※7,500字くらいあります。書きかけの文章を完成させたシリーズ第2弾です。

1  問いに背中を押されるようにして哲学をする

多くの哲学者がやっている哲学とは、「◯◯とは何か」という形式の問いに答えようとする営みとして描写することができるのではないか。僕が尊敬する哲学者を例にするなら、入不二基義は「現実とは何か」、永井均は「〈私〉とは何か」という問いに対して答えを出そうとしている。他にも、「神とは何か」、「心とは何か」、「言葉とは何か」といった様々な哲学の問いがある。哲学者たちは自覚的にせよ、無自覚にせよ、自らの問いを設定したうえで、その問いに彼らなりに答えようと格闘してきた、と描写することができる。

問いは力である。それも、哲学者がその力を受け取ることによって、哲学者に対してだけ働く特殊な力である。

この哲学者と問いの関係を、「哲学者は、問いに背中を押されるようにして哲学をする」と表現したくなる。哲学者は、問いに正面からぶつかり、がっぷり四つに哲学をするのではない。哲学者は、問いの力を使って、いわば問いの力という風を受けて進むヨットのように哲学を進めているのではないか。

先日、入不二は、自らが媒体になったような気がする、と発言していた。近年、入不二は「現実性」について論じているが、その論じ方として、あたかも、「現実性」自体が自らを語るために、入不二を媒体としているような感覚がある、ということなのだろう。確かに、僕が読んでいても、そのように感じる。

入不二は「現実とは何か」について論じている。そして、「現実」とは「現実性の力」であるとしている。だがそれは、「現実」をまな板に載せ、それを観察したり解剖したりすることによって「現実」の詳細を解き明し、「現実性の力」を捉えたのではない。入不二は、どこまでも、この現実において「現実とは何か」について論ずることを遂行し、その遂行自体によって、遍在する現実性の力そのものを示そうとしている。

この入不二の例は、多分、最も効率よく問いの力を活用している一例であろう。ヨットの比喩を用いるならば、入不二は、後ろから問いの力を帆に受け、追い風で帆走しているのである。(古代の四角い帆では、真後ろの追い風の帆走(ランニング)しかできなかったらしいが、現代のヨットでは、風下に向かう際でも、斜めにジグザグに帆走(ジャイビング)するほうが速いらしい。)

追い風で哲学をする入不二に対比するならば、永井は、向かい風で哲学をしているとも言える。

古代の帆船と違って、現代のヨットは風に向かって帆走することができる。完全な向かい風はさすがに無理だが、右前方斜め45度に風を受け、途中で左前方斜め45度に切り替える、という動作を繰り返すことで、ジグザクに風上に帆走(タッキング)できるそうだ。永井は、そのようにして、「〈私〉とは何か」という問いから力を受けつつ、〈私〉に迫ろうとしているのではないか。

ジャイビングの入不二、タッキングの永井というように哲学者によって、問いの力の受け方は多少違うかもしれない。だが、問いを適切に設定し、適切に問いの力を受け取ることで、哲学は力強く帆走できるのである。

2 本当に問われるべき問いを露見させる力

まず、重要なのは、入不二は当然として、永井であっても、問いと完全に対立する姿勢はとっていないという点である。ヨットは全くの風上には進めないように、哲学者が問いと完全に対立してしまったら、問いの力に抗えず、哲学はどこかに漂流してしまうのである。

どういうことか。ヨットの比喩から離れ、多少長くなってしまうが、永井の「〈私〉とは何か」という問いを例として、問いと完全に対立した場面を仮定してみよう。

「〈私〉とは何か」という問いに完全に対立するとは、つまり、その哲学者が哲学を始めるにあたって、「〈私〉」を使うことはできないということである。

なぜなら、哲学者と問いが対立するとは、その問いがあくまで探求の対象として位置付けられ、探求以前に、その問いに含まれる概念を用いることはできないということだからである。要は「〈私〉とは何か」という問いについて、〈私〉という言葉を使って答えてしまったら、わからないものをわからないまま使ってしまったことになるので、それは十分な答えではないということである。

それならば、哲学者が問いと対立したまま「〈私〉とは何か」について論を進めるためには、「〈私〉」ではない何か、例えば、「世界」や「生命」といったものから論を始める必要がある。そのうえで、例えば「世界にはいくつもの生命があり、その中の特権的なひとつが〈私〉なのではないか。」といった論を主張することになる。

だが、そのような論を進めるならば、哲学者が本当に問うべきは「世界や生命とは何か。」という問いであるべきだろう。なぜなら、その場合「世界」や「生命」にすでに特権性が含まれてしまっており、そのような主張をする哲学者にとって重要なのは、「〈私〉」ではなく「世界」や「生命」であるはずだからである。

これが、「〈私〉とは何か」という問いに完全に対立したら、その力に抗えず、どこかに漂流してしまう、という事態である。

確かに、一見、対立は成功し、「特権的な生命こそが〈私〉だ」というような、それっぽい答えを導くこともできる。だが、その導出の過程で、本当に問われるべき問いが露見し、そこに問いが移り、流されていってしまうのである。

この、本当に問われるべき問いを露見させる力こそが、問いの力(のひとつの現れ)であるとも言えるだろう。「◯◯とは何か」という形式の問いは、「◯◯」について関心があることの決意表明でもある。または、その哲学者にとってのタウマゼインが「◯◯」であることの表現でもあるのである。自らの関心に従い、自らのタウマゼインに取り組まなければ、真の哲学者ではない。

3 内部の支点 

それならば、問いの力を活用しつつ、問いに答えるためには、「〈私〉とは何か。」と例にするならば、「〈私〉」にどこまでもこだわり、「〈私〉」そのものについて考えることによって、「〈私〉とは何か」の答えを導くしかない。

「〈私〉」ではない「何か」、例えば、「生命」について考えることでは、「〈私〉とは何か」という問いの力を引き出すことはできず、よって「〈私〉とは何か」についての答えに到達することはできないのである。(その代わりに「生命とはなにか」についてなら答えに到達するかもしれない。)

このことを、アルキメデス的に支点という言葉を使って表現することもできる。

「Aとは何か」という問いにBを支点として答えたら、そこで本当に重要なのは、支点Bになってしまう。だから、Aの重要性を確保したまま、「Aとは何か」という問いに答えるためには、Aを支点として「Aとは何か」という問いに答えなければならない。

問いの力を活用するためには、問いの内部に支点を置く必要があるのである。

4 哲学的受容

だが、そもそもAとは何かわからないのに、Aについて考え、そして、そこから、何らかの哲学的知見を引き出すなどという芸当が可能なのだろうか。

そこには確かに、少なくとも2つの困難があるように思える。

ひとつめの困難は、わからないものについて考えるという矛盾に満ちた作業に、どのような態度で取り組めばいいかわからない、という問題である。

これについては、これまでの哲学者のやり方が参考になるだろう。入不二にせよ、永井にせよ、世の哲学者は、現実や〈私〉といった彼らにとっての最重要の関心事を、無自覚に受け入れてはいない。一方で、現実や〈私〉を、考察の対象としての単なる一概念としても捉えてはいない。自らのタウマゼインまたは内的支点に現実や〈私〉という輪郭を与え、それを考察の対象としつつも、それを概念化し、考察の対象とする以前にすでに受け入れているのである。

ここでの対象化以前の受け入れとは、まだAとは何かわからないままでの受け入れだから、論理的な意味で、理由や根拠のある受け入れではない。だが、そこからAについての考察が始まるという意味では無自覚の受け入れでもない。

そのような受け入れがなぜ可能になるのかといえば、現実や〈私〉が彼らにとってのタウマゼインだからである。

タウマゼインとは、疑い、問いただす対象ではなく、ただ驚き、その偉大さに圧倒され、感服するしかないものである。つまり、無条件に、まずは受け入れるしかないものである。

一方で、驚きのあまり目を背け、または、敬い、頭を下げるだけでは哲学者としては失格である。哲学者ならば、その驚きの輪郭を明らかにしようと、自らの生涯を賭けてタウマゼインをしっかり見据えるのでなければならない。

哲学者ならば、ただ驚き、ただ感服しつつも、それでも、それを見据えようとする、という矛盾した態度が求められる。この矛盾した態度こそが、極めて受動的で、かつ極めて能動的な「哲学的受容」という態度である。

そもそも何だかわからないAについて考え、そこから、何らかの知見を引き出すというような芸当は、それを行うのが哲学者であり、そしてAこそがタウマゼインである場合に限り「哲学的受容」という態度によって可能となるのである。

哲学者は問いに背中を押されるようにして哲学をするとするならば、このときに哲学者に求められるのは、肩越しに振り返り、背中で問いを捉えることである、と表現することもできる。受容しつつ見据えるという矛盾した「哲学的受容」という態度は、振り返り、背中で捉えるとも表現できる。

入不二や永井のような一流の哲学者から学ぶべきは、その哲学の内容よりも、まずは、このような態度なのかもしれない。

5 天才に迫るための凡才のテクニック

だが、タウマゼインとしての哲学の問いに対して、哲学的受容という態度で臨んだからといって、万人が自らの哲学を前進させることはできないだろう。

そこには、常識的な意味での才能が必要となるからである。

これがAとは何かわからないまま、ただAだけによってAについて考えるうえでの二つ目の困難である。先ほどの困難が態度的困難とするなら、これは才能的困難である。

入不二や永井のような一流の哲学者は、その独特の切り口によって、世界や生命のような別の観点を密輸入せず、ただ現実や〈私〉という観点から、現実や〈私〉そのものを語ることに、(少なくともある程度までは)成功しているように見える。

そのためには、独特の切り口を捉えるという哲学の才能と、その切り口を的確に表現するという文学の才能が必要となるはずだ。二つが揃ってはじめて、彼らのように哲学ができるとするならば、哲学とは、選ばれし天才だけが取り組むことのできる特権的な営みであるようにも思える。

だが、ここで僕には才能がないと諦めず、もう少し考えてみるならば、二つの才能のうち、文学の才能のほうはともかく、独特の切り口で捉えるという哲学の才能の方は、僕でも多少は語れることがあることに気づく。

先ほどのヨットの例を用いるならば、哲学的受容に関して、ここで重要となるのは、ヨットは、風に正面から向き合ってはいけないということである。問いの力を帆に受けるならば、ヨット、つまり哲学者は、問いと180度に正対してはならない。

それならば、哲学者は、正対を避けるように船の向きを定めなければならないが、何度に定めればよいのかは、哲学的受容からだけでは導くことができない。そこには、一流の哲学者による、天才の技が求められるのである。重要なのは、風向きとヨットの向きの微調整、つまり問いの向きと哲学者の向きの微調整なのである。

それでは問いの向き、哲学者の向きとは何か。

まず、哲学者の向きとは、思考の向きであり、哲学者の思考は哲学書の中に現れるとするならば、執筆の向きである。

哲学書は、何らかの哲学的主張に向かって書かれている。その主張は、たいてい、結論として哲学書の最後の方に書かれているが、そうでない場合もある。永井ならば「〈私〉とは独在性を有する私である」、入不二ならば「現実性とは遍在する力である」あたりが結論となるだろうか。おおまかには、哲学者はそのような何らかの主張に向かっている。それが哲学者の向きである。

もうひとつの問いの向きとは、その問いに答えることを促す向きである。「〈私〉とは何か。」ならば、「〈私〉とは〇〇である。」と答えなければならない。それが問いの向きである。

この二つの向きが、完全に180度で正対した場合、「〈私〉とは何か。」という問いに対して、哲学者は「〈私〉とは独在性を有する私である」と答えることになる。

だが、独在性を有する私とは〈私〉の言い換えに過ぎず、この答えは成功していない。

だから、永井は「〈私〉とは独在性を有する私である」というときの「独在性を有する私」は、〈私〉を表現しきることができていないと論じる。永井の言う風間君問題であり、そこから導かれる私の累進構造である。そのずらしがあるからこそ、永井の議論は、問いに対する180度の正対関係とならず、有効に成立することができる。

つまり、永井の風間君問題への気づきこそが、永井の議論を45度ずらし、問いの力という風に逆らい、風上にある問いに到達しようとするジャイビング動作を可能としたのである。

また、哲学者の向きと問いの向きが完全に0度で一致した場合、哲学者はその問いを繰り返すしかない。例えば「現実性とは何か。」と。だが、これはタウマゼインに圧倒されただけであり、それでも問いを見据えようとする「哲学的受容」という哲学者の態度ではない。

入不二は、そこで「現に」という副詞的な語り方を発見した。「現に」は遍在し、「現に、「現実性とは何か。」と問う。」と表現することもできる。

それが、完全な順風ではなく、進路を45度ずらし、「現実性とは何か。」という問いの遂行にすら現実性を見出すような語り方を可能としたのである。これは入不二が行ったジャイビング動作であり、入不二が無色透明の真空ではなく、質量のある媒体であるということである。入不二であるとは、目に見えない放射線の進路に影響を与えないまま、その進路を観察することを可能とする霧箱の霧のような存在であるということなのである。霧であることが、45度ずらすジャイビング動作にあたる。

〈私〉や現実性のような特異点とでもいうべきものを表現するためには、その特異性に合致した、特異な語り方が求められる。それを僕は角度の調整と呼んだのだが、この調整は、天才ならば無意識にやっているのだろう。

それが永井のタッキング的な語り方であり、入不二のジャイビング的な語り方である。僕には、それが〈私〉や現実性のような伝えにくい話を伝えるうえで、最も成功しうる語り方であるように思える。(それでも、このような語り口に慣れていない読者には伝わらないこともあるようだけど。)

このような語り方の角度付けをどのように行うのかというと、まさに天才の直感によるのしかないのかもしれない。

だが、ここで述べたような語り方の角度付けに意識を向けることで、僕たち凡人であっても、多少は、一流の哲学者の語り口を再現することができるかもしれない。知識が才能を補うということである。

6 アビーム

ここまでが僕が述べたかった哲学的受容についての話である。

それでは、なぜ、僕がこのようなことを考えたのかといえば、最近、自分自身がきちんと哲学をできていないような気がしていたからだ。

ここまでの話に沿うならば、僕は、哲学の問いに、あまりにも正面から向き合おうとしすぎていたのではないか。僕は、本来、極めて能動的な作業でもある哲学的受容を誤解し、それを単なる受容に過ぎないと切り捨ててしまっていたのではないか。

そのようなことに気づいたから、僕はこの文章を書くことにした。

僕は、これまで、手あたり次第に書きすぎていたのかもしれない。僕は天才の語り口を参考に、僕のタウマゼインに合った語り口を見つけるべきなのだ。

僕のタウマゼインを問いのかたちで表現するならば、「僕は、何であれ何らかをどこまで捉えられるのか。」といったものである。「〇〇とは何か。」のかたちで表現するならば「何らかとは何か。」と言ってもいい。

この「何らか」もきっと、「〈私〉」や「現実」と同様に、特異点とでもいうべきもので、それを語るには特別な語り方が必要だ。これまでの僕は、その語り方がわからず、僕は手あたり次第に書いていたとも言える。考えてみれば、手あたり次第に書けば、それも何らかのうちのひとつであることは確かなので、そう悪いアプローチではない。

だが、僕はもう少し自覚的に、問いのかたちに合ったかたちで、哲学者としての向きを定めるべきだろう。風向きを読み、その風向きに合った適切な向きに帆を張るべきなのである。

そこで向きの設定が問題となるが、最もヨットが力強く走るとされるのは、風向きから90度であり、アビームと呼ばれている。問いに対して直交するアビームという方向づけは、何かに向きすぎず、また、何かからも離れすぎていないという点で、「何らか」という問いに対する態度としては適切なもののように思える。(そこには、風上に位置づけられる永井の「〈私〉」と風下に位置づけられる入不二の「現実」のどちらにも偏らない中間に、僕の「何らか」は位置づけられるという予感もある。)

予感めいたもの以上の根拠はないけれど、アビームには最速という魅力もある。とりあえず、僕の一生の中でどこまで進めるのか試してみるためにも、僕はアビームに向きを定めてみようと思う。

7 「哲学的受容」の効用

ところで、ここまで哲学的受容について考えた副作用(いいことなので副効用)として、僕の孤独感が多少、解消されたという感覚がある。

哲学とは、誰ともわかりあえない孤独な作業である。哲学を話せる知人はいるし、最近ではAIも頭の整理に役立ってくれる。だが、僕の哲学的問題とは、本質的に僕だけのものであり、誰かと共有できないからこそ、哲学的問題であるとも言える。

哲学とは、本質的に孤独な作業なのである。

だが、哲学的受容というアイディアを思いついて、僕のそばに寄り添うように立ってくれている存在に気づいた。(存在と言うと不正確だけど。)

それは、僕の問いである。まだ見ぬ僕の問いは、いつも僕のそばに立ち、そして僕の哲学を前進させる力を与えてくれている。僕は、僕の問いとともに、哲学をしているのである。

哲学は孤独な作業だけど、哲学をする限り、僕は孤独ではないとも言える。