※9,500字弱あります。ボリュームとしては 入不二>>山口>古田>>>生湯葉 という感じの扱いになっていると思います。

1 2冊の本との出会い

最近、偶然、古田徹也の「懐疑論」と、山口尚の「哲学の始め方」という懐疑論を扱った2冊の本を読んだ。

このブログでも何度か書いているけれど、僕は高校生の頃から懐疑論に囚われていた。だけど、最近は懐疑論だけではない色々なことを考えようとしている中で、あの、馴染みのある、あの懐疑論の世界に引き戻されてしまった気がする。

ということで、まずは、この2冊の本との出会いについて書いていく。皆さんにとって、僕が本を読んだ経緯なんてどうでもいいだろうけれど、その出会い方と、これから書くことは多少は関係しているので我慢して読んでほしい。

まず、古田の本と出会ったきっかけは、古田の対談イベントに行ったからだ。

家から歩いて10分もかからないところに本屋がある。色々イベントもやっていて面白いところらしい。何度か行ったことがある妻から、その本屋で哲学者が出るイベントがあるらしいよ、と言われて調べてみると、どうもヴィトゲンシュタインの研究者らしい。そういえば、名前くらい聞いたことある。どんな本屋か興味あるし、ちょうど暇だし行ってみるか、そんな気分で参加した。

対談相手は、生湯葉シホさんというエッセイストで、村上春樹のエッセイの話など、面白い話を聞けた。(そこで出た、エッセイと懐疑論の関係性についての話は、この文章にも少し役立っている。)終了後、せっかくだし、サインをしてもらおうと思って古田の本を買った。そんな流れである。

そして、ちょうど読み終えた頃に、次は、山口の対談イベントがあった。

これも、僕の目当ては、対談相手の入不二基義のほうで、入不二が、「何でもいい何かって何」という最新刊について話すからだった。イベントの主役は入不二で、山口はインタビュアーのような立ち位置だったので、山口についてはほとんど話に出なかった。

終了後、せっかくだし、サインをしてもらおうとしたけど、入不二の本はもう持っているので、山口の本を買った。それも、山口のいくつかの本のうち、これなら新書で読みやすいかな、という程度の気持ちで、この本を選んだ。(まだ入不二の本も読み終えていないので、さくっと読みたかったのだ。)

こうして、たまたま行った二つの対談イベントで、偶然手に取った二つの本が懐疑論の本だったのだ。これが僕の懐疑論との運命的な再会の経緯である。懐疑論の本との出会いに運命を感じるというのも変な話だけど。(疑っているのか、信じているのか。)

2 登場人物の紹介

二人の本は、いずれも、懐疑論という底なし沼から脱出するための本、という位置づけになっている(と感じる)。山口は、その沼を正面から描いていて、古田はあえて描いていないという違いはあるけれど、多分、山口と同じような沼を、古田も抱えていたのではないだろうか。そして、僕も、その沼を抱えている。(もしかしたら、古田は危険を感じて、近づかなかった可能性もある。)

ここからは、僕を含めた、この三人が何かしら関わらざるを得なかった、懐疑論という共通の沼についての話をしていきたい。

なお、さらに二人に登場いただこうと思う。二つの対談イベントの対談相手である、生湯葉シホと入不二基義である。彼らには、懐疑論を抱えていない人の役を演じてもらう。

ただ、入不二については、僕は大ファンなので、かなり解像度高く語ることができるが、生湯葉については、数時間の対談イベントで拝見しただけで、本も一冊も読んでいない。だから、ここでの生湯葉とは、生湯葉本人というより、非哲学のエッセイストの一例という程度の扱いである。生湯葉さんには失礼だけど、そういうものだと思って読んでほしい。

3 山口へのシンパシー

懐疑論の底なし沼の感じについては、山口がとても詳細に描写している。フィクションではあるけれど、山口の実体験も半分くらいは混ざっているのではないか。そして、僕の実体験とも半分くらいは重なっている気がする。山口は京都の大学1年生で、僕は横浜の高校2年生だったという違いはある。加えて、山口のほうが、頭がよくて色々整理できていて、僕の頭の中はもっと雑然としていた、という違いはある。けれど、僕の、あの頃の、あの空気感をうまく捉えてくれているなあ、と感心する。(僕のほうが年上なので、時代は10年近くずれていると思う。)

僕は、山口という同志を見つけた勢いで考える。僕や山口が抱えていたような、あの空気感というのは、多数の、とは言わないけれど、一定割合の少数派の人々が感じるものなのだろうか。山口は、そのような人をナチュラル・ボーン哲学者と呼び、10人以上に会ったことがあると書いている。

もしそうだとしたら、山口が、この本に込めた、昔の自分自身のような少数派の人々を沼から救い出すという意図は無駄ではないと思う。

なぜかというと、僕もまた、同じような思いで哲学カフェの活動をやっていて、僕がやっていることも、きっと無駄ではないと思いたいのだ。

懐疑論に悩んでいる人を助けるなんて、おこがましくておせっかいだと思う人もいるかもしれない。だけど、そう考える人は、懐疑論の苦しさを本当には知らない人だと思う。

なお、この話は別の場でしっかりと書きたいけれど、山口の本の最後で登場する、「意味をめぐる懐疑論」に僕はびっくりした。僕が嵌ってしまい、今も嵌り続けている懐疑論にかなり似ているのだ。どこが似ていて、どこが違うのかはじっくり考える必要があるが、今までに、この懐疑について、誰かがここまで明確に提示してくれたことは初めてのような気がする。僕が知る限り、他には、永井均の『転校生とブラック・ジャック』に登場するFさんの懐疑しかない。(第1章の「悪霊が全能なら・・・「存在」という概念そのものについても、私をだますことができる」というもの。他にも扱っている哲学者がいたら教えてください。)

僕は、山口の沼からの脱出法には不満があるけれど、このタイプの懐疑について記述を与えてくれたことは嬉しい。この懐疑は、嵌ってしまうと本当にきつい。他のタイプの懐疑のほうがまだマシだったのではないか、とすら思う。(この点では、どの懐疑も同様にきつい、という山口の意見と僕の意見は異なっている。)

4 懐疑論の危険性と安全性

だからこそ、僕は、山口の、この本の書かれ方に少し不満がある。

この本には、冒頭で、懐疑論に少しでもはまっていない人は読まなくてよい、という注意書きが示されるべきなのではないか。懐疑論にはまることは、全くの災難であり、できれば避けるべき危険である。だから、山口の本をきっかけに懐疑論にはまってしまうことは避けるべきだ。もし、ナチュラル・ボーンなまま、懐疑論に運悪くはまってしまったならば、それを哲学の燃料とすることで、多少はプラスに転換することが救いにはなる。それはまさにこの本で山口が示した流れであり、実際、僕もそのようにして哲学をしてきたと感じる。山口の本には確かに、蟻地獄に落ちてしまった人の苦しみを緩和する効用がある。

だが、それは、生じてしまったマイナスを、なんとかゼロに戻すような類の話であり、無条件に推奨されるものではない。

もし、ある種の哲学をするために懐疑論が必要だとするならば、そのような哲学はしなくてもいい。僕は心からそう思っているし、僕がやっているのは、残念ながら、そのような、やらなくてもいい、ある種の哲学である。(ここから、そのような哲学を「ある種の哲学」とカギカッコで表現する。)

その点では、古田の語り方のほうが適切である。懐疑論にいざなうことを避けたうえで、懐疑論について論じることに成功している。これなら、懐疑論にはまったことのある人にも訴えるものがあるし、懐疑論にはまらなかった人にも意義あるものになっている。

ただ、あえて山口を弁護するならば、懐疑論は、新書を一冊読んだだけで嵌ることができるようなものではないのかもしれない。もし読んで嵌ったならば、もともと嵌るような人だっただけであり、どんなに精緻に理解しても、懐疑論に嵌らない人は嵌らない、というだけの話かもしれない。懐疑論には、もともと、必要ない人を寄せ付けないような安全装置がかかっているのである。

そうだとするならば、山口の本は、古田のものと同様に、懐疑論に嵌る人と嵌らない人では、全く違う意味を持つことになる。懐疑論者にとっては自分自身の苦しみを緩和する本であり、そうでない者にとっては安全装置が作動し、懐疑論というひとつのアイディアに対する理解を深める本となるのである。よって、山口の述べ方は結果論としては適切だったとも言える。

そのように考えると、僕のような懐疑論者と、山口や古田のような反懐疑論者とで区別する必要性は乏しいだろう。山口や古田も一度は懐疑論に罹患したならば、そこから治癒しているとしても、僕と同じく懐疑論の病歴は持ってしまっている。その証拠に、全員が、懐疑論を燃料にして「ある種の哲学」をしている、という共通点がある。一度は罹患して病歴がある僕と山口と古田は同じ穴の狢なのである。

それと対比されるべきは、懐疑論とは縁遠い非懐疑論者としての生湯葉と入不二である。

生湯葉と入不二には、生来、抗体を持っていて、懐疑論にはかからないから懐疑論者でも反懐疑論者でもなく、非懐疑論者なのである。ただ二人が持っている抗体の種類はきっと同じものではないだろう。

5 エッセイスト

生湯葉と入不二が持っている抗体とはどのようなものか考えてみたい。

まず生湯葉は、エッセイストであり、生活の中での、ちょっとした日常の出来事を、ちょっとだけ日常からずらした視点で捉え、それを文章にしている人だ。本を読んでいないので正確ではないかもしれないけれど、対談を通じて僕はそう感じた。

この、生湯葉が持っている、生活の中での日常をみつめるエッセイストの視点は、懐疑論と深く関わるような「ある種の哲学」とは真逆のものである。

エッセイストは、ささやかな日常におけるアジサイやゆで卵のようなできごとに目を向ける。一方の懐疑論的な「ある種の哲学」者は、できごとを普遍化して捉えようとする。普遍化するから、すべてのできごとをひとまとめにして、懐疑論によって、全面的な懐疑で転覆を図ることもできる。

だから、エッセイストと懐疑論的な「ある種の哲学」者とでは、「日常からできごとに迫るエッセイスト」と、「非日常の普遍的な概念からできごとにアクセスしようとする「ある種の哲学」者」というように、ちょうど正反対の関係にあると言える。

図示するならば「エッセイスト→できごと←「ある種の哲学」者」となる。

なお、エッセイストは、日常のできごとを唯々諾々と受け入れている訳ではない。「ある種の哲学」者が革命のような全転覆を図っているとするならば、エッセイストは、ささやかな日常にささやかな隙間を開けてささやかな転覆を図っているとも言える。慣れ親しんだアジサイやゆで卵とは違う、あの瞬間の、あの生湯葉さんだけが捉えたアジサイやゆで卵を描くようにして。

そして、古田が提示した、懐疑論への処方箋も、このようなものだったとも言える。哲学者は「ある種の哲学」者ではなく、エッセイストのような哲学者であるべきである、というのが古田のアイディアなのではないか。(そうは書いていないけれども。)

当然、哲学者とエッセイストでは言葉遣いが異なる。哲学者が扱うのは、アジサイやゆで卵ではなく、幸福や存在といった抽象的な概念である。だが、それでも、いや、それだからこそなおさら、抽象的な概念を不用意に普遍化していくことには警戒しなければならない。

(「ある種の哲学」ではなくカギ括弧抜きの)哲学者の言葉とは、生活と地続きの、哲学者の生にコミットしたものでなければならない。哲学において抽象化や普遍化は必要な作業ではあるが、哲学者の生に必要な限りで、慎重に概念を抽象化し、普遍化するのでなければならない。

多くの「ある種の哲学」者は、抽象化、普遍化自体を自己目的化し、やりすぎてしまい、その結果、懐疑論の沼に嵌ってしまった。そうではなく、生活と地続きの懐疑主義に立ち返るべきである。(古田は懐疑論と懐疑主義には別の意味を持たせている。)そのように古田は考えているように思える。生湯葉のようなエッセイストとは、懐疑論を治療したいと望む「ある種の哲学」者が目指すべき目標のようなものなのである。

つまり、生湯葉が持っている抗体とは、生活の視点のことであり、事後的にその抗体を取り入れることにより、懐疑論を治療しようとしたのが、古田だったということになる。

6 哲学エッセイスト

それでは、もうひとりの非懐疑論者である入不二が持っている懐疑論への抗体とはどのようなものなのだろうか。

つまり入不二と懐疑論はどのように関わってくるのだろうか。

この問題は、生湯葉よりも難しい。なぜなら、入不二は懐疑論者ではないけれど、形而上学的な哲学者として、懐疑論についても様々な考察を行っていて、僕などよりも深く、懐疑論について知っているとすら言えるからだ。

僕は、懐疑論について深く知っている入不二の中に、懐疑論者的なところが全くないのはどういうことなのだろうか、と不思議に感じてきた。

古田も山口も、懐疑論を乗り越え、反懐疑論の立場に身を置こうとしている。その議論が成功しているかどうかには関係なく、彼らの中には、深く懐疑論について考えざるをえなかった、懐疑論の残り火のようなものが蠢いている。僕もそうだから、よくわかるつもりだ。(山口はともかく、古田はもしかしたら、懐疑論者だったことはないかもしれない。だが、もし、そうだとしても懐疑論を避けなければいけない、と強く意識することで、懐疑論に深く関わってきたのは確かだと思う。)

一方で、入不二は懐疑論に深く関わっているにも関わらず、懐疑論に対する距離があまりにも中立的である。懐疑論者ではないし、かといって反懐疑論者でもなく、懐疑論を深く知っている非懐疑論者である。懐疑論を深く知っているにも関わらず、その重力圏から脱したところにいる、脱・懐疑論者と言ってもいい。

僕は長年入不二を追い続けているけれど、その魅力の一端は、この脱・懐疑論者というところにあるのかもしれない。懐疑論者である僕に、懐疑論を経由しつつも、懐疑論から隔絶したところにある、新たな景色を見せてくれるからなのかもしれない。

二つの対談を経て、ここまで考えてみて気づいたけれど、入不二がやっていることは、生湯葉のようなエッセイストがやっていることに意外と似ているのかもしれない。エッセイストは、アジサイやゆで卵のようなできごとに着目し、そこで日常とのささやかな隙間を開けようとする。入不二も同様に、「存在」といった概念に着目し、そこで日常とのささやかな隙間を開けようとする。

エッセイストと入不二が似ているのはそれだけではない。「ある種の哲学」者ならば、その隙間が開いた後のアジサイやゆで卵や「存在」概念が気になる。そして、そのアジサイは本当のアジサイなのか、などと考える。

だが、エッセイストや入不二にとっては、その隙間を開くこと自体が関心事である。だから、入不二も、様々な概念について考えはするが、それは例えば、「隙間を開くこと自体」の概念化であったりする。そのようにしてできたのが、入不二の最新刊で扱われているAny-ness概念であるとも言える。

だから、入不二は、形而上学をやり、普遍的な概念を扱っているという点では、一見、懐疑論を経た「ある種の哲学」者のように見える。だが、その実態は、入不二とは、普遍的なことばかり取り上げる、エッセイストなのではないだろうか。もしかしたら入不二自身は無自覚かもしれないけれど、結果として、懐疑論者をも凌ぐような大きな隙間を開け、大転覆してばかりいる哲学エッセイストなのではないか。

そのように考えると、入不二が持っている懐疑論への抗体とは、生湯葉のようなエッセイストが持っているものと、よく似ているとも言えそうだ。

7 書くという営み

入不二は、生湯葉がアジサイについて書くのと同じように、「存在」についてエッセイを書いている。

エッセイにおいて、その価値を決めるのは、多分、着眼点のよさと、その着眼点に合致した適切な描写である。おおげさに言うならば、描写の(正しさや善さではなく)美しさである。

生湯葉には生湯葉の着眼点のよさと、その着眼点に合致した適切な描写があり、入不二には入不二の着眼点と描写の美しさがある。その美しさが、転覆の価値を決める。

そして、重要なのは、価値はそれだけしかないという点だ。エッセイストとは、美の世界の住人なのである。

そして、その美の評価者は、読者や出版社ではなく、まず自分自身である。だから、エッセイを書くことは、エゴイスティックで、快楽主義的な行為だと思う。

エッセイストは、ただ書きたいから書く。あえて言うならば、書くと気持ちがよいから書く。

入不二は、子どもの頃、高いところから飛び降りるときの快感を味わいたくて、ところかまわず飛び降りる、危なっかしい子どもだったそうだ。入不二には今も、そういうところがある。そして、よく知らないけれど、生湯葉さんを含めたエッセイストにも、そういう危なっかしさがあるように思う。正しさや善さでは測ることができない、芸術家特有の危なっかしさである。そして、ところかまわず隙間になりそうなところを見つけ、こじ開け、転覆する危なっかしさである。

先ほど、生湯葉さんのようなエッセイストは、生活と地続きの日常を描くと述べた。同様に、入不二にとっても、それがたとえ、一見、生活からかけ離れた形而上学のような内容であっても、やはり書くことこそが生活であり、入不二にとっての哲学の文章とは、生活と地続きの日常についての描写なのである。

ここに入不二というエッセイストの特異性がある。入不二は、常識的には非日常と分類したくなるような日常を生活し、そのような非日常を日常として描くエッセイストなのである。

そのように言うと入不二ファンとして、入不二の特異性を強調しすぎているようにも思えるが、特に、脳梗塞になった後の入不二は、本当にそのような異様さがある。

8 責任、誠実さ

山口と入不二の対談で、山口の懐疑論の解決のカギは、他者に対する責任と誠実さにあるという話が出た。そしてそれを超越論的会話主義と呼んでいた。その話が興味深くて、本を買ってサインもしてもらったのだけど、確かに説得力がある話ではある。会話が成立するためには、他者が必要であり、他者の存在は言葉が成立するための超越論的条件であると言えるからだ。他者が存在するならば、その他者に責任を負い、誠実でなければならない。そのように考えるならば、少なくとも、他者の心の存在を疑うような、ある種の懐疑論は乗り越えることができる。

実は、僕も似たようなことを考えている。だから僕は、このブログのタイトルを「対話の哲学」としている。言葉の使用について考えることには、例えば、語用論には、僕にとっての懐疑論的な問題意識を突破する鍵があるのではないか、と考えている。(山口が考えていることも、僕が考えていることも、多分、もっと深いところで関わっている気がするけれど、それはまた後日考えてみたい。)

山口にあって、僕にないのは、それを、他者に対する責任と誠実さに結び付ける、というアイディアだ。対談の冒頭で、山口は、入不二と比べて、自分はもっと人間的なものに興味があると言っていたが、そういうことか、と腑に落ちた。

これに対して、入不二は、責任というならば、自分なら、他者ではなく、自分を語らせるものに対する責任があると考える、というようなことを言っていた。

これはつまり、神に対する責任ということであろう。当然、特定の宗教の神ではなく、形而上の哲学の神である。

入不二はそれを、現実性の力と名付けることに成功している。入不二は現実性の力によって文章を書くことで、現実性の力への責任を果たしているのである。

更に、その内容が、隙間を開けることそのものとしてのAny-nessの働きについてのものとなっている。つまり、入不二は、自らが書くことそのものについて書いている。

近年の入不二の著作、特に、入不二が脳梗塞となった後の著作については、入不二はタガが外れたように、自分を書かせるものである現実性の力や、書くことそのものとしてのAny-nessの働きについて書いている、とも解釈できる。これは、異様なほどに自己言及または自己成就的な営みだと思う。今現在の入不二においては、まさに、書くことが生きることを規定し、生きることが書くことを規定しているのである。

9 全面的な転覆

ここまで、僕は、僕:懐疑論者、古田・山口:反懐疑論者、生湯葉・入不二:非懐疑論者と分類してきた。そして、懐疑論者または反懐疑論者である僕・古田・山口は、懐疑論に駆動された「ある種の哲学」者である、という点で同じ穴の狢である。

山口はそこまで言っていないけれど、僕は、懐疑論者に関わらざるを得なかった者の自負として、懐疑論に駆動されなければ到達できない哲学的高み(または低み)があると考えている。

古田に言わせれば、その高み(または低み)とは、蝶番が壊れたところにある、ということになるだろう。蝶番とはウィトゲンシュタインが用いた比喩だそうで、僕の述べ方によるならば、隙間をこじ開け、ひっくり返すための足場である。

生湯葉のようなエッセイストならば、その足場とは日常の生活である。そこを足場とするからこそ、アジサイについてだけ、うまくひっくり返すことができる。

だが、懐疑論者は、懐疑の力を借りて、全面的な転覆を図ることができる。そのような試みの可能性に気づいたうえで、それは不可能だと批判するのが古田であり、一度ひっくり返して、うまくいかなさに気づくこと自体に、哲学的意義があると考えるのが山口だとも言える。

だが、入不二は、どういう訳か、この不可能な全面的な転覆を成し遂げてしまっているように思える。懐疑論に駆動された「ある種の哲学」者が、どんなに挑んでも到達できなかった地点に、入不二は易々と到達しているように思えるのである。

きっと、これは入不二の特異性というか、異様性に由来しているのだろうが、どういうことか、まだ僕にはわからない。また、本当に成し遂げてしまっているのかも、よくわからない。

と、後半は、僕が好きな入不二の話ばかりになってしまったが、生活と地続きのエッセイ的な価値を示してくれた古田の観点や、他者や責任の重要さを示してくれた山口の観点は、ここで汲み取った以上の何かが潜んでいるようにも思う。そして、それが、入不二の特異性、異様性を解き明かす鍵になりそうな予感もある。

僕は、運悪く、または運よく、懐疑論という沼にはまってしまった人間だ。そういう人間にしかできないことを今後も続けて、ここで行ったような議論の先の景色を見てみたい。