※ 4000字ちょっとあります。形而上学的とあるけど、形而上学の入口だけです。

1 リベラリズム・ネバーダイ

僕は政治学に詳しくないので確信はないけれど、多分僕はリベラリスト的だ。

だけど、最近、リベラリズムは人気がなくてMAGAとかに押され気味だし、だからプログレッシブなんて言い換えて新味を出そうとしているらしい。

そんな状況だから、なんとかリベラリズムを擁護したい。そう考えて、ちょっと調べてみたのだけど、どうやら、リベラリズムには明確な定義がなく、時代とともに変遷するものらしい。

そんな不明確さがあるから人気が落ちているのではないか。それならば、僕なりのリベラリズムを定義してみたい。そんなことを考えて、この文章を書いてみた。

リベラリズム・ネバーダイ、リベラリズムは構築し直せば結構いけるぞ、そんな文章である。

なお、このリベラリズムの組み換え作業は、政治学ではなく、もっぱら形而上学的に行われている。

だから、これは、政治学の素人による、政治学的には受け入れられないだろう、私的な試みであることを冒頭で述べておく。

2 リベラリズム1

リベラリズムとは、次のような手順で導出される社会活動のことなのではないか。

①普遍的な概念により、価値を規定する。(例:自由、幸福(追求)、平等など)

②その価値の担い手を個人に割り振る。(国家や共同体や労働者階級や社会システムではなく)

③個人の価値の確保を第一目的として、静的な社会システムを構想する。(代議制など)

④構想された社会システムの実現を目標として社会活動を行う。(投票など)

当然、これは僕が今勝手に定義したものなので、歴史的なリベラリズムとは齟齬があるだろう。従来のリベラリズムの一部は僕のリベラリズムには含まれないだろうし、世間ではリベラリズムとは呼ばれなかったものの一部が僕のリベラリズムに含まれることもあるだろう。(後ほど、別のリベラリズム2が登場するので、これをリベラリズム1とするが、リベラリズム2が登場するまでは、ただリベラリズムと書く。)

3 内と外の問題

リベラリズムをこのように定義するならば、リベラリズムは、内と外に問題を抱えていることがわかる。

外の問題とは、②の価値の担い手を個人に割り振るところで生じる。国家や共同体や労働者階級や社会システムに価値を割り振ったほうがいいのではないか、という批判が生じうるのである。コミュニタリアニズムや共産主義的な批判である。

内の問題とは、①で規定する価値とは何にするかという問題と、③で目標設定する社会システムを何にするかという問題である。これはリベラリズム内部で方針を一致させるうえでの問題である。

このように、内と外という整理ができるという点だけでも、僕のリベラリズム定義には価値があると思う。

4 形而上学的実践の問題

このように整理してみると、価値の担い手を共同体や労働者階級に割り振るコミュニタリアニズムや共産主義は、形而上学的に旗色が悪い。

なぜなら、形而上学的には、個人を基礎的な存在として前提とすることは比較的容易だが、共同体や労働者階級を基礎的な存在として前提とすることは、一段と難しいからだ。

(非リベラリズムとして僕が勝手に想定した)コミュニタリアニズムや共産主義は、政治的主張を行う前に、「共同体とは何か。」「労働者階級とは何か。」という問題に形而上学的な回答を行わなければならない。そして、形而上学的批判を乗り越えなければならない。

一方で、リベラリズムは個人を前提とするから、形而上学的には「人間とは何か。」という問題にさえ答えればいい。これはこれで難問だけど、多くの人は、「そこまで考えなくていいから早く政治学の話をしてくれ」と思うだけだろう。この「人間とは何か。」という形而上学的問題は、たいていの場面で、皆が答える必要がないと合意することで、解決してしまうのである。これは形而上学的問題の素朴な実践的解決と言ってもいい。

要は、僕のような、素朴な実践的解決では満足できない者を除けば、リベラリズムには、形而上学的な説明負荷がないが、コミュニタリアニズムや共産主義のような非リベラリズムには重い形而上学的な説明負荷がのしかかっているのである。

5 倫理学的問題

こうして非リベラリズムを脱落させたなら、次は、リベラリズムの中で、どのリベラリズムがよいのか、という問題に移ることになるが、ここでは、まず①の普遍的な概念により、価値を規定する、という作業が問題となる。

自由、幸福(追求)、平等などの中から、どの普遍的概念を選択するかという問題である。

これは、まさに倫理学の問題であるが、倫理学的には残念ながら、答えが出ていない問題だろう。

つまり、リベラリズムも早晩行き詰まってしまうのである。

6 リベラリズム2

このように考えると袋小路に入り込んでしまうので、なんとか側面突破を試みると、リベラリズムの問題は、実は、③の静的な社会システムを構想する。という点にあるのではないか。

僕は、「静的」ということを強調しているが、なぜかというと、リベラリズムが何かを目指すなら、目標を設定しなければならず、その目標とは、定められた固定的なものでなければならないからである。

だが、そもそも、このような目標設定というアプローチがまずいのではないか。

まず、リベラリズムと非リベラリズムを分けるものとして、共同体や労働者階級ではなく個人を前提とするところまではよいだろう。

そのうえで、リベラリズムとは、実は、ただ「個人を前提とする」ことを目指す活動なのではないだろうか。

手法は問わない。ただ、「個人を前提とする」のである。

ただ「個人を前提とする」、これがリベラリズム2である。(ここからは、リベラリズム2をリベラリズムと表記する。)

このような捉え方は、カントの「他者を目的として扱い、手段として扱わない」という捉え方と重なる。

カントはそこから、義務論のような話に発展させ、そこが批判の対象になってしまったけれど、この出発地点だけは揺らがないのではないか。

形而上学的には、普遍的な人間という存在がある。自分も他者も同じ人間である。そのような人間としての個人が全ての前提である。

これが、リベラリズムの本旨である。

7 普遍的な価値の問題

それならば、人間より上位に自由や平等のような普遍的価値を設定することでは、リベラリズムの目的や価値を説明できないはずだ。

なぜならば、例えば、自由という価値を上位に置き、自由な個人を前提とする、としてしまったら、自由な個人と自由でない個人という区分が生じてしまい、そこで人間の普遍性が失われてしまうからである。(すべての個人が自由である、という言い方もできるが、そうすると、その自由の価値は個人であるという価値と等しくなってしまう。)

このように人間より上位に普遍的な価値があると仮定した場合、その価値の有無による分断により、人間の普遍性は成立しなくなってしまうのである。

そのように考えることで、①のように、人間以外の普遍的な概念により、価値を規定することもできないこととなる。

このように、どこまでも普遍的な個人だけを重視するならば、普遍的な個人が有する価値とは、人間性という言葉で表現できるだろう。人間の性質としての人間性である。ただし、それ以上の定義はできないから、定義なしの普遍的な人間性である。

もし人間性という言葉に、自由や平等といった言葉を当てはめると、「それでは、その自由や平等を目標として設定しましょう。」となってしまい、さらに「それでは、そのための社会システムを考えましょう。」となってしまう。その困難に入りこまないためには、定義なしの普遍的な人間性のみを認めるべきなのである。

8 リベラリズムという生き方

それでは、実際、「個人を前提とする」ことを目指す活動とは何をしたらいいのか、という問題が生じるが、僕のリベラリズムは、その姿勢を示すだけで、具体的なことは示してくれない。

冒頭で僕が示した、僕なりのリベラリズムは、曲がりなりにも政治思想としてのリベラリズムを描写していた。そこから、具体的な政治的実践の道も開けていた。

だが、形而上学の視点から前提を洗い流すと、そこには、「個人を前提とする」という、ただひとつの手順だけが残る。

この手順に限定はないから、この手順はいわば人生全体に適用されることになる。こうして僕のリベラリズムは政治思想から人生思想へと変容する。

僕が生きる限り、リベラリズムの声は通奏低音のように「個人を前提とし、人生を生きよ。」と、具体的内容ではなく、その姿勢だけを僕に囁き続けるのである。

こうして、リベラリズムという姿勢だけを受け入れた僕は、人間とはなにか、人間性とは何かについて自問自答し、試行錯誤をして、ときには傷つけ、傷つきながら、リベラリズムの道を進むしかない。

その試行錯誤を先回りして皆に答えを与えてあげよう、とパターナリズム的に願ってしまうから、たいていの政治思想家は間違えてしまうのではないか。そして、偉い先生から苦労せずに答えだけを手に入れようとするから、たいていの政治思想を必要とする人たちは間違えてしまうのではないか。

それならば、間違いにつながる政治思想から、人生思想へとリベラリズムを読み替えたことは、リベラリズムの後退では決してない。

9 リベラリズムの問題と意義

最後に一言、ここまでのリベラリズム擁護は、「普遍的な人間としての個人」を前提としているという点で、形而上学的にはいくらでも批判可能である。

ここまで形而上学的な視点からリベラリズムを論じてはきたけれど、「人間とは何か。」という形而上学的問題を素朴な実践的解決で済ませてしまったという点で、リベラリズムは形而上学的には弱く、形而上学的には無根拠なひとつの政治思想でしかない。

それが、この議論の限界でもあるけれど、だからこそ、社会にコミットする力強さを持っているとも言える。

形而上学は社会へのコミットを前提としないという点で空理空論であり、だからこそ僕は形而上学を愛している。一方で、僕がここで導いたリベラリズムは、政治思想から人生思想へと変質はしたけれど、あくまで思想である。

リベラリズムは思想として、形而上学的なことばかり考えている僕に、社会へのコミットの仕方を多少なりとも示してくれている。そこには確かにリベラリズムの意義がある。

僕に似た、ごく少数の人に、リベラリズムの魅力が伝わればいいのだけど。