※1,000字ないですが、本当に自分のためのメモなので読まなくていいです。(アップしないとどこかにいっちゃうのでアップしただけです。)
これからの人生の生き方は、客観的な「ものごと」の獲得を目指すのではなく、主観的に手持ちの「ものごと」からどこまでいけるかを考えたほうがいい。
なお、どこまでいけるか、というからには目標設定が必要となるが、その目標は、これまでの過去の人生での「ものごと」の積み上げを材料に設定するしかない。自分に都合が悪い「ものごと」も含め、真摯に、誠実に過去の「ものごと」と向き合う。そうすることで、設定された目標は、いわゆる「客観めいたもの」となる。
これは、過去の自分を通して、「客観」を透かし見ていると言ってもいい。
ただし、このような「客観」の扱いは、非実在論的であり、世界が、過去の記憶により構成された「ものごと」となってしまうという欠点がある。
だが、それ自体は人生論では問題にならない。なぜなら、本来、非実在論的な主観的人生であれ、実在論的な客観的人生であれ、人生の生き方には大差がないだろうからだ。
一方で、他者さえも非実在論的に構成されたものになってしまう点は問題かもしれない、とも感じている。生身の他者とは、そんなに手軽に処理できるものではないのかもしれない。それならば、僕の人生には、有無を言わさずに、生身の他者が土足で入り込んでくる危険がすでに生じているのかもしれない。
この問題については、まだ結論が出ていないが、もし他者が入り込んできてしまったならば、僕の人生の目標設定自体に重大な影響を与えるだろう。例えば、「他者のために生きることこそが人生の目標である」というようなかたちで。
このような考えは僕の好みではない。なぜなら、これは、他者に人生の目標の実現を委ねてしまうことになりかねず、人生の責任転嫁、たらい回しになりかねないからだ。
僕から人生を委ねられた他者も、他者のために生き、さらに他者に人生を委ねてしまったら、結局、人生とは中心のないドーナツのように空虚なものとなってしまうのではないだろうか。
なお、これに対しては、人間は他者を尊重しつつ、他者のためではない生き方もできる、という反論があるかもしれない。だが、それは、他者を導入しつつ、自他の境界を明確にひくことにつながりかねず、かなりナイーブな考え方だと思う。
だからこそ、僕は、できる限り、他者を登場させずに人生について考えていきたい。それがかなりの無理筋だとしても。