※入不二先生の『何何何』という本について書いた第何弾かです 5,500字少々あります

1 入不二の動画

入不二が動画で『何でもいい何かって何? Any-nessの哲学』(以下『何何何』)という、このブログでも何度か取り上げている本の話をしていた。

動画のURL:

そこでの話とは、ざっくり書くと、「自分がやっている哲学は「遊び」だ。そして、その「遊び」は、『何何何』で論じた、概念を宙吊りにして隙間を空けて(「遊び」を設けて)動かすこととつながっている。」というようなものだった。

また、対談相手の人が「入不二哲学を知ると、デカルトやカントといった昔の哲学者が論じていることもわかりやすくなる。入不二哲学は、宙吊りにして隙間を開き、そして、その隙間を閉じるという運動を重視しているけれど、デカルトやカントがどこで閉じているかが見えやすくなる。」という話もしていた。

この二つの話が僕の中でつながり、思いついたことがあるので、書き残しておく。

2 「遊び」という営みについての本

まず、僕が指摘したいのは、「宙吊り」や「隙間」といった言葉は、たしかに最新刊である『何何何』で登場する。(前著の『現実性の極北』でも登場したかもしれない。)だが「宙吊り」や「隙間」を用いて概念を動かすことは、入不二がこれまでも常にやっており、(あえて断定するならば)生まれながらに行っている、ということである。

たとえば、『あるようにあり、なるようになる』は「概念を動かしてみる」というプロローグから始まるし、『足の裏に影はあるか?ないか』というエッセイ集には、入不二が哲学者としてのキャリアを始める以前のごく初期からの「概念を動かす」実例が満載されている。

世間での定義とは違うかもしれないが、入不二にとっては、はじめから、この「概念を動かす」という営みこそが「哲学」なのである。

だから、入不二が『何何何』で行ったことは、自らが生まれながらに行ってきた「哲学」の原理の解明だったと言えるだろう。入不二にとっての「哲学」つまり「概念を動かす」という営みは、常に「概念を宙吊りにして隙間を空けて(『遊び』を設けて)動かす」ことであり、そして「概念を用いた(playとしての)『遊び』」だったのである。

そのように考えるならば、入不二がこの動画でも言っていたように『何何何』を極めて短時間で書けたことには不思議はないだろう。この本は、入不二自身の営み自体についてのものだから、そこには何の制限もなく、きっといくらでも書けてしまうのである。遊びについて遊びとして書けてしまうということである。

3 私的な営みとしての入不二哲学

ところで、僕は、入不二が書く本について、自分だけに関心が向かっているという印象を持っていた。多くの哲学が多かれ少なかれそうだとは言え、ここまで自分だけに向かった私的なあり方をした哲学は、そう多くないと僕は思っていたのである。

私的というと、ニーチェや永井均といった哲学者を連想するけれど、僕が着目したいのは、哲学者が書いた哲学の内容ではなく、書く姿勢である。

入不二は、他の哲学者と比べても、その哲学の成果を読者や世間に伝えたい、という意識が乏しく、哲学をただ私的に実践し、ただ披露しているだけのように、(入不二の本心は知らないけれど)僕からは見えていたのである。

このような僕の印象も、入不二哲学とは「遊び」という極めて私的な営みだと考えれば合点がいく。(そして、「遊び」の成果を子供のように無邪気に自慢していると考えれば、なおさら合点がいく。)

加えて、だからこそ、と言うべきか、それにもかかわらず、と言うべきかよくわからないけれど、入不二が書いた内容は、その私的な姿勢に反して、極めて普遍的なものとなっている、という点も重要な入不二哲学の特徴だろう。

これらの特徴が、特に顕著に表れているのが、この『何何何』だと僕は思うのである。それは、この本が、入不二自身の営み自体についての本なのだとすれば当然のことなのだろう。

4 「哲学」と「哲学する」

ここまで述べてきた(他の哲学と比べた)入不二哲学の特徴を際立たせるためには、彼が行っていることは、「哲学」ではなく「哲学する」である、と捉えるのがよいだろう。

なぜなら、入不二が行っていることを「概念を動かす」という動詞で捉えられるのなら、「哲学」という名詞で捉えるより、「哲学する」という動詞で表現したほうがしっくりくるからだ。

そのように名付けることで、デカルトやカントといった他の哲学者がやっていることも捉えやすくなる。彼らがやっていることは、入不二との対比を際立たせて述べるならば、「概念の固定」なのである。だから、彼らが哲学書に書いているのは「固定された概念」という名詞で表現できるものであり、そのような意味で、彼らがやっているのは名詞としての「哲学」だと言える。

このように入不二の「哲学する」と、デカルトやカントの「哲学」というように対比することができる。

5 概念を動かして固定する

当然ながら、デカルトやカントは「概念の固定」ばかりしているわけではない。たとえば、デカルトは、「疑い」概念を、それまで誰もしなかったようなかたちで動かし、それによって「存在」概念を、コギトというとんでもない地点まで動かしたとも言える。

だが、彼らにとっては、それまで固定していた概念を動かした後の再固定が重要である。

なぜなら、動かした概念を再固定し、構造化することで、あらたな哲学が生まれるからだ。デカルトならば、「存在」概念を動かし、新たな「存在」概念を固定化することで、独自の存在論をつくりあげたと言えるだろう。

一方の入不二も、「現実性」や「Any-ness」といった概念をつくりあげ、概念を固定化する。だが、入不二にとっては、名詞で表現された(「現実性」や「Any-ness」といった)概念は、あくまで便宜上のものに過ぎない。そして、その固定化された概念を用いて構築される構造も、あくまで便宜上のものに過ぎないのである。

そのことを示しているのが、入不二がしばしば図で用いる矢印である。入不二は、図を用いて、自らの論を構造化して示すことが多い。だから、入不二哲学とは構造化された哲学と捉えられがちとも言える。だが、入不二の構造とは、あくまで、矢印が象徴するとおり、動的な構造なのである。

そして、動的な構造は、オーロラのように刻一刻とかたちを変え、唯一の構造の描写には収まらない。その動性を矢印が示しており、一つの図には書ききれないからこそ、入不二は図を多用するのだろう。

デカルトやカントは、概念を動かした上での「概念の固定」による「哲学」の構築を目指したが、入不二は、「概念の固定」とは「とりあえず」の固定であり、あくまで「概念を動かす」という動詞としての「哲学する」を追求する。入不二と他の哲学者の間には、このような違いがあるのである。

6 副詞

入不二哲学における「現に」や「実は」といった「副詞」の重要性も、この違いに由来するように思う。

他の哲学者における概念の構造としての「哲学」とは、いわば「名詞」と「形容詞」の世界である。「名詞」で捉えられた「ものごと」を、「ものごと」相互の関係性として構造化し、その関係性を「形容詞」(的な名詞にかかる言葉)で記述する。「ウサギよりのろいカメ」「机の上のコップ」というように。

一方で、入不二の「哲学する」とは、いわば「動詞」と「副詞」の世界である。「動詞」で捉えられた「営み」を、「営み」相互の関係性として構造化し、その関係性を「副詞」(的な動詞にかかる言葉)で記述する。「蛇がいると思ったら、実は、ロープだった」というように。

入不二哲学は「哲学する」で象徴されるように「動詞」的なあり方をしているから、その表現にあたって「副詞」的な言葉が重要となるのである。

ただし、入不二哲学において、使われる副詞はそう多くない。僕が実例として挙げられるのは「実は」という副詞だけである。なぜなら、僕の理解では、入不二哲学における関係性とは「落差」のことであり、その落差は「実は」という副詞で捉えられるものだからである。(他にも、入不二哲学では「現に」という副詞も重要だが、これは無関係性を表す副詞だと言える。)

なお、『何何何』で、入不二は「何でもいい何か」という言葉をAny-nessを示す副詞的な表現として用いている。これについて、僕の思い付きだけど、その副詞らしさを徹底するならば「何はともあれ」「とりあえず」といった副詞(的な言葉)で言い換えられるのではないだろうか。英語で言えば「anyway」である。

「何はともあれ、コップがある」「とりあえず、コップがある」と書けば、「コップでなくてもよかったけれど、コップだった。だけど、コップでなくてもいい」というAny-nessの感じを表現できているように思える。(この「何でもいい何か」「何はともあれ」「とりあえず」とは、関係と無関係の中間を示す副詞だと言えるだろう。)

7 とりあえずのまとめ

この「とりあえず、コップがある」というAny-nessについての描写は、さきほどの第5節の最後での「入不二は、「概念の固定」とは「とりあえず」の固定であり、あくまで「概念を動かす」という動詞としての「哲学する」を追求する」という入不二哲学の描写とつながっている。

さらには第2節での僕の指摘ともつながっている。

「入不二が『何何何』で行ったことは、自らが生まれながらに行ってきた「哲学」の原理の解明だったと言えるだろう。入不二にとっての「哲学」つまり「概念を動かす」という営みは、常に「概念を宙吊りにして隙間を空けて(『遊び』を設けて)動かす」ことであり、そして「概念を用いた(playとしての)『遊び』」だったのである。」

と僕は述べた。

入不二の『何何何』での議論とは、入不二が行ってきた「哲学する」という動詞としての営みについての副詞的な解明だったのである。

8 内部性の閉塞感

だが、この「哲学する」という営みも、書物として完成させるために書き終えられなければならない。(または言明として成立させるために語り終えなければならない。)つまり他の哲学者の哲学と同様に、名詞の「哲学」として閉じられなければならない。

そのとき、入不二哲学における「何でもいい何か」(「何はともあれ」「とりあえず」)という副詞(的な言葉)はAny-ness(任意性)という名詞として概念化されることになる。

だから、すでに書かれた入不二哲学(例えば『何何何』という本)は、閉じられたものとなる。入不二は、『何何何』において、Any-ness(任意性)の内部性について強調しているけれど、その内部性は、この営みの閉じに由来しているのだろう。

僕は、この閉じられた内部性に閉塞感を覚える。

だから僕は、実は、『何何何』よりも、それ以前に書かれた『現実性の問題』や『現実性の極北』のほうが好きだった。なぜなら、「現実性」とは、その内部性にとっての外部そのもののことだからである。語り終えられ閉じられた内部であろうが、なかろうが、そんなことはお構いなしに遍在しているのが現実性の力である。そんな全ての哲学的議論を台無しにするような現実性の話が僕は好きだったのである。

(ただし「現実性」も概念化されているという点で、すでに閉じられ、内部化されざるを得ず、現実性の力の遍在性といった議論自体が不可能だという問題がある。)

9 内における外

だが、先日の動画を観て、『何何何』の、そしてAny-nessの魅力に気づかされた。

ここで入不二が強調しているのは「概念を宙吊りにして隙間を空けて(『遊び』を設けて)動かす」ことの重要さである。

この「宙吊りによる隙間」とは、「内における外」のことなのではないだろうか。『何何何』を含めたすべての議論は、語り終えられているという点で内部に閉じられている。だが、その内部においても「概念を宙吊りにして隙間を空けて(『遊び』を設けて)動かす」という哲学の営みの軌跡を書き残すことはできる。その軌跡を読者が遂行的にたどり直すことによって、「内における外」を読者自身がこじ開けることができる。

(その遂行を後押しするために、さまざまな動性に満ちた表現も入不二は行う。)

そのこじ開けられた穴こそが、入不二が「気孔」と呼んだものなのではないだろうか。

「気孔」を通じてのみ、閉じられた「哲学」の内部において、「哲学」の外の現実性にアクセスすることができるということである。

つまり、『何何何』とは、哲学の外にある現実性を描くという、本来、哲学においては不可能なはずのことを成し遂げるメカニズムを描いた本だとも言えるのではないだろうか。

10 内側と外側

なお、ここに動画のなかで入不二が三兄弟と呼んでいた本、つまり『現実性の問題』、『現実性の極北』、『何何何』という三冊の本の違いがあるように思う。

『現実性の問題』と『現実性の極北』では、本来内側からは描写不可能な現実性について、まさに(不可能を可能とするという)力業で外側に立ち、神の視点から描写することで可能とし、現実性の力を解放するという論の進め方をしていた。一方で、『何何何』では、内側に立ったままで、「内における外」という理路をAny-nessに見出し、Any-nessを通じた現実性の力の描写を行っている。

外側に立つ『現実性の問題』と『現実性の極北』、あくまで内側に立つ『何何何』という違いがあるのである。

(ちなみに、この三兄弟よりも前に書かれた『あるようにあり、なるようになる』は、この文章の流れで述べるならば、「内側に立つこと」について論じた本だとも言える。)

※入不二先生については何度か書いているので、前も似たことを書いていたらすみません。