないし、反対派が「共謀罪を導入しないと、日本でテロが発生する危険が高まるという主張は誤りだ。」と隙なく論証しても、だから共謀罪を導入してはいけないことにはならない。
守備側ができるのは、せいぜい相手の得点を0点に抑えるところまでなのだ。

それでは、どのように勝敗を決めればいいのだろう。
野球ならば、攻撃側がホームベースを踏んだ回数を比較すれば勝負がつく。Aチームが4回、Bチームが2回なら、4対2でAチームの勝利だ。
しかし、このような論争の場面では、そのようなルールはない。
もし、一方が相手の土俵で相手の主張を完全に抑え込み、相手側に完全にゼロ点と認めさせ、そして、自らの土俵でもそこそこの勝利をおさめたならば、勝利が明らかということはあるだろう。
しかし、このような現実的で複雑な問題について、相手の主張を完全にゼロ点で抑えるような華麗な勝利というのはなかなか考えにくい。
だから、大抵の場合、最終的な勝負を決めるのは、二つの土俵での勝敗の程度の比較という事にならざるをえない。

そして、当然、ここで二つの土俵をまたいだ勝敗の程度の比較という戦いが始まる。
ここで三つ目の土俵が登場する。
これは、スポーツのルールを、スポーツをやりながら決める作業に似ている。野球ならば、どのようなかたちでもホームベースを踏めば1点は1点だが、そのルールを、野球をやりながら決めなければいけないのだ。野球をやりながら、都度、「うちのチームのこのホームランのほうが、さっきのおたくのスクイズよりも価値があるんじゃないか」、「2回表のホームランより、この9回裏2死からのホームランのほうがすごいんじゃないか」というような議論をしなければならないということだ。

残念ながら、多分、この議論に近道はない。
しかし、この議論を少しでも有意義なものにするためにも、先ほどの二つの土俵の整理は必要だ。
野球なのに、イチローがレーザービームのような送球でアウトを取ったから守備側に1点、とか、デッドボールで怒ったバッターが華麗なキックを見舞ったから1点というようなことがあってはならない。そんなことがあったら、更に議論が複雑になる。
野球において何が得点として考慮されうるのかは、この第三の土俵の戦いに入る前に整理が可能だ。
それと同じように、共謀罪の議論においても、賛成派の土俵ではどのような結論になるのかを明確にし、そして反対派の土俵でも同じように結論を明確にすることで、二つの結論を見渡し、総合的な視点から結論を出すことが少しは容易になる。

そうすれば、例えばこんなふうな議論ができるのではないだろうか。

確かにテロの脅威があるのは認めるけれど、別に◯◯の対策をとれば、ゼロにはできないけどテロの脅威は抑えられるね。(ここまで賛成側土俵の結論)
一方、国家権力の暴走というのは、高い確率で◯◯という悲惨な結果をもたらすから、そのような暴走につながることはなるべく避けるべきだね。(ここまで反対側土俵の結論)
だから高い確率で不幸なことが起きる共謀罪導入はやめよう。(確率という観点で第三の土俵を整理)

または、

現にテロの危険はあるし、将来的にはともかく、当面の代替策がないことは明らかだね。(ここまで賛成側土俵の結論)
一方、国家権力の暴走もありえなくはないけど、国家が悪用しようと思えばできることは他にも色々あるから、理念的にはともかく、現実的には共謀罪だけ捉えてもあまり意味はないね。(ここまで反対側土俵の結論)
だから、理念よりも現実を見て、共謀罪を導入することにしよう。(現実と理念の比較という観点で第三の土俵を整理)

というように。

なお、僕は、この議論の中身がこれでいいと思っている訳ではない。

注目したいのは、いずれの例でも、「確率」とか「現実と理念の比較」というような、「ものさし」があるということだ。
何らかのかたちで、賛成側の土俵と反対側の土俵の二つの土俵を貫く「ものさし」がなけえれば、第三の土俵において、きれいな結論を導くことはできない。
それは、野球ならば、ホームベースを踏んだ回数で勝敗を決めよう、という「ものさし」のことだ。
二つの土俵において、議論をきちんと整理しておくことで、二つの土俵に共通する「ものさし」が見えやすくなる。または、共通の「ものさし」が明らかになるよう、二つの土俵での議論をやりなおすことすら可能だ。

そのような整理をしたうえで、それを踏まえて、第三の土俵での議論となる。

この第三の土俵では、両者が自らの土俵から離れ、協力してどのような「ものさし」を採用するか合意を目指すという姿勢が重要となる。
戦いは二つの土俵でやればいい。そこで力を使い果たせば、第三の土俵では対立のゲームではなく協力のゲームが可能となる。
そうすれば、完全な合意だって夢ではない。これこそが、対話の真骨頂なのではないだろうか。

と、哲学対話が好きな僕としては思う。

一方で、簡単に「ものさし」に合意し、きれいな結論を出してしまったらつまらない、とも思うけれど。

3つの土俵(PDF)