※5,000字弱あります。一応、哲学でロックすることを目指して書きました。

1 音楽業界批判

Without us, you ain’t shit.(見つけたサイトの訳:僕らがいなかったら、お前たちなんて何の価値もない)https://rockinon.com/blog/nakamura/215199

これは、RADIOHEADのトム・ヨークによる音楽業界への批判の言葉だ。

話としては、僕らアーティストがいなければ、スポティファイなどのサブスクサービスなんてクソでしかないのに、若手育成などアーティストに必要なことを全然していない、という音楽業界批判である。もし生きていたら忌野清志郎あたりが言いそうな言葉で、なんだかかっこいい。

(ただ、僕は邦楽しか聴かないのでRADIOHEADは名前くらいしか知りません。)

2 金持ちや権力者批判

僕は邦楽ロック好きだから、この批判自体、大事だと思う。だけど、それ以上に、この言葉そのものが気に入ったので、このWithout us, you ain’t shit.という言葉の魅力を引き出すため、二段階の拡大解釈をしてみたい。

まず、一段階目の拡大解釈は、この言葉は、音楽業界だけではなく、あらゆる金持ちや権力者への批判とも言えるのではないか、というものだ。

音楽業界に限らず、金持ちが金持ちでいられるのは、非金持ちが金持ちに金を払っているからだ。サブスク代や食事代や家賃などにお金を払っているから、金持ちは金持ちでいられる。その契約が正当なものにせよ、正当ではないものにせよ、とにかく、僕たちが契約しなければ金持ちは何者でもない。

それは、上司や政治家だって同じことで、部下や国民が彼らを上司や政治家だと認め、指示に従ったり選挙に行ったりするから、彼らは上司や政治家でいることができる。

上司や政治家なんて、Without us, you ain’t shit.だ。

この文脈で究極的にWithout us, you ain’t shit.なものとは、貨幣制度そのものだろう。もし一斉に僕たちが、あんなものは紙切れでしかない、そんなものと引き換えに僕たちの品物やサービスを渡すわけにはいかない、と決心したならば、貨幣制度への信任は失われる。

そのような、世の中の仕組みの根幹において、Without us, you ain’t shit.なのである。

なお、念のためだけど、貨幣制度がなくなってしまったら、お金持ちだけでなく、全員が困るという反論は成り立たない。確かにそんなことになれば誰もが実際困るだろう。だがたとえ困ったとしても僕たちがお金を信任しないことは理屈上可能であり、その意味で、僕たちは、Without us, you ain’t shit.と言い放つ自由が確かにある。僕たちには全てをぶち壊す自由があるのである。

これが一段階目の音楽業界批判から権力構造そのものへの批判に向かう拡大解釈である。

3 関係性という価値

二段階目の拡大解釈は、多少哲学っぽいひねくれた解釈で、Without us, you ain’t shit.を、関係性という価値そのものについての言葉だと解釈するというものである。金持ち、政治家などは関係なく、全ての人がWithout us, you ain’t shit.であると考えてみるのである。

だから、そのyouには自分自身も含まれ、逆にWithout you, we ain’t shit.と表現してもよい。

僕がいなければ君に価値はないし、君がいなければ僕に価値はないのである。

これを、「価値は関係性からしか生まれない」または、「究極的な価値は、誰かのためになることにしかない」と表現することもできる。

このような主張は極端すぎるように思えるかもしれない。少なくとも、他の誰かだけでなく、この自分自身の中にも価値はあるのではないか、という疑念は生じるだろう。

だが、この「誰か」という言葉には、この時点の僕自身から見た他の時点の自分自身も含めることができる。時点が異なる自分と自分との間にも関係性はあるとし、そこから自分自身の価値が生まれる、と考えるのである。

このような捉え方は、日々の生活上の実感とも合致しているように思う。例えば、勉強しながら、今勉強することに価値があるのは、それが未来の自分のためになるからである、と考えることができるからである。

一方で、この現在における自分の中では、価値は生じないという点も重要である。スキーを滑りながら、今スキーをすることに価値があるのは、それが今の自分に対して楽しさという価値を与えるからだ、とは言わないからである。まあ、価値があると言ってもいいのだけど、そんな回りくどい言い方は、現に今ここにあるスキーの楽しさを取り逃がしてしまっているだろう。スキーは価値なんて関係なく、ただ楽しいから楽しいのである。

そのような意味で、自分自身の価値は、時点が異なる自分との関係性のなかで生じる、と僕は主張したい。

まとめよう。Without us, you ain’t shit. とは、youに時点が異なる自分自身も含めた、関係性という価値についての言葉なのである。

これが二段階目の拡大解釈であり、Without you, we ain’t shit.を、単なる批判の言葉ではなく、「(未来の自分自身を含めた)誰かのためになることこそが究極的な価値である」という、価値についての積極的な主張として解釈するというものである。

4 価値の固定化への批判

関係性の価値の究極性を主張することで僕が意図しているのは、価値そのものについて、関係から切り離し、個別に切り出して捉えることができる、という常識的な考え方に対して批判を加えることである。

世の中で価値があるとされているもの、例えば、お金、地位や名誉、健康といったものは、常識的に、それ自体が価値を持っていると考えられている。これは、つまり、人間関係から切り離されても成立する、個別に独立した価値というものがあるということである。僕は、この常識的な捉え方を批判したいと考えているのである。

ここでは、お金、地位や名誉、健康といったもの自体に独立した価値がないとする理由について、多くを述べることはしない。だが、第三次世界大戦により世界が滅亡し、最後の生き残りとなったときのお金、地位や名誉、健康がどのような価値を持つか想像すれば、ある程度はわかってもらえるだろう。(そのような状況では、健康だって、スキーを滑るような楽しさには繋がるけれど、価値は持たないと考えられる。)

そのような意味で、関係性だけが唯一の本当の価値なのである。もし、お金、地位や名誉、健康といったものが価値のように見えるならば、それが楽しさに繋がっているか、関係性という価値に繋がる道具としての価値があるからである。例えば、お金を持っていることが未来の自分自身を含めた誰かのためになるからである。

5 倫理

関係性こそが価値であるとは、誰かのために生きることこそが価値である、という主張につながる。これは極めて倫理的な結論だろう。

なぜそうなるかというと、そもそも価値を論ずるならば、その議論は必ず倫理的なものとなるからである。

と唐突に言い切ってしまったので、きちんと説明しよう。

まず、価値を論ずるとは、その論ずる対象としての価値を、議論に参加する者(ここでは僕と読者であるあなた)が共有できるのでなければならない。

ということは、価値を論ずるとは、僕とあなたが共有できるようなものとして価値を捉えることでなければならない。

そして、議論が普遍的なものであるためには、僕とあなただけでは足りず、例えば、人間一般の間で普遍的に共有されるものとして価値を捉えるのでなければならない。

そのように話が進むならば、共有される価値とは倫理的な価値しかない。(たとえお金であっても、その手段的価値を共有するならば、そこには倫理的な価値が宿る。)

つまり、価値について議論を通じて捉えることを目標として定めた、この議論の出発地点において、既に、この価値についての議論は倫理的なものになることが決定づけられていたのである。

6 ワクワク

だから、この結論が気に食わないならば、出発地点において、そもそも価値なんてどうでもいい、と考える必要がある。確かに、その方向で考えるほうがいいかもしれない、と僕も感じる。

共有できる価値を拒否したうえで何が残るのかについては色々な考え方があるだろうが、ワクワクして面白ければそれでよい、というのも一つの考え方だろう。僕は、ワクワクという言葉で捉えていきたいと考えている。

(僕は、共有できる価値を拒否したうえで残るポジティブなものを表す言葉は、ワクワクの他にはそう多くないと予想している。例えば、快楽について快楽という言葉で固定的に描写してしまったら、それは共有できる価値となってしまう。功利主義がその典型である。)

ここまで、価値ではないものの例として、スキーの楽しさを用いてきたけれど、スキーを滑るときの、あのワクワクである。(僕はスキーやスノーボードが好きだったので、こういう例にしたけれど、純粋にその場限りの快楽をもたらすものであれば、セックスでも美食でもなんでもいいと思う。ただセックスは愛のようなものと結びつきがちだし、食事は生きるために必要なものでもある。)

なお、このワクワクであっても、言葉で捉えられている限り、それを何らかの共有された価値についての描写だと捉えることはできる。だが、ワクワクについては、お金、地位や名誉、健康とは異なり固定的な描写ができないことには留意が必要だろう。

その描写のできなさは、ワクワクが単独の名詞ではなく、「◯◯(例:スキー)でワクワクする」というように、動詞的に使われることに表れている。

(なお、この名詞と動詞という違いは、静と動という、より大きな問題につながっていると考えている。)

修学旅行の前夜もワクワクするし、ドラゴンボールの孫悟空が強敵に出会った時もワクワクする。この二つのワクワクは似ているけれど、全く違ってもいる。その違いがあり、とらえどころのない新しさがあるからこそ、ワクワクがワクワクたりえているとも言える。

そのような意味でワクワクは固定的な描写ができないのである。

だから、ワクワクを価値と捉えてもいいけれど、その価値とは、お金、地位や名誉、健康といった固定的な価値とは全く種類が異なる、全く新たな価値である。先ほどの価値が倫理的価値ならば、これは非倫理的価値であり、非価値的価値であるとさえ言える。ワクワクの価値とそれ以外の価値の間には大きな断絶があるのである。

この捉え方によるならば、Without us, you ain’t shit. とは、ワクワクしている僕らアーティストと一緒にワクワクせず、ただ乗っかっているだけの音楽業界の奴らはクソだ、という言葉であったことになる。

一緒にワクワクしている人しか、ワクワクを尊重することはできない。口先でワクワクを尊重してもそれはクソでしかない。本気でワクワクしているなら、若手を育成したりして、一緒にワクワクを作っていこうぜ。

トム・ヨークが言おうとしていたのは、そういうことなのではないか。

7 さいごに

これは、音楽業界批判であるという意味で、冒頭で紹介した、Without us, you ain’t shit.という言葉が本来意図していたことと、よく似ている。

だが、その批判の理由は大きく異なる。音楽業界人は、アーティストを支援しないからクソなのではなく、アーティストと一緒にワクワクしないからクソなのである。ワクワクすれば当然、支援もするだろうが、それはあくまで副次的なものでしかない。お金がなくてもいいし、権力がなくてもいいから、とにかく、そこでスーツを着て座っているスポティファイの奴らも、まずは、俺らと一緒にワクワクしようぜ。これがアーティストのメッセージだと解釈するのである。

こうして議論は一周回って、スタート地点と一見よく似ているけれど全く異なる地点にたどりついた。この僅かだが決定的なズレを確認するために、僕はこの文章を書いたとも言える。