※5,500字以上あります。1970年くらいに生まれた人のロックを描いたつもりです。

1 伝統の祭りと尾崎豊

テレビを観ていたら、僕くらいの年ごろ(もう少し若いかも)の地域の偉い人が、「伝統の祭りを守っていきたいです」というような話をしていた。明らかに、ほのぼのとした日常のニュースの一コマである。

だが、そんなありふれたニュースが妙に引っかかり、高校時代へと僕を引き戻した。僕は思った。あの頃の僕「たち」は、伝統の祭りを守るような生き方をする予定なんて立てていただろうか。

一言で言うならば、高校生の僕は尾崎豊(※)的な世界のなかで生きていた。暴走族的なヤンキーとはちょっと違う、知性と内省を伴った破壊と反逆の世界である。(※尾崎豊はそれだけではなく、愛情なども描いていたので、正確には、尾崎豊のある一面で象徴される世界である。)

そんな空気感は、当時のクラスメイトの多くと共有していたように思う。当時、音楽には力があって、たいていの友人たちが、言葉にしなくても「つまらない大人にはなりたくない」(佐野元春『ガラスのジェネレーション』)と心から願っていたように、僕は感じていた。

そんな彼らが大人になり、地域の伝統の祭りを守っている。これが「つまらない大人にはなりたくない」の実現とは、どうしても僕には思えないのである。

あの頃の友人たちはどこへ行ってしまったのだろうか。

2 尾崎豊と哲学

僕はといえば、いまだに、あの頃の感覚を、尾崎豊から哲学へと形を変えつつも抱え続けているように思う。

確かに、僕の問題は、大人という人間から、この社会、そして世界という仕組みに移っている。だから、全く同じ形はしていない。だが、高校生の頃の尾崎豊的な空気感と、世界を問い直そうとする僕の懐疑論的な哲学とは地続きである。

もし、伝統を守ることに、この世界を維持するという価値しかないとするならば、こんな世界は要らないし、こんな世界に生きる価値はない。

伝統や現状維持なんて「くそくらえ」だ。こんな世界は壊してしまって、新しい世界を手に入れたい。僕の中には、そんな衝動が蠢いている。(どの程度壊してしまうかはともかく。)

そんな僕の中の尾崎豊に従って、今も哲学をやっているような気がする。または、僕本来の破壊的な性向が、高校時代に尾崎豊的なものとして表出し、今は懐疑論的な哲学として表出しているのかもしれない。

3 「大人⇔子供/大人」から「大人⇔子供/子供」

僕の哲学の尾崎豊的な意味合いについて、簡単な哲学的説明を試みよう。

この「いわゆる」現実の世界は、入不二基義の「先行分母構造」を用いて「大人⇔子供/大人」と表現することができる。

まず、分子の「大人⇔子供」に着目すると、これは尾崎豊的な純粋な「子供」と、「(学校の)先生」(尾崎豊『卒業』)のような、子供から見える限りでのつまらない「大人」との対立を意味している。そして、子供は「つまらない大人にはなりたくない」なんて思う。

だが、人は高校を卒業し、働き、家族を持ち、やがて分母としての「大人」にも気づく。「(先生のような)大人⇔(純粋な)子供」という対立構造を支えているのは、泥臭い「大人」なのである。大人は、会社の理不尽さに苦しんだり、地域の祭りのような些細なことに喜んだりしながら、何とか生きている。そんな営みが、社会を根底から支えているのだろう。

これが、「大人⇔子供/大人」という「いわゆる」現実の世界のあり方である。

こんな捉え方に対して、僕の懐疑論的な哲学は異論を挟む。

いや、本当の世界とは「大人⇔子供/子供」というあり方をしているのではないか、と僕は呟く。

「大人⇔子供」の根底には、破壊と反逆としての「子供」性があり、子供の純粋な破壊衝動は、すべてを懐疑に付すことができる。どんなに大人が子供による破壊を乗り越え、うまく社会を構築したつもりになっても、哲学的懐疑はそれをどこまでも台無しにすることができる。その懐疑・破壊の先行性を分母の「子供」は示している。

「大人⇔子供/大人」から「大人⇔子供/子供」への逆転、革命こそが懐疑論的な僕が目指すものなのだ、と捉えることもできる。

これが、僕の哲学の中にある尾崎豊的な側面である。

4 反逆ごっことしての懐疑論

もしそのとおりならば、僕だけは、哲学というかたちで高校生の頃の純粋さを保つことができている。一方で、高校時代の友人たちは、あの頃、暗黙裡に交わしていたはずの革命の約束を破った裏切り者である。そんなふうに僕は無意識に考えていたように思う。

だが、考えてみれば、本当にそうだろうか。はたして僕は、懐疑論的な哲学によって、この世界を破壊し、反逆することができているのだろうか。

僕がやっていることは、あくまで、哲学という枠組みに守られた、内輪での反逆ごっこになってしまっていないだろうか。

なぜなら、「大人⇔子供/大人」から「大人⇔子供/子供」への逆転という表現そのものが、構造化されてしまっているからである。何らかの構造として語ることは、いわば、哲学の枠組みそのものであり、僕を含めた哲学者は、その枠組みから(多分)逃れることはできない。

「つまらない大人」とは、(学校制度のような)枠組みに守られ、安住している大人のことだろう。それならば僕も、哲学という枠組みに守られた哲学者という、つまらない大人になってしまっているのではないか。

この哲学の枠組みとは、つまり言葉のことである。僕がこれまで行ってきたのは、懐疑論という哲学、つまり言葉を用いた反逆である。

言葉を用いているからこそ、言葉という枠組みに守られ、安全地帯から反逆ごっこができてしまっているのである。

5 僕たちは大人になる

これでは僕が裏切り者と思ってきたクラスメイト、あるいは、伝統の祭りを守っているテレビの中の人と変わりはない。

あの頃の僕たちは、すでに何かに守られて「反逆ごっこ」をしていたのだろう。例えば、お金や家族や友人といった何かである。

大人である親に養ってもらってるくせに、大人に反逆したつもりになってるなんて甘すぎる、なんてことは当時も言われていたことだ。

そして、抽象度を上げるならば、僕たちを守ってくれている「何か」とは、言葉と、もうひとつ、感情や情念といった人の心に行きつくと思う。特に、わかりやすいのは友情や愛と呼ばれるものである。

あの頃の僕たちは、少なくとも、友情や愛は信じていただろう。それはつまり、それらの存在(または、手に入れていない場合には存在するはずという希望)に守られながら、反逆をしていたということである。

実は、僕は今まで気づかなかったけれど、当時から、友情や愛といった枠組みに守られた「反逆ごっこ」だと自覚していた友人も多かったのかもしれない。当然、ここで展開している「反逆ごっこ」といった用語は僕の創作であり、彼らはそのような言葉遣いで考えていなかっただろう。他の言葉遣いをするならば、たとえば、大人の中にも「(避けるべき)つまらない大人」と「(目指すべき)愛や友情を持ったつまらなくない大人」がいる、と当時から考えていた友人も多かったのではないだろうか。(僕はといえば、「大人」概念を普遍化する哲学者の癖で、今の今まで、大人はすべてつまらない大人だと思って生きてきた。)

それがつまり、「愛や友情を持ったつまらなくない大人」になることができる世界を信じるということであり、愛や友情といった人の心の存在を信じ、それを人生の基盤に置くということであり、そして、愛や友情の存在が担保された世界という枠組みに守られて生きるということである。

そして、何かに守られて生きていることに気づくことが、大人になるということである。

高校生の頃から、すでに大人だった友人もいるだろうし、僕のように年を重ねてようやく気づき、「反逆ごっこ」をやめた友人もいるかもしれない。

いずれにせよ、冒頭の僕の違和感は的外れであって、テレビの中の伝統を守る地域の偉い人は、非難されるいわれのない、立派なことをしている。彼のような人こそが、この世界を信じ、反逆ごっこに興じる高校生も包み込み、この世界を支えるまっとうな大人なのである。

そのように考えるならば、僕の「大人⇔子供/子供」という逆転、革命を目指す懐疑論は端的に誤りであって、やはり「大人⇔子供/大人」なのだろう。「大人⇔子供」の根底には、その対立の営みを支える「大人」があるのである。

6 オトナノススメ

これで話を終えてしまっていいのだろうか、と考えていたら、怒髪天というバンドの『オトナノススメ』という曲を思い出した。

ボーカルの増子直純は僕などよりはるかに破壊と反逆が似合うバンドマンだ。その彼が「大人は最高」と歌うのが、『オトナノススメ』である。

先ほどの大人と子供の対立構造によるならば、かなり子供寄りである増子が「大人は最高」と歌うのが、僕にとってのこの曲の魅力である。

考えてみれば、最初から疑いもなく「大人は最高」と思っている人が「大人は最高」と歌っても響くものがない。増子は、奥底に「子供」を抱え続けている。そのせいで大変なこともあるけれど、それでも「子供」を抱えたままの「大人」となり、そして「大人は最高」と歌うのである。だからこそ、この歌は心に響く。

彼の歌をこの文章に沿って解釈するならば次のようになるだろう。

世界は確かに「大人⇔子供/大人」だ。だけど、心のどこかに「大人」という分母に取り込まれ切らない「子供」を抱えつつ、大人は生きていくことができる。傷つきながらも、苦しみながらも。

これは、分母の「大人」を認めつつも、分母に回収されない「子供」を抱え続けるという矛盾した態度である。

大人は、「子供」が反逆してきた、あの「つまらない大人」なんかじゃない。「大人は最高」である。だけど、その大人は、「つまらない大人」に反逆してきた「子供」と地続きでもある。そんな「子供」も込みで「大人は最高」なのである。

大人に反逆する「子供」とは「非大人」だとするならば、これは「非大人」込みの「大人」が最高だということであり、要は矛盾であり、「(非大人込みの)大人は最高」という主張は論理的には失敗している。

「大人は最高」とは、論理的には失敗とならざるを得ない、矛盾についての曲なのである。

7 マイナスとマイナス

そんな矛盾・失敗の曲を、矛盾・失敗した存在であるロックバンドのボーカリストが歌うという点が重要なのだろう。

どういうことか、クラシック音楽を奏でるオーケストラと対比してみるとわかりやすいだろう。

クラシック音楽は、「美しい」という言葉がそのまま「美しい」を意味していると捉える論理とパラレルである。そこには、矛盾や失敗は何もない。

そして、オーケストラは、美しいものを、そのまま美しく表現する。ここにも矛盾や失敗は何もない。

つまり、プラスマイナスの記号を用いるならば、クラシック音楽を奏でるオーケストラとは、プラスをプラスとして表現する存在だと言えるだろう。

一方で、僕が考えるロックな曲とは、「大人は最高」と歌うような矛盾・失敗した曲である。クラシック音楽が論理とパラレルだとするならば、ロックな曲は詩とパラレルだと言っていいだろう。

そして、ロックバンドは、美しいはずのメロディーを演奏するのに、あえてギターの音を歪ませ、ボーカルはシャウトする。ロックバンドとは美しいものを美しくなく表現する矛盾・失敗した存在なのである。

つまり、ロックな音楽を奏でるロックバンドとは、マイナスをマイナスとして表現する存在だと言えるだろう。

マイナスとマイナスはプラスである。そこにロックの魅力がある。

ロックや詩とは、自らに内在する「存在」と「表現内容」という二つの矛盾・失敗を用いて、クラシック音楽や論理では表現できない何かを表現しようとする営みなのではないだろうか。マイナスとしての主体が、マイナスの営みをするからこそ、プラスだけでは本来、到達できない何かに到達できてしまうということである。(プラスであるオーケストラではマイナスである「大人は最高」を奏でることはできないが、マイナスである増子だからこそできる。)

ただし、単に計算をするように、マイナスとマイナスでプラスになるものではないだろう。増子の存在が人生を賭けた本気の矛盾・失敗で、そして歌われる曲が「大人は最高」という人生を賭けた本気の矛盾・失敗だからこそ、そこに何かが生じるのである。

僕は、ロックという言葉に、そんな思いを込めている。

8 僕のロック

ここまで僕は、ロックについて、矛盾、失敗、不完全、子供、破壊、反逆といった様々な言葉を用いて表現しようとしてきた。だが、言葉をいくら連ねても、ロックの全体像を明らかにすることはできない。なぜなら、言葉で説明できてしまったら、それはロックではなくなってしまうからだ。

ロックとは、きっと「構え」であり「動き」そのものであり、いわば人生そのものを賭け金とした「賭け」なのだろう。僕には、そんな、下手な詩のような描写しかできない。そして、僕が行ってきたこんな不完全な描写に価値があるかどうかは、書き手としての僕自身が、ロックであるかどうかにかかっている。

僕が目指すところも、プラスとプラスだけでは到達できない地点である。それならば、増子さんが歌う「大人は最高」のように、矛盾・失敗したマイナスの僕が、矛盾・失敗したマイナスを今後も書き続けていくしかないのだろう。

だから僕はロックでありたい。つまり僕自身の人生を賭けた実践として、ロックな哲学をやっていきたい。それはつまり、この文章で受け入れた「大人⇔子供/大人」というプラスに満ちた構造をぶち壊し、この文章で僕が書いたこと自体も台無しにしたいということも含む。

僕はまだ、そんな子供じみた反逆を諦めていない、という話でした。