※5,000字弱あります。今日は家で業者の作業の立ち合いだったので、執筆が捗りました(笑)

1 思想と宗教の違い

いわゆる哲学には、探求の過程としての「哲学」と、探求の結果としての「思想」という二つの側面がある。僕は探求の過程の重要さを強調するため、そのように区分したけれど、やはり、哲学においては、探求の結果としての思想も重要ではある。

この文章では、そんな話をしていきたい。

「哲学」と「思想」について論じた文章

思想について論じるうえで、まず考えたいのが、宗教との違いである。

思想とは、ある人物(思想家と僕は呼ぶが、世間では「いわゆる」哲学者とも呼ばれる)の思索(哲学的探求)の結果として導かれたものである。たとえば、共産主義思想とは、(単純化するなら)マルクスによる思索の結果として導かれたものだと言えるだろう。

一方で、宗教とはそのようなものではない。たとえばキリスト教は、(単純化するなら)イエスによるものではあるが、イエスの思索によって導かれたものではない。イエスが持っていたキリスト教についての知識の多くは、彼が生まれながらに知っていたか、啓示として降ってきたか、奇跡として認識したか、のいずれかであり、キリスト教は、イエスによる思索(哲学的探求)の成果物ではないからである。(僕はキリスト教について詳しくないので、推測で書いていることはご容赦いただきたい。)

思想とは、その人の思索(哲学的探求)の結果であるのに対して、宗教はそうではないという違いがあるのである。

2 思想と宗教の受け入れられ方

ただし、その違いはその思想書や哲学書の内容、または、マルクスやイエスといった筆者の意図によって定まるものではないだろう。

(ここでは、事実を単純化し、共産主義はマルクスの思索の表現で、キリスト教はイエスの思索の表現として論じている。また、ここでは筆者・読者としたけれど、話し言葉としての思想・哲学も含むならば、筆者・読者を、聞き手・話し手と読み替えてほしい。)

その違いは、マルクスやイエスの思想や宗教の、信者や読者による受け入れられ方の違いに由来すると言うべきだろう。

宗教の信者は、イエスによる啓示、奇跡などを用いた論の進め方のすべてを理解しなくても、キリスト教を受け入れることができる。より正確には、そのような受け入れられ方をすることで、キリスト教は宗教となるのである。(だから、キリスト教を後述する思想のように読めば、新約聖書は思想書にもなる。そのような読み方を神学と呼ぶのだろう。)

そのようにして、宗教の信者は、あくまでイエスだけのものであるキリスト教を、イエスのものとしたままに受け入れるのである。

一方で、読者が思想としてマルクスの本を読み、共産主義思想を受け入れるためには、完全にマルクスの思索を理解し、本に書かれた限りでの思索の過程を自らのものとして追体験する必要がある。そのように読むことが、マルクスの本を思想書とするのである。それが、共産主義思想を、マルクスだけのものではなく、読者自身の思想とするということである。

だから、きっと一定割合の共産主義者は、マルクスの思想のすべてを理解していないという点で、共産主義という宗教を信じているにすぎないとも言えるだろう。マルクスのものである共産主義思想を、自らのものとしないまま、いわば宗教の信者のように受け入れているということである。

思想とは、本来、筆者の言葉の都合のいい部分を抜き取り、断片的に受け入れるようなものではない。完全な理解が求められる極めて厳しいものなのだと僕は考えている。

3 哲学的探求へのいざないとしての思想

僕がこのような厳格さを求めるのは、そのように捉えるからこそ、思想が重要なものとなるからである。

僕の厳格な捉え方によるならば、思想(書)は、それを理解しようとする読者に対して、思想(書)に書かれたとおりに、筆者の思索を完全に理解するよう求める。それは、読者に対して、思想(書)に書かれたのと全く同様の思索(哲学的探求)を促すということであり、つまりは、思想とは、哲学的探求へのいざないなのである。

より正確に述べるならば、話は逆であり、読者が、ある本を思想(書)として読むということは、読者がその本に書かれた思想を哲学的探求へのいざないとして捉えるということだと言ったほうがいいだろう。いざなわれる側の読者が「いざない」を規定するのである。

この「いざない」としての働きこそが思想の重要性なのではないか。

僕は、探求の過程としての哲学、つまり結果ではなく営みとしての哲学を重視している。だからこそ、思想には、読者を探求の営みに「いざなう」という重要な意義があるのである。

これまで僕は、哲学書(思想書)など経由せず、自らの手で哲学をするという厳しいあり方こそが本当の哲学者だとどこかで思っていた。そして、それこそが生来(ナチュラルボーン)の哲学者だと考えていた。だが、世には、哲学書(思想書)を通じて「他者の思索の過程と結果」の完全な理解を目指すという、同程度に厳しく、そしてきっと面白い哲学のやり方があるのである。

4 読者の追いやすさという価値

こうして、思想というものの厳しいあり方に気づけたことで、僕は、思想・哲学(書)の価値についても考えを深めることができた。

当然、思想・哲学(書)の価値とは、第一に、そこで主張されているアイデアの独自性、正しさ、深さといったもの、つまりはアイデアの内容にある。

だが、ここまで述べた読者への「いざない」という側面を重視するならば、その思想・哲学(書)の表現の仕方が、読者をうまく「いざない」、読者が思索を追いやすいものになっているかどうかも同程度に重要なのではないか。

そして、ここに唯一、いざなわれる側の読者が規定する「いざない」に対して、筆者がコミットできる余地があると言える。筆者は、自らの思想書が読者を「いざなう」かどうかを決めることはできないが、「いざなわれやすくする」ことまでは工夫できるからである。

5 論理的精緻さ

そこで重要となるのが「論理」である。この「論理」とは、「いざなわれやすくする」ための工夫のひとつであると言えるのではないだろうか。

「いざなわれやすくする」ためには、筆者の思索の軌跡を読者が追いやすくすることは役立つだろう。そのためには、比喩の的確さや、引用の正確さも重要となるだろう。また、章立ての順序や、フォントの読みやすさといったものも関係してくるだろう。

それに加えて、論理展開を精緻にすることで、どのような読者が読んでも、筆者の意図通りに理解し、その思索を正確に追いやすくなる。つまり読者が「いざなわれやすくなる」のである。

僕は、哲学において「論理」が不当なほどに重要視されることに不満があった。論理の正しさは、哲学的には全く決着がついていないにも関わらず、たいていの哲学で、「論理の精緻さ」が前提にさえなっていることに違和感があったのである。(僕は、論理については、まだ哲学が論じていないより重要な問題があるとさえ感じている。)だが、一方で「論理の精緻さ」が哲学において重要だと言いたくなる気持ちもどこかわかる気がしていた。そのような複雑な思いがどうして生じるのかわからなかったのである。

だが、「いざなわれやすくする」ための工夫のひとつとして、その限りにおいて「論理の精緻さ」が重要だと捉えれば、少しは腑に落ちるような気がする。

哲学書における論理的精緻さは、読者への配慮として極めて重要なものではあるが、あくまで読者が正確に筆者の思索を追体験するための数ある手段のひとつにすぎないと、ここでは整理しておきたい。

6 蛇足:三つの読み方

僕としては、この文章では、哲学書における論理的精緻さについて述べたかったので、ここで話は終わりである。だが、ここまで論を進めるにあたって生じただろう問題について回収する必要があるだろう。

きっと、ここまで読んできた中で、思想書(哲学書)の読者に対して、思想の完全な理解という極めて高いハードルを設けたことに疑問を抱いたのではないだろうか。そのような読み方など不可能ではないか。

これに対する僕の答えだが、実は僕は、哲学書(思想書)には、もうひとつの読み方があると考えている。

それは、哲学書(思想書)を経由しない、生来(ナチュラルボーン)の哲学者が、自らの哲学を進めるための参考とする、という読み方である。

生来の哲学者は、つまみ食いをするように、哲学書の一部を切り取り、それを自らの哲学を補強する材料として用いる。または、あえて誤読し、自らの哲学を進めるためのアイデアとしてのみ用いる。

そのような使い方においては、読者は、完全な理解のため、筆者の思索を厳格に追う必要はない。

先ほどの、完全な理解を目指す読者が、筆者にとって望ましい(良い)読者だとすれば、このような生来の哲学者は、筆者にとっては想定外の望ましくない(悪い)読者である。

つまり、思想書を読む態度としては、完全な理解を目指す良い読み方と、そうではない悪い読み方がある。だが、ここでは、「良い」と「悪い」と表現してしまったが、思想書を真剣に読んでいるという意味では、どちらも、筆者の思索を思想として正面から受け止めた読み方だとも言える。

そして、ここにもうひとつ、冒頭で述べた、宗教としての読み方が加わる。つまり完全な理解を目指さないし、自らの哲学を進めるための参考ともしないような読み方である。これは、筆者の思索を思想として正面から受け止めない読み方であり、それが思索の記録を宗教として読む読み方である。

まとめると、思索の記録としての本の読み方には、三つあることになる。①作者の思索の完全な理解を目指す読み方、②自らの哲学を進めるための参考・材料とする読み方、③断片的な理解による全面的受け入れとしての読み方である。それぞれを、①思想書としての読み方、②哲学書としての読み方、③宗教書としての読み方と言ってもいいだろう。

そして、多分、たいていの読者は、この三つの読み方を並走させ、混在させるようにして、ある本を読むのだろう。そして、きっと、読む本によって、その割合も変わるのだろう。

僕は、大事な本は、なるべく①思想書として読み、時には②哲学書として読み、なるべく③宗教書として読むことは避けたい。そして、僕が読む本が③宗教書として読まれているのを見ると、どこか寂しくなる。

7 蛇足2:論理的精緻さ再考

この三つの読み方において、「論理的精緻さ」が果たす役割も異なるだろう。まず、①思想書として読む場合には、先ほど論じたとおり論理的精緻さは「いざなわれやすさ」として働く。

一方で、②哲学書として読む場合には、生来の哲学者には「いざなわれやすさ」としての論理的精緻さは必要ない。だが、生来の哲学者にとっても、別の意味で論理的精緻さが重要になるとも言えるだろう。なぜなら、比喩の的確さのような別の「いざなわれやすさ」の工夫に比べ、論理的な構造には再現性があり、生来の哲学者が自らの哲学を構築するにあたって移植しやすいからだ。

そして、③宗教書として読む場合には、「論理的精緻さ」は障害にもなりうる。なぜなら、「論理的精緻さ」は理解に手間がかかるからだ。そもそも、宗教書に完全な理解は不要である。それならば、一足飛びに、啓示や奇跡を用いて論を進めたほうがよい。そのほうが信じるに値する権威性も高まる。そのような観点から、世の宗教者(やポピュリズム政治家)は、宗教書として読まれる(宗教的言説と理解される)ことを狙って「論理的精緻さ」よりも啓示や奇跡を用いるとも言えるだろう。