※2,600字ちょっとあります。かなり哲学濃度薄めです。お金を使い切ってから死ななくてもいいじゃん、という話。

お金とは潤滑油のようなものではないかと思いついた。

人と人がコミュニケーションをとるとき、お金が介在することで円滑になることもある。そのような意味で、お金とは潤滑油のようなものだ、ということである。

なぜ、そんなことを思いついたかというと、『DIE WITH ZERO』というビジネス書のことを考えていたからだ。

※ 以前、僕は、『お金と仕事 -『DIE WITH ZERO』を読んで-』という文章も書いています。https://dialogue.135.jp/2025/11/08/dwz/

『DIE WITH ZERO』とは、タイトル通り、「お金を使い切って死ね」ということであり、世間でもそのように理解されている。

だが、僕は、この本のキモは、「必要以上に働いてお金を貯めすぎるな」のほうにあって、「(貯まったお金を)使い切って死ね」のほうにはない、という気がずっとしていた。人生において、お金を使うかどうかが、本質的な問題のはずがない。

そのような漠然としたイメージを言語化したのが、「お金とは、潤滑油のようなものだ」というアイディアである。

それは実際にお金を支払う場面を考えてみれば明らかだろう。

お金は、財やサービスの対価として支払われる。ラーメン屋でラーメンを食べれば店長にお金を払うし、タクシーに乗れば運転手にお金を払う。

だが、ラーメンにせよタクシーにせよ、常にお金を伴うものでもないはずだ。もし僕が店長・運転手の家族だったらお金は払わないだろう。または、僕が彼らの命の恩人だったとしても、きっとお金は要らない、と言われるだろう。人と人の間に深いつながりがある場合には、お金を払わなくても、財やサービスの提供を受けることはありうる。

そして、重要なのは、お金を払う必要がある場面と、お金を払わなくていい場面とで比較するならば、お金を払わなくていいほうが望ましい、ということである。

なぜなら、ラーメン屋の店長もタクシー運転手も、見ず知らずの僕に提供するよりも、きっと、家族や恩人に提供したほうがうれしいはずだからである。

思考実験的な場面を想像してみよう。ある世界では、すべての人たちが全くの赤の他人で、お金のやりとりを介して財やサービスが提供されるとする。そして、もうひとつの世界では、すべての人たちが家族・友人・恩人で、お金などなくても財やサービスが提供されるとする。(それも、偶然にも、お金を介したのと同程度に、適切なかたちで財やサービスが交換されたとする。)

この二つの世界を比較し、どちらの世界が望ましいかというと後者である。そのような意味で、お金を払わなくていいほうが望ましいのである。

だから、僕がラーメン屋でラーメンを食べる際に、最も望ましいのは、その店長の家族や恩人になることである。この人になら、お金抜きでラーメンを食べてもらいたい、と店長に思ってもらえるような存在になることである。

だが、そのような関係性を構築することは大変な負担なので、次善の策として、僕はお金の力を借りている。錆びたねじを力ずくで回すのは大変なので、力を込める代わりに、油を差すのと同じことである。

そのような意味で、大事なのは、たとえ一見の客だとしても僕と店長との人間関係であり、お金は、その人間関係を円滑にするための潤滑油に過ぎないのである。

当然、たいして日曜大工もしない僕が、何リットルも潤滑油を準備する必要はない。同様に、何十億円ものお金を稼ぐ必要はない。

だが、すでに手元に潤滑油があるならば、潤滑油が余ったらもったいないから使い切ろう、とは思わない。同様に、すでに手元にあるお金を使い切る必要はない。僕はそのように考えているのである。

きっと、お金を使い切らなければいけない、と考えている人は、お金に固有の価値があると考えているのだろう。経済学でも交換価値や使用価値などと言われる。

だが、この価値という捉え方がすでに怪しい。お金にせよ、ラーメンにせよ、「物」に価値などないのではないだろうか。

もしこの世に固有の価値というものがあるとするならば、人間関係と、そこで生じる「人間に対する思い」の交差にこそ価値があるのではないか。ラーメン屋の店長には、家族にせよ僕にせよ、この人にラーメンを食べてもらいたいという思いがある。そして、店長の家族にせよ僕にせよ、その店長の思いを受け止め、そして店長に対して感謝の思いを持っている。そこにこそ価値がある、ということである。

この価値に比べれば、ラーメンのおいしさ自体や、数時間余分に生きるために必要なラーメンの栄養自体など価値がないも同然なのではないだろうか。人間に対する思いがないままに、快感を覚えつつ生きながらえることに何の価値があるのだろう。

これは、極端すぎる考え方と思われるかもしれない。だが、臨終のとき、人の笑顔を思い浮かべ、もう一度会いたいと願うことはあっても、ラーメンを食べたかったと願うことはないだろう。

そのような究極の場面を思い浮かべるならば、本当に大事なものが見えてくる。人間にとって、大事なのは、物ではなく人である。

人は、哲学的にはともかく、実感として、自分を満足させれば、それだけで幸せになれる存在ではない。人は、他者を満足させることによって、ようやく幸せになることができるような存在である。そのような意味で、大事なのは人なのである。

そのように考えれば、僕が言っていることは、それほど極論でもないように思う。

お金という潤滑油は、それなしでは生じなかったかもしれない人間関係を生じさせる。また、他者を満足させるために必要な円滑な財・サービスの交換を促進させもする。よってお金には(理念的な意味での)正の価値があることは確かである。(また、人間関係が重要という考えとは相反するが、現実には、過剰な人間関係のしがらみを緩和し、負担のない範囲で人が生きることを可能にもする。これは実践的な正の価値と言ってもいい。)

だが、潤滑油の滑りのよさが、逆に仇となり、人間関係に固有の価値を見えにくくしてしまう。そのような意味で、お金には負の価値という側面もある。つまりお金には二面性があるのである。

「貯めたお金を使い切れ」などという勘違いが生じてしまったのは、潤滑油の滑りのよさにより、「物より人」という、子供の頃ならば誰もが知っていたはずの当たり前の事実を見失ってしまったからではないだろうか。