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自然科学と人間原理

同じようなことを以前にも書いているかもしれないけれど、備忘録として。

僕は自然科学がどうしてこれほどうまくいくのかを説明したいと考えている。

そんなの簡単じゃないか、と思うかもしれないけれど、僕は形而上学的な意味で、議論の出発地点をかなり手前に置いている。この私や今や世界といったものが存在する、というような常識をそう簡単には認めないところから話を始めたいと考えている。

と言っても僕の哲学的立場はわかりにくいので、ちょっと正確ではないのだけど、この世界は実は夢かもしれないと考えている懐疑論者を思い浮かべてもらえればいいかもしれない。夢かもしれないこの世界が、こんなに辻褄が合っているなんて不思議ではないか。いたるところで日々なされている新たな科学的発見がいずれも、この世界を秩序立てて説明するのになぜかうまく寄与している。一見、過去の科学的知見と整合せず不適当に見える発見であっても、科学的手順に則って慎重になされた研究結果であれば、いずれ、不適当であったのは過去の科学的知見のほうであり従来の科学的知見を修正して新たな研究結果を受け入れるべきであることが判明する。僕はこのことに、まるで何も見ずに適当にそれっぽく作ったジグソーパズルのピースが何故かうまく隙間にはまっていくような不思議さを感じる。

このような問題について哲学的に説明しきるためにはかなり遠大な道のりが待っていると思っていたけれど、そうでもないかもしれないと思いついたので記録しておくことにする。

多分、この道程のゴールは、客観的な世界があることを明確にするような地点に設定されているのだろう。そこでは、私の認識や思考といったものとは何の関係もなく、ただ存在する世界というものを思い浮かべることができるはずだ。仮に僕が世界を認識し世界について思考できたとしても、その認識され思考された世界とは世界のごく一部であると考えることができるはずだ。

そこまでいけば、あとは弱い人間原理の出番である。僕が認識し思考できているこの世界とは、全体の世界のうちのごく一部の、たまたま秩序立てられ、(僕にとって)うまくいっている部分だけなのだ。(強い人間原理により考えられるように)決して、世界のすべてが僕の考える通りに秩序立てられたものとして存在している訳ではないし、世界をお望みどおりにうまく秩序だてるための新たな材料を導入する必要もない。

つまり、自然科学が何故かうまくいっていることを説明するためには世界が存在するということだけが必要であり、あとは弱い人間原理がなんとかしてくれるということである。これはかなり明るい見通しではないだろうか。

一方で、このようなゴールを設定するということは、そこへの道程を限定することになるかもしれない。弱い人間原理を導入するためには、観察者である僕が、この世界の構成要素のひとつであることを認めなければならないかもしれないからだ。少なくとも、弱い人間原理を有効とするためには、観察者の視点が観察対象と癒着していることが必要となるはずだ。

だが、〈私〉を世界の構成要素のひとつと位置づけるというような議論は永井の独在論に基づくならば端的に誤りである。よって、このようなゴールに向かって議論を進めるということは、どこかで〈私〉を単なる私に変換しつつ、それでも世界というものを捉え損なうことがないようなかたちで考察を行うということでなければならない。

これはかなり難しい注文になりそうだと予感しつつも、議論の方向性が限定されたという意味では更に見通しが明るくなったと言えなくもないように思う。

なお、この困難についての現時点での考えを示しておくと、この困難は当然、永井の〈私〉と大いに関係がある。〈私〉を私に変換するということは同時に〈世界〉を世界に変換することでもあるはずだ。この変換により何を失うことになるのだろうか。何も失わないとも言えるけれど、この問題を解く必要性自体も含めた全てを失ってしまうようにも思えるのだ。

一方で、この問題を解くことは対話というものにより可能ではないだろうか、とも考えている。僕は、対話こそが自己と他者とを完全に均すことなく接続するという困難を成し遂げる鍵ではないかと目をつけている。対話により〈私〉と私を接続し〈世界〉と世界を接続することこそが、この困難を乗り越えるための抜け道になりうるのではないだろうか。

内在・外在・特異点

1 はじめに

最近、2冊の本を読んだ。『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』だ。

これらの本について、昨年読んで、ずっと心にひっかかっている入不二の『現実性の問題』と、その流れで読んだ『現代思想』の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』とのつながりで思いついたことがあるので書き残しておく。

2 内在・外在

哲学的な議論には、大きく分けて、内側からの視点に基づき行う議論と、外側からの視点に基づき行う議論がある。その視点を内在的視点・外在的視点と名付け、また、その視点に基づき行われる議論を内在的議論・外在的議論と名付けてもいいだろう。イメージとしては、主観・客観という、多分そこから派生するだろう区分を思い浮かべてもいいだろう。

例えば、今、この僕を捉えている問題、つまり「僕は風呂を洗うか、それとも家事をさぼって文章の続きを書くか。」という問題は、僕の内側から湧き出るような問題であり、内在的視点に基づく問題設定である。

一方で、どこか神のような俯瞰した視点から、人は、家事と文章を書くのとどちらを優先すべきか、などと問うのは、外在的視点に基づく問題設定となるだろう。

(当然、家事をするのが正しいので、ここで中断します。)

なお、問題設定としては内在的なものであっても、その後、外在的に議論を行うということはありうる。僕が今、家事と趣味のどちらを選択するかを検討するにあたり、そもそも人間一般は家事と趣味のどちらを優先すべきなのだろうか、と視点を切り替えて考察するような場合だ。逆に、外在的な視点から設定されたものである一般的な家事・趣味優先順位問題を検討する際に、家事をしないことで奥さんに怒られるという現在の僕の内在的視点に切り替えるような場合もある。

このような単純化しすぎた例のようなかたちではないにせよ、たいていの哲学的検討は、気づかぬうちに外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように行われているだろう。なぜなら、たいていの哲学においては言語という外在的な側面と、感覚や感情といった内在的な側面とが重要な役割を果たすからだ。言語と感覚・感情を架橋した哲学体系を構築するためには、外在的な視点と内在的な視点とを行き来するように論じるのが自然だろう。(または、そうならないため、言語も主観的なものだとしたり、感覚・感情も客観的としたりして、片側に寄せるような論じ方をすることもある。)

一応、議論に深入りしない範囲で補足しておくと、言語が外在的なのは、言葉とは人間が共有する客観的なものだからだ。一方で感覚・感情が内在的なのは、感覚や感情といった心の動きは、その唯一の実例が自分自身のなかにしかないような主観的なものだからだ。更に議論は深められるべきとはいえ、そのような特徴から、言葉の客観性は外在性と結びつき、主観的な感覚や感情といったものは内在性と結びつくことになるとは言えるだろう。また、言葉や感覚や感情といったものを全く用いない哲学などありえないから、たいていの哲学は外在と内在の両方にまたがって論じざるを得ないということになる。

さて、僕が内在・外在について気になったのは、最近読んだ『生き方について哲学は何が言えるか』と『星の王子さま』が、いずれも、内在的な視点が強いものであったからだ。ここからは、内在・外在という視点を重視しつつ、2つの本についての考察を進めていきたい。

3 『星の王子さま』

大学生の娘から面白かったと言われたので、はじめて星の王子さまを読んだ。確かに名作だと思ったけれど、特に心に残ったのがキツネの「なつく」という言葉だ。「なつく」という言葉は、キツネが星の王子さまに友達になる方法を説明するなかで出てくるものだ。

娘に本を返してしまったしネタバレするのもなんなので、本を離れて僕なりの理解としての「なつく」について僕自身の例で説明しよう。

僕は昔から男友達をなぜつくるのがよくわからなかった。女友達ならわかる。女の子って、とてもかわいいし、美しいし、優しいし、不思議だし、いい匂いがするし、もしかしたら付き合えるかもしれないという下心もあるし、是非、友達になりたいと思っていた。一方で、男は、仕事や車や野球といったつまらない話が多いし、(自分も含めて)なんだか汚いし、臭いし、一緒にいてもなにもいいことがないと思っていた。(過去形だし誇張しています!)

なお、男女を問わず、趣味友達が大事だというのはわかる。一緒にスポーツをするにも、飲みに行くのも、ある程度の人数がいたほうが楽しいし、できることも増える。哲学だって誰かと話せたらうれしい。(しつこいけど女友達なら更に別の目的を心に秘めている。)そのような目的のための手段としての友達ならよくわかる。だけど、そのような目的なく、ただ友達と一緒に過ごすことの利点がよくわからなかったのだ。

だけど、キツネは、友達になるには「なつく」(と「なつかせる」)が大事だと言う。僕はこれを、「友達っていうのは、何も理由付けがなくても、ただ相手を特別なものとして扱い、相手に時間と手間暇をかけることが大事なんだよ。」と言っているのだと解釈した。「友達というのは、なにか別の目的の手段ではなく、それ自体として大切なものとして扱い、そのように生き抜くことを通じて、ようやく手に入れられるものなんだよ。」と言い換えてもいいだろう。

つまりここには、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒がある。

これまでの僕は、友達になるということは、一緒に何か楽しいことをするというような目的のための手段であり、友達になるという決断をするためには、その人に何らか長所があるというような理由が必要だと思っていた。

だが、キツネが「なつく」という言葉で伝えようとしていたのは、友達になるとは、それ自体が目的であり、友達になるためには、ただ友達になるという決断だけがあればよい、という考え方だと言ってもいいだろう。そのうえで、すでに友達になった後に、振り返ってみてはじめて、そこに、面白そうな奴だと思ったから、というような友達になるに値する理由を見出すことができる。また、友達なった後だからこそ、その友達関係を手段として、別の何かを手に入れることができる。例えば一緒に過ごす楽しい時間といったものを。

キツネの議論には、目的と手段の転倒、または理由と決断の転倒と表現できるような、視点の転回があるように思う。(なお、ここでは、以前の僕のような考えとキツネの考えとのどちらが本来の姿なのか、といったことを議論したい訳ではない。以前の僕のような考えは、キツネの考えを転倒し、転回させたものだと言っても同じことだ。)

この視点の転回こそが、内在的と外在的という用語を用いて、外在的視点から内在的視点への転回と表現できるものだと思う。

友達に関する僕の以前の考えは、いわば外在的視点からのものだったといえるだろう。友達候補となる人を俯瞰的な視点で眺め、その人達を評価し、誰が友達に相応しいか選択し、やっと友達になるというプロセスを経る。僕の視点はどこか評論家のようで、部外者のものだ。

一方、キツネの考えは内在的な視点としての色彩が強い。キツネによれば、人は人生のなかで、偶然にでも運命的にでもいいけど、とにかくまず出会いがある。そこでただ「なつく」ことで相手との関係が深まり、そして、いつか友達になる。このようなキツネの視点とは、すでに人生に巻き込まれた当事者のものであり、いわば人生の内側からのものだと言えるだろう。

『星の王子さま』から僕が読み取ったのは、この外在的な視点から内在的な視点への転回であり、そこに感銘を受けたのだと思う。

繰り返しになるが、少なくとも現時点では、どちらの視点が優位かは決められない。なぜなら、そう簡単には内在的な視点だけから友達になるという選択の仕方を描写できないからだ。キツネの内在的な視点によれば、全ては既に決断されてしまっている。今後いかに選択するかがわからない。選択の場面を描写するためには何らかの外在的な視点からの比較や評価というものが混入せざるを得ない。内在的視点というのは、外在的視点と並べて比較できるようなものではないのだ。

だが、『星の王子さま』は考察ではなくて、物語であり詩だ。『星の王子さま』とは、詩が持つ力を通じて、理屈っぽくて外在的な視点が強い僕に、内在的な視点の重要さを再確認させてくれた本だと言ってもいいだろう。

4 『生き方について哲学は何が言えるか』

次に、もう一つの本『生き方について哲学は何が言えるか』(以下、『生き方』)について論ずることにする。

これは、永井均がTwitterで言及していたので興味を持ち、読んだものだ。この本は、僕の理解では、哲学をするうえでの限界を明らかにし、その限界のなかで如何に哲学するべきかを実践的に示すことを目指したものだと思う。この本が取り上げるテーマは倫理学の分野に属するけれど、倫理学のみには留まらない哲学全般に及ぶ示唆に富んだ本だと思う。

『生き方』が設定する哲学をするうえでの限界とは、つまりは、内在的な視点の限界だと言えると僕は考えている。先ほど述べたとおり、たいていの哲学は、外在的な視点と内在的な視点にまたがる議論を行うものなので、両者の視点を行き来するように論じられ、その視点は混在しがちだ。この本も例外ではなく、外在的な視点と内在的な視点を行き来するようにして議論は進められていく。

この本の魅力は、この視点の切り替えにかなり意識的であるという点にある。特に、内在的な視点から外在的な視点に切り替えるときに、何を得て、何を失うのかという点に非常に注意を払っているのだ。きっと、その取引の収支を明確にしておくことは倫理学にとって、かなり重要であると考えるからこそなのだ。

『生き方』で行われている議論は、一言でいえば、この本の冒頭で示されるソクラテスの問い「人はどう生きるべきか。」を巡るものだと言えるだろう。

僕が読解した限りでは、「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるにあたり、内在的な視点から外在的な視点に切り替わるとき、何かを得る代わりに何かを失うという大きな取引がされていることを、この本は明らかにした。「人はどう生きるべきか。」という問いに答えるためには、本来、すでに巻き込まれているこの人生を離れることはできないはずだ。だが、そこから離れ、あたかも部外者のように人生を語るとき、僕たちは何かを得て、何かを失う。

この視点の転回により得られるものの代表例は客観性だろう。俯瞰的に外部から捉えることにより、安定した視座から複数の人生を見比べて優劣をつけることができるようになる。そこから生まれるものが道徳であるとも言える。

(なお『生き方』において倫理と道徳は異なるものを指す用語として用いられる。道徳は倫理の一部であり部分集合である。倫理とは伝統や慣習に基づくものも含めた判断全般を指し、道徳とはそのうちの西洋文明特有の一般化、抽象化された価値体系を指す。)

一方で、内在から外在への転回により失われるものは、当事者的なこの人生だろう。人生一般であれば、外在的な視点からいくらでも論じることはできる。だが、この人生については外在的に論ずることはできない。いや、そのような人生についても「この人生」として外在的に論ずることは確かにできる。ただし、それができるということは、既に内在から外在への転回を終えてしまっているということである。

実は、言語自体が外在的なものであることから、言語によりこの転回の問題を捉えることには特有の困難がある。外在的な装置としての言語を用いて内在的な視点を捉えるためには相応の注意深さが必要である。

『生き方』は注意深く内在的視点から外在的視点への転回が生じる地点を捉えることにある程度まで成功したと言えるだろう。この本がその点に注意深くあることが可能であったのは、この本のテーマが「人はどう生きるべきか。」というソクラテスの問いをめぐるものであることと大いに関係があるだろう。人生についての問いを検討するならば、人生一般と、当事者としてのこの人生との間にあるはずの違いに注意深くあることは極めて重要であるはずなのだから。

つまり、この本は、この人生という内在的な視点を見失わずに、一方で、人生一般も含めた外在的な視点も切り捨てずに、「人はどう生きるべきか。」について考え続けた思考の軌跡だと言えるだろう。当然それは非常に困難な事業であっただろう。僕にはその一大事業が完全に成功しているかどうかはわからないが、少なくとも僕にとっては、とても有意義なものであった。

以上のようなかたちで『生き方』においては、内在的な視点から外在的な視点への切り替えが大きな意味を持っていたと僕は考えている。

5 特異点

ここまでふたつの本について論じたのは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、特に内在的な視点の重要性について理解をしていただくためのものであった。さきほど述べたとおり言語とは外在的な装置だから、文章で内在的な視点の重要性について説明することには特有の困難がある。しかし、二つの著作の力も借りて、なんとか伝えることができたのではないだろうか。

ここまでは、いわば導入部であり、ここからは、内在的な視点と外在的な視点との違いと、内在的な視点の重要性を踏まえ、入不二の議論について論じていきたい。

入不二の議論のうち、特に着目したいのは特異点という用語である。

入不二は、昨年出版された『現実性の問題』や、その出版後に『現代思想』で行った対談『哲学とは何か、そして現実性とは』において、特異点という用語を用いている。例えば入不二は対談において「近藤さんの「これ」や永井均さんの〈私〉はもう通常の視点ではなくて特異点です。」と述べている。

特異点というアイディアは入不二の現実論の体系において重要な位置を占めていると思うので、特異点について正確に伝えるためには入不二の著作を読んでいただくしかないのだけど、一応僕なりの理解を簡単にまとめておこう。

特異点とは、「現にこれはある」「現に私はいる」といったかたちで表現できるような圧倒的な現実性の力の強さが、可能性や偶然性といった様相システムを圧倒し、様相システムが機能不全を起こし、潰れてひとつに圧縮されてしまった地点を指す。ある一面からの描写にすぎないが、このように述べることで、断片的にでも特異点に込められたものごとの大きさを伝えることができただろうか。

試しに永井の〈私〉について様相システムを用いて描写してみよう。現に〈私〉はいる、というときの私は、実は存在しなかったという可能性などない。では私が存在することは必然なのかといえば、そんなことはなくて、私は存在しないこともありえるはずでなければならない。こんな不可思議なものとしての私が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。このように描写してみれば、〈私〉に対しては様相システムが機能不全を起こしていることは明らかであり、これが、〈私〉は特異点であるということの意味である。

では、特異点とは何の特異点なのかといえば、僕の考えでは、さきほど2つの本を用いて説明してきた内在的な視点と外在的な視点とをつなぐ特異点なのではないだろうか。(入不二はそのような述べ方はしておらず、入不二は、特異点について、現実性という直接的には指し示すことができないものを、あえて指し示そうとするときに生じるもの、と考えているように思われる。)

再び、私という例を用いて描写してみよう。私とは、外在的な視点で捉えるならば、この世界に何人もいる人間のうちの一人である。一方で、内在的な視点で捉えるならば、私とは、この人生を当事者として生きている唯一無二の存在である。(永井の議論は更に、人間は各自に自らを唯一無二の存在として捉え、当事者として人生を生きている、という方向に進むが、ここではその手前で止めておく。)この2つの視点が私という地点で重なるからこそ、そこで様相は潰れ、特異点が生じる。このような意味で、入不二の特異点には、外在的な視点と内在的な視点をつなぐものとしての側面があるということである。

6 特異点の列挙

なお、特異点は私だけではない。入不二の議論を踏まえるならば、今、(可能世界と対比しての)この現実世界、指差しで示された「これ」といったものを特異点として挙げることができる。

今が特異点であるということは、私とほぼ同型の描写により示せるだろう。現に今である、というときの今は、実は今ではない可能性などない。では今であることは必然なのかといえば、そんなことはなくて、現在はかつて未来であり、やがて過去になるのでなければならない。こんな不可思議なものとしての今が存在するということは究極の偶然であると言いたくなるが、その偶然性は確率の分母をいくら増やしても表現できるものではない、などなど。

現実世界についても同様だが、注意を要するのは「これ」である。僕が目の前のコップを指差し、「これ」と言ったときの「これ」、つまり、このコップも特異点なのである。その理由を端的に述べるならば、このコップが特異点であるのは、「これ」と指さされたこのコップは、私、今、この現実世界と同様の特別さを持つからなのだ。私が今、この現実世界において、このコップを指差すことで、このコップは私に今、この現実世界において指さされた「これ」としての特異点となるのだ。指差しという動作が現実性の力の流れを象徴的に示していると言ってもいい。入不二はこのことを、現実性の力が波及・還流すると表現する。現実性の力は、私や今やこの現実世界や「これ」(このコップ)といったものすべてを巻き込むように波及・還流しているのだ。

注意を要するのは、ここまでの僕の描写が不正確なものであったということだ。僕はあたかも、「これ」は指さされたことにより、はじめて現実性の力に巻き込まれるかのように描写してしまった。だがこの描写はいわば方便であり、私や今やこの現実世界といったものは現実性がない状態から現実性を持つように変化するのではないのと同様に、もともと現実性を持たなかったただのコップが「これ」と指さされることで現実性を獲得するのではない、という点に注意が必要である。このコップは指差しなどされなくても「これ」としての特異点を有する。特異点としてのこのコップが以前は特異点でなかったということはありえない。それは、私が実は私として生まれなかったということはありえないのと同じことである。

特異点として、僕の机の上のコップのようなもの含めるならば、あたりを見回すと、至るところに特異点を見出すことができる。パソコンもモニタもペンもイヤホンも掃除機もすべてが「これ」であり特異点なのだから。

また、特異点は「これ」という表現に馴染むようなモノに留まらないだろう。ネコや家族や友人や通行人Aも特異点であり、歴史上の出来事や概念といったものも、そこに現実性の力が流れ込んでいる限り特異点として描写することができる。

例えば2011年3月11日に大震災が現に起こったということは、実はそうではなかったという可能性などない。ではそれは必然なのかといえば、そんなことはなくて、それより前の時点では、ちょうどその日に大震災が起こる確率はかなり低いものであったはずだ。更にはその震災により特定の誰かが亡くなり、誰かが助かるというところまで完全に一致するような事態が生じるというところまで考慮すると、天文学的に低い確率で生じた偶然であったはずだ。だがその天文学的に低い確率でしか生じないはずの事態が現に生じている。これは確率が100%であると言ってもいい。天文学的に低い確率と100%をイコールで結ぶことができるということが、歴史的な出来事が有する特異点性を示している。

概念についても同様である。例えば「優しさ」という概念について考えるならば、現に僕が人生を生きるにあたり「優しさ」を重視して生きているならば、それは特異点性を帯びることになる。僕が人生のなかで自らの行動を決めるとき、「勇ましさ」や「誠実さ」ではなくて現に「優しさ」を重視しているからだ。そのとき、「優しさ」という概念は並列された概念のひとつではなく、ただ僕の目の前にある唯一の概念として、いわば「これ」として僕の前に立ち現れているはずだ。

このように考えるならば、すべては特異点であると言ってもいいだろう。入不二はそれを現実性の遍在と言っている。入不二は現実性の力を「現に」という副詞により表現するが、現にコップはあり、現に東日本大震災は起き、現に僕は優しさを重視して生きているのだ。

7 特異点の階層

ここまで、私、今、現実世界、「これ」といったものを特異点として列挙し、また、特異点について、過去の出来事や概念といったものにまで拡張してきた。

しかし明らかに、私や今やこの現実世界といったときの特異点と、コップや過去の出来事といったものとでは特異点としてのレベルが異なるように思える。この机の上のコップの特異点性は、この僕が私であるという特異点性から派生しているに過ぎないように思えるし、東日本大震災の特異点性も、この僕が住むこの現実世界の特異点性から派生しているように思える。

特異点とは階層的に整理できるのではないだろうか。特異点ヒエラルキーの上層には人称的な特異点としての私、時制的な特異点としての今、様相的な特異点としての現実世界があり、そこから派生するものとして、この僕が指差したコップや、この現実世界の出来事としての東日本大震災がある。

なぜ、私や今や現実世界だけを特異点とせず、あえて派生するコップや大震災を議論に持ち出してまで特異点を階層構造としたのかといえば、実は私や今や現実世界よりも上の階層には、より上位の特異点を位置づけることができるという図式を示したかったからだ。

この特異点の階層構造は更に拡張できる。僕の考えでは、私や今や現実世界といった特異点よりも更に上位に、入不二の「現に」という副詞的な描写、つまり現実性を特異点として位置づけることができると考えている。

入不二はこの意見に同意しないだろう。入不二は多分「現に」とは特異点ではなく、現実性の力の現れそのものだと主張するだろうからだ。「現に」という現実性の力が人称システムと接触することにより特異点としての私が現れ、時制システムと接触することにより特異点としての今が現れるということになるのだろう。

だが、「現に」と表現し、「現実性の」力と名指しすることで、そこにはある種の不純物が混入してしまっているように僕には思えるのだ。入不二が述べたかった力とは「現実性の」力と限定的に記載されるべきものではなく、また、「現に」と描写されるべきものでもないはずだ。それは入不二自身が『現実性の問題』において、「現に、ソクラテスは哲学者である。」の「現に」を抹消することで示した道筋である。「現に」と明記されなくても現に「ソクラテスは哲学者である。」のである。

特異点ヒエラルキーの最上位には、「現に」という現実性が位置づけられ、第二階層に、私や今や現実世界があり、第三階層以下には、このコップといった「これ」や東日本大震災といった出来事や「優しさ」のような概念が位置づけられるということになる。

このような階層間の違いは、特異点階層の外にある力(としか言い表せないもの)に対して、どれだけの限定が加えられたかによって生じるのだろう。最上位で付加されたのは、現実性という限定のみだが、第二階層では、そこに、人称、時制、様相といったもののうちのいずれかが加わる。

同様に、第三階層以下についても、加えられた限定の数により階層は細分化するだろう。例えば、人称と時制という2つの側面からの限定が加えられると「今の私」が生じ、人称と時制と様相という3つの側面からの限定が加えられると「今の私の世界」といったものが生じていく。

(可能世界に対比されるものとしての「現実世界」という用語のうち、「現実」とは、入不二の議論を用いるならば実は第一階層の現実性由来のものであるといえるため、「世界」としている。つまり、様相システムとは、実は、世界を構成するものごとの複数性を示すものであると言えるだろう。この観点からは、様相システムというよりも、事物の複数性を導入するという意味で、内包システムと呼称したほうが適切のように思える。)

この特異点ヒエラルキーに更に説明的な文言を加えるならば、これは「現実性の観点からの特異点ヒエラルキー」であると言えるだろう。なぜなら、最上位が現実性であり、そこからすべての階層構造が始まるからだ。

このようにしてしか特異点ヒエラルキーを描くことができないという点に入不二の現実性の議論の正しさがあるように思う。なんとも名付けることができない力というものに輪郭を与えるために最小限の限定を加えるならば、それは「現に」という現実性しかないと確かに思えるからだ。ほかの観点からではここまで美しい構造を描くことはできないように思う。

(ここまで用いてきた特異点の例は入不二の議論からは大きくずれていないと思うし、多分、哲学の伝統にも概ね沿ったものだと思う。だが実は僕はこの特異点ヒエラルキーのかなり上位に、「対話」「肯定主義」「規則」「真のクオリア」というものを導入したいと考えている。できれば現実性に並ぶくらいのところに位置づけたいとさえ考えている。これはかなり野心的な試みになるのではないかと思う。)

8 特異点の特徴

ここまで、特異点を列挙し、階層というかたちで構造化する作業を進めてきたが、ここで特異点というものの特徴を示しておきたい。

特異点には、そこに視点を設定することで、唯一の視点から多くのものごとを捉えることができる、という特徴があるように思える。

例えば、今、現在という特異点に視点を設定してみよう。すると、過去とは現在において想起しているものであり、未来とは現在において予想しているものであるという捉え方ができるようになる。ここから、過去も未来もすべて現在であり、現在は永遠である、という考え方が導かれるようになる。今という特異点に視点を設定することで、多くのものごとを捉えるとは、このような捉え方のことを指している。同様の議論は私やこの現実世界という特異点でも可能である。

机の上のコップのような「これ」については当てはまらないのではないか、という反論があるかもしれない。だが「これ」とは指差され、現実性の力が波及・還流している「これ」である。いわば焦点が定められ、注目されているものである「これ」とは、注目しているこの現在におけるこの私にとっては、いわば全てである。僕が目の前のコップをただ見つめているとき、そのコップはこの今のこの僕にとってはこの世界全てであると言ってもいい。これはコップを通じてこの世界全てを捉えているとしてもいいのではないか。確かに、「これ」の特異点性を説明するためには、今、私、この現実世界といった道具立てを必要とするという点で、「これ」は全てではない。だが、控えめに言っても、かなり豊穣なものが、「これ」としての机の上のコップという特異点には込められている。以上の議論は、「これ」がコップのようなモノではなく、概念や過去の出来事であっても同様にあてはまるはずだ。

なお、特異点が持つ捕捉力とでもいうべきものが遺憾なく発揮されるのが、入不二の現実性という視点であろう。例えば命題という観点に立つならば「現に」という副詞は、どのような命題にも付加することができる。当然「ソクラテスは哲学者である」に付加できる一方で、「ソクラテスは哲学者ではない」も「現に、ソクラテスは哲学者ではない」であり、「ソクラテスはユーチューバーである」も「現に、ソクラテスはユーチューバーである(という文章が書かれた)」というかたちで「現に」を付加できる。更には、まだ一度も書き記されたことのない命題であっても、それは「現に」まだ一度も書き記されたことのない命題であり、決して起こることのない出来事も、それは「現に」決して起こることのない出来事である、というかたちで「現に」を付加できる。(このあたりは入不二の最深潜在性の議論に入っていると思う。)

入不二の現実性という視点は、「現実性」や「現に」という描写自体を除いては、すべてを捉えきっていると考えていいように思う。これが入不二の現実論の力であり、僕が入不二の現実性を特異点ヒエラルキーの最上位に置くべきと考える理由である。(一方で、「現実性」や「現に」というなんらかの限定からは逃れられないということが、入不二の現実性が特異点の外を指し示すことができず、特異点に留まると考える理由である。)

9 『現実性の問題』における内在的議論

さて、ここまで特異点について論じてきたのは、外在的な視点と内在的な視点とを接続するものが、この特異点だからであった。

僕は『現実性の問題』において入不二が立っていた視点は極めて内在的なものであったと思う。意図的なものなのか、それとも現実性というテーマ設定により必然的にそうなったのかはわからない。多分両方だったのではないかと思う。なぜなら、現実性には外部がないということを考察するためには、現実性を客観的に分析の対象とするような外在的視点に立つことはできないからだ。僕たちはどこまでも現実性の波及・還流として描写される力に巻き込まれている。僕たち自身がそのような事態を描写するためには内在的な視点に立つ必要がある。(一方で、その前の入不二の著作である『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外在的な視点と内在的な視点を行き来するように語り、そこに様々な「中間」という特異点を見出したと考えている。入不二の運命論とは、いわば「中間」という特異点をつなぎ合わせたようなものだと言えるだろう。そこでの議論には変幻自在な視点移動という点ではある種の自由さがある一方で、『現実性の問題』に比べると、焦点が定まりきっておらず、考察が突き詰められていないという側面があるように思う。)

『現実性の問題』において、入不二は極めて内在的な視点に立ちつつ、外がないはずの現実性の全体を捉えきろうとした。そこには矛盾があるにも関わらず、少なくともある程度までは成功しているように、僕には思える。

なぜ、現実性の内側から、現実性という考察対象全体を捉えるような芸当が可能になるのかといえば、入不二が特異点をうまく使ったからなのだと考えられる。外在的な視点と内在的な視点とをつなぐ特異点を抜け道として用いることで、入不二は現実性の内側に立ちながら、現実性をいわば全体から捉えることに成功したのではないか。

いや、入不二が行ったことはそれほど特別なことではないだろう。多分、特異点という抜け道は哲学者に限らず多くの人が使っているはずだ。なぜなら、内在的であるはずの思考というものを使って外在的に世界を捉えるためには、なんらかの抜け道を使う必要があるからだ。例えば、現代人にとって常識的な自然科学的で客観的な世界観を獲得するためには、時空や因果といったものを特異点とし、そこを蝶番にして内在的な視点と外在的な視点をひっくり返し、世界を客観的なものとして捉えなければならない。それはほとんどすべての人がやっていることのはずだ。

なぜ、このようなことがいともたやすくできるのかといえば、それは、この世界が特異点という抜け道に満ちているからだ。(世界という概念も含めて。)

だから、入不二が行ったことの特別さは、特異点という抜け道を使ったということではなく、どちらかというと、できるだけ特異点を使わず、極限まで思考を突き詰めることだったと言ったほうがいいかもしれない。だからこそ現実性という最上位の特異点を見出し、そこを経由し、最も高い次元で外在的把握を成し遂げたとも言えるのではないだろうか。入不二は特異点の使いどころがうまかったということなのだ。

10 内在的に生きる

『星の王子さまのキツネ』も、『生き方』を書いたバーナド・ウィリアムズも、『現実性の問題』の入不二基義も、内在的視点というものに意識的であるという点が共通していると僕は思う。

人間である限り、人はいとも簡単に外在的視点に抜け出てしまう。なぜなら、世界は特異点に満ちているからだ。特異点は特異な点などではなく、非常にありふれた点なのだ。

だからこそ、どの特異点を使い、どの特異点を使わないかという選択が重要となる。キツネもウィリアムズも入不二も使いどころをわきまえていた。三者の共通点は、意図的に目先の特異点にとびついて、あえて外在的視点に抜け出る必要などないという大方針だ。

僕たちが外在的な存在とならなくても、そこにはすでに外在的存在者がいる。それは神や死やヘビと呼ばれる者なのだろう。彼のお世話になるまでは、僕は僕の内在的な生を生きていくのだろう。

(なお、内在的に生きるにあたっては、できるだけ内在的な視点をやわらかなものとして拡張し、我が家を住みやすくしておいたほうがいいだろう。そのために役立つのが呼吸ではないだろうか。呼吸とは内在的視点と外在的視点の行き来を象徴するものであり、内在的視点から意図的に外在的視点に突き抜けては戻ってくるという練習になっていて、いわば内在的視点のストレッチになっているように思うのだ。(あくまで練習であるという点が重要である。))

民主主義・試行錯誤・対話教育

1 政治について

(1)チャーチルの言葉

民主主義を擁護する際に必ずといっていいほど用いられるチャーチルの名言がある。うろ覚えだったのでネットで検索してみると次のような言葉だそうだ。

「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

僕はこの言葉に対して直感的に嫌悪感があった。格好良すぎて胡散臭い感じがしたのだ。

僕が感じた胡散臭さは民主主義に向けられたものだろうと今日まで思っていた。僕は民主主義よりも例えば五賢帝の時代のローマ帝政のほうがいい面もある、なんてことを考えているからだ。(血の繋がりがない優秀な子どもを教育して政治を任せるのはなかなかよいと思う。)だけど、それが嫌悪感の本当の理由だろうかと、このチャーチルの言葉に出会うたびにモヤモヤしていた。

今日、ふと、この言葉が好きではない本当の理由を思いつき、すっきりしたので書き残しておくことにする。

(2)思考停止・現状維持

僕がこの言葉が気に入らないのは思考停止しているからなのだ。僕には、この言葉は次のようなことを言っているように感じられる。

「現代の民主主義は確かに問題があるよね。日本の議員だってアメリカの大統領だって問題あるよね。だけど、残虐な領主が気ままに領民を虐げることができるような世界よりはマシでしょ。もし嫌だったら国のリーダーを選挙で変えることができるんだから。だから現代の社会も及第点なんだよ。」

ここにあるのは、現状を維持し、民主主義というお題目さえ守っていれば最悪の事態は免れられるという考え方だ。今の日本の政治システムも民主主義なのだからそう悪いものではない。だとしたら、これ以上政治システムについて考えても仕方ない。これは現状維持の思考停止以外の何者でもないだろう。

現代日本の場合は更に、この現状維持に日本独自の立憲主義が結びつく。日本国憲法は出来がいいから手を加えずに残すべきという考え方だ。だから僕は護憲という考え方が嫌いだ。(ちなみに僕の政治的主張は、核配備、政教分離、天皇制廃止(までいかなくても弱体化)といった独特な方向のものだから現在の改憲論議とは全く関係ない。)

僕が民主主義や護憲に対して抱く反感は、一言で言えば、なんで過去の人が決めたことに従わなければならないのか、というものだ。自分のことは自分で決めたいではないか。

僕が望むのは、試行錯誤して少しでもよい社会を手に入れることを目指そうとするダイナミズムだ。もしかしたら失敗するかもしれない。日本も世界も滅ぶかもしれない。それでも、もしかしたらより良い社会が手に入るかもしれないと挑戦し続けることだ。その試行錯誤のなかで見つける答えは民主主義かもしれないし、そうではないかもしれない。平和主義かもしれないし、象徴天皇制かもしれないし、そうではないかもしれない。とにかく過去の誰かにお膳立てしてもらった世界などクソくらえだ。とにかく僕は今ここで選びとった世界に住みたいのだ。

つまり、僕がチャーチルの言葉に反感を持ったのは、そこに込められた現状維持の臭いを嗅ぎつけたからだということになる。

だが実はチャーチルはそんなことはしていない。この文章を書くにあたってチャーチルの言葉には前段があることを知った。次のとおりだ。

「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

チャーチルはこれからも試みは続けられていくとしている。未来には民主主義以上の政治形態が見つかるかもしれないのだ。実はチャーチルの言葉は現状維持とは程遠いものだったのだ。それを誰かが切り取って悪用したに過ぎない。

(3)進歩主義

ところで、実は僕もチャーチルも、すでに民主主義よりもよい政治体制を見出しているように思う。それは、進歩主義や革新主義とでも呼ぶべきものだ。僕もチャーチルも試行錯誤や革新を通じて、より進歩した未来を見出そうとしているのだから、そのように名付けることは正当だろう。

だが残念ながら、進歩主義や革新主義という言葉は既に手垢がついてしまっている。現在用いられている進歩主義や革新主義とは、いわば概念的保守主義と言ってもいいものだ。なぜなら、自由や平等や人権といったフランス革命以降の先人が見出してきた概念を墨守し、無批判にそれらを守ろうとする考え方なのだから。

名前はともかく、僕とチャーチルが見出した、よりマシな政治体制とは、不断の試行錯誤を可能とするようなものだ。いわゆる民主主義でも絶対君主制でもかまわない。自由や平等や人権があってもなくてもかまわない。そのような枠にとらわれない動的な政治を可能とする体制なのだ。

(4)超・民主主義

ただし考えてみると、より幅広く深く試行錯誤を可能とするためには民主主義的で自由主義的な政治体制が必須のように思える。なぜなら君主ひとりが試行錯誤するよりも幅広い人々が試行錯誤したほうが、より試行錯誤できそうだし、制限なく自由に試行錯誤したほうが、より深く試行錯誤できるだろうからだ。

だが重要なのは、僕が求める民主主義的で自由主義的なものとは、現在の民主主義国家や自由主義国家が有するものでは全然足りないし、あえて言うならば似ても似つかないものだということだ。控え目に言っても現代日本と帝政ローマは五十歩百歩だ。そのような注意書きを付したうえであえて名付けるならば、僕が見出し、求めているのは、超・民主主義、超・自由主義とでも言うべきものなのかもしれない。その点では確かに民主主義は評価すべき政治体制ではある。

2 教育について

以上の政治についての議論は教育についての議論につなげることができる。

現在の教育システムは、民主主義や立憲主義といった既存の価値観を子どもに押し付けることに適している。実際、学校において、民主主義や日本国憲法といったものを否定することはなかなかできない。

僕はそこから脱し、より試行錯誤に適した教育が必要だと考えている。子どもが自ら試行錯誤する力を身につけることができるような教育である。

そう言うと、教育関係者は既に日本でも取り組みが始められていると答えるだろう。学習指導要領でもアクティブラーニングや対話による学びといったものが示されるようになっている、というように。

僕も哲学カフェという活動をしていて、対話に興味があるからそれはわかる。対話を通じて子どもが自ら試行錯誤して考える力がつくという道筋は否定しない。

だがそれでは全然足りない。もし学校の対話の時間に子どもが試行錯誤を学べるとするならば、それは、教師という大人が本気で対話のなかで試行錯誤することを認めるからだ。更には対話のなかで教師という大人が本気で試行錯誤してみせるからだ。そのような奇跡が訪れるのは、極めてわずかな瞬間しかない。その他の大多数の時間は、試行錯誤とは真逆のことばかり学ぶこととなる。なぜなら、大人自身が試行錯誤とは程遠い生き方をしているからだ。

教育において本当に必要なのは対話を教えることではなく、大人自身が試行錯誤しているのを見せることだ。もし教育において対話が役立つのならば、それは、対話というフォーマット自体に教育的意味があるのではなく、対話というフォーマットに、大人をも試行錯誤に導いていく不思議な力があるからだ。限られた対話の時間を終えても、大人は試行錯誤の見本を子どもに示し続けなければならない。それだけが子どもに試行錯誤する力を身につけさせる道に違いない。

当然、学校だけでは足りない。親も含めた社会全体が試行錯誤し続けなければならない。真の教育とは、大人の社会全体が真摯に試行錯誤することでしかない。それ以外は小手先のまやかしであり、失敗が運命づけられている。

大人が試行錯誤せずに子どもだけを試行錯誤させようとするのは、いわば負債の先送りであり、押し付けである。僕は子どもに対する対話教育というものに、そのような偽善を感じる。

『現代思想』2021年1月号を読んで

1 はじめに

僕は入不二基義という哲学者のファンなので(この導入を使うのは何回目だろう?)、彼の対談が載っている『現代思想』の2021年1月号を買った。2021年のエッセイ書き初めということで、正月に読んだこの本について書くことにする。

正月はコロナでどこにも行かず、時間があったので、まず、楽しみにしていた入不二基義・上野修・近藤和敬の3人の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下『現実性とは』とする。)を読んだ。正月ボケの頭には面白かったけど難しかった。一つ一つの言っていることは理解できる箇所もあったのだけど、どうしてこのように話が展開するのかがよくわからなかったのだ。対談の流れにうまく乗れないというのだろうか。

対談を読み終え、せっかくなので、ぱらぱらと面白そうな文章を拾い読みしてみた。いくつも面白いものがあったが、特によかったのは、T・ガルシアの『概念の羅針盤 現代実在論の認識的方向と存在論的方向』(以下『羅針盤』とする。)だった。ただ面白かったというよりは、驚いたと言ったほうが正確だろう。

タイトルを見る限り、入不二たちの対談は現実論がテーマであるのに対し、ガルシアの文章は実在論がテーマであるのは明らかだ。だから多少は関連性があるのではと期待していたけれど、読んでみて、両者の議論の重なりに驚いた。それぞれ読み返してみると、両者が互いに理解を深め合う関係にあるとさえ言える。ガルシアの文章を読むことで、どうして入不二たちの対談がこのような展開になったのか少しわかり、また、入不二たちの対談を読むことで、ガルシアが何を問題としているのかがわかった気がする。

(僕はあまりこういう雑誌を読まないのでわからないのだけど、編集者の才覚によりこのような化学変化を起こすことができるのだろうか。それとも、偶然の一致が生じやすいほどに、ありがちな議論だということなのだろうか。)

ということで、これから、この二つの文章をつなげるかたちで論じていきたいが、僕は入不二ファンなので、どうしても入不二に肩入れしてしまうことになるだろう。あくまでガルシアの文章は入不二たちの対談の導入として使うことになるし、入不二の対談相手についても、あくまで入不二の引き立て役として扱う予定だ。特に近藤については、そのような側面が強くなるだろう。

だが、当然ながら、ガルシアと近藤の議論には独自の価値がある。そのことを示すためにも、この文章の最後では、彼らの議論を踏まえるかたちで入不二に対してツッコミを入れることも目指したいと思う。

なお、彼らの議論を用いるうえでは、本来、正確に引用すべきだろうが、文章の流れを優先したいという理由から、また僕なりの読解を共有したいという理由から、正確な引用はあまり行わず、彼らの議論を僕なりの言葉で表現し直すこととしたい。だから、以降の文章は、実際には彼らが言っていないことを言ってしまっている箇所も多いと思う。いずれもそれほど長くない文章なので、是非お読みください。

2 『羅針盤』の紹介

まず、ガルシアの『羅針盤』を紹介するところから始めよう。これは、かなり長々と紹介することになる。僕にとってはとても示唆に富む文章だったので、自分のための備忘録を兼ねて丁寧にまとめておきたいのだ。

なお、その後の展開も前もって示しておくと、第2章での『羅針盤』の紹介を踏まえ、第3章では『現実性とは』について論じていくことになる。

その方向は、ガルシアが重視している「存在論的実在論」を更に二つに分け、ひとつを近藤に、もうひとつを入不二に割り振ることとなる。そして、二人の違いを踏まえ、哲学と非哲学との接触点を「書くこと」に見出し、哲学とその外との関係についても考えていきたい。この議論を駆動するのは、ガルシアの「無関心」というキーワードである。

さて、話を進めよう。

ガルシアは『羅針盤』において、実在論をいくつかに分類し、わかりやすく整理している。その整理自体も非常に興味深かったけれど、より重要なのは、その整理を通じて、実在論とは何か、更には、実在とは何か、ということを明確化してくれたという点にあると思う。

ガルシアは実在論について次のように分類する。

①認識論的・名詞的実在論:例:近年の現象学

②認識論的・形容詞的実在論:例:クワインの弟子たち

③認識論的・副詞的実在論:例:ウィトゲンシュタイン

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④認識論的・逆説的実在論:例:ルイス、思弁的実在論

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⑤存在論的実在論:例:アレクシウス・マイノング

区切り線を入れたとおり、①~③は一連のものとして扱うことができ、④との間にはそれらと違いがあり、⑤との間には更に大きな違いがあるという関係にある。

過去の高名な哲学者の議論をこのように区分できるということ自体も示唆に富むものだが、重要なのは、それぞれの議論の種類によって、実在という語に込めるものが大きく異なるという点にある。更には、その異なり方にも、いわばレベルの違いがあるという点が非常に興味深い。

簡単にその異なり方について述べるならば、まず、①~③の議論の相違点は、実在と非実在の切り分け方にあると言えるだろう。そして、①~③と④の違いは、非実在を実在論から切り離そうとする前者と、非実在を可能性というかたちで取り込もうとする後者の違いだと言っていいと思う。また①~④と⑤の違いは、なんらかのかたちで実在と非実在の違いを重視する前者と、実在と非実在の違いを重視しない後者の違いだと言えるのではないか。

詳細はこれから述べるが、なんとなく、ここには実在と非実在とに関わる議論のレベルの違いとでもいうべきものがあることを感じていただけると嬉しい。

そのうえで、それぞれの違いの説明に移ろう。①~③の議論の相違点についてだが、まずガルシアは、認識論的実在論を大きく名詞的実在論・形容詞的実在論・副詞的実在論の3つに分ける。僕なりの説明になってしまうが、名詞的実在論は、名詞、つまりモノの実在を考察の対象とする。だから、例えば、目の前のペットボトルや、夢の中のドラゴンや、彼女を愛する気持ちといったものが実在するかどうか、といったことを検討することになる。

形容詞的実在論は、例えば、このペットボトルは実在的である、というとき、どのような基準でそれを実在的と扱うか、といったことを検討するものだと言えるだろう。だから認識論的実在論のように、ペットボトル自体が実在するかどうか、ではなく、ペットボトルが実在するかどうかを判断する私たちの、いわば心の内側にある基準が問題となる。(心の内側というのが非常に問題があるけれど、ここではわかりやすさを優先しています。)

副詞的実在論とは、またペットボトルの例を用いるなら、「このペットボトルを実在的に扱う。」というとき、私たちが、どのように扱うのかを問題とするものだと言えるだろう。そこでは実在に対する私たちの態度が問題となることになる。

以上の3つの論を並べてみると、名詞的実在論においては認識対象のモノ、形容詞的実在論においては認識の働きの基準、副詞的実在論においては認識における態度といった違いはあっても、そこには共通項がある。いずれも、認識における実在と非実在の切り分け方についての議論であるという点で、認識論的実在論という同じグループの一員であると捉えることができる。

以降の議論につなげるために指摘しておきたいのは、そこには、議論の順序があるという点である。多分、最も素朴な実在論は名詞的実在論である。ここがスタート地点となる。(と言っても現在の名詞的実在論が素朴だということではない。なぜなら名詞的実在論はその議論領域のなかで議論が深められ、精緻化するからだ。魚類、両生類、爬虫類と進化したからと言って、現在の魚がトカゲより進化の度合いが低いとは言わないのと同じことである。)

そこから、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と議論が進むにつれ、実在と非実在の切り分けの歯切れが悪くなっていくという傾向があるのがみてとれるだろう。名詞的実在論では、外的なモノを明確に切り分けられたが、形容詞的実在論では、それは内的な基準にすぎないものとなっていく。更に副詞的実在論においては、その違いは、実在に対する態度と非実在に対する態度の違いという、非常にわかりにくいものになってしまっている。

副詞的実在論での実在と非実在の切り分けのわかりにくさについてはもう少し言葉が必要だろう。副詞的実在論が持ち出す非実在に対する態度とはそもそもなんだろうか。少し考えただけでも、非実在に対してなんらかの態度をとるということ自体、かなりの困難であるように思える。非実在について、実在と全く関係ないことと強く捉えるならば、実在と全く関係ないものに対する態度を実在論的に有意義に議論することなどできないのではないだろうか。そう考えると、副詞的実在論とは、実在論の成立ぎりぎりのところにある、とても歯切れが悪い議論であると言えるだろう。

その歯切れの悪さを引き継ぐような立場にあるのが、④の逆説的実在論である。①~③の議論はやり方の違いはあっても、いずれも、実在と非実在とを区分しようとするものだった。なぜ、そのような区分け作業をするのかといえば、非実在を実在論から切り離し、追放することで、実在だけの世界を作ることが目的だからだといえるだろう。いわば、いずれの議論も純血の実在の王国を目指すものだったのだ。一方で、逆説的実在論とは、非実在を追放するのではなく、王国の構成員になるのを認めることで、融和により王国の統一を図ろうとするものだと言えるだろう。

非実在を取り込むために重要となるのが、可能性であり、ガルシアによれば「可能なもの」というアイディアだ。実在論において非実在を捉えるためには、非実在を思考し、認識しなければならない。ガルシアはそれを「実在的でないものを思考し認識する奇妙な実在論的様態」と呼ぶ。この奇妙なことを成し遂げるためには、非実在を「可能なもの」とし、実在と同等に扱わなければならない。

ガルシアは、その道筋をふたつ提案し、「かもしれない」という控えめな留保付きの述べ方ではあるが、一方をデイヴィッド・ルイスの可能世界論、もう一方を思弁的実在論と結びつける。

ルイスは、「可能なもの」について、可能世界という考え方を導入することにより、現実世界とほぼ同等の地位を与える。そのことにより、「可能なもの」に重みを付けて、実在と等しいものとして認識しようとする。

一方で、思弁的実在論は、実在するものの偶然性を強調することで、実在が持つ重みを割り引き、「可能なもの」と等しいものとして認識しようとする。

前者は、「可能なもの」を実在と同等まで引き上げようとする試みであり、後者は、実在を「可能なもの」と同等まで引き下げようとする試みであるという点で、鏡のように正反対の対となるアプローチと言えるだろう。

こうしてついに、逆説的実在論において、実在と非実在の区分の歯切れの悪さは、積極的な区分の放棄というところまで進むことになる。

だがそれでも、実在と非実在を切り離そうとするか、取り込もうとするかの違いはあっても、両者の違いは重視されていた。

その違いの重視すらも放棄するのが、⑤の存在論的実在論である。ガルシアは①~④を、いずれも認識論的実在論としたが、なぜ「認識」論なのかといえば、実在と非実在の違いを認識することを目指すという点で共通点があるからだろう。認識の仕方や認識したものの取り扱いには違いはあっても、いずれの議論も実在と非実在の違いを認識することを重視するという共通点がある。

一方で、存在論的実在論とは、認識という言葉が含まれていないという点に示されているように、実在と非実在の違いを認識することを重視しない。認識論的実在論のある側面での最終形とも言える④逆説的実在論においては、実在と非実在を同等に扱おうとするベクトルが働いてはいても、そこには実在と非実在とを異なるものとして認識し、それぞれに別種の操作を加えることができることを前提としていた。だが、存在論的実在論においては、実在と非実在の間にある違いを認識することすらも放棄するものなのだ。

いや、ここで「放棄」という言葉を使ったのは不適切かもしれない。ガルシアは、それを「無関心」と表現している。

『羅針盤』において「無関心」は重要なキーワードである。彼によれば、①~④の認識論的実在論を駆動するのは「主体に対する無関心、認識するものに対する認識されたものの無関心」である。ガルシアは無関心が認識論的実在論を論ずる動機につながる経路を、見返りを求めない愛を比喩として用いることで説明している。つまり、私たちがペットボトルの実在について論じたくなるのは、いわばペットボトルを一方的に愛しているからなのだ。認識論的実在論とは、決して振り向いてくれない、そっけないペットボトルへの片想いのことなのだ。

そのように言うと違和感があるかもしれないが、私たちがペットボトルの実在について論ずるのは、私たちが考察の主体であり、ペットボトルが考察の対象だから、とすることには同意いただけるのではないだろうか。決して、ペットボトルという客体が、客体のままに私たち主体を考察してくれることはない。

そこには主体と対象の非対称性がある。この非対称性を比喩的に無償の愛や片想いと表現することはそうおかしいことではないだろう。主体は認識の対象に関心を持たざるを得ない。なぜならそれが認識ということだからだ。一方で、対象は主体に対して無関心であらざるを得ない。なぜならそれが認識ということであり、もし対象が主体に関心を持ってしまったら、ペットボトルが主体で、私たちが対象ということになってしまうからだ。その非対称性を、ガルシアは見返りを求めない愛も用いて、無関心という言葉により指し示そうとしている。

この「無関心」とは、①~④の認識論的実在論においては非対称性のなかに位置づけられるものだったが、⑤の存在論的実在論においては拡張され、「無関心」が全面化していく。それをガルシアは「主体に対して認識の対象が無関心であることではもはやなく、対象と主体のあいだの無関心なのである。」と表現する。

認識論的実在論における無関心は、対象から主体に対する一方的なものであり、主体から対象に対する関心は、無償の愛に喩えられるように前提とされていた。しかし存在論的実在論においては、主体から対象に対する関心さえも失われ、双方向的な無関心という状況が現出することとなる。

ここには、主体から対象へという視点の切り替えがあり、この切り替えは、存在論的な転回とさえ言うことができるものだろう。

僕はこの転回に着目し、更に論じていきたいのだけど、先を急がずに、まずは、存在論的実在論とは何かという点について説明しておくべきだろう。

ガルシアは存在論的実在論について「対象それ自体の存在様態として(の)実在論」とする。そして「現実存在する対象よりも多くの対象が存在する」と論ずるものだとする。つまり存在論的実在論においては、主体が認識する対象よりも、より多くの対象が存在するということにある。これは、主体から対象に視点が移され、対象それ自体の視点から対象それ自体の存在について捉えようとすることからの当然の帰結だろう。主体の認識から解き放たれたならば、対象が主体の認識とちょうど同じだけしか存在しないとする理由はなくなる。対象は主体の認識をはみ出しているのだ。ガルシアによれば、マイノングはそれを「超存在」と呼ぶ。そして、マイノングは「そうした対象はそれぞれが、完全であれ不完全であれ、可能であれ不可能であれ、具体的であれ抽象的であれ、実在であれ非実在であれ、そのように存在する実在的な様態をもっている。」とする。

このようなマイノングの考え方はとても興味深いものだが尖りすぎているように思う。僕自身はこのような議論の方向が魅力的だと思っており、後ほどあらためて取り上げたいが、とりあえず存在論的実在論というもののイメージを捉えるには少々常識から離れすぎていて理解し難いように思う。存在論的実在論のとりあえずの理解のためには、ガルシアの別の表現を引用したほうがいいだろう。それは「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」という箇所である。つまり、存在論的実在論とは、主体としての人間を、動植物など生物全般のなかに同等のものとして再配置しようとするものである、ということになる。そこでは、人間にはもはや主体としての特権はなく、主体として対象に関心を持つという特別な地位に立つことはなくなる。このように描写される存在論的実在論においては、無関心の全面化により認識主体と対象という区分自体が無効化され、私たち人間を含む全てがただ平等に存在することになる。後ほど論ずるように、僕はこのような捉え方には問題が含まれていると考えるが、少なくとも、存在論的実在論の近似値を指し示すためには、十分にわかりやすい描写ではないかと思う。

ガルシアの『羅針盤』の議論を紹介するにあたって、最後に留意を促したいのは、認識論実在論から存在論的実在論に転回するにあたり、実在という語の意味も大きく変わっているということである。認識論的実在論においては、認識されるものだけが実在だが、一方で、存在論的実在論においては、認識されないものも実在である。つまり、実在という言葉が表すものは、明らかに前者よりも後者のほうが広い。認識論実在論から存在論的実在論への転回とは、実在の捉え方の違いに留まるものではなく、実在という語の適用範囲の拡張でもあるのだ。

以上、ガルシアの『羅針盤』の議論について、今後の議論に必要な範囲で抽出し、僕なりにわかりやすく紹介してみたつもりだ。ここから、更に議論を深めていきたいが、それは『羅針盤』単独で行うのではなく、入不二・上野・近藤の対談『哲学とは何か、そして現実性とは』(以下、『現実性とは』とする。)と絡めつつ行っていきたい。

3 『羅針盤』も踏まえた『現実性とは』の議論の考察

ここからは、『現実性とは』について、議論の論理的な流れはあまり気にせず、対談で出てきた話題の順序に沿って考察していきたい。

そこでは、先ほど紹介した『羅針盤』と絡めることもあるし、絡めないこともある、ということになるだろう。

(1)行って帰ってくる

対談の最初の方において、近藤は、哲学のあり方の問題として、「行って帰ってくる」という思考の運動のかたちを問題とする。これを僕は、「哲学とは、どんなに知的冒険をし、とんでもないところに議論が進んだとしても、そこから既知の日常に戻ってくることを目指すべきである。」という主張だと理解した。少なくともある側面では当然だろう。どんなに壮大な知的構造物をつくりあげたとしても、それが日常と乖離していたら説得力がない。

そのうえで近藤は、入不二は帰れていないのではないか、と問題提起をしている。更には、帰れているのは歴代の大哲学者のなかでもスピノザだけなのではないかとさえ言っている。(これに対して、上野が、そもそもスピノザは行って帰るのではなく、向こうから出発している、と応じているのが面白い。)

ここで注目したいのが、「帰ってくる」ことについての入不二と近藤の違いである。

まず入不二の立場について。擬製的創造の議論(擬製的創造については後ほど取り上げる)のなかで、対立するプラトニズム的創造との議論の対立により、両方の議論自体が抹消されるという話が出てくる。これに絡めて、入不二は「両方がいっぺんに消えることが「戻ってきたという徴表」だとすれば、私は実はもう戻ってきているのかもしれません。」と言う。確かに入不二は『現実性の問題』において抹消の作業を随所で行っている。最も鮮やかな例が、「ソクラテスは哲学者である。」という文から「現にソクラテスは哲学者である。」へと進んだうえで、更に「現に」を消去し、「ソクラテスは哲学者である。」へと至っている箇所だと思う。(第3章)

一方で近藤は、戻ってきているとするためには抹消だけではなく、なんらかの条件を満たす必要があるとする。その条件とは、僕の理解では、哲学を始めかた、つまり哲学の動機であり、哲学において目指すもののことである。近藤は、近藤にとっての条件を「私が人間以外のものの一部になる」ことだとする。つまり、近藤にとっての哲学とは、「私が人間以外のものの一部」として位置づけられるような結論となる考察を行うということであり、そうでない議論は、十分に戻ってきていないということになる。

僕はここに、重大な哲学観の違いを読みとる。僕は入不二ファンなので、はっきり言えば、近藤の主張は哲学ではなくて思想だと思う。もし、ある考察が、ゴールを定めて行われているのであれば、その考察とは、ゴールとして設定されている主張を行うための手段となってしまう。それは哲学ではなく思想と呼ばれるべきものではないだろうか。真の哲学とは、そのような手段として用いられるものではなく、ただ考察自体を目的として行うべきものなのではないだろうか。なぜなら、設定されているゴール、例えば、近藤の「私が人間以外のものの一部になる」とは、その議論においては決して侵すことのできない聖域であり、もしそれを侵そうとする主張があったならば、それは、この議論の目的に合致しないという理由から却下されるしかないからだ。このように聖域を確保したうえでなされる議論を、僕は哲学とは呼びたくない。

この方向で突き進むならば、実は、日常に「帰ってくる」という目標設定さえも哲学にとっては夾雑物だということになる。よくできた哲学とは「帰ってくるつもりもなかったけれど、帰ってきてしまった」というあり方をするべきものなのかもしれない。僕は詳しくないけれど、もしスピノザの哲学がよくできたものならば、それは、スピノザの議論が、無理やり帰ってこようとはしておらず、ただ帰ってきてしまったようにしか見えないからなのではないか。(ただし、上野の「うまくいけばいい」という言葉を踏まえると、スピノザも日常に戻ってくることを目指していて、そのように意図的に議論を構成していたように思える。)

僕はこの「帰ってきてしまった」というあり方に、『羅針盤』でのキーワードであった「無関心」と同種のものを感じる。また、入不二の『現実性の問題』における「ケセラセラの運命論」とつながるものを感じる。これらに共通する「力み」のなさにこそ、哲学の羅針盤があるように思える。

(2)円環モデルのギャップ

ここまで僕は近藤を貶めるように扱ってしまったが、僕は近藤の『〈内在〉の哲学試論』を読んでいないので彼の哲学の中身を知らない。だが、少なくとも、対談を読む限り、とても興味深い方だと思う。

例えば、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げないであろうという(ことになる)とは言うことができますが、次に泳ごうとして泳げたとき、そのあいだに何があったかということに関しては私の図式だと何も言えません。」、「常に、何が起こっても驚かなければいけないし、何が起こっても驚いてはならない」といった表現がある。これは、入不二の円環モデルの始発点のところにあるギャップを表現するものとして、入不二自身が言っていてもおかしくない表現だと思うし、とにかく格好いい表現だと思う。

(3)擬製的創造

入不二ファンの僕にとって、この対談のひとつの山場は、近藤の擬製的創造の入不二の扱いだった。入不二は他の哲学者の議論を自らの土俵に取り込み、拡張していくのが上手い。当然、もともとの議論が良い素材だからこそなのだが、僕はやはり、入不二の鮮やかな包丁さばきを見るのが好きなのだ。

入不二は擬製的創造の構図のなかに、二つの「ある」と二つの「なる」を見出す。「ある」と「なる」と言えば、入不二が運命論について論じた『あるようにあり、なるようになる』の題名にもなっているとおり、入不二の重要概念である。「ある」の無時間的な現実論と、「なる」の時間論とが織られるようにして運命論が駆動していくというのが、僕が理解する限りの入不二の運命論の概要である。

だから当然、入不二は、擬製的創造の構図と自身の運命論とは繋がっていると考えているはずなのだが、この対談ではそこまでは示されていない。だから入不二が述べるだろうと思われることについて、僕なりの理解を備忘録的に残しておくこととする。

僕の理解では、擬製的創造の構図のうち、現在の「ある」は遍在する現実の力により、無時制的な「ある」と接続する。なぜなら、「もともとそうであった」も「これからもそうである」も潜在的には「ある」からだ。しかし、この接続は円環モデルの始発点にあるギャップを越えなければいけない。

その困難を可能にするのが「なる」の垂直的生成である。決してなるはずがないことになるのだから、これはいわば創造と言ってもいいだろう。更には、それが波及するようにして、過去・現在・未来という時制間の水平的生成としての「なる」も立ち現れる。この創造の不思議を近藤は、「現に泳げないがゆえに、かつても泳げなかったしこれからも泳げない」はずなのに、なぜか次に泳げてしまうという驚きに喩えたのだろう。このような創造は決して起こるはずがないのに、なぜか日常的に起こっているという驚きである。

その鏡像関係のようにプラトニズム的生成がある。そこではイデア的な無時制的な永遠の実在としての「ある」が転落し、現在の「ある」として立ち表れることになる。これは現実論的には転落ではあるが、一方で、過去・現在・未来という時制の生成でもあるとも言える。

そのように捉えるならば、擬製的創造とプラトニズム的生成を組み合わせて、入不二の円環モデルを描くこともできるだろう。始発点としてのイデア的な実在が転落し、過去・現在・未来の3時制が生じる。更には各時点での過去・現在・未来が生じるというかたちで時制が豊穣化していく。ここまでが円環モデルの右半分にあたる。しかし、やがて豊穣化には限界が来る。なぜなら時制は豊穣化する一方で、現に手元にある現在がどんどん痩せ細っていってしまうからだ。それを取り戻そうとするのが、「そうである」を持続的現在と捉えることで、無時制的な「そうである」に繋げようとする近藤の擬製的創造というアイディアである。これは円環モデルを時計に喩えるならば6時のところで行われる転回であり、この転回により実在は時制的な分断から回復され、潜在的なものとして位置づけられていくことになる。これが円環モデルの左半分となる。

だから、入不二は「擬製的創造(正立)とプラトニズム的創造(逆立)の両方がいっぺんに消されるかたちで「ということになる」が抹消される水準もあるのではないか」とするが、僕の考えでは、その抹消は「いっぺんに」行うものではなく、円環モデルを丁寧にたどるようにして行うものであるように思う。

だから抹消された先にある祈りとは、突き詰めれば「現実性の力」のことなのだろうと思う。だが、入不二は、祈りは行為であり、内容があり、時制があるとしていることから、力そのものではないとも言えそうだ。「これ」や〈私〉が特異点であるように、「祈り」も完全な抹消の際(きわ)で垣間見ることができる特異点のひとつなのかもしれない。

(4)入不二の視点問題のエレガントな解決

特異点というつながりでは、上野の「じゃあ今あなたはどこから語っているんだ」という問いに対して、特異点を持ち出すという入不二の答え方はとてもエレガントだと思った。僕の勝手な解釈だと、これは、「上野さん、その問いを有効に成立させるための足がかり(投錨地点)としての上野さん自身=「この私」こそが既に現実論上の特異点なのだから、現実性の力に巻き込まれるようにしてしか、現実論を語ることはできないんですよ。」と答えていることになる。

以前、森岡からの「この現実はどこから語られているか。」という似た質問に対して「いや、どこからでもない」「あえて変な表現で言うならば~現実自身が現実を語っている」と答えていたけれど、それよりもいいと感じた。(『運命論を哲学する』)

森岡に対する回答は、現実自身をスタートに置くかたちになっていて、いわば外から現実を捉えたような回答だったけれど、上野に対する回答は、現実の内側から、特異点を通じて透かし見るようにしか現実論を語ることはできないという点が強調されているという点で、より正確なものだと思う。

(5)いわゆる存在論的実在論と、真の存在論的実在論

この章が『羅針盤』と『現実性とは』とを最も絡めたかったところだ。

最初に『現実性とは』を読んだ時、僕は、どこで入不二と近藤の議論がすれ違っているのかがわからなかった。例えば、上野が「近藤さんのドゥルーズ論で引っかかるのは、その思想を自然科学と捉えているところです。」と述べているのが、なぜここで、このような問題を持ち出すのかがわからなかった。

そのとき僕には、入不二は近藤をよく理解しており、近藤も入不二をよく理解しているように思えた。入不二ファンとしては入不二が近藤を理解しているのは当然として(笑)、近藤も入不二を明らかに理解していると思ったのだ。例えば近藤は、実在には事象内容性が伴っていて不十分だから実在性から現実性に向かうべきという入不二の提案に対して、「実在が事象性と一致するようにはわたしは考えていません。」と答えている。これは明らかに、入不二が現実論のなかで見出した潜在性(潜在性は事象内容性と離れていくベクトルを有していることが特徴である)を、近藤は実在に含めることができると応答していることになる。もしそうならば、事象(内容)性と潜在性を合わせたものを現実性と呼ぶか実在性と呼ぶかという名付け方の違いがあるだけで、少なくともここでのやりとりの限りでは両者の議論は一致することになる。一致する二人が何を問題としているのか僕はわからなかったのだ。

だが、『羅針盤』を読んで少しわかった気がする。先ほどひととおり紹介したとおり、『羅針盤』によれば、実在論をある観点から捉えるならば、名詞的・形容詞的・副詞的・逆説的と認識論的実在論の議論がせり上がっていった先に存在論的実在論があるといえるだろう。認識論的実在論においては、実在と非実在の違いについて、名詞的実在論、形容詞的実在論、副詞的実在論と進むにつれ、徐々に歯切れが悪くなっていきつつも、なんらかのかたちで関与を保っていた。逆説的実在論に至っても実在と非実在を同視する方向に向かいつつも、それはあくまで違うことを出発点としたうえで違うものを同視するという議論だった。だがついに存在論的実在論において、実在と非実在の違い自体に目を向けない地点に到達する。

僕が入不二と近藤の違いがわからなかったのは、二人とも、(当然、上野も含めた三人とも、)存在論的実在論をしっかりと捉えているという点では違いがないからだったのだ。

そして、それでも二人に違いがあるのは、存在論的実在論にも少なくとも二種類あるということを意味している。その違いがわからないから『現実性とは』の対談が理解できなかったのであり、また『羅針盤』でガルシアが言っていることが腑に落ちなかったのだろう。僕の読解では、『現実性とは』でも『羅針盤』でも、この問題は明確に表現されていない。少なくとも僕にとっては、この問題は両者を参照し合うようにすることで、ようやく理解できるようなものだった。

では、この問題、つまり、存在論的実在論のなかにある二つの議論の違いとは何か、について、『羅針盤』を起点として考えてみよう。

僕が『羅針盤』を読んでいてわからなかったのは、存在論的実在論の中身である。ガルシアは存在論的実在論を説明するうえで、マイノングの超存在、デランダのフラット存在論、スーリオ、ラトゥールらによる質化する存在論としての存在様態の理論、(ガルシア自身の捉え方である?)鷹揚な存在論といったものを持ち出す。いずれの人名も『羅針盤』ではじめて知ったものなので、その限りでの理解となるが、僕にはそれらが同じものを指し示しているようには思えなかった。確かにそこには、主体から対象へという視点の転回という共通項がある。だが、例えば、不完全や不可能や非実在さえも、そのような存在として捉えようとするマイノングと、「対象と主体を平等に並べ、(人間であれ動物であれ植物であれ、あらゆる生きた感性的な存在のなかに)それらを再配置する実在」というガルシアの描写との間には大きな隔たりがあるように思える。前者は尖っていて興味深いが理解し難い。一方で後者はイメージしやすいが何かを捉え損なっているように思える。当初、僕にはその違いが何を意味するのかがわからなかった。

そこで理解の助けとなったのが、『現実性とは』での入不二の自然と非自然の違いについての指摘だった。入不二は、近藤との違いを明確にするにあたり、「物理的な自然だけでなく、内在平面からカオスまで含めたすべてを自然と考え」られるとしたうえで「現実性は自然の力ではなく非自然(形而上)の力」であるとする。つまり、近藤の現実は自然の段階に留まっているが、入不二の現実性は形而上にまで突き抜けている、と言っていることになる。

この指摘を踏まえるならば、ガルシア=近藤の自然派と、マイノング=入不二の形而上派の対立が見いだされるということになる。ガルシアは、意図的かどうかわからないけれど、この両者を混淆させて語っていたためにわかりにくく、そこに実は違いがあったからこそ、入不二と近藤は対立していたのだ。

僕は入不二ファンなので、ガルシア=近藤の自然派を、わかりやすいが実在を捉えきれていないという点で「いわゆる存在論的実在論」と呼び、マイノング=入不二の形而上派を「真の存在論的実在論」だとしたい。だが後述するように、僕自身、そのように単純に優劣をつけたような評価できないとは考えている。

(6)閉塞感と開放感

上野は入不二の議論について閉塞感があると指摘する。(後ほど撤回するけれど。)なぜならば「現実には外がない」からだ。これに対して入不二は逆に開放感があると応じる。なぜならば閉じ込めるための壁や境界などありえないのだから。僕はこの対比は重要だと思う。確かに入不二の議論は閉塞感と開放感が同居している。

端的にまとめるならば、入不二の議論は一見閉塞感があるけれど、よく味わうと、そこに開放感が生じてくるようなものだと思う。外側から見たときと、内側から見たときとで景色が違うと言っていいだろう。あまりよい比喩ではないが、F1でレーシングカーがサーキットでレースをしているのを見て、あまり知らない人は、同じところをグルグル回って飽きないのかね、なんて思うかもしれない。だけどファンにとっては、そうでなければF1ではないのだから、そもそも楽しくもなんともない。そのような視点の違いがあるように思う。

ただし入不二の議論とF1で異なるのは、入不二の議論が、外側などないと主張しているという点だ。サーキットには外があるけれど現実性には外がない。いや、F1においても狂信的なファンならば、サーキットの外なんてないと言うかもしれない。それならばF1と入不二の議論は重なることになる。(その方向に進んでいるのが『キリギリスの哲学』だと思う。)

とにかく重要なのは、入不二の『現実性の問題』での議論が内側からの議論であるという点である。(『あるようにあり、なるようになる』においては、入不二は外側から運命論を描写しようとしていたように思う。)

なお、内側・外側という視点の違いに留意するならば、上野が持ち出すスピノザの永遠の問いに対する入不二の答えも予想できるように思う。

完全に内側から捉えるならば、確かにスピノザの言うとおり、ひとつながりの永遠の現在しかない。だが特異点に視点を向けることで、外部が垣間見え、時制の一つとしての今が見えてくる。私たちは現にそのような日常を生きている。だが、更に注意深く特異点を見つめ、特異点を通して、あたかも外側から全体を捉えようとするならば、再度、そこには現実性の力そのものとしての神が垣間見えてくる。だが、それはあくまでも垣間見えるのみであり、そのように捉えきることはできない。

(7)非哲学

僕は入不二ファンなので、ここまで、どうしても入不二対近藤の勝負を、入不二優勢と判定してきた。しかし、僕が近藤の入不二に対する有効打だと思うのが、ドゥルーズの「非哲学」を持ち出すところだ。

僕なりに解釈すると、近藤は、入不二の「(哲学は、始めも終わりもないというかたちで)始めから終わっている」という主張に対して、非哲学を持ち出すことで反論している。確かに哲学単独ではすでに終わっているかもしれない。だけど、哲学の外、つまり非哲学という外部を考慮するならば、哲学には非哲学に対する関与という未来があるはずだ。近藤はそう言っているように思う。

確かに、哲学と非哲学にはある種の関係性が生じてしまう。哲学と非哲学は定義上無関係のはずだが、無関係というかたちで関係せざるを得ない。それはほぼ入不二の議論をなぞるものであり、入不二も同意するはずだ。更に時間論も導入するならば、無関係で「ある」哲学と非哲学が、時間経過により、なぜか関係することに「なる」のでなければならない。それがギャップの飛躍という謎だからだ。これも入不二は同意するだろう。そのうえで、入不二ならば、非哲学の領域にも現実性の力は遍在しているとするだろう。なぜなら、そのような遍在性こそが現実の力なのだから。

しかし、非哲学の側からは、そのような哲学的な言説は非哲学には届かないと反論するはずだ。なぜなら、それこそが非哲学なのだから。そのようにして、非哲学はどこまでも哲学から逃れようとする構造を有している。つまり、ここには入不二的なシーソー関係が現出している。近藤が持ち出す「非哲学」という視点には、少なくとも、入不二との勝負をドローに見えるところにまで持っていくポテンシャルがあるように思う。

そのように解釈するならば、近藤のその他の主張についても、入不二への有効打になるように思えてくる。例えば、「行って帰ってくる」の議論のなかで、近藤は、哲学の動機や目的のようなものを持ち出し、そこに帰ってくることが必要だとした。僕はこれを思想に過ぎないと却下したが、これは非哲学との接続の試みだとするならば、見える景色が変わってくる。もしかしたら、僕は哲学の理想を「力み」のなさに見出したけれど、それも無色透明な哲学こそがよいものだという、いわば哲学の思想のひとつに過ぎないのかもしれない。哲学は思想からは逃れられないということになる。

(8)書くということ 動詞的実在論

哲学と非哲学との接点として僕がイメージするのは、哲学的な文章とは非哲学の日常のなかで書かれるものである、ということである。僕は今、ご飯を食べたり、ネコと遊んだりという非哲学的な日常のなかで哲学の文章を書いている。そこでは、文章を書くという行為は日常の一コマとしての出来事であるはずなのに、哲学的な文章を書くという行為にいったん視点を移すと、非哲学的な日常さえも哲学的な考察の対象のひとつとなっていく。書くという行為にはこのような不思議な魅力がある。

この話につながると思うのが、『羅針盤』においてガルシアが導入した「動詞的実在論」という考え方である。彼は「実在化するとは、実在に気づき、実在を説明し、実在にするということである。」と言う。つまり、思考されたものこそが実在するのだと言っていいだろう。更には、思考することと書くことを同一視するならば、書かれたものこそが実在するのだとさえ言っていいと思う。

なお、念のためだが、このガルシアの考えは、強く願えば「思考は現実化する」というようなどこかのビジネス書にあるようなものを指しているのではない。ガルシアは、思考することや書くことに何らかの力があるとさえ考えていないだろう。きっと動詞的実在論のアイディアの根底にあるのは、なんにせよ、思考されたものは、思考されたというかたちで実在していると捉えることができるという事実に違いない。どんなにありそうのないことでも、例えば、飛行機の部品を並べておいたら、ちょうど台風が来て、偶然にも寸分の狂いなくジェット旅客機が組み立てられるかもしれない、というようなことでも、それは、そのように言及されたから、実在するのである。(これが可能的に実在するということである。)

入不二もこのようなただ思考し、書かれただけの仮定の現実性を否定することはないだろう。このような仮定についても、現に仮定されているというかたちで現実性は流れ込んでいると言うだろうし、このような突拍子もない可能性についても、台風や飛行機の部品が有する潜在性として取り扱うことができるだろう。

そのように考えると、思考すること、または僕の言い方ならば書くことには、実在を論ずるうえで特別な意味がありそうだ。

ここで疑問に思う。それならば、もし思考せず、書かなかったら実在しないのだろうか。ガルシアは実在しないと考えているように思える。それは「実在にする」というような表現に現れている。また近藤も、具体的な言及はないが、同様に考えているように思う。なぜなら、彼は、哲学と非哲学を峻別し、「未来形式」というかたちで、将来的に哲学が非哲学にアクセスする可能性を見出しているからだ。未来において哲学が新たに非哲学に関わるということは、つまりは哲学的な思考をすることや哲学的な文章を書くこと自体に、新たな対象にアクセスする力があるということになるはずだからだ。

一方で、入不二はそうは考えないだろう。思考してもしなくても、書かれても書かれなくても、そのようなものとして現実はただそのようにしてあるし、なるようになる。だからこそ、哲学は始めから終わっている。

それは入不二自身の思考や執筆活動にも及ぶはずだ。入不二が本など書かなくても、『現実性の問題』で描写されたような現実性の力は現にある。そのような本として『現実性の問題』は書かれているのだろう。

ここにおいて、ガルシアが指摘した無関心はついに、哲学することへの無関心にまで拡大しているように思う。無関心だからこそ、軽快に「力み」なく哲学ができるのかもしれない。入不二自身がそのような態度にあるかどうかはわからないが、『現実性の問題』はそのような態度で書かれたものとして読まれるべきものだと思う。

だがそれでは話は終わらない。哲学をそのように捉えることは、一方で、その裏にあるはずの、達観せず、哲学を駆動する野生児・近藤のような哲学の重要さも浮かび上がらせるように思うからだ。哲学とは、非哲学と関係する何らかの動機と目的をもって、いわば哲学の思想を持って取り組むべきものだという強い決意があるということになる。それが入不二の哲学の哲学に対置されるだろう、思想の哲学であり、非哲学のなかでの哲学である。

(9)実在の質

最後に、ガルシアの側からの入不二への反撃の橋頭堡となるかもしれないと僕が考えるものを紹介したい。

ガルシアは「存在を量化するのではなく質化する存在論」を提案する。その考えは「様々な存在様態は、けっして互いに還元可能ではなく、またある一つの同一的存在の異なる質なのでもない。」と示される。

僕はこの文章しか読んでいないので、それが実はどのような主張かは想像するしかないが、この考えを極端に推し進めるならば次のように言えると思う。

「机の上のペットボトルと、その横にあるコップとは、モノという同じ種類のものではなく、あくまでペットボトルとコップという別のものである。現在のペットボトルと1秒後のペットボトルとは、同じペットボトルではなく、現在のペットボトルと1秒後のペットボトルという全く別のものである。さきほどのペットボトルとコップを別のものと捉える思考と、それを思い出している現在の思考とは同種の思考ではなく、全く別のものである。そもそも、ここで何回も登場した思考や存在という語さえも、それは同じ語ではなく、全く別のものである。」

このような極端な議論を仮に「超・質化存在論」とするならば、それは入不二の現実論への有効な反論になるはずだ。なぜなら、この議論は、現実論にせよなんにせよ、議論というものが有効に成立することを否定するものだからだ。

このような議論は否定のためだけのものであり価値がないと否定することはできない。なぜなら、この極端な議論は、全く何も生み出さない訳ではないからだ。ここには、このような議論を通じてしか指し示せないものがあると僕には思える。ここでは、哲学するということすらも抹消することでしか指し示せない、現実というものを暗に指し示すことに成功しているとも言えると思う。

これは、全てを語り切ることで哲学を消去し、それにより現実を指し示そうとする入不二のアプローチに対になるような、全く語り始めないことで現実を指し示そうとする、もうひとつの方向性だと言ってもいいように思う。

4 おまけ 質と量 ギャルの戦略

これで、『現実性とは』と『羅針盤』を読んで考えたことの備忘録は終わるが、もうひとつ『現代思想』のなかには印象深かったものがある。

それは『加工された自己イメージの「自分らしさ」』だ。これは、渋谷のギャルのプリクラ文化に始まる、日本の女の子の自撮りの歴史についての話なのだか、とても面白かったのだ。

久保は自撮りの歴史を「自分らしさ」というキーワードで紐解いていく。そして次のようにまとめる。

彼女たちの言う「自分らしさ」とは、他者に対する「自分らしさ」であった。具体的には二段階で成り立ち、一段目は、「社会」に対する、自分が属す集団の「自分らしさ」、二段目は、自分が属す集団内の他者に対する、個人の「自分らしさ」である。

この図式をあてはめると、例えば昔の渋谷のギャルは、ガングロメイクをしてプリクラにかっこよく映るという価値観を追求し、周囲から差別化することで、ギャル集団としての「自分らしさ」とした。更にはギャル集団のなかで、よりガングロメイクがうまくできるようになることで個人の「自分らしさ」とした、ということになる。その構図が時代の移り変わりとともに、プリクラから写メのブログ、写メのブログからインスタへ、という自撮り文化の移り変わりのなかで反復されていったのだ。

興味深かったのは、まず集団として質的に差別化し、そのうえで集団のなかで(順位をつけるというかたちで、いわば)量的に差別化するという戦略をとっているという分析である。確かにこれは理にかなっているように思う。

ギャル的戦略をとらない生き方としては、例えば、ただ金持ちになりたい、とか、ただ出世して偉くなりたい、という生き方がある。これらは、ただ、量的差別化だけに頼っている生き方だと言ってもいいだろう。金持ちになるとか出世するといった一般的な価値観をそのままに受け入れ、いわばレッドオーシャンで量の競争を強いられている。このような生き方では、いくら金持ちになっても、いくら出世しても、上には上がいて、なかなか満足できなくなる。更には、なぜ金持ちになりたいのか、なぜ出世したいのかと疑問を持ってしまったら、人生の価値さえも否定することになりかねない。

一方で、ギャルの戦略をとれば、競争する人数を絞ることができるし、そのような生き方をする理由についても疑問を感じることはない。なぜなら、ギャルは、どこかの時点で、ギャルとして生きることを意識的に選択したはずだからだ。どうしてかっこいいギャルになりたいのかと問われたら、自分で決めたから、と答えればいい。そして、もしいつかギャルとして生きることに疑問を感じたなら、その時点でギャルを辞めさえすればいい。それは自己否定ではなく、単なるギャルの卒業である。

このように推奨されるべき生き方としてギャル的戦略を取り上げたが、もうひとつの推奨されるべき生き方としては、全く順位付けのような量的差異に関心を持たないような生き方がありうるだろう。ただ人とは質的に異なる生き方をするという戦略である。これを世俗的に表現するならば、「世界に一つだけの花」戦略ということになるだろう。

だが、全く比較しないで生きることは難しい。だからこそ簡単に「世界に一つだけの花」と歌われることはどこか嘘くさくて不穏なのだし、その困難の克服を目指すためにこそ仏教があるとも言えそうだ。

また、この量的差異の比較という観点はとても根深く、哲学のなかでも見いだされる。この文章に関係するところで例示するならば、そもそも、実在と非実在を区分するという考え方が実在と非実在の間で順位付けをしようとするものだと言える。

それでも、時々、量的差異のしがらみにとらわれずに生きているように見える人がいる。(その人の実際の内面は知らないけれど。)そのような人は、たいてい、無関心で無頓着に見える。(みうらじゅん先生とか。)

この無関心こそが『羅針盤』でガルシアがキーワードとした無関心であり、入不二のケセラセラの運命論などに感じる力みのなさであり、入不二が開放感としたもののような気がする。ギャルがガングロメイクにより一定程度まで「自分らしさ」を確保することに成功できたのも、周囲の目への無関心だったと言えるだろう。

僕も、極力、無関心を目指しつつも、せめてギャル的戦略をとり、哲学により質的差異を確保したうえで、哲学集団ののなかで、哲学の順位付けを目指すような生き方をしていきたいと思った。

形而上学の素描 肯定主義、言語の規則、真のクオリア

1 導入

(1)入不二の肯定主義

先日、僕は入不二基義の『現実性の問題』についての文章を書いた。(http://dialogue.135.jp/2020/11/29/actu-re-ality0/

そこでは色々なことを書いているけれど、ここで改めて取り上げたいのは「肯定主義」だ。肯定主義とは、入不二によれば、「肯定を否定に対して非対称的に優位に置く」( p.331 )考え方である。僕は、この肯定主義が入不二の議論全体を駆動していると考えている。

肯定主義は強力だ。肯定主義に基づくからこそ、入不二は多分、史上初めて「潜在性」という概念を見出すことができたのだ。

潜在性というアイディアの新しさを伝えるためには、すべてが潜在している状況を思い浮かべるのがいいのかもしれない。すべてが潜在しているということは、そこには目に留まるものが何もないということだ。例えば、部屋の中の物がすべて潜在している状況として、入居前のアパートの一室を思い浮かべるといいかもしれない。まだ机もベッドも顕在しておらず、部屋の中の机やベッドが置かれるべき空間だけが開けている。なにもない空間というのが潜在性の近似値としての比喩になるのだろう。当然、その空間は空気で満たされているし、空気を取り除いたとしても空間的広がりが残ってしまう。その点ではあくまでも比喩でしかない。それでも、なにもない引っ越し前の部屋に、やがて置かれる机やベッドの潜在性を認めるという議論の新奇さ伝わるのではないだろうか。

ではなぜ、潜在性を見出すために肯定主義が必要となるのかというと、肯定主義とは、肯定でも否定でもないニュートラルなデフォルト状況を肯定と捉えるものだからだ。プラスでもマイナスでもないゼロをプラスと捉えるものだと言ってもいい。肯定主義において、肯定は否定に優位する。あるものごとについて、肯定か否定かの判断を求められたならば、そこには中立という答えはありえず、否定でないならば肯定なのだ。これはつまり、肯定主義においては、肯定も否定も顕在化していない中立的な状況を潜在的な肯定と捉えるということである。

先程の例に戻り、引越し前のなにもない部屋を指差し、誰かに「ここに机はあるのか。」と問われたとしよう。僕は戸惑いながら「え、ないよ。」と答える。だが、その誰かは更に「では、ここには完全に机はないのか。将来的な可能性も含めて、ここには全く机性はないのか。」と問いかけてくる。肯定主義者である僕は(面倒くさいことになったと思いつつ)「まだ机を買うかどうかも決めていないけれど、潜在的には机はあると言えなくはない。」と答えることになる。なぜなら、完全な否定でないならば、そこに潜在的な肯定を見出すというのが肯定主義だからだ。

ここまでは肯定主義と潜在性の話だったが、もうひとつ、肯定主義が大きな力を持つ場面がある。それは、話の土俵を成立させる場面だ。例えば、「この世界は何故ないのではなく、あるのか。」という問いがある。この問いに正面から答えるのは難しい。なぜなら、世界の中でいくら考えても、それは世界自体が存在する理由にはつながらないし、世界の外から理由を導入しようとしても、導入した途端に、その外も世界の中に含まれてしまうからだ。だが肯定主義を用いるならば話は簡単だ。肯定が優先されるなら、明確に肯定も否定もできないものである世界は、ただ肯定的に存在することになる。僕はこれ以上の説明は思いつかないから、肯定主義に基づくからこそ、世界はないのではなく、あるのだと言ってもいいと思う。(これを、先程の潜在性の話と接続し、世界は潜在的なものとしてただ存在する、と表現するならば、入不二のマテリアルな潜在性の場という描写とも重なるように思う。)

(2)存在論、認識論、意味論

肯定主義に加え、もうひとつ、入不二の議論から流用したいものがある。それは、存在論、認識論、意味論という三者関係としての議論の枠組みだ。入不二はここに「可変的なジャンケン関係」(p.376)を見出す。その議論の詳細には立ち入らないが、ここで重要なのは、議論には、存在論、認識論、意味論の三つしかないという点である。入不二によれば、この三種類の議論に加え、より根源的なものとしての現実論があり、もうひとつ時間論があるということになるが、確かに、それ以外に、いわゆる形而上学の領域において、つけ加えるべき議論は思いつかない。(ここに含めない形而下領域にある議論としては、道徳、美といった価値論を想定している。)

以上のように道具立てを行ったうえで、これらを踏まえ、ここからは僕独自の議論を組み立てていくことにする。

2 肯定主義:存在論

ひとつめのアイディアは、肯定主義と「存在論」を結びつけることができるのではないか、というものだ。だが、これは入不二の考えに正面から反対するものである。

入不二に従うならば、肯定主義と「現実論」を結びつけることに異論はないだろう。なぜなら肯定主義は『現実性の問題』における入不二の現実論全体を貫いているからだ。だが入不二は現実論と存在論を峻別する。顕在的に存在しないもの、つまり潜在性までも射程に捉えた議論は存在論ではなく現実論と呼ぶのがふさわしい。そのような議論は従来の存在論では捉えられない。

僕もこの点は同意するが、あえて、入不二が行った議論は存在論「寄り」の議論だとは言えるように思う。入不二の議論は、言語や意味という切り口のものではなく、また思考や認識という方向からのアプローチによるものでもない。それならば、消去法的には、意味論ではなく、認識論でもないのだから、存在論的だということになるのではないだろうか。

なぜ、僕が存在論と位置づけることにこだわるのかというと、実は僕は、これまで存在論というものをきちんと理解できていなかったからだ。存在論特有の議論の組み立て方がわからなかったと言ってもいい。意味論ならば、言語の意味に焦点を合わせて論じるものだし、認識論ならば、人間が何かを認識し、思考して捉えるということ、いうなれば心の働きと切り離すことができない。一方で存在論とはどのような道筋で進めるべきものなのかがわからなかったのだ。

または、意味論や認識論は、対象と道筋が重なっているが、存在論はそうなっていない、と言ってもいい。意味論は意味という道筋で意味に接近するものであり、認識論は認識という道筋で認識に接近するものである。一方で、存在論は存在を対象とすることは明らかだが、その道筋が定かではない。普通に考えれば、存在に対しては、存在しているものを認識したり、存在の意味を検討することで接近したりするのが一般的だろう。だが、それでは認識論や意味論となってしまう。認識論や意味論によらず、存在論的に存在にアプローチするやり方があるべきだ。僕にはそれがわからなかったのだ。

しかし、『現実性の問題』を読んで肯定主義を知り、腑に落ちた。存在論とは、言語や思考といった道筋によらず、肯定という道筋を通じて考察の対象に接近するものではないか。

そのように考えるならば、この本での入不二の議論は存在論の範疇に含めることもできるだろう。なぜなら、潜在性の領域について議論するということは、潜在性というにわかに存在を認めがたいものについて、それを肯定することによって顕在化し、その存在を捉えるということだからだ。

だが更に入不二の側に立つならば、入不二は、潜在性を顕在化して捉えるという操作を加えることを認めないかもしれない。なぜなら、入不二の潜在性とは、少なくともその最深部においては、決して顕在化することがないものだからだ。

それでも僕は、その最深潜在性すらも、『現実性の問題』という文章を通じて、指し示すことができてしまっているではないか、と言いたい。従来の存在論とは異なる、超・存在論とでも言うべき入不二の議論においては、最深潜在性は顕にされ、その存在が指し示されてしまっているのだ。

たしかに、最深潜在性が存在するというとき、存在という語は、従来の顕在性をひきずった存在という用語とは全く異なる状況を指し示している。だが、そもそも、存在が顕在しているという条件は、存在を認識し、存在を言語化する際に必要となるに過ぎず、存在を肯定主義的に捉える際には必要ないはずだ。つまり、存在を認識論的に捉え、または存在を意味論的に捉える際には、顕在性が必要となるが、存在を存在論的に捉える際には、顕在性の有無は問題とならない。それならば、存在という用語は、顕在性から解き放たれることにより、ようやく、用語本来の意味に立ち返ることができたとさえ言えるのではないか。

先程僕は、『現実性の問題』において入不二は最深潜在性を顕在化して指し示していると言った。だが、この顕在化という言葉も、一般的な顕在化とは異なる特殊な用法なのである。

以上の考察を踏まえたうえで、僕は、入不二の現実論こそが真の存在論であると言いたい。肯定主義を用いることにより、従来の存在論に含まれていた認識論・意味論的な夾雑物を取り除き純化したものこそが、入不二の現実論であり、存在論なのだ。

3 言語の規則:意味論

ここまで僕は、現実論を存在論に読み替えることにこだわってきたが、なぜそのようなことをしたのかというと、肯定主義を通じて極北としての存在論を見出したように、入不二が、存在論と並んで三者関係として描写した意味論と認識論についても、極北としての意味論と認識論を見出すことができると思うからだ。

まず、意味論の極北は、すでに過去の哲学者が見出している。存在論においては肯定主義が重要となるのと同様に、意味論で重要な役割を果たすのは規則であることは疑いがないだろう。

ここには何も付け加えることもないので簡単に説明を終えるが、僕が規則の問題を最も単純なかたちで示していると思うのは同一律の適用の場面だ。僕は昔から「『Aである。』ということから、どうして『Aである。』と言えるのか。」という疑問にとらわれてきた。これはつまり、1つめの『Aである。』に登場するAが、2つめの『Aである。』に登場するAと同じであることを意味する。どうして、そのようなことを「前提」とできるのだろうか。いや、そもそも、1つめとされるAでさえ、それが有意義に成立しているとするならば、過去に別のAがあったはずであり、それと同一のAであることが「前提」とされなければならないのではないか。そのように考えるならば、何かを言明するとき、そもそも何がはじまっているのだろうか。そのような疑問だった。多分、この疑問には直接的な答えはない。少なくとも、意味論的には答えは出ないに違いない。なぜなら、僕が「前提」として求めたものは、つまり、ウィトゲンシュタインが「規則」とするもののことだからだ。規則があるからこそ、言語が成立し、「Aである。」というような言明が有意味となりうる。

非常に雑駁な説明だが、以上のような意味で、僕は規則が意味論を駆動していると考えている。

4 真のクオリア:認識論

最後に、認識論の極北、つまり認識論の最深部を支えるものだが、これこそ、僕がこの文章で新たに示したいものだ。僕は、真のクオリアとでも呼ぶべきものこそが、認識論を駆動していると考えている。

認識論を論じるにあたって使い勝手のよいのは視覚の例だろう。目の前にコップが見えるからコップが確かに認識されているというように。認識論的に存在を捉えるならば、目の前にコップが見えるから、確かにコップが存在するということになる。そこから更に、実は目に見えるコップではないコップ自体が存在するのではないか、などと考えるのは、認識論的な切り口からの存在についての議論の深化だと言えるだろう。

そのように議論を深めるうえで用いられるのが、錯覚や見間違いの例であり、蛇が見えると思ったけれど実はロープだったというような場面だ。このような場合も考えるならば、コップや蛇が見えるから、コップや蛇が存在すると即断できるかどうかは怪しいことになる。そこからは認識論的懐疑主義に進む道が開けてしまう。だからこそ、その道を塞ぐため、知識の整合性というようなものを持ち出し、真なる認識と偽なる認識とを切り分けていくことになる。僕は哲学史に詳しくないけれど、きっと、ここには無数の知的格闘があり、これまで、真なる認識と偽なる認識の切り分け方にはさまざまなアイディアが示されている。

だが、僕は、従来のどの学説にも納得することができなかった。僕からすると、いずれも、多くのものを導入しすぎているのだ。そのなかでも特に問題となるのが時間の扱いだ。僕が知る限り、認識論的な全ての議論において共通に入り込んでいるのが、通時的な時間というアイディアだ。

蛇とロープとを見間違えたという例を用いるならば、この話は、まず、蛇と思われるものを見るという時点から始まる。その後、数秒か数分かわからないが一定の時間が経過した後に、そこにロープを見るという時点が訪れる。つまり、ここには「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」という二つの時点があり、そのうえで、その二つを通時的に接続できるという構造を見出すことができる。

確かに、各時点における認識の正当性については、過去の哲学者は十分すぎるほどに認識論的な議論が深めてきたように思える。しかし、二つの時点を通時的に接続できるということを納得できるかたちで正当化する議論には出会ったことがない。もしそうならば、これまでの認識論的な見地からの真なる認識と偽なる認識の切り分けの試みはすべて失敗だったということになるだろう。

残念ながら失敗は必然であるように思う。なぜならば、時間経過自体をそのままのかたちで論じることにはかなりの困難があるからだ。入不二の議論にもあるとおり、時間経過は滑らかになされるものではなく、そこにはある種の断絶がある。その断絶を乗り越え、認識論的な議論を正当化するためには、時間経過は真であると所与のものとしてただ認めるしかないのではないか。

このような解決方法はそれほど悪くないように思う。なぜなら、時間が経過するというアイディア自体が不自然なものだからだ。時間経過がない世界と時間経過がある状況の世界とを想定し、両者を比べるならば、時間経過がない世界のほうが、時間経過がないという点で単純でありうる世界のように思える。時間経過がある世界は、あえて時間経過が付け加わっているという点で、より複雑で不自然なものである。それなのに、あえて時間が経過すると考えるのは、ただそう思えてしまうからでしかない。不自然であっても、理由がなくても、ただ時間は経過するとしか考えられない。それが時間経過というものの、少なくともある一面なのではないだろうか。不自然なものであるはずの時間経過を正当化するために自然な理屈を探すということ自体が無理筋のように思える。なぜ不自然なかたちで思えてしまうのかといえば、ただそうとしか思えないからなのだ。

このような時間経過に対する認識を、僕は、真のクオリアと呼びたい。時間経過には真のクオリアがある。だから時間経過は真なのだ。このことを、時間経過の認識論的把握は、真のクオリアが駆動していると言ってもいいだろう。

なお、真のクオリアは、時間経過だけではなく、認識論全般に及ぶことになる。なぜなら、通常の認識論が前提としている複数性は時間経過が前提となっているからだ。再度、蛇とロープの見間違いの場面に戻るならば、「時点1:蛇を見る」と「時点2:ロープを見る」の二つの時点を結ぶのが時間経過であるだけでなく、蛇を見る、ロープを見る、という個々の状況のみに着目してもそこでは時間経過が下支えをしているとも言うことができるだろう。

「蛇を見る」ということのなかには、ロープではなく、カエルでもなく蛇を見ているということが含意されている。そのためには別の時点でロープを見ることやカエルを見ることが成立していたのでなければならない。または、図鑑かなにかで蛇をすでに見ていて、ロープを見るのともカエルを見るのとも違う、蛇を見るということを知っていなければならない。いずれにせよ、別の時点での別の出来事との比較・対比でしか「蛇を見る」ことはできない。

それは、時間という装置を使わず、別の場所や可能世界で起こったこととしても、心の中での反実仮想といったような、空間的な装置を使ったとしても同じことである。なぜなら、ここでの議論においては、空間とは空間化した時間とも言えるし、または、時間化した空間と言っても同じことだからだ。時間にせよ空間にせよ、なんらかの複数性、並立性が「蛇を見る」ことの前提になければならない。僕は時間経過という装置を使うことで、ロープでもカエルでもなく蛇を見るという並立性を可能にしたが、他のやり方を使っていただいても一向に構わない。(ただし、その場合は見間違いについての説明が困難になると思われるが。)僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したように、直接的なかたちで並立性を可能とする装置を正当化していただけるなら、それでよい。そのためには真のクオリアとしか言いようのない、ただそう思えてしまう、という感覚が必要となることを思い起こしてもらえればよい。

とにかく、僕が時間経過を真のクオリアにより正当化したのと同様に、「蛇を見る」という、ひとつの時点での出来事も真のクオリアによってしか正当化できない。なぜなら、それ以外に正当化する理由を持ち出すとするなら、それは複数性を招き入れることになってしまうからだ。例えば、このあたりには蛇が多いから、というような理由を用いるためには、ガイドブックを読むなどしてその知識を得るという別の時点が必要となる。または、注意深く見たことはたいてい正しいからというような理由を用いるためには、なにかを注意深く見たという別の時点での体験が必要となるだろう。

ロープかもしれない何かを見て、それを蛇だと認識し、その認識が正しいと考えるのは、それをそのように認識したとしか思えないからなのだ。それを、その認識には真のクオリアがあったのだと表現したい。

つまり、認識論においては、認識論以外の夾雑物を注意深く腑分けし、極力、認識論以外の材料(特に時空的な道具立てや反実仮想というような心理的な働き)を用いないよう心がけるならば、その正当化は根本的には真のクオリアによってしかなされないのだ。

更には、真のクオリアの導入にあたっては、認識論の純化とでもいうべき作業を行ったが、いったん導入された後は、あらゆる場面において真のクオリアを見出すことが可能となる。例えば、蛇らしきものを見るだけではなく、近寄って、数分間観察してみる。くねくね動いているし、口からチロチロと舌も出ているし、図鑑と見比べても、アオダイショウの頁に載っている絵とそっくりだ。そばにいる登山のガイドもアオダイショウで間違いないと言っている。そんなとき僕は「蛇を見る」を真であると考えるだろう。だが、実は近寄って数分間観察することや、図鑑を開くことや、ガイドの見解を聞くことは、真であると考えるうえでの決定打とはならない。なぜなら、それらのすべてが揃ったとしても、あえて真ではないと考えることも可能だからだ。それでも、これはヘビ型ロボットかもしれないと考えることはできるし、実際にそうかもしれない。

僕は、条件が整っても、なにかを真だと考えることができるし、条件が整わなくても、なにかを真だと考えることができる。条件を整えることが全く無意味とは言わないが、少なくとも直接的には条件の整備状況に関係なく、ただ僕は、真のクオリアを持てば、それを真だと考えることになるし、真のクオリアがなければ、それを真だとは考えることはない。

認識論の極北においては、認識論を駆動するものは真のクオリアであると僕は考える。

5 収斂と展開 形而上と形而下 自然科学

以上で、存在論、意味論、認識論という三つの議論に重ねるかたちで、肯定主義、言語の規則、真のクオリアという三つの駆動装置を提示した。肯定主義、言語の規則、真のクオリアが重なるようにして働くことで、存在論、意味論、認識論という三つの議論が展開され、そこに時間論が加わることで、形而上学が成立すると言ってもいいと僕は考えている。

以上は、存在論、意味論、認識論の起源までさかのぼり、その深層にあるものを発掘するような作業であったが、その対極には、存在論、意味論、認識論を十分に展開し、その議論の果てにあるものを見出すという作業があるだろう。いわば、前者が収斂の作業だったとするならば、後者は展開の作業であるとも言える。

まず、存在論を展開するとは、複数のものごとの関係を明らかにしていくような作業となるだろう。そこでは因果関係のような関係性を見出すこととなるだろう。また意味論を展開するとは、言語によって描写される世界というようなものを見出すことになるだろう。また、認識論を展開することにより、美や善といった価値が生まれ、どのようなものに価値を付与するかという価値体系が生まれていくことになるだろう。

そのように展開するなかでも、ある方向の極にあるものこそが自然科学であるに違いない。自然科学とは存在論、意味論、認識論が協働し、十分に展開されたところに見いだされるべきものだ。存在論が担保する複数性・平等性を前提に、意味論が世界としてまとめ上げ、そこに精緻な描写を加えることを可能とする。更に、実験・検証の結果の認識論的な価値付けに基づくフィードバックにより、真なるものの体系がより深められていく。だが、そこから先は、形而下領域の話として語られるべきだろう。

以上が、僕の形而上学の素描である。