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シャバアサナと入不二哲学

PDF:シャバアサナと入不二哲学

ヨガをやっていると、人によって体の動かし方に得手不得手があることに気付く。初心者同士でも、ある人は前屈が苦手で、ある人は後屈が苦手だったりする。

同じようなことが哲学でも言えそうに思う。ある人は政治のことなら柔軟に考えられるのに美については特定の考えに囚われ、また、ある人は神、愛といったことなら、どんな極端な考えも受け入れられるのに、時空の存在を前提とすることからは離れられない、というように。

いきなり柔軟性の話を始めてしまったが、ヨガほどかどうかはともかく、哲学においても一定の柔軟性が必要なのは確かだろう。
哲学をするとは、少なくともある一面では、世の常識にせよ、有名な哲学者の哲学にせよ、既存の考え方を見直し、より掘り下げようとする営みだ。
先輩である有名な哲学者が構築した哲学を勉強し、理解することも哲学の一部ではあるが、それはあくまで、哲学するうえでの準備作業と言ってもよい。そこから、先人の到達点をベースに、自分なりの思索を進めることこそが本当に哲学をするということだ。
既存の考え方から一歩先に進もうとするのが哲学ならば、当然そこには柔軟性が必要となるはずだ。

柔軟性というと、ただコンニャクのようにグニャグニャ柔らかいというイメージがある。
しかし、ヨガでは全身すべてが柔らかくていい訳ではない。体幹とか下腹部、より好きな言い方としては丹田と言われる部位に力を入れることにより、ゆるぎない軸の力強さをつくることで、そこから柔軟性が生まれる。後屈するなら、丹田をしっかり保ち、そこを軸にして上半身を大きく反らす。
ある部位を動かさないことで、逆に、そこを支点としてしっかりと動かすことができる。

同じことは哲学でも言えるだろう。哲学業界においては、例えば「カントの義務論について考察する」というように、有名な哲学者の議論を下敷きにして議論を進めるやり方が一般的だ。つまり、カントの義務論をほぼ受け入れたうえで、そのなかに新たな意義を見出したり、若干の修正を加えたりすることになる。この場合、カントがその論の軸となり、基準となっている。これはヨガにおける体幹であり丹田と言ってもよい。カントという力強い軸があるからこそ、カント哲学という材料を使って大きく思索を進めることができる。また、少々飛躍があっても、カント哲学という共通認識をベースにして、読者に思索の道筋を理解してもらえる。
このように、カントという丹田をしっかりと保つことで、効率的に、多少の飛躍も伴いつつ大きく思索を進められることこそが、哲学における柔軟性だと言えそうだ。

ただし、これは知的活動一般にあてはまるように思える。哲学に限らず、何らかの共通認識となる前提を置くことで効率化につながるのは当然だろう。
例えば自然科学ならば、その前提つまり丹田とは、いわゆる科学的手法なのだろう。科学的手法という、万人にわかりやすく、かつ幅広い知的活動を整理してくれる丹田を拠り所にできたからこそ、科学者は柔軟に自由に活動でき、科学は効率的にここまで成功できたのだ。
また俳句ならば、五七五という美しさが担保されたリズムを前提とすることで、美しさについての共通認識が確保されたうえで、自由で効率的な創作活動ができる。

つまり、知的活動においては、カント哲学や、科学的手法や、五七五といった制約とも言うべき前提を置くことで、逆に自由で柔軟な活動が可能になる。これは丹田を意識することにより効率的に曲げ伸ばしする力が入り、その結果、柔軟性が高まるヨガと同じ構図だ。

しかし、哲学には、このような意味での丹田よりも、もう一歩深い、真の丹田があるように思う。

そのことを考えるためには、僕が好きな入不二基義の哲学が役立つだろう。
(以下、ある程度、入不二哲学を知っていることを前提に書きます。)
彼は、ある概念、例えば「相対主義」のような概念を縦横無尽に動かし、そこに思いもしなかった新しい意義を見出すのが得意だ。
「絶対」と「相対」という正反対とも言える概念を曲げ、伸ばし、接続させ、拮抗させ、消滅させ、円環させる。これは、概念のストレッチであり、哲学のヨガだと思う。
そこには、これまで取り扱ってきた柔軟性とは、別次元の柔軟性があるように思える。

そして、その柔軟性を生む丹田も、別なところに見出すことができるように思える。
入不二の哲学における丹田とは、「相対主義」や「絶対」といった言葉を、どのような意味合いを持たせるにせよ、とにかく文章の全編にわたり使い続けているというところにある。
入不二の文章は確かに変幻自在だが、このことだけは揺らがない。
だからこそ、文章を読み進めるにつれ、同じ「相対主義」という同じ言葉が別の姿を見せていくことに驚き、楽しむことができる。
これは当たり前だがとても重要なことだ。なぜなら、そうでなかったら、文章を楽しむことなどできないのだから。

もし、ある言葉が文章を読み進めるにつれ、いつの間にか別の言葉に変わってしまっていたら、文章を理解することすらできないだろう。
例えば、入不二の哲学書の1ページ目では「それぞれの立場があることを認める主義主張」を表す言葉として「相対主義」という言葉が使われていたのに、その同じことを表す言葉として最終ページでは「ネコ缶」という言葉が使われていたらどうだろう。
それでは、「プロタゴラスは相対主義を主張した。」という話が、いつのまにか「プロタゴラスはネコ缶を主張した。」となってしまう。これでは意味がわからない。

また逆に、ある言葉の意味が、文章が進むにつれ、別の意味になってしまっても、訳のわからない状況が出現する。
例えば、「相対主義」という言葉が「それぞれの立場があることを認める主義主張」を意味する言葉として使われていたのに、いつの間にか「ネコ缶」を意味する言葉になってしまったらどうだろう。
それでは、「プロタゴラスは相対主義を主張した。」というような話が、いつのまにか「プロタゴラスはamazonで宅配してもらった相対主義を開封し、愛猫にあげた。」となってしまう。これでは意味がわからない。

このレベルでの丹田とは、つまりは、ある程度の言葉と意味の対応の同一性のことだ。
これは、哲学に限らず、文章を文章として成り立たせるために必要な、言語表現一般における丹田と言ってもよいだろう。

(注:多分、これは、永井が「転校生とブラックジャック」で行う全能の悪霊による意味論的懐疑の問題とつながる。「疑う」という言葉の成立さえ疑い、「考える」という言葉の成立さえ疑ってしまったら、有意義に疑い、考えることすらできなくなる。いや、別のかたちで思考を進めることはできるかもしれないが、その場合は、別の何らかの言葉、例えば「世界」とか「存在」というような言葉の成立を前提にし、そこを足がかりにせざるをえないだろう。
思考において、なんらかの言葉の同一性は必要なのだ。)

なお、「ある程度の」言葉と意味の対応の同一性としたのは、全く同一では、文章に発展性がなくなるからだ。トートロジーしか語れないと言ってもよい。
「1ネコが寝ている。2そしてネコが起きて水を飲んだ。」という2行で構成された極めて短い文章でも、1行目のネコと2行目のネコでは言葉の意味は全く同一ではない。1行目のネコには寝ているという意味が含まれ、2行目のネコには起きて水を飲んでいるという意味が含まれるという点で異なる。1行目のネコと2行目のネコは、そのような意味の違いも含みつつも、毛が生えたニャーと鳴く哺乳類というような意味でゆるやかにつながっている。
これが、文章における「ある程度の」言葉と意味の対応の同一性だ。
これこそが真の丹田だと思う。

ただし、初心者だけどヨガ好きのはしくれとしては、ヨガで例えるならば、丹田よりも、もっと適切な言葉があるように思う。
ここまで「共通認識としての前提」という程度の意味として「丹田」という言葉を使い、そして「言葉と意味の対応の同一性」こそが「真の丹田」としてきた。
しかし「言葉と意味の対応の同一性」のほうは「丹田」よりも、ヨガで最も大事にされる「呼吸」になぞらえたほうがいいかもしれない。

シャバアサナというヨガのポーズがある。別名、死体のポーズとも言われ、多分、ヨガで最も大切とされるポーズだ。ポーズと言っても、大の字になって仰向けで横になるだけなのだが。
たいがいのヨガのポーズでは丹田に力を入れたりして、色々とがんばる。だけど、このシャバアサナという究極のポーズにおいてはがんばらない。もはや丹田への意識など求められない。
全てを解き放つこのポーズでは、あえて言えば呼吸が重要となるが、呼吸は丹田と違い、そこに意識を向けることすら求められない。荒い呼吸であっても浅い呼吸であっても、それは呼吸であり受け入れるしかないし、呼吸に意識を向けても意識を向けなくても、呼吸は続く。生きている限り、呼吸はただある。そんな不思議な呼吸というものを味わいつくすのがシャバアサナだ。
呼吸とは生きる上での枠組み、束縛かもしれないが、そんな呼吸をも味わい、楽しみ、遊ぶことができるのが、シャバアサナというポーズの醍醐味なのだろう。

僕は、入不二の哲学はシャバアサナのようだと思うのだ。
入不二の哲学では、例えば「相対主義」という言葉について、文章を進めるにつれ、当初は思いもしなかった、あっと驚かせる姿を見せることになる。
そこでは、ここまで述べたとおり、言葉の同一性の確保しつつ、極限まで言葉を揺り動かすという、二つのことを同時に行っている。
それは、言語表現または思考というものの枠組みの限界を試し、受け入れ、更には、もしかしたら、その枠組みを逆に力に変えて、興味深い景色が見える所まで旅しようとする冒険、遊びなのではないかと思う。
そして、そんな彼と一緒に冒険し遊ぶときのワクワク感こそが、彼の文章のなかに僕が感じる、ある種の正しさではないかと思う。

この、呼吸または言語という枠組みを制約としつつも、その枠組み自体を楽しむ姿勢こそが、シャバアサナと入不二の哲学の類似点なのだろう。

当然、ヨガにおいては、シャバアサナだけでなく他のポーズでも呼吸は大切だし、入不二の哲学に限らず世の哲学だって、言葉を使う限り、多かれ少なかれ同じようなことをやっているはずだ。だから、これはシャバアサナと入不二の哲学の専売特許ではない。
しかし、ヨガにおけるシャバアサナと哲学における入不二哲学には、ある種の根源性があると感じる。だからこそ、そこに僕にとってのヨガの楽しみや哲学の醍醐味が純粋に示されているのだろう。

背中に翼を生やして

息を吸うとき、僕は輝く世界に溶け込み、世界へと飛び立つ。背中に翼を生やして。
息を吐くとき、世界は収縮し、僕の手の上で脈打つ。バイタルスフィア。

これは、世界つまり時間と空間の、あり方と僕との関わり方を示している。

世界は極限において二つのかたちで僕に関わる。
ひとつが極限まで拡散した無として。これは未来。
もうひとつは極限まで収縮し動的な時間をも包み込んだ脈打つ真球として。これは過去。

僕は極限において二つのかたちで世界に関わる。
ひとつは無へと羽ばたく翼として。これは未来。
もうひとつは全てを愛おしむ掌として。これは過去。

その二つの極限の中間にすべては折りたたまれている。
その中間の無限の点を含む線分のなかに、人生の、生命の、妙味がある。

なんとか学

2012年12月22日に書いたものを移行

PDF: nantokagaku.pdf

・・・

1 擬似学問

 私は、安易な「○○学」というような名付け方が嫌いである。親学(おやがく)とか、トランスパーソナル心理学とか、そういう類のものだ。私は、それらを、なんとか学と呼ぶことにする。
 そこには、本物の学問のなかに偽物の学問を紛れ込ませようとする意図を感じる。
 ただし、私は疑似科学が嫌いだと言っている訳ではない。ライアル・ワトソンの「無生物にも知性がある。」というような話はロマンチックで好きだし、疑似科学的な主張について、実験による再現可能性がないではないか、というような理由で切り捨てるべきだとも思っていない。
 私は、よく言われる科学か科学でないかという疑似科学の問題の手前に、学問か学問でないかという擬似学問の問題があると考える。
科学と疑似科学の関係は流動的だ。疑似科学には「まだ科学的な検証がされていない科学的主張」という意味合いがある。そういう意味では疑似科学は科学になりうる。
確かに疑似科学にはそれを超えた胡散臭さがある。普通、疑似科学は科学的検証を経たかのような偽装をしている。しかし私は、その胡散臭さは疑似科学として述べるべきものではなく、擬似学問とでも捉えるべきものであると考えている。
私は、その胡散臭さを、その中身ではなく、社会的な意図という点から捉えたい。「学問ではないものが、学問の有する名声を利用して正当性があるものとして自らの主張を他者に押し付けようという意図を持っていること。」を擬似学問とする。このなかには当然、科学を利用する意図を有する疑似科学も含まれる。しかし、その他にも、科学的手法によらない学問、例えば哲学に対する擬似哲学のようなものも含まれるだろう。
 これから、そのような意図を持つ擬似学問が、どのようなものなのか捉えていきたい。

2 本物の学問

 なんとか学のなかに混在している本物の学問と擬似学問を見分けるためには、学問というものを捉えなければならない。
 大上段から「学問とは何か。」という問いを立てその答えを探すことは極めて困難である。しかし、この文章においては、そこまでの答えは必要ない。私が定義した擬似学問と対比した場合の学問が何か、という問題に答えられればよい。これならば簡単に答えが出せる。
 答えを求める上での手がかりは、私が「擬似学問は、学問の有する名声を利用して自らの正当性を手に入れようとしている。」とみなしていることである。
 つまり、学問には現に名声と正当性がある。学問としての名声と正当性を既に社会的に獲得しているものが学問である。具体的には「物理学」「経済学」といった既に社会的に幅広く認知されている学問の分野がまずイメージできよう。
 しかし、それだけでは新興の学問にとっては不利である。既に学問であるものだけが学問ならば、新たに学問の分野が生まれることができなくなる。
 新興の学問が名声、正当性を有するに値するかどうか考えるためには、既存の学問は名声、正当性をどのように獲得してきたのかを踏まえる必要がある。それは歴史的な視点であろう。東洋世界であれば春秋戦国時代の中国、西洋であれば古代ギリシャといった遠い過去から綿々と続く歴史のなかで学問は発展しつつ名声と正当性を獲得してきたことを踏まえる必要がある。
 ここでキーワードとなるのは「発展」である。
 発展しなければ、学問は名声、正当性を有しなかった。つまりは、学問としての名声、正当性を有するためには発展性がなければならない。
 なお、本来的な意味としては「学問」に名声、正当性は必須ではなく、発展性も必要ないだろう。多分、「学問」というものの最も広義の定義は、「構造化された知識」というあたりにある。広義の「学問」には、神話や寓話のようなものも含まれうる。
 しかし、今念頭に置いている学問とは、擬似学問に対比した場合の学問という意味で、広義の学問ではない。擬似学問が求める名声、正当性を学問は有していなければならない。とすれば、学問という概念はより狭くなり、名声、正当性の基礎となる発展性を有することが必須となる。
 よって発展性があるかどうかで本物の学問と擬似学問を見分けることができる。新興の学問で現在は名声、正当性を有していなくても、発展性があるならば、名声、正当性を有するに値する。

3 学問の発展性

 学問の発展性とは、つまり、自らの修正・否定を許容できるということである。どんなに穏当な学問の発展であっても最低限の学問自体の修正を伴わざるを得ない。
 例えば、私が、リンゴを手から放すと地面に落ちる力を重力として初めて名付けたとする。そして、リンゴ重力学と名付けたとする。そのうち、あなたが、ミカンにも下に落ちる力があると気付き、リンゴ・ミカン重力学として発展させたとする。
そのような単なる事例の追加であっても、重力という意味は大きく修正されている。当初はリンゴにかかる力を重力と言っていたのが、リンゴとミカンにかかる力を重力というと修正されている。
そして、その修正がもはや修正という言葉で捉えられなければ、否定に至る。例えばリンゴが落ちるのは重力によってではなく天使が押しているからだということが発見されれば、もはや重力学とすら名付けられなくなるだろう。
 それでは具体的に自らの修正・否定を許容するとはどういうことかと言えば、それは実際に行われていることを見れば明らかなように、対話、議論を許容し、自らの考えを改めることを許容することである。この例で言えば、対話を経てリンゴ重力学の不備を認め、リンゴ・ミカン重力学を受け入れるということである。
なお、対話は私とあなたの間で行われなくてもよい。私は変化を認められない石頭であってもよい。世間(現実的には学会?)が、リンゴ重力学とリンゴ・ミカン重力学とのどちらが正しいかを議論したうえで、リンゴ重力学からリンゴ・ミカン重力学への変化を受け入れられればよい。そうすれば、学問は発展する。
 これが、学問に発展性があるということである。

4 具体的な検証

 では実際に、親学(おやがく)とか、トランスパーソナル心理学とかといった、なんとか学が本物の学問か擬似学問か見分けるにはどうしたらいいだろう。
 まず、いずれも新興のなんとか学であり、既に社会的に名声や正当性を得ているとは言えないことは明らかだ。よって、発展性の有無という観点から、対話、議論を許容し、自らの考えを改めることを許容しているか検証する必要がある。
 しかし検証には工夫が必要だ。
 なぜなら、ある程度歴史があれば、そのなんとか学のなかで対話、議論があったかどうか観察することで、直接的に発展性があるかどうかがわかるが、新興の学問の場合、そのように観察するだけでは、たまたま、まだ対話、議論がないのか、それとも本質的に対話、議論を許していないのかを、区別することは難しいからだ。
 そこで、成り立ちに注目することが有効だろう。
なぜなら、対話、議論を許容し、学問としての発展性を有しているならば、少なくとも、その成立の場面では、既存の学問との対話、議論があったはずだからだ。
 できれば、既存の学問側からの視点も踏まえた方が良い。論敵のことを完全に認めることはないだろうが、少なくとも、両者の違いが明確になっているかどうか、というような観点からの分析は可能だろうからだ。
 この例で言えば、教育学から親学が分離し、心理学からトランスパーソナル心理学が分離したと考えられるが、既存の教育学、心理学から見て、適切な対話、議論を経て、分離したかどうかを検証する必要があるだろう。
 よって、今のところ、私は、親学やトランスパーソナル心理学を擬似学問とは言っていない。ただ、今述べたような視点で検証しなければ怪しいと考えている。

5 状況証拠

 なぜ怪しいかと言えば、私は、なんとか学が、○○理論とか、○○仮説といったような名付け方をせず、安易に○○学という名付け方をしているからだ。そこに、私は、擬似学問である、という状況証拠のようなものを感じる。
 これまで、擬似学問の内容について述べてきたが、擬似学問の形式面については、まだ語るべきことがあると考えている。
 そこで、私が形式面で怪しいと考えるポイントを明確にするため、限界事例だと思われるものを具体例として示しつつ説明を試みることとしよう。

6 マルクス経済学1 名は体を表す

 私にとっての限界事例として、マルクス経済学、ユング心理学といった、人名+学問の分野という名付け方がある。私は、このいずれも詳しくないので内容が嫌いな訳ではないが、名付け方がよくない。
 多分、「マルクス経済学」という言葉の本来的な意味としては、「経済に関する分野について、マルクスが発見した概念や手法により、マルクスが行った研究結果」というような意味があるだろう。そして、そこにマルクスの後継者たちが行った業績も加えれば「経済に関する分野について、マルクスが発見し、または後継者がマルクスの発見に大きな齟齬がない範囲で発展させた概念や手法により、マルクスが行い、または後継者がマルクスの研究結果に大きな齟齬がない範囲で発展させた研究結果」とでも言えよう。
 私は、その後継者の「マルクスの発見・研究結果に大きな齟齬がない範囲で」というところに不穏さを感じる。もし、後継者とマルクスとで大きな齟齬があれば、それは「マルクス経済学」ではなくなる。そこには、マルクスを逸脱することに対する抵抗感を感じる。
 この抵抗感とは、つまりはマルクスの偉大さだ。マルクスが偉大だからこそ、そこから外れることに抵抗感がある。そこに不穏さを感じる。
 ただし、私は、マルクスの偉大さを無視すべきだと言っている訳ではない。
 マルクスがどういう人でどういう業績を残したかは一般常識以上のことは知らないが、マルクスの偉大さには、述べたことの偉大さと、人間としての偉大さがある。
そのうちの、マルクスが述べたことの偉大さは無視できない。学問において偉大な先人を乗り越えるとは、先人が述べたことを乗り越えるということである。マルクスの経済学を乗り越えようとする者は、マルクスと対話し、議論し(間接的に書物を通じたものであっても)、それに打ち勝つという大きな困難に立ち向かうことになる。そういう意味でマルクスが述べたことの偉大さは無視できない。
 しかし、そのこととは別にマルクスの人間としての偉大さを考慮する必要は学問上ない。なお、私が、ここで人間としての偉大さ、と言っているのは、マルクスが多数の労働者のことを考えていたから偉大だった、とか、頑張って勉強したから偉大だった、というようなことだけを言っているのではない。マルクスはこれまでの経済学にはない革新的なアイディアを思いついたから偉大だ、というような学者としての社会的な意味での偉大さも含んでいる。学者としてのマルクスに着目するならば、私は、学者としての社会的な評価のようなものを除き、学者として何を行ったかという学問の内容としての偉大さのみを考慮すべきだと言っている。
 以上のことを念頭においたうえで、私は「マルクス経済学」というような名付け方は、マルクスの偉大さを必要以上に詰め込んだ表現であると考えている。ここに私は、マルクス経済学という呼称に疑問を感じる理由のひとつがある。
なお、この例ではマルクスという名前が冠されたものを用いたが、例えば現象学と言えばフッサールが念頭にあるように、すべての学問において同じことが言える。その分野の創始者の偉大さが重くのしかかることになる。これは不可避である。
よって、私は、全く新しく学問を独立すべきでないと言っている訳ではない。ただ、軽々しく独立させるべきではない。名は体を表す。だから気をつけなければならない。

7 マルクス経済学2 マルクス経済学自体の否定

 しかしより大きな問題は、マルクス経済学を(マルクス本人と後継者をマルクス達とするならば)「経済に関する分野について、マルクス達が発見、発展させた概念や手法により、マルクス達が行った研究結果」としたことにある。
 このうちの「マルクス達が行った研究結果」というような定義は本来必要ないだろう。なぜなら、そこまで決められてしまったら、議論も何もなく発展性はないからだ。先ほど言ったように、それは学問ではない。
 学問であるならば、マルクス達が発見した「概念、手法」を用いている限り、マルクス達が導き出した結果と違いがあってもよいはずだ。そういう意味では「マルクス的手法による経済学」というような意味で「マルクス経済学」と呼んでいるということなのかもしれない。
 ただし、ここで留意しておきたいが、結果が違ってもいいということは、マルクス達の概念、手法を用いてマルクス達が言ったことを否定してもよいということである。そして、この否定とは、マルクス達の概念、手法が全く役に立たないという全否定をも含む。つまり、マルクス経済学が学問であるためには、マルクス経済学自体が否定されうることをも認めなければならない。
 しかし、「マルクス経済学」というように独立した名前が付与されていることが、それをやりにくくする。そういう意味ではセンスのよい名付け方だとは思えない。不可能ではないがやりにくい。そこが、この名付け方が限界事例だと感じるゆえんだ。

8 不誠実な態度

 私が「マルクス経済学」という例を用いて言いたかったことは、独立した学問の分野として名乗ることで、創始者の社会的名声を密輸し、純粋に学問的な議論をしにくくし、その学問の分野全体をひっくり返すような根源的な議論をしにくくする、ということだ。
 この、あえて、独立した学問の分野としてしまうことで議論を避けようとする不誠実な態度が、擬似学問としての状況証拠だ。
 マルクス経済学やその他の多数の学問の分野の場合には、その歴史において現に議論され発展してきたということをもって擬似学問に陥ることを逃れている。
 一方で新興の、私がなんとか学と呼ぶものたちは、名付け方において擬似学問としての状況証拠を持ちながら、歴史のテストを経ていない。
 だから、私には、これらが、対話、議論に基づく発展性を拒否しつつ、一方で対話、議論に基づく発展性を経たかのように正当性を詐取し、偽りの名声を得ようとしている疑似学問であるように思えてしまうのだ。
 そして、なんとか学の側も、このように疑念を抱かれうるということに意識を向ける必要があるのではないだろうか。

「科学から哲学へ」を読んで 〜知識を伝達するということ〜

これは2015年か2016年。ちょっと長いですね。

・・・

1 はじめに

以前、永井均先生の本で触れられていたので佐藤徹郎先生の「科学から哲学へ」という本を買った。
永井先生独特の、哲学は極めて私的な営みだという心構えを説明する文脈で紹介されていたので、そのように読み、そのように感銘を受けた。
その後、本棚に置いていた本になんとなく目が止まり、読み返し、この本の新たな魅力に気づいた。
この本が述べていることは、僕が今興味を持っている「哲学対話」との関係が深い。この本のテーマのひとつは「知識を伝達するとはどういうことなのか。」だ。それならば、相互伝達の場とも言える「対話」との関係が深いのは当然だろう。
この本では、知識を伝達するのはなかなか容易ではない、という方向に進んでいく。しかし、私の実感として、現に知識は伝達されているという実感がある。そこには、この本が語っていない何かがあるのではないか。

この文章では、この問題を中心にして、この本「科学から哲学へ」の第1章「科学的<知>の概念を超えて」と第2章「進歩の観念と宗教」について論じていきたい。

2 この本のあらすじ

この本は、現代科学のめざましい進歩について考察するところから始まる。進歩に必須の要件として「知識が同一のまま保存され、後から来る者に伝達されること」(p.10)を挙げ、科学の分野とその他の分野を対比し、前者には知識の「保存と蓄積のメカニズム」(p.14)があるから、進歩が成立しているとする。一方、後者については、「知識の核心的な部分が個人の経験と密接に結びついたものであり、その内容を所有者から切り離して人から人へと受け渡すことが困難」(p.14−15)だから、継続的進歩は困難であるとする。

そして、進歩についての分析を通じて、知識には二通りあることが示される。ひとつは科学の分野における、情報とでもいうべき、容易に共有でき、一人の専門家が獲得した知識が、全人類の知識としてみなされるような知識。そしてもうひとつが、その他の分野における、古の賢人の知恵のような、簡単に他人に譲り渡すことができない知識だ。これは、科学的知識とその他の知識の間には、知識の内容の違いがあるだけでなく、そもそもの知識観に違いがあることを示している。

この本は、この相違の発生の起源について、近代科学の成立以前における知識の概念と現代の科学的知識の概念を比較し、「科学的知識はそれぞれ細分化された一定の「内容」をもつのに対して、伝統的な知識の概念は、知恵や徳と同様に、本来は人間の精神の状態あるいは能力をあらわす概念であった」(p.20)とする。そして、科学的な進歩が当たり前になっている現代においては、前者のような知識観が当然となっているが、実は、古代から啓蒙主義までの長きにわたり、東西問わず、後者のような知識観が一般的であったことを指摘している。現代の科学的知識という例外を除き、知識とは「個人の向上と完成に至る道としての知識と学問の概念」(p.22)であったのだ。

そして、この歴史的な事実を踏まえ、科学的な進歩観の前提となっている、「いったん見出された知識は自動的に社会の所有物となって保存され、いつでも他人に伝達することができる」(p.16)という、保存と蓄積の知識観は、現代特有のものであり、フィクションであるとする。
なぜなら、科学的知識が専門化し、細分化している現代において、科学的知識が全人類共有の知識となるのは、定義としての取り決め、つまりフィクションにすぎないからだ。科学的知識の正統性は、科学的知識を承認する役割を担う専門家集団を維持する社会的システムや学会での発表を知識とみなす制度といった、偶然的な現代社会の特性により、実態として支えられているにすぎないのだ。
このことについて述べている、この本の記述を確認しておこう。

「新たに発見された知識は自動的に後の時代に受け継がれるように見えるのだが、その理由は、科学者が知識の認定について厳格な規約を定めているからである。それはすなわち第一に、他人に伝達できることがらだけを知識と認めることであり、第二に、専門家から成る学会や学術的出版物等で発表され、受け入れられたことだけを確立した知識と認めることであり、第三に、こうした学会等で発表されたことは、すべて既知の知識とみなすことである。つまり科学的知識の継承と蓄積のメカニズムが成り立つのは、事実の問題というよりも、むしろ科学的知識の概念がこのメカニズムに合わせて定義されているという理由による。もちろんこれらの規約は建前ではなく、学会や専門家集団といった社会的システムの整備と、個々の科学者の努力によって支えられている」(p.16)

そして、このようなフィクションとしての現代の科学的知識観に対比するものとして、第1章においてはウィトゲンシュタインの哲学観が提示され、そして第2章においては宗教が示される。これらは、科学的知識観とは別の知識のあり方を提示している。これは、科学的知識観から哲学的知識観への転換とも言える。

このようにして、タイトルにある「科学から哲学へ」という流れが成立している。これが、この本についての私の理解だ。
第1章と第2章だけなら100ページ程しかなく、文体も読みやすいので是非読んでいただきたいが、これから話を進めるうえで必要と思われる箇所を要約してみた。

3 内在的知識・外在的知識

3−1 フィクションとしての科学的知識

私は、この本が述べている方向性は正しいと思う。指摘のように、人から切り離し保存と蓄積が可能という情報としての科学的知識観はフィクションなのだろう。
科学的知識がその知識を担う人格から独立して実在するならば、人類が死に絶え、文明も滅び、人類や、その後継者であるコンピュータか何かによる知的な営みが全く失われたとしても、図書館の科学書さえ残っていれば、科学は生き残ることになる。
そこまで極端でなくても、一時期、局所的に話題となった論文が、いつのまにか忘れられ、たまたま誰の目にも止まらなくなくなったとしても、誰かの本棚に論文が載った雑誌が眠っていれば、その科学的理論についての知識は失われていないことになる。
そんな訳はない。科学的知識においても、実際に、人間やロボットのような知的生命体により、その知識が知識として扱われることは必須であり、人格と知識は切り離せない。当たり前だが、忘れがちになってしまうこの事実を、この本は指摘している。

なお、この問題は、ある知識、例えばピタゴラスの定理は、ピタゴラスが発見するまで、この世界に存在しなかったのか、という問題とは異なる。当然、ピタゴラスが発見してもしなくても、ピタゴラスの定理が成立するかたちで世界は存在しただろう。恐竜が草原を歩く時代に、たまたま真っ直ぐな枝が3本、直角三角形のような形で地面に落ちたなら、その三角形の辺は、ピタゴラスの定理が成立するような関係性があるはずだ。
しかし、ここでの知識とは、この本の述べ方によれば進歩、そして私の関心で言えば対話に関わる知識だ。人から人への伝達という点を踏まえるなら、恐竜の時代に現に成立していただろうピタゴラスの法則は知識ではない。

3−2 知恵と常識

ここまで私は、科学的な知識と哲学や宗教についての賢人の知識という対比で、この本を紹介してきたが、実は、この本では、もう少し細かく知識を区分している。
この本では知識を三種類に分けて論じている。
「第一の種類は、たとえば個人の過去の体験の記憶のように、それを保存したり後の世代に伝承したりする習慣あるいは方法がない知識」(p.17)、「第二の種類に属するのは、言語、風俗、習慣、あるいは宗教や芸術のように、社会的文化的伝統に関する知識」(p.17)、「第三の種類に属するのが、現代の科学技術のように、たえず進歩することを基本的な使命とするような知識」(p.18)というように、三種類の知識があるとされる。

第一の種類に属する知識としては記憶が例として挙げられている。記憶と同じ次元の知識にあたるような候補は、私はクオリアくらいしか思いつかない。記憶にしてもクオリアにしても、哲学のかなり深いところに関わる概念であり、そもそも知識と読んでよいのか疑問があり、少なくとも他の知識と比較対象にしてよいか怪しい。この文章では、記憶やクオリアの問題に踏み込まず、別の方向で議論を進めたいので、この種の知識については考慮しないことにする。

第三の種類に属する知識は、まさに科学的知識だけにあてはまるものであり、科学的知識に等しいと考えてよいだろう。まさに先ほどのフィクションとしての科学的知識の話だ。その他にも、この本では、言語に関する知識のうち「文法の研究や音声学や辞書の編纂の技術」(p.14)といったものについては科学的知識と同様のものとしているが、これらは、言語について科学的に分析することであり、科学的知識に含まれると言ってよいだろう。

このように、第一と第三の種類について簡単に整理したうえで、第二の種類の知識に着目したい。ここでは、「言語、風俗、習慣、宗教、芸術」が列挙されている。この本では他に哲学も挙げられているので、このリストに哲学も加えると、第二の種類に含まれる知識は「言語、風俗、習慣、宗教、芸術、哲学」となる。
このリストを眺めると、ごく常識的に言って、哲学、宗教、芸術というような才能がある一部の人だけが理解できる知識と、言語、風俗、習慣というような、凡人であっても誰もが理解できるような知識とに区分できるように思われる。前者を賢人の知恵、後者を日常の常識と言い換えてもいいだろう。

しかし、この本では、賢人の知恵と日常の常識を特に区別せずに論じている。言語を話し、風俗・習慣を身につけることと、キリストやウィトゲンシュタインのような人が特別な知恵を持つということの差異が考慮されていないのだ。この点について考察してみたい。

3−3 内在的知識・外在的知識

ここで、回り道とはなるが、まずは、賢人の知恵と日常の常識の共通点に着目してみたい。
この本の区分のうち、記憶やクオリアのような第一の種類の知識を考慮外とし、賢人の知恵と日常の常識が含まれる第二の種類の知識と、科学的知識と等しいものとされた第三の種類の知識に着目してみよう。すると、第三の種類にあたる科学的知識は、社会的システムに支えられ、個々の人間から切り離された情報だが、第二の種類にあたる賢人の知恵と日常の常識は、いずれも、個々の人間の営みと結びついたものだ。その点で、賢人の知恵と日常の常識は共通点がある。

この本が述べていた賢人の知恵と日常の常識の共通点を確認し、科学的知識との対比を際立たせることが理解の第一歩となる。そして、この本が行っていた対比を、私なりに少しだけ拡張することで、より深い含意を引き出すことができると考える。

対比を拡張するにあたり、私は、この科学的知識について見出していた個々の人間から切り離されているという特徴を有する知識を外在的知識と呼び、日常の常識や賢人の知恵のような知識に見出していた個々の人間の営みに結びついているという特徴を有する知識を内在的知識と呼ぶことを提案したい。科学的知識とその他の知識という対比を、外在的知識と内在的知識の対比というかたちで捉え直したいのだ。

なお、この、外在的知識、内在的知識という用語は、ある人が知識を持っている状況について、その人から離れた客観的な視点から捕らえた場合、その知識は外在的に把握されると表現でき、また、その人自身の視点から捉えた場合、その知識は内在的に把握される、と表現できるだろう、というところから名づけている。

3-4 日常の常識、賢人の知恵、科学的知識

この、外在的知識と内在的知識という区分に基づき、日常の常識について考えてみる。
日常の常識には、例えば「注射は痛い」、「9×9=81」というような知識がある。このような知識を獲得する場面を考えてみよう。
注射が痛いことを知るためには現に注射を打たれなければならないし、九九を知識として手に入れるためには、九九を何度も暗唱しなければならない。このような知識は、外部から単に与えられるものではなく、私自身が現に体験したり、現に記憶したりして獲得されるものだ。
知識を獲得する場面に着目するならば、知識は、私自身の中において現に起こる出来事として捉えられ、自分の内面から捉えられるという意味で、内在的知識と呼ぶことに違和感はないのではないか。

一方、注射は痛いことや、9×9=81ということは、一旦、知識として成立してしまえば、当然の事実として扱われる。自分自身の体験や記憶とは切り離され、一つの独立した事実として扱われる。私が注射されなくても注射は痛いし、私が検算しなくても9×9=81だ。私や私以外の誰かにどう理解されているかなんて関係なく、知識として成立している。こう考えるなら、一旦成立した知識について外在的知識と呼ぶことにも違和感はないだろう。

この、獲得の場面での知識を内在的知識とし、成立後の場面での知識を外在的知識とするという対比は、賢人の知恵であっても同様に当てはまる。
賢人が、努力や才能により、現に悟りを開いたり、現に霊感を得たりして、宗教や哲学についての知識を獲得することは、努力や才能の違いを除けば、私のような凡人が、九九を現に習得したということとよく似ている。いずれも内在的な知識を獲得するプロセスだ。
また、賢人の知恵であっても、一旦知識として成立してしまえば、一つの独立した外在的な事実として扱われる。聖書は、キリストの知恵そのものであり、宗教的知識そのものとみなされる。

そして、科学的知識についても、同様に、内在的知識としての側面と、外在的知識としての側面がある。

ピタゴラスがピタゴラスの定理を思いついた時、その頭の中には内在的なひらめきがあり、知識を獲得したという実感があったに違いない。これは内在的な知識だ。そして、その知識が広まり、今や日本の中学生でもピタゴラスの定理を習い、たいていの人が名前くらいは知っているほど常識的なものとなっている。これは外在的な知識だ。科学者が現に獲得した知識は内在的知識であり、その知識が独立した事実として扱われれば外在的知識となる。
このように考えると、科学的知識とその他の知識というような単純な区分ができるのではなく、いずれの知識も、内在的知識としての側面と外在的知識としての側面があることがわかる。

3-5 内在的知識と外在的知識のギャップ

この本では、現代科学において専門化が進み、一部の専門家だけが所有する知識と、全人類が共有する知識との間のギャップが拡大し、科学的知識がフィクションとなったと論じている。
このギャップは、一部の専門家の内在的知識と、一般的な事実としての外在的知識のギャップのことだ。内在的知識と外在的知識のギャップは、科学の分野に限らず、賢人の宗教・哲学的知恵であっても、凡人の常識であっても生じている。
「絶対矛盾的自己同一」という概念は、西田幾多郎本人や西田幾多郎の研究者といった一部の哲学者だけが所有する知識であり、賢人が内在的に把握している知識だと言ってよい。私のような一般人は、その言葉は知っているが、内在的に把握し、理解してはいない。それでも、現に、この文章で「絶対矛盾的自己同一」という言葉を使ったように、西田幾多郎の内在的な知識から切り離されたところで言葉は流通している。ここには、「超ひも理論」のような、専門家だけが理解しているが、一般人もなんとなく理解せずに使うことがある科学的知識と同じギャップがある。
注射は痛いというような日常の常識でも同じことが起きている。誰かが実際に注射を打たれ、痛いという内在的知識を獲得することと、注射を打たれていない人が、わかったように使う、注射を打つと痛いという外在的知識との間にはギャップがある。私はインフルエンザの注射はほぼ毎年打っているが、筋肉注射の経験はない。しかし、インフルエンザの注射の経験から、ある程度、筋肉注射が痛いということは理解しているような気がしている。が、実際に筋肉注射を打たれたら、こんなふうに痛いとは思わなかった、となるかもしれない。これは内在的知識と外在的知識のギャップだ。

3−6 フィクション

この内在的知識と外在的知識のギャップはとても大きい。
どれほど大きいかと言えば、この本では、科学的知識のようなフィクションとしての知識とその他の実在する知識というかたちで対比されたほどの違いだ。私によって、その対比は、賢人の知恵、日常の常識、科学的知識を横断するものとして拡張され、科学的知識には科学者の知恵としての実在が引き入れられ、賢人の知恵、日常の常識にもフィクションが入り込んでしまった訳だが。

だから、今や、このギャップはいわゆる他我問題にもつながる。私の内在的な痛みについての知識は実在するが、他人の外在的な痛みについての知識はフィクションではないか。そういう問題にもつながる。

つまりは、賢人の知恵が凡人から隠されていることと、科学的知識が現代においては一部の専門家だけのものになっていることと、日常の知識に他我問題が隠されていることは、ある一面では、同じ問題を指しているのだ。

このように、この本が科学的知識とその他の知識というかたちで行っていた対比を、内在的知識と外在的知識との対比に置き換えることで、対比は様々なかたちで発展していく。

3−7 程度の違い

ここまでで、この本が問題としていた科学的知識とその他の知識の違い、そしてこの文章で当初想定していた日常の常識と賢人の知恵の違いという問題は組み替えられ、日常の常識、賢人の知恵、科学的知識には、通底した内在的知識と外在的知識の違いがあることが明らかとなった。この違いに比べれば、当初の日常の常識と賢人の知恵の違いというのは単なる程度の違いでしかないのだ。

念のため具体例により確認しておこう。
日常の常識の代表例として言語的知識を挙げ、そして、賢人の知恵の代表例として宗教的知識に着目し、内在的知識を獲得する場面を見てみよう。
内在的知識としての言語的知識の獲得、つまり言語の習得の場面で言えば、たいていの人は母語を当たり前に話すことができる。よって1カ国語についての言語的知識は常識と言ってもいいだろう。そして、現代の日本人であれば、二ヶ国語つまり、基礎的な英語の知識も常識と言えるだろう。「Pen」という言葉を知らない人はあまりいない。しかし、三カ国語、四カ国語と増やしていくと、徐々に常識的に知っているとは言えなくなってくる。たくさんの言語を使える人を賢人と言うのかどうかは知らないけれど、その人が有する知識は、ある種の特別な知識になっていく。例えば10カ国語を自由に使いこなせる人がいたら、その人は神話に出てくる賢人のように思えるのではないか。この一カ国語話者から10カ国語話者まで徐々に増やしていくという操作は、日常の常識から賢人の知恵に徐々に近づけるプロセスと言ってもよいだろう。

宗教的知識についても同様のことを考えることができる。親がキリスト教徒だから、なんとなくキリスト教を信じてるけど、ほとんど聖書も読んだことがない、という人が、聖書を読み、聖書について理解を深め、深くキリストの神を信じるようになっていくというプロセスは、キリスト教的常識しかない凡人が、徐々にキリスト教的知恵を獲得し、賢人になっていくプロセスだと言ってよいだろう。

いずれの場合も、賢人と凡人を区別する明確な境界はない。あるのは程度の違いだけだ。
比較的獲得が容易な知識を常識と呼び、常識しか獲得できていない人を凡人と呼ぶのだろう。そして、比較的獲得が難しい知識を知恵と呼び、知恵を獲得できた人を賢人と呼ぶのだろう。
そこにあるのは、内在的知識としての知識の獲得の難易度の違いでしかない。

4 触媒

4-1 内在的知識と外在的知識のギャップの埋め方

それでは、内在的知識と外在的知識のギャップを埋めることはできないのだろうか。これは明らかに困難な問題だ。なにしろ、このギャップを埋めるとは、実在する内在的知識と、フィクションである外在的知識を結びつけることを意味し、他我問題にまでつながる問題を解決しようとすることなのだから。

しかし一方で、現に私たちは、この内在的知識と外在的知識のギャップがない世界を生きている。注射は痛いことや、9×9=81が外在的にはフィクションだなんて考えずに生きている。
どのように私たちは内在的知識と外在的知識のギャップを埋めているのだろうか。

九九であれ「超ひも理論」であれ、内在的知識は知識の獲得時に見出され、外在的知識は知識の獲得後に見出されることを踏まえると、ギャップを埋めるということは、内在的知識と外在的知識が対等の立場でそれぞれ中間地点に歩み寄ることだったり、外在的知識から内在的知識に「なる」ことではないのは確かだ。
知識の獲得とその後という関係性を踏まえるなら、ギャップを埋めるとは、まず、ある人が獲得した内在的知識があり、その後、全人類が共有する外在的知識に「なる」ことのはずだ。

4−2 程度としての外在的知識(内在的知識も)

しかし、内在的知識が外在的知識に「なる」ためには、少なくとも二つの問題がある。一つ目は、この本でも指摘があった、外在的知識はフィクションであるという問題だ。実在する内在的知識がフィクションである外在的知識に「なる」とはどういうことなのか。「なる」の結果としてのフィクションである外在的知識を、実在しないのに、どう指し示すことができるのか。

このフィクションの問題については、ここで論を進める限りにおいては、外在的知識、内在的知識という区分は程度の話だと解釈することで済ませたい。
これは、部屋が明るいというのは程度の問題だということと似ている。部屋が究極的に、完全に明るい状況というのはありえない。電球100個で照らしても、電球を101個で照らしたほうが明るいし、部屋の中で核融合を起こし、人口の太陽を設置しても、もう一個、人工太陽を設置したほうが、より明るい。どんな状況でも、より明るい状況がありうる。完全に部屋が明るいという状況はなく、部屋が明るいという描写は、程度としての明るさについての描写として可能となる。
これと同じことが外在的知識についても言える。究極的な外在的知識は確かにフィクションであり、指し示すことはできないが、より外在的な知識という程度の問題として捉えることは可能だ。
私が獲得したある内在的知識を、身内で話しただけでは、まだ外在的知識の度合いが低いが、ブログに載せたり学術誌に掲載したり専門書として発行したり教科書に載るようになったりテレビで取り上げられたりすることで、外在的知識としての度合いが高まっていく。
外在的知識とは、複数の人が同じ内在的知識を同じように持っている状況が、どれだけ広まっているかどうかを示す度合いのことなのだと考えてみよう。そのように考えるなら、突き詰めればフィクションでしかない外在的知識という概念も、使いようがある。

(なお、完全に暗いということがありえないことの比喩で、内在的知識についても程度の問題であることを示せる。完全に暗い状況では、視覚が効かず、視覚により暗さを判断することができないから完全に暗いことは描写できない。同じように究極的な内在的知識については語りえない。これは、私的言語の問題につながるが、ここでは、この方向で話を進めない。)

4−3 知識の伝達の成否

二つ目の問題は、「どのように内在的知識が外在的知識に「なる」のか。」という問題なのだが、第一の問題の解決方法を踏まえるなら、この問題は、「ある人が内在的に獲得した知識について、どのようにして、別の人が内在的知識として獲得するのか。」という問題として読み替えることができる。つまりは、知識の伝達、継承の問題だ。

この本における答えを見てみよう。
まず、知識の継承は「基本的には模倣と反復によるものである」(p.17)としている。ただ、この描写は不正確であり、別の箇所で、より個別具体的に、まず、日常の常識とも言える言語について、言語的な知識を受け継ぐためには「先人と同じ程度の時間や努力や才能を必要とする」(p.13)としている。
そして、宗教に関しては、アウグスティヌスと荻生徂徠を例に、アウグスティヌスについては「知識の獲得は本来人と人の間ではなく、神と人との間で成立する」(p.89)とし、荻生徂徠については、「教育を通じて伝えられるべき教えの核心は、具体的体験を通じて学ばれる」(p.91)としている。
また、哲学については、ウィトゲンシュタインを挙げ、「自分の著作が理解されるためには、自分の考えた思想を読者が受け入れるのではなく、読者がみずから同じ問題について考えることが必要であるという見解を彼は繰り返し強調している。」(p.64)としている。ウィトゲンシュタインによれば、読者が知識を獲得できるかどうかは、偶然にも読者が同じ問題を考えているかどうかにかかっているのだ。
知識の伝達の成否を分けるポイントは、言語ならば受け手の努力、宗教についてはアウグスティヌスによれば神、荻生徂徠によれば発信者の工夫、哲学ならばウィトゲンシュタインによれば偶然、とされている。

4−4 受信者の努力と発信者の工夫 〜他者〜

この点について、この本ではあまり整理がされていないように思えるので、整理してみたい。
この本が挙げる知識の伝達の成否を分けるポイントについて眺めてみよう。「受信者の努力、神、発信者の工夫、偶然」の四つが挙げられている。ここで、二つのグループに分けられることに気付くだろう。受信者の努力と発信者の工夫というグループと、神と偶然のグループだ。

まず、前者の受信者の努力と発信者の工夫に着目してみよう。
先ほど確認したとおり、知識の伝達の主役は、あくまで知識の受け手だ。知識の伝達の成否は、知識の発信者はさておき、あくまで受信者側が現に、知識を獲得できるかどうかにかかっている。すると、荻生徂徠の「発信者の努力」は分が悪い。発信者が関われるのは、あくまで受信者の能力を引き出すという限りで間接的に関わることしかできず、決定的なのは受信者の能力なのだ。

更に、この受信者という言葉に、もう少し別の意味を込めてみたい。
少し違う切り口で考えてみよう。一般的な意味で、私は、知識の伝達という出来事があることを知っている。しかし、その「知っている」とはどのようなかたちで知っているのだろうか。
それを考えるために、知識の伝達の場面に身をおいてみよう。
私は、発信者、受信者、第三者の三つの立場をとりうる。

まず、私が第三者であれば、私は、この知識の伝達とは関係がない。もし、ある人がある人に知識を伝達しているのを、横で聞いていたなら、私は、もう一人の受信者だ。また、無言のまま発信者の側に立っていたなら、一言も発しなくても発信者だ。なぜなら、私の代わりに別の人の口で説明をしていたに過ぎないからだ。私が全くの第三者であるとは、私が全くその話を聞いていないということだ。そのような意味で、第三者はこの伝達の場に登場しない。

次に、私が受信者であったらどうだろう。受信者は、まだ知識を獲得していないのだから、知識の獲得、知識の伝達について言及することはできない。私が受信者の立場に立つならば、未だ知らない知識を、受信し、知識を獲得するという一連のプロセスを、受信者の立場から完全に描写することはできない。

とするならば、私は発信者の立場に立たざるを得ない。発信者の立場において、自分は既に獲得している知識が、伝達され、他者、つまり受信者により獲得されるのを観察するというかたちでしか、完全に知識の伝達の場面を描写することはできない。

だから、もし、私が、発信者、受信者、第三者のどれかに感情移入し、その立場に立つようにして伝達というものを理解するならば、私は、発信者の立場に立ち、他者が受信者として知識を獲得するのを観察するしかない。

このような意味で、受信者とは他者のことなのだと言いたい。

伝達の場面では、私は知識を発信する立場に立たざるを得えず、実際に知識を獲得する受信者はどこまでも他者であらざるを得ない。

そして、他者は、私が関与できないところにいる。私が関与できるならば、それは他者ではなく私だ。そんな、私の力が及ばない他者は、偶然か神が支配する領域にいるようにも思えるだろう。

このように、「受信者の努力、発信者の工夫」という知識の伝達の成否を分けるポイントを整理してみると、まず、発信者の工夫は否定され、そして、受信者は他者と読み替えられ、更に他者は偶然や神の領域に置かれてしまう。つまり、受信者の努力と発信者の工夫というグループは、神と偶然という後者のグループに、いわば還元されてしまうのだ。

4−5 神と偶然

そこで着目したいのは、神と偶然のグループだ。

これらについては、慎重に扱わなければならない。なぜなら、神や偶然だけが知識伝達の成否を決めるならば、伝達という営み自体が成立しないことになるからだ。
いくらアウグスティヌスやウィトゲンシュタインが本を書いて、読者に読ませても、そこに神や偶然による働きかけがなければ、その本を通じて伝えようとした知識は読者に伝わらない。一方、本など読まなくても、神や偶然が微笑みさえすれば、読者でさえないその人は、本が伝えようとした知識をなぜか獲得してしまう。これはもはや知識の伝達とは言えず、霊感か何かとしか言えない事態だろう。極めて宗教的であり、また、ウィトゲンシュタインが霊感を大事にし、この本での現代科学的な意味での伝達を否定したこととも重なる。宗教については神が、哲学においては偶然が、知識伝達の成否を分ける要因となることは、アウグスティヌスやウィトゲンシュタインも想定していたことであり、知識の伝達という営みは成立しないという展開になりそうだ。。

しかし、私はもう少し踏みとどまりたい。アウグスティヌスやウィトゲンシュタインは、偶然や神だけに頼らず、現に自ら本を書いている。これは全く無意味なことをしていたのか。

少なくとも、ウィトゲンシュタインはこの無意味さを知っていたのだろう。だから、すでに近いところにいる友人たちだけに向け、投げ捨てられるべき梯子としての文章を残した。これは、本による知識の伝達ということに根本的な疑念があったことの現れだろう。

しかし、いくら控えめに書き残したとしても、全く無意味なことをしていたとは思えない。そこには、この本で捉えていない別の知識のあり方があるのではないか。

4−6 触媒

私は、外在的知識、内在的知識といった、これまで登場した知識とは別に、受信者による知識の獲得を補助する、触媒とでもいうべき知識があると考える。

確かに、ある人の頭の中において、ある知識を獲得するという化学反応が起きるかどうかは、最終的には神の導きか偶然によっているのかもしれない。しかし、その化学反応が起きやすくする知識というものがあるのではないだろうか。
スポーツを上達したいときには、スポーツのhowto本を読む。これは、スポーツについての知識を獲得する際に、全く自力で試行錯誤するよりも、体の使い方や心構えなどを解説した本を読むことで、スポーツについての知識を獲得しやすくするためだ。
本に書いてあるバッターのボールの打ち方についての知識と、実際にボールを打つことで身に付ける体の使い方についての知識とは別のものだが、関連はある。この関連性により、前者の知識が、後者の知識を獲得する際の触媒の働きをする。

これと同様の働きが、アウグスティヌスやウィトゲンシュタインの本にはあるのではないだろうか。だから、彼らの努力は無駄ではない。
そして、荻生徂徠が挙げた、発信者の工夫もここで復活する。発信者の工夫とは、よい触媒を作成する工夫のことなのだ。また、受信者の努力、才能という捉え方についても、この触媒を活用する能力という限りでは復活する。なぜなら、この触媒は、発信者と受信者の間にあり、全くの他者である受信者の領域だけにあるものではないからだ。

4−7 草刈り

なお、ある知識が、触媒として関連する知識の獲得を促すのは、その触媒としての知識が、ある知識を獲得するかどうかの選択を迫るからだろう。
「バッターはボールを打つとき、ボールから目を離してはならない。」という文章を読んだならば、その記述に従い、ボールから目を離さないように努めるか、またはその記述を無視するかのどちらかしかできない。その文章を読む前ならば、ボールを打つ時の視線の動きは全く気にせず、筋力をアップしたり、ピッチャーとの星占いの相性を気にしたり、といった試行錯誤をする自由があったが、一旦文章を読んでしまったら、視線の動きという問題意識を受け入れるか、拒否するかの二者択一を迫られる。意識が視線の動きという問題にフォーカスされると言ってもいい。だから、本の記述は、知識の獲得の触媒となりうるのだ。

このことは、文章が問いかけてくる、と言ってもいい。ウィトゲンシュタインの本を読んだなら、ウィトゲンシュタインのこんな声が聞こえてくる。「私はこの問題について、このように考える。君はどうなんだ。」と。そして読者はウィトゲンシュタインの問題に絡め取られる。これが、ウィトゲンシュタインの本が哲学的に役立つということだ。

だから、文章を書くことは、山を登りながら、後に続く人が歩きやすいように、山道の草を刈っておくことと同じ作業だと言ってもよい。
後に続く人は来ないかもしれないし、来ても、道を逸れ、好きな方向に進んでいくかもしれない。それでも、もしかしたら、自分と同じ道を歩みたい人がいるかもしれないと思い、草を刈っておく。そんな作業なのではないだろうか。

4−8 必要な勘違い〜楽観〜

ウィトゲンシュタインは、「この書物を理解してくれるのは、ここに表現されている思想 ーまたはそれに似通った思想ーを、すでに自分で考えたことがある人だけかもしれない。」(p.51)とするなど、ごく少数の「友人たち」(p.52)だけに、自らが書く文章が意味を持ちうるとしていた。だから、「自分の手を握ってくれる人」(p.54)としか語り合うことができないのだ。

これは、ここまで述べたことに即して解釈するなら、せっかく山道の草を刈っても、後に続いてくれる人は少ないことを知っていた、ということを意味する。

しかし、さらに言うならば、ここには「必要な勘違い」があるように思える。
本来、山で草を刈り、道を作っても、その道を使ってくれるひとがいるどうかわからないはずだ。
しかし、ウィトゲンシュタインは、あたかも、たとえ少数であっても、自分の思想を理解してくれる人がいると知っていたように思える。ウィトゲンシュタインは草を刈りながら振り返り、後ろに人がついてきているのを確認しているのだ。
これは、たとえ、少数の人に対してであっても、現に知識の伝達がうまくいったことを確認し、そのことをもって、遡るようにして、自分の文章に意味を持たせていたということだ。
この、発信者Aが、他者である受信者Bに対する伝達の成否を確認できる、ということが「必要な勘違い」なのだ。

発信者Aが伝達と名がつく行為をするためには、この確認ができることが必要だ。しかし、他者である受信者Bが発信者Aに伝達が成功したことを伝えるためには、立場を変え、再度、伝達が行われなければならない。伝達が伝達として成立したことを確認するためには、別の伝達の成立が必要なのだ。だから、ほんとうなら、この作業には終わりがなく、本質的に成し遂げることがありえない。だから、楽天的に伝達がなされたと思い込むことは、伝達を成し遂げるために必要ではあるが、やはり勘違いなのだ。

この「必要な勘違い」という楽天さは、ウィトゲンシュタインが「論考」を書く真の目的が「語りえないものを暗示する」(p.59)ことにあったことともつながる。
「暗示」という行為は言葉にしたとたん、暗示ではなくなり、暗示でしか伝えることのできない微細さが失われる。
ウィトゲンシュタインは、文章を書く前から、既に、ごく少数の「友人たち」に対して、語りえない次元において一致し「語りえないもの」についての知識についての伝達が成立していると信じているからこそ、語りえないものを暗示するような文章を書くことができたのだ。

「論考」における投げ捨てられる梯子は、すでに語りえない次元において一致している「友人たち」の模倣というか再確認を助ける触媒なのだ。

これは、書く前から、既にごく少数の人しかわかってくれないことを知っているという点で悲観的だが、ごく少数の人がわかってくれると思っている点で楽観的だ。この楽天さと、「必要な勘違い」をした楽天さは同じものだ。

自分の理解者は限られているという悲観と、少しでもいるという楽観との狭間に、読者の心を揺り動かす触媒としての文章が存在する余地があるのではないか。

5 メタ知識の未来

5−1 メタ知識

科学においても、少しでも後進の者たちが知識を獲得できるよう、科学書や論文といった形で、触媒とでも言うべき、補助的な知識が蓄積されている。人は哲学であっても、科学であっても、先人の文章を触媒とし、知識の獲得を助けられながら、内在的知識を獲得する。
社会的な仮定である外在的知識を科学的知識として認定するという誤りさえ取り除けば、科学の分野においても、そこには、こんなあたりまえの知識の伝達の営みがあるだけなのだ。

それでは、現代において、科学的知識だけがうまく蓄積され、飛躍的な進歩をとげているのはなぜなのか。
その要因のひとつとしては、科学の分野において、たまたま、媒体としての補助的知識の記述のルールが知識の蓄積に適していたから、ということがあるだろう。
科学の分野においては、分野別に科学書や論文といった補助的知識がよく整理されているため、読者がどの文章を読むべきかが容易にわかる。また、どの科学書や論文が現時点で正しいとされ、有力で優先して読むべきかが、科学のルールに基づき判定され、優先順位がつけられている。後進の者は、哲学や宗教といった分野に比べ、自分のニーズに合った触媒となる補助的な知識に容易に出会えるようになっている。

これは、きちんと整理整頓された図書館で本を探すことと、物置に雑多に積まれた本の山から本を探すことの違いと似ている。図書館では、分野ごとに本が置かれ、また、人気がある本は倉庫の書架から出され、本棚に並べられている。科学的知識はそのようなアクセスが可能だ。一方、哲学的知識や宗教的知識は、どこに自分が必要とする触媒としての補助的知識があるか探すのが大変だ。見当違いの先人の知識しか見つけられず、一生勘違いすることだってありうる。

この補助的知識は、どの知識を習得したらよいかを示してくれる地図のようなメタ知識と言ってよいだろう。知識の習得を補助する触媒としての知識のなかには、このようなメタ知識というかたちで提示されるものがある。

科学的知識においては、メタ知識が機能しやすい構造があるのだ。

5−2 未来

しかし、科学以外の分野についても光明はある。

まず、将来、より知識の蓄積に適した整理の仕方が見出される可能性がある。
例えば、哲学は、今は知識が全く整理されていない状況だ。確かに科学哲学、美学、応用倫理学・・・というような分野の区分や、イギリス経験論、ドイツ観念論というような学派の区分はある。しかし、自分の問題意識に対して、どの知識が参考になるのかがわかりにくい。しかし、なんらかの別の整理の仕方により、より過去から蓄積された知識にアクセスしやすくなることはありうる。(私は、主張という切り口から分類するのではなく、疑問という切り口から整理することができないかと考えている。「無限とは何か?」という疑問がある人はこちら、というような案内ができないかということだ。)
これは哲学におけるメタ知識の発展といってもよい。

また、より大きな話としては、私は、科学技術の発達により、分類、整理とは別のメタ知識のあり方が見出されつつあるのではないかと思う。それは、現在既に達成されているものを例示すれば、google検索のようなあり方だ。うん十年前、検索はyahooカテゴリ検索だった。それが、人工知能のはしりとでもいうべきアルゴリズムを組み込んだキーワード検索に置き換わった。人は分類、整理によらずに、効率的に補助的知識にたどりつく術を見つけたのだ。
この進化の道には続きがあるだろう。ひとつが、この本も「コンピュータの言語能力は〜いずれ人間の能力を凌駕することが予想される。」(p.28)というかたちで触れているように、知識の担い手が人間からコンピュータに移るという道だ。
もし、すべての知識が、単一のコンピュータに収められたなら、知識の伝達の問題は消失する。
ウィトゲンシュタインの哲学とラッセルの哲学は一つのコンピュータの内在的知識として取り込まれ、私達が明日の天気のことを考えたり、今夜の晩ごはんについて考えたりするように、コンピュータは、適宜、ウィトゲンシュタインの哲学や、ラッセルの哲学を考えることができるようになる。そして、両方の哲学を、その背景となるウィトゲンシュタインやラッセルの人格全てを完全に理解し、両者を見渡した新しい視点から、別の哲学を考えだすこともできるようになる。
これは、知識の自動的な蓄積という、現在、科学的知識についてフィクションとして実現している理想的な進歩の仕組みが、哲学において現実に実現した状態だと言ってよいだろう。ここに至れば、ハードディスクを増設するようにして、どこまでも哲学を進歩させることが可能になるのだ。

もうひとつ、私達人間の脳をネットワーク化するという道もある。この道を歩んだとしても、知識の担い手が人間のままであるということを除いては、全く同じことが実現するだろう。
これは、啓蒙主義者の「正しい教育が普及すれば、あらゆる人が必要な知識を学んで身につけることができるだろうという将来に対する期待」(p.97)の少しグロテスクな実現でもある。
啓蒙主義の夢は、少し遅れてはしまったが、そろそろ実現するのではないか。

6 対話との関係

ここまで、「科学から哲学へ」を材料にして、私の「対話」に関する問題意識を踏まえ、知識を伝達するということについて検討してきた。
伝達とは、話し手だけが持っている内在的知識が、なぜか、聞き手にとっても同じ内在的知識となるということであり、その神や偶然が関わるとしか思えない不思議さを説明するために、伝達を補助する媒体という考え方を持ち出した。

それでも、不思議さは残る。
いくら媒体があり、聞き手が内在的知識の獲得を促されたとしても、その知識が話し手の内在的知識と同じものかどうかはわからない。聞き手の9×9=81と聞き手の9×9=81が同じものだという保障はない。
多分、この同一性は、この営みが、同じ人間、同じ知的生命体による、対等な双方向の対話であるということが保障しているのだろう。
伝達が、対話ではなく、内在的知識を持つ発信者から内在的知識を持たない受信者への、一方的で不均衡な一度限りの行為だとするなら、この同一性は成立しないはずだ。
そこに、「対話」ということの哲学的意義があるように思う。

なぜ生きているんだろう?

この文章は「子どもの難問」という本に触発されて、2013年の終わりころに書いたと思います。

・・・

「なぜ生きているんだろう?」この問いについては、君も知っていると思うけれど、まだ答えが出ていない。
僕は、このような答えが出ていない問いについて考えるときには、どうして答えがでないのかを考えることが一番大切だと思っている。

答えが出ていない問いはいくつかのパターンに分けられる。
例えば、「君はこれまで何日小学校に通ったか」というような、学校に残っている記録を足してみればわかる「調べれば答えが出るけれど、まだ調べていない問い」がある。
他に、「東京から小田原に行くにはどうしたら一番いいか」というような、早く着きたかったら新幹線で行くし、安く行きたかったら東海道線で行くけれど、どちらでも間違いではないが、どちらが正しい答えということでもない「前提条件の違いで答えが変わるから答えが出ない問い」もある。
他にも、パターンはあるかもしれないけれど、「なぜ生きているんだろう?」という問いは、そのどれでもなく、「実は正しい問題のかたちになっていないから答えが出ない問い」なのではないかと思う。

この問いの答えが出ていない理由は「生きている」という言葉を簡単に使っているからなのではないか。
言いかえれば、「なぜ生きているんだろう?」という問題の前に、そもそも、「生きているってどういうことだろう?」という問いがあるのではないか、ということだ。

僕は、僕の最近の行動を思い出してみる。
僕は、昨日は奥さんと買い物に行って、今日は家族で僕の実家に行った。
朝は、朝ごはんを食べたし、そのあと、歯みがきもした。
呼吸もしたし、頭をかいたりもした。
今は、考えて文章を書いている。
だけど、「生きる」なんてことをしただろうか。

僕は、歯みがきをしてるときに、考え事をしたり、テレビを見たり、呼吸をしたりしたけど、「生きる」ということをした気がしない。
そう考えると、そもそも「生きる」ということをしていたかどうかあやしくなってくる。
「生きているってどういうことだろう?」という問いは、「僕は「生きる」なんていうことをしているのだろうか。」という問いに変わる。

その問いに対する僕のとりあえずの答えは、「僕は「生きる」なんてしていない。」だ。
なぜなら、「生きる」ということをしたということをうまく説明できないから。

ここまで書いて、僕は読み返す。
問題を簡単にするために省略したこともいくつかある。だけど、この結論に至る過程はそれほど外れてはいないと思う。
だけど、「なぜ生きているんだろう?」という疑問を持ったとき、僕が求めていた答えはこういうことではない、という思いが首をもたげる。
どうして、このような思いが生まれてくるのか、これがもっと大きな問題なのかもしれない。

もしドラえもんがいたら

これは多分2013年くらいじゃないかな。
・・・
「もしドラえもんがいたら。」
これは、もし悪魔と取引ができたら、とか、もし魔法の精が入ったランプを見つけたら、というような状況に比べ、はるかに困難な状況である。
悪魔との取引ならば、要は、魂という犠牲を払ってまで何を手に入れたいかを考えればよい。魂より大切なものがあれば取引をして手に入れればよいし、なければ取引をしなければよい。それだけの問題だ。
また、魔法のランプの場合は、回数制限があるので、自分にとっての願い事の優先順位をしっかり見極め、そのとおりにお願いをすればよい。それだけの問題だ。
そこには、一時的な欲望を律し、理性的な思考が出来るか、という問題はあるものの、本質的にはそれほど困難ではない。
それに比べ、もしドラえもんがいたら、というのは、はるかに困難な状況である。
これは、要は、無限に何でも願いが叶えられたら、ということだ。
厳密には、悪魔やランプの精の能力と、22世紀の科学では、どちらが上か、という問題はあるが、それぞれの物語における描かれ方を踏まえれば、いずれも、ほぼ万能だと考えてよいだろう。
幸運にものび太は頭が良くないので、ドラえもんの能力を活用しきれていないが、もし、活用し切り、無限に何でも願いを叶えてもらったなら、どのような状況に至るだろうか。
人が通常叶えてもらいたいだろう、ありそうな願いを列挙すれば、
不老不死。自己の能力の強化(見た目を良くする、超能力を身につけるなど)。物欲の充足。知識欲の充足。他者からの尊敬、他者のコントロール。世界の改変。過去の改変(過去の失敗の帳消しなど)。強度のある人生(冒険など)。
といったものが挙げられそうだ。
このような願いが全て叶った状況を考えてほしい。
私は、その状況が、トータルリコール(より正確には「百億の昼と千億の夜」のゼン・ゼンシティの住民)のように、自ら、これから見る夢を選び、永遠に夢の世界に入ることを選んだ人と何ら変わりが無いとしか思えない。そこにあるのは、F先生が描く少し不思議な物語ではなく、サイバーパンク的なグロテスクな世界である。
特に、強度のある人生を送りたいという願いは致命的だ。
この願いは、他の全ての願いと相反する。この願いを叶えるためには、他の願いが叶っていてはまずい。なぜなら、うまくいかないからこそ、冒険は楽しいからだ。万能の超能力を持ちつつ悪者と戦ってもつまらないし、相手の気持ちを自由にコントロールしつつ、恋愛ストーリーの主人公になることはできない。
ドラえもんの映画において、毎回、のび太たちが、大冒険を繰り広げるということは、この願いが皆に共有されているということを意味し、毎回、映画でドラえもんの四次元ポケットが故障するということは、この願いが他の願いと相反するということを意味しているのだろう。
そこまで考えたとき、私達はドラえもんに何をお願いするのだろうか。
私ならば、それでも、やはり、ドラえもんに際限の無いお願いを繰り返し、その挙句にサイバーパンク的なグロテスクな状況に足を踏み入れてしまうかもしれない。
自らの欲望をコントロールできる人などいるのだろうか。弱さを持たず、誘惑に耐えられるのは、出来杉君のような特別な人だけだろう。
だから、出来杉君は映画にはあまり登場しないのかもしれない。

ゆっくり、いそげ

これは2015年の冬か2016年に書いたと思います。

・・・

クルミドコーヒーで哲学カフェも開催している影山さんの「ゆっくり、いそげ」という本を読んだ。

この本は、ざっくり言うと、人からテイクするビジネスばかりではなく、ギブのビジネススタイルもあるんだよ、と提案するビジネス書だ。
お客さんから、いかにお金をテイクするかばかり考えていたら、客の側だって、いかに店からサービスをテイクするかというような考えになってしまい、結局どっちもうれしくない。
それより、お客さんにいかにギブするかを考えたほうがいい。そうしたら、客の側もギブで返してくれる。という提案だ。
ただし、世の中うまくはいかない。
この本も、テイクを否定し、ギブだけを肯定する、という単純な図式ではない。著者は元々バリバリのコンサルで、現代資本主義社会の意義は重々承知しており、テイクのメリットも認めている。認めたうえで、ギブを提案している。
ここには、ギブとテイクとの間の複雑な関係がある。それは、矛盾した並立というか、拮抗と言ってもよいだろう。「ゆっくり、いそげ」というタイトルが示しているとおりだ。
ギブとテイクの拮抗をどのように実現していくのか。この本は、一般原則のようなものは提示してはいない。ただ、著者がクルミドコーヒーというカフェを経営していくなかで、現に行ってきたことを具体的に記述しているだけだ。(それが、この本の正しさなのだと思う。)
だから、この本を読んで、よし、ギブで何か事業をやってみるぞ、と思っても、同じようにうまくいくとは限らない。僕も、いつか、とは思ったけれど、簡単にはうまくいかないだろう。
ただ、僕はいくつか思いついたことがある。
いつか起業した未来の僕のために、つぎのことを備忘録として残しておきたい。
まず、ギブとテイクのバランスがとれるような、ある静的な一点があると考えてはいけない。
テイクだけを考えたらコーヒーは一杯500円だけど、ギブも考えればコーヒーを250円にすべきだ、というような単純な話ではない。
あるときは、事業の存続のため、テイクを考え、値付けしなければならないときもあり、あるときは、採算度外視でギブしよう、と考えるべきときもある。そんなふうに悩み、逡巡しつつ、ギブとテイクを揺れ動かざるを得ないのだろう。そんな動的な拮抗が、ギブとテイクの関係性にはある。
そして、そんな苦悩や逡巡が垣間見えるからこそ、テイクしつつもギブする、という複雑な思いが、ある営利事業に込められていることが、顧客や従業員に伝わるに違いない。こんなふうに、一段深いところで、その思いが伝わるからこそ、顧客や従業員もテイクしつつもギブするという心からの態度を返してくれる。そんな真摯な営みとしてしか、営利事業におけるギブは成立しないのだろう。
もうひとつ。
多分、ギブが成立しやすい場というものがある。
カフェは、生活に必須のものではない。カフェに行くためには、ある種の余裕が必要だ。
すごくお金に困っていたり、すごく時間に余裕がなかったりしたら、駅前のチェーンのカフェで済ませるだろうし、そもそもカフェになんて行かない。
クルミドコーヒーに行く人は、もともと、ギブをギブで返す余裕がある人だ。
もし僕が事業を始め、関係者とギブの関係を結びたいと思ったら、余裕がある人と関わるほうがよい。余裕がない人とはギブの関係は結べない。貧すれば鈍するだ。
なお、この提案は、社会の階級化を認め、固定化しようとするものではない。
余裕がある人同士でギブの関係を始めることで、余裕がない人を巻き込むことができるのではないかと考えている。
僕がここで言う余裕がない人とは、金銭的余裕がない人には限らない。というか、本質的には余裕がない人とは、お金の余裕の有無に関わらず、人生に余裕がない人のことなのだろう。いくらお金がなくても、人生に余裕があれば、お金がないなりのギブの関係が築けるはずだ。
だから、僕はギブの関係を現に始め、小規模であっても、それを維持することで、ギブの関係が成立することを周囲に示し、色々な人を巻き込むことができると考えている。
始めが肝心だ。カフェもいいけれど、僕なりのギブが成立する場を慎重に探し、第一歩を踏み出したい。

サイコパスの倫理学 ~「良心をもたない人たち」を読んで~

多分2015年に書いたと思います。この頃は暇だったので・・・
・・・
この本は、いわゆるサイコパスについての本だ。
カウンセラー系の仕事をしている奥さんの本棚にあったので、なんとなく読んだが、色々と考えさせられたので記録しておくことにする。
サイコパスの心情を理解するためには、「自分の行動が社会、友人、家族、子どもたちにおよぼす影響を完全に無視できる状態」を想像できなければならない。この本にはそう書いてある。これは、とんでもない事態であり、想像が難しい。「完全に」無視することなんてできるだろうか。こんな極端な想像は、まさに哲学の思考実験だ。
しかし、私にとって、この思考実験は2回目だ。実は、永井均の独在論的な倫理学に、同じような話がある。
永井は、倫理的な判断を行うにあたって、自分以外を考慮に入れないことを推奨する。ギュネスの指輪(透明マントのようなもの)により、完全に悪事が露見しないならば、犯罪を犯すことは当然の判断と考える。(少なくとも、そう受け止められるような記述がある。)
自分以外を考慮しないことを推奨する永井の倫理学は、サイコパスという思考実験につながる。
私は、私の哲学的興味が、この、なぜ人は悪事を働いてはならないのか、という疑問から始まったことを思い出す。
私は、より悪事がない世界を望んでいる。しかし、人に、「悪事を働いてはなぜいけないのか。」と問われたとき、その答えを持っていない。
この問いは、社会評論的には、10年以上前に流行った議論だが、明確な答えがないまま、話題として消費され、廃れてしまった。
多分、「人は悪事を働いてはならない訳ではない。」という永井の力強い答えに勝る答えは見つからなかったということなのだろう。
私は、その先の答えを探している。これが私が哲学をする動機のかなりの部分を占めている。
この本を読んで気づいたが、私は、永井の倫理学、サイコパスの倫理学に対抗できる倫理学を探し求めていると言い換えてもいいだろう。
・・・
本の内容の話に入るが、この本によれば、どうも私はサイコパス的なようだ。
私は人と接するとき、例えば職場の上司と接するとき、上司のことを尊敬していなくても尊敬しているふりができるし、多分、女性との刺激的な出会いが欲しくて、好きでもないのに愛を囁くことだってできる。これは相手に対して愛を持たず、自分の欲望の道具として接することができるということであり、サイコパス的だと言っていいだろう。
また、サイコパスの特徴として挙げられている、人とのつながりという感情的な生活が欠如していることによる退屈感についても、私は理解できる。
確かに充実している時もあるが、時々、ふと、何かが欠けたような退屈感を強く感じる時がある。これは、この本が描くサイコパスの退屈に似ている。
また、この本によれば、現時点での研究成果としては、サイコパスになる要因は完全には判明していないが、遺伝的要因、社会的要因が大きく、家族的要因はあまりないと考えられているそうだ。
そして、社会的要因が大きいことの論拠として、東アジアには、個人の自由よりも社会的な義務付けを優先する社会構造があるから、サイコパスが少ないという例が挙げられている。
遺伝的には愛を感じられず、サイコパス的要素がある人でも、東アジアに生まれたなら、社会的に他者への配慮の義務付けを学習するから、サイコパスになりにくい。他者への愛が、頭ではわからなくても、愛があるかのような行動をとるよう体で覚えさせられている、ということだ。
日本生まれの私は、どうも、そのパターンにあてはまっているような気がする。
私は、愛のためではなく、社会に合わせつつ、自分の欲望を達成するために、相手を尊重しているふりをすることができる。
これは、本質的にはサイコパス的である人間が、社会的な教育により、それを押さえつけられている状況だろう。
この本は、そんなサイコパス的な人間の対極にある人間として、「自己と道徳的目標との一致」を実現した道徳的手本となる人々を列挙する。
例示されていたのは知らない人ばかりだったが、文脈からすると、多分、マザーテレサのような人なのだろう。
確かに、マザーテレサには、愛に基づかない行動などないだろうし、退屈を感じる隙などはないだろう。私はマザーテレサにはなれない。
しかし、ここで疑問が生じる。
世の中にはマザーテレサのように道徳的手本となる人なんて、そんなにたくさんいるだろうか。
私には少々サイコパス寄りなところがあるのは確かだが、私を含めた人たちは、大抵、似たようなものなのではないだろうか。私たちは皆、完全なサイコパスでもなく、完全なマザーテレサでもなく、その間に位置づけられるのではないだろうか。要は、程度の問題なのではないだろうか。
同じ疑問は、この本の別な個所からも生じる。
この本ではヒットラーから始まり、フセイン、ビン・ラディン、チンギス・ハンまで、大抵の大量虐殺を行った人はサイコパス的ということになっている。
これは、とてもくだらない間違いだと思う。モンゴルでは英雄になっているだろうチンギス・ハンまで、大した検証もせず、サイコパスに含めることができるならば、歴代のアメリカ大統領だって、同じくらい怪しいだろう。なぜなら、この本では、表面的な行動からは、サイコパスかどうかは、なかなか見分けがつかない、と言っているのだから。殺した人数だけ比較するなら、五十歩百歩だ。
率直に言って、この本は眉唾が多い。そもそも、この本が書かれるきっかけとして、911が挙げられ、あたかも世界最大級の悲劇であったかのように語られている。
これは誤りだ。世の中には、もっと大きな悲劇は山ほどある。911が特異で注目を集める悲劇であるのは、その悲劇の大きさによるのではなく、超大国が蒙った悲劇だからだ。こんな、くだらない誤りから始まっているこの本は、大筋として間違いだらけだ。
しかし、サイコパスの具体例を示しつつ、サイコパスという着眼点を示してくれたこの本の意義は大きい。そして、この本に刺激されて感じた疑問は、私の考えを先に進ませてくれる。
なぜ、チンギス・ハンはサイコパスと誤解されるのだろう。
多分、当時、チンギス・ハンは、モンゴル民族にとって英雄だっただろう。他民族に打ち勝ち、モンゴル民族を守り、そして経済的にも裕福にしてくれた。
多分、チンギス・ハン自身も、モンゴル民族を他民族から守り、裕福にできたことを喜んだだろう。また、自分の子孫が各地の王として君臨し、成功したことを喜んだだろう。
そこには、現代的な言い方をするなら、民族愛、家族愛があったと言ってもよい。
しかし一方で、モンゴル軍は大量虐殺を行った。相手を人とも思わない行動はサイコパスの特徴だ。だからサイコパス的だ。多分、この本の作者は、そう考えたのだろう。
確かに、チンギスハンは実はサイコパスだったかもしれない。モンゴル民族や自分の家族のことも、自分の野望のための道具くらいにしか思っていなかったのかもしれない。
他民族を虐殺するとき、そこにはモンゴル民族や自分の家族の幸せという観点は全くなく、単に自分の楽しみしかなかったのかもしれない。しかし、そう考える明確な根拠はない。
チンギス・ハンがサイコパスかどうかは、モンゴル民族や家族への愛を持っていたかどうかにかかっている。しかし、それは外部からはなかなか分からない。
これは、私のような普通の人生を送っている人間が、他人から見て、愛を持っているかどうかは簡単にはわからない、という問題と大差はない。
サイコパスかどうかの不明確さは、私やチンギス・ハンのような、マザーテレサほどではない多くの人間に共通の特徴なのではないだろうか。
この視点を踏まえると、この本の先にある二つの疑問の答えが見えてくると思う。
一つは、この本のなかでも明確に疑問として示されているが、サイコパスになるかどうかを決める、遺伝的要因、社会的要因以外の要因は何か、という疑問だ。
そして、もう一つは、この本では疑問としては示されていないものの、多分、誰もが感じるだろう、なぜ、25人に1人ものサイコパスがいるのか、という疑問だ。
実は、この本におけるサイコパスは、私やチンギス・ハンまで含めると2種類ある。
全ての人をモノとしか扱わない真のサイコパスと、家族などの身近な人は人として愛するが、他民族などの遠い人はモノとして扱う、というサイコパスもどきだ。
私やチンギス・ハンはサイコパスもどきで、この本に出てくるスキップ、ドリーンは、真のサイコパスということになる。
つまり、先ほどの二つの問題の答えを出すならば、サイコパスとなる要因がわからないのは、そもそも、サイコパスもどきまで研究対象に含めているからであり、25人に1人ものサイコパスがいるのは、そこにサイコパスもどきを含めているからなのだ。
真のサイコパスだけを捉えることができるなら、25人に1人という異常に高い値は出ず、その要因をもっと明確に研究することができるのではないだろうか。
しかし、更なる疑問が残る。
この25人に1人というのは、多分、心理学の専門家が独自に面接を行い、把握した数字だろう。多分、面接してもらえれば、私やチンギス・ハンのようなサイコパスもどきは嫌疑が晴れ、サイコパスとのレッテルを貼られずに済むだろう。それならば、やはり、25人に1人は、真のサイコパスなのではないだろうか。
そこで、また疑問は先に進んでいく。そもそも、真のサイコパスとは何だろうか。この本に出てくる、スキップ、ドリーン達は、なぜ、真のサイコパスだと言えるのだろうか。
確かに、スキップ、ドリーンの例は、真のサイコパスを描くことに成功している。しかし、その成功の理由は、彼らの視点から、彼らの内面を描くことができたからだ。実際には他者の内面を描くことはできない。スキップは、もしかしたら気まぐれに愛を持っていたが、それを恥じて隠しているかもしれないし、愛を持っているのに、そのことを忘れてしまったのかもしれない。
この本では、あくまで「お話し」として、その可能性を否定できたが、現実の世界では、他者の内面を漏れなく描き切ることはできない。
それは、その逆の立場にある道徳的手本たちも同じだ。彼らの行為が、全て愛によっていたかどうかはわからない。マザーテレサも、愛のためではなく自分の私利私欲のため、という気持ちを少しは持っていたかもしれない。それは、誰にもわからない。
また、スキップ、ドリーン達が真のサイコパスかどうかについては、もう一つ疑問がある。この本によれば、真のサイコパスは、自分自身に対する愛情も欠いているということだ。そして、自分を大事にせずに、退屈しのぎのゲームのために、軽率に自分の身を滅ぼす姿が描かれている。
しかし、自分自身を全く尊重せず、愛さないということはできない。ドリーンの方法は邪悪だが、自分とジャッキーを同じレベルにしたい、というのは自分に対する愛だと言っていいだろう。スキップも同じだ。蛙を殺すという行為は、蛙を殺すことにより自分を楽しい状態にすることを目的としており、これは、極めて短期的だが将来の自分に対する愛だと言ってもいいだろう。食事をするのは、自分自身を空腹から救おうとする愛である、というところまで愛を拡大するならば、ある人間が首尾一貫した行動をするためには、少なくとも、なんらかの短期的な自分自身への愛がなければならない。蛙を殺すのが好きだから、自分を苦しめるために蛙を殺さない、とか、空腹だから自分を苦しめるために食事をしない、では意味がわからない。
スキップやドリーンは、完全には愛を欠いてはいない。自分自身に対する愛を持っているという意味で、真のサイコパスではない。
このように考えると、この世界には、スキップ、ドリーンのような極めてサイコパス寄りの人たちと、私やチンギス・ハンのようなサイコパス的要素はあるが中間的な人たちと、マザーテレサのようなほとんどサイコパス的要素がない人たちというように、さまざまなサイコパスもどき達がいる、というのが妥当なところなのだろう。要は程度問題なのだ。
しかし、そこに、心理学は、診断により楔を打ち込む。ここから先はサイコパスであり、ここから手前はサイコパスではない、という分類を行う。そこにあるのが、25人に1人というしきい値となる。
そして、その分類は、なぜか成功している。明らかに、私やマザーテレサは、スキップやドリーンとは異なる。この境界が哲学的に何を意味するのか、そこに私は興味がある。

サンタクロースはいるのかな

懐かしい。これは多分、2011年の1月とかかなあ。
・・・
(父)サンタクロースはいるのかな。
(娘)わからないから教えて!
(父)サンタクロースはパパだとは思わない?
(娘)そうかな、とは思ったけど、やっぱりパパなの?
(父)うん。ある一面ではそうかな。
(娘)そうなんだ。多分そうかな、とは思ってたけど。
(父)ある一面では、だよ。
(娘)ある一面、ってまた、私が嫌いなややこしい変な話?
(父)うん、多分サツキ(当然偽名です)がややこしい変な話だと思ってるやつだよ。嫌いなのはわかるけど、この話はちゃんと聞いてほしいんだ。そうじゃないと、パパがサンタクロース役をした意味がないような気がするんだよ。
(娘)どうせ、「ただ騙してたわけじゃないんだ。」みたいな話でしょ。なんだかごまかしてるみたいで嫌。
(父)うん、そうだけど、サンタクロース役としては、結構苦労もしてきたんだし、少しくらい話させてよ。
(娘)苦労っていったって、どうせおもちゃ屋さんでプレゼントを買ってきただけでしょ? 友達の家は、サンタさんからもプレゼントをもらえて、パパやママからもプレゼントをもらってたんだよ。1個しかくれないなんてケチなんだから!
(父)まあ、1個で済んだってのはあるけど・・・こっちだって、わからないようにプレゼントを隠したり、大変だったんだよ。あんまり高くないものに誘導したり・・・
(娘)ふうん。たいしたことない苦労!
(父)そんなに怒るなよ。今年もちゃんとプレゼントあげるからさあ。いいものあげるよ。
(娘)じゃあ、私が欲しいものなんでもいい?それならまあ、ちょっとくらいなら話しを聞いてもいいけど。
(父)(物でつった気もするけど、まあいいか。)まず、質問だけど、クリスマスにサンタクロースからプレゼントを貰えるって話は、なんだか不思議だと思わない?
(娘)うん。それは不思議だと思ってたけど。タネがわかれば不思議じゃないよ。どの家も、お父さん、お母さんが、こっそり枕元に置いてるんでしょ。
(父)そう、その、どの家も置いてるってのが不思議じゃない?こんなに、大人がみんなで、社会全体で大きな嘘をついてる、っていうことって不思議だなあ、って思うんだ。
 こんなこと、他にないよね。どうして、大人がみんなでサンタクロースなんていうものを創り上げたんだろう。
(娘)面白いからかな。
(父)うん。みんな、子供に、サンタクロースというものを信じさせるのがとっても面白かったんだろうね。実際に、パパも面白かったよ。プレゼントをもらって喜んでるサツキの姿は可愛かったなあ。
 あと、なんといっても、いい子じゃないとプレゼントが貰えないっていうのがいいよね。親がプレゼントをあげないって脅すと、なんだかひどい親みたいだけど、サンタクロースならしょうがないもんね。
 そんな、教育上の効果とかもあって、多分、現代のお父さん、お母さんの希望にぴったりと一致したんだろうね。そして、すごい勢いで社会全体に広がっていったんだろうね。
(娘)まあ、サンタクロースを大人がみんなで創り上げたっていう話は面白いけど、そういうことって他にもあって、例えばバレンタインデーのチョコレートとかと一緒だと思うけど。
(父)うん。そうだね。そこまではそうだと思う。だけど、サンタクロースにはもっと不思議なことがあると思うんだ。
 ここからは多分、君がお母さんにならないとわからないのかもしれないけど、自分がお母さんとして子供にクリスマスプレゼントをあげるときに思い出して欲しいと思って話すね。
(娘)忘れちゃうと思うけど。
(父)(だから、文章にしてるんだよ・・・)
まあ、忘れちゃってもいいから聞いて。
 パパがクリスマスの夜、君の枕元にプレゼントを置くとき、自分が置いた気がしなかったんだ。なんていうのかな、自分は、自分の意思でプレゼントを置いているんじゃなく、自分は、なんだか、プレゼントを置く役割を演じているだけ、っていう気がしたんだよ。
(娘)それは、大人がみんなでサンタクロースを作り上げたから、自分の考えじゃなくて世の中の流れでなんとなくプレゼントを置かされていたっていうこと?
(父)う?ん。そういう面はあると思う。だけど、それだけじゃないんだよな。
もっと、正確にいうと、パパが子供の頃、子供だったパパの枕元にプレゼントを置いてくれた人と同じ人が置いている気がしたんだよ。パパはその手伝いをしてるだけっていう感じだったんだ。
(娘)パパの枕元にプレゼントを置いた人ってジジかババ?
(父)うん。まあ、そうなんだけど、そういうことじゃないんだよな。
 子供だったパパの枕元にプレゼントを置いたサンタクロースが、サツキの枕元にもプレゼントを置いた感じがしたとしか言えない。
 だから、サツキが12月25日の朝に起きて、プレゼントを見つけて喜んでいるのを見て、「ああ、俺が置いたのに、サンタさんからのプレゼントだと思うなんてかわいいなあ」なんて全然思わなかった。
 本当に、サンタさんからプレゼントを貰えてよかったなあ、ってしか思わなかったんだよ。不思議じゃない?
(娘)う?ん。不思議だけど、わかんないかなあ。やっぱり。
(父)そうだね。多分、わからないんだろうと思うよ。
 だけど、未来の君のために一応話しておくね。
 パパは、やっぱりサンタクロースはいるんじゃないかと思うんだ。
 いるって言っても、フィンランドにいるとか、そういうことじゃなく、親の心に働きかける何か、という形で、決して子供にはわかることがないような形で、サンタクロースはいるんじゃないかと思うんだ。
 ベタな言い方でいうと、サンタクロースは親の心のなかにいる、っていうのかな。だけど、その言葉じゃ伝わらないんだよな。難しい。
(娘)う?ん、わかんないけど、サンタクロースがいるって、ウソをついていただけじゃないっていうのはわかるかな。
 だって、私も、クリスマスイブの夜には、なんだか、サンタクロースがソリに乗って空を飛んでた気がしたもん。ほんとに、鈴の音が聞こえるような気がしたときもあったし。
 そのとき、本当に私の心のなかにサンタさんはいた、っていう気がするな。
(父)うん。それもパパが話したことと同じことなのかもしれないね。結構サツキもわかってくれるもんだなあ。
(娘)パパの心の中にサンタクロースがいて、私の心の中にもサンタクロースがいるのかもね。
(父)うん。そして、多分、パパからサツキに伝えていく何かの中にもサンタクロースがいるんだろうね。
(娘)ふうん。だけど、パパだって誰かからサンタクロースを伝えられたっていうことでしょ?
(父)うん。パパやママはジジやババからサンタクロースを伝えられて、サツキもサツキの子供に伝えていくんだと思うよ。
(娘)う?ん。だけど、日本には昔はサンタクロースはいなかったんでしょ?ジジやババはどうしたの?
(父)そうだね。そこまでいくと、サンタクロースだけの話じゃなく、伝えていくのは、やさしさとか、そういうものなのかもしれないね。
 たまたま、サンタクロースって呼んでるけど、それはクリスマスの夜の特別のやさしさのことなのかもね。
(娘)うん。サンタクロースがいるっいう嘘は、お前の家は火事だっていう嘘とは全然違うよね。嘘は嘘でも、やさしい嘘だよね。
(父)そうだね。そのやさしさがサンタクロースなのかもしれない。
(娘)うん。納得がいかないところもあるけど、サンタクロースがいるって、からかってた訳じゃないっていうのはわかったかな。
(父)そこをわかってくれるとうれしいな。
(娘)けど、なんだかきれいな感じでまとめたからって、ちゃんと今年のクリスマスもプレゼントももらうんだからね!
 プレゼントをくれるのがパパだってわかったから、遠慮しないで高いもの頼むんだから!
(父)はいはい、わかったよ。早く、彼氏からクリスマスプレゼントもらうようにならないかなあ・・・

ソクラテス

これも2015年作かなあ。
あたり前を導いてくれる超自然的な力かあ。相変わらず同じようなことを考えてるんだなあ。
・・・
別な本を借りるついでに、図書館で「ソクラテスの弁明・クリトン」を借りたら、意外と面白かったのでメモしておく。
この本を読むまで、私は、ソクラテスについて、「無知の知」という言葉くらいしか知らなかった。
なんとなく、懐疑主義的な不可知論のようなものかな、というくらいに思っていた。
色々なソフィスト達と対決し、彼らの主張のうちに隠されている前提、ドグマを晒しだし、突き崩す。全ての言葉はソクラテスの無知の知により否定される。ソクラテスが語った後には、ぺんぺん草も生えない。そんな感じの人だと思っていた。
しかし、どうもそうではないようだ。
確かに神の啓示で「人間達よ、汝らのうち最大の賢者は、例えばソクラテスの如く、自分の知恵は、実際何の価値もないものと悟った者である。」(p.24)という言葉もある。
一方で、ソクラテスは、神とか、人間の心の中にある徳、善といったものは無条件に信頼している。そこに正しさがあるとしている。
つまり、ソクラテスが疑っているのは、人間が、人間としての枠を超えて、何かを知っているかのように語るということなのである。
ソクラテスは、自分には、人間的知恵があると言っている。(p.19)だからこそ、超人間的知恵があるという人を厳しく試問するのだ。
あくまで、ソクラテスが問題視しているのは、「賢者」「知恵」という分野なのだ。だから、神の啓示の言葉も、あくまで、人間の範疇を超えた賢者を否定するものなのだろう。人間の範疇での営みを否定するものではない。
例えば、ソクラテスは、詩人には預言者や巫女のような自然的素質と神徠があり、美しいことは語るが、知恵はないとする。(p.22)
これは、詩人の言葉の美しさを否定したものではない。
あくまで、詩人が超人間的知恵があるかのように振る舞うことを、ソクラテスは断罪する。
詩人が、人間として、神から与えられた素質により、現に美しい言葉を紡ぐということは否定しない。
美しいものは美しい、という、あたり前の人間的な事実をソクラテスは否定しない。
また、「不正を行うことと、それが神であれ人であれ、およそ優れた者に従わないことが悪にして恥辱なことを私は知っている。」(p.36)という言葉もある。
常識的な、正・不正、優・劣といった差異まで、ソクラテスは否定していない。
ソクラテスは、国家というものも否定するどころか尊重している。
「われわれ(国家)は、お前を産みおとし、扶養し、教育し~あらゆる良きものを分け与えた」(p.82)という言葉もある。
ソクラテスは、野蛮な異国ではなく、当時最も洗練された都市国家であったアテネで生まれ、そして哲学者として生きることができたことに、根源的な感謝があったのだろう。
(私は、ここに、人間的な国家という組織が個人を存在させ、権利を保護しているという非自然権的な考え方を感じる。これは、現代人が忘れていたあたり前な感覚だと思う。)
ソクラテスは、美しいとされるものはあたり前に美しく、自らが属する共同体をあたり前に尊重し、徳、善、正義を求めることがあたり前である。
人間的な知恵で語れるのはそこまでで、それ以上のことを語るのは、どこかうさんくさい。
という、あたり前な感覚を持った人だったのだ。
その態度は、語り方にもにじみ出ている。人は不正に報いるに不正をもってすべきでなく、人が禍害を加えられたときに、禍害をもってこれに報いることは、正しくない、ということについて、それを当然の前提とせず、クリトンに確認し、同意を得てから論を進めている。(p.77)
つまり、正しさのようなものでさえ、人に当然に備わっているものとはせず、価値観を共有する人との間でだけ、論を進めるという、現実的な奥ゆかしさもあるのだ。
なぜ、ソクラテスは、最後に死を選ばざるを得なくなるほど、過激にソフィスト達と対決しながら、そのようなあたり前な感覚を維持できたのだろうか。
どうして、美しさ、国家、徳、正しさといったものまで勢いにまかせて、不可知として否定しなかったのだろうか。また、逆に、だれもが共有すべき前提としなかったのだろうか。
きっと、そこで登場するのが、超自然的(ダイモニオン)な声なのだろう。
この声があったからこそ、「あたり前」という、理屈からは導くことができない境目で踏みとどまることができたのだろう。
だけど、私にはこの声が聞こえない。だから、ソクラテスのように踏みとどまることができない。
ソクラテスの論法で興味深かったのは、死についてである。
死を恐れるのは、~自ら知らざることを知れりと信ずることなのである。(p.36)という言葉がある。
死について何も知らないのに「死が悪の最大なるものであることを確知しているかのように恐れる」(p.36)のはおかしい、という訳だ。
私もそう思う。しかし、この死についてのソクラテスの論法は、良き市民としてのあたり前な感覚から、少しはみ出しているように思える。
ソクラテスは重装歩兵だったそうだ。本来的に死は恐ろしいものであるからこそ、戦場でそれを乗り越えて戦う勇気が讃えられるのではないだろうか。
そのように考えると、私にとって、ソクラテスは荒削りすぎ、物足りない。
しかし、あたり前な感覚を保ちつつ、「熟考の結果最善と思われる主義以外には内心のどんな声にも従わないことにしている」(p.69)という態度は、どこか理想的で、うらやましい。