※新年初文章ですね。5000字以上あります。写真は哲学カフェが終わった後に行ったカフェのケーキです。

『いい』ってどうやって決めるの?

昨日開催した哲学カフェで考えたことが、残しておく価値がありそうに思えたのでメモしておく。なお、この話は、その場で実際にあった話に加え、その後、僕が一人で考えたことも含んでいます。

その日のテーマは「『いい』ってどうやって決めるの?」だった。僕は、倫理的な「いい」の話に寄りすぎないといいなあ、と思っていたけれど、それほど寄りすぎず、美的な「いい」、都合が「いい」など、幅広い話ができた。

振り返ってみると、この問題に対する主な切り口としては、次のようなものとがあったように思う。

Q1:個人や社会ごとに「いい」「わるい」は違うのか。それとも絶対的な「いい」「わるい」があるのか。

Q2:もし個人や社会ごとに「いい」「わるい」があるとしたら、いつの誰にとっての「いい」「わるい」が重要なのか。

Q3:すべての「いい」「わるい」について同じ基準で考えることができるのか。

Q4:「いい」「わるい」の基準を子どものような他者に伝える(押し付ける)べきなのか。

Q1:個人や社会ごとに「いい」「わるい」は違うのか。それとも絶対的な「いい」「わるい」があるのか。

第一の問題については、その場で出た、インプットとアウトプットの関数として考えることで判断できる、というアイディアが面白かった。僕の理解では、Aさんの行為がインプットで、その結果の成果物がアウトプットである。例えば、長い時間をかけて絵を描くというのがインプットであり、その結果できた作品の美的な「よさ」がアウトプットである。または、ナイフで人を刺すのがインプットで、その結果生じる死がアウトプットとしての「わるさ」である。

もし、「いい」「わるい」は個人や社会ごとに決まり、相対的だと考えるならば、この関数は個人や社会によって異なる線形をしていることになる。多分、絵を描くことと作品との関係はこちらになるだろう。

また、「いい」「わるい」は絶対的だと考えるならば、誰にとっても関数は同じ線形である。多分ナイフと死との関係はこちらになるだろう。

そんな話だった。

だが、殺人であっても、脅迫から逃れるためのやむにやまれぬものと、なんら動機のない通り魔では「わるさ」が違うように思える。そこには相対的な何かが潜んでいる。

これは僕のアイディアだけど、「いい」「わるい」を考えるうえでは、いつの誰にとっての視点なのか、という問題と、その出来事をどのように切り取って物語に仕立てるか、という問題が重要なのではないだろうか。つまり、「いい」「わるい」は視点と物語によって決まるのである。

視点とは、「誰」の視点なのか、という問題である。ナイフで刺されて死んだならば、被害者にとっては、たとえ緊急避難的な殺人であっても、通り魔殺人と同程度にひたすらに「わるい」ことである。だが、加害者にとっては、脅迫から逃れるための殺人の場合、脅迫から逃れられる、という「よい」側面もある。社会にとっても、殺人を禁止する社会のルールが破られたという「わるい」側面と、社会のメンバーの一人が脅迫から逃れることができたという「よい」側面が混在することになる。

つまり、「誰」の視点かにより、同じ行為が純粋に「わるい」こともあれば、「いい」こともあれば、「いい」と「わるい」が混在することもあるのである。

また、視点を考えるうえでは、「いつ」の視点なのかという点も重要である。もし、ナイフで刺されて死んでも、その後に天国に行ったなら、その天国にいる時点での被害者の視点からするなら、死は「いい」ものとなる。殺人の例から離れるならば、ローマ時代の奴隷制は、その当時の視点では便利で「いい」ものだが、現代から見れば「わるい」ものとなる。

きっと、細分化するならば、ある特定の時点での、ある特定の人からの視点によるならば、絶対的な「いい」と「わるい」がある。死ぬことは絶対的に「わるい」し、脅迫から逃れるのは「いい」し、(奴隷を使ってでも)楽をできることは「いい」し、足に重い鎖をつけられムチで打たれるのは「わるい」ことだ。そのような要素的な絶対的な「いい」「わるい」は確かにある。

だが、たいていの場合、要素的で絶対的な「いい」「わるい」では話は終わらない。例えば、裁判所では、この殺人事件は、被害者から加害者への長期間の脅迫を背景にして起きたが、そのことをどの程度情状酌量するべきだろうか、なんていうことを考える。そこで登場するのが物語である。

複数の要素を組み合わせ、ひとつの物語をつくりあげ、その全体像に対して、「いい」「わるい」を判断しようとするのである。ある単独の要素として捉えるならば、たいていのことは絶対的に「いい」「わるい」の判断ができる。だけど、それらの要素を組み合わせ、ひとつの物語とした途端、この面では「いい」けれど、この面では「わるい」んだよな、なんて悩むことになるのである。

そして、物語としての切り出し方は幾通りもある。ある殺人事件の物語は加害者と被害者が出会ってからの出来事を物語として描くことができるが、別の物語としては被害者や加害者の生い立ちにまで迫る、より長期間にわたる物語として描くこともできる。きっと、何通りもの物語の描き方がありえて、どこをどのように物語として切り出すかは任意である。そして、その物語の切り出し方によって、「いい」「わるい」も変わってくる。

以上が、「いい」「わるい」は視点と物語によって決まる、という僕の主張である。

このような僕の主張に基づき、冒頭に挙げた4つの問題のうち、第一の問題については次のように答えることができる。

Q1:個人や社会ごとに「いい」「わるい」は違うのか。それとも絶対的な「いい」「わるい」があるのか。

A:要素ごとには絶対的な「いい」「わるい」がある。(殺人は、死ぬ瞬間の被害者にとっては悪いことであることは、誰もが同意する。)だが、複数の要素を組み合わせた物語としては、その物語の切り出し方によって「いい」「わるい」が違ってくる。

Q2:もし個人や社会ごとに「いい」「わるい」があるとしたら、いつの誰にとっての「いい」「わるい」が重要なのか。

だけど、第二の問題については、今のところ、僕は答えを持ち合わせていない。

Q2:もし個人や社会ごとに「いい」「わるい」があるとしたら、いつの誰にとっての「いい」「わるい」が重要なのか。

A:物語の切り出し方によって「いい」「わるい」が違ってくるけれど、複数の物語のうち、いずれの物語を重要とするかは、明確な答えがない。

ただし個人的には、その出来事があった時点における当事者にとっての物語が最も重要だと思う。殺人事件について、加害者・被害者の視点よりも、それをニュースで観た傍観者の視点のほうが重要とは思えないし、被害者が死後に天国に行ったときの視点のほうが重要とも思えない。

Q3:すべての「いい」「わるい」について同じ基準で考えることができるのか。

第三の問題は次のようなものだった。

Q3:すべての「いい」「わるい」について同じ基準で考えることができるのか。

これに対して網羅的に考えられてはいないが、「いい」「わるい」は視点と物語によって決まるという僕のアイディアは、かなり幅広く適用できそうに思う。

例えば、いい絵を描く、という行為についても、殺人と同様に、要素的に分解するならば、絶対的な「いい」「わるい」を述べることができる。狙い通りの絵が描けたならば、その画家にとっては絶対的に「いい」ことである。また、それが失敗作ならば、それは「わるい」になるかもしれない。だが、画家本人の評価はともかく、100年後にその絵を鑑賞した人が楽しんだならば、それは絶対的に「いい」ことである。

そのうえで、この作者と100年後の鑑賞者という二つの要素を組み合わせて物語を紡ぎ、作者はわるい評価なのに、鑑賞者がよい評価をした場合、それはいいことなのか、などと問題とすることはできる。これは殺人事件に対する裁判所の態度と同じものであり、そのような点も含め、絵を描くことと殺人事件とは似ている。いずれも、「いい」「わるい」は視点と物語によって決まるのである。

だから、この問いに対しては、「同じ基準で考えることができる」と答えたい。

ただ、ひとつ留意点がある。これは、対話の際に参加者からあった話だけど、絵を描く、というような行為が「わるい」ことにはなりえないのではないだろうか。なぜなら、絵を描くとは、本質的に「いい」を目指す行為だからである。それがどんなに失敗しても、「わるい」にはなりえないように思える。

それならば逆に、本質的に「わるい」を目指すものである殺人事件は、どうやっても「いい」にはなりえないのかもしれない。殺人を犯すことによって脅迫から逃れることは、せいぜい「わるくない」であり、殺されることによって多少早く天国に行けることも、せいぜい「わるくない」でしかない。

ものごとには、「わるい」「いい」の両方があるものより、いずれか片方しかないもののほうが多いのかもしれない。(その他にも、電車で老人に席を譲ることは「いい」ではなく「当たり前」だと考えることもできる。また、病気は「わるい」だが健康は「ふつう」だと考えがちだ。)

そうだとすれば、この問いに対する答えは、「同じ基準で考えることができるが、判断の幅は問題の性質により異なる」となる。

Q4:「いい」「わるい」の基準を子どものような他者に伝える(押し付ける)べきなのか。

最後の問題として、次の問題が残っている。

Q4:「いい」「わるい」の基準を子どものような他者に伝える(押し付ける)べきなのか。

この問題は、昨日の哲学カフェの終了間際に少しだけ話されたものだ。消化不良なのでここで考えてみたい。

なぜ、この問題にこだわるかというと、僕のアイディアは、「いい」「わるい」は視点と物語によって決まるというもので、要は「いい」「わるい」は相対的なものだ、というものだからである。

相対的だとすると、人や社会によって、「いい」「わるい」の判断が食い違っても仕方ない、ということになる。だが、その食い違いによる衝突は現実問題としては大問題である。喧嘩になって、世の中は不安定になるし、不満も残る。きっと「いい」「わるい」が相対的なまま放置される世界は、わるい世界である。

そこで重要となるのが、子どもへの教育のような、伝達の場面ではないだろうか。「いい」「わるい」を伝達し、共有することで、緩やかに皆が同じような価値観を持つようになれば、世の中は安定し、いいものになる。この文章での用語で表現するならば、異なった視点であっても同じような物語を描けるようになれば、物語の違いによる衝突は回避できるようになる。

だから、結論としては、「いい」「わるい」の基準を子どものような他者に伝えるべきである、ということになる。できるかぎり教育し、伝達し、争いを回避するべきなのだから。

だが、この伝達は、押し付けにもなりうる。だから慎重になるべき、という考えももっともである。では、押し付けにならないよう、どのように伝えることができるのだろうか。

そこで重要となるのが視点である。子どもに対していくら教育しても、物語の描き方は伝えられても、視点を置き換えることはできない。僕の視点は僕の視点であり、子どもの視点は子どもの視点である。もし子どもがナイフを手に人を刺そうとしたならば、その子どもは加害者の視点に立っており、いくら教育しても、被害者の視点に立つことはできない。

だが、僕は子どもを教育し、その子どもに対して、親の視点を学び、幅広い視点を学び、被害者の視点を学ぶよう伝えることはできる。加害者の視点に立ってしまっても、そこから、被害者の視点を想像できるよう教育することはできる。そうすれば、ナイフを持った子どもは、そのナイフで相手を刺す前に、被害者の物語(に似た物語)を紡ぐことができる。そうすれば、その子どもは殺人を思いとどまるかもしれない。それが教育ということではないだろうか。

つまり、親が子に教えるべきは、「いい」「わるい」の基準についての個別具体的な内容ではなく、幅広い視点に立つことができるようになりなさい、という原則なのではないだろうか。(だから、前回の哲学カフェで(コミュ力ではなく)コミュニケーション力は大事、という話になったのかも。)

ただし、この話は、ほっておくと「わるい」ことになりがちな倫理的な話に限るのかもしれない。絵を描くような美的な話においては、ほっておいても「いい」しかありえないから、親は子どもを教育する必要はなく、放置しておけばいい、ということになりそうだ。

昨日の哲学カフェでは、もっと色々な話(の萌芽)があった気がするけれど、きりがないので備忘録はここまでとしておく。