月別アーカイブ: 2018年10月

「考えるとはどういうことか」を読んで

PDF:考えるとはどういうことか

哲学対話に深く関わっている哲学者の梶谷先生の本です。(哲学対話では、一般的に大学教授でも◯◯先生と言われるのは嫌がるので、しんちゃん(p.212)でもいいけど、以下、「梶谷さん」にしておきます。)
僕はイベントでお会いしたことがあるくらいだけど、とても面白そうな方です。
哲学対話界隈のSNSで話題になっていたので、早速Amazonで注文したところ、とても面白く、一気に読んだので感想です。

まず、全体として熱いです。哲学者が書いたものだから、俯瞰して冷静に分析した感じかな、はたまた、ノウハウを簡潔に紹介したものかな、と思ったら、そんなことはなく、どっぷり哲学対話に浸かった感じで熱いです。かと言って独りよがりなんてことはなく、哲学者としての知識と実践者としての経験に裏付けられた説得力があります。
哲学対話とはどういうものかを概念的に語る前半から、後半に移るにつれ実践的なノウハウの比重が高まっていきますが、その移行が自然で、概念とノウハウとが接続し、全体として理解できました。
哲学対話でのこのルールは、このような考え方から導かれているんだな、哲学対話に子供を参加させる意義はここにあるんだな、などと前半と後半が融合しつつ理解が進む感じです。
単に表面上のノウハウを知るだけでは応用が利かず不安だし、かと言って、概念だけだと実際やってみることもできないので、こうやって、概念的な理解と手取り足取りのノウハウとがパッケージで示されることで、とりあえず、哲学対話の場を作ってみよう、という気になれそうです。哲学カフェ主催者として読んでも、この本を読んだあとで、1回でも生で哲学対話の場に参加しさえすれば、とりあえず、哲学対話の場を開くことは可能だと感じました。

僕自身は、哲学カフェを紹介するサイトを作ったり、哲学カフェも10回以上開催しているので、この本に書かれていることのある程度の部分は既に知っていたり、自分でも考えたりしていたけれど、それでも、新たに気付かされることは多かったです。
一方で、自分自身が考えてきたこととの違いも感じました。なお、この違和感は、この本の欠点ではありません。そもそも哲学対話自体をこのようにまとめた書物というものは今までなかったと思います。そこに理論と実践をつなげた書物がようやく現れた。哲学対話の理論と実践に興味がある僕としては、ようやく、批判的に読み解くことのできる本に出会うことができてワクワクしているのです。

・・・

ということで、ここからは、細かく批判的に嬉々としてツッコミを入れていきたいと思います。ここからはネタバレなので、既に読んだ方だけが、どうぞお読みください。

1 この本の熱さについて
まず、僕の立ち位置を明らかにしておいたほうがいいと思うけれど、僕は、この本で言う「哲学好き」です。「もともと(哲学的な)疑問をもっていて、あれこれ悩んでいるうちに、どうやらこれは哲学というものらしいと気づくパターン」(p.121)です。残念ながら、哲学の道には進みませんでしたが。
だから哲学と対話で分けると、僕は、哲学から対話に入ったタイプです。たぶん、こういう人は少数派だと思います。
いや、そうでもないと思うかもしれません。哲学研究者もたくさんいるじゃないかと。確かに梶谷さんも含め、多くの哲学研究を出自とする方が哲学対話に入ってきています。ただ、哲学研究界隈の方は過去にひととおり哲学研究をどっぷりやっていてお腹いっぱいだったり、現在でも哲学研究を並行していたり、という事情があるからか、意外と哲学を哲学対話に持ち込んでいないように感じます。
しかし、私のような、「哲学好き」だけど哲学研究に関わることのなかったタイプの人間にとっては、哲学対話の場こそが哲学の場で主戦場なのです。

哲学対話に入ってくる人を分類すると、こんな感じでしょうか。

1)哲学はよく知らないけれど、哲学的なテーマで対話することに興味を持った人=多くの普通の参加者(哲学対話実践者としても多数派)

2)哲学を研究してきて、そのノウハウを活かせる対話の場として哲学対話に興味を持った人=梶谷さんなど(哲学対話実践者としては意外と多数派)

3)もともと哲学が好きで、哲学する場として哲学対話に興味を持った人=僕など(参加者としても実践者としてもいなくはないけど、どこでもちょっと肩身が狭い・・・)

3)に属する僕は、哲学から哲学対話に入った少数派として、どうしても、対話から哲学対話に入るということが理解できなかったのです。
対話を重視する方に対して非常に悪意に満ちた言い方をすると、「それなら、輪になってのんびり話せたら、別に哲学じゃなくてもいいんじゃないの?」と言いたくなる感じ。
まあ、そうは思えないからこそ、「そこで行われているのは一体なんなのだろう」と哲学対話の実践に哲学的興味を持っているのですが。

だから、梶谷さんが、この本で述べている、哲学対話の意義としての「考える」ということと、自由と責任の話はとても興味深かったです。対話から哲学対話に入る道はこうなっているのか、と腑に落ちました。
確かに、この本が述べるような意味で「考える」ということは大変重要だと思います。
僕の理解では、考えるとは、自分で自分の人生をしっかり言葉で捉えるということです。
そして、自分の人生をしっかり捉えるからこそ、自分の人生を生きる権利(梶谷さんの言い方では責任)が与えられ、自分の人生を真に自分のものとして生きる自由が生まれるのです。
(これは、多分、全く哲学書ではないけれど、僕がなかなかいい線いっていると思う「7つの習慣」の第一の習慣「主体的であること」と重なるし、多分「7つの習慣」の元ネタのひとつである、「夜と霧」で有名なヴィクトール・フランクルの考えとも重なります。いつか、これらの本が言っていることの説得力が何に由来するのか、哲学的な文脈で論じてみたいです。)

そのような意味での「考える」は、確かに、哲学好きであろうとなかろうと、哲学研究者であろうとなかろうと重要でしょう。
そして、哲学対話というやり方は、この「考える」を身につけるための唯一の道ではないにしても、かなりお勧めの道であることは確かだと思います。
多分、このような道筋で、人を哲学対話に導くのは、とてもまっとうなやり方であり、いわば、哲学対話への表玄関だと思います。

だけど、一方で、僕は、少数派であり、哲学のほうから勝手口を通って哲学対話に入ってきた人間です。
僕は、哲学対話は、哲学的に唯一の解であり、そこに哲学の本質があるのではないか、という仮説のもとに哲学対話に入ってきています。梶谷さんの言うようなお勧めというだけでなく、唯一と言ってよいような限定的な意味をそこに読み込もうとしています。
僕の考えはともかく、同じ哲学対話というものを見ていても、僕から見える景色と、梶谷さんから見える景色は、多分、見える角度が違い、違うものが見えている、そんな気がするのです。

その違いが現れていると思う代表例がルールについてです。
最初、ルールが列記されている部分(p.47)を読んで、まず思ったのは、「8つもルールがあるなんて多すぎる。」というものでした。
特に「②人の言うことに対して否定的な態度をとらない。」については、僕の哲学カフェでは採用していないし、僕が参加者として、この点を注意されたら困ってしまいます。
ある意見に対してきちんと理由を明示して反論し、別の意見を主張するという過程は、議論を深めるうえでは必須のものとすら思います。
多分これは微妙な問題で、この本でも「人を批判するのではなく、相手の意見を批判するならかまわないということである。しかし、たいていの人は、冷静にそのような区別はできない。自分の意見を批判されただけでも、発言は慎重になり、言いたいことを言えなくなる。」(p.55)としています。
つまりは、「本当は人格の批判ではなく意見の批判ならいいけど、危ないから、便宜上、両方禁止しておきましょう。」ということなのでしょう。

同じような問題は、「進行役(ファシリテーター)の役割」の部分でも現れていて、「哲学対話にとって、参加者の自発性、主体性は何より重要である。対話の内容じたいは、進行役が上手に問いかけて導いていけば、哲学的になっていく。だがその場合、下手をすると、参加者はだんだん受け身になって、進行役がうまく進めてくれることを期待するようになる。」「進行役が有能であることは悪いことではないし、必要でもあるが、対話をどれくらい仕切るかは別問題であり、慎重でなければならない。」(p.234-5)とあります。
この部分を読んで、僕は自分自身の進行を振り返り、結構介入して、哲学的に深める方向にいっちゃってるなあ、これって梶谷さん的にはまずいのかなあ、なんて思いました。

あと、細かいところでびっくりしたのが、梶谷さんは、対話の時間は1時間くらいを推奨している点です。正直、哲学カフェでこれは短いのではないでしょうか。世の哲学カフェの標準開催時間は、多分、2時間から2時間半くらいだと思います。

だけど、これらの違いが、全て、梶谷さんと僕の見えている哲学対話の角度が違うから、ということであれば、全て腑に落ちます。
梶谷さんは、徹頭徹尾、全ての人に「考える」をやってほしいのです。
本気で「0歳から100歳まで」全ての人に、哲学対話に触れてほしいのです。
そのためには、誰にとっても安全な場でなければならならず、うっかり否定的な言葉を投げつけて傷つけられることなどあってはならない。また、少々哲学的な深みがなくても、主体的に「考える」ことだけは絶対に確保されなければならない。誰もが手軽に参加できるよう開催時間も短くしたほうがいい。ということなのでしょう。

確かにそのとおりだと思います。
一方で、僕の哲学対話は、あえて哲学カフェに参加しようと思うような一部の人たちに向けてのものだから、哲学的に深めたい、少々進行役が介入しても、否定的な発言があっても大丈夫だし、どうせ参加したなら、2時間くらい話しきったという満足感を持ち帰ってもらいたいし、となります。これは、参加者に応じた別の設計になっているということで、つまりは、僕は参加者を限定しているのだと思います。
だから、もし、僕の哲学カフェに参加して嫌だったら来なければいいだけだし、そもそも哲学したい人だけが来ればいいし、と、どこかドライに割り切っているのだと思います。

だけど、その割り切りを梶谷さんは許さない。一人残らず哲学対話に引きずり込みたい。そこにこの本の根底に流れる熱さの源流があるように思うのです。

この熱さはこの本全体に漂っています。
例えば、この本のノウハウの部分については、正直、かなり、梶谷さんなりのやり方「だけ」が書かれているなあ、と感じます。梶谷さんの理論と実践に裏付けられた確かなノウハウではあるし、僕のやり方のほうがいいとは言わないけれど、他に選択肢があるということをもう少し匂わせてもいいんじゃないかなあ、と思います。
だけど、それはあえて書かない。変に言い訳めいた選択肢を幅広く提示してしまったら、哲学対話の場を開きたいと思った人が戸惑ってしまう。大丈夫、この本に書かれていることをそのとおりやれば、とりあえずは哲学対話ができるよ、と力強く後押しすることに主眼がおかれているように思うのです。

進行役があまり介入しないやり方を推奨していることも、ルールをきちんと設けていることも、慣れない方が初めて哲学対話の場を開くことを念頭に置いていると考えれば腑に落ちます。
多分、進行役が上達したら、多少介入しても大丈夫です。ルールだってあえて事前に宣言しなくても、大抵の場合、問題が生じた時点でその場で解決できます。だけど、それは、そのうちできればいいことで、最初は、一番確かなやり方で、とりあえず、みんな哲学対話をやって、とりあえず「考える」を始めようぜ、ということなのだと思います。

2 自己との対話について
この本で特に嬉しかったのは、一人で哲学することも、哲学対話の仲間に入れてもらえたことです。「「問い、考え、語ること」という意味での哲学もまた、一般の哲学と同様、自問自答しながら「自己との対話」を通して一人で行うこともできる。」(p.33)というように。哲学対話界隈の方には、一人で哲学をすることがどうでもいいことのように思われているような気がして少々寂しかったのですが、こう言ってもらえてうれしかったです。
だけど、僕は別に孤独でつらい作業が好きな訳ではなく、哲学の中でも、僕の興味がある、ちょうどその部分を話せる相手がいないだけです。そういう意味では、世の普通の人が一人で「考える」のも同じことのような気がします。哲学対話で一般的な親子関係のことは話せても、自分の親と自分のことを細かい事情まで真にわかっているのは自分しかいないから、人は一人で悩み、考えざるを得ないのだと思います。
だけど、それでも、哲学対話をすると、みんな結構似てるんだなあ、なんて思えて、救われた気になります。この感じも、哲学好きでも、そうでない人でも、まあ、似たようなものなんじゃないかな、とも思います。

3 対話がうまくいってるときの浮遊感
この本の大きな成果のひとつは、「対話が哲学的になった瞬間は、感覚的に分かる。全身がざわつく感じ、ふっと体が軽くなった感じ、床が抜けて宙に浮いたような感覚、目の前が一瞬開けて体がのびやかになる開放感、などなど。」(p.40)と言語化したところだと思います。
確かにそのとおりで、これまで、なんとなく、そういうのあるよね、と話したことはあったけど、こうして明確化し、哲学的に重要なものとして位置づけたことはとても面白いです。
そして、そのような感覚は、机などに遮られず、きれいな輪になって座ったときのほうが訪れやすいというのも確かなような気がします。
なんとなく、僕は、哲学対話とは、円の中心に対話の神様が降ろす儀式でもあるような気がしていて、コミュニティボールというのは、その神様を象徴したもののようにも思います。
(この神様というのは、あくまでも比喩です・・・)

4 2時間のショータイム
梶谷さんは、熱く、理想的です。例えば、「心や体に病を抱えた人、親族を亡くした人・・・」(p.68)に対して「互いに恐れず、問題をしっかり受け止め、いっしょに考えることだ。」(p.69)と力強く宣言します。僕も全く同意します。哲学対話とはそういうことだと思います。
しかし、とても難しいと思うのが、2時間、または梶谷さんなら1時間という制約です。
僕は、哲学対話とは、哲学カフェに来ている2時間以外の時間でもやってほしいと思うからこそ、この2時間を、理想的な哲学対話の見本とし、そして哲学対話に良い思いを持って帰ってほしいと思っています。
その時間的制約があるなかで、あまりにも大きな問題を抱えることは、難しい場合もあるのではないか、と思います。
例えば、僕は、梶谷さんが避けようとしている批判的な発言についても、理想論としては、哲学対話で問題解決できると考えています。もし批判的な発言があり、それを嫌だと思う人がいたら、それがどうして問題なのかしっかり話し合えばいいのです。しかし、それをしていたら時間に収まらなくなるから、とりあえずは、批判はいけない、というルールをつくったほうがいい、となります。
それと同じように、個人的に悩みにどこまで立ち入るか、という問題についても、持ち時間を考えると、あまり立ち入らないという解決方法も、とりあえずはありうるような気がします。

5 哲学対話における「自由」
僕も、哲学対話により、人生を生きる自由を手に入れるという大筋は大賛成です。
しかし、自由のありかについては、違う意見です。
梶谷さんは、自由の根源を「感覚としての自由」(p.89)に求めます。そして、その感覚を、「自分から切り離し」(p.92)「相対化」「対象化」(p.93)することと接続させます。
自分を対象化、相対化して振り返り、自分から切り離すことで、先程話に出たような、哲学対話においてしばしば感じるような浮遊感が生じるということになります。
しかし、僕は、とりあえずは、この2つは別物だと思います。

僕はこう考えます。
哲学対話とは、言葉による営みです。言葉は、物事を相対化し、対象化します。そして、対象を詳細に分割し、そこに新たな選択肢を見出します。
例えば、悲しいことがあって言葉にできないほど落ち込んでいる人がいるとします。しかし、哲学対話により、それが、例えば「親の死に対する悲しみ」と名付けられたとたん、それは、一般的な「親」の「死」に対する「悲しみ」の話となります。そして、「悲しみ」と名付けられたからには、「悲しんでいない」状況も一つの可能性として立ち上がり、そして、これまで数多くの人たちがたどってきた、悲しみから回復する一般的な物語さえも立ち上がります。
そこまで極端な例ではなくても、言葉を紡ぐことで、その言葉が、思いもしなかった視点を提示し、そこに新たな選択肢を見つけ、そこに新たな可能性を見つけるということは、いわゆる哲学対話の場ではなくても、よくある話だと思います。
僕は、この言葉の働きこそが、哲学対話における「自由」なのではないかと考えています。

それでは、対話がうまくいってるときの浮遊感、あの自由な感覚はなんなのでしょう。
僕は、それは自分の殻を破ったという自由、自己からの自由だと思います。
梶谷さんが悪い例とする「(相手を受け入れ)相手と距離がとれずに一体化してしまったりする」(p.170)こととは別の意味での相手との一体感。
意見や感覚を共有する訳ではないけれど、存在レベルで、自分の境界が溶けて、相手と一体になるような一体感なのではないかと思います。うまく言えないけれど。
それが、少々、梶谷さんが言っている道筋とは違うけれど、まさに「他者と共に感じる自由」(p.96)なのではないかと思います。
そして、それを駆動するものは、「身振り手振り、表情や眼差しの交わりなどの身体的なレベルのやりとり」(p.174)であり「場を共有すること」(p.170)ではないでしょうか。

そして、言葉が立ち上げる自由と、他者と場を共有することによる自己からの自由とは、とりあえずは、別物と考えておいたほうがいいのではないでしょうか。(同じものの別な側面、という方向で論を進められそうな気もしなくはないですが・・・)

6 専門家の哲学
「哲学する」と「いわゆる学問としての哲学」の関係について、この本は少々歯切れが悪いけれど、僕は、哲学研究者ではなく、そこらの哲学好きだから、簡単に言えるので言います。
「いわゆる哲学研究者でも、哲学していなければ、哲学者ではない。」
逆に言えば、傍目から見て、そこらの一般の人が、いわゆる哲学の伝統から全くかけ離れていて、誰の参考にもならない妄想にしか見えなくても、本人が哲学していれば、その人は哲学者だということです。
以上は、揺るぎなく、自明のこととして正しいと思います。
このことを、この本では「思うに、元来は“哲学の問題”があるというよりも、物事の“哲学的な問い方”があるだけなのだ。」(p.124)と言っているのだと思います。

ここまでは当たり前すぎるかもしれないけど、見逃されてはいけないのは、傍目から見て、どんなに重箱の隅をつつくような、タコツボ化した些細な研究に見えても、その人にとって哲学的に重要で、彼の人生において問わずにいられないようなものであれば、それは、哲学だということです。
だから「専門的な哲学の問題は、結局のところ、誰にとってもほとんどの場合、実生活には関係ないのである。」(p.121)というのは誤りだと思います。誰にとっても関係なければ、それは哲学の問題ですらなくて、それが哲学の問題であるからには、それを、哲学対話における哲学と全く同じ意味で、本気で哲学してきた人がいるはずです。
そして、残念ながら、その人にとっての本気の「哲学する」なのか、そうではないのかは、なかなか研究を外見から見てはわからないのかもしれません。

一方で、逆にレベルが低すぎて哲学とは思えないような問い、例えば「今日は何を食べるか?・・・」(p.123)といった問いも、本気で問うているなら、それは哲学だと言っていいと思います。本気で問うならば、それは全て哲学的な問いだということです。だからこそ、このような問いも、少し加工するだけで「哲学的な次元に入っていくことができ」(p.123)哲学的な問いと地続きだと言えるのです。全ての問いは哲学的な問いなのだけど、そのうちのかなりの部分は、歴史的にいわゆる哲学の文脈で捉えられることはなかった、というだけのことだと思います。

このように幅広く捉えると、哲学という意味が拡散しすぎるかもしれないけれど、僕にはこっちのほうが楽しい話になりそうな予感があります。

7 受け止める
最後に、僕にとって一番分が悪いところを書いてきます。
梶谷さんの言う「受け止める」(p.166)が、実は、よくわかりません。
これは、梶谷さんの言い方や言っている内容が問題なのではなく、僕の方の問題のような気がします。どうも、直感として、梶谷さんはここでかなり大事なことを言っているようなのだけど、僕はそれを受け止める準備ができていない。そんな気がするのです。
もし、これを受け止めたら、少なくとも「5 哲学対話における「自由」」で論じたようなことは、ひっくり返りそうな予感があります。もう少し考えてみたいと思います。

・・・

以上、批判的なところばかり挙げてしまいましたが、しつこいですが、この本はとてもいいです。
例えば、知識と対話の関係について「確かな知識によって土台と軸が与えられれば、対話は焦点が定まった仕方で深めることができる。」(p.144)なんて、すごくかっこいい。
また「哲学対話をしていると、老若男女、世の中に本当にバカな人、訳の分からない人はいないという気がしている。」(p.158)なんて哲学カフェに自主的に来る人としか哲学対話していない僕には、わからない重い言葉だと思う。
このような素敵な言葉たちが、梶谷流哲学対話というひとつの体系のなかに、きちんと収まっている、それも行儀よく収まっているのではなく、熱く、挑発するように入れ込まれているというのは、とてもかっこよかったです。
僕も、読んでいて「グダグタ考えてないで、もっと哲学対話してみろよ。」と言われているような気がしてきました。
だから、この文章は、この本「考えるとはどういうことか」について、活字で哲学対話してみたつもりです。(当然、仮想の対話の相手は梶谷さんです。)

恋愛と哲学カフェ

PDF:恋愛と哲学カフェ

哲学カフェで知り合った人と飲んだときに、2つの話が出た。「モテるにはどうすればいいのか。」という話と「哲学カフェでの対話のペースは人によって違うから進行役は難しい。」という話だ。この2つは関係なさそうに見えて、実は結構関係あるのではないかと思ったので、文章にしておく。

「モテるにはどうすればいいのか。」という問いの答えとして、そのとき僕が思いついたのは、「相手が望むことの半歩先を提供する。」というものだった。
会社の営業などでよく言われるようなことだけど、男女の恋愛でも同じではないか。
(文字数を減らすためLGBTs的な観点は抜きでいきます。)
例えば、意中の女性を落としたいなら、女性がしてほしい行動の半歩先を読んで行動するといいと思う。ケーキが食べたいと相手が口に出す前にケーキを食べようと誘う。できれば、相手がケーキを食べたいと思いつく直前にケーキを食べようと誘う。(まあ、できないし、落とそうとしないけど・・・)
または、こんなことをされたら落とされてしまうと思うのは、僕がその女性に投影しているイメージの半歩先を提供されたときだ。僕が知らなかった少しマイナーな本を紹介されたり、思いもしなかったタイミングで笑顔を見せてくれたり。こういう半歩先があると、ころっと落ちてしまう。(まあ、そんなことされないし、落ちないけど・・・)

よく言われることなので簡単にしか言わないけれど、「半歩先」というのは重要だ。一歩先では歩幅が大きすぎる。ケーキを食べたいと思う1時間前に「ケーキを食べよう」と言われても、まだ食べたくないし、いくら僕が哲学好きでも、いきなり自筆の論文をプレゼントされたら引いてしまうし、脈絡なく全力で笑顔を振り向けられても困ってしまう。
「想定内」と「想定外すぎて意味不明」の間のグレーゾーンを狙う必要がある。
そのことを強調するためには、半歩先は「小さな驚き」と言い換えたほうがいいかもしれない。「ケーキを食べたい」と言われてから、「じゃあケーキを食べよう」と言われても、そこには驚きはない。一緒にパフェを食べた直後に「ケーキを食べよう」と言われたら、驚きすぎて引いてしまう。「あ、気づかなかったけど、そういえばそうだね」というくらいがちょうどいい。

ここから、恋愛から哲学カフェの話につなげていきたい。

この驚きは、哲学カフェにおける驚きと同じものだと思う。

ケーキのことなんて考えてもいなかったのに、「ケーキを食べよう」と言われてみたら、そういえば、私、ケーキが食べたかったんだ、と気付いたとき。
哲学が好きなんだ、と話していたら、相手から、知らなかったけど、確かに読んでみたくなるような哲学書を紹介されたとき。
家の事情で人知れず落ち込んでいたら、同僚が励ますような笑顔を向けてくれたとき。
そこに小さな驚きを感じる。
これは、他者に対する驚きだ。
より長い言葉で表現するなら、「他者が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれたような感覚に対する驚き」とも言えるだろう。
確かに私はケーキが食べたかったんだ、確かに僕はこの本を読みたかったんだ、確かに僕はこの笑顔が欲しかったんだ、というように。

似たようなことは哲学カフェでも起こる。

例えば、哲学カフェで、「正しさ」をテーマに話していたとする。
僕は、論理的整合性みたいなことしか思いつかずに話していたけど、そこに、誰かが倫理的な正しさの話をぶち込んでくる。
僕は、あれ、そんな話してたっけ、と一瞬驚く。
だけど、よく考えてみれば、「正しさ」の話なのだからつながっているし、論理的整合性と倫理的な正しさとは、どんな関係があるのだろう、と展開することもできる。これはとても興味深い問題だ。
その結果、実は僕は、倫理的な正しさの話もしたかったんだ、と気づくことができる。
これは、哲学カフェでの相手の言葉が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけてくれて、掬い取ってくれたと言ってもいいだろう。

そこに恋愛感情がないだけで、さきほどのケーキの話での他者に対する驚きと同じものだ。
僕は、哲学カフェの最大の魅力は、この驚きを味わえるところにあると思う。

しかし難しいのは、哲学カフェでも、この驚きは、半歩先の小さな驚きでなければいけないということだ。
「どうして過去の記憶が正しいと言えるのか。」という話をしているときに、いきなり「だけど、全部、愛だよね。」と言われたら、たいていの人は意味がわからず戸惑ってしまうだろう。
よくよく話を聞いてみると、「この世界の根本原理には愛がある。→愛という原理によりこの世界は整合している。→過去の出来事も過去の記憶が正しいという思いも世界のあり方として整合しているはずだ。」(例なので適当です。)というように、その人の頭の中では確かに話はつながっているとわかるけれど、ちょっと歩幅が広すぎる。
(あえて言えば、なんとか話を繋げられたなら、まだ半歩の範囲内とも言えて、本当に半歩を超えてしまう例としては、繋がりが不明のまま終わってしまった発言のほうがいいかもしれない。)
飛躍があり、かと言って飛躍しすぎない、自然な対話のペースのなかで受け止められるような半歩先の小さな驚きというのが哲学カフェでは大事となる。

ここでやっと、冒頭での「哲学カフェでの対話のペースは人によって違うから進行役は難しい。」という話につながる。
僕は進行役をしていて、人によって、どのくらいの強さ、頻度での驚きを好むかに違いがあると感じる。
驚きというのは、あればあるほどいいものではない。
僕が好ましいと思う驚きとは、ただ相手の言葉に驚くだけでなく、言葉が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれるというプロセスを経るものだ。
これは、つまりは、自分の心の中を再構築し、自分が変わるということと言ってもよい。
このためには、ちょうどいい半歩先の驚きであることが重要となる。今出した例のような飛躍しすぎた一歩先では飛躍が大きすぎるが、飛躍がなさすぎてもつまらない。また人によってどの歩幅がよいかは違う。ある人にとっては半歩先でもある人には一歩先になってしまうことはある。
また、この自分の心の再構築という大事業を頻繁にやっていたら疲れてしまい、体がついていかなくなってしまう。どれだけの驚きを受け止められるかどうかには、体力の問題が関わるだろう。
また人によって自分の心の中を吟味するのに要する時間も違うだろう。頭の回転の速さの違いもあるだろうけど、問題意識の違いがより大きいだろう。普段考えなかったことなら吟味にも時間もかからないけれど、自分にとって重要な問題なら吟味に時間を要するはずだ。
自分の考えを再構築し変えることに対する慣れもあるだろう。自分の考えを変えることは快感もあるけど不安だ。このくらいの変化ならマイナスよりプラスが大きいと予測し、安心して変化を受け入れるためには慣れが必要となる。
更には、進行役をしていての実感だけど、受け流す技術というのもあると思う。本当なら自分の根幹を揺るがすような驚きのはずだけど、それを受け入れていたら進行役なんてできなくなってしまうので、とりあえずは軽い驚きとして消化し、先に進めるという技術だ。これは推奨される技術ではないが、この技術を持っている人と持っていない人との違いは確かにある。
違いの原因の話はとりあえずここまでにしておくけれど、様々な理由から、人によって、どのくらいの強さ、頻度での驚きを好むかに違いがあるのは確かだ。

そして、この違いが、対話のペースの違いにつながる。ぽんぽん対話を展開し、たくさん驚き、たくさん発言する人から、多くを語らず、ゆっくり対話し、一つの驚きを大事に抱え、もしかしたら哲学カフェが終わったあとも考え続ける人まで。
みんなが一緒にいないと驚きも生まれないけど、一緒にいると人によっての違いが際立ってしまう。
進行役としては、うまくペースを合わせ、この驚きという哲学カフェの最大の魅力をより多くの人が味わってもらいたいから苦労するのだ。
一方で、僕は進行役であっても、僕自身のペースで、僕自身が好ましいと思う驚きを追い求めることしかできない。そして、たいていの場合は、それでもなぜかうまく回ってしまう。だから苦労していないとも言える。そこにも対話の不思議がある。

・・・

これで予定していた話はおわりなのだけど、読んでみても、やっぱり恋愛での驚きと哲学カフェでの驚きは違うと思う方も多いかもしれない。
やはり2つの驚きは同じものだと伝えるためもう少し話を続けることにする。

これまで僕は、恋愛も哲学カフェも「相手の言葉(や笑顔などの仕草)が自分の心に染み込んできて、自分の心の中の気づかなかった思いを見つけて、掬い取ってくれるという小さな驚きがある」という点で共通点があるとしてきた。
これは、別の言い方をするなら、「他者が自分の変化を促す力になってくれる」ということだ。
自分だけでは、ケーキを食べることはできなかった。(なぜなら、言われるまでケーキを食べたいと気づかなかったから。)
自分だけでは、その哲学書に出会うことはできなかった。(なぜなら、紹介されるまで、その本を知らなかったから。)
自分だけでは、その笑顔で救われるとは思えなかった。(なぜなら、その笑顔をされるまで、笑顔に出会えるとは思ってもいなかったから。)
自分だけでは、「正しさ」には論理的整合性とは別の意味があるとは思えなかった。(なぜなら、言われるまで、倫理的な正しさという側面があるとは気づけなかったから。)
だけど、その相手が気づかせてくれて、新しい自分への変化を促してくれたのだ。

更に言えば、この変化とは、成長するということであり、未来を切り開くということでもある。
成長というと、なんだか大人という理想形があって、未熟な子供がその理想形というゴールに向かっていくという感じがするかもしれない。だけど僕がここで成長という言葉に込めたいのは、そうではなくて、ポジティブな変化という程度の意味合いだ。自分が望ましい方向に向かって、今、この瞬間に変わっていくこと、それが成長することだ。

この成長のためには、ここまで話してきた「驚き」が重要となる。
変わるためには、新しい何かに気づかなければならない。これまで知っていたことではなく、新たに何かを知らなければならない。
しかし、それは、完全に新しい自分の外にあるものでは駄目だ。完全に自分から離れたものには気づくことさえできない。
新たに気づけるものは、実は自分のなかにあったものを、新たに再発見するような、半歩先の小さな驚きを伴うものでしかない。

そして、このような驚きは、恋愛であれ、哲学カフェであれ、他者しかもたらすことはできない。
どうして他者なのかといえば、それは、他者とは、自分ではないけれど、全く自分からかけ離れたものではない、という中間的な特別な存在だからだ。
実は自分の中にあったものを再発見するというような中間的なことは、このような中間的な存在にしかできない。

他者は自分ではないのは当たり前として、他者は自分からかけ離れたものではないというのは異論があるかもしれない。自分とは全く違う他者もいる、と言いたくなるかもしれない。
しかし、それは僕の他者という言葉の使い方とは違う。
どんな嫌なやつでも、聖人でも、他者とは、完全に自分と違う人ではない。全く自分と違うなら、それは全く意思疎通もできない宇宙人か、または石ころのようなものになってしまう。(宇宙人は微妙で、宇宙「人」と認めるなら、それは他者とも言える。イルカのような動物も同じ。)
殺人者であれ、ヒトラーであれ、釈迦であれ、そこに人間性を認めるなら、それは他者だ。他者とは、その相手を自分と同じ人間として認め、相手の言葉をきちんと聞き、尊重することができる人のことなのだ。
そして、恋愛し、または対話するとは、そのような他者を自分に影響を与え、自分に変化と成長をもたらしうる存在として受け入れ、ともに生きることなのだ。

とても駆け足なので疑問もあると思うけど、ここまで話が進むなら、恋愛も哲学カフェもそんなに変わらない、ということはなんとなくわかってもらえるのではないだろうか。

・・・
おまけ 飲んだときに話したことのフォロー


恋愛について出した半歩先の驚きの例は、大きく2つに分類できる。
一つが、期待する行動の半歩先であり、もう一つが、投影するイメージの半歩先だ。ケーキを食べようと誘うのは行動の半歩先で、本のプレゼントや笑顔は投影するイメージの半歩先となる。
飲んでいたときは、なんとなく、前者が女性の思考回路であり、後者は男性の思考回路だと思っていた。女性は現実的な行動で判断し、男性はイメージ、あえて言えば妄想で判断するという訳だ。
まあ、男女の脳の構造の違いなどから、実際、そのような傾向があるのかもしれない。だけど、よく考えてみれば、それは、あくまで程度の差であり、あえて男女の差を強調する必要はないだろう。人によりウェイトの置き方に違いはあっても、人には現実的な行動を重視する側面と、妄想を重視する側面との両方がある。デート中に「ケーキを食べよう」と言われてうれしいのは、ケーキを食べるという行動ができるからだけではなく、「ケーキを食べよう」と誘ってくれるような男性だと妄想できるからでもあるはずだ。


恋愛における僕の(多分多くの男性の)一番強力な妄想は、「僕のことを評価してくれて、認めてくれる女性がどこかにいる。」という妄想だろう。この妄想の半歩先が提供されたらもう・・・力を入れていた大仕事を終えてホッとしているときに、「先輩のプレゼン、勉強になりました!」なんて可愛い後輩に言われたら、まずい第一歩を踏み出してしまうかもしれない・・・

「みんなで考えよう」合評会に行ってきました。

PDF:「みんなで考えよう」合評会に行ってきました

「みんなで考えよう」とは、哲学プラクティス連絡会という集まりで発行することになった冊子で、これが第一号です。

(では、哲学プラクティス連絡会とは何かというと、哲学カフェや哲学対話は、哲学プラクティスとも言われるのですが、そういった哲学プラクティスを実践している人たちが色々連絡をとりあう場です。学会ではなくて、一応、普通のサラリーマンな僕でも当日の参加費を払えば、もう仲間だぜ、というゆるい感じが気に入っています。)

この本は、哲学対話の実践者が寄稿した文章17本で構成されていて、僕の文章も入っています。(実は、ここがこの文章の主題です!)
だから、書かれた文章は、広く捉えるなら、実際に哲学対話をやっている方による、実践を踏まえたその考察と言えますが、それぞれの文章の中身は、実践の記録にウェイトを置いたものから、実践には言及されず考察がほとんどというものまで、色々となっています。
(僕の文章は後者のつもりです。そうは見えないかもしれないけど・・・)

この合評会は筆者のうちの何名かとこの本を作っていただいた編集の方も参加して、とても実りあるものでした。本を作ってくれた方、こういう集まりを企画してくれた方に感謝です。

それぞれの文章については無料でネットにPDFが上がっているので読んでくださいということで、合評会で思ったことをメモしておきます。

まず、いちばん重要なのが、合評会は、「がっぴょうかい」と読みます。「ごうひょうかい」ではありません。僕は初めて知りました。注意!

あと、合評会とは、基本的に、その作品について批評し合う会のようです。僕はてっきり、この冊子全般のコンセプトを話したり、この冊子を題材に、哲学対話の実践者が哲学対話について考察するという営み自体について話す場だと勝手に思っていました。そうしたら、短い時間とは言え、自分の作品自体について批評されるとは、とんだ羞恥プレイでした。
(まあ嬉しかったですが・・・次回はパスしたい気も・・・)

と、前置きが長くなりましたが、僕が合評会「がっぴょうかい」で考えたことをメモ。

合評会の場で、この筆者Aは、哲学対話の外からの視点で書いているのかな、哲学対話にどっぷり浸かった中からの視点で書いているのかな、それとも片足だけ踏み込んだところで書いているのかな、という問題が出されました。
その場では、どちらかというと、実践の記録的な側面が大きい文章は当然として、多くの文章が、哲学対話の中からの視点で書かれていて、例外的にいくつかの文章が、哲学対話の外からの視点が強いよね、という感じの話だったように思います。

だけど、あとで考えてみると、実は、そこには大きな違いはなくて、全ての文章が、片足は哲学対話の外で、もう片足は哲学対話の中なのではないかなあ、と思いました。
なぜなら、まず、何かしら哲学対話について知らないと文章は書けない訳だから、片足は中に踏み込まなければならない。
一方で、完全に哲学対話に浸かりきってしまったら、哲学対話について書くことはできないから、片足は外に置かれなければならない。だって、全く哲学対話に浸かりきり、その外が見えなければ、哲学対話について客観的に捉えて、言葉にすることなどできないでしょうから。
その証拠に、合評会でも、堀越さんの文章は、そこに漂う冷静でクールな分析が評価されていた。これは、単に実践の記録にとどまらず、その実践を外部から捉え直していたことで、要は片足を外に置いていたことを意味すると思います。
また、しばたさんの文章も、単なる政治的主張ではなく、そこにパスカルを比喩的に登場していることが評価されていたことも同じです。
(しばたさんの文章がなぜ同じかというのは文字数が要りそうなので、合評会で出た話を僕なりの理解で要約しておきます。
『哲学対話の実践を文章にするやり方は、客観的に書くというやり方以外に、まさに哲学対話をするように主観的に書くというやり方があって、しばたさんの政治的主張部分については、まさに哲学対話を主観的に内から実践的に書いているものとして評価できる。そして、そこにパスカルを比喩的に登場させたことは、その実践的記述を客観化し、外部から捉え直したものとして評価することができる。よってしばたさんの文章も、内側からの実践の記録であり、かつ、外部から捉え直されたものである。』)

では、どの文章も片足は哲学対話の外で片足は内側なのだとしたら、内と外を区分する視点はあまり役に立たないのかというと、そうではないと思います。
大事なのは、どちらから一歩踏み出したのかであり、哲学対話の外から一歩踏み込んだのか、哲学対話の中から一歩踏み出したのか、という違いはとても大きいのではないか。
飛躍して、一気に僕の考えに引き寄せるなら、哲学対話の外とは、要は、伝統的なアカデミックな哲学です。そして、哲学対話の中とは、生(なま)の人々による生きる営みの実践です。このどちらに出自があるかで、哲学対話について考察する文章にも大きな違いが出てくるように思うのです。
そして、この双方向の流れがぶつかる場だからこそ、この哲学対話界隈は面白いのだと僕は思います。暖流と寒流がぶつかる海域が良い漁場となるように。
(さらには、僕は自分自身を哲学対話の外に出自がある少数派だと思うから、この抵抗感がなおさら心地よいのです。)

話は変わりますが、ここまでの話とちょっと重なって興味深いと思ったのが、芹沢さんの哲学ツーリズムの実践として東日本大震災の被災地に行った話です。
この文章に『「旅マエ、旅ナカ、旅アト」をそれぞれどうデザインしたらいいかということが肝になる』とあるように、この旅は、しっかりと事前準備され、しっかりと目的意識をもって実行され、そして事後も丁寧に結果として残そうと努力されています。
この旅は、いわば、被災地に行くという目的地が重要となっていると言ってもいいでしょう。
一方で、これまで、僕個人が旅に求めてきたものを思い返すと、この生活の場からの離脱のようなものだったような気がします。日本は息苦しいから海外のリゾート地でのんびりするというような。まあ、海さえあれば目的地はどこでもいい。
芹沢さんの旅は目的地が重要だけど、僕の旅は出発地(から離れること)が重要という違いがそこにはあるように思います。
(芹沢さんの旅も、観光客という言葉がキーワードとなっているように目的地に到着しきらない遊離感みたいなのが重要だし、僕の旅だって、目的地がどこでもいいという訳ではない、ということはあるけれど。)

このベクトルの違いは、さきほどの哲学対話の外からの一歩と、哲学対話の内からの一歩という踏み出し方の動きの違いとの話と重なるように思うのです。
傍目から見たら、旅をしているという点では僕も芹沢さんも同じだし、哲学対話の内と外に一歩ずつ置いているという姿勢も変わらない。だけど、そこにある「動き」が違う。離れようとしているのか、向かおうとしているのか。
哲学対話から外に一歩踏み出そうとするとき、それは哲学対話から離れようとしているのでしょうか。それとも、どこかに向かおうとしているのでしょうか。(そのどこかとは何か、という問いへの僕の当面の答えはアカデミックな哲学ですが。それはそれとして。)

そんなふうに「動き」に着目してみると、哲学対話も旅ももっと面白くなりそうだなあ、と思いました。

という感想でした。