※さらりと書こうと思ったらノッってきて14,000字以上になってしまいました。ノッたことと文章の質とはあまり関係ない気もしますが・・・まあ、こういう文章も許容される懐の深さが入不二哲学にはあるのではないかな、と勝手に思ってます。
1 人生論的誤用
ネオ高等遊民さん(以下、「ネオさん」)のnobodyとsomebodyの記事が面白かった。何が面白かったのかというと、僕が好きな入不二哲学を人生論的に応用(または、ネオさんの言葉どおりなら「誤読」)しているところだ。
面白かったので、僕も、さらに入不二哲学とネオさんの記事を誤用してみることにする。
だから、この話は、(本来形而上学的である)入不二哲学の想定外の使用なので、ネオさんが指摘したとおり人生論的「誤」用である。
思うに、人生論とは、哲学的問題を究極的に解き明かすことを途中で棚上げしたうえで、いまだ途上の哲学的成果から一部だけを都合よく取り出し、人生訓として形を整える作業のようなものである。
それならば、人生論とは本質的に哲学の誤用とならざるを得ないのではないだろうか。
だが、誤用とは悪いことばかりではない。なぜなら、誤用するからこそ、哲学は人生にコミットする力を持ち、その結果、多くの人にその魅力が伝わる、とも言えるからだ。それを長所と考えるか、短所と考えるかは、その人の哲学観によるのだろう。
僕は、入不二哲学の魅力を布教したくて、そして、ネオさんの記事が面白かったことを記録しておきたくて、この人生論的誤用の文章を書くことにした。
だから、この文章は、入不二の本(特に最新刊である『何でもいい何かって何?』(『何何何』)とネオさんの記事を読んでいることを前提としている。
ネオさんの記事とは、『nobody「何者でもない」の哲学 英雄オデュッセウスを例に』というnote上の記事である。(https://note.com/kotoyumin/n/na3ef37c827a1)
入不二哲学の魅力についてはさんざんこのブログで書いているけれど、ネオさんの記事もギリシャ神話の話も出てきて、読み物としても面白かった。(ギリシャ神話の部分はこの文章では取り上げていないけれど。)
だから、ぜひ、いずれも、この文章を読む前に読んでほしいと思う。ただ、そう書いても読まない方もいるだろうから、雰囲気だけでも伝わるように、最低限の説明はしつつ論を進めることにする。
2 マクロ的構造とミクロ的構造
ネオさんのnobodyとsomebodyをめぐる話は、大きく二通りの方向で展開される。
ひとつは、まだ社会に出ていない何者でもない若者(nobody)が、社会で何かを成し遂げたひとかどの者(somebody)になる成長譚としてのnobodyとsomebodyの話である。ネオさんは若者の例として、浪人生を挙げている。ひとかどの者の例は、(ネオさんは大学生を挙げているけれど)僕としては「先生」がしっくりくる。教師・医師・弁護士・国会議員いずれも、先生と呼ばれる人は、社会的にひとかどの者とみなされる人たちである。だから、ここでのnobodyとsomebodyとは、浪人生と先生(例えば弁護士)をイメージするのがいいだろう。nobody(浪人生)がsomebody(弁護士)になるという人生の縮図としての「nobody⇒somebody」という構造である。
ネオさんのもうひとつの話は、自己評価にせよ、他者からの評価にせよ、「お前(私)は何者でもない」というときのnobodyと、「そんなことはない」というときのsomebodyの関係性についての描写である。
この関係性はsomebodyからnobodyへの移行として始まる。意図的に注意を向けられない存在になろうとしてsomebodyからnobodyを目指す場合もあれば、他者から存在を否定され、somebodyからnobodyに貶められる場合もある。
だが、当然ながら人は生きている限り何らかの存在であり、全くのnobodyとなることは不可能である。だから、somebodyからnobodyへの移行は必ず失敗し、(また新たな)somebodyへと移行することになる。よって、この場合のsomebodyとnobodyの関係性は「somebody1⇒nobody⇒somebody2」という往復運動として描写されることになる。
この成長譚と往復運動という二通りの捉え方は全くの別ものではなく、深く関わっている。たとえば、浪人生の若者としての何者でもなさと、浪人生に対する世間からの否定的な評価は深く関わっているだろう。(僕は浪人していないのであくまで想像だけど。)
だから、この成長譚と往復運動との違いは視点の違いとして捉えるべきだろう。マクロ的視点で捉えると、成長譚としてのnobodyからsomebodyへの移行があり、ミクロ的視点で捉えると、その移行の中には無数のsomebodyとnobodyとの間の往復運動が含まれているのである。
3 隙間
冒頭でも述べたが、ネオさんの話の面白さは、ここに入不二哲学を登場させたところにある。
ネオさんは、このnobodyとsomebodyの関係性には、anyが関わっていると指摘するのである。anyとは入不二基義の最新刊『何何何』の最重要ワードであるany-ness(任意性)のことである。
さて、本来はここでany-nessとは何なのかを説明すべきだろうが、ここで長々と説明すると文章のリズムが壊れてしまうので説明は省略する。(入不二の『何何何』を読んでほしい。)
一言だけ言っておくと、ネオさんの記事の中での表現を用いるならば、ここでのany-nessとは「隙間」のことだと捉えておけばいいだろう。概念やものごとが成立するうえで必要な「隙間」である。これ以上「隙間」とは何かを説明はしないけれど、読み進めるうちに雰囲気だけでも伝わることを願っている。
4 nobody⇒「隙間」⇒somebody
さきほど、ネオさんは、nobodyとsomebodyについて、マクロ的な成長譚と、成長譚を構成するミクロな要素としての往復運動という二通りの捉え方をしていると述べた。
実は、ネオさんは、マクロ的な成長譚のほうについて、any-nessの「隙間」がどのように関わってくるかは述べていない。(もしかしたら、ネオさんは、浪人生から弁護士(ネオさんの例では大学生)になるという成長譚のほうには、「隙間」は関わらないと考えているかもしれない。)
よって、あくまで僕の考えとはなるけれど、nobody(浪人生)からsomebody(弁護士)になるまでには、「法律を学ぶ大学生」のような「隙間」があるのではないだろうか。
僕自身の実感に基づくならば、僕は浪人生だったことはないけれど、中高生の頃、何者かになれるのだろうか、という不安が確かにあった。その頃の気持ちをnobodyという言葉はうまく捉えているように思う。やがて50代になり、僕は会社員として、それなりの肩書も持つようになった。確かにこれはsomebodyである。僕の人生は「nobody(中高生)⇒somebody(役職のある会社員)」という構造をしている。
だが、この移行は一気に行われたわけではない。思い返すと、就職が迫り、nobodyではなくなりつつあった大学時代や、入社直後の、まだ仕事を数十年続けていく決意ができなかった数年間が、nobodyでもsomebodyでもない「隙間」としてあったように感じるのである。この実感に即すならば、「nobody⇒「隙間」⇒somebody」となる。
このような捉え方は、少なくとも話の導入部としては成立するはずであり、ネオさんもきっと同意してくれると思う。
そして、これは、any-nessの「隙間」としての働きを理解するうえでの練習問題にもなっていることを願っている。
※いったん人生論を離れ、概念のあり方そのものについて述べるならば、「弁護士」概念と「(非弁護士の象徴としての)浪人生」概念の間には隙間がなければならない。なぜなら、隙間がなく、完全に癒着してしまったら、移行という動性が失われてしまい「浪人生」から「弁護士」へ(または「弁護士」から「浪人生」へ)の移行が不可能になってしまうからである。そのことを「nobody⇒「隙間」⇒somebody」という構造が示している。これは概念の「隙間」としてのany-nessの基礎的な描写だと言えるだろう。
この問題の根深さを示す一例として砂山から1粒ずつ砂を取り除いていくと、最後の一粒でも砂山になってしまうという「砂山のパラドックス」がある。これが問題となるのは、砂山と砂粒が、「砂山⇒砂粒」と癒着していると捉えるからだとも言える。だから、これを「砂山⇒「隙間」⇒砂粒」と捉えれば、問題が解消すると考えることもできる。癒着の問題は、このような哲学的問題にもつながっている。
5 somebody1⇒「隙間」⇒nobody⇒「隙間」⇒somebody2⇒
この「隙間」としてのany-nessを、ミクロな視点からsomebodyとnobodyとの間の往復運動のほうに適用してみよう。
こちらのほうは、すでにネオさんがやっていて、僕はそれをなぞるだけなのだが、「somebody1⇒「隙間」⇒nobody⇒「隙間」⇒somebody2」となる。
ネオさんはこの往復運動の構造について、ギリシャ神話を用いてかっこいい描写をしているのだが、せっかくなので僕の例で説明しよう。
晴れてAさんが、「浪人生」から「弁護士」になったとする。そんなAさんがある日、ふと、「弁護士という金を稼ぐだけの職業なんて世の中にはなくてもよいのだから、俺には何の価値もないのではないか」なんて考えたとする。(これに対して、弁護士も社会の役に立っている、と慰めることもできるけれど、ここでは、そんな慰めが役立たないほど落ち込んだことにする。)
この価値のないAさんとは「私は何者でもない」という意味でのnobodyである。だから、これは「somebody⇒nobody」という移行である。
だが、この移行は突然には行われない。その予兆とも言うべきエアポケットのような瞬間が必要である。この文章の例で言えば「ある日、ふと、」訪れる瞬間である。我に返る瞬間と言ってもいい。このような「隙間」があるから、そこからさらに思考を進め、「俺には価値がない」といった考えに至ることが可能となるのである。
そのことを示しているのが「somebody⇒「隙間」⇒nobody」という隙間である。
考えてみれば、日常において、人は自分自身の人生を振り返り、その価値を確認するようなことはしない。歩くときに、右足と左足の動きを意識しないのと同じことである。クレジットカードの申込書に職業を書いたり、平均台から落ちないように歩いたり、といった何らかのきっかけで、俯瞰的に自らを捉え直すときにしか、職業や歩行運動のような当たり前をあえて意識することはない。
普段は意識しないのに、何らかのきっかけで、俯瞰的に自らを捉え直す「ふと」訪れるエアポケットのような瞬間こそが「隙間」である。だからこれは俯瞰的なメタ的「隙間」と言ってもいい。
なお、「somebody1(弁護士)⇒「隙間」⇒nobody」への移行には続きがある。「俺には何の価値もない」と思い込んでいるうちに、「ふと」した瞬間が訪れて「いや、俺には家族がいて父という立派な存在じゃないか。」と気づくのである。つまり「somebody1(弁護士)⇒「隙間」⇒nobody⇒「隙間」⇒somebody2(父)」である。
このような思い込みと気づきは、いくらでも続けることができる。そこから「somebody⇒「隙間」⇒nobody⇒「隙間」⇒somebody⇒「隙間」⇒nobody⇒」という無限の往復運動を描写できるだろう。
以上が、ネオさんの例ではないけれど、僕なりのネオさんの考えの理解である。
6 any-nessの発露
この往復運動は、まさにany-nessの発露である。
先ほど僕は、「隙間」のことをany-nessだとしたけれど、実は、一時的な仮置きとしてのsomebodyと、その否定としてのnobodyを含めた一連のサイクル全体こそが、any-nessの発露だと捉えるべきなのである。
僕は「隙間」という表現が気に入っているけれど、この表現は、any-nessとは「隙間」という静的な空間だという誤解を招きやすい欠点がある。any-nessとは氷河のクレパスのような隙間ではなく、遍在する動性であり、あえて「隙間」という表現を用いつつ、入不二の比喩によるならば、開閉して呼吸する気孔としての「隙間」である。それならば、気孔という「隙間」とともにあるsomebodyもnobodyも呼吸による空気の流れの影響を受けざるを得ない。somebodyとは気孔を流れる空気に貫かれた動的なsomebodyであり、またnobodyも気孔を流れる空気に貫かれた動的なnobodyなのである。
さらには、ここで行ったsomebodyとnobodyと気孔/隙間を並置するような描写も実は不正確である。まずany-nessという遍在する動性があり、その一局面としてany-nessとしての気孔/隙間が分母から分子に貫通し、その力によりsomebodyやnobodyが立ち現れると考えるべきなのである。
図にすると次のようになる。
「somebody⇒any-ness(気孔)⇒nobody⇒any-ness(気孔)⇒ / any-ness(動性)」
分母としてのany-ness(動性)が分子としてのany-ness(気孔)に貫通し、さらに分母としてのany-ness(動性)が分子上のすべての往復運動を下支えしていることを表している。
さらに圧縮して表現するならば、
「somebody・nobody⇔any-ness / any-ness」
となる。
このように導かれた構造は、入不二の先行分母性の表現の応用である。
分母においても分子においても、any-nessの力が貫いており、その力が、somebodyとnobodyの往復運動を成立させている、という描写である。
7 他者からの否定
横道にそれるけれど、僕はnobodyについて、「ふと」したエアポケットのような瞬間を経ての「私は何者でもない」という自己否定の思いとして描写した。
だが、たいていの場合、自らをnobodyと否定するのは、他者の言葉や態度や視線がきっかけだろう。ネオさんも、そのような場面を想定している。
他者がきっかけの場合、「somebody⇒「隙間」⇒nobody」という隙間などないと考えるかもしれない。誰かからの厳しい言葉や軽蔑の視線は、「ふと」した瞬間という隙間などなく、ダイレクトに自己否定へと向かわせるからである。
だが僕は、ここにも「隙間」はあると考える。それは、他者に注意を向けるという切り替えの瞬間である。
他者とは単なる物体ではない。僕たちは他者に対して、コップや机に向ける注意とは異なる、独特の注意を向ける。それを他者の尊重と言ってもいいし、予測不能な他者に対する恐怖と言ってもいい。なんと呼ぶにせよ、自らと似た他者という存在だけに向ける独特な注意というものがある。その注意を向ける切り替えの瞬間こそが「隙間」なのではないか。
それならば、他者に注意を向けるという「隙間」としての切り替えが済んでいるからこそ、その他者の言葉や態度がダイレクトに自分自身に届くことになる。よって、他者が介在した自己否定についても「somebody⇒「隙間」⇒nobody」という構造は成立する。僕はそのように考えている。
8 nobodyへの到達不可能性
ところで、ここまでネオさんの議論を尊重し、nobodyを用いてきたけれど、議論の筋道としては、一旦はnobodyを登場させず、「somebody⇔any-ness」という構造で捉えたほうがわかりやすいように思える。
たしかに、ネオさんの言うとおり、nobodyという自己否定とそこからの回復の場面の両方においてany-nessという隙間が働いていることを指摘するのは入不二哲学から導ける人生訓として大きな価値があると思う。
だが、人生をany-nessから捉え直すうえでは、まずはnobodyを特殊なケースとして脇に置くほうが、構造としてシンプルに把握できるだろうからだ。
例えば、弁護士になったAさんは、自己否定により落ち込まなくても、父としての自分を再発見することはできる。弁護士事務所から退勤し、保育園から出てきた子供と手をつないだなら、たいていはそういう気分になっているだろう。この場合、サラリーマンとしての実感を込めて、帰宅の電車の中は、社会人としての自分から徐々に離れる「隙間」的なひとときだと思う。
そこには、自己否定のようなnobodyが登場する必要はない。nobodyを介さずとも「somebody1(弁護士)⇒any-ness⇒somebody2(父)⇒」という構造は成立するのである。
僕が思うに、nobodyはsomebodyの特殊な一例である。somebody1が弁護士で、somebody2が父であるならば、somebody0にあたるのが「自己否定で落ち込んでいるAさん」であり、それを便宜的にnobodyと表記しているに過ぎないのではないだろうか。
そのように言える根拠はやはり入不二哲学にある。最も直接的には、著書『現実性の問題』で提示された円環モデルにおける始発点をめぐる議論である。
入不二は、始発点においては1と0の循環が生じていると指摘する。1であるためには、それ以前は0でなければならなかったはずである。だが0とは「0」と表記できてしまうので1になってしまうという循環構造である。よって、始発点においては真の0に到達できない、というのが、そこでの入不二の結論である。
somebodyを1とし、nobodyを0とするならば、同じ循環構造が、ネオさんの議論でも表れている。弁護士(または学生)という1になる前には浪人生という0があったはずでなければならないが、弁護士(または学生)以前の浪人生とは0ではなく、浪人生という1である、という循環である。
よって、nobodyは真の0に到達することはできない。それならば、nobodyという表現はあくまでsomebody0という1の亜種にすぎない、ということになる。
この文章では主に入不二哲学におけるany-nessの人生訓的含意について考えているけれど、ここには0に到達できないという、もうひとつの入不二哲学の含意がある。当然、0に到達できないという話と、any-nessの話は深く関わっていると僕は考えてはいる。だが、あくまで人生訓としてわかりやすく活用するためには、両者は切り分けたほうがいいように思えるのである。
(僕は、0に到達できないことは、まさにany-nessの働きだと考えているけれど、入不二はまだ正面から論じていないし、ネオさんも、その理路は示していない。だから、とりあえずは、独立して捉えて「真の0には到達できないのだから、何者でもないなんて落ち込む必要はないよ。」という人生訓として用いればいい、というのが僕の考えである。)
9 anybody
ここまで話を進め、僕の人生論は「somebody⇔any-ness / any-ness」という構造にまで到達することができた。
注意が必要なのは、この構造においては、分子と分母の両方にany-nessが登場するが、この両者は全く同じものではないという点である。分母のany-nessとは働きそのものであり、分子のany-nessとはその働きの結果である、という違いがあるのである。
そこから具体的な描写の可否という違いも生じる。分母のany-nessとは働きそのものであり、描写のしようがない。一方で、分子のany-nessとは、先ほどの表現を用いるならば、「ふと、我に返るエアポケットのような瞬間」として具体的に描写することが可能である。両者にはそのような違いがある。
よって、この違いを明確化するために、分子のany-nessをanybodyと呼ぶことを提案する。働きそのものとしてのany-nessと、描写可能な実体(body)を持つany-nessの働きの結果との違いを見分けやすくするためである。
このように、分子と分母の違いを確認したうえでだが、さらに分母についてもany-nessをanybodyと呼ぶことを提案する。
なぜなら、ここで行っているのは、形而上学的な入不二哲学の人生論的な誤用(応用)だからである。分母のany-nessは具体的な描写のしようがないという点で、形而上学につながっている。だから、このままでは、形而上学にコミットしてしまうことになり、応用にはならない。
それならば、人生論としての応用を徹底するためには、分母としてのany-nessについても、何らかの描写可能な実体(body)を与えなければならない。だから、分母もanybodyに置き換える必要があるのである。
分母としてのanybodyとは、人生論におけるもっとも基礎的で普遍的な事柄、つまり、「人生」のことだと考えるべきだろう。any-nessとは、入不二哲学によれば「不定の全体」(外のない内)である。それならば、人生論の領域における「不定の全体」とは、その議論領域、つまり「人生」に完全に一致しなければならない。
以上により、僕の人生論の構造は、「somebody(弁護士、父)⇔anybody(ふと、我に返る瞬間) / anybody(人生)」となる。
なお、この節で行ったのは、分子としてのany-nessのanybody化と、分母としてのany-nessのanybody化という全く異なる作業である。だが、結局は、分子も分母もanybodyとして揃ってしまっているという点には留意が必要である。
入不二哲学においては、分子と分母の間にあるはずの落差としての動性が極めて重要である。だが、ここでは、あえて、その動性を消し去り、分子と分母の落差とは、単なる、「瞬間(分子)」と「人生全体(分母)」という実体のある期間の長短の違いとして捉えている。(any-nessの縦横無尽の動性のうち、横の動性だけを用いて、縦の動性を消し去っていると言ってもいい。)
この点が、この文章で行っている人生論的「誤」用の最たる部分だと思う。それにより理解し、扱いやすくなってはいるが、失ったものも大きいのである。
10 哲学・対話・哲学対話
さて、「ふと、我に返る瞬間」という分子としてのanybodyについて考えてみよう。このanybodyについてのイメージを広げるためには、手前味噌だけど、哲学や、対話や、哲学対話を用いることができると僕は考えている。
まず「ふと、我に返る瞬間」という描写については、僕ならば哲学をする瞬間と言いたくなる。仕事や家事などの日常生活に没頭するのではなく、テレビやスマホを見るのでもないひとときに訪れる瞬間である。帰宅途中の電車でスマホから目をあげて周囲を見回したときや、休日の夜、風呂に入ったひととき、僕は、ふと我に返り、哲学の入口に立っているような気がする。
そこから実際に哲学的思考に入らないことも多々ある。だがそれは大した問題ではない。ただの何でもないエアポケットのような隙間の時間こそが哲学の瞬間であるように僕には思えるのである。哲学をしてもしなくても、そんなひとときが、多くの人に訪れているのではないのだろうか。
Aさんに登場していただくと、Aさんは、その瞬間、弁護士でも父でもないAさん自身に戻ることができる。より正確には「Aさん」という名前もないanybodyに戻ることができる。それが「ふと、我に返る」ということであり、分母としてのanybody、つまり(彼の)「人生」にアクセスする入口に立つということである。このような心理状態は哲学をするにあたっての十分条件ではないにせよ、必要条件ではあるように思う。そのような意味を込めて、僕は、これを哲学をする瞬間と呼びたい。
また、もうひとつの「ふと、我に返る」瞬間として、他者に注意を向ける瞬間があるように思う。それは、典型的には、自らが語り終えて、そして相手の発言に注意を向ける瞬間のことである。つまり、対話の瞬間である。自らが語り、そして相手を同様に語る存在と認めるからこそ、対話の切り替えの瞬間が訪れる。それが対話というanybodyの瞬間である。
なぜこれが「ふと、我に返る」瞬間なのかというと、対話において相手に注目するとは、とりあえず自らの意見や考えは横に置き、話の聞き手としてのまっさらな態度をとること、つまりanybodyに戻ることだからである。
帰宅途中の「我に返る」とは、いわば自らの肩書(属性)を捨てることだが、それならば、対話での「我に返る」とは、自らの意見を捨てることだとも言える。自らの意見をとりあえず脇に置き、「我に返る」からこそ、相手の異なる意見を(同意はしなくても)理解することができるのである。
この二つのanybodyを同時に味わえるのが、僕がやっている哲学対話の活動であると僕は考えている。当然、any-nessは遍在しているから、哲学対話の場に限らず、いつどこでも見出すことはできる。だが、それを濃縮したかたちでわかりやすくanybodyとして体験できる稀有な場が、哲学対話であると僕は考えている。
こうして、入不二哲学から、哲学をして、対話をして、哲学対話をすることは悪くないことだ、という人生訓を導くことができる。
11 「我に返る瞬間」に染め上げられた人生
このように考えると、分母としてのanybodyとしての人生は、分子としての「我に返る瞬間」としてのanybodyに満ちている。
さらに、「我に返る瞬間」としてのanybodyは、「弁護士、父」としてのsomebodyにも影響を与え、人生全体を「我に返る瞬間」に染め上げてしまう。
Aさんはきっと、「まず、私の人生があり、そのなかで、弁護士という属性を持つこともあり、父という属性を持つこともある」と考えているはずだ。多くの人が属性よりも根本的なところに「私の人生」が存在していると考えているだろうが、それは、この染め上げの結果である。
このことを、人は、「我に返る瞬間」があるからこそ、ひとつの人生を送っているという実感を持つことができると言ってもいいだろう。
それが、「somebody(弁護士、父)⇔anybody(ふと、我に返る瞬間) / anybody(人生)」という構造であり、分子の「⇔」という矢印が果たしている役割である。
入不二は、any-nessの「隙間」を気孔と表現し、そこにある動性を強調しているけれど、この動性の人生論における現れが、以上のような描写だと言えるだろう。
12 マクロな視点の扱い
ところで、ここまでは、冒頭で述べた二通りの捉え方のうち、主に往復運動というミクロな視点から考えを深めてきた。
ネオさんは、もうひとつ、若者(nobody)が、ひとかどの者(somebody)になる成長譚としてのマクロな視点も持っていたことを思い出してみよう。そこにあるのは「nobody(浪人生)⇒「隙間」(大学生)⇒somebody(弁護士)」という構造であった。
ここまでのミクロな視点の議論を、このマクロな視点に当てはめるならば、大学生とも描写した人生の「隙間」としての一時期とは、実は大学生に限定されるものではなく、anybodyとしての人生そのものであった、ということになるだろう。なぜなら、浪人生であっても、大学生であっても、弁護士であっても、そこには、ミクロな「somebody⇔anybody/anybody」という「隙間」としての揺れ動きがあるからである。
当然、そこには、分子の⇔の矢印の揺れ動きの実感のしやすさという違いはあるだろう。
浪人生ならば、何者でもない自分というsomebody0に固定され、我に返ることができず、「〇〇家の長男」のような、別のsomebody1を思い浮かべることができないかもしれない。また、弁護士も日々の生活に忙しくて、その肩書に固定されがちになっているかもしれない。それに比べれば、大学生は、進路に悩み、まさに自分探しをして、⇔の揺れ動きを実感しすぎるほどに実感しているかもしれない。
だが、本質的には、人生におけるミクロな構造とは「常に」、「somebody⇔anybody/anybody」であり、そこには置かれた状況や肩書による違いはない。
よって第4節で提示した「nobody(浪人生)⇒「隙間」(大学生)⇒somebody(弁護士)」というマクロ構造は誤りであり撤回する必要がある。人生のすべてが「隙間」つまりanybodyなのである。
13 誕生前と死後
それでも、「nobody⇒anybody⇒somebody」という構造を維持したくなるかもしれない。なぜなら、そこには誕生前と死後の問題が残っているからである。nobodyとsomebodyを誕生前と死後を指すものと定義しなおし、「nobody(誕生前)⇒anybody(人生全体)⇒somebody(死後)」とマクロ構造上に位置づけ直すのである。(だから、ここでのnobodyとは先ほど簡素化のためにsomebodyに統合した自己否定としてのnobodyとは異なるものである。)
そこに込められているのは、人は無から生まれ、anybodyとして人生を生き、そして死後、その人生が確定したものとして評価されるという人生観である。nobodyとは、まだ始まっていない無のことであり、そして、somebodyとは確定した人生全体を振り返った評価としての墓碑銘や戒名のことである、と捉えるのである。
だが、宗教によっては、天国や輪廻転生という考え方もある。前世という人生があり、来世という人生があると考えるならば、anybodyとしての人生は、誕生前や死後にまで拡大し、nobodyは前世以前、somebodyは来世以降へと押しやられてしまう。さらに前世以前の前世とは・・・などと考えれば、nobodyやsomebodyが成立する余地はどんどん浸食されてしまう。
この問題は信仰心の有無には関わらない。宗教を信じない人にとっても、この問題は「生まれる前の無や死後の無をそもそも考えることができない」という伝統的な哲学上の問題に接続してしまう。
つまり宗教を信じようが、哲学的に考えようが、anybody(人生)の外にnobody(誕生前)やsomebody(死後)が成立する領域をなんとか確保しようとしても、どうしても確保できなくなってしまうのである。
これは、従来、宗教上も哲学上も大問題だったと思うが、入不二のany-nessは鮮やかに、その理由を説明する。
それは、any-nessとは不定の全体だからである。
anybodyとは、あくまで入不二のany-nessを人生論の範疇において実体(body)化させたものだから、anybodyもany-nessの「不定の全体」性を引き継いでいる。だから、anybodyとしての人生は、人生論として捉えられる限りの全体に拡大していくのである。よって、誕生前や死後を人生論の中に位置づけたとたん、そこにも人生としてのanybodyは拡大していくことになる。どうあがいても、(人生論上の)不定の全体としてのanybodyの外にnobody(人生以前)やsomebody(人生以後)が成立する余地はなくなってしまうのである。
anybodyとしての人生には、誕生前も死後も成立できない、というのは、興味深い人生訓だと思う。
さらに、そこから、たとえば、宗教における天国・地獄や輪廻転生のような装置は、不定の全体としてのany-nessの力の発露の一形態と捉えることができる、というような人生論的な知見を導くこともできるだろう。
14 入不二ファンとしての人生
ここまで、入不二のany-nessの哲学を、人生論的に誤用し、応用してきた。僕が行ったのは、any-nessの能力を、実体(body)化し、anybodyとして明確に認識し、描写可能なかたちで捉え直すという作業だった。
これは、入不二哲学におけるany-nessが持つ「動性」という最も重要な性質を無力化し、固定化する作業でもあり、いわば、入不二哲学のキモを台無しにする作業でもあった。
だが、このような描写を通じて、入不二の極めて抽象的な議論に興味を持てない人でも、入不二哲学が持つ力を少しでも体感してもらえるかもしれない。そういう意図でここまで書いてきた。
こうして書き終えて心に残ったのは、そのような動機は関係なく、書くのがとにかく楽しかった、ということだった。なんというか、人生のあらゆる問題がany-nessという一本の糸によって芋づる式につながっていくような快感がそこにあったのだ。
確かに僕がやったことは哲学的には誤用かもしれないけれど、そこには固有の価値があったようにすら、今、僕は感じている。
any-nessというアイデアは、哲学としてだけでなく、僕の人生を生きる上での人生訓としても、とても魅力的である。それが、any-nessこそが人生というものの本来的な在り方だからなのか、それとも、僕が入不二ファンとしての人生を送っているからなのかはわからないけれど。
とにかく、入不二ファンとしての僕は、「何でもいい何か」というany-nessとしての人生を送っていくのだろうなあ、という予感がしているのである。
なお、この感覚は初めてではない。入不二の著作『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(『あるなる』)を読んだ時にも僕は似たようなことを感じた。
この本は運命論についてのものであり、タイトルのとおり「あるようにあり、なるようになる」という運命について書かれたものだった。その中には印象に残る言葉として「ケセラセラ」という言葉もあった。この本を読んだときにも僕は、「あるようにあり、なるようになる」「ケセラセラ」の運命のもと、人生を送っていくのかなあ、というようなことを考えた覚えがある。
こうして思い返してみて、入不二というのは、同じことについて、これほどにも豊かに様々なかたちで語ることができる人なのだなあ、と気づかされた。このようにおおまかな類似性に気づけたことも、人生論というかたちで、少し解像度を落として入不二哲学について捉え直した効用かもしれない。
(なお、永井均が同じ問題について考え続けていることからもわかるように、同じ問題を扱い続けているというのは、誉め言葉である。)