※5,500字弱あります。最後以外はニュートラルに書いたつもりだけど、どうなのだろう。これも入不二先生の本を読んでいる人向けです。
1 手書きの地図
このブログでは何度か入不二基義の『何でもいい何かって何?』(『何何何』)について書いているけれど、実は、初めてこの本を読んだ際に、僕は迷子になってしまった。
読みながら、箇所ごとには「なるほど」とか「すごいな」などと感銘しながらも、入不二のアイデアの全体像のなかで、この今読んでいる箇所がどのような位置づけなのかがわからなくなってしまったのである。すごいのはわかるけれど、どのようにすごいのかがわからなくなってしまった、と言ってもいい。
そのままでは気持ち悪いので、位置づけを気にしながら読み直してみたら、そういうことか、と自分なりに腑に落ちた。そしていくつかの誤解も解けた(気がする)。
そして、すっきりした気持ちで振り返ってみると、もしかしたら、僕以外にも迷子になっている読者がいて、僕のこの気づきは何かの役に立つかもしれない、なんて思った。
だから余計なお世話かもしれないけれど、この文章を書くことにした。
つまり、この文章は、僕が2回読んでみて把握できた限りで描いた、『何何何』で迷わないで済むための地図のようなものである。誤りはあるかもしれないけれど、僕自身の主張は付け加えていないという意味で、単なる地図である。
(これは、昔の『地球の歩き方』の手書きの地図のようなものである。年配のバックパッカーは御存じだと思うけれど、あの地図は、実際に現地を歩いたスタッフが作っていたので間違いが多くて『地球の迷い方』とも呼ばれていた。だが、それしかないので、多少不正確でも、とても役に立った。同じようにこの地図が誰かの役に立つことを願っている。)
2 3つの領域
早速、僕なりの地図を描いていくことにしよう。
『何何何』は、Any-ness(任意性)について論じられた本だが、この本で述べられていることは、大きく3つの領域に区分できるように思う。
1 現実性と任意性の関係
2 同一律を導くまでの任意性
3 同一律を導いてからの任意性
の3領域である。
章立てとおおまかに対応させるならば、
「1 現実性と任意性の関係」:「第8章 Any-nessと現実性」
「2 同一律を導くまでの任意性」:「第3章 Any-nessと時間」、「第4章 Any-nessと時制・アスペクト」、「第5章 Any-nessと論理」の前半、「第7章 Any-nessと人称」
「3 同一律を導いてからの任意性」:「第1章 Any-nessという概念」、「第2章 Any-nessと潜在性」、「第5章 Any-nessと論理」の後半、「第6章 Any-nessと様相」
となる。
3 同一律以前と以後
このうち「1 現実性と任意性の関係」という領域の設定については多分異論はないと思うが、「2 同一律を導くまでの任意性」と「3 同一律を導いてからの任意性」の区分は説明が必要だろう。
なぜ、あえて5章の途中で登場する同一律で区分するのだろうか。
それは、同一律によって、ようやく「P」が導入されるからである。
入不二は同一律について、「同一律(P=P)は、それが表現しようとする「同一性」に反する「差異性」を・・・「封印・凍結」することによって、成立している。」(p.102)と述べる。
つまり、本来、Any-nessに満ちている「P」を、常識的な「P」、つまり安定して常に同一律が適用できるような「P」とするためには、Any-nessの「封印・凍結」が必要なのである。
このように導入された「P」こそが、あらゆる「ものごと」の代表例としての「P」である。この「ものごと」としての「P」とは、入不二の用語にもとづくならば、「存在」であり、静的に「ある」ということである。そこから常識的な理解に基づいた世界描写が始まると言ってもいい。
つまり、「2 同一律を導くまでの任意性」と「3 同一律を導いてからの任意性」の区分とは、「常識的な世界描写に至るまで」と「常識的な世界描写に至ってから」の区分のことなのである。
4 同一律の要否
『何何何』をお読みいただければわかると思うけれど、時間と人称に関しては、「P」のような「ものごと」が登場しなくても議論を始めることができる。(時間については、「P」のような「ものごと」が登場することを、状態変化として退けもする。)
時間と人称に関しては、議論がある程度まで進んだところで、議論の結果として、ようやく「P」という「ものごと」が登場するのである。
一方で、冒頭のタマ(ネコ)が登場する分節化の議論や、(同一律以外の)論理や様相の議論については、「タマ(ネコ)」という例が象徴するとおり、まず、「P」のような「ものごと」が登場する常識的な世界が出発点にある。そこから、「同一律(P=P)」の「封印・凍結」を解除し、そこで生じる隙間や揺らぎを手掛かりに、「ものごと」の「存在」の手前にあるはずの任意性の問題に遡っていくように議論が進められるのである。
5 不定の全体
ここで問題となるのが、時間と人称に関する議論は、「同一律(P=P)」や「ものごと」が「存在」する常識的な世界を出発地点としないならば、何を出発地点に置くのか、である。
その答えは、「不定の全体」としてのAny-ness(任意性)である。
入不二は、「不定の全体」としてのAny-nessを出発地点として、「2 同一律を導くまでの任意性」についての議論を行うのである。
なお、ここで「2 同一律を導くまでの任意性」と「3 同一律を導いてからの任意性」で登場する任意性とは同じものかどうかが問題となる。
つまり、「2 同一律を導くまでの任意性(不定の全体)」と「3 同一律を導いてからの任意性(隙間・揺らぎ)」が同じものかどうかである。
この問題に答えるためには深い考察が必要であり、ここでは断言できないが、入不二が行った「縦の潜在性」、「横の潜在性」という描写が参考になるだろう。(pp.213-214)
これは、任意性ではなく潜在性についての区分なので、あくまで類推適用とはなってしまうが、とりあえずは「不定の全体」を横の任意性、「隙間・揺らぎ」を縦の任意性としておきたいのである。
「不定の全体」と「隙間・揺らぎ」は全く同じものではないが、全く異なるものでもない。それならば、この二つは任意性が持つ二つの別の側面だと捉え、縦と横の関係と仮定しておけば混乱が生じないのではないか。
上下や左右だと、そこに対立や、派生(同じことの別の現れ)のような何らかの関係を読み取ってしまうので、縦と横としておくのがいいと考えるのである。
(なお、僕は、「不定の全体」と「隙間・揺らぎ」が同じことを指していると捉え、混乱してしまった。)
6 現実性と任意性の関係
さて、『何何何』は大きく分けて3つの議論領域にまたがっている。
1 現実性と任意性の関係
2 同一律を導くまでの任意性
3 同一律を導いてからの任意性
の3領域である。
これらのうち、「2 同一律を導くまでの任意性」と「3 同一律を導いてからの任意性」については、僕なりにきちんと述べたいことがあるので、別の文章で論じていきたい。
(そこで、うまくいけば、不定の全体としての任意性と、隙間・揺らぎとしての任意性の関係についても論じたい。)
残る「1 現実性と任意性の関係」については、この文章で取り上げることにしたい。
なぜ取り上げるかというと、ここにも混乱がありえて、混乱を避けるために地図が役立つと考えたからである。
現実性と任意性の関係については第8章で論じられており、そこでは、現実性と任意性は「パラレル」(p.199)、「働き方はさらに近づく」(p.217)といった描写がなされ、その類似性が強調されている。だが、一読したとき、僕は、似ていることはよくわかるけれど、一方で何が違うのかがよくわからなかった。これが混乱である。読み直すことで、この混乱を避ける方法についても気づきがあったので、それを地図に書き残したいのである。
振り返ってみれば、僕が混乱したのは、第8章の論じ方が、あくまで任意性の側から両概念の関係性を捉えたものだったからだろう。(任意性について書くというこの本のテーマ設定に沿った描写ではある。)
任意性の側から捉えるならば、現実性と任意性の類似性ばかりが強調されるのは当然である。だが、よりニュートラルな(ただし本来、不可能なはずの)現実性と任意性を俯瞰で眺める視点に立つならば、その関係性をより明確に捉えることができるのである。
そのような描写が第8章ではなく、別の二つの箇所にある。
それはまず、「「外のない内」は、Any-ness(任意性)を介した「ベタな外(内のない外)」の反転した対応物であるとも言える。」(p.109 註(27))という註の中の一文である。(ここでの「ベタな外(内のない外)」とは現実性のことである。)
もうひとつが「人称システムの「動性」の極端化(3)」(pp.192-193)という一節である。その節には「どんなに拡張され・書き換えられた「私たち」によっても内部化され得ない「外」の残存、あるいは非コミュニケーション的な「外」の介入であり、他者の絶対的な外部化である。」という記述もある。(ここでの「拡張され・書き換えられた「私たち」」とは任意性のことであり、内部化され得ない「外」とは現実性のことである。)
この二つの記述は、(本来、不可能なはずの)現実性と任意性を俯瞰で眺めた視点に立ったものであり、だからこそ、重要な描写なのである。
7 反転・独特の介入
この二つの記述のなかで特に重要なのは、現実性と任意性が「反転した」対応物であり、その関係性が「非コミュニケーション的な介入」であるという箇所である。(なお、コミュニケーションという表現が登場しているのは、人称システムにおける任意性に関してはコミュニケーションが重要な役割を果たしているからである。よって、ここでは「任意性の働き方とは異なる現実性独特のやり方での介入」という程度に理解しておけばよいだろう。)
これらの記述を鵜呑みにするならば、やはり現実性と任意性との間には大きな違いがある。(当初、僕は同じものの現われ方の違いにすぎないと考えていた。)
そのうえで、その違いとは、現実性が任意性と関わるとき「反転」が生じ、そして、(任意性内部の動性とは異なるかたちでの)独特の介入の仕方をするというかたちで現れることも明らかとなった。
ただ、入不二の記述からはそれ以上を読み取ることはできない。この「反転」「独特さ」は、あくまで手掛かりにすぎない。どのように反転し、どのように独特かは僕自身が考える必要がある。
8 光合成
実は僕自身には、その考えがある。だが、この文章は地図に留めたいし、書き始めたら、かなりの長文になってしまう。
そこで、書くかどうか迷ったのだけど、ここで登場した「反転」「独特さ」のイメージを伝えるのに役立つかもしれないので、僕自身の考えを予告編としてだけ付け加えておこう。つまり、ここからは、冒頭の宣言に反して、単なる地図ではなくなってしまう。
僕の考えによれば、現実性と任意性の関係とは、比喩を用いるならば、光合成のようなものなのではないだろうか。
太陽の光が「現実性」であり、太陽の光から光合成により変換され、植物の中に満ちている生命のエネルギーが「任意性」である。
外と内という向きに留意して描写するならば、外から植物の内側に降り注ぐ、外から内への太陽の力が「現実性」の力であり、植物の内側に満ちて外にほとばしろうとする、内から外への生命の力が「任意性」の力である。
入不二の「反転」とは、この外と内との反転関係のことなのではないだろうか。
そして、この比喩で重要なのは、植物はマテリアルだということである。(科学的には不正確だけど、イメージとして述べるならば)光合成とは、外から植物というマテリアルの内側に降り注ぐものである。これは、マテリアルを透過しているという点で、植物の組織(マテリアル)内で作用する生命のエネルギーとは異なる働きである。この「透過」性こそが、現実性が、任意性の内側で働く際の、任意性の働きとは異なる「独特さ」なのではないだろうか。
これが、僕が「反転」「独特さ」から読み取ったイメージである。
なお、マテリアルとは入不二哲学においては潜在性について用いられる表現である。勇み足かもしれないけれど、僕は、次のように描写したくなる。
現実性の力は、マテリアルとしての潜在性の領域に降り注ぐ。そして、現実性の力は潜在性の領域においては任意性の力として反転する。(勇み足を重ねるならば、その力が潜在性の領域からほとばしったとき、それは実在性と呼ばれるようになる。)
これが、僕が抱いた予感めいたイメージである。今後、きちんと書いていきたい。
9 地図
最後に、この文章のタイトルどおり、地図を描いて終わりにしたい。
ただし、第8節の僕の勝手な予感は除いたものとなっている。
1 現実性と任意性の関係(のうち第8章の描写)
1´現実性と任意性の関係(のうち2つの描写) ※現実性と任意性の関係を俯瞰で見ている。
2 同一律を導くまでの任意性(時間と人称)
3 同一律を導いてからの任意性(論理、様相など)
※任意性のところで二つの矢印が直交しているのは、第5節の縦と横の区別を表現したもの。
※実在性はこの文章には登場しないけれど、存在と任意性の間に位置づけるのが適当と考え書き加えた。