※2,500字くらいです。続きではあるけど、独立しています。
先日、懐疑論についての話を書いた。
そこでの結論は、現実性のような、否定・反実仮想・様相化といった概念操作を行えないものを疑うことはできない、というものだった。
そのとおりだと思う。だが、それでいいのだろうか。
思い返してみるならば、(20歳の頃の)僕がもともと問題にしていたのは「疑う」ことではなかったはずだ。僕の問題を説明するにあたって、「疑う」「懐疑」という既にある言葉は都合がよかったにすぎない。
あの頃、僕の中にあったのは、人生のスタートラインに立てていない感覚、確たる足場のない底なし沼にはまったような感覚だった。(その感覚は今も残っている。)それを懐疑論という言葉を使って表現したにすぎない。
懐疑と底なし沼には大きな違いがある。それは有と無の違いだと言ってもいいだろう。
懐疑論においては、懐疑という何らかの有がある。どのような内容の有なのかは、まさにデカルトが行った方法的懐疑によりいくらでも疑うことができる。だが、どのような内容にせよ、何らかの有があることは疑うことはできない。デカルトはその「有る」何かを「我思う」というコギトとして捉え、先日の僕の文章では「現に」の現実性と捉えた。仮に、そのような捉え方に誤りがあるとしても、何らかの「有」があることは疑うことができない。
一方の底なし沼は、スタートラインという「有」以前だという意味で「無」だと言いたくなる。足場が「無い」、底なし沼の底が「無い」という意味での「無」である。
わかりにくければ、感覚としては、若者特有の何者でも「無さ」に近い。そう言えば、多くの人と感覚として共有できるのではないだろうか。
僕は、本当は、「疑う」という「有」ではなく、足場の「無さ」、底「無し」沼、何者でも「無さ」という「無」を問題にしたかったのである。
だから、あの頃の問題は、先日書いたように、現実性という「有」は疑えないと確認することでは解決しないのである。
僕は「無」に向き合わなければならない。
だが、正面から「無」に向き合うならば、無など、どこにもない。なぜなら、無を問題とするためには、無を有と対比しなくてはならず、さらに、その対比を成立させるための土俵としての「有」を設定する必要があるからである。そのことは、入不二の先行分母の表記を用いるならば、「有⇔無/有」と表現することができる。
正面から向き合った「無」は「無」でない。この、捉え難い「無」をどう扱うかが「無」にまつわる一番の問題である。
多分、無の近似値としては、「有⇔無/有」という構造が成立する以前に遡るのがよいだろう。「有⇔無/有」とは、いわば思考の基本フォーマットである。そのフォーマットが成立する以前に遡るのである。
なぜ、「遡り」なのかというと、通常、無という言葉から連想される真空のような無では、「有⇔無/有」の内側に留まってしまうからである。例えば真空とは「物質の有⇔真空(物質の無)/空間の有」と捉えることができてしまう。
一方で、「有⇔無/有」という構造成立以前への「遡り」については、「(有⇔無/有)⇔無」と捉えることができる。そこに剥き出しの「無」を見出すことができる。ただし、すぐに、その対比構造にも「(有⇔無/有)⇔無/有」として根源的な「有」が及ぶことになる。
だから、ここで見い出された剥き出しの「無」とは実は垣間見ることしかできないものである。
このような描写こそが、近似値としてでも「無」を扱うということである。
「無」を垣間見るためには時間のような特殊(※)なものに着目し、「遡り」のような操作、ーこれを僕は「ずらし」と呼ぶー、が必要となるということである。
(※特殊なものとしては、時間のほかにも様相や人称といったものがある。また、その特殊さとは、「ずらし」が自然な形でやりやすい、という特殊さにすぎない。)
そのように考えるならば、人生のスタートラインに立てていない感覚、確たる足場のない底なし沼にはまったような感覚という捉え方は、正面から無を捉えてしまっているという点で、極めてナイーブで不正確なものだったことになる。このような捉え方は、思考の基本フォーマットからの「ずらし」の問題に無頓着すぎたのである。
よりマシな言い方としては、時間を用いて、僕の中にあるのは、人生のスタートラインに立てていない感覚ではなく、人生のスタートライン以前の「無」にいたはずの僕が、なぜか無理やり「有⇔無/有」という人生のスタートラインに連れてこられてしまったことの戸惑いだ、と述べるやり方がありうる。
または、僕の中にあるのは、確たる足場のない底なし沼にはまったような感覚ではなく、「無」にいたはずの僕が、なぜか無理やり「有⇔無/有」という底なし沼に連れてこられてしまったことの戸惑いだと言ったほうがいいかもしれない。
そうだとするならば、僕の中にあるのは、失われてしまった「無」への憧憬なのかもしれない。
僕は、これまで、なんとか確たる「有」を捉えようと哲学をしてきた気がする。だが、それは大きな間違いで、僕は、失われた「無」を背中越しに覗き見ようとしてきたのかもしれない。
または、「有」を目指すことと「無」への憧憬は表裏一体のものなのかもしれない。なぜなら、「有」を目指す営みが失敗し台無しになることでしか「無」を垣間見ることはできないのだから。
最後に一言。ここまで、「近似値」といった奥歯に物が挟まったような述べ方をしてきたが、それは、この文章を書く僕だけは、有と無を見渡すという不可能な地点に立ってしまっていることに自覚的であるべき、と考えたからである。
ここでの僕は、有と無を俯瞰して捉えることができる地点に無理やり立ったうえでこんな文章を書いている僕と、有にすでに巻き込まれている存在として書かれる僕とに引き裂かれている。
きっと、無について書くという不可能なことをやるためには、こういう無理をしなければならない、ということなのだろう。
だから、この文章は、精緻な考察というより、僕の心情を描いたお話である。