月別アーカイブ: 2019年8月

「真理のスイカ畑でつかまえて」をつかまえる

1 この文章の目的

僕がこの文章を書いたのは、哲学プラクティス連絡会の機関誌「みんなで考えよう」(http://philosophicalpractice.jp/journal/journal2/から読めます。)に掲載されている漫画「真理のスイカ畑でつかまえて」(以下、「スイカ畑」)が、誤解されるのを危惧するからだ。
「スイカ畑」はぶっとんでいる。かなりの割合の人は、「なんだこれ?」と思うのではないか。「読むとテツガクが終わっちゃう漫画」と銘打たれているが、これでテツガクが終わる訳ないだろ、なんていう声が聞こえるような気がする。そして、理解されず、忘れ去られてしまうかもしれない。
僕は、この文章で、「スイカ畑」はそのように扱われるべきものではないということを明らかにしたい。よって、既に「スイカ畑」に価値があると考えている方は、この文章を読まなくていいかもしれない。なぜなら、この文章は、あなたとは違うかたちで真理のスイカを切り刻んだだけのものかもしれないのだから。

2 真理のスイカ説の評価

真理とはスイカのようなモノというのは、ぶっとんでいるようで、実は、かなり成功している比喩だと思う。
まず、真理にかたちがあるなら、球という完全な形状がふさわしい。
また、人間がひとりで抱えることができる限界に近い重さであり、身近にあるものと言えば、スイカしかない。このサイズ感と重量感は真実の比喩としてちょうどいい。
更には、甘さを真理に例えるなら、あまり甘くないところから、より甘いところに進むという、弁証法的な構造を組み込むことに成功している。これは、重層的なあり方をしている真理の比喩としては、いい線をいっていると思う。(この真理観は、コリングウッドの「哲学の方法について」で示したものに近い。)
当然、比喩なのだから足りないところはある。真理には、種はないし、縞模様もないだろう。
そこには目をつぶるとしても、真理は、スイカのように冷たく、硬いものではない。真理とは、冷たいだけでなく暖かく、硬いだけでなく柔らかくもあるはずだ。なぜなら、いずれか一方であったら、その真理はもう一方が欠けた不完全なものになるからだ。また、両者をとりこんだ弁証法的なあり方を強調するなら、真理とは、スイカのように静的なあり方はしておらず、もっと動的なものだ、とも言いたい。だけど、それを漫画で表現しろというのは、望みすぎというものだろう。

3 真理のスイカを言葉という包丁で切ることの不可能性

そして、その真理の象徴としてのスイカを「切る」という描写が「スイカ畑」では繰り返し登場する。多分作者も意識していると思うが、スイカを切る包丁とは、「言葉」の比喩であることは明らかだろう。
スイカという真理を、言葉という包丁で切ることこそが、哲学カフェでの哲学対話において行われていることなのだ。

では、哲学カフェにおいて、誰のスイカを誰が切っているのか。
「スイカ畑」では、登場人物、つまり哲学カフェの参加者がみんなで、ひとつのスイカを取り扱っているように見える。
しかし、それは誤りだろう。
僕の考えでは、一人ひとりがそれぞれ自分だけのスイカを持っている。他人のスイカは見えないし、ましてや手を伸ばして切ることなどできない。
あとがきで、この漫画はウィトゲンシュタイン的とされているけれど、まさにウィトゲンシュタインの箱の中のカブトムシのようなものとして、このスイカはあるはずだ。
なお、カブトムシの比喩とは、私的言語の文脈で登場するもので、自分だけが覗ける箱の中に入っている自分だけのカブトムシは言語ゲームに乗せることはできない、という文脈で登場する。
だから、「スイカ畑」の「天使の3分クッキング」において、スイカの切断は失敗する。 なぜなら、真理を丸ごと言語で他者と共有するなどということは、ウィトゲンシュタインが言うとおり不可能なのだから。

4 「哲学酔いどれ派」の扱い

「一人ひとりが、それぞれ自分だけがわかるかたちで自分だけの真理というスイカを抱えている」という世界観を認めてもらえるならば、「スイカ畑」における「哲学酔いどれ派」や「哲学ソウゾウ派」についても、僕なりの解釈を打ち立てることができる。
「哲学酔いどれ派」とは、星一徹のように「疑うことが哲学です」とちゃぶ台返しする人とされるが、これは、自分の手元に、自分だけのスイカがあることに気付いていない人だと言えるだろう。僕はこの「哲学酔いどれ派」を否定的に扱うが、カブトムシの比喩も用いて私的言語を否定した後期ウィトゲンシュタインは、ある意味、この流派に属するとも言えるので、哲学者のなかでは多数派なのかもしれない。
僕は、自分の手元にはスイカなどないという「哲学酔いどれ派」の主張を否定するために、プラトンが提示した探求のパラドックスを用いることにする。探求する対象を知らなければ、そもそも探求のしようがないし、一方で、既にその対象を知っていれば、やはり探求のしようがない。つまり、探求は不可能ではないか、という問題設定だ。
このパラドックスの解決策として、プラトンは想起説を提示する。何かを知るとは、つまりは既に知っていたことを思い出すことなのだ、というアイディアだ。
これは、一見して詭弁のように思える。しかし、探求のパラドックスを認め、それを正面から答えようとするなら、想起説と全く同じではないにしても、既になんらかを知っているというような考え方を取らざるを得ない、と僕は考えている。(僕は、コリングウッドが「哲学の方法について」で示したものが最もきれいな答え方だと思っている。)
プラトンの想起説的な考え方を認めるならば、人は、既に真理というスイカを抱えていることになる。プラトンならば、それをイデアと言うだろう。だが、残念ながら、そのことを忘れてしまっている人がいる。それが「哲学酔いどれ派」のおじさんだ。
自分の手元にある真理を見失い、自分の外に真理を求めるから、彼はどこまでも既に手に入れたものを疑い、疑いの先にある何かを求める。そこには何もないのに。 この滑稽さこそが、「スイカ畑」での「哲学酔いどれ派」に与えられた役割なのだ。

5 「哲学ソウゾウ派」の扱い

「スイカ畑」では哲学カフェ界隈の滑稽な人種として、もうひとつ、真理のスイカを理解しつつも、それを調理したがる人である「哲学ソウゾウ派」が挙げられている。
「スイカ畑」においては、「哲学ソウゾウ派」は否定的に扱われている。なぜなら、真理というスイカは丸ごとそのままに他者と共有することが可能なものとされているからだ。共有できるものを、あえて切り刻む必要はない。そこにも滑稽さがあるという訳だ。
しかし、残念ながら、その点は同意できない。
スイカを丸ごとそのままで誰かに手渡すことなどできない。真理というスイカを誰かに伝えようとするなら、言葉という包丁で切り刻み、なんとか伝えようと試みるしかない。
(また、今回の話からは脱線するが、自分自身で、自分が抱えるスイカを吟味し、このスイカがどのようなものかを、より明晰に把握するためにも、言葉という包丁を経由せざるを得ない。)
しかし、残念ながら、切り刻んだスイカは、もとのスイカとは似ても似つかないものに成り果てている。なんとか誰かに自分の真理を味わってほしくて、スイカのフルーツポンチを作ったと思っても、自分の手元には、全く伝わらなかったものとして、丸ごとのスイカだけが転がっている。 誰かと真理を共有しようとするなら、どこまでもスイカを切り刻もうとする「哲学ソウゾウ派」であることは免れることはできない。それが、どこまでも失敗する試みだとしても、だ。どうも、僕自身は、この「哲学ソウゾウ派」に近いようだ。

6 「スピリチュアル派」登場

なお、「スイカ畑」の作者のような人種は、あとがきで揶揄されているように「スピリチュアル派」と名付けるのはどうだろう。
先ほど言ったように、これは、いわば、真理というスイカを自ら抱えていることを知っていて、更に、それを、丸ごとそのまま誰かに手渡すことも可能だとする考え方だ。
このような考え方をする人は、それほど少なくはないように思う。
「哲学ソウゾウ派」である僕から見ると、仏教のような東洋哲学的なものに真理を見出している人や、愛や、魂や、時空や、因果や、科学といった、なにか特定の概念に真理を仮託している人は、「スピリチュアル派」という同じジャンルに分類できるように見える。
確かに彼らは真理というスイカをしっかりと抱えているのだろう。愛にせよ、魂にせよ、時空にせよ、因果にせよ、科学にせよ、仏教的な概念にせよ、彼らが用いる言葉が、そのスイカを描写していないとは言わない。
しかし、いくら難解な言葉であっても、いくら気の利いた言葉であっても、残念ながら、どのような言葉を使っても、その言葉を使った時点で、スイカは切り刻まれてしまっており、僕のもとには、その無残な残骸しか届かないのだ。彼らと、スイカを共有することはできない。
(このことを僕は、「スイカ畑」が載っている本と同じ本に、スペシャルワードという言葉を使って描写しています。)

7 三つの流派の関係と「スイカ畑」の評価

ここまで「哲学酔いどれ派」、「哲学ソウゾウ派」、「スピリチュアル派」と三種類の人種が登場したが、この三者の関係は複雑だ。
確かに、丸ごとのスイカを重視する立場にある「哲学ソウゾウ派」である僕は、「哲学酔いどれ派」に対する限りでは「スイカ畑」の作者のような「スピリチュアル派」と共同戦線を組むことができる。
しかし、言葉という包丁も重視する立場にある「哲学ソウゾウ派」は、「哲学酔いどれ派」と手を組み、究極的には言葉を否定せざるを得ない「スピリチュアル派」に対峙することもできる。
哲学カフェ界隈では、そんな三角関係が展開されているのではないだろうか。

以上は、哲学のかなり奥底に至ろうとしている話であり、「読むとテツガクが終わっちゃう漫画」というのは言い過ぎにしても、「スイカ畑」が、そこにいざなう深さを持つ漫画であることは間違いないように思える。

8 対話の場の力 「哲学ソウゾウ派」視点

ここからは、「スイカ畑」を離れ、僕自身の哲学の話になるが、「哲学ソウゾウ派」と「スピリチュアル派」は、ある特別な関係にあると思う。二人が手を携えれば、「哲学酔いどれ派」を置き去りにして、スイカを丸ごと皆で味わうことができる世界にたどり着けると思うのだ。

その道筋は哲学カフェの現場で見つけることができる。
僕は「哲学ソウゾウ派」として、自分の真理を言葉で切り刻み、なんとか理解し、そして、なんとか他者に伝えようとしている。
その試みは、これまで述べたとおり、ウィトゲンシュタインの箱の中のカブトムシの比喩にあるような困難により、失敗せざるを得ない。
しかし、それでも、なぜか、哲学対話においては、その伝達が成功し、確かに他者に伝わったと感じる瞬間があるのだ。
それは自分が聞き手の側であっても同じだ。哲学カフェにおける誰かの発言が、その人の真実のスイカを垣間見せてくれたと感じるときが確かにある。
日常の生活ではなかなかないことだけど、哲学カフェにおいては、対話がうまく進み、盛り上がったとき、ほんの一瞬でも、参加者が皆、ひとつのスイカを見つめ、真実を共有していると思える瞬間がある。実体験として、僕はそう感じる。
そのとき、スイカは、対話の輪の中心に浮かんでいる。対話の場においてこそ、完全な丸ごとのスイカが、皆の前に姿を現すのだ。 そのとき、その丸い物体をより正確に例えるならば、それはスイカではなく、コミュニティーボールとしたほうが適切かもしれない。真理とは、ときには、毛糸のように柔らかく、手に馴染み、姿を変える存在でもあるのだ。

9 対話の場の力 「スピリチュアル派」視点

一方で、「スピリチュアル派」からも似たような道をたどることができるだろう。
「スイカ畑」には、スイカを共有した3人の主人公たちが登場する。彼らは、彼らの間では真理を共有していることを前提に、それを語ることができる哲学カフェを探している。
つまり「スピリチュアル派」の人であっても、最初から全ての人が真理を共有しているとは考えていない。仏教であれば仏教を信じる人だけが真理にアクセスできるように、「スイカ畑」では彼ら3人だけが愛という真理を知っている。その限定がある一方で、なぜか、これから、仏教にせよ、愛にせよ、選ばれし者のみが知っている真理は、多くの人に広めることができる、ということになっていなければならない。そうでなければ、この「スイカ畑」の物語は成立しない。
そのファンタジーを成立させるためには、どこかで、対話の場では真摯な言葉で真理を伝えることができる、という対話の場の力を導入しなければならない。主人公たちが理想的な対話の場を探しているということは、その象徴だろう。
以上は、対話の場で「哲学ソウゾウ派」がたどった道を、逆向きにたどるということにほかならない。「哲学ソウゾウ派」は、対話の場において、スイカという真理を伝えられることに不思議を感じる。それに対して、「スピリチュアル派」は、それを当然の前提として考え、それをただ求め、そして時に伝わらないことに傷つく。という違いがあるだけなのだ。

10 丸ごとのスイカを味わう

「哲学ソウゾウ派」によれば、言葉による真理の伝達など不可能なはずなのに、哲学対話の場では、なぜか奇跡的に成立することがある。しかし、ホーリズム的な視点も踏まえれば、真理などというたいそうなものではなくても、例えば「鳥」などという言葉がきちんと伝わることも奇跡と言える。「鳥」という言葉の意味を定義するためには、「脊椎動物」という言葉を使わなければならないが、「脊椎動物」という言葉を定義するためには「鳥」という言葉を使わなければならない。というように、すべての言葉は互いに絡み合ってひとつの構造となっており、その中からひとつの言葉だけを取り出して論じることはできないというのが、ここでのホーリズム的な考え方だ。だが、それでも、なぜか「鳥」という言葉で鳥について伝達できる。これが奇跡だ。
この奇跡を認めるならば、どこかで「スピリチュアル派」が言うことを渋々ながら認めなければならない。
一方で、「スピリチュアル派」も、これだけ伝わらない現状を踏まえるならば、謙虚に「哲学ソウゾウ派」の批判を受け入れるべきだろう。
「スピリチュアル派」の問題は、その派閥内で、愛やら魂やら科学やら、はたまた仏教用語など、どの言葉を重視するかで分裂し、派閥内での統一ができないことに象徴される。そのように混乱したままで、真理とまでいかずとも、何かをきちんと伝えることは困難だろう。

思うに、言葉によって人が人に何かを伝えることができる、という不思議が当然に成立することをうまく描写するためには、多分、完全に「哲学ソウゾウ派」であってもうまくいかないし、完全に「スピリチュアル派」であってもうまくいかないのだろう。
不思議と当然が同居するかたちで言語が成立するということは、僕も、「スイカ畑」の作者も、そして実は「哲学酔いどれ派」を自認する誰かも、どこか「哲学ソウゾウ派」であって、どこか「スピリチュアル派」であるということを意味する。
これが、僕が考えるスイカを味わう道だ。 つまり、言語が成立ということは、既に、ある一面では丸ごとのスイカを味わっているということなのだ。もう一方の面では、完全に味わうことを取り逃がしているとしても。

ロビン・ジョージ・コリングウッド「哲学の方法について」のアイディアの僕なりの拡張(メモ)

僕は、この本についてアマゾンにレビュー記事を書いた。
そこに書けなかった自分なりのアイディアをメモしておく。

この本の最重要アイディアである、「重複に起因する「形式の変移図」という哲学の方法のあり方」は正しいと思う。
ただし、僕のなかに取り込むにあたって4点修正を加えておきたい。
なぜなら、「重複」や「形式の変移図」というアイディア自体も弁証法的に乗り越えられなければならないからだ。
このような、いくつかの書き換えによる拡張が認められるなら、コリングウッドは、まさに僕が考えていたこと明確にし、更に、その先を示してくれた、とさえ思える。
多分、他者の哲学を理解するとは、そういうことなのだろう。コリングウッドはそんなことを感じさせる数少ない哲学者だ。

1 「形式の変移図」における類の設定の詳細化

コリングウッドの「形式の変移図」は、例えば「道徳」というような特定の類、僕の言い方ならテーマ設定がなされることから始まる。
それは正しいのが、テーマ設定はもっと厳密に行われるべきだろう。なぜなら、哲学とは、既に知っていることという出発地点(原理)と、既に知っていることのより詳しい描写という到着地点(結論)を、それぞれ照合しつつ更新するようなあり方をするからだ。
結論を厳密に考えるうちに、出発地点を捉え直し、再出発を図るということは哲学にはよくあることだろう。
そのことをうまく描写するためには、議論の出発点を「道徳」というような大枠で設定することは適切ではない。より、詳細に厳密に設定されるべきだ。厳密に設定するからこそ、出発地点を確認したり、照合したり、見直したりすることが可能になる。
多分、詳細なテーマ設定は、疑問文の形で行われるべきだろう。この意味で、コリングウッドの二つのアイディア、「問答論理学」と「形式の変移図」は接続する。
問答論理学において、問いと答えが重ねられ、問い自体が変化し推移することと、「形式の変移図」において下位の思想が上位の思想に弁証法的に置き換えられることは重なると、僕は考える。

2 「形式の変移図」の軸の単数から複数への拡張

コリングウッドにおける「形式の変移図」は、例えば「道徳」という単数の軸が固定されたうえで、きれいに下から上に積み上げられた構造物のように描かれている。
しかし、実はそうはならず、左右に揺らぐように、または蛇行するように積み重ねられていくはずだ。
なぜかと言えば、コリングウッドが言うような、下位の思想と上位の思想という、上下、つまりY軸のみの単数の評価軸では足りないからだ。

「道徳」を例とすれば、コリングウッドによれば、功利主義はカント流の義務論により完全に乗り越えられるとする。
しかし、先ほど論じたように、テーマ設定はより詳細に行われるべきだ。
その場合、コリングウッドが行ったのは「道徳的な善とは何か」というようなテーマ設定であったと言ってよいだろう。確かにこのテーマなら功利主義は義務論により乗り越えられるとしてよいかもしれない。

しかし、同じ、道徳についてのテーマであっても、功利主義者が設定したのは「どうしたら道徳を測定できるのか」や「どうしたら現実的な範囲で道徳的になれるのか」といったものだったらどうだろう。
その場合、必ずしも義務論が功利主義に対して優位に立つとは言えない。
つまり、これは、コリングウッドが導入していたY軸の評価軸とは別に、X軸やZ軸といった評価軸を導入するということである。
(多分、問いがいくらでも思いつくように、この評価軸はいくらでも設定できるのだろう。)
グラフ用紙の上に「形式の変移図」を描くなら、功利主義の左上に義務論は描かれる。この場合、Y軸(「道徳的な善とは何か」)では義務論の方が上位だが、X軸(「どうしたら道徳を測定できるのか」)では功利主義が上位となる。
これは、義務論者と功利主義者が同じ「道徳」について話しながら、別の問いを設定し、噛み合わない議論をしている状況を示した図だと言ってもよいだろう。

3 「重複」の「形式の変移図」への適用

コリングウッドのアイディア自体も、自らのアイディアの適用の例外とはならず、メタ的な適用がなされるべきだ。
つまり、コリングウッドの「重複」というアイディアを「形式の変移図」というアイディア自体に適用するなら、「形式の変移図」であることと、「形式の変移図」ではないことも重複していなければならない。
それならば、「形式の変移図」ではないということも、この「形式の変移図」のなかに書き入れられなければならない。
「形式の変移図」に書けない地点とは、評価軸のベクトルの先端の無限の彼方であろう。
それは例えば、「道徳的な善とは何か」というような問いの切先にあるということだ。
更には、これらの問いすらも「形式の変移図」に位置づけられるのだとすれば、問いについての問いの先端にあるということだとさえ言えるかもしれない。
そこでは、「形式の変移図」という図式は無力化されなければならない。
また、そこでは、これまでの哲学という積み重ねが役に立たない絶望のなかで、全面的に新しいアイディアが生まれることになるのだろう。
哲学には、コリングウッドの 「形式の変移図」 では論じられなかった、こういう側面もあるはずだ。

4 重複から包含へ

コリングウッドの言う「重複」とは、普通の重複ではない。
哲学における重要なキーワードは、重なり合うベン図のように静的な描き方はできない。
動的で、互いに互いを完全に包含し合うようなあり方をしている。
つまりは、ある哲学において、AとBという概念が重要だとすれば、全てはAであり、また全てはBであるとも言えるのだ。
このことについては、コリングウッドも「哲学的な段階に達するとそれは本来持っていた制限から解き放たれ、四方八方へと流れ出し、様々な領域へと進出していき、ついには現実そのものを完全に覆う。」としているとおり、同意してくれるだろう。
なお、すべての哲学用語が完全に互いを包含し合うようなあり方をしている訳ではないという反論があるかもしれない。
哲学用語がそのような無制限なあり方ばかりしていたら、哲学の言葉は空回りして何も語れなくなってしまうではないか。
たしかにそのとおりなのだが、コリングウッドが言うとおり「哲学の言葉は最重要であるか、何の意味もない言葉になっていく」という地点は確かにあると思う。
理想的な限界としての哲学というものがあるのなら、その哲学とは、完全な相互包含関係というかたちで描くしかないのではないか。
そうならずに人間の言語で捉えることができる範囲で収まっているのは、その哲学が突き抜けたところまで到達せず、少なくともある評価軸では「形式の変移図」がうまく働く下位の層にとどまっているからなのだろう。


(以下、自分用の章ごとのメモ)

Iはじめに
哲学特有の柔軟性

II部類[xiv]の重複
哲学は部類が重複するという特徴
「現代において、哲学は混乱の真っ只中にある。現代の思想家たちは互いの考えを容易に受け容れられず、場合によっては理解すらできずにすれ違う。」

III形式の変移図
対立と区別の部類の重複から、上位の項が下位の項を取り込みつつ乗り越える(よりよい別のかたちで把握する)という「形式の変移図」が描かれる

IV定義と描写
定義も既に定義づけられているものをより正確に定義するということ
定義も重複するから

V哲学的判断:質と量

肯定的判断と否定的判断 重複する
否定するときは対案を提示
「ある哲学的な言説を批判するということは、代わりにより良い言説を提示するということ」
肯定するときは否定が含まれる
「哲学的な考え―例えば、「哲学的な類の種は重複する」というような―を述べるときは、そこには必ず特定の考えを狙った否定が含まれているのである」
「もし哲学において何か価値のある真実を述べたいのであれば、他者の述べたことを丁寧に分析し、それらに然るべき修正を加えていく作業を怠ってはいけない」
「他の哲学者が言ったり書いたりすることを聴いたり読んだりするとき、その人が肯定していることを理解しただけで満足してはならない。必ず、そのとき同時に相手が何を否定しているのかにも注意深く耳を傾けなければならない。」


普遍・個別みたいな話 重要性低

VI断定的な考え方としての哲学
断定的な命題(科学における仮定的な命題とは違う) 語り終えることが断定かな?
超越論的証明

VII二つの懐疑的な立場
懐疑論と分析哲学 重要性低
「主題に対する興味を共有しないということ」

VIII演繹と帰納法
演繹
「哲学的議論は原理から結論へと至る一方通行なものであってはならず、原理が結論を支え、結論がまた原理を支えるというような、転換可能な[cxxxviii]ものでなければならない。」
両方を照らし合わせる
原理=なんとなく自明に思っていることかな?
「「我思う、ゆえに我あり」[cxxviii]の原理は超越論的に演繹されている。あるいは、私たちが実際に経験していること―この場合は、筋道だててものごとを疑う、という経験―がそもそも可能となるための条件として、それが示されている」
「カントは、哲学には公理が含まれてはならず、哲学の第一原理は証明を、それも独特の証明を必要としている、と述べた。」
「ヘーゲルはカントの導きに従い、哲学には自身の出発点の妥当性を示す独特の義務がある、と述べた。」

帰納 
「哲学についての理論は、それ自体が哲学の重要な一部分だ。あるいは、この原理をどれだけ明確に把握できているかは、ある哲学の成熟度を見極める基準であるともいえるかもしれない。」

IX体系の理念
「形式の変移図」という体系
「哲学の役目は、人間の知識の百科事典となることではなく、自分に特有の問いに、特有の方法で向き合っていくことである。」
「こうした状況や問題はそれぞれ独特なものである。そのため、一人の哲学者の体系は、修正なくしては他の哲学者たちに受け容れられることがない。」

X文学の一分野としての哲学
専門用語
「歴史的文章のねらいはこの「知識の核」を表現することであり、その外にある不確かさは無視する。疑念や問題をなるべく避けて通り、確信がもてることにのみ集中する。」
歴史=知っていること=読者のため 哲学=知らないこと=自分のため
「哲学的文章の真髄は告白―精神による精神自身の過ちの探究と、それを認めることによってそれを改善しようとすること―にある」

哲学書の読み方
「哲学者たちの作品を読むとき、私たちはかれらの「後に続く」[clxxxiv]。つまり、かれらの考えたことを理解し、かれらがそう考えるに至った過程をできる限り再現しようとする」
「読み手は自分から書き手の精神に入ることで、これを追体験するべき」
「優れた読み手は、優れた聴き手がそうであるように、集中するためにまずは沈黙するものである。かれは自分の考えを割り込ませようとはせず、書き手の考えをより良く把握しようと努める。それも、受け身になるのではなく、自分の活動によって、我が道をゆくことは遠慮し、書き手の導きに従う。」
「私たち自身が考えなければならない」
「読み手はそれに加えて、書き手を批判できるようになる必要もある。」
「批評家はそのため、作品の内部から仕事をする必要がある。」
「かれがまずもってすべきなのは、何かについて書き手が限られた視点から説明したものを、書き手がそのときに見落としていた側面を挙げること」

XI結論