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ボヘミアン・ラプソディ

ボヘミアン・ラプソディという映画を観たくなり、予習のため、You Tubeで対訳付きの曲を観た。
こういう曲だったんだ。いい。
曲に刺激され、こんなことを考えた。

あんまり知らないけど、いわゆる西洋哲学には、ライプニッツやヘーゲルのような大陸系の哲学と英米系の分析哲学があるとされる。
僕が大学生のときに知り、幻滅したのは、いわゆる大陸系の哲学で、そこに何らかの決めつけ、世界観の提示というドグマ的なものを感じたからだ。
僕が分析哲学寄りなのは、そこに、ドグマの欠落という、ある種の素直さがあるからだ。

しかし、分析哲学にドグマがない訳ではない。はっきり言って、分析哲学は、当たり前の世界の成立をドクマとしている。
それこそが、ウィトゲンシュタインが言語ゲームと称したものなのだろう。

そう考えると、ドグマから目を逸らさず、ドグマをドグマとして練り上げようとする大陸系の哲学にも魅力があるようにも思えてくる。
たまたまスピノザを読んでいるからかもしれないが、最も美しいドグマを見出そうとする営みこそが、彼らの哲学なのだ。
しかし、美しさは一筋縄ではいかない。僕にとっては、ベルサイユ宮殿のような均衡がとれた美は一流の美ではない。その先こそが面白い。
そう考えると、
ドグマをドグマとして意識的に切り捨てることにより、逆にドグマを切り捨て得ないものとして浮き彫りにしようとしたウィトゲンシュタインや、
全てのドグマを捨て去るというドグマを見出したブッダや、
美しく構成されたドグマこそが正しいという価値観をひっくり返すようなドグマを見出したニーチェ
といった人たちこそが一流の哲学者なのかもしれない。

僕が思う美しいドグマとは、そのなかに、均整がとれた美しさを構成しようとする営みと、それを完全に破壊しようとする営みが内包されていなければならない。
究極の構築と究極の破壊が内包されていなければならない。
僕のことを抱きしめながら、ナイフで僕の内蔵をえぐり取るような、そんなドグマこそが僕が求めるドグマだ。

こう語ってしまったら、僕が求めるものに近づくことはできない。
僕が、その美しいドグマに耐えられるのか、本当にもとめているのかもわからない。
しかし、この狂気はとても重要なものだと感じる。

世界中の人々を抱きしめながら、重機関銃で皆殺しにし、そして声が枯れるまで泣き叫び、すべてを忘れて踊る。
これこそがロックなのではないか。と、ボヘミアン・ラプソディを聴いて思った。