-哲学書を読み、書くことの問題-

※4600字くらいあります。イベントの内容を正確に知りたい方にはオススメしません。

1 はじめに

先日、東大の本郷キャンパスに行った。上野修×入不二基義 対談イベント 『スピノザ考』×『現実性の極北』-哲学の対話 というイベントがあったからだ。

お目当ては入不二先生だったのだけど、上野先生との化学反応が素晴らしくて、とっても面白かったので記録しておく。

ただし、アーカイブ配信はあえて行わないようなので、詳細を残すのはやめ、あくまで、僕が興味を持った部分について、僕が考えたことを書くことにする。

だからこれは、入不二ファンによる、よく知らない上野先生やスピノザについての思考の記録だということになる。

まず、単なる感想だけど、お二人の間に流れる空気感がとってもよかった。

やんちゃに切り込む入不二、そして、それを柔らかく受け入れる上野。と思いきや、上野は「その発言にはスピノザは同意しない」なんてビシッと指摘し、入不二は、その指摘を受け入れ、更に別の角度から切り込む。剛の中に柔がある入不二、柔の中に剛がある上野、という、異種格闘技のように見えて、なぜか全体としてはプロレスが成立しているような、不思議な空間だった。

きっと、議論の内容は、互いの事前想定から逸脱し、想定外なものになったんだろうけれど、それも含め、その議論の進め方は互いに想定内だったのだろう。

二人は(若かりし)山口大学時代に深い付き合いをしていたそうだが、きっと、その頃の感じのままなんだろうな。こういう関係性っていいな、と哲学とは関係なく思った。

また、これもまた哲学とは関係ないけれど、上野先生はすごい、と思った。何を発言しても、なんだか心に染みるのだ。つい話を聞きたくなってしまう。あの発言のテンポや口調、そして話の進め方はどうやって身につけたのだろう。素敵すぎる。

2 具体的な経験

さて、対談の内容としては、入不二のAny-ness、そして上野スピノザのaliquid(someのラテン語らしいので、そっちを使います)、quiquid(anyのラテン語らしいので、そっちを使います)が中心に語られた。

入不二哲学についてはさんざん考えているので省略し、スピノザについてメモをしておくと、スピノザは、セマンティクス(多分、具体的な意味内容)を避け、シンタックス(多分、構造)のみを語ろうとした、という点がポイントだったと思う。

スピノザが哲学の構造を作り上げる際に、具体的な意味内容を取り入れてしまったら、それは、哲学構造の外部から何か(僕の理解では具体的な経験)を密輸入することになってしまう。だから、スピノザは、「具体的な経験」を用いず、自らの哲学の構造の中にあるものだけを材料にして、哲学の構造を作り上げようとしたのである。

上野は、それを滅菌室ともゲームとも言っていた。入不二の用語を用いるなら、接地していないどころか地面がないゲームである。

3 わかりすぎる

このような哲学観に基づく、上野から入不二に対する批判の最も強力なものが、入不二哲学は「わかりすぎる」という発言だったと思う。上野にとってのスピノザの魅力とは、上野にとってさえ「わからないことばかり」であるところにある一方で、入不二はわかりすぎる、というのは強烈な批判だと思う。

これは、僕なりの当面の解釈では、入不二は、スピノザが書くべきではないと思いとどまったところを書きすぎてしまっている、ということなのではないだろうか。それも、間違っていればまだしも、正しく書いてしまっている。そして、正しく書くことで、その正しさを台無しにしてしまっている。

僕が勝手に思いついた例だけど、入不二は、ラブレターに返信用封筒を同封するようなことをしてしまっているのではないだろうか。相手のことを考え、確実に返事をもらおうとする目的には適っているけれど、何かを台無しにしてしまっている。

残念なことに、入不二は、スピノザが慎重に避けた「具体的な経験」を取り込んだうえで、哲学の構造をつくりあげることに成功してしまっているのである。

これに対して、入不二は、スピノザも意識的に同じようなことをしている、と応じる。

確かにスピノザのエチカという本は、その文章の内容としては、滅菌室のように「具体的な経験」から隔離されている。だが、読者が文章を読む過程で、読者の「具体的な経験」が混入する。だからこそエチカという本がスピノザが意図したようなかたちで理解されるのではないか。

エチカという本の構成は、公理体系の記述とは別に、備考が設けられ、そこで公理体系の使い方が書かれているけれど、それは、読者がうまく「具体的な経験」を混入させるためのスピノザなりの工夫ですらあるのではないか。

4 哲学書を読む

僕は、この対立を、「哲学書を読む」という哲学において決定的に重要な要素を、哲学書の中に取り込むか、あえて哲学書の外に置くかの対立であると受け止めた。

僕の理解では、本の中での「ペットボトルがある」という言葉は、「ペットボトルがある」ことを意味しない。「ペットボトルがある」ためには、読者が目の前にペットボトルを置き、「ペットボトルがある」を追体験するしかない。そのような哲学の営みの困難についての議論であったように思う。

だから、入不二も、書くだけでいいとは思っていない。入不二哲学を理解するためには、きちんと読者が読み、入不二の思考を追体験するしかない。だから入不二は、過剰なほどに精緻な文章を書くのだろう。

5 動性と具体的な経験・現実

なお、正確には、二人の対立は、「具体的な経験」の混入についてのものではなく、「動性」を巡って行われたものである。スピノザの哲学体系は静的であり、入不二の哲学体系は動的である。

だから、正確には、上野スピノザの入不二への批判は、スピノザが滅菌室から排除した「動性」を、入不二は取り入れてしまっている、と言い換えてもいいかもしれない。それも、入不二は、現実性や任意性といった最重要概念において、動性を取り入れている。

ということは、二人の発言にはなかったけれど、「具体的な経験」と「動性」とは紐づいている、ということになる。そこがとても興味深かった。

さらにつなげるならば「哲学書を読む」という営みが、「具体的な経験」と「動性」とつながっているということでもある。

また、これは、二人の問題意識が「現実」に向かっているという点ともつながる。この動性とは入不二にとっては現実性である。一方の上野スピノザにとっては、現実とは、エチカにおける、具体的な経験から隔絶された静的な到達点でもある。(訳が難しいそうだが、エチカという本の到達点は、従来の訳され方としては「神即自然」とも言われる。この自然の部分について、上野は「現実」と訳したかったとも言っていた。)

現実について、入不二と上野がここまで捉え方が相反しているということは、それは単なる誤りではなく、何らかの正しさを指し示していると考えるべきだろう。

6 独在性

そして、僕が「具体的な経験」としたものは、クオリアの問題などもあるので、きっと永井均の独在性の問題ともつながっている。そして永井の独在性を捉えようとすると、そこでは動性が生じる。

次回、永井先生も含めた鼎談が計画されているらしいので、この話の続きが伺えるのではないかと、とても楽しみだ。(僕には、永井の独在論は、上野スピノザの写し鏡のように思える。上野はスピノザの主語は常に神で、そこには一人称はなく、スーパー人称しかなく、さらに神は普通の意味では存在しないから、ウルトラ独在論の可能性もあると言っていた。)

7 抽象概念の排除

あと、スピノザを知っている人には常識かもしれないが、僕にとって大事だと思ったのは、(種としての)「犬」のような抽象概念を完全に排除した、という話だ。一言で犬といっても様々な捉え方があり、いわば概念の「ごっちゃ煮」だ。そんな言葉を使っても、何を言っていることにもならない。

ただ、唯一、人間という抽象概念だけは、エチカの公理体系から導くことができるからスピノザは、自らの哲学体系に取り入れる。

だから、同じsomeという言葉を使っても、人間はいいsomeで、犬は(哲学体系の邪魔になるという意味で)わるいsomeだ、ということになる。

上野は、人と犬が同じsomeという言葉を使っていることに重要な意味はない、としていたけれど、スピノザ解釈を離れるならば、入不二的には、いずれも〈中間〉的なものだという意味で、someをひとつながりに位置づけることができるだろう。

8 哲学書を読み、書く

この話は、哲学書を書く目的についての問題にもつながる。スピノザは漫然と総当りで公理体系を作ったのではなく、(犬はともかく)人間という抽象概念だけは、うまく成立させることを目的として書いた。そして、それに成功したという問題である。

ここにも、先程の動性の問題が含まれている。そして、これは「哲学書を読む」という営みと対になる「哲学書を書く」という営みの哲学上の重要性ともつながっている。つまり、哲学書は、例えば「人間を永遠な存在として位置づける」という目的のために書かれ、そこから目的に向かう動性が生じるのである。

つまり二人は、このイベントを通して、「哲学書を読み、書く」という問題をあぶり出したとも言えるのではないか。

(僕のブログのタイトルが『対話の哲学』であるとおり、僕には、哲学書を読み、書くという営みを対話的に捉えたいという野望がある。だから、対話の動性のなかで、具体的な経験が巻き込まれていくという描写はとても魅力的である。)

9 その先の話

ただ、ここできれいに話は終わらないという点も重要だと思う。

まずは、スピノザの体系上、延長と思惟というかたちで、すでに「哲学書を読む」という営みを取り入れているとも言えるからだ。読まれる哲学書の延長と、読む営みとしての思惟が同一のものとして静的に位置づけられている。

また、入不二は、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へと発展したように、静的なスピノザの体系にも、更に発展するという動性があってもいいはずだ、と主張する。これは、哲学書を読み、そして書くという営みにはまだまだ先があるという指摘だとも言えるだろう。

さらに、入不二の次著では、完了態と未完了態といったアスペクトについて取り上げ、アスペクトの潰れという事態を論ずる予定だという話もあった。このアスペクトの潰れという捉え方を用いるならば、エチカの全証明が終わったという静的な状況は、このアスペクトの潰れとして捉えることもできるそうだ。それならば、静的なエチカを動的に読むという僕のスピノザの理解は単純化しすぎだということになる。

まだまだ面白い話が聞けそうだ。

10 最後に

以上が、イベントの記録です。(アーカイブ配信がないので、イベントの内容を知りたくて読む方がいるかもしれないけれど)僕自身のための記録なので、不正確だろうことはご容赦ください。

また、スピノザ素人の僕が、なんとか話についていけたのは入不二先生がTwitterで紹介してくれた皆さんの記事、特に高久弦太さんの次の記事のおかげです。ありがとうございました。

https://note.com/55leoleo777/n/n3d26945c1925