月別アーカイブ: 2017年8月

僕の哲学カフェ参加(開催)の心がけ

哲学カフェに参加するとき、僕は自分のモードを少しだけ切り替えるようにしている。深呼吸をして、少し心を落ち着ける感じ。
そのようにして対話に入り込み、いい感じで話が盛り上がってくると、人と人の言葉が絡み合い、参加者という人間とは別に、対話の「場」それ自体が独立して存在するように思えるときがある。

時々しか気付かないけれど、こういう意味での哲学対話の「場」というのは、いつも潜在的に存在しているのではないだろうか。
そして、哲学対話とは、参加者全員で協力し、この「場」を育てるゲームなのではないかと思う。繊細な植物を育てるように。

この「場」は、対話のなかでの言葉を養分にして成長する。発せられた言葉だけでなく、その言葉が引き起こす波紋、無言のなかでの心の揺れ動きや、眼差しや息遣いといったものさえも養分とする。

だからと言って、うまく話す必要はない。感動させたり、変に面白がらせたり、論理的に説得したりする必要はない。
必要なのは、話す技術ではなく、聞く技術だ。
他の人の発言が自分の考えと違っていても、浅い考えと思えても、その発言に耳を傾け、その中にある最良の部分を見出し、受け止めることで、それは「場」を成長させるための栄養となる。
「場」が成長するかどうかは、話し手ではなく、聞き手にかかっている。

しつこいが、話す技術は二の次だ。
だから、自分の考えがうまくまとまっていなくても、これまでの話の流れから少々ずれていても、その発言が、「場」を育てようとする真摯なものと思えるなら、他の参加者を信頼し、言葉を放り投げてしまっていい。きっと誰かが拾ってくれて、それも「場」を成長させるための栄養となる。
(一見、誰も拾ってくれなくても、きっと誰かの心には残って、それも栄養になる。)
「場」の力に身を委ねて、自分ではなく「場」が話しているのだということにしてしまえばいい。

ポリアモリーってやっぱり難しい

ポリアモリーってやっぱり難しい

何かの拍子でポリアモリーという言葉を知り、気になっていた。
僕にはポリアモリーな面があるのではないかという気がしていた。
ポリアモリーの反対はモノアモリーと言うらしいが、一夫一妻というキリスト教的な道徳を押し付けられるのは理不尽で窮屈だ。ポリアモリーはそんな締め付けからの自由が感じられる。
最近、LGBTの話もメジャーになってきているし、ポリアモリーも、その一環ではないか。性的嗜好の自由であり、更に既存の価値観からの自由でもある。そう思っていた。

(ここからは、ポリアモリーを「ポリ」。モノアモリーを「モノ」。と略します。)

だけど、また、何かの拍子でポリというものについて、少し深く考えてみると、どうも、それだけの話ではないようにも思えてきた。

僕にポリ的な面があるように思えるのは、多分、男で、結婚から何年も経っているという点が大きいだろう。はっきり言って浮気がしたいのだ。これをポリと言えるなら、多分、世の既婚男性のかなりの割合がポリだろう。
しかし、僕がここでポリが問題だと思ったのは、「自称ポリの人が複数の人に抱いているのは、恋愛感情ではなく、実は、性欲や好奇心なのではないか。」ということではない。
仮に、恋愛感情だとしても、そこに問題があるのではないだろうか。ということだ。

恋愛とは、二人の相互関係だ。だから恋愛の理想的な状況とはお互いが相手を同じように好きでいることだろう。これは、モノでもポリでも変わらないはずだ。
僕が奥さんを100%好きなら、奥さんにも僕を100%好きでいてほしい。もし僕が奥さんを50%好きで、愛人を50%好きなら、奥さんも僕のことを50%好きで、あとの50%は愛人を好きでもかまわない。これがポリだ。
ということになるはずだ。しかし、そうではない。これはモノ視点でポリを捉えているのだろう。
多分、ポリなら、こう言うのではないか。「僕は奥さんを100%好きだし、愛人のことも100%好きだよ。と。
好きに、50%や99%なんて、ありえない。好きか好きでないか、1か0しかない。」と。

この視点の違いは、多分、「好き」をどのように捉えるのか、という違いなのだろう。

恋愛とは、自分の色々を相手に費やすものだ。恋愛の始まりなら、相手のことを何日も思い続けたり、恋愛がうまくいってからは、デートに休日を費やしたり、高いプレゼントをしたり、結婚してからは相手のためにご飯を作ったり、稼いだお金を家に入れたり。恋愛とは、気持ちや、時間や、金や、体力や、そういったものを相手のために費やすものだ。そして、ついには、結婚して時間が経つと、趣味が似てきたり、仕草が似てきたり、考え方が相手に似てきたりして、自分の人格さえも、その一部を相手に捧げることになる。
これをモノ的視点としよう。この視点によれば、恋愛感情を数値化することは論理的には可能となる。どれだけの気持ち、時間、金、体力、人格を相手に費やしたか計測し、比較すれば、理屈上は、「僕は80ポイント好きだけど、君は75ポイントしか好きじゃないね。」なんてことが言えることになる。実際にはそんな精緻な数値化はできないけれど、可能な道筋は開いている。そして、薄々、この恋愛は対等じゃないな、なんて察することとなる。
だから、モノ的視点に立つならば、モノアモリーつまり一夫一妻を目指すことになる。愛人がいるのがバレれば、相思相愛でないことが数字の上でバレてしまう。奥さんからすれば、愛人にかけたお金や時間は、自分に対する「好き」の減点を意味する。だから浮気はよくない。また、一夫一妻を尊い特別なものとすることで、結婚により、お互いが相手を100%好きだと擬制することもできる。多分、結婚式の誓いの言葉はそういう意味なのだろう。

一方で、恋愛について、一瞬の「好き」の気持ちで捉えることもできる。
例え一夜限りの関係だと知っていたとしても、その瞬間の相手を求める気持ちは「好き」だ。前後の文脈など関係なく、いや、その文脈がないからこそ、より純粋に好きだと言うことすらできる。
その浮気が終わり、家に帰ってきて、奥さんに対して「好きだ」と言う言葉も嘘ではない。実際に好きなのだろうし、浮気相手とは違う良さを再確認して、より好きになっているかもしれない。
どちらも好きで、比べることなどできない。これを比べるのは、ケーキとステーキのどっちが好きか、とか、仮面ライダーとプリキュアのどっちが強いか、と聞くようなものだ。そもそも全く場面が違う。時と場合によりけり、と答えることしかできない。
これがポリ的視点なのだろう。
その瞬間には、好きか、好きでないかしかない。1か0しかない。そして、ある瞬間とある瞬間の気持ちを比較することに意味なんて無い。だから瞬間ごとに違う人を好きでいることすら論理的に全く問題ない。愛人のことを100%好きだった人が翌日に奥さんのことを100%好きでいることは全くおかしいことではない。その二つの気持ちを比べることに意味なんて無いのだ。

恋愛を全体的に客観的に捉えようとするモノ的視点と、恋愛を瞬間的に主観的に捉えようとするポリ的視点という違いが、ポリアモリー問題の根源にあるのではないか。
この恋愛観の違いを明らかにしたという点で、ポリアモリーという言葉が広く知られるようになった意味があると思う。
しかし、ポリアモリーとは、単なる恋愛観の違いの話ではないし、ましてやLGBTのような性的嗜好の違いではなかった。
これは、人生というものを、どのように捉え、どのように生きているか、という人生観の違いなのだ。人生を生まれてから死ぬまでのひとつながりの全体として客観的に捉える視点と、人生の瞬間ごとに主観的に捉える視点の違いのことだったのだ。
だから、ポリアモリーとは、人生観の違いという、より大きな問題が、恋愛観の違いという、より小さな問題として現れた時に現れる問題に過ぎない。

僕は、人生にせよ恋愛にせよ、計測可能なものとして客観的に捉えるなんてことはできればしたくない。生きていくうえではそうしなければならないことも多いし、多分、人間というものは、そうせざるを得ないものなのだろう。けれど、それに飲み込まれきってしまうことなく、瞬間の主観的な輝きを大事にしたい。僕は人生も恋愛もポリ的でいたい。

・・・

これが大きな結論なのだけど、残念ながら、続きがある。
ポリ的な人生観、恋愛観はいいけれど、とても現実的な話として、ポリ的な恋愛、つまり複数のパートナーを持つことは、本質的になかなかうまくいかないはずなのだ。

人間には、自分のことばかり気にして、相手のことを気にしないという本性がある。部下のヒアリングの際に、部下に同程度話せたと思われるためには、自分の話は2割に留め、相手に8割話させる気持ちでいなくてはならないという話もある。恋愛においても、自分の気持ちはよくわかっていても、相手の気持はなかなか把握しきれない。わかっていると思っていても見落としがある。だから自分が相手に費やしている時間や気持ちよりも、相手が自分に費やしている時間や気持ちを低く見積もる傾向にある。よって、恋愛は、人間の本性からして、自分と相手が対等に「好き」だ、とはなり得ない。対等で理想的な恋愛なんて絵に描いた餅でしかない。

いや、ポリ的な恋愛観によれば一瞬は理想的な恋愛に到達できる。ある瞬間、自分が相手を好きだと確信し、そして相手が自分を好きだと確信する瞬間はある。その瞬間、恋愛は理想的なものとなる。
しかし、それを継続しようとすれば、それはモノ的な視点に転落し、比較の話にならざるをえない。
そうすると、自分より相手を低く見積もろうとする人間の本性が頭を出すことになる。

これを、むりやり力技で理想的な恋愛として擬制するのが、一夫一妻であり、結婚だ。だからモノアモリーは主流なのだ。
その流れに逆らい、この大技を使えないポリ的な恋愛をうまくいかせるためには、色々な小技で代替せざるを得ない。その技の一つが、相互理解により、できるだけ、自分と相手との認識ギャップを埋める努力だろう。そういうことができてこそ、複数パートナーを維持することができる。うまくポリアモリーであるためには、人一倍、相手に対して労力をかけなければならない。
また、もう一つ、自分と相手の比較すらしないという道もある。相手の気持ちなんて関係なく、ただ自分の「好き」だけを大事にするという生き方だ。相思相愛という理想的な恋愛のかたちをあきらめると言ってもいいかもしれない。これが究極のポリ的視点なのだろう。僕にはなかなか難しいけど。
ポリアモリーというのは、魅力的だけど、現実問題として、なかなか茨の道だなあ、と思うのだ。

PDF:ポリアモリー

私が王様になったら♪

夢を実現するためには、その夢を明確にしておくことが大事なようなので、ここに書いておきます。

僕は、王様になりたい。正確には国を建国したい。

その場所は、大都会近郊の島。交通の便は良く、江ノ島のような橋でつながっているイメージ。

気候は温暖で、元々の人口は4000人くらいの静かで緑豊かなところ。主産業は観光業。

そこに、ベネチアのような路地でめぐることができるお店を50軒くらい入れ、3000人くらいの人を移住させる。

ライブ会場になるような広場も作る。あと、人が集って話せるようなスペースも。

そして、国には、こんなルールを設ける。

【基本的なルール】

(ルールのルール)

1 100個以上のルールは作らない。

2 このルール以外に将来にわたってのルールを設けることはできず、ルールにないことは都度決定する。

※国レベルのルールはあまり設けず複雑にしない。

3 都度決定する際の具体的な方法はルールにきちんと書いておく。

4 このルールにない前例・慣習は尊重するが、従わなくて良く、また理由なく変えたり廃止したりして良い。

5 問題がなくても、ランダムに1年毎に1割のルールを見直す。ただし基本的なルールは除く。

※どんなルールも賞味期限があるので見直しを制度化する。

(国のあり方のルール)

6 国土は建国時以上に広げない。

7 人口が1万人を超える場合は移民を認めない。

※目が行き届く小じんまりとした国にする。

※人権のような方針は設けない。そういうことは都度話し合って決めればいい。

(元首)

8 元首を設けるが、元首は儀礼、軍の指揮以外の権限はない。

9 元首の任期は半年とし、3年間は再任できない。

10 以上の基本的なルールは今後とも見直さない。

 

【その他のルール】

(意思決定のルール)

・ルールにないことは、都度、国民会議を設置して決める。

・国民会議は、都度、国民から抽選で選んだ20名の委員で構成し、委員の話し合いで決める。

・何を国民会議にかけるかは、常設の諮問会議で決める。

・諮問会議は、20名の委員で構成し、委員の任期は半年とし、3年間は再任できない。

※国会、司法のような役割を国民会議が担う。

(行政機関のルール)

・国内を2つの地域に分け2つの独立した行政組織を作る。

・2つの行政組織が共同で業務を行う部分は最低限とする。

※行政に競争のルールを導入する。住民は足で投票できる。

・ライフライン・インフラは国が整備する。

・税収が許す限り、ベーシックインカムとして平均年収の1/3を支給する。それ以外の福祉は国としては行わない。

・行政は借金をしてはならない。

・1000人以下で構成する地域で、このルールに反しない限りで独自のルールを作ることを認める。

※きめ細かな福祉などは地域に任せる。

(軍のルール)

・軍はマシンガンでの国境警備以上のことは行わない。

(通貨・税金のルール)

・通貨は国が定めた電子マネーとする。それ以外の通貨の流通は認めない。

・通貨は1年1割のマイナス金利とする。

・マイナス金利分を税金とする。

・外貨への両替、外貨からの両替の際に1割を税金とする。

(入国のルール)

・国外から持ち込まれるものは全て確認する。

・持ち込んで良いもの、持ち込んではいけない物はリストにする。

・国民以外は年に1回1月以上入国できない。

(防犯・プライバシーのルール)

・電子マネーの情報は国が確認できるようにする。

・屋外での行動は全て国が情報収集できる。監視カメラやゲートでの管理を要所で行う。

・国民はIDカードを携帯しなければならない。

※屋外の管理を強めることで効率的に犯罪を防止する。

(処罰のルール)

・死刑や懲役・禁錮3年以上の罪とする場合は、当事者の求めがあれば、当事者か当事者が指名する1名が参加した国家会議で改めて話し合う。

・刑罰を課す場合でも、他地域への移動、国外への移動については、移動先が移動を認める限り、制限してはならない。

・国内で犯罪者とされた人の再入国は制限することがある。

※国民会議で処罰することのリスクは、出国を無条件に認めることで担保する

(自然保護)

・自然保護に関わる事を会議で決定する場合は、自然保護代理人の意見を聞かなければならない。

・自然保護代理人を5名任命する。任期は半年とし3年間は再任できない。

※人間以外の存在の主張を代弁する人が必要なため。

(その他)

・定期的に国全体で蚊の駆除をする。なるべく環境負荷がない方法で行う。

※夢だから・・・

老い かな?

最近、時々、古くなってしまい、固くこわばった革の袋のなかに、自分自身が閉じ込められてしまったような気分になるときがある。
僕の魂がこんなところに閉じ込められているのは嫌だと言っている。
これが老いなのかもしれない。

油を付けて、身も心も揉みほぐしてやらないと。

 

神の愛

先日書いた文章で、思わず、神の愛というキーワードが出てきたので、少し考えたことの備忘録。

神の愛ということで、僕は、神「から」の愛というものをイメージしていた。だけど、もうひとつ、神「へ」の愛というものがある。これは祈りだ。
神→僕の愛と、僕→神の愛=祈り。

神からの愛という言葉で僕が考えていたのは、神が僕のことを幸せにしてくれるとか、ましてや何か願いを叶えてくれるとか、そういうことではない。これから何かしてくれることではなく、既にしてくれていることだ。
と言っても、幸せな家庭に生んでくれたとか、才能を与えてくれたとか、そういうことではない。神からの愛とは、仮にそうでなかったら神は愛してくれなかったのだ、ということになってしまうような不確かなものではない。
もっと必然なこと。僕の考えでは、それは、僕を存在させてくれた、ということだ。僕は神からの愛により存在している。瞬間ごとに僕を存在させてくれているなんて、神の奇跡だ。

一方で、神への愛というものがある。祈り。
この祈りとは、やはり、幸せになれるよう祈るとか、何か願いを叶えてくれるよう祈る、ということではない。ここまでの神からの愛の話の対比として考える必要がある。
神への愛とは、僕のことを存在させてくれるものとして神の存在を信じ、祈るということだ。いうなれば、僕の神への愛が、神を存在させる。ということだ。

神が僕を存在させる神からの愛。僕が神を存在させる神への愛。神の愛にはそんな二面性があるように思う。この愛が万に一つもない奇跡を必然のものとしている。それが時間の成立であり、人生の成立であり、生命の成立なのではないか。

 

安全と快適の先

「金持ち父さん」の本を久しぶりに手に取ったら、金持ち父さんが子供の頃の作者に、人生において、安全と快適と金持ちになることのどれを優先するのかと問う場面があった。
う〜ん、この三つかあ、と感心し、考えさせられた。良い人生のためには、安全と快適ともうひとつの何かが大事だという整理は、直感的にいい線いってると思ったのだ。

そのもうひとつを金持ちとはいいたくないけど、安全と快適というのは人生において大事なことのかなりの部分を占めていて、この二つですくい取れないものは、それほど多くなく、もしかしたら何かひとつにまとめられるのではないだろうか、という予感がある。この線で考えてみたいと思った。
だから、この文章は、「良い人生のためには、安全・快適のほかに何が大事なのか。」という問題について考えるものだ。
とは言っても、この問題は、人生の目的とは何か、みたいな話とつながるはずだから、簡単にきれいな答えは出ないだろう。今後のために少し整理し、うまくいけばざっくりと方向性を指し示してみる、くらいの心づもりで話を進めよう。

金持ち父さんには悪いけど、まず言えることは、その大事な何かとは、お金持ちになることではない。
もしお金こそが大事なら、お金持ちになった後は、金持ち父さんのように、老後も投資を続けたり、ゴルフをしたり、近所の子どもに金儲けの仕方を教えることこそが最高の人生だということになる。直感的に、そんな訳がない。

一方で、お金というのは、そう遠くない答えのようにも思える。
金持ち父さんのような老後は、悪くはない。それに金銭的に余裕があれば、目先の生活のための労働にしばられず、本当にやりたいこと、やるべきことのために生きることもできるはずだ。
つまり、お金持ちになるという人生の目標設定は、かなりいい線をいってる。惜しいところまできている。だけど本当に大事なのは、お金持ちになって、さあ、何をするかなのだ。

こういう俗っぽい問題を哲学的に考えるときには、思考実験をしてみるといいだろう。超お金持ちになったら、でもいいけれど、せっかくなら、もっと壮大に、全ての願いを叶える魔法のランプを手に入れたなら、と考えてみよう。回数制限なしだ。ドラえもんのひみつ道具でもいい。「もしもボックス」は最強のひみつ道具だ。
だからお金で買えるものはもちろん、買えないものも、永遠の生命でも、若くて健康な肉体でも、絶世の美女でも、世界平和でも、深遠な宇宙の秘密でも、なんでも手に入るとしよう。
全ての願いが叶えられても、それでも手に入れられず、満たされないものとは、何があるのだろう。何が残るのだろう。
多分、名付けられ、言葉で指し示せるものは全て手に入るはずだ。なぜなら、言葉にできることは全て魔法の精に望み、叶えてもらうことができるのだから。
それでも満たされないものは多分ある。というか、その満たされない何かこそが大事だという予感がある。

その何かとは、言葉にできないものとなるが、僕のこれまでの哲学的考察によれば、言葉にできないものはひとつしかない。それは、永井=入不二的な意味での現実性だ。言葉は、あらゆることを言語化し捉えることができるが、この現実の現実性だけは捉えることができない。この現実の現実性に含まれる何かこそが大事なのではないか。

その言葉にできない大事な何かをあえて言葉にするならば、多分、それは、この人生を現に生きることの「幸せ」のことなのだろう。「生命」とか「成長」とかと言い換えてもいいかもしれない。そんな言葉で間接的に言い表される動的な何かこそが、人生において大事なのだろう。これが僕の当面の整理だ。

・・・

と言っても伝わらないだろうから、この文章では、別な方向からの説明を試みることにする。
まず、出発点は良い人生において大事なものが「安全・快適」ともうひとつ「その何か」だという仮定から始めよう。この整理は、なかなかいい線をいっているように思うから。

まず、良い人生を送るために「安全・快適」が必要というのはそのとおりだと思う。
良い人生を送るうえでのスタートラインに立つためには、安全で快適でなければならない。安全で快適でなければ、他の何があっても、よい人生を送ることはできない。
確かに、何をもって安全・快適とするかは、その時代や状況によって様々だろう。1940年代前半の東欧のユダヤ人や1945年8月の広島・長崎の人々にとっての安全・快適と、今の僕達のそれとでは大きな違いがあるはずだ。また、将来、科学が発達し、病気や老いや寿命に脅かされる現代人のことを安全・快適だったなんて思えなく時代が来るかもしれない。
ただし、そういう違いはあれど、主観的に安全・快適と思わない限り、良い人生を送れないということは揺らがないだろう。

それでは、良い人生を送るためには、安全・快適以外に何が必要なのだろうか。
先ほどの魔法のランプやもしもボックスの話で例に出したような、永遠の生命、若くて健康な肉体、絶世の美女、世界平和、深遠な宇宙の秘密といったものは、どうだろう。このなかに安全・快適ではない要素が含まれているだろうか。
まず、永遠の生命と若くて健康な肉体が、安全・快適に強く結びついているのは説明不要だろう。そういう肉体的な条件が満たされてこそ、安全・快適に過ごすことができる、という考え方はごく一般的だと思う。よって、この二つはとりあえず、安全・快適の文脈に含まれると整理できる。
また、絶世の美女、世界平和、深遠な宇宙の秘密についても、それらを手に入れることで快適になれるからこそ手に入れたいのだ、と言うことができる。つまり、安全・快適のうち、特に快適の範疇内の話だと整理できる。まず絶世の美女は簡単だ。ここでの美女とはアクセサリーのようなもので、それを手に入れることで所有欲が満たされ、精神的に穏やかに快適に過ごすことができる。世界平和についても、自分が紛争の当事者であれば安全の問題になるし、当事者でなければ、世界が平和でないと自分が精神的に快適でないから、という理由で平和を願っているはずだ。深遠な宇宙の秘密についても、そこに安全や快適につながるような実利がなければ、要は、その秘密を明かすことで精神的に満足し、快適になるから秘密を解きたい、ということになる。安全・快適のうち、特に快適について精神的な快適というあたりまで拡大解釈するならば、ほとんど全てのことは、安全・快適(精神的な快適を含む)のために望んでいると言ってよい。

それでは、安全・快適の範疇から外れるものとしては何がありうるのだろうか。
まずは、「他者との関係性」というものが挙げられるのではないか。人とつながり、人に認められるということは、良い人生を送るために必要だ。こういう話でよく登場するマズローの欲求5段階説でも、所属欲求、承認欲求というものがある。これらが重要ということに異論はないだろう。

いや、「他者との関係性」つまり、人とつながり、人に認められるということについても、安全・快適という文脈で整理が可能とする見方もあるかもしれない。確かに、通常、何かの集団に所属することで安全が確保されるし、人に認められることで精神的な快適さを味わうことができる。そういった意味で、他者との関係を築くことは安全・快適を獲得するための有効な手段となる場面が多いだろう。
しかし、「他者との関係」というものには、そう捉えられない例外がある。所属する集団のために命を投げ出し、また、誰にも認められなくても、誰かのために、じっと苦しみに耐えることがある。そのとき、彼は、安全・快適ではない「他者との関係」そのもののために行動することで、より良い人生を目指していると言えるはずだ。
つまり、「他者との関係性」とは、安全・快適とは独立した、良い人生のための要素なのだ。

精神的な快適について更に拡大し、苦しむことさえも、それを通じて、精神的な快適を得ようとする行為なのだ、と言うことはできなくはない。しかし、苦しむことすらも快適としてしまうなら、快適という言葉を使う意味が失われてしまう。安全・快適という言葉を、その言葉を有効に使えるぎりぎりまで拡大したとき、その言葉に覆われきらないわずかな部分に他者との関係性というものが残る。そう考えたほうが面白い。

もうひとつ、良い人生に欠かせないものの候補がある。マズローで言うならば、自己実現欲求というやつだ。先ほどは「他者」が重要だという話だったが、もうひとつ「自分自身」も重要なのだ。正確には、自己実現、つまり「なりたい自分自身になる」ことが重要なのだ。この文脈で言えば、先ほど例に出した、絶世の美女、世界平和、深遠な宇宙の秘密といったものも、安全・快適ではなく、自己実現のために求めていると言うこともできる。絶世の美女に寄り添われている自分や、世界平和を達成した自分や、宇宙の神秘を解き明かした自分になることが人生における重大事だ、ということになる。

ここで、先ほど導入した「精神的な快適」という考え方との違いを明確にする必要がある。
宇宙の神秘を解き明かすのは、宇宙の神秘を解き明かした自分になりたいからなのか、それとも、宇宙の神秘を解き明かすことが精神的に快適だからなのか。
この二つは一見同じことのようだが、違う。前者においては、宇宙の神秘を解き明かすこと自体が目的だが、後者では、宇宙の神秘を解き明かすことは、あくまで「精神的な快適」のための手段だ。だから、宇宙の神秘を解き明かさなくても、なんらかの力で、それと同等の「精神的な快適」が得られるならば、それはそれでよい。しかし、宇宙の神秘を解き明かした自分になりたいのなら、いくら、おせっかいな神様が同等の精神的な快適を与えてくれたとしても、宇宙の神秘の探求を止めることはない。
現実において、このような区分ができるかは疑問があるだろう。確かに、実際には、自己実現欲求と精神的な快適さを求める気持ちは、一体となって、宇宙物理学者の探求の情熱を掻き立てる。しかし、それでも、両者の違いは、わずかに痕跡を残すはずだ。
学者に聞いてみよう。なぜ、宇宙の神秘を解き明かしたいのか、と。多分、学者はうまく答えられないはずだ。もしかしたら、子供の頃、スターウォーズを見て宇宙に夢中になったから、とか、それっぽい答えをしてくれるかもしれない。だけど、子供の頃にスターウォーズを見た人などまさに星の数ほどいる。だが、それをきっかけに宇宙物理学者になる人は一握りだ。なぜ、あなただけが宇宙物理学者を目指したのか、と問われたら、きっと答えはないだろう。
この答えられない何かこそが、これまで自己実現欲求としてきたものの、語り得ないわずかな痕跡だ。
学者は、なぜか、理由なく、生物学や哲学ではなくて宇宙物理学の道を選んだ。絶世の美女や世界平和ではなく深遠な宇宙の秘密を追い求める人生を選んだ。この「なぜか、理由なく」、こそが、これまで自己実現欲求としてきたものの真の姿であり、安全・快適、そして他者との関係性と並ぶ、もうひとつの良い人生の重要な要素なのだ。「なぜか、理由なく」に捧げる人生こそが良い人生なのだ。

しつこいかもしれないが、この「なぜか、理由なく」は、直接言葉で語ることはできず、語り尽くされたことの残りとしてしか表現することはできない。我らが宇宙物理学者は、宇宙物理学は結構儲かるから、とか、最先端の学問だから、とか、教授が面白い人だったから、とか、自分の人生の選択を正当化する色々な理由を挙げてくれるかもしれない。しかし、これらの言葉で語られる理由は、いずれも安全・快適(精神的な快適まで拡大した)という側面で理解できるものでしかなく、もし、そうでない側面もあると感じられたならば、その何かとはつきつめれば「なぜか、理由なく」としか表現できないものなのだ。
いや、もう少しうまい表現はある。彼が、「僕が宇宙物理学者になったのは、運命だったんだよね。」と言ったなら、それが、この「なぜか、理由なく」を最大限、うまく表現したことになるかもしれない。この意味での「運命」とは、「なぜか、理由なく」に極力接近した表現だと言ってよいだろう。

まとめよう。
良い人生のためには、①安全、②快適(精神的な快適も含む)、③他者(との関係性)、④「なぜか、理由なく」(運命)の4つが重要となる。これが結論だ。

4つに区分した整理をもとに少し考察を進めるならば、前二者は良い人生のために必要な基盤、条件とも言える。安全と快適は、きちんと揃っていることが必要で、欠けていたら、それは良い人生ではなくなる。
一方で、他者と運命は、完全に手に入れることができるものではない。他者との関係性が完全なものになるという状況は、極楽浄土のような夢物語のような状況を想像するしかないし、完全に運命に従って「なぜか、理由なく」生ききったと確信できるのは、せいぜい死の瞬間くらいしかないだろう。他者と運命については、いずれも、より良い状況を追い求めるプロセスとしてしか捉えることはできない、と言うこともできる。
そのような意味で、前二者は静的で後二者は動的という対比ができる。

・・・

最後にもう一歩だけ考察を進めることとしよう。それもかなりラフな素描としての一歩だ。
ここで前進することででやっと、冒頭で永井=入不二という先人の仕事に乗っかって、楽をして辿り着いた地点を垣間見ることができるように思うのだ。

僕には、動的なものである二者、つまり他者との関係性と「なぜか、理由なく」の運命とは、実はひとつのものなのではないか、という予感がある。無理をした飛躍になるけれど、その地点に跳んでみたい。

飛躍の準備として、まず簡単なところから始めよう。他者との関係性は、「なぜか、理由なく」の運命に飲み込まれている面がある。
どういうことかというと、人が他者との関係性を求めるものなのだというのは明らかだが、その理由は、「なぜか、理由なく」としか言えない面があるということだ。確かに人は一人では生きられないとは言うけれど、人によって、どのくらいの人間関係を求めるかはかなりの違いがあり、なぜ、このくらいの人間関係を求めるのか、と問われたら、「なぜか、理由なく」としか答えることはできない。つまり、人は他者との関係性を求めるのは、そう定められた運命だと言える。学者が宇宙物理学を目指したように、人が他者との関係性を求めるのは、「なぜか、理由なく」の運命なのだ。
こうして、他者との関係性という要素は、「なぜか、理由なく」のなかに取り込まれる。

ただし、それで終わりにはならない。
ここで終わりになってしまったら、「なぜか、理由なく」人は安全を求め、快適を求め、他者との関係性を求める、ということになり、要は、全てを語り得ないものとして放棄することになる。
しかし、人が安全を求めず、快適を求めず、他者との関係性を求めずに、良い人生を送るということは、僕には全く想像がつかない。ここに、安全、快適、他者との関係性という3つの要素が、「なぜか、理由なく」の運命という要素と並んで、それぞれが独立した良い人生の重要な要素だと主張する理由がある。

しかし、ここで、安全、快適と、他者との関係性は、別の道筋をたどることとなる。安全、快適については、ここで考察を終えてよいだろう。安全、快適については、求める程度はともかく、それを求めるということ自体は、「なぜか、理由なく」の運命と独立したものと整理できる。
一方、他者との関係性については、今まで話してきたこととは別に「なぜか、理由なく」の運命と重なる部分があると僕は思うのだ。それは、とても奇妙な地点だ。ここで大きな飛躍をする。

多分、その地点をとても奇妙なものとしているのは、ここで取り扱っているのが、「良い人生」だからだろう。ただの人生ではなく、「良い」人生。ここには、「良い」というプラスの価値判断が入り込んでいる。

「良い」人生につながる他者との関係性は「良い」ものでなければならず、「良い」人生につながる「なぜか、理由なく」の運命は「良い」ものでなければならない。ここには二つの良いものがあるはずだ。
まず前者について。良い他者との関係性と言われてイメージするのは、友情とか、信頼とか、思いやりとかといったポジティブな関係性についての言葉たちだろう。そういった他者との関係性があることで、良い人生を送ることができる、というのは当然だろう。そして、そのような良い他者との関係性を表現する言葉たちのうち、最も究極的なのは、多分、愛という言葉だ。愛という言葉に込められる意味の多様性や捉えどころのなさを踏まえるなら、愛とは、良い他者との関係性そのもののことだと言ってもよいのではないか。
後者についてはもっと単純なことしか言えない。僕は、良い「なぜか、理由なく」の運命と言われてイメージするのは、神という言葉しか思いつかない。
こうして、愛と神という二つの言葉が登場することになる。
これが、他者との関係性と、「なぜか、理由なく」の運命が重なる奇妙な地点だ。
「良い」他者との関係性とは、愛であり、「良い」「なぜか、理由なく」の運命には神が介在する。
神の愛というかたちで、他者との関係性と、「なぜか、理由なく」の運命は重なるのだ。

考えてみれば、神とは究極の他者のことだ。
最も遠い、究極の他者こそが神であり、神が無根拠に与えてくれる愛こそが「なぜか、理由なく」の運命を良いものとし、良い人生を形作っている。こう考えれば、ある面では、神という究極の他者が、運命を飲み込んでいるとも言える。
そして、この究極の他者とは、祈りというかたちでしか関係性を持つことができない。祈りという他者との関係性だけが、「なぜか、理由なく」の運命を生み出している、と言える地点がある。
つまり、ここでは、他者との関係性が運命を飲み込んでいるとさえ言える。

このような側面も考慮するならば、他者との関係性と「なぜか、理由なく」の運命は、お互いがお互いを飲み込もうとするかたちで、いわば動的な循環運動が行っており、両者はいわば渾然一体となっていると捉えることもできる。

僕のイメージによれば、この渾然一体となった何かは、輝いている。なぜなら、この運動は、そもそも良い人生において行われており、肯定的なものであることが義務付けられているのだから。この剥き出しの肯定そのものを表現するものとしては、光の輝きこそがふさわしい。この輝きこそが、「幸せ」なのではないか。
また、その渾然一体となった何かをあえて名付けるならば、その動性を強調し、「生命」「成長」といった名前がふさわしい。これが、僕が、安全・快適と並ぶ、または最も重要な、良い人生のために必要な要素だ。

PDF:安全と快適の先