-普通の人々にとっての哲学対話の必要性-
※7,000字ちょっとあります。ガッツリ哲学というより哲学対話に興味がある人向けかな。
1 哲学が必要な人にとっての哲学対話の必要性
哲学対話の必要性について、僕なりの捉え方を思いついた。
きっと、哲学対話(ここでは僕が主催している哲学カフェを例に考える。)の必要性は、大きく二つある。哲学が必要な人にとっての必要性と、必要ない人にとっての必要性である。前者を哲学マニアにとっての必要性、そして後者を普通の人々にとっての必要性と言ってもいい。
僕自身、哲学マニアなので前者の必要性はよくわかる。それは、哲学が必要な人が哲学をできる場が確保できるという意味での必要性である。
(と書くと当たり前のように聞こえるかもしれないが、哲学が必要なのに哲学ができないことの苦しさは、普通の人にはなかなか伝わらないと思う。)
また、哲学マニアにとっては、哲学とは孤独な営みだから、誰かとともに哲学ができるという意味でも、哲学カフェという場は重要なものになりやすい。
2 哲学が必要ない人に哲学対話は必要性があるのか
問題は、哲学が必要ない、普通の人々にとっての哲学対話の必要性である。
哲学対話とは、簡単に言えば、哲学についての対話である。それならば、哲学が必要ない人とって、哲学対話は必要ないのではないか。深く考えずに、なんとなく僕はそう思っていた。
僕の哲学カフェに参加するほとんどの人たちは、「いわゆる哲学」に関心がなかっただろう普通の人たちだ。僕は哲学カフェを主催しておきながら、彼らがなぜ哲学カフェに参加するのか、よくわからないままだった。彼らは、「哲学対話」を構成する要素のうち、「哲学」ではなく「対話」に由来する何か、例えば、安全なコミュニケーションの場のようなものを求めて参加しているのではないか。なんとなく、そんなふうに感じていた。
それは多くの哲学カフェの主催者も同じだ。例えば「哲学」という言葉を用いず、「対話」という側面を強調するイベントは多い。哲学対話とは、あくまでもコミュニケーションの技法のひとつであり、あえて哲学についての対話でなくてもいい、と考える人は主催者の中にも多いようにも思える。
(僕の哲学カフェは「ヨコハマタイワ」で、これは言葉の面白さを優先したものだけど、僕自身、普通の人向けには哲学という名前は掲げないほうがいいと思った面はある。)
当然、必要性に駆られなくても哲学カフェを主催したり参加したりしてもいい。人と集まって話すのはそれだけで楽しいし、話す中で学びも得られる。僕は哲学カフェのそのような意義は全て認めたうえで、哲学対話でなければいけないのか、ということを問題にしている。つまり、「哲学の」対話である必要性について問題にしている。
なぜ、そのようなことにこだわるのかというと、少なくとも、僕の哲学カフェでは、「いわゆる哲学」と縁遠い普通の人々と「哲学についての」対話でしかできない営みをし、そこで何かを得ているという実感があるからだ。その哲学マニアでなくても得られ、かつ哲学でなければ得られない「何か」を僕は捉えたいのである。
3 哲学が必要ない人にとって、哲学が必要な人と同じようには哲学対話は必要ない
まず、疑ってみるべきは、僕を含めた哲学マニアと普通の人々の間には大きな違いがあるという前提だろう。もしかしたら、この前提は、自分を悲劇の主人公とするような思い込みで、両者の間にはたいした違いなどないのではないか。
だが、明らかに両者の間には明確な線を引くことができるように思える。その線とは、世の中のあり方を転覆しかねない、普遍的で観念的な問題意識の有無である。僕自身は、懐疑論や独我論に陥りがちで、哲学マニアの中でも「いかにも哲学マニアっぽい」思考回路を持っているが、それは極端な例かもしれない。そのようなものでなくていいから、普遍的で観念的な捉え方を志向しているならば、哲学が必要な哲学マニアに区分されうるだろう。
僕がイメージする(僕とは違うタイプの)哲学マニアとは、例えば、「世の中の根本原理」とは「愛」であると考えるような人たちである。「世の中の根本原理」や「愛」といった言葉遣いでなくてもいいけれど、似たような普遍的で観念的な言葉遣いで、幅広い事項を一挙に説明することを志向する傾向こそが哲学マニアの特徴である。
そして哲学マニアであるためにもう一つ重要なのは、加えて、そのような自分の中にある志向性を制御しきれず、持て余しているということにある。例えば、誰か哲学者や宗教者の考えを全面的に受け入れて満足し、志向性がコントロールできているならば、あえて自ら哲学をする必要はない。確信や信仰があれば、哲学的な探求は必要ないのである。
つまり哲学マニアの特徴をまとめるならば、普遍的で観念的な捉え方を志向し、その志向性を持て余しているような人こそが、哲学を必要とする哲学マニアなのである。
また、哲学とは孤独になりがちであることを認めるならば、その持て余している何かを誰かとし、分かち合いたいと願う人が、哲学対話を必要とする人だと言ってもいいだろう。
だから、そうでない人には、少なくとも、我ら哲学マニアのようには哲学や哲学対話を必要としていないことは確かだと、僕は考える。
4 わからなくなる
もしそうならば、普通の人たちは、哲学マニアとは違うかたちで哲学と哲学対話を必要としていると考えるべきではないか。
確かに、多くの人たちは、僕を含めた哲学マニアのように先鋭化したかたちでは哲学も哲学対話も必要とはしていない。だが、彼らは、もっと微温的に哲学と哲学対話を欲しているのではないか。
僕は、長らく、その微温的な必要性を表す言葉を思いつかなかったのだけど、ふと、うまい言葉を思いついた。僕は、その言葉を披露したくて、この文章を書いている。
だが、僕のアイディアを披露する前に、従来の哲学者たちによる哲学対話の捉え方について触れておこう。なぜなら、哲学を必要とする哲学マニアの代表例である「いわゆる哲学者」が、哲学対話の必要性をどのように捉えてきたかを把握しておくことは重要だろうからである。
彼らは、さまざまなかたちで、一見、哲学に縁遠いような人にも哲学対話が必要だということを説明しようとしてきた。例えば、哲学対話には、論理的思考を鍛え、クリティカルシンキングを学ぶのに役立つ、などといった言説である。
だが、ほとんどのアイディアは、あえて「哲学の」対話ではなくてもいいようなものばかりだと思う。論理的思考は哲学ではなくて(データを検証するような)自然科学的な議論でも鍛えられるし、人と集まって話す楽しさは井戸端会議でも味わうことができる。
そのように様々なアイディアに触れるなかで、僕が最も賛同したのは「わからなくなる」ことこそが哲学対話特有の意義だ、というものである。(あったはず、と思ったけど、そのとおり書いてあるものが見つからなかったです。ただ河野哲也、梶谷真司、土屋陽介の本は、そういうニュアンスが含まれているように思います。)
どういうことか「嘘」をテーマにした哲学カフェを例に説明しよう。そこに「嘘をついてはいけない」と考える参加者がいたとする。その人は、対話の中で、「相手に配慮した優しい嘘ならば、嘘をついてもいい」という意見に接し、初めてそう気づいたとする。そのとき、その人は、「(嘘をついてはいけないかどうか)わからなくなる」という体験をすることになる。そこにこそ哲学対話特有の意義があるという考えである。
「わからなくなる」とはネガティブな感じもあるが、哲学対話において体験する「わからなくなる」は、時として、浮遊感と表現したくなるような、ある種の快感を伴う。確かだと思っていた足場が崩れ去り、奈落の底に落ちていくような感覚である。それは、落ちながら飛ぶ、スカイダイビングのような快感である。哲学的眩暈と言ってもいいと思う。
別の切り口で表現するならば、「わからなくなる」とは、わかっていたはずの束縛から逃れ、自由になることである。典型的には、常識を疑い「わからなくなる」ことは、常識の鎖から解き放たれることである。「わからなくなる」ことには、このような極めてポジティブな含意がある。
実際に僕も、そのような快感や解放感を哲学対話や(一人でやる)哲学で時々感じる。だから、確かにそのような魅力が確かに哲学や哲学対話にはあると思う。(ただし、(一人でやる)哲学だと、その快感や解放感は、不安や孤独とも容易につながってしまうのだけど。)
この快感や解放感については、(「自由」のような語を用いて)論理的に説明することもある程度はできるだろう。だが、何より、経験的な事実に基づいている。実際に哲学対話をやってみれば、わかる人はすぐにわかるし、わからない人はわからない。そういう類の話である。
だから、万人に向けて、「わからなくなる」ことこそが哲学対話の意義だと、声高にアピールすることはできない。哲学カフェで快感や解放感を得られない人はいるし、もし得られても、その感覚が、不安や孤独につながる危険もある。なにより、それだけが哲学対話の意義ならば、別にスカイダイビングでもよいではないか。
たしかに哲学対話における「わからなくなる」というあの感じに着目することは重要だが、その先に何かがあるように思えるのである。
その「何か」とはなんだろうか。
5 少なくとも、それだけではないことはわかる
そんなことをモヤモヤと考えるうちに、ようやく思いつき、ここで披露したいのが、「少なくとも、それだけではないことはわかる。」ことこそが哲学対話特有の意義なのではないか、というアイディアである。
先ほどの、「嘘をついてはいけない」と考えていた人の例を用いて考えてみよう。彼は、哲学カフェで、「相手に配慮した優しい嘘ならば、嘘をついてもいい場合がある」と初めて気づいたとする。そのとき、彼はどうなるか、解像度を上げて考えてみるのである。
すでに述べたように、「(嘘をついてはいけないかどうか)わからなくなる」という体験をしたのだという捉え方があった。だが僕は、新たな捉え方として、その人は、「少なくとも、嘘とは「嘘をついてはいけない」だけではないことはわかる。」という体験をした、と捉えてみたいのである。
そのような考えに至るプロセスを詳細に描写するならば、「わからなくなる」とは「Aについてわからなくなる」ということである。そして、「Aについてわからないことがわかる」ということである。さらに隠された言葉を明示するならば、「少なくとも、Aとは、これまでの理解どおりではないことがわかる。」ということである。
これは、否定の「わからない」を肯定の「わかる」に逆転し、そしてさらに「何がわかる」のかを限定するという、変換作業のプロセスだと言ってもいい。
「わからない」を抽象的なまま、ただ「わからない」と放置していては、(哲学マニアはともかく)普通の人々はそこに必要性を見出すことはできない。だから僕は、できるだけ限定した具体的な「わかる」を導き出すことで、多くの人が哲学対話に必要性を感じられるようにしてみたのである。そのためのアイディアが、「わからない」から「少なくとも、それだけではないことはわかる。」への置き換えである。
これならば、哲学対話の場において、哲学を必要とする哲学マニアであっても、そうではない普通の人々であっても、共通の「少なくとも、それだけではないことはわかる。」という経験をすることができる。
何がわかるかは話すテーマによりけりだが、例えば、「嘘をついてはいけない」だけではないとか、「今、目視しているペットボトルは確かに机の上に存在する」だけではない、といったことがわかる、という経験ができるのである。
当然、話題によっては関心の個人差はあるだろう。多くの人は、嘘の話は興味を持てるけれど、ペットボトルの存在については興味を持てないかもしれない。だが、嘘についてにせよ、ペットボトルの存在についてにせよ、関心の有無に関わらず、哲学対話を通じて、知識が増えたことは確かである。そこには、哲学カフェに参加したことの確かな意義がある。
なお、新たな知識を得ることが哲学対話の意義だとすると、哲学対話を妙に教育的なものにしすぎていると感じるかもしれない。だが、ここでの意義とは、知識が増えることの楽しさこそが意義である、でもいい。または、自分の(考えを更新できるという)可能性に気づけたことが意義である、でもいい。さらには、生活上の問題解決に役立てることが意義である、でもいい。(例えば、自分が過去についた嘘が、実は悪いものだったとは限らないと気づき罪悪感が解消するなど。)
なんらかのかたちで、その人なりに新たな知識を得たことに意義を感じられるならば、それが哲学対話の意義なのである。
哲学対話とは、「少なくとも、それだけではないことはわかる。」というかたちで、新たな知識の獲得につながる気づきを得られる場である。そのような気づきが得られる場は、他にはなかなかない。(例えば、自然科学についての対話ならば、「人間は神が粘土細工のように造ったのではなく、サル(的な祖先)から進化したのである。」というように、AではなくBである、といった、より明確なかたちで新たな知識が獲得できてしまう。)
もし「少なくとも、それだけではないことはわかる。」という知識の獲得のあり方に特有の価値を認めるならば、その点においてこそ、哲学対話とは、哲学マニアに限らず多くの人々にとって必要性のある場となるのではないか。
6 哲学の意義
ここまでは、哲学カフェの主催者として、哲学マニアではない普通の人々を眺める視線で語ってきた。ここからは、哲学マニアとして、自らを眺める視線に移りたい。つまり「少なくとも、それだけではないことはわかる。」というアイディアが自らの哲学に及ぼす影響について考えてみたいのである。
僕は、「わからなくなる」という哲学対話の必要性(魅力)の描写の仕方が好きだった。だが、その描写の魅力は、一部の哲学マニアにしか届かない内輪ノリでしかない、という限界があるとも感じていた。
なぜなら、「わからなくなる」とは哲学対話というより、哲学そのもののことだからである。「わからなくなる」ことには際限がなく、足元をすくわれるように、全面的に「わからなくなる」ということは、そこに観念的で普遍的な問題、つまり哲学的な問題が入り込んでいるということである。だからこそ、普段感じたことがないほど、激しくわからなくなるのである。その激しさが、時に、浮遊感のような、「わからなさ」特有の感覚につながっているのではないかと僕は思う。
だが、述べたとおり、落ち着いて考えるならば、「わからなくなる」とは、「A(たとえば「嘘」)に限ってわからなくなる」ということである。また、逆から捉えるならば「Aについて、わからないことがわかる」ということである。さらに限定するならば、「少なくとも、Aとは、Aについてこれまで考えられていたとおりではないことがわかる。」ということである。
普遍・観念から個別・具体を引き出すような、このような逆転と限定の作業は、普通の人々がアクセスできる個別・具体という道筋を開くということである。そして、この道筋とは、「わからなくなる」という言葉で表現される、哲学マニアにとっての哲学そのものにつながる道筋である。
つまり、ここで僕が行ったことは、哲学マニアではない普通の人々であっても「少なくとも、それだけではないことはわかる」というかたちで、哲学にアクセスすることが可能だという指摘なのである。
だからこそ、哲学が必要な哲学マニアも、哲学が必要ない普通の人々も、ともに、哲学対話、つまり「哲学についての」対話ができるのである。
これは、これまで哲学の特別さを強調してきた僕からすると、かなり踏み込んだ捉え方である。
7 哲学マニアが学ぶ場
当然、同じ問題を捉え、ともに哲学対話という共同作業をしながらも、哲学マニアと、普通の人々とでは、その視点が全く異なるとは言えるだろう。哲学マニアは、観念的で普遍的な視点を持ち、一般の人々は、具体的で個別的な視点を持っているからである。
これまで僕は、哲学とは、観念的で普遍的なものであるべきと考えていた。だが、もし、哲学という営みが「少なくとも、それだけではないことはわかる」というかたちで、個別的・具体的な知識として結実しうるものであるならば、哲学とは、観念・普遍一辺倒ではないということになる。
だから我ら哲学マニアは、哲学の場としての哲学カフェを通じて、普通の人々から個別・具体を学ぶこともできるということになる。ここまでの話を踏まえるならば、それも哲学なのである。
当然、哲学においては、普遍・観念も重要である。その点では、哲学マニアには普通の人々に比べた一日の長がある。だから、哲学マニアから普通の人々に伝えることができることは多々あるはずだ。
だが、哲学カフェとは、そのような一方的な場ではなく、個別・具体を哲学マニアが学ぶ場でもある。
そこには、対等性があり、まさに対話がある。
考えてみれば、哲学マニアとは、孤独で、社会から落伍しつつ、どこか社会に優越感を持った存在だったように思う。他の哲学マニアは知らないけれど、少なくとも僕自身にはそういうところがある。
だが、「哲学について」対話する哲学カフェとは、僕にとって対等に対話する「社会」を教えてくれる場であるとも言える。そして、僕に欠けていた、個別性、具体性という哲学のパーツを教えてくれる場であるとも言える。
実は僕は、哲学カフェは社会貢献のような場とも思っていた。観念的、抽象的な思考が得意だという僕の能力を活かし、普通の人々に何かを伝え、「教える」ことができると考えていたのだ。
だが、そこは「教える」だけの場ではなかった。僕が「教えられる」場でもあった。哲学カフェとは、哲学マニアが普通の人々に「哲学もどき」を与える場ではなく、まさに哲学マニアと普通の人々がともに「哲学」を行う場だったのである。