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ハイデガーとアーレントのことを何も知らない僕のハイデガーとアーレントについての話

松島恒煕という方が書いた「対話と「公共性」の関連をめぐって」という論文を読んだ。
(https://philopracticejapan.jp/wp-content/uploads/2019/05/02_Matsushima_Paper.pdf)
この方を全く存じ上げないが、考えさせられるものがあったので、記録しておく。

この論文は、ハイデガーとアーレントの公共性概念を用いて、哲学対話での対話の深まりについて考察したものだ。
僕は、ハイデガーもアーレントも興味がなく、読んだことはないし、多分、今後も読むことはないと思う。だけど、この文章を読んで、僕の関心と、彼らとの間にどのような関係がありそうかが、少しわかったように思う。
予備知識は全くないけれど、僕の言葉を使って、この論文の議論をざっくりとまとめておく。

ハイデガーは、日常的な場面における個人の同質性に着目する。
日常的な場面においては、個人の根源的な存在の違いなどは着目されず、ただ、その内容の違い、質的な違いだけが表面化する。だから、会話においても、話し手と聞き手の間に横たわる根源的な違いなどなかったものにされ、その会話の内容の違いだけが問題となる。そのような同質性だけが表面化する状況にいると、人々は安らぎを覚える。それは、存在の違いという根源的な問題を内容の違いへ頽落させ、隠蔽するからだ。
だが、ハイデガーはそれを頽落として批判するのではなく、それでも隠蔽しきれない内容の違い、質的な違いを端緒として、そこから根源的な違いに向かうことができるという可能性を見出す。それが哲学であり、頽落しても隠蔽しきれない違いこそが哲学を支えるのだ。

松島さんによれば、アーレントは、その先を描いている。
日常的な違いは、本来の存在の違いとしてのあり方を回復し、ハイデガー的な集団としての公共社会は、実は、個人の違いが確立した公共社会であったことが確認される。そこでは、現にそこで個人の力を発露して生き生きとした活動を行われる。そのようなかたちで根源的な違いが表現され、実現されるのだ。
このようなハイデガーからアーレントへ向かう道筋こそが、哲学対話が向かうべき道である、ということになる。

しかし、そこで松島さんは立ち止まる。差異が強調されるアーレント的な公共社会において、人はどのような合意を目指すことができるのだろうか、と。論文は、この問題を提示し、解決可能なものという見通しを示すことで終わっている。しかし、このままでは明らかに、この問題を解決することはできないだろう。少なくとも、松島さんの考察に何かを付け加える必要がある。

僕はこの文章で、ここに付け加えるべきと思われるものを提案したい。

その前に、合意という言葉づかいだと、僕の問題とずれてしまうので、僕の言葉で言い直したい。僕なりに表現するならば、松島さんの問いは、「公共社会に共通の目的・価値はあるのか。」という問いとなる。
もし、「ある」と答えるなら、アーレントが強調する根源的な差異は弱められ、個人は公共社会の道具や手段となり、ハイデガー的な日常的な社会に頽落してしまう。
一方で、「ない」と答えるなら、公共社会という考察の対象さえも見出すことが不可能となるだろう。なぜなら、目的や価値を否定したうえで、それを独立した物事として捉えることは不可能だろうからだ。もし、可能だとするならば、価値論と存在論を完全に独立して論ずることができるということになってしまう。可能だとする道筋はあるかもしれないが、それは多分、アーレントや松島さんが向かおうとする道とは別物だろう。

このような袋小路を救うのは、やはりハイデガーだと思う。
アーレント的な差異を強調する道筋は、やはりどこかで行き詰まり、ハイデガーが強調する同質性へと頽落せざるを得ないのではないか。
だが、頽落した日常がゴールではない。ハイデガーによれば、そこで再び哲学は立ち上がる。そして、アーレント的な公共社会に向かおうとする。このようなハイデガーとアーレントの間を行き来するような往復運動こそが、公共社会というもののあり方なのではないだろうか。
ハイデガーもアーレントも、それを静的な段階的な違いとして解釈するならば、そこには限界がある。限界を乗り越えるためには動的な解釈が必要となるのではないか。そして、ハイデガーとアーレントには相補関係とも言えるような相性のよさがある。両者を往復運動として接続することで、その先を描写する力が得られるように思える。

希望的観測を述べるならば、この往復運動は、同じところの行き来ではない。
哲学対話のあと、日常に戻ると、そこの景色は少し変わって見える。ほんの僅かの違いかもしれないし、数日すれば、その違いなど忘れてしまうかもしれない。だけど、僅かでも前進している。
ハイデガーとアーレントの間の往復運動は、螺旋階段のように、循環しながらも、少しずつ前進している。この前進の力となっているのが、アーレント的な生の力であり、対話の力なのではないか。

ラブレターみたいな文章

僕は時々、ラブレターのような文章を書きたくなるときがある。ただ、ある一人のためだけに書き、その人には是非読んでほしいと願う。なお、その人以外の人も読んでいいという点では、ラブレターとは違うけれど。
そういう文章を書くとき、僕は、その特定のある人が読むことで、喜んだり、何か感じたり、何か考えさせられたりして、その人の人生のなんらかのプラスになればいいと願っている。その人とは、友人や知人でなくてもいい。見ず知らずの名前しか知らない誰かでもいい。もしかしたら既にこの世にいない、遠い過去の人でもいいのかもしれない。

たいてい、その誰かとは、何か、僕に考えるきっかけをくれた人だ。行動や文章で、僕に何かを問いかけてくれた人だ。妻と喧嘩をしたことで、何かを考えさせられたなら、妻にあてて書くし、哲学的な文章により考えさせられたなら、筆者に向けて書く。

では、ラブレターのようでない文章とは、どういうものだろう。
文章は、大きく分けて3つありえると思う。誰か特定の一人に向けて書いた文章、複数の人に向けて書いた文章、そして自分に向けて書いた文章だ。

複数の人に向けて書いた文章にも、更に、数名の友人のような少数の人に向けたものと、不特定多数の人に向けた文章というような違いはあるだろう。
だが、ここで問題としたいのは、人数はともかく、複数の人に向けて文章を書くということが、そもそもありうるのか、ということだ。
例えば、僕が職場から、LINEで家族グループに対して、「晩ごはんは要らないよ。」とメッセージを送る。そのとき、僕は、家族という多数を思い浮かべて文章を書いてはいない。妻を思い浮かべ、そして、娘を思い浮かべ、それぞれに対して、メッセージを伝えることを考えている。当然、そこまで明確に意識はしていないけれど、そうであるはずだ。妻と娘を個別に思い浮かべ、個別事情があることに気づいたら、個別事情に応じてメッセージを変えるだろう。もし、娘が旅行中なら、「そういえば、そっちは何を食べたの?」なんて書き添えるだろう。
多数に向けて書く文章とは、誰か特定の一人に書く文章を、いくつかまとめただけのもののように思える。「晩ごはんは要らないよ。」というメッセージは、妻と娘とそれぞれに分けて送ってもいいけど、たまたま同じ内容でよいから、まとめて送っただけとも言える。(同時に送ることで、妻と娘が互いに同じメッセージを受け取っていると知ることができる、という意義もあるけど、その意義の話は別の機会に。)

僕が、誰か一人のために書いた文章がラブレターのようで特別なものだなあ、と思うのは、僕の文章は、大抵が僕自身のために書いたものだからだ。
僕は、いつも、僕自身という、僕のことをよくわかっている理想的な読者のために文章を書いている。僕は忘れっぽいから、昔自分が書いた文章を読み返すと、こんな文章を書いた意図さえ思い出せないこともある。だが、そんな文章でも、当時は自分だけはこの文章を理解してくれると思って書いていたはずだ。
僕は、そんな日記のような文章ばかり書いているから、時々書く、誰かのための文章は特別なものとなる。

僕自身は、誰かのために書いたラブレターよりも、自分のために書いた日記のほうが、哲学的に深いところに到達していて、哲学的な意義があると思っている。だけど、たいてい評判がいいのは、ラブレターのような文章のほうだ。(評判がいいと言っても、ほとんど読む人などいないから、なんとなくそう感じるだけ。)
また僕自身としても、読み返して理解しやすく、まとまっていると感じるのも、自分自身ではなく誰かのために書いた文章のほうだ。独りよがりの日記より他者のためのラブレターのほうが理解しやすいのは当然なのだろう。

だとするならば、僕の文章のクォリティ向上のためには、ラブレターを書きたいと思うような人との出会いが結構重要なのかもしれない。

ちなみに、この文章は、自分自身のための、独りよがりの日記パターンです。