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コロナ騒ぎと生きるということ

コロナ騒ぎの渦中にある今、思うことを書き残しておく。

1 コロナの数値的な話

コロナにかかると、何%かの人が死亡すると言われている。実際に何%になるかは医療体制の状況や年齢によりけりのようだ。ここでは仮に1%としておこう。もし実際は2%や0.5%だったとしても、話を進めるうえでは大きな問題はない。

今後、コロナはどうなっていくのだろう。このまま対策をとらなければ、皆が感染して免疫を獲得し、これ以上、感染が広がることがなくなったところで流行は終わるのだろう。そうなるためには全員が感染する必要はないが、かなりの割合の人が感染する必要がある。ネットでは70%程度の感染が必要だという情報があった。その情報は正確ではなくても目安にはなるように思える。

つまり、世界の人口が70億人として、70億人×70%=約50億人が感染する必要があることになる。また、死亡率が1%とすると、50億人×1%=5千万人が死亡することになる。

スペイン風邪の場合は、当時の人口約20億人のうち、数億人が感染し、数千万人が死亡したということなので、この試算には大きなずれはないのではないか。

当然、飛躍的に医療が進歩しており、ワクチンや治療薬の開発も進んでいる。だが、開発には1年程度はかかるとされている。スペイン風邪が2年程度で終息したことを踏まえると、死者・感染者を半減させる程度の効果しかないように思える。

以上の僕の試算は、多分フェルミ推定と呼ばれるものだ。桁が合っている程度のざっくりとした推計を目指すものなので算出した数値はかなり怪しい。だから、推計が悲観的なものになりすぎないように、仮に、人間とウィルスの戦いが、特効薬や移動制限などにより人間側に有利に展開されたとしよう。その結果、70億人×感染率70%×死亡率1%=5千万人、という試算より大幅に死者数は抑えられ、死者は700万人だったとしよう。

これは、全世界の人口70億人の0.1%が死亡するという計算となる。

その場合でも、2020年3月29日現在の死者数が3万人なので、これから、これまでの200倍の死者が出るということになる。

仮にスペイン風邪と同じように終息まで2年かかり、それまでに均等に死者が出るとすると、700万人÷365日×2年=1万人が毎日死亡することになる。

また、日本に目を転じると、人口1億人の0.1%が死亡するとするなら、死者は10万人となる。2年間、均等に死者が出るとすると、1日あたりの死者は150人となる。

これは、世界を破滅させるような数値ではないが、現在の騒動がまだ序の口にあると思わせるに十分なものだろう。

2 将来の死の可能性への注目について

このような数値を書き連ねたのは、どうも、世間は、こういう数値に目をあまり向けていないように思えるからだ。

日々、何人が感染して何人が死亡したとか、誰が感染したというようなことはニュースになるけれど、今後の予想が話題になることはほとんどない。

そのような将来予測は専門家にしかわからないので、専門家に任せておけばいいということなのだろう。

ただ、専門家も、そのような将来予測を広く知らしめることはない。不確定要素が多すぎるからかもしれないし、専門家とはそれぞれの分野の専門家であり、全体としての予測を行うような立場にはないからかもしれない。

だが、それらはすべてまやかしの言い訳だと思う。

本当は、皆、死から目を背けているのだ。

いや、当然、これまでの過去の死者には目を向けている。死者が何人ということは大きなニュースになるし、個々の死のエピソードにも注目は集まる。

正確には、皆、将来の死の可能性から目を背けている。誰もそれを見たくないのだ。

だが、実際に、死の可能性は目前にあり、死は僕たちを捉えようとしている。

僕のフェルミ推定的な計算結果は、多分、大きなずれはないと思う。将来、コロナによる死は0.1%の確率で僕たちを待っているのだ。

そこから年齢や健康状態などを考慮すれば、個人ごとの死亡率のばらつきはあり、例えば、0.01%~1%というような幅を広げた予測が必要となるかもしれない。

だが、無視できない確率での死が待っているということは確かだ。

3 死の意義について

このような暗い話をするのはなぜかと言えば、僕は、今回のコロナは悪くない話だと思うからだ。

僕たちは、1%か0.1%か0.01%かはわからないけれど、無視できない確率で、コロナにより死ぬ。いくら目を背けても多くの人はそのことを感じつつあるはずだ。これは、死により絶対的に失うものについて気付くということであり、失うかもしれないと思うからこそ、何を持っていたのか気付くことができるということでもある。それならば、その持っているものについて、大事にしようと思えるのではないだろうか。つまりこれは「死を思え」だ。ここにこそ、今回のコロナ騒動の意義があるように思える。

僕は、5年前にガンになった。実際には初期の胃がんで、5年生存率は95%とか99%というようなものだった。だけど、はっきりしたことは手術をするまではわからず、ガンができた場所も結構微妙だったので食道の進行がんかもしれないという話もあった。だから、5年生存率はもっと低いかもしれないと思った時期もあった。(食道は胃よりも組織が薄いので、組織からガンが漏れ出やすいようなのです。)

僕はがんになって、死なずに生きているということの意義を少し実感できた。当然、よりステージが進んだがん患者に比べればたいしたことない話だけど、ある程度の大きな数値で死の可能性を示されたことは、僕の人生において確かに大きな意味があった。僕は死を思い、生を思うことができたのだ。

つまり、僕にとってのガンと同じような意義が、コロナにはあるように思えるのだ。

皆、そろそろ死ぬ。そして、その「そろそろ」は意外と近いかもしれない。だとするならば、死なないのではなく、生きることを考えたほうがいい。そのためには、死に目を向けるべきなのだ。

4 コロナ対策について

死から生へ、と視点を変更するならば、コロナの感染を防ぐために、色々な活動を自粛することについても、よくよく考える必要がある。

コロナによる死者を減らすために、色々と対策をすることは当然必要だ。だが、それは、あくまで、死なないための取り組みに過ぎない。人間の営みとは、生きる営みであり、死なないための取り組みとは、その最低限の条件を整えるためのものに過ぎない。

死なないための取り組みの危険なところは、それ自体に、なにか大きな意義があるように感じられる魅力があるということだ。

今回のコロナで、医師が不眠不休で人の命を救ったり、製薬会社が新しい治療薬の開発に取り組んだり、市民が家に引きこもって買いだめした食材を食べてしのいだり、老人がマスクを探して薬局に並んだりしている。そこには「生」につながっているという高揚感があり、やるべきことをやっているという意義に満ちている。

だが実は、それらは全て、自分ではない誰かや、今の自分ではない未来の自分が生きるためのものだ。そこには、今の自分が生きるということへの考慮が欠けている。これらは、いわば死なないための取り組みに過ぎない。更に言えば、今の自分の「生」から目を背け、他の誰かや未来の自分に「生」を押し付けているに過ぎない。

だとするならば、他の誰かや未来の自分のために、今の自分の活動を自粛し、制限するということは、いわば、本物の金貨を差し出し、偽物の金貨を手に入れているようなものだとも言える。偽物には偽物の価値があるから、一概に悪い取引とは言えないが、そのような取引をしているということは心に留めておいたほうがいいだろう。

今回のコロナでの一番恐ろしい被害は、コロナにより死なないことを優先するあまり、この数ヶ月、または数年間、皆が生きることを忘れてしまうことだ。

人生が100年とするなら、この1年は全体の1%にあたる。若い人にとっては、実感としての割合は更に大きなものとなるだろう。

高齢者を中心に0.1%死ぬかもしれないことと、若い人も一律に1%確実に生きなくなることでは、後者のほうが問題ははるかに重大なのではないだろうか。

では、僕は具体的に何を言いたいのか。

僕はこう言いたい。「死なないしかしてない人は、生きるをしている人のことを邪魔しないでほしい。」

『連続と断絶』・『断絶と無関係』の話

飯盛元章さんが書いた『連続と断絶 ホワイトヘッドの哲学』を読み、その後、ネットで動画配信された『断絶と無関係』という飯盛さんと入不二基義さんの対談を観て思いついたことを書き残しておく。

0 感想

以前から、ホワイトヘッドという哲学者は、面白そうなことを言っているようだけど、どうも難しそうだし、その面白さをうまく教えてくれる解説書もないしとっつきにくいなあ、となんとなく思っていた。

そんななか、飯盛さんの本を読み、ホワイトヘッドのことをやっと理解できた「気がした。」

この本は多分、複雑怪奇なホワイトヘッドの哲学の全体像を伝えるものではないのだろうけれど、僕が知りたかったところをちょうどうまく切り取って教えてくれているように思う。それは飯盛さんの能力によるところが大きいのは確かだけど、多分、僕と飯盛さんの興味のポイントが似ているからでもあるのだろう。

飯盛さんは入不二さんや永井均さんのことが好きで、今回の対談も自分から声をかけたということなので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。

だから当然、対談の方もとてもよかった。(You Tubeで視聴できます。)

二人の哲学観が深いところで重なり合っているためか、餅つきのようにテンポよく見通しのよい議論が深まっていった。(入不二さんが杵を振り下ろし、飯盛さんが餅を返すかたちで。)

とてもクリアに議論が進んだおかげで、ツッコミどころも明確になったようにも思える。だからこそ、是非、僕自身の考えで、議論を書き換えたいと思い立った。

ホワイトヘッドが提案する思弁哲学は、飛行機のフライトを繰り返し、思弁哲学の理想への漸進するものだ。それならば、思弁哲学の目的に寄与するものである限り、このような書き換えはどこまでも許容されるだろう。そう考えるならば、僕がこれからやろうとしていることがどんなに幼稚なものであっても、ホワイトヘッドの意向に沿っていると思いたい。

1 多という常識

この本を読んで、さらに動画配信を観てみて、ホワイトヘッドの僕にとっての面白さというのは、「常識への立ち返り」にあると感じた。

ホワイトヘッドの哲学体系は複雑怪奇だけど、これは意図的にそうしようとしたのではなく、なんとか常識に立ち返るために、常識を一つ残らず漏らさないよう色々と考えていたら、有機体の哲学という、化け物のような体系ができてしまった、というのが多分、実情なのだろう。その不気味さを嫌う人もいるだろうが、ホワイトヘッドにとってはそれしかありえない。そのような意味で、不細工な子供のような、愛すべき哲学体系なのだ。

そして、その愛と、確かに常識のすべてを漏らさず捉えているという圧倒感が、ホワイトヘッドの有機体の哲学を魅力的なものにしているような気がする。

そう考えると、対談では「常識」というものがあまり評価されていなかったが、実はとても重要なものなのではないかと思う。

特に重要な「常識」は、「多」という存在のあり方だろう。

最近、プラトンの『パルメニデス』を読んだのだが、パルメニデスは、「一なるもの」について議論するなかで、全く「一」ではないものとして「多多」というものを提示する。分割しても何をしても「一」にはならないものが「多多」である。「一」と「多多」という両極を想定するならば、世のたいていのものは一にもなるし、多にもなるし、という意味で、「一」でも「多多」でもない中間的な「多」だ。

(自然数を例とするならば、2は分割して1と1になるし、150という数も149と1とに分割できるので1が含まれる。そう考えるなら、少なくとも1以外のすべての自然数は「一」を含んでいるから、「多多」ではなく「多」であるということになる。)

常識的に考えるならば、世界は「多」で溢れている。ペットボトルは何本と数えられるので多だし、人間も何人と数えられるので多だ。世の中のものは、すべて「多」だと言ってもいいだろう。

ホワイトヘッドは、この常識に従い、同質・複数の「多」でどこまでいけるかに挑戦した哲学者なのではないか。

そして、ホワイトヘッドに断絶を読み込もうとした飯盛さんは、この常識に基づいた体系を基礎としつつ、断絶を読み込むことで、どれだけ非常識に近づけるかに挑戦したと言えるかもしれない。

では、なぜ断絶を読み込もうとしたのか。

対談のなかで、飯盛さんと入不二さんは断絶/無関係を求める動機として、「ほっておいてくれ」という倫理的動機と、面白いという美的動機を挙げていた。

多分、そこには常識にとらわれることへの違和感と、そこから脱することの解放感があるのだろう。

常識でとらえようとするホワイトヘッドvs常識にとらえられまいとする飯盛/入不二 という白と黒の図式がそこにはある。

対談で、(不滅かつ消滅は矛盾ではないかという入不二さんの指摘を受け、)飯盛さんが言っていたけれど、「両側面があるものだとしたら、もう片方の方も最大強度にしてあげたい。(矛盾表現にするとその強さが弱まってしまうから採用したくない。)」と言っていた。

この話は、ホワイトヘッドの連続vs飯盛/入不二の断絶/無関係の対立構造にもあてはまるように思える。断絶を拡張するならば、または、断絶の力をより引き出すためには、ホワイトヘッドの連続についても、更に拡張し、その力を引き出すべきではないのか。

2 ミクロの話

2-1 抱握

ホワイトヘッドの有機体の哲学の魅力は、「抱握」にあると思う。僕がホワイトヘッドについての本を読みたいと思ったのも、この言葉の不思議な魅力にあったように思う。飯盛さんは、とてもわかりやすく、明確なかたちで、この「抱握」について説明してくれた。そして、やはり僕の予想は間違えていなかった。「抱握」は魅力的だ。

ホワイトヘッドの有機体の哲学は、人間の思考についても適用され、哲学体系を構築する基礎的な単位である現実的存在には、人間の個々の思考も含まれる。

話を人間の思考に限定するならば、抱握とは、新たに思考が生まれるということだとも言える。新たな思考が生まれるにあたっては、過去の自らの思考や、見聞きするなどして、外部から得た現在の感覚のようなものが材料となる。それらの材料を用いて、新たな思考が生み出されることになる。そして、そこで生み出された思考は、次の瞬間には、過去の思考のひとつとなり、次の思考が生み出されるための材料となる。

抱握というアイディアは、この思考が生み出される瞬間のことをよく描写していると思う。色々なものを材料としつつも、それらとは異なる新たな思考が生み出される瞬間をきれいに切り取ることに成功している。

2-2 驚き

僕が、「抱握」を魅力的だと思うのは、少なくとも、それを人間の思考という場面に限定するならば、「抱握」は「驚き」と言い換えることができるように思えるからだ。

「驚き」とは、哲学的思考の場面に限定するならば、タウマゼインのことだ。

過去の記憶や現在の感覚を材料としながらも、全く新しいものが生まれる瞬間が「抱握」であり「驚き」である。有機体の哲学における「新しさ」とは、このことを指していると僕は思う。

だから、正確には、抱握においては、記憶や感覚は材料ではないだろう。それらを組み合わせて何かを創り上げるのではなく、それらに触発されるようにして、全く新しい思考という現実的存在が生まれるのだ。

また、少なくとも思考に限定するならば、パースペクティブに応じて、触発のされ方が限定されるとも言える。僕が目の前のケーキを見て食べたいと思うとき、僕は、ケーキの素材や重さなどではなく、美味しそうな見た目という側面に触発されている。そして、食べたいという思いが、驚きとして僕に訪れていると言える。これが現実的存在の分割可能性ということなのだろう。

このようにして、タウマゼイン的な驚きは、人間の思考のあり方全般に拡張することができる。ホワイトヘッドの抱握には、そのような含意があると思う。そう考えるならば、合生の過程を描写する決断という用語は、驚きというものが持つ、ある種の飛躍性をうまく表しているように思える。

このような解釈は、ハーマンの魅惑に接近しているかもしれない。だが大きな違いは、魅惑の場合、その接触に必然的に失敗するが、抱握はなぜか成功してしまう、または成功されたことになってしまうという点にある。

2-3 退隠

抱握における触発というあり方に注目するならば、だからこそ、現実的存在は持続すると考えることができる。現実的存在は、対象となり、その一面が触発されることはあっても、全体として消費されることはないのだから。

そのことを、この本に教えてもらったもうひとつの重要なアイディアだと思われるハーマンの退隠によって説明することもできると思う。充足し持続している現実的存在は、ある一面が触発の対象となることはあっても、全体としては退隠し、どこまでも捉えられることはない。ホワイトヘッドの現実的存在は、ハーマン的な退隠により、どこまでも消費されないまま持続することができるのだ。

ただし、充足した現実的存在がどこまでも持続するということは確かめられない。なぜなら、現実的存在は抱握し、その一面が触発されることでしか、その存在を確認することはできないのだから。よって、現実的存在が潜在的に持続するというアイディアは、時間を認める限りにおいて認めるべきものなのかもしれない。これは現実的存在が時間に付随するということである。

2-4 入不二さんの時間論

ここまでの話は、入不二さんの時間論と接続することもできると思う。

入不二さんは、『あるようにあり、なるようになる』で、過去・現在・未来がつながっていると考える時間原理Ⅰと、過去/現在と未来の間に断絶があるとする時間原理Ⅱがあるとする。

ホワイトヘッドの抱握は、過去の記憶と現在の感覚から新たな現実的存在を生むものだから時間原理Ⅱにつながる。

充足した現実的存在は、どこまでも退隠し、ただ潜在的に過去・現在・未来を通底している。これは時間原理Ⅰにつながっていると言っていいだろう。

入不二さんによれば、時間原理Ⅰと時間原理Ⅱが絡み合っているように、抱握と退隠は絡み合っているのではないか。

2-5 神

ここまで、ホワイトヘッドの生成について、抱握と退隠を中心に述べたが、それ以外の、神や範疇的制約や永遠的客体といったホワイトヘッドの道具立ては、余計な不純物なのではないだろうか。いずれも、常識的で科学的な世界、つまりものごとが安定的に時間的に連続して存在する世界を確保するためのものだ。だが、そのようなものなど関係なく、僕たちのこの世界はなぜか、ただ、うまく回っている。それが抱握の力なのではないだろうか。その力を信じるのならば、抱握を驚きと言い換えることはそれほどおかしいことではないように思える。

僕たちは、日々、瞬間ごとに、この世界がうまく回っていることに驚き続けている。そこに何かを付け加えることはできない。その驚きこそが神への驚きであるという表現はできるにしても。

3 マクロの話

3-1 断絶の連続性 通時的断絶から垂直的断絶へ

ここまではミクロの話だったが、飯盛さんは基本的にミクロの部分については、ホワイトヘッドの議論をそのまま受け入れていると言っていいだろう。

だが、そこからマクロの話に移ると、飯盛さんは、ホワイトヘッドの議論の中で、議論の重み付けを操作することにより、ホワイトヘッドの議論の変形を試みている。いや、これこそが実はホワイトヘッドが言おうとしていたことであり、それを強調しただけだということなのかもしれない。どちらにせよ、飯盛さんがホワイトヘッドの議論から鮮やかにオリジナルなものを取り出しているのは確かだと思う。それは「断絶」だ。

飯盛さんは、ホワイトヘッドの議論のなかに4つの断絶を見出しているが、そのなかで、特に第2の断絶から、第3の断絶、さらに第4の断絶と進む部分が重要だと思う。

飯盛さんは、第2の断絶を通時的断絶、第3の断絶を垂直的断絶とする。第4の断絶は名付けられていないので便宜的に体系的断絶とする。

ホワイトヘッドは、現在の物理法則に支配されている世界(現在の宇宙時代)が、時間経過により、未来には物理法則が変化し、全く別の物理法則に支配されている世界(未来の宇宙時代)に移行することがありうるとする。これが通時的断絶だ。

さらに大きな断絶として、物理法則が変わるのではなく、ほとんどの物理法則がない、カオスのような世界(根底的社会)との間の断絶があるとする。これが垂直的断絶だ。

飯盛さんは、この二つの断絶を別のものとして考えるが、物理法則の変化と、物理法則の喪失とを同次元で捉えることが許されるのならば、この二つの断絶を同種ものとして捉えることができるのではないだろうか。

例えば、現在の宇宙時代のなかの物理法則のうち、熱に関する法則を変化させるとする。例えばエネルギー保存の法則を変化させ、別のものにすると、世界のあり方は大きく変わるだろう。僕は科学に疎いので、どの程度の変化が生じるのか想像もつかないが、とにかく大きな変化が生じ、別の宇宙時代に突入するような事態が生じるとするならば、これが通時的変化だ。

同じように、熱に関する法則を消滅させるような変化も想定することが可能だろう。そうすると、そこには熱に関する法則というものが存在しない世界、つまり別の宇宙時代が生じる。これも同様に通時的変化だと言うことができるだろう。

同様に、ひとつずつ、自然科学に関する法則を失わせるような変化を積み重ねていくと、徐々に、その世界(宇宙時代)は根底的社会に近づいていく。そして、いつかは根底的社会に到達するに違いない。

このようにして、消滅を変化の一種と捉えるならば、通時的断絶の究極的なかたちとして垂直的断絶があると考えることもできるのではないだろうか。

3-2 断絶の連続性 垂直的断絶から体系的断絶へ

ホワイトヘッドによれば、垂直的断絶の先にある根底的社会とは、純粋な延長の社会である。僕はこれを空間が担保されている世界だと解釈した。それが正しければ、根底的社会には更に時間も必要となるだろう。なぜなら、時間と空間がなければ、複数の現実的存在が抱握するようなホワイトヘッドのミクロな生成論が成立しないからだ。また、この見方はカントの捉え方にも合致しているように思う。根底的社会とは時空のみが成立する場においてカオスが渦巻く世界なのだと考えよう。

それでは、更に、根底的社会から時空をも取り除いたならどうなるだろう。

そのようなことは、少なくとも二つの意味で想定することはできないだろう。まず、時空がなければ、ホワイトヘッドの生成論が成立しなくなり、有機体の哲学という哲学体系を逸脱することになってしまう。また、カント的に言うならば、時間と空間がないような事態を想定することは、超越論的に不可能だということになる。

しかし、ホワイトヘッドの思弁哲学に則るのであれば、そのような事態も想定しなければならない。もし、そのような事態を認めるのならば、そこには有機体の哲学という体系を超えた断絶が生じる。飯盛さんは、そのような断絶こそが第4の断絶であるとする。

以上は、飯盛さんとは別のやり方による第4の断絶、つまり体系的断絶の説明だが、このように説明することで、体系的断絶の別の姿が見えてくるように思える。

飯盛さんは、体系的断絶は、有機体の哲学の体系の外から体系自体を破壊しようとする力だとした。しかし、僕によれば、体系的断絶は、時空のみがある根底的社会から、時空を取り除くという操作により説明可能だ。それは、根底的社会がもう一段深まったに過ぎないとも言える。つまり、通時的断絶から垂直的断絶へと進んできた道筋の一歩先に体系的断絶が位置づけられ、いまだ、それは有機体の哲学の体系に収まっているという捉え方ができる。両方の捉え方に誤りがないとするならば、体系的断絶とは、有機体の哲学という体系の内からも外からも説明ができるようなものなのだ。つまり、そこには完全な断絶を見出すことはできない。

以上を踏まえると、通時的断絶、垂直的断絶、体系的断絶という3つの断絶は少なくとも存在論的には連続していると考えることができる。

3-3 断絶を可能にするもの

ところで、このようなかたちでの断絶を可能とするものはなんだろうか。

それは、有機体の哲学の体系のなかである限りは、ミクロな生成のプロセスによってでなければならない。なぜなら、有機体の哲学においてそのような断絶を可能とするような道具立ては、生成のプロセスしかないのだから。

だとするならば、僕の場合であれば、通時的断絶、垂直的断絶、体系的断絶という3つの断絶すべてが、また、飯盛さんの場合でも少なくとも通時的断絶と垂直的断絶については、抱握による生成のプロセスにより生じるということになる。

つまり、法則が変化し、失われるというような大きな変化さえ、抱握によってしかもたらされることはない。抱握は、それほどまでに大きな力を持っている。逆に言えば、過去と現在のすべてに触発され、そこから全く新しいものを生み出すものである抱握は、その抱握のあり方によっては、法則の喪失さえもたらす。抱握の新しさは、そのような飛躍をも含むものであり、そのことを強調するためにもそれは驚きと名付けるほうが適切なように思える。

そして、僕の捉え方によるならば、抱握が法則の喪失に向かって進むうちに、ついに、その最終段階では、現実的存在は、抱握により、カオス的な根底的社会から時空も失われたブラックホールにまで至ることができるのだ。到達する瞬間に、ホワイトヘッドの有機体の哲学体系全体とともに破壊されるとしても。

ここまでは、いわば、法則を失い、階層を下る道筋だったが、抱握による生成のプロセスを通じて、現実的存在は階層の上昇も可能だろう。

全く熱に関する法則が存在しない世界(宇宙時代)において、抱握により、新たに熱に関する法則がある世界(別の宇宙時代)に飛躍することはできる。そのようにして、根源的社会から、この常識的な法則が支配する宇宙時代にまで到達することは可能であるはずだ。

更には、僕の捉え方によるならば、時空が存在しないブラックホール、飯盛さんが実在の深みと呼ぶものから、抱握により、時空を持った根源的社会が生まれることさえも検討しなければならない。

さきほど抱握という生成のプロセスのためには最低でも時空が必要だとしたとおり、この点は慎重な検討が必要だと思う。だが、断絶の源となるブラックホールまたは実在の深みが「場のようなものとして在る」と考えるならば、そこからの生成のプロセスは避けられないように思える。場のような静的なものだとするならば、そこには空間性のようなものが認められるし、「在る」ということは「ない」との対比が可能であり、そこにはある種の時間経過が読み込めてしまうからだ。

もし、それを避けるならば、僕が考えた、法則の喪失というかたちでたどり着くブラックホールとは違うものとしてのブラックホールを想定せねばならず、その二つのブラックホールの違いについて説明する責任が生じるだろう。

多分、入不二さんであれば、それは、場のようなものではなくて破壊の力だとするのだろうが、法則の喪失によりたどり着く場のようなものしてのブラックホールと、破壊の力の発生点としてのブラックホールの関係性が、今の僕には捉えられない。

とりあえず、入不二さんの破壊の力を考慮外とするならば、有機体の哲学の抱握の力は、ブラックホールのような実在の深みにまで及び、すべてを連続させているのだ。

3-4 断絶側の反撃

当然、断絶側は、このような、抱握の力を最大限に引き出した連続側の攻勢に反撃を試みるだろう。そこで用いられる最も有効な武器は、退隠となるに違いない。

退隠により、別の宇宙時代として把握されることから逃れ、根源的社会として把握されることから逃れ、ブラックホールとして把握されることから逃れようとする。

この退隠はほぼ成功するだろう。なぜなら、抱握は、過去と現在としてすでに手元にあるものしか持ち駒にできないからだ。手元にない別の宇宙時代や根源的社会や実在の深みというブラックホール自体を抱握することはできない。

しかし抱握は、全く新しいものを生むことができるのだ。なぜか新しく抱握されてしまったなら、別の宇宙時代や根源的社会やブラックホールは、連続から退隠することはできない。

なぜか抱握が成功した地点から振り返れば、すべては連続しているしかないのだ。このようにして断絶側は敗北する運命にある。

それは、言ってしまえば、いったん有機体の哲学が描かれてしまったあとでは、それを否定することはできないということでもある。

だから、断絶側が勝利するためには、有機体の哲学が描かれる前に遡らなければならない。初発の生成が生じる前、初めての抱握が始まる前にしか、真の断絶を見出すことはできない。

これが、入不二さんが言う、無関係ということの意義なのだろうと僕は思う。

3-5 4つのベクトル

ここまでも、それほど確信はない思いつきなのだけれど、ここから更に怪しい話をする。

ここまで見出した力またはベクトルは4つある。

連続を重視するホワイトヘッドにおける抱握とは、過去と現在を束ね、そして新しいものを生み出すプロセスであった。そこには、束ねるというベクトルと、新しいものを生み出すというベクトルがある。

また、断絶側の武器としては、ハーマンの退隠がある。これはどこまでも逃れようとするベクトルである。加えて断絶側には入不二さんの破壊というベクトルがある。

連続側を白、断絶側を黒とするならば、白いベクトル2つと黒いベクトル2つがあると言える。

さらにこれらは2つの対にまとめることもできるだろう。白い束ねるベクトルと黒い退隠するベクトルという対、そして、白い生成のベクトルと黒い破壊のベクトルという対だ。

ホワイトヘッドは、有機体の哲学という体系を白い2つのベクトルのみをうまく組み合わせて描ききったのだろう。ただホワイトヘッドは黒いベクトルの力も無視しておらず、2つの黒いベクトルについては、神による充足した現実的存在の確保というかたちで無化していると言える。または、ゆるやかな宇宙的時間経過での変化というかたちで去勢したとも言えるかもしれない。

だとするならば、思弁哲学的には、全く別なかたちで、逆に、黒いベクトルが優位の哲学体系を描くことも可能だろう。しかし、一旦静的な体系として描いてしまえば、そこには連続性のある構造が含まれ、白いベクトルが優位にならざるを得ないので、図示できるような体系ではない、別の描き方が求められるように思う。

その闇の哲学がどのようなものになるのかは僕にはわからないが、ハーマンの退隠における、退隠した実体が時にマグマのように噴出することがありうる、という話は入不二さんの破壊の力と結び付けられるような気がする。また、消極的抱握から、完全な忘却につなげるような議論もできそうにも思う。

4 特異点の場所

対談において、入不二さんは、永井ファンでもある飯盛さんに向かって、永井さんやスピノザが見出したような特異点はどこにあるのか、と聞いていた。

ホワイトヘッドは同質・複数の「多」でどこまでいけるかを考えた哲学者であり、また永井ファンでもないので、そんなものはないと答えるだろう。飯盛さんだって、あくまでホワイトヘッドの枠内でオリジナリティを求めたのだから、そんなものがある訳がないように思う。

しかし、ここまで抱握について強調して述べてくると、どうもホワイトヘッドの抱握こそが特異点であるように思えてくる。

当然、抱握とは、世の中の出来事の数だけあるし、抱握により生じる現実的存在も様々だし、全く特異点的なものではないようにも思える。

しかし、考えてみれば、抱握により生じる現実的存在は様々だが、過去と現在のすべてを束ねて新しいものを生むという抱握のプロセスはひとつしかない。全く同一であるプロセスが多数あるということは、そこに特異さがあるという兆しではないのか。なぜなら、全く同じものが複数あるということは、それらをすべて合わせてひとつの群れとして捉えるか、唯一のものが複数のものとして現れていると捉えることが妥当だろうからだ。そう考えると、抱握を特異点と呼べるようにも思える。

もうひとつの特異点の候補を考えるにあたっては、ホワイトヘッドの哲学が思弁哲学であるというところに注目したい。ホワイトヘッドは、思弁哲学として、経験を十全に取り込んだ、論理的で整合的な体系を構築しようとした。飯盛さんによれば、その方針は非常に強力なものであり、その哲学の内容、つまり有機体の哲学の破壊をも許容するものであった。では、なぜこのような思弁哲学をホワイトヘッドが求めるのかというと、そこには何も理由はないはずだ。そこにあるのはホワイトヘッドの好みやこだわりでしかないだろう。

どこまでも「多」を追求したホワイトヘッドだが、ここで「一」個人としてのホワイトヘッドが登場してしまっている。つまり、思弁哲学という方針を定めた者であるホワイトヘッドこそが特異点なのではないだろうか。

5 有機体の哲学と思弁哲学の関係

ところで、飯盛さんは有機体の哲学と思弁哲学とは分けて捉えることができるとした。それが第4の断絶に続くという点で、まさに、この本の議論の山場だと思う。僕はその議論がとても面白いと思ったし、ここまでその線で論じてきた。

しかし改めて考えてみると、果たして本当にそうなのだろうか。

過去と現在のすべてを取り込もうとする抱握と、日記のようなものもふくめた知的営みをすべて取り込もうとする思弁哲学とには、強い関係性があるのではないだろうか。

この二つを対比してみると、思弁哲学自体が抱握というあり方をしており、また、抱握こそが思弁哲学の理想を具現化したものであると考えることもできるように思える。

そこには必然とでも言うべき関係性があるようにも思える。

そうだとするならば、ハーマンが自らの哲学を思弁哲学的に語るということはありえないということになる。思弁哲学においては、思弁哲学のような哲学が語られなければならず、有機体の哲学は、有機体の哲学のように語られなければならないのかもしれない。哲学の方法と哲学の内容は一致していなければならないのだろうか。

パルメニデスと非可算無限の話

プラトンの『パルメニデス』を読んだ。これは、僕の理解だと、若き日のソクラテスが、老パルメニデスに議論をねちっこく行う(永井的には「ひたりつく」)という哲学のやり方を教えてもらう話だ。
その教材として用いられるのが「一なるもの」についての話なのだけど、正直、その内容はねちっこすぎてさっぱりわからなかった。だけど、一つ収穫があったので、そのことを書く。

「一なるもの」についてなされる色々な話のなかに、一と無限を対比する箇所がある。これを読んでようやく、加算無限と非加算無限という数学上の概念が持つ意義が少しわかった気がしたのだ。
僕の文系なりの理解だけど、カントールは対角線論法により、加算無限と非加算無限では濃度の違いがあることを証明したとされる。これは僕がぎりぎり理解できた範囲で文系的な緩い説明するならば、加算無限の代表例である自然数と、非加算無限の代表例である実数とは、一対一に対応できないことを明らかにしたということでもある。
実数は自然数と一対一で対応できないのだから、自然数より実数のほうが大きい。これは、なんとなく文系の僕の実感とも合う気がする。自然数と実数を対応させるということは、実数を昇順に並べなければならないということだが、二つの実数「1.111・・・(無限の繰り返し)・・・1」と「1.111・・・(無限の繰り返し)・・・2」とを昇順に並べることは不可能だろう。なぜなら、二つの数の大小を判断するためには無限の1の羅列を最後まで目で追わなければならないが、それは不可能だからだ。非可算無限の集合とはつまりは、無限が含まれた数が要素として無限個含まれている集合のことだから、並べ替えてナンバリングすることなど不可能なのだ。その点で、ナンバリングできる無限である可算無限とは違う。
そこまではなんとなくわかるし、数学的には加算無限と非加算無限とを分けることには意義があるのだろうだけど、だからどうしたというのだろう。とにかく、僕には関係なさそうな話だな、そんなふうに考えていた。
しかし、『パルメニデス』を読んでいると、このカントールの話が哲学的に役立つように思えてきた。

老パルメニデスは、僕の怪しい理解によれば、一と一ではないもの(勝手に名づけるなら「非一」)との区別について論じている。
この区別は一見、容易なように思える。1、2、3という数字の羅列から、一と非一を分けろと言われれば簡単にできるし、ケーキが1つ乗っている皿と、2つ乗っている皿と、3つ乗っている皿を見せられて、これを一と非一に分けろと言われてもつまみ食いさえ気をつければ同程度に容易だろう。
だが、そこからパルメニデスは奇妙な話を展開する。
まず、パルメニデスは非一には一が含まれていてはならないことの同意を求める。確かにそうだろう。同意を求められたら、若きソクラテスでも僕でも同意するしかない。(「はい、そうではないことなどありましょうか。」などという言い方をするかどうかは別として。)
そこから、パルメニデスは、2という数字は1と1に分けられ、また、3つのケーキが乗った皿は、ひとつのケーキが三つ乗った皿という言い方ができるのだから、一が含まれているではないか、と指摘する。(実際はケーキを例にしていないけど。)そして、これらはいずれも、一が含まれているのだから、非一ではない、とする。僕もソクラテスもそれに同意するしかない。
この指摘に従えば、自然数や世の中の数えられる物体はすべてが非一ではないということになる。その物体が1つであれば、そこには一があるし、複数であっても、それを分ければ、そこに一が含まれているからだ。例えば、自然数以外の数の集合、例えば、{-3、1/3、π}という集合も、非一ではない。なぜなら、3つの要素をひとつずつ取り出せば、それは一つの数であり、そこに一が含まれるのだから。このように考えると、非一にあたるものなど何もないように思えてくる。

だが、パルメニデスは、非一にあたるものとして、「多多」というものを提案する。多多とは全体としても多であり、分割しても多であり、決して一にはならないようなもののことだ。当然、僕も、「多々」というようなものがあるなら、それは「非一」であることに同意するだろう。だが、そのようなものがありえるのだろうか。
例えば、3つのケーキは1つずつに取り分けると一になる。だがそのひとつのケーキを更に切り分けることもできて、そうすると1つのケーキは多になる。3つの多のケーキが多の部分に分解されるのだから、一見「多多」のようにも思える。しかし、残念ながらパルメニデスは、細かく切り分けられたケーキの一片をつまみ上げ、これは一ではないかと言うだろう。この例も一からは逃れられない。
それでは、すべての自然数というような、無限についてはどうだろう。残念ながら、この例もうまくいかない。なぜなら、全ての自然数という集合には、1が含まれており、そこから一を取り出すことは可能だからだ。または取り出す数字が1ではなくても、2でも3でも実は同じことだ。なぜなら、一つの数字を取り出すというということは、そこに一を見出すことができるということなのだから。多多であるためには、多としての全体から取り出した部分も多でなければならない。このようなことは自然数全体という加算無限については不可能だ。
では、非加算無限についてはどうだろう。残念ながら、実数全体というようなものを例とする限り、事態は変わらないように思える。実数全体のなかには、1は含まれており、それを取り出すことは可能だからだ。または、1が含まれていない非加算無限であっても、何か一つの数を取り出すことは可能であり、そこに一を見出すことができるとも言える。
このように考えると、パルミネデスの一と非一(=多多)とを対比する議論とは、そもそも非一(=多多)なるものなどないのだから、机上の空論であって、まさに頭の体操のように思える。

しかし、カントールの非加算無限の議論を思い出し、そこにヒントがあると気づいた。カントールによるならば、実は、非加算無限から、1であれ何であれ、ひとつの要素を取り出すことなどできないのではないだろうか。
どういうことか説明しよう。
非加算無限とは、加算無限である自然数と対応できないものであった。だから、非可算無限の集合、例えば、全ての実数という集合を昇順に並べ替え、ナンバリングするようなことはできない。ナンバリングできないということは、そこから一つの要素を取り出すことなどできないということではないか。なぜなら、要素を取り出すためには、どの要素を取り出すかを指定しなければならないが、非加算無限においては、その指定が不可能なのだから。つまり、要素の指定ということを厳格に考えるならば、非可算無限の集合から要素を取り出したり、非可算無限の集合を分割したりすることはそもそも不可能なのだ。
当然、要素の指定をせずに、非可算無限の集合のなかから、とにかく要素をひとつ取り出すことは現実には可能かもしれない。しかし、それは有限の集合や、可算無限の集合から、要素を取り出すこととは大きく異なる。有限の集合や可算無限の集合ならば、それを順番に目で追って、どれを取り出すか、取り出す前に指定してから取り出すことが可能だ。そして、実際に取り出したものが取り出そうとしていたものと一致しているかどうか確認することもできる。しかし、非可算無限集合の場合には、取り出すまでは何を取り出そうとしていたかはわからず、取り出して、その数を見て、初めて何を取り出したかがわかることとなる。この作業は取り出すというよりは、くじ引きを引くと名付けたほうがいいもののように思える。
僕のこのアイディアが正しいならば、実は、非加算無限の集合から、一つの要素を取り出すことはできない。これは、パルメニデスの言い方によるなら、非加算無限である多は分割できないということである。
パルメニデスの多多の定義とは異なるが、これこそが多多のことなのではないか。多を無限と読み替えるならば、多多とは無限の無限、つまり、加算無限のべき集合のことであり、非加算無限のことなのではないか。
このような意味で、多多(=非一)とは、非可算無限集合のことである、というのが、僕がこの文章で言いたかったことだ。

僕のような数学が苦手な文系の哲学好きのサラリーマンが、あえてこんな苦手分野の危うい話をしたのは、そこに哲学的含意があるからだ。
そのことを説明するために、一と非一(=多多)に加えて、もうひとつの分類を設けたい。一と非一(=多多)との間には、一多または多一または単に多とでもすべき領域があるのだ。

※ 多多と同様に一についても一一とでも言うべき困難があるのだが、ここでは省略し、仮に一とし、1がその具体例とする。

この領域を「多」と呼ぶならば、多という領域には、数を例にするなら、2から数え上げられる自然数から始まり、加算無限までが含まれる。
また、数に限定せず、この世界のものごとに広げるならば、「多」には、ほぼすべてのものが含まれる。なぜなら、この世界にあるたいていのものは数え上げられるものだからだ。目の前にあるペットボトル、イスや机など世の中にあるものはたいていが数えられるものだ。少なすぎて数え始めることができない一や、多すぎて数えられない多多(=非一)ではないすべてのものは多であると言える。
さらには、数えられるものとは、名前がついていて、その名前により、そのものごとを指し示すことができるもののことだとも言える。なぜなら、名前で呼ぶことができるということは、複数存在しうるもので、数え上げる可能性を含むものだということだからだ。(永井的には「ものごとの理解の基本形式」に収まっているからだ、とも言える。)
いや、ペットボトルや椅子はともかく、液体状で数えようのない水や、ひとつしかないので数えようがない太陽のように、名前がついていても数えられないものもあるといわれるかもしれない。
しかし、水については、数え方さえ決めれば数えることは可能である。コップ3杯分の水を、水3つと言うことは、思考実験的にも、ラーメン屋的にも可能である。太陽についても、例えば、地球が二連星の惑星だった場合などを考えればいいだろう。その場合、その恒星のうちのひとつが雲で隠されていたなら、太陽が一つだけ見える、というようなことが言えるはずだ。つまり太陽はたまたま一つしかなかっただけに過ぎない。
これらは、一ではないが、ひとつひとつに分割することができ、一が含まれていることから、非一(=多多)でもないことから、いずれも多であると言える。

では、多ではないもの、つまり、一や非一(=多多)となるものは、数ならば、1や非可算無限のことであった。では、数以外の世界のものごとの場合には、何が一や非一(=多多)に該当するのか。
いずれも、数え上げることができないものであり、名前がついていないもの、または、名前がついていても、その名前で、そのものごとを指し示し切ることができないものだろう。
一については、今回論じていないので結論だけ言うならば、それは、自我や実存と呼ばれるようなものだろう。僕の実存が二つあるとは言わないし、僕の自我と誰かの自我という呼び方をしたとしても、僕の自我と言うときの「自我」と誰かの自我と言うときの「自我」が同じものを指すとは言えない。つまり、「自我」という言葉では、自我を指し示しきれていない。これらのことは、自我や実存が多ではないというということを示しており、それならば、多ではなく一だと言ってよいだろう。(この話は、永井均の独在論の入り口にあたる。)
では、非一(=多多)とは何かというと、それは、神のことなのではないだろうか。宗教学的な視点に立つ限りは、あの神、この神という言い方はできるし、神の数を数えることもできるだろう。しかし、信仰の内側に立つならば、神はひとつしかありえず、神を数えることはできない。(多神教であれば、神の数は、その登場する神の数で数えるのではなく、その神話体系の数で数えることとなる。)これこそが、多ではない多多のことなのではないだろうか。
なお、神とは、信仰がない人であれば、世界全体やスピノザ的な神と言い換えてもいいだろう。または、唯物論者なら科学の体系全てと言ってもいいかもしれない。これらは、多すぎて多を超えてしまった多多なのだ。

数としての1が自我や実存についての話に深く関わっているように、非可算無限は世界や神に至る道につながっているように思える。というか、非可算無限という特殊なあり方をしているものの先に見いだされるものは、世界や神といった特殊なものごとであるべきであるように思える。

このようなことが語りたくて、僕は、ここまで非可算無限の話をした。
非可算無限とは、世界や神といった、そう簡単に理解できそうにないものにつながる道の入り口にありながら、簡単に理解できるものだ。ここに、この話の面白さがあるように思う。
簡単な話を簡単なまま捉えることは簡単だし、難しい話を難しいまま捉えることも多分それほど難しくない。一方で、難しい話を簡単に捉えることはとても難しい。非可算無限という切り口には、その難しいことを可能にするような糸口があるように思える。
もしかしたら、非可算無限とは、本質的に理解できうるものと理解できえないものとの間の接点にあるのなのかもしれない。