月別アーカイブ: 2017年11月

福建土楼の考察

夏休みに一人旅で福建土楼を見に行ったときに思ったこと(メモ)

福建土楼のことは、昔20代の頃にテレビで見て知った。
確か、建築家の人が現地を旅していて「客家の環状集合住宅」というような名前で紹介されていたような気がする。地味な番組だった。
それが妙に心に残っていて、やっと20年くらい経ち、行くことができた。
行ってみると意外と近くて、拍子抜けだった。

そこは朽ちつつある建物だった。どこか共同体社会の名残りのようなものが漂う、淋しげな場所。

だけど、そこには確かに堅固な地縁関係に裏付けられた一種のユートピアがあった。前資本主義的な、息苦しいユートピア。

土楼に入るとは、その共同体の体内に入っていくことだ。
土楼の中心から周りを取り囲む部屋の並びを見ていると、人体の内側から内臓を見渡しているような気分になる。洗濯物などが干された身内にしか見せない一面。

そういえば、老人たちは大抵、土楼の入口の門で寛いでいる。唯一の開口部。共同体と外部の境界部分に人は集う。

このような建物を築いた理由は、外敵からの防衛とか色々と言われているけど、それよりも、この形状が、共同体というもののあり方をうまく表していたからなのだろう。血縁からなる共同体。その血縁を未来永劫残したいという共同体が持つ欲望。その欲望の表現としての建築物。

それが今、朽ちようとしている。

哲学の定義

哲学のいい定義を思いついたのでメモ

哲学とは自分にぴったりの言葉を探すこと

自分の生を余すことなく、全て言葉で掬い取ることができるような言葉を探し、語り続けることこそが哲学の営みなのではないだろうか。

自分に対して、または世界に対して、心から真摯に向かい合い、そして、その全ての存在をきちんと確認し、あるべきところに落とし込んでいくような営みこそが哲学のような気がする。

自分、世界、心、存在といった言葉を使っている時点で、ある種の限定が働いてしまっているので、うまい言い方ではないなあ。

けれど、そういう限定をしたほうが伝わりやすいという「あちらを立てればこちらが立たず」的なところが哲学にはある。

だから、最終的な答えを見つけたというような哲学者は信じられない。その時点でその哲学者の哲学の営みは終わってしまったということであり、そこから、ある種の誤りが始まっているということだから。
(ただし、ここまではわかっている、ということを確認するのは大事。)