※9,000字ちょっとです。入不二先生の本についての感想と考察です。あと数回書くかもしれません。

1 わかりやすけれど難しい

今年6月に出た入不二基義の『何でもいい何かって何? -Any-nessの哲学』(公式略称?は『何何何』)をようやく読み終えた。色々なことを考えたので、その考えたことについて書いていきたい。

ただ、色々なことを考えすぎて、まだ整理できていないので、書けそうなことから何回かに分けて書いていくつもりだ。だから、書き進めるうちに整合がとれないこともあるかもしれない。

まず、この本の受け止めについて書いておくと、『何何何』は、他の入不二の本に比べて、わかりやすいけれど難しい、と感じた。

まずわかりやすさについてだが、この本は、多分すべて書き下ろしだと思うのだけど、そのせいか、徹頭徹尾、ぶれずに一貫して「任意性(Any-ness)」というただひとつの概念について様々な角度から描写している。だから、現実性と潜在性の二つについて論じられていた前二作や、運命・時間といった、ある特定の議論領域全般について論じていたそれ以前の著作に比べて、話が絞られている、という点で理解しやすかったように思う。

一方の難しさだが、この本では、様々な角度からAny-nessが執拗に描かれており、時間、論理といった(それひとつだけでも大問題だろう)様々な話が関連しながら、Any-nessという一点に集約していくことになる。だから、それぞれなされたAny-nessについての話の繋がりがわからなくなってしまう、という難しさがあったように思う。

また、Any-nessという概念自体が、現実性、潜在性、運命(中間)、時間といった、入不二がこれまで論じてきたことを全て繋げる接着剤のような役割を果たしている。だから、Any-ness概念を理解するには、入不二のこれまでの哲学の概略を知っておく必要がある、という難しさもあったように思う。

2 まだ読んでいない方のために エピソード0

ところで、この文章は、すでに『何何何』を読んだ人向けのものである。読んだ人に向けて、僕はこう考えたけど、君はどう?なんて話しかけているつもりで書いている。

ただ、まだ『何何何』を読んでいない方が、この文章を読んでいるかもしれないので、もう少し、ネタバレなしの感想を書いておこう。

『何何何』という本は、人気漫画のエピソード0(前日譚)のような本である。たいていのエピソード0では、本編の登場人物の隠された過去や、本編での行動の理由が明かされたりする。当然、『何何何』は哲学書なのでそうではないけれど、これまでの入不二哲学が本編とするならば、本編で登場する主要概念が、なぜ、そのように振る舞うのかが、この『何何何』で明かされる、とは言える。これまでの入不二哲学の主要概念の隠された過去が明らかになる本だと言ってもいいだろう。

ネタバレが少し入るけれど、Any-ness概念とは、入不二哲学の諸概念を概念たらしめる概念と言ってもいいかもしれない。(より攻めて述べるならば、入不二哲学に限らず、概念を概念たらしめるものこそAny-nessの能力であると言ってもいいと思っている。)

だから、入不二哲学が多少なりとも気になっている人は読む価値があると思う。また、入不二哲学のどこがいいかわからない人にとっても、何がわからないのかが明確になるという意味でも読む価値があると思う。

僕も、まだ、この本に書かれていることが十分にわかっていない。そして、勝手な推測だけど、入不二自身も十分にはわかっていないのではないかと思う。この本での入不二は、Any-ness概念という暴れ馬を巧みに操っている騎手のように見える。暴れ馬をうまくゴールまでは連れていくけれど、いななきや体の揺れのひとつひとつまでをコントロールできている訳ではない。Any-ness概念にはそんな野生の力がある。

Any-ness概念とは、オーバーテクノロジーのオーパーツのようなもので、入不二自身を含め、現代の哲学では、まだ全容を捉えきれていない「何か」なのかもしれない。

当然、そのようなものは他にいくらでもある。例えば、存在や善や愛なんていうものは全部、概念的なオーパーツだと思う。だが、喩えるならば、Any-ness概念とは、そのオーパーツを作り上げてしまう、オーパーツ的道具でもある。存在概念が(残念ながら本当は工芸品だったらしいけれど)南米の水晶ドクロとするならば、Any-ness概念とは、その水晶ドクロを魔法のように作り上げてしまう人類にとっての未知の工具なのである。

あんまり上手な比喩ではないけれど、そういうものに興味があれば『何何何』は読む価値があると思う。

3 まだ読んでいない方のために ハウツー本

先ほど、Any-nessは、入不二がこれまで論じてきたことを全て繋げる接着剤のような役割を果たしていると述べた。

そうだとするならば、Any-nessを描写することは、入不二哲学において極めて重要なことであるはずである。なぜなら、Any-nessこそが、これまで入不二が述べてきたことに、入不二哲学という形を与えているとも言えるからである。だから、このAny-nessとは、入不二哲学の真髄であるとともに、入不二哲学を理解するための目次のような役割を果たしてもいる。

さらに、同じことを別の角度から述べているつもりだけど、Any-nessとは、入不二哲学におけるひとつの主張であるとともに、入不二がIrifujingとも呼ばれる独自の論じ方をするための奥義でもあると言ってもいい。論じたことと接着剤の関係とは、WHAT(何を論ずる)とHOW(どのように論ずる)の関係とも言えるからである。

Any-nessを論ずるとは、HOWの奥義を惜しみなく開陳するということなのである。

その意味では、この本は、ハウツー本でもあり、入不二が当初、この本を入門書的なものにしようとしたことは、意図としては正しいと思う。

だが、このAny-nessという、あっけらかんと示された奥義は、僕からすると、存在自体がオーパーツのような入不二にしかできない技である。たしかに、やりかたは余すことなく見せていただいたけれど、さて、どうやったら同じように哲学できるのか、考えると途方に暮れてしまうのである。とりあえず、この文章では、なんとか食らいついていこうとしているけれど、入不二の技の氷山の一角しか体得できていないという実感がある。

入不二は当初、この本を新書で出すことを考えていたそうだけど、さすがに無理があったと思う。

だけど、ここまで述べたような意味で、入不二哲学を知るためには、まず読むべき本だろう。

4 図表

ここからは、すでに読んだ方向けに話を進める。

この本の特徴は、Any-nessという接着剤的なものを描写し、そして入不二の哲学のやり方そのものを描写している点にあると僕は考えている。

その特徴は、この本では、図表が重要な役割を果たしていることに表れているだろう。もともと、入不二は図表を効果的に用いてきたけれど、きちんと比較してはいないが、従来の著作よりも図表が重要な意味を持っていると僕は感じた。(その傍証として、『何何何』の末尾には、索引はないが、「図表とまとめ」索引がある。)

そして、これまでは、文章の補助のために図表を参照してきたけれど、この本では、文章を補助として図表を理解するようにして読む必要があるとさえ感じた。

もしそのとおりならば、その理由は、Any-nessという概念自体が図表による表現と極めて相性がよいからだろう。

踏み込んで述べるならば、あるアイディアを図表で表現できることと、任意性とは切っても切れない関係にある、ということなのかもしれない。

ただし、図表を多用することは理解の促進にもつながるが、ある種のわかりにくさにも繋がりうる。なぜなら、読者は、入不二ほど多くの図表的構造を頭の中に同居させることはできないからだ。(言葉ならば、例えば「AはBである」と「AはCである」を「AはBかつCである」と変換して論理的に統合できるので、図表に比べれば同居させやすい。)

加えて入不二は自分自身が図表的構造の発案者だというアドバンテージもある。

だから僕たち読者は、入不二が思い描いただろうことのうち、ごく一部を理解したうえで、そこを手がかりにして理解を深めていくしかないとさえ感じる。

思うに、入不二哲学は、普通の哲学とは理解の仕方が異なるのではないか。通常、哲学の本を読むとは、書いてある内容の理解を目指すものである。だが、入不二の本を読むとは、書いてあることを手がかりに、入不二の思考の経路を追体験することを目指すような作業であるように思える。

僕にとって入不二の本を読むことは、師匠から匠の技を伝授されることに似ている。入不二の本を読むとは、入不二の背中を見続け、徐々に、その内容を体に染み込ませていくような作業なのである。

(僕が入不二ファンで、入不二のように哲学をしたいと考えているから、そう感じるだけなのかもしれない。哲学とは、哲学することだとするならば、誰もが、推しの哲学者に対しては、同様に感じているのかもしれない。)

5 図表の選択

そういう訳で図表の扱いは難しい。その解決策として、僕は、この本に掲載されている多くの図表のうち、一部の図表だけを選び取り、理解に努めるというやり方を選んだ。この本は、様々なかたちで任意性について論じており、その数は、少なくとも図表の数だけある。僕は、そのうちの少数の論じ方を突破口として、そこを手がかりにして理解に努めるというやり方をとったのである。このやり方は、そこそこ功を奏した気がするので、この本が難しいと感じた方にはお勧めしたい。

ちなみに僕は、図1-1(p.26のタマが座布団に乗っている図)と、図1-4(p.32の接地解除の図)を選んだ。(あと、図表ではないけれど、「P⇔Q / P」という先行分母も図表に含める。)

Any-nessの全体はタマの座布団の図が示しており、その部分(つまり座布団)は接地解除の図(と先行分母の図)が示していると考えたのである。

だから、この文章(今後書く続編も含め)でも、主に、これらの二つ(または三つ)の図表を組み合わせ、そして発展させることで、この本が論じたことをできる限り捉えてみたいと考えている。

なお、この図表の限定というやり方からもわかるとおり、この文章は、『何何何』の正確な解釈というより、僕なりの理解の記録であるとともに、僕のオリジナルの考えの論考である。多くの読者は、入不二の考えが知りたいだけで、僕の考えはどうでもいいだろうから、本来、どこからが僕の考えかは明示するべきだろう。だが、手間もかかり読みにくくなるので、そうはなっていないことに留意のうえ読み進めてほしい。

6 僕の疑問

さて、ここから、この本の一部を取り上げ、僕なりに掘り下げていく。

第一回は、いきなり、この本の終盤で論じられる、図1-1(タマが座布団に乗っている図)の頂点に位置づけられる、特異点(のあたり)の話である。特異点とは、永井均ならば、〈私〉とでも呼ぶ(あたり)のことである。

なお、(あたり)としたのは、ここに入不二と永井の決定的な違いがあるからである。そして、永井を持ち出さなくても、入不二の議論の中でも、(あたり)の領域において、極めて微妙だが、決定的な違いが生じているからである。

その違いを、入不二は、「現実性+任意性 → 特異性」(p.205)と表現している。

入不二によれば、タマが座布団に乗っているような任意性の構造の頂点には、「現実性+任意性 → 特異性」があるのである。(特異性とは、永井の〈私〉の独在性と言っていいだろう。つまり、入不二は永井の独在性に任意性が先行すると言っている。)

僕は、『何何何』を読んでいて、ここに最も疑問を感じた。「現実性+任意性 → 特異性」だとするならば、座布団に乗ったタマはどこで登場するのだろうか。

任意性とは、本の題名にもあるとおり「何でもいい何か」である。「現実性+任意性」とは、「現に、何でもいい何かである」ということである。どこにもタマはいない。それをいくら特異性に変換しても、ないものを登場させることはできない。

つまり、タマという実際の個別具体のものごとを登場させることができないのである。

この疑問は言いがかりではないと思う。この本では、全体を通じて、ひとつも実際の個別具体のものごとが登場しない。入不二は、たしかに、すべてを説明し尽くしているようにさえ思う。ただひとつ、実際の個別具体のものごとを除いてである。

これに対して、タマが登場するではないか、という反論があるかもしれない。だが、この本で登場するタマは実際の個別具体のものごとではない。タマで「も」いいし、タマでなくて「も」いい、という意味で、任意の何かでしかない。つまりAny-nessである。

タマとは、Pのような記号で置き換えられる「何でもいい何か」でしかない。

僕はそのように考えたのである。

7 記号

Pのような記号で置き換えられるということは、この本での議論に基づけば決定的な意味を持っている。

入不二は、図5-3~5-5(考えていることが何もないということを考えている図 p.136)を用いて、空集合を重ねることで、自然数を説明することに成功している。つまり、何も具体的な内容がなくても、数を導くことはできるのである。そして、1=P、2=Q、3=Rというように数字とアルファベットを対応させれば記号を導くこともできる。

つまり、タマが、もしPという記号で示せるならば、それは、単なる空集合の重ね合わせの回数を意味するに過ぎないのである。タマとは、タマで「も」いい一例である限り、タマではなく、ただの空集合の重ね合わせの回数でしかないのである。

それならば、入不二の議論は、タマをPや1と同等に捉えるという意味で、個別具体性に対して無関心すぎるのではないだろうか。

これは入不二に対する強力な批判である(と僕は考えた)。入不二は、たしかに、現実性や任意性といった普遍を捉えることには成功した。だが、そちらに注力するあまり、個別具体のものごとを捉えそこねているのではないか、という批判である。

その点、永井であれば、シンプルな解決策がある。

永井ならば、タマの座布団構造はすべて認めたうえで、ただし、頂点にはタマではなく、〈私〉があると考えることもできる。そのようにして〈私〉がまずあり、そこから、〈私〉におけるタマというようにして、タマの個別具体性を導くことができる。

以前のシンポジウムで、入不二は「コップ」(この場合はタマ)にも「〈 〉(山括弧:シンポジウムではこれ性、入不二ならば現実性、永井ならば独在性)」はつくと主張し、永井は、〈 〉は「私」と「今」と「世界」にしかつかない、と主張した。その違いをもとに考えるならば、永井ならば、ものごとの構造には明らかに特異点があり、その特異点を経由して〈私〉や〈今〉の独在性(現実性)が流れ込むと主張するはずだろう。

永井ならば、座布団構造のような入不二の議論構造に乗ったうえで、個別具体性も取り込んだ議論を行うこともできる。個別具体性に限れば、永井に一日の長がある。

だが、入不二が「現実性+任意性 → 特異性」と表現したように、永井の独在性(この場合は特異性)の先に、「現実性+任意性」とするかはともかく、永井が到達できていない「現実性」に関する論ずべき領域が残っていることに、僕は同意する。

それならば、そのような(想像上の)永井に反論するためには、「コップ」にも現実性がつくと主張した入不二は、構造の頂点には、個別具体的な〈コップ〉や〈タマ〉という現実性があると主張すべきなのではないか。〈P〉とも表現できてしまうだろう「現実性+任意性」ではダメなのではないか。

8 任意性の自乗+現実性

しかし、そこを除けば、入不二の議論構造は見事である。僕は何かを見落としているのではないかと、本を読み返してみた。

そこで目に止まったのが、時間について論ずる中での、「任意性に対して働く任意性(任意性の自乗)」(p.62)という表現である。そしてもうひとつ、「事例性と任意性という二重性」(p.133)という表現である。この二つは違う章に書かれてはいるが、同じこと(の別な側面)を表現しているのではないか。

「何でもいい何か」というAny-nessにおいては、二つの任意性が含まれている。ひとつが「何でもいい」という任意性Aである。もうひとつが、「何か」はあくまで一事例であり、そうでなくてもいいという任意性B(事例性)である。

任意性Aと任意性B(事例性)が二重に重なったものがAny-nessという任意性なのではないのか。時間論に限らず、任意性とは、「任意性に対して働く任意性(任意性の自乗)」なのではないのか。僕はそう思い至ったのである。

「何でもいい」の任意性Aとは、ネコであるためには、イヌでもよかったのでなければならない、という意味で、ネコという概念の成立そのものに関わっている任意性である。(もし世界にネコしかおらず、ネコしかありえなければ、それをネコと呼ぶことはできない。)

それとは別に、ネコと述べたものが、ネコで「も」よく、ネコでなくて「も」よいという、任意性B(事例性)がある。もし、その事例性がなければ、入不二のネコの座布団構造は、ネコについてしか適用できず、世界の普遍的な構造を解き明かした哲学的主張ではなくなってしまう。

ネコのような概念を用いて、ネコを一事例として普遍的な哲学的主張を行うためには、「何でもいい」という任意性Aと、「何か」という任意性B(事例性)の両方が必要なのである。両方が必要ということは、任意性とは、任意性Aと任意性Bを掛け合わせたものであり、任意性の自乗である、ということである。

僕は、座布団構造の頂点に流れ込んでいるのは、「「何でもいい」の任意性A+現実性」だと思っていた。だが、そうではなく、入不二は、「「何でもいい」の任意性A+「何か」の任意性B(事例性)+現実性」こそが頂点に流れ込んでいると考えているのではないか。

9 不定の全体

そのように考えることで、座布団構造の頂点に流れ込むもののイメージがつきやすくなる。

頂点には、「全て」こそが流れ込んでいるのではないか。なぜなら、ネコで「も」よく、ネコでなくて「も」よいということは、ネコもイヌもサメも、とにかく「も」という言葉でつなげて列挙できる限りのあらゆるものがすべてそこに含まれ、それが「何か」という任意性B(事例性)だからである。

たしかに、かつて入不二は、「コップ」に「も」現実性がつくと言った。そこで重要なのは「コップ」ではなく「も」だったのである。

この、どこまでも列挙できるという意味での「全て」とは、入不二の表現によるならば「不定の全体」のことだろう。

どこまでも列挙し終えることのない「不定の全体」には、実は最初から、タマが、タマで「も」あるというかたちで含まれているのでなければならない。そのような「不定の全体」が、座布団構造の頂点に流れ込んでおり、そのような事態を入不二は、「任意性+現実性」という言葉で表現していたのではないか。

なお、座布団構造の頂点に「不定の全体」を措定することで、座布団構造の底面のAny-ness、つまり「不定の全体」とダイレクトに接続することができる。

座布団構造においては、頂点と底面の二箇所で「不定の全体」つまり「任意性(の自乗)+現実性」が露出する。そのことによって、離れた二点での接続が可能となるのではないだろうか。

頂点では任意性(の自乗)のうち、「何か」という任意性B(事例性)が前面化する。なぜなら、頂点(のあたり)は、〈 〉(空欄の山括弧)とも表現でき、そこに代入される「何か」がフォーカスされるからである。

一方の底面では任意性の自乗のうち、「何でもいい」という任意性Aが前面化する。なぜなら、底面とは、最深潜在性とも呼ぶことができ、いわば「何でもいい」が潜在しているとも言えるからである。

それならば、「何でもいい何か」の中で、「何でもいい」と「何か」の間のバランスがずれることにより、この座布団構造の頂点と底面がつながっているとも言えるのではないだろうか。

以上のように捉えることで、タマの個別具体性から出発した僕の疑問は解消した(ように見える)。

10 動と静

だが、まだ残っている問題がある。

それは、どうやって、潜在したタマが顕在化するのだろうか、という疑問である。

この疑問に対して、入不二は言外に、ある程度は答えているように思える。それは、〈中間〉において顕在化するという答え方である。

入不二の座布団構造においては、頂点と底面は、それらを同じものとするかどうかはともかく、入不二が「純粋任意性」(頂点)や「最深潜在性」(底面)とも呼ぶ個別具体的な捉え方が届きにくい領域である。一方で、その〈中間〉レイヤーにおいては、操作の過程で、タマやネコといった個別具体的な捉え方が可能となる。

これは、動的なプロセスの、ある一局面を切り取り、それを、プロセスの〈中間〉として観察するならば、そこで、たしかにタマという個別具体のものごとを見出すことはできるということである。(動的なプロセスとは、現実性の力が座布団構造を経巡り、そして、その力が任意性の能力として発現していることである。)

そのように切り出されたものが、〈中間〉において顕在化した、個別具体のタマである。入不二ならばきっとそう言うのではないだろうか。

もしそうならば、僕の疑問は、どうやって動的なプロセスのある一局面を〈中間〉として静的に切り出すことができるのか、というものだということになる。

入不二の〈中間〉は、中点のような固定的な点ではない。動的な往還運動としての〈中間〉である。入不二の哲学はどこまでいっても動的なのである。

その動を静に堕落させ、そして、その堕落を成功したように見せているのは何なのだろうか。僕はそれが知りたいのである。

僕の仮説としては、それを可能としている何かとは、生活であり、生活を生きるうえでの日々の決断である。

僕はそのように考えているけれど、それを入不二の議論構造のなかに入れ込むことができるのか、もう少し考えてみる必要があるだろう。

※ 違う切り口から、『何何何』についての話は、まだまだ続きます!