メンタリストDaiGoの話

僕は時々、時事ネタを導入として自分の考察を述べることがある。時事ネタを使ってはいるけれど、それはあくまで「つかみ」に過ぎず、そこで行っている考察にはある程度の深みがあり、オリジナリティもあるという自負がある。だけどこの文章はそれほどの深みはなく、ただの時事ネタだ。

なぜそんな文章を書くのかというと、僕にとって文章を書くということは排泄行為でもあるからだ。思いついたことを書いて外に出さなければ次の思考が進まず、次の文章も書けない。だからこの文章は、書きたいことを書く準備のためにやむを得ず書くものである。

この文章を書いている2021年8月半ば、オリンピックも終わり、世間はメンタリストで有名なDaiGoの発言でちょっとした騒ぎになっている。僕はきちんとチェックしていないけれど、ホームレスの命よりネコの命のほうが大事だというような発言をしたそうだ。本当かどうかわからないけれど、北川景子と結婚したほうのDAIGOにも飛び火しているそうだ。混乱しないよう、仕方ないので問題を起こしたほうは正式にDaiGoと書くことにする。

DaiGoの問題に対する世間の評価は、ホームレス差別でとんでもないというものだ。だけど僕の見立てだとちょっと違う。その違和感を形にするために、この文章を書きたくなったのだ。

僕の理解だと、DaiGoは言うべき「真実」(念のためだけど、僕はこれを真実だと考えている訳ではないからカギカッコをつけている。)を言い損なったのだろう。彼がどこまで意識していたかどうかは別にして、僕ならば彼が言いたかったはずの「真実」を次のように言い表してみたい。

① 平等なんて嘘だ。すべての人は身近で自分が好む存在を大切にする。異国に住む全く見知らぬ人や嫌いな人よりも近くにいる家族や、好きな友人を大切にする。なお、その対象となる存在は人間に限らず、ネコなども含まれる。実際、人は遠くにいる人間や嫌いな人間よりも自分が飼っているネコのほうを大切にするではないか。

② 私(DaiGo)はホームレスのことが不潔で不快だから嫌いで、ネコのことは好きだ。

③ ①・②より、私(DaiGo)は自分から遠くて嫌いなホームレスより、身近で好きなネコのほうを大切にする。

このように書いてみると、この限りではDaiGoが言っていることはそれほどおかしくはないと思う。どちらかというと、このような意見に反論することのほうが問題となる場合が多いと思う。例えば、身近な家族や友人と、異国の名前も知らない人とを等しく取り扱うべきだという主張は極端すぎるだろう。もしその主張を貫徹するならば、アフリカのすべての難民の生活レベルが向上するまで、その人やその周囲の人は難民と同レベルの生活をすべきだということになる。もしそれができないならば、常に罪悪感を持ち続けるべきということになる。また、DaiGoという個人がホームレスのことを嫌いなのはおかしいという主張をする人が仮にいたとしたなら、その人は他人の好みに首を突っ込みすぎで、余計なおせっかいだと感じる人が多いだろう。丁寧に論じれば、もしかしたら、「真実」は真実ではないということになるかもしれないけれど、なかなか困難な道筋であることは確かだろう。そのような意味で、DaiGoが述べるべきだったことは、(カギカッコ付きの)「真実」だと僕は思う。

では、DaiGoがどこで間違えてしまったのかというと、①・②・③と分けるべき主張をごっちゃにして述べてしまったというところにあるのだろう。彼は、ホームレスが嫌いだということを自分の好みではなく、すべての人に共通の当然のことだと誤解してしまった。だが実は、すべての人共通なのは、嫌いなものより好きなものを尊重するという態度なのだ。彼はそこにある区別に気づかず、人は誰もが、ホームレスという嫌われ者よりもネコのほうを尊重すべきだ、と述べてしまったということになる。

そう考えると、世間から叩かれたDaiGoが反省し、ホームレスについて勉強しようと思い立ったことも筋が通っている。彼は自分の主張のうち、②にあたる部分が間違いだったと思っているのだろう。つまり、自分がホームレスを怠惰で不潔だと思っていたのは間違いかもしれない、ホームレスになった事情を勉強すれば、ホームレスのことを忌み嫌わなくなるかもしれない。彼はそのように思ったのだろう。

 だけど僕の見立てだと、そういう話ではない。きっと人は、無条件に何かを好きだったり、何かを嫌いだったりすることからは逃れられない。仏教ならば、そのような愚かさから少しでも抜け出せるように学ぶべきであり、そのような執着から抜け出すことこそが人生の意義だと言うのだろう。だけどそれはちょっと次元が違う話で、この文章が取り扱っているような日常レベルでは、人は当然に好悪とともに生きている。

頭がいいキャラで売っているDaiGoには申し訳ないけれど、残念ながら、彼が抱えていた問題は、心がけや性格に起因するものではなく、単に論理的な問題であり、彼がきちんと思考できなかったために生じた問題なのだ。

詳しくは知らないけれど、今回の発言は、DaiGoがYou Tubeか何かで彼のファンと応答するなかで出たもののようだ。DaiGo個人の問題というよりも、きっと、誰かが誰かに一方的に知を与えるような場のあり方が、きちんと思考をすることに適していないのだろう。

最後に、彼が言うはずだった「真実」のうち1つ目を再掲しておきたい。

① 平等なんて嘘だ。すべての人は身近で自分が好む存在を大切にする。異国に住む全く見知らぬ人や嫌いな人よりも近くにいる家族や、好きな友人を大切にする。なお、その対象となる存在は人間に限らず、ネコなども含まれる。実際、人は遠くにいる人間や嫌いな人間よりも自分が飼っているネコのほうを大切にするではないか。

これは、バーナード・ウィリアムズが「近接性」(『生き方について哲学は何が言えるか』pp.360-361)と呼んだものの僕なりの言い換えだ。遠くにいるホームレスの人が骨折して苦しんでいるのと、自分が飼っているネコが骨折しているのを同時に知ったなら、一定割合の人はきっと、ホームレスの人より飼っているネコのほうに駆けつけるだろう。それがネコではなくて自分の子供だったら100%の確率で子供を選ぶだろう。この「近接性」の議論はかなり説得力のあるものであり、DaiGoが述べるべき「真実」はこれだったのだろう。

だけど、僕はこの「真実」では満足できないから、その先を考えている。だけど、これ以上の「真実」はなかなか見つからない。その意味で、あくまでこれはカギカッコ付きの真実なのだ。

メンタリストDaiGoの話」への3件のフィードバック

  1. ピンバック: 動物倫理学 - 対話の哲学

  2. 波多智子

    ダイゴさんの発言は、内輪なら良かったんじゃないでしょうか。
    森元オリンピック会長の女性は云々というのも、仲間うちでなら笑い飛ばしておしまいだったのではないか、と思います。
    好き嫌いは、個人の感想です。
    インターネットのなかった時代は、そうした発言が不特定多数の耳に目に届くことはほとんどありませんでした。
    好きでも嫌いでも、女性は云々も、それはそれです。誰かのそうした感じ方を、変えようなんて烏滸がましいですよね。ましてや、批判するなんて、何様?!という感じです。
    でも、それが罷り通るのが、今の時代なんだとつくづく考えます。
    ダイゴさんの発言で、ホームレスの人たちに何らかの害が生じるというようなニュースを目にします。
    そんなに、影響力があるんでしょうか?自分の中の偏見だとか憎しみだとか鬱憤を、ダイゴさんの発言で触発されたとするなら、随分安上がりなんだなぁと思います。

    返信
    1. user 投稿作成者

      最後の一文にある「安上がり」というのが今回の話の本質を捉えている気がしますね。
      DaiGoさんの話も森さんの話も我々の食卓での雑談も、その内容として「安い」話なんですよね。
      それ自体は問題がないんだけど、ネットで配信されるものとして話したり、会議の場で話したりして、内容と扱いにずれが生じているんでしょう。
      安くあるべきでない場で安い話がされているところに問題があるんだろうなあ、と思いました。
      そして、安い話を安くない話のように受け止めて触発される人がいるならば、それも問題ということでしょうかね。

      返信

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