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入不二哲学と僕の疑問についての備忘録

1 入不二信者であること
僕は入不二基義の影響を強く受けているから、存在論、意味論、認識論という三者関係の構図でしか、ものごとを考えられなくなっている。
この考えられなさは、正しさの証左なのかもしれないが、僕自身の限界のようにも思う。僕は入不二が描いた構図以上のものが思いつかないのだ。僕の思考には、今のところ、この三者関係の構図以上のアイディアがないということは、僕の思考と、この構図がぴったり一致していることを意味する。それは、その構図を信じることによく似ている。この限界こそが宗教の起源なのかもしれない。
この文章は、そのような意味での入不二信者が書いたものとして読んでほしい。

2 入不二哲学における存在論、意味論、認識論の三者関係
入不二の存在論、意味論、認識論の三者関係においては、最終的には存在論が優位となる。入不二はそうは言っていないが、僕はそう解釈している。
存在論の勝利は揺るぎないように思う。入不二は、三者の戦いの果てでの存在論の勝どきを「無内包の現実」と表現することがある。僕なりの言葉で説明するならば、ペットボトルやパソコンや私自身といった個別のものごとが存在する前に、それらの存在を成立させる場(または存在させる力)として「無内包の現実」がまずあるのではないか、というのが入不二のアイディアである。どんな物事があるか、などといったこととは関係なく、ただ現実は「ある」のだ。それは存在論の勝利の場面だろう。
なお、入不二の存在論は、物事が存在するという意味での通常の存在論に留まるものではない。「ある」は時間的な「なる」と結びつき、存在論は運命論と呼ばれることとなる。または、存在は現前と捉えられがちだが、エネルゲイア的な潜在も含めたものとして、現実と呼ばれてもいる。入不二の存在論は運命論であり現実論であると言ってもよい。
そこまで拡張された入不二の存在論は、哲学上の語るに値する議論領域全体をすくい取ることに成功しているように思える。入不二は、哲学の最深部にあるもの、哲学の基底にあるものを指し示すことに成功しているように思うのだ。
そこでは、認識論や意味論とは、哲学者が最奥部・最深部に向かって旅をするにあたってのマイルストーンに過ぎない。認識論や意味論は、限られた存在である人間が、神の領域に向かうために使われる梯子でしかない。存在の深奥に到達したならば、梯子は不要となる。
入不二の語り方とは違うが、僕は入不二の議論を以上のように理解しており、そこには絶対的な正しさがあるように思える。

3 僕の疑問
だが、それで本当に、存在論、意味論、認識論の三者の戦いにけりはついたのだろうか。
「「無内包の現実」というものを想定するような存在論から、どのようにして、この世界の内包を生み出すことができるのだろうか。」これが僕に残っている疑問である。絶対的な存在論優位の図式からは、この疑問に答えることができないのではないか。
この世界に、ペットボトルやパソコンや私といったものがあるとするならば、その個別のものごとは、この無内包の現実のなかに含まれているか、または、この無内包の現実とは別に居場所が確保されているのでなければならない。前者の道筋で考えるならば、無内包の現実には必然的に内包が含まれていなければならず、後者の道筋でいくならば、無内包の現実よりも物事の有内包性が優勢となる場面を認めなければならない。
いずれの道筋をとるにせよ、存在論が絶対的に優位である「無内包の現実」という構図からは逸脱することとなるのではないか。これはつまり、認識論や意味論が優位となる場面を認めることではないか。

同じことを人と神という用語を使って描写することもできる。
入不二が描こうとしたのは神の世界だ。または、入不二は、人としての限界を乗り越え、神を垣間見ようとしたと言ってもいい。人としての限界とは、認識論と意味論のことだ。入不二は認識論と意味論を乗り越え、存在論の絶対的優位性を認めることと、神を垣間見ることとを重ね合わせている。
だとするならば、入不二の存在論優位の「無内包の現実」という構図から逸脱するということは、人を、神と並び立つものとして認めることである。神の一元論から神と人の二元論に移行するということである。
以上のような意味で、「無内包の現実から、どのように内包を生み出すことができるのだろうか。」を問うことは、入不二の哲学の根底を疑うことにつながっていると思う。

4 認識論・意味論が存在論に優位するとは
では、認識論や意味論が「無内包の現実」という存在論に優位している状況をどのように描写することができるだろうか。
それは、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」という記述に要約できるのではないだろうか。
当然、見るとは認識論を指し、語るとは意味論を指す。認識論が成立するためには認識論が有意義に成立するような世界が必要であり、意味論が成立するためには意味論が有意義に成立するような世界が必要だ。そこでは、認識論や意味論が世界の存在のあり方を規定している。認識論や意味論が成立するためには有内包の世界が必要だ。存在論は認識論と意味論の下僕として、有内包性を認識論と意味論に供給しなければならない。
これは、カントのコペルニクス的転回に少し似ている。存在論から直接に内包の存在を導くことはできない。しかし、認識論や意味論からは、「ねばなならない」というかたちで、内包の存在を導くことができるのだ。
だが注意しなければならないのは、このような操作には転落がつきものだということだ。永井均によれば、カントはデカルト的な道筋の先にあるはずだった<私>を見落としてしまった。それと同じように、認識論や意味論からの操作を通じて導かれる内包の存在という描写は、存在というものの最も重要な側面を見失ってしまっている。
そのように考えるならば、ここには、認識論・意味論と存在論の間のシーソーのような相克関係が生じていると捉えることもできよう。「無内包の現実」が存在論優位の極であり、「見るに値する世界が存在し、語るに値する世界が存在する。」が認識論・意味論優位の極であり、両極が相互に優位となるような構図だ。
そのような視点移動を経るならば、そのような構図が現に存在するというかたちで、再度、入不二の存在論優位の描写は立ち返ってくる。この相克関係という図式そのものが入不二の「無内包の現実」の力により支えられていなければならないからだ。どうも存在論優位は揺るがないようだ。

5 身体論について
だが、僕はどうしても、世界には、このような存在論優位の描写に取り込まれないような抵抗感のようなものがあると感じてしまう。無内包に還元されてしまう前の、内包のざらっとした質感のようなものがそこにはあるのではないか。その質感があるからこそ、僕は、活き活きとしたこの世界で、このような人生を営んでいると言えるのではないか。
入不二はそこにも答えを出そうとしているように思える。入不二は近年、レスリングをしており、その経験も踏まえて入不二身体論とでも言うべきものを作り上げようとしている。まだ全貌はわからないが、それは、先程も用いた、神と人という用語を用いるならば、身体を通じて人から神に至ろうとする道であるように思える。しかしその道は、身体の破壊というかたちで、必然的な失敗へと至る道でもある。その挑戦と挫折とは、僕が感じる生の質感のようなものなのではないだろうか。そのようなものして、今後の入不二の議論は僕の問題意識と直結していく期待がある。
特に根拠のない予想となるが、入不二の身体論とは、存在論、認識論、意味論とは別に身体論がある、というあり方とはならないように思う。入不二は既に、存在論を時間論、運命論というかたちで拡張し、新たな現実論とでもいうべきものを作り上げている。身体論は、この入不二現実論のなかで、認識論・意味論との接続を担う立場となるのではないか。もしそうならば、入不二の身体を巡る議論は、直接的に僕の疑問に答えてくれるものとなるかもしれない。
入不二の今後の議論を楽しみにしているし、僕自身ももっと考えていきたい。

アダム徳永の話

1 アダム徳永の紹介

アダム徳永さんを知っていますか。
セックス・セラピストとして何冊も本を書いたりしている人です。セックスと言っても普通のセックスではなくスローセックス、ざっくり言うと、女性に対して優しい愛撫を長時間することを提唱している人です。
なんとなく昔、名前を聞いたことがあったなあ、というくらいだったのですが、ふと気になって調べてみたら興味深かったので、You Tubeを見て、何冊か著作も読んじゃいました。
彼の魅力は正しそうなところと怪しそうなところがいい感じで混ざっているところです。残念ながら実践では試せていないけれど、彼の中心的な教義であるスローセックスは多分、かなり正しいでしょう。根拠は示せないけれど、アダルトビデオのようなセックスより、女性を大切に扱うスローセックスのほうが正解に近いのは確かだと思うので。多分、それを否定する人はあまりいないのではないでしょうか。男性からすると、まさに目からウロコです。
一方で、彼のことを怪しいと思う人も多いでしょう。彼は、スローセックスを説明するにあたり、気やチャクラといったものを持ち出します。愛撫する手は、単に優しく女性を撫でるものではなく、そこから気を出し、女性と気を交換するものでもあるのです。このあたりは多くの人が眉唾だと思うでしょう。
なお、僕はヨガなども好きなので、気やチャクラといった話には抵抗がありません。それが真理かどうかはわからないし、周囲に布教したりはしないけど、そういうことを否定しないことで得るものもあるように思っています。
僕がアダム徳永さんが問題だと思うのは、男女の違いを強調するところです。彼によれば、男性とは愛する存在であり、女性とは愛される存在です。そこにあるのは男性から女性に対する一方的に愛が向かっていくという図式です。そこからは必然的に、男性が守り、女性は守られる、というようなある種の役割分担、または、夫唱婦随的な、古き良き男女関係への憧憬が導かれます。僕はそこには同意することができません。
ただし誤解のないように言及しておくと、彼の魅力は、そのような主張をしつつも、その結果、男尊女卑には陥らず、男性性の発露は、ひたすら女性を尊重し、尽くすという主張につながっているという点にあります。役割分担があるからこそ尊重が生まれるという論法です。騎士道精神やレディファーストのようなものを思い浮かべるといいでしょう。残念ながら、彼の主張は100%正しいとまでは言えないでしょう。古色蒼然とした年寄りの妄想のように思えます。それでも僕は、どこか筋の良さのようなものを感じるのです。彼の言説は、単に固定的な図式で男女平等を唱えることでは描写できない何かを捉えることに成功しているように思えるのです。
彼の言説が捉えようとした何かに僕は興味があるのです。

2 アダム徳永の言説から引き出せるもの

彼は、男が女を愛するという一方的な愛の図式を水の流れに例えます。彼によれば、水が高きから低きに流れるように、愛は夫から妻に流れるとされます。つまりそこには上下関係、高低差があるということです。このような描写を多くの人は嫌悪感を抱くでしょう。だけど、僕はそこに(劣化はしていても)ある真実が隠されていると思うのです。
僕が見出した真実とは、それを愛と呼ぶかどうかは別として、よい人間関係には高低差が必要だということです。人間関係を川の流れに例えるならば、高低差という力の源が必要なのです。
男女の性差というような固定化を避けるため、男女を問わず、と前提するならば、愛においては、確かに、愛する人はとことん愛し、愛される人はとことん愛されるという一方向性が必要です。それは、この一方向性が失われることにより、「愛されているから愛する。」「愛したのだから愛されるべき。」というような悪しき双方向性に陥ることからも明らかでしょう。愛は見返りなく与えるものであり、また、見返りなく受取るものなのです。
ちょっと脱線になるかもしれませんが、愛は見返りなく与えるものという話はよく聞くけれど、見返りなく受け取るものという話はあまり聞きませんね。もしかしたら、あまりピンとこなかったかもしれません。確かに、人と人の愛の話だと、愛される側の立場からの愛の描写というのはこれまであまりなされてこなかったかもしれません。もしかしたら、人と神の間の愛に置き換えたほうがいいかもしれません。(神の愛というからには、キリスト教の神をイメージしてもらったほうがいいでしょう。ただ、僕はキリスト教に詳しくないので、間違えていたらすみません。)
人と神の愛において愛される立場にあるのは人のほうです。神は人を人として創造しました。神がなぜそんなことをしたかと言えば、それは神が人を愛するからです。人はこの世に存在するからには、ただ神に愛されるしかないのです。それは極めて一方的な関係性だと言ってよいでしょう。もしかしたら、明日、神は人を愛するのをやめてしまうかもしれない。それでも人はただそれを一方的に受け入れるしかないのです。
確かに、そうならないようにキリスト教の教義はあります。この教義を守っていれば神は人を愛することをやめないという神と人の約束がなされています。ただ、それも極めて一方的な約束です。どんなに人が神を信じたとしても、神はもしかしたら明日にはこの約束を反故にしてしまうかもしれない。神が人を愛するかどうかは神にしか決めることはできない。愛される立場にある人の側からは、愛する立場にある神に何かを働きかけることはできない。そういう一方向性があるのです。神を信じるとは、そういう無力さの現れでもあります。
このキリスト教の神を用いた比喩は、当然、人と人の間の愛についても当てはまります。愛する人だけが愛するかどうかを決めることができ、愛される人はただ愛されるしかない。そこには厳然とした一方向性があります。確かに現実には人と人の関係だから、愛される人は愛し返すことができ、愛される人は愛する人にもなります。だからそこに双方向性が生じます。だけど、そこにあるのは2つの独立した愛であり、AさんからBさんへの愛と、BさんからAさんへの愛は全くの別です。愛されているから愛するのでも、愛したのだから愛されるべきでもありません。
ちょっと長くなりましたが、このような意味で、愛とは一方的なものなのです。それをアダム徳永は言いたかったのです。
彼がそのことを、夫から妻への一方的な愛の流れとして描写したのは確かに不十分なものだったでしょう。妻が夫を一方的に愛することがあってもいいし、多分、実際には、夫婦間では、そのような独立した二つの愛が交差しているでしょう。
なお、アダム徳永は、一応、この問題を補正しようとしており、彼は、夫婦という役割の違いを重視しつつも、それ以外にも夫婦には、母と子、姉と弟というような多様な役割の側面があるべきだとしています。夫が子のようになり、妻が母親のようになることで、母が子を愛するように、妻が一方向的な愛を夫に向けることも重要だと指摘しています。残念ながら、この話は、夫が妻に甘えることの勧めという薄っぺらい話として読まれざるを得ないような書かれ方をしています。しかし僕は、そこに、より普遍的なものを読み込むことができると考えます。
また、彼が、夫と妻という役割の違いを強調したことには効用もあると思います。愛とは双方向的なものという固定観念が広まっている現状では、愛の一方構成を戯画的に強調するしかないのもやむを得ないでしょう。僕がここで論じたように、愛の一方向性を説明したうえで、実は妻から夫への愛というものが別にあってもいい、としてしまうと、やはり愛とは双方向的なものではないか、と誤解が生じてしまうのは確かでしょう。これは、彼の本の娯楽的な性格を踏まえると賢明な判断だったと思います。愛が双方的なものだと誤解されるくらいならば、愛が固定的ではあっても一方向的なものだと誤解されたほうがマシなのです。

3 静的な世界把握と愛

と書いても、多分、多くの人は同意できないでしょう。男女差別よりは愛を双方向的なものだと考えたほうがマシなのではないか、と思う人が多いのでしょうか。
僕がこの文章を書いたのは、本当の敵がそこにあり、それを論破したいと考えたからです。僕の仮想敵は「静的な世界把握」派と名付けることができます。彼らに愛を図示してもらうよう依頼したとします。白い紙を渡して、「AさんとBさんとの間の愛を図に示してください。」と頼むときっと何の躊躇もせずに
「 A -♡→ B 
    ←♡-   」
というような絵を書くでしょう。この躊躇のなさが「静的な世界把握」派の特徴です。
しかし、ここまで述べてきたように、愛とはそのようなあり方をしていません。そのことを明らかにするために、アダム徳永は、あえて、「 A -♡→ B 」と描写したのです。
確かに残念ながら、この描写も誤りです。では、本当はどのように図示するべきなのでしょうか。考えられるのは、
「 A -♡→ B 
  A ←♡- B
 A -♡→ B 
  A ←♡- B ・・・ 」
というように、一方向的な愛が独立して行き来するものとして描くというアイディアです。確かにこれでかなり先程論じたことに近くなってきています。多くの人はこれを答えとしてもいいように思います。このような捉え方をするだけでも、アダム徳永の先をいくことができるように思います。
彼は、愛が夫から妻への一方向的なものとしつつ、愛のエネルギーは循環すると論じます。そこには矛盾があり、一方向的なものがなぜ循環するかを示すことができていません。この図のような独立した一方向的な愛が交互にやりとりされるのだと考えることで矛盾は解消されるでしょう。めでたしめでたしです。

だけど、僕はこういうところに妙に敏感なので、あえて、この図にもケチをつけたくなります。この図は、AがBを愛することと、BがAを愛することとの間に因果的な関係性があるように見えてしまうという点で、やはりミスリーディングなのではないか。一枚の図に、二つの愛を同時に描こうとすること自体がそもそも誤りだったのではないか。僕はそのように主張します。つまり、僕の答えは、「AさんとBさんとの間の愛を図に示すことはできない。」というものです。
多くの人は、僕の答えにがっかりするでしょう。なぜなら、きちんと簡略にまとめられないということは、理解できないことだからです。あきらめるよりは、さきほどの矢印の連鎖の図のほうがマシだと思うのではないでしょうか。
僕が「静的な世界把握」派と名付け、戦いを挑んでいるのは、そのような考え方です。僕の敵は、劣化版ではあっても簡略にまとめることでよしとする考え方です。その劣化にこそ、重要な秘密が隠されているはずなのに、それを無視してしまったら全てが台無しではないか。僕はそう思うのです。
多くの場合、「静的な世界把握」派が無視している何かとは「時間」です。あえて言うならば、時点と時点との間に横たわる断絶です。(もうひとつ「人称」間の断絶も無視されがちですが、その話は永井均に委ねます。なお、この時間の話は永井均というよりは入不二基義の話です。)
この愛の話でも、AさんがBさんを愛している時点と、BさんがAさんを愛している時点とは全く独立した時点であり、互いに全くの無関係です。昨日、彼女が愛してくれたことと、僕が今日愛することとは全くの無関係だし、僕が今日愛したことと明日彼女が愛してくれることとは全くの無関係だ。その無関係性さ、言い換えるならば「見返りのなさ」こそがアダム徳永が強調した一方向性の本質であったはずです。その無関係さを正確に表現するならば、愛を図示することは諦めなければいけないのです。
アダム徳永どこまで意識していたかはわかりませんが、彼は、反「静的な世界把握」派の仲間だったと考えることができます。彼は、あえて「A -♡→ B」とだけ描くことで、動的なあり方をしている愛の、その瞬間を写真のように切り取ることに成功した。これがアダム徳永の話の魅力だと思うのです。
念のため、「静的な世界把握」派に対する「動的な世界把握」派としての僕が、どのように愛を描写するかを参考まで示すこととします。(ただし、このような描写自体が静的なものなので、限界があることはご了承ください。まさにこの限界の回避こそが「静的な世界把握」派の魅力なのです。)
「愛とは僕が一方的に与えるものである。または僕に一方的に与えられるものである。だけど、なぜか、時間的な断絶を乗り越えて、全く独立に、与えた愛は愛として帰ってきて、そして与えられた愛を与えてしまう。そこには理解を完全に超えた不思議がある。それこそが愛の不思議であり、時間の不思議だ。」

4 対話

僕がこんなに長々と愛について話してきたけれど、僕の哲学上の興味の本丸は愛にはありません。ましてやセックスについては、個人的には大好きだけど、とりあえず僕の哲学上の興味とは別ということにしておきます。
僕の興味は言葉や対話に対するものです。言葉についても、愛と同じ一方向性があると思うのです。対話においては、その役割につけられる名前は、夫や妻ではなく、話し手と聞き手です。夫が妻を愛するように、話し手は聞き手に語りかけているのです。そこには、アダム徳永が指摘するように落差が重要となります。
夫が妻を愛撫するとき、彼はスローセックスを提唱します。数分だけおざなりに触れるのではなく、ひとつの性感帯に数分は時間をかけ、全体としては何十分も何時間も時間をかけ、丁寧に愛撫することが夫の愛(すること)の表現だとします。そして妻は、その愛撫を受け入れて感じることこそが愛(されること)の表現だとします。そこで重視されているのは、愛撫する者と愛撫される者との落差、つまりセックスとして表現される一方向的な愛の落差だと言ってよいでしょう。
言葉や対話においても、この落差が重要なのではないでしょうか。話し手は聞き手を思い、聞き手に伝わるように丁寧に表現する。聞き手は話し手の言葉を素直に受け入れ、理解すること(または理解できないこと)を素直に表現する。これこそが対話の真髄ではないかと思うのです。
妻がいいところで夫の愛撫を中断し攻守交代しては愛撫が深まらないし、聞き手が話し手の言葉をいいところで遮って話し始めては対話が深まらない。いずれも十分深めるためには、じっくりと一方的に愛撫し、言葉が発せられなければならない。そして、それが頂点に達したとき、ちょうどいいところで、なぜか、愛する人が愛され、愛される人が愛することになり、また、話し手が聞き手となり、聞き手が話し手となる、という転換が生じる。このちょうどいい地点、頂点での転換は、時間の不思議さを重視する「動的な世界把握」派にしてみれば、まさに奇跡であり、これは愛の奇跡であり、言語の奇跡とも思えます。僕はこの話をしたくて、この文章を書いたのです。
最後の部分は十分に表現できていない気もしますが、スローセックスと対話との類似性が伝われば、この文章の目的は達したことにしておきます。