※3,500字ちょっとです。入不二先生の『何何何』を読んでることが前提の文章になってます。
1 相反するものごとが一つに押し込められた言葉
前にも取り上げた記憶があるけど、サニーデイサービスの『桜 super love』という曲には、「きみがいないことはきみがいることだなぁ」という歌詞がある。
この曲が登場する文章:
また、僕は「非A的A」という言葉も気に入って使っている。
この言葉が登場する文章:
これらに共通するのは、相反するものごとが一つの言葉に押し込まれているということである。
2 コップとペン立て
これまで僕はこれを特殊な言葉遣いとして扱ってきたけれど、考えてみれば、そもそも、言葉とは、そういうものなのではないのだろうか。
例えば、今、僕の机の上にはコップがあるのだけど、このコップに注目し、「コップがある」と(心の中で)発話するとき、僕は、コップを思い浮かべると同時に、コップではないもの、例えば、ペン立てを思い浮かべているように思う。
なぜなら、「コップがある」と発話するためには、ただコップだけがあればいい訳ではないからだ。コップに加えて、コップではないもの(例えばペン立て)がある可能性もあるからこそ、「(ペン立てではなく)コップがある」と発話するのである。
それが、ここにあるコップと同時に、ここにないペン立てを思い浮かべるということである。
と言っても伝わりにくいかもしれないから、極端な状況として、この世界には僕とこのコップしかないとしよう。
そのとき、僕は「コップがある」と言うことはないはずだ。なぜなら、コップしかないからである。この世界に少なくとも僕とコップとペン立てがあるからこそ、僕は「(ペン立てではなく)コップがある」と発話するのである。
そのような意味で、「コップがある」という言葉の成立のためには、コップではない何か、例えばペン立てが必要となる。
3 コップがないことはコップがあることだなぁ
さらに「ない」という否定の言葉遣いも考慮するならば、この世界にあるのが僕とこのコップだけだとしても「コップがある」と発話することに意味はあるだろう。この世界が「コップがある」と「コップがない」のいずれかならば、どちらなのか発話する意味があるからである。(ただし、コップと呼ぶ必要はないので「ある」「ない」だけの発話になってはしまうだろうけれど。)
このとき、「コップがある」という言葉には「コップがない」という事態も関わっていると言える。そのような意味で、コップがあることにはコップがないことも含まれているのである。逆から捉えれば、まさにサニーデイサービスの歌のとおり「コップがないことはコップがあることだなぁ」である。
4 アルファ・ケンタウリ第四惑星の砂
さらに発展させるならば、当然、この世界は、このコップとペン立てだけの世界よりもはるかに複雑である。だから、このコップがあることには、コップがないことや、ペン立てがあることだけではなく、様々なものごとが関わっている。
このコップには、ペン立てだけではなく、消しゴムや、ネコや、アルファ・ケンタウリ第四惑星の砂(そういうものがあるとして)といった様々なものごとが関わり、そこに含まれている。このコップがあるとは、アルファ・ケンタウリ第四惑星の砂の不在であり、「コップがない」の不在でもあり、世界のあらゆるすべてが、不在を経由して、このコップに包含されているのである。
なお、ここまで、「コップ」という言葉に着目して考えてきたが、「コップ」の認識であっても、「コップ」の(時空内の)存在であっても似たことは言える。
このコップと認識するとは、コップと例えばペン立てを見分けるということであり、このコップが(時空内に)存在するとは、この時空をペン立てではなくコップが占めていることである。
意味論的にも、認識論的にも、存在論的にも、このコップには世界のあらゆるものごとが関わっているのである。
5 Any-ness
僕は、入不二哲学におけるAny-ness(任意性)には以上のような意味も込められていると考えている。
Any-ness(任意性)は「何でもいい何か」とも表現され、遍在しているとされる。遍在しているのだから、当然、この「何でもいい何か」は、この目の前のコップにも宿っている。「何か」としてのコップは、Any-nessの「何でもよさ」を通じて、世界のあらゆるものごとと関わっているのである。
コップという「何か」として分節化して把握されるということは、そのコップはAny-nessの働きを通じて「何でもいい」という分節化される前の不定の全体にアクセスできているのでなければならない。そのように考えるならば、このコップには、不定の全体としてのAny-nessの働きが潜在していることになる。それは、世界のあらゆるすべてが、このコップの中に潜在しているということでもある。
このような話は、コップについての話だからこそ異様に感じるかもしれない。もし、「今」や「私(たち)」についての話ならば、入不二が論じたとおり、「今」や「私(たち)」が世界のあらゆるすべてを含む不定の全体であることは明らかである。
僕は、入不二の「今」や「私(たち)」についての議論を踏まえつつ、Any-nessという観点から捉えるならば、「今」や「私(たち)」と、このコップとの間には大差はないと主張しているのである。
(この節以降で登場する、Any-ness、任意性、「何でもいい何か」、遍在、不定の全体、潜在、「今」、「私(たち)」、現実性、特異点、個体性、「現に」、外のない内といった言葉は、どれも、入不二基義の『何でもいい何かって何?』でのかなり重要な用語です。)
6 入不二と永井均との間の議論
この僕の主張は、以前あった入不二と永井均との間の議論を思い出させる。永井は、「私」や「今」(や「世界」)にだけ「無内包」(最近の用語では、永井ならば〈 〉の独在性、入不二ならば現実性)がつくと主張したのに対し、入不二はコップであってもつくと主張していた。
この、「私」や「今」だけでなく、コップであっても「無内包」(の現実性)がつくという入不二の主張は、「何でもいい何か」というAny-nessの任意性に裏付けられたものだったとも言えるのではないだろうか。
それならば、入不二の主張の先に、コップも不定の全体である、という僕の主張を位置付けることもできるように思う。
7 生の切実さ
さて、冒頭で触れた「きみがいないことはきみがいることだなぁ」という歌詞は、早世したサニーデイサービスのドラマーである丸山君を歌ったものだ。
つまり、この歌詞には、作詞者であるボーカル曽我部恵一の切実な思いが込められている。
その思いと、この机の上のコップに対する僕の思いを同一視するのはまずいようにも思える。
曽我部の丸山君に対する思いならば、少なくともその一瞬、丸山君こそがこの世界のすべて(と言ってもいい不定の全体)だと感じることはわかる気がする。一方で、机の上のコップには、そこまでの思いを込めようがない。
だが、「現に」僕はコップを見つめてコップを思っている。それは、「現に」曽我部が桜の花を見上げながら丸山君を思っているのと同じことだとも言える。それが「現に」という現実性であり、そこには、この瞬間の生の切実さがある。
入不二は、Any-nessの任意性と現実性だけが剝き出しで働く場面を特異点と呼ぶ。ネコからタマへ、というように個体性を突き詰めたところに、その特異点があるとするのである。これは、現実性と任意性を示すものである「現に」と「何でもいい何か」という表現を用いるならば「現に、(何でもいい)何か」としか言いようがない地点だと言えるだろう。
この特異点とは生の切実さとしての特異点であり、その切実さこそが、「現に、何か」としての私(たち)であり、「現に、何か」としての今であり、「現に、何か」としての丸山君であり、「現に、何か」としての机の上のコップだということなのではないだろうか。
このように現実性や任意性に生の切実さを読み込もうとする僕の解釈は、きっと、入不二哲学の誤読である。
だが、入不二は任意性を「外のない内」と捉えている。また、Any-nessは現実性に及ぶともしている。それならば、この任意性由来の「外のない内」性を生の切実さと読み替えることも、ある場面では許されるのではないだろうか。