※1,700字くらいです。自分に向けた当面のマニフェストかな。
0 定義
「哲学とは、その哲学者が関心を持つ〈何か〉に関する限定のない誠実な記述の過程である。」という定義を思いついた。
1 言語的限定・詩・記述への執着
特に説明を要するだろうポイントは、「限定のない」と「記述」というところにあるだろう。ここで想定している主な限定とは言語による限定であり、記述とは、言語による記述である。
だから、言語に限定されずに言語で捉えるという無理筋のことを哲学は目指していることになる。
この無理を無意識的に排除したのが科学であり、意識的に排除したのが(典型的な)分析哲学ということになるだろう。言語で記述できることしか扱わないという言語的限定を加えることで、無理を取り除いたのである。
当然、排除したからといって間違えたり劣ったりしている訳ではない。なぜなら、排除するためには、何を排除するかを明確にする必要があり、その排除されたものの輪郭が逆に浮かび上がってしまうからだ。言語的限定について語らないとは、語らないというかたちでの言語的限定に対するコミットである。それはひとつの言語的限定のない誠実な記述のあり方であると言える。
問題は、排除したはずのものを排除していないと強弁する不誠実さである。だから僕は、一部の哲学と呼ばれるものは、その記述の内容ではなく、不誠実さという点で、哲学ではないと考える。
そのような少数の例外を除き、世の哲学は言語的限定にコミットしている。具体的には入不二の現実性、永井の独在性、言語ゲーム、実存、物自体、認識、存在などなど。たいていの重要な哲学的概念は言語的限定に関わるものである。
ただし、そのコミットの仕方は哲学者によって異なる。大きくは、現実性や実存のように、果敢に言語的限定に踏み込んでいくタイプと、言語ゲームや物自体のように踏み込むことができない境界として言語的限定を措定するタイプに分かれるだろう。
だが、いずれにせよ、言語に限定されずに言語で捉えるという無理をしているという点で、多くの哲学は、科学や分析哲学の立場からは、非論理的だという批判を受けるだろう。だから、哲学の言葉は、非論理的という意味で、詩的なものとならざるを得ない。詩が持つ、言葉によって言語的限定の先を描写する力に、哲学は賭けているのである。
そして、その詩の言葉を駆動するのは、記述への執着だろう。この執着こそが哲学であり、記述への執着を持つ者こそが哲学者と呼ばれるのである。
2 対象・過程・誠実
この定義について、その他の部分を一応説明すると、「その哲学者が関心を持つ〈何か〉に関する」としたのは、哲学において、その対象は何でもいいということを強調したかったからである。ただし、関心や誠実さや執着といった姿勢は必須である。
また、「過程」としたのは、成功したかどうかはどちらでもよく、その過程こそが重要だということを示したかったからである。たぶん、世の哲学で、完全に記述に成功したものはないが、それでも、その哲学が哲学であることには代わりはない。
だから、言語ゲームのように言語的限界の境界を設けるタイプの哲学より、実存のように踏み込んでいくタイプの哲学のほうが、哲学としては適切な態度であるはずだ。なぜなら、境界を設けるというやり方は、そこで哲学という営みの過程が終わってしまうのだから。哲学が過程であるとするならば、言語的限界に果敢に踏み込むことで、そこをまさにスタートラインとして、哲学の過程を始めることができるではないか。
なお、この定義の中で最も重要なのは「誠実」だろう。誠実さということで僕が想定しているのは、他者からの批判に対する応答の誠実さである。または、それを自らの中で実演する際の自問自答の誠実さである。誠実さへの執着こそが、限定なく、詩的なものとならざるを得ない哲学における唯一の制約であり、そして、哲学の言葉を詩的なものとして成立させるための唯一の条件なのではないか。
僕はそのような哲学をしていきたいと思っている。だから、この定義は、僕がこれからやろうとしていることの宣言でもある。