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「語りえぬものを語る」を読んで  ‎3非言語体験の場の力と疑いの力

3-1【理由のない疑い】
ここで少し戻って、野矢はなぜ、論理空間と行為空間を2分したかについて改めて考えてみたい。
そこで取り上げたいのが、P278で行われている「理由のない疑い」の議論である。
野矢は、「理由のある疑い」と「理由のない疑い」を対比し、偽札を例にして、手触りが変だとか、何かおかしいと感じて疑う場合を「理由のある疑い」とし、疑おうと思えば疑えるということで疑う場合を「理由のない疑い」としている。そして、前者を「生活の中で生じる疑いの形である。」とし、後者を「あくまでも哲学的な懐疑になる。」としている。(更に、野矢は、「全ては夢かもしれない」というような包括的な疑いと「これは夢かもしれない」という個別の疑いを分け、前者を論理空間の懐疑論、後者を行為空間の懐疑論としているが、私は論理空間と行為空間を2分するようなかたちで捉えていないので、この区分は無視することとする。)
この「理由のない疑い」の議論を、野矢が行為空間の外にある「死んだ可能性」として第11回で挙げた3つのもの、つまり、グルー概念のような所有していない概念を使用する可能性、隕石が落ちるというような習慣によって無視される可能性、お札が勝手に増えるというような世界像・探求の論理(指針)に対する疑いの可能性、と結びつけてみたい。
そうすると、「死んだ可能性」としているものは全て「理由のない疑い」に関わるものであることがわかる。
このエメラルドはグルーなのではないか、近所に隕石が落ちるのではないか、お札が勝手に増えるのではないか、いずれも、疑う理由がない。ただ、疑おうと思えば疑えるような、哲学的な懐疑であると言えよう。つまりは、「死んだ可能性」を疑うということは、「理由のない疑い」なのではないか。と私は考える。
そのことを、更に、先程から行なっている物語性の話と結び付けたい。
そうすると「理由のない疑い」とは、疑う物語がないということになるのだろうか。 いや違う。正確に言うべきだろう。
疑いは提出されているのだから、疑うという物語はある。エメラルドにはグルーかもしれないという物語はあるし、隕石には近所に落ちるかもしれないという物語はあるし、お札にも勝手に増えるかもしれない(ここらへんは実感としては微妙だけれど)という物語がある。
しかし、いずれの物語にも疑う理由の物語がない。なぜ疑う、という疑いを補強するような物語がない。
それはどういうことかというと、隕石の例で言えば、「隕石」という概念には「隕石は近所に落ちるかもしれない。」という疑いの物語がある。これに、他の疑いを補強されるような物語、例えば、「小惑星が地球の近くを通った。小惑星が地球の近くを通ると隕石が落ちる可能性が高まる。」という物語が加わると、それは理由のある疑いとなる。しかし、そのような補強されるような物語がない場合、それは理由のない疑いとなる。
野矢は、このような他に補強されるような物語を持たない、理由のない疑いの物語を持つ概念を、「死んだ可能性」とし、行為空間にはない概念と位置づけたのではないだろうか。と私は考える。

3-2【非言語体験の場の力】
野矢の行為空間の話にもどったところで、「語る」における行為空間の議論の位置づけを振り返ってみたい。
行為空間とは、多分、「語る」における中心的な概念であり、行為空間概念登場以前からの相対主義、相貌論の話とも関わり、その後も物自体・過去自体といった議論へとつながり、この本全体と関わっていると思われる。
そこで「語る」での議論全体において、行為空間の側面から述べるべき大きな問題はないだろうか、と読み返してみる。
そうすると、「語る」の(少なくとも後半の)中心的な議論として、野矢が「力と相貌の二元論」(P341)としている議論がある。これは、P291の言い方によれば「語ることを、語られない自然が支えている」ということであり、第19回P328の言い方によれば「非言語的な体験に触発されて分節化された体験あるいは分節化された世界が成立する」ということである。つまりは、この二元論は、「(非言語体験の場としての)力と(分節化された世界としての)相貌の二元論」ということだろう。
そして、先程述べたように、相貌は行為空間に現れるものであり行為空間と密接不可分の関係にある。そうすると、「力と相貌の二元論」は「非言語体験の場と行為空間の対比」と読み替えることもできるのではないだろうか。
ここにも、行為空間について議論すべきことがある。

3-3【言い訳】
ここで言い訳をさせて頂きたい。
正確に言うと、「力と相貌の二元論」には「非言語体験の場と行為空間の対比」という側面はあるとは思うが、そのように全て言い換えていいかどうかは怪しい。
「相貌」と「行為空間」は密接に捉えてよいのは確かだと思うが、「行為空間」とは、その「生き方」と表現されている側面を強調すると、「力と相貌」の「力」寄りに位置づけることも可能だと考えられる。
このことを詳細に検討することが、この文章の趣旨ではないので、この先には進まないが、多分、この概念相互の関係の複雑さをそのままとすることが、冒頭で言った、野矢は議論の糸を束ねないということの一つの大きな側面なのではないかと思う。
そこを、あえて束ねるということは、どうしても私なりの解釈が入らざるを得ないだろう。よって、「非言語体験の場と行為空間の対比」を強調する観点は、私が「語る」から読み取った解釈であり、野矢が語ろうとした別の側面を取り逃がしている可能性があるということは注意して頂きたい。

3-4【非言語体験の場の力 2】
言い訳を述べた上で、「非言語体験の場と行為空間の対比」ということについて少し考えてみたい。
ただ、非言語体験の場と行為空間を対比すると言っても、「非言語体験の場」がどこにあるのか、私の立体地図、または肉(岩)の比喩において、「非言語体験の場」はどこに位置づけられるのか、というようなことは、ここで語ることはできない。正直に言ってわからない。
ただ、非言語的な場からの「力」が、どのように行為空間に働くか、については少し語ることがあるように思う。
野矢は、「力と相貌の二元論」としての文脈のなかで、この「力」について、大きく分けると2つの側面を見ているように思われる。
ひとつは、「動物的な本能的習性」としての側面だ。これは、第12回で斉一性の原理の文脈において取り上げられているヒュームの用語である「習慣」について述べているあたりから登場している。例えばP204では「動物が示すさまざまな本能的習性と違いはない。」「動物的な身体反応」としているような箇所だ。第19回P327において「非言語的な体験は、私の反応を~触発するのである。」としていることとも同じであろう。つまり、この触発とは動物的な本能的な習性なのである。
また、この観点は、第20回P349で「(過去について語ることは)すべて、過去自体に触発された私の身体反応である」と過去についての場面に拡大されて適用されており、過去についての議論においては「身体的記憶」(P348)が、この「力」の一側面として現れていると考えられる。
もうひとつの側面は、「抵抗」だ。この側面については、主に第21回の自然科学についての議論のなかで挙げられている。P369において自然科学の「知識の活用」としての側面が強調され、「(例えば、ロケットを飛ばそうとして失敗する。)その抵抗こそ、非言語的な場としての世界が理論に向けてくる」(P370)とされている。
当然、このことは自然科学に限定されるものではなく、野矢も第20回注2のなかで、「知識を踏まえて行為することのポイントは、行為を通してその知識が世界と接触・交渉することになる。」としている。(野矢の言う知識とは、「卵はゆでると固くなる」というようなものなので、私の用語では物語と言い換えることができるだろう。)
また、「動物的な本能的習性」と同様に「抵抗」も、過去に拡大されている。野矢が第20回注1で行なっている「過去整合説」の議論の中で、それを弱めたものとして、「整合性のチェックはさらに行為・実践との関係から捉え返さねばならない。」としている「プラグマティズムの真理観に近いもの」(P355)が「抵抗」にあたるだろう。
この「動物的な本能的習性」と同様に「抵抗」の力のふたつの側面の関係を述べていると思われる箇所がある。第17回P288で「以下同様」の規範的意味について、「あなたのこれからやることは、いま与えられた説明の観点から適切さが評価され、不適切ならば訂正されることになる。」としている箇所だ。同じことは第19回328においても「言語使用の適切さがその言語共同体の中で評価され、ときに訂正を受ける。」と拡大して述べられている。つまり、「あなたのこれからやること」や「言語使用」がそもそも始まることは「動物的な本能的習性」に支えられ、「評価・訂正」が行われることが「抵抗」にあたる。
この野矢の「相貌」への「力」についての議論は、全面的に「行為空間」への「力」についての議論に置き換えることができると考えられる。
つまりは「行為空間は、非言語体験の場から触発された本能的習性により成立し、非言語体験の場からの抵抗により形作られている。」と言えるのではないか。
これが、私が考える非言語体験の場の力である。

3-5【非言語体験の場の力の及ぶ範囲】
次に、非言語体験の場の力は、野矢のいう行為空間の外の論理空間、つまり、「死んだ可能性」の領域に及ぶのだろうか、ということを考えてみたい。
まずは、非言語体験の場の力のうち「本能的習性」の側面について考えてみる。
「本能的習性」は、ヒュームの用語「習慣」を「動物が示すさまざまな本能的習性と違いはない。」としているところから始まっており、「習慣」と言い換えてもいいほどのものだ。つまりは、「死んだ可能性」のうち「習慣によって無視される可能性」と関連があるということは明らかだろう。
また、「本能的習性」は、「死んだ可能性」のうち「(グルー概念のような)所有していない概念を使用する可能性」とも関連がある。グルー概念のような所有していない概念とは、野矢の言い方では体がついていかない概念である。この体がついていく・ついていかない、ということは「動物的な身体反応」が引き起こされるか・引き起こされないか、ということと同意であろう。
つまりは、このふたつのことをまとめて、「死んだ可能性」とは、「本能的習性で所有できない可能性」とも言いかえることができるのではないか。
また、非言語体験の場の力のうち「抵抗」の側面であるが、これは、先ほど言ったように、自然科学の文脈で主に用いられたものである。そして、自然科学について第26回で語られるなかで、フックの法則のような自然科学の法則について、「法則は、ひとたび探求の指針として採用されたならば、現実世界がその法則に反するという事実によってはけっして反証されない。」(P464)「「この法則が維持されるように現実を解釈せよ」と探求の指針を与える」(P466)「こうした指針は、法則と現実世界のあり方がずれていることを、むしろ積極的に認める。」(P466)とされている。
探求の指針の文脈においては、この現実世界のずれを「抵抗」と呼ぶのだと考えられる。つまり、「抵抗」は「死んだ可能性」のうちの「探求の指針への疑いの可能性」と関連があることは明らかだ。
しかし、抵抗がどのように探求の指針への疑いを否定させるのか、については検討が必要だろう。
探求の指針とは、非言語体験の場からの抵抗によって諸法則が頓挫しないように保護する働きがあると言える。この抵抗の力が、なぜ、探求の指針を保持させることになるのか。
それは、このように説明できるのではないか。
探求の指針は、他の探求の指針によって置き換えられる以外には否定されない。つまり、他の探求の指針によって置き換えられるのではなく、それ以外のやり方で探求の指針を否定しようとする「探求の指針への疑い」とは、非言語体験の場からの抵抗の力を過大に見積るということになる。そして、非言語体験の場からの抵抗の力を過大に見積るということは、本来の「抵抗」の意味合いを否定しているとも言えるのではないか。
また別の言い方をするならば、探求の指針は抵抗を受けることを前提にしている。仮に非言語体験の場からの抵抗がなけければ法則自体が成立しないのではないか。非言語体験の場からの抵抗がないとは、つまり、勝手気まま、という状況だろう。そのような状況で、何か法則のようなものが生まれ、探求の指針として位置づけられることはありえない。ということは、「抵抗」が探求の指針を生み、保持しているとも言えるのではないか。
つまりは、「抵抗」の観点からは、「死んだ可能性」とは、「抵抗によらず探求の指針を疑う可能性」とも言いかえることができるのではないか。
以上を踏まえると、「非言語体験の場の力」である「本能的習性」も「抵抗」も、「死んだ可能性」(行為空間外の論理空間)には及ばないと言えるのではないか。
では、何が野矢の行為空間外の論理空間、つまり「死んだ可能性」である論理空間を成立させているのか。
ここで注意しておきたいことがある。
これまで、行為空間という語について、野矢の行為空間と私の行為空間性としての厚みのようなもののどちらをイメージすべきかを必ずしも限定していなかった。しかし、ここからは、私の行為空間性の厚み、つまりは、ある概念の物語の厚みのようなものをイメージして頂きたい。(ここから、野矢の部分空間としての行為空間と、私の論理空間の厚みとしての部分空間性とを分ける必要が出てくるので、前者を「野矢の行為空間」、後者を「部分空間性」とする。)
そうすると、「死んだ可能性」である論理空間にも行為空間性、物語があるということを思い出して欲しい。
つまりは、ある物語、これまで述べたことを踏まえれば、「理由のない疑いの物語」と最低限の「以下同様」の物語が、「死んだ可能性」である野矢の行為空間の外の論理空間を成立させているということだ。
このようなかたちで、野矢の論理空間の部分空間としての行為空間の議論は、形を変えて再登場してくるのではないか。

3-6【脱線:理由のない疑いの先にあるもの】
野矢の行為空間つまり「生きた可能性」を成立させる「非言語体験の場の力」と、野矢の行為空間外の論理空間、つまり「死んだ可能性」を成立させる「理由のない疑いの物語」及び「以下同様」とはどのような関係にあるのだろうか。
まず、明らかに言えることは、前者には「非言語体験の場の力」があるが、後者にはそれが欠けているということだ。また、前者、後者のいずれにも「以下同様」の物語はある、ということも明らかに言えるだろう。
そうすると、問いとしては、野矢の行為空間には、「理由のない疑いの物語」はあるのだろうか、ということに絞られる。
それを考えるためには「理由のない疑いの物語」とは何か、ということを考える必要がある。
「この新緑はグルーではないか?」という疑いを例にとろう。
「新緑」概念には、色々な物語があるだろう。数年前、「家族でドライブをして窓の外から新緑が見えた」とか、といったような。
また、「グルー」概念にも、「新緑」概念ほどではないけれど、いくつかの物語があるだろう。「野矢先生の本でグルーのことが説明されていた。」といったような。
そして、ここでの一番大事な物語である「この新緑はグルーではないか?」という物語がある。
まず、確認しておきたいのは、「この新緑はグルーではないか?」という物語以外の物語の豊かさ、つまり、新緑、グルーのそれぞれの概念に、「家族でドライブをして窓の外から新緑が見えた」というような物語がどれくらいあるかは、「この新緑はグルーではないか?」という物語には関係がないということだ。概念の厚み、豊かさは物語の豊かさのことであるが、どれだけ物語を構成する概念に厚みがあったとしても、物語が厚みを持つ訳でもない。「この新緑はグルーではないか?」と問う場合でも、私が見たことがあるかどうか怪しいエメラルドについて「このエメラルドはグルーではないか?」と問う場合でも、物語としての豊かさに差はない。
では、物語自体の豊かさ、厚み、つまりは内容は何に裏打ちされているのだろうか。 通常の物語であれば、「非言語体験の場の力」と簡単に言えるであろう。
それでは「理由のない疑いの物語」はどうだろう。
私は、「理由のない疑いの物語」は内容のない空虚な物語であるとしか言えない。
内容のない空虚な物語が「疑い」だけを持っている。そうとしか言えない。
ただ、逆に言えば、「疑い」だけは残っているとも言える。
私は、この疑いを、文末に付く「?」であると捉えたい。つまりは「この新緑はグルーではないか?」の実態は「?」であり、すべての「理由のない疑いの物語」は「?」で置き換えられるということだ。
そして、最初の問いに戻ることにする。野矢の行為空間には、「理由のない疑いの物語」はあるのか。
これは、つまり、野矢の行為空間には「?」はあるのか。という問いとなる。
野矢の行為空間に「?」を探してみると、「理由のある疑いの物語」のなかに「?」があることがわかる。例えば、「このミカンは腐っているのではないか?」というような物語に「?」はある。そして、この疑いには、「このミカンは黒くなっている。」「黒くなっているミカンは腐っている場合が多い」というような理由の物語が付加されているため理由のある疑いとなっている。
では、「理由のない疑いの物語」における「?」とは何なのだろうか。
「このミカンは腐っているのではないか?」で言えば、「このミカンは腐っている。」の平叙文に「?」を付加することで、「このミカンは腐っているのではないか?」という疑問文になる。この疑問文にする働きが「?」の働きであると言えるだろう。
それでは、疑問文にする働きとは何なのか。
それは、平叙文から否定文をつくり、両方を見渡す立場に立つということだと思う。
「このミカンは腐っている。」から「このミカンは腐っていない。」をつくり、「このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。」の立場に立つということだ。
ここで重要なことは、「このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。」の立場にあるからこそ、「このミカンは腐っている。」や「このミカンは腐っていない。」と言えるということである。「このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。」の立場に立たず「このミカンは腐っていない。」ことがないならば、「このミカンは腐っている。」と言うことができない。
このことに対しては、「女子学生は男子である。」ことはないが、それでも「女子学生は女子である。」と言うことは(必要はなくても)できるのではないか、という反論がああるかもしれない。
しかし、そういうことではない。この場合でも「女子学生が男子であるかもしれないし、女子であるかもしれない。」の立場に一旦立ったからこそ、そのようなことを言えるのである。
私はこれこそが、言語化の働きであると思う。
つまりは、疑問文にする働き「?」とは、言語化の働きのことなのである。
そうすると、平叙文であっても、言語化した物語として語ることは、言語化の働き、つまり疑問文にする働き「?」が加わっているということになる。繰り返しの例となるが、「このミカンは腐っている。」と語ることは、明示はしていなくても、丁寧に言えば、「このミカンは腐っているか?このミカンは腐っているかもしれないし、腐っていないかもしれない。しかし、理由の物語を鑑みると、このミカンは腐っている。」と語っていることなのである。
そうすると、すべての物語は、言語化の働きであり疑問文にする働きである「?」を含んでおり、「理由のない疑いの物語」は、「「非言語体験の場の力」を欠き、「?」だけが露出された特殊な物語だということになる。

3-7【比喩の限界】
と、ここまで読んできて、読者が感じるだろう、この文章の最も大きな欠点は、イメージに訴えた比喩が多いことだと思う。
しかし、これは、「語りえないもの」について比喩を用いることで語ろうとしているというこの文章の性格上、ある程度はやむを得ないものだと思っている。
ここで注意しなければいけないのは、比喩は比喩でしかない、ということだ。そのような意味では、この文章は、本当に語るべきことのスケッチ、本当に語るべきことの予告編とならざるを得ない。
その誤りは、野矢が行為空間の内外という議論を提出した時点で始まっているだろう。
野矢は、第13回において、論理空間成立の基礎としての「以下同様」の力を強調している。論理空間に概念が成立する基礎として、「以下同様」の力が必要だ。
一方で、P223では「行為空間において初めて、「以下同様」という言葉は効力を持つ。」としている。
とすると、野矢の目玉焼きの図式における黄身(行為空間)と白身(行為空間外の論理空間)のうちの白身には、「以下同様」は及ばず、論理空間は成立しないこととなる。
そうすると、野矢の論理空間における行為空間の内外という議論は成立しなくなる。
これはおかしい。この図式を描くためには最初から「以下同様」を先取りしていなくてはいけない。
また、同様のことは、概念の習得における行為空間の変化の場面でも現れる。
「以下同様」が行為空間性に依拠するならば、どうして、ある時点の行為空間と、ある時点の行為空間を比較し、そこに変化をみてとることができるのか。ある時点の行為空間と、ある時点の行為空間とを同じ行為空間と捉えるということは、「ここに現れている空間を行為空間とします。以下同様に、そう解釈します。」という規則が働いているということではないのか。そして、そのことは、当然、行為空間内で語ることはできない。
その問題は、私の立体地図または岩(肉)の比喩も同じだ。
立体地図や岩(肉)という一塊りとして見るには、ある種の規則性が必要だ。
私は、「物語」の塊としたが、ある「物語A」を別の「物語B」と、「物語」という面では同じだということで集めて塊とするということは、既に「「物語」と判断されるものについては塊にして集めます。以下同様に、そう解釈します。」という規則が働いているということではないのか。
そうすると岩(肉)という物語の塊のなかに、「以下同様」の物語がある、などということは言えなくなる。また、塊を俯瞰的に見て切断などの作業を行うということはありえない。
このように、模式化した説明というものは、模式化して説明を行うこと、それ自体で「以下同様」の力を招き入れざるを得ない。よって、模式化して「以下同様」を語ることはできない。
それが、この比喩の限界なのかもしれない。

3-8【以下同様 または 時間】
しかし、そこにはまだ語るべきことがある。

この比喩を成立させるためには、「以下同様」を先取りする以外に、もうひとつのやり方がある。
それは、「無時間性」を認めるというアプローチだ。
というか、「時間」の導入と「以下同様」の導入はセットなのではないか。
最初の「猫」という発話と、次の「猫」という発話は違うという前提があるからこそ、「以下同様」が必要となる。そこで、時間の流れを否定した場合、最初の「猫」という発話と、次の「猫」という発話は不可分となり、同じものとならざるを得ない。
「時間」を認める道と認めない道とで、どちらをとるべきなのか。
そこに、もう一つの語りえないものを語ろうとする道筋があるのではないかと思う。

 

「語りえぬものを語る」を読んで  ‎2平面から立体に

2-01【行為空間の内外の否定】
先ほど紹介したように、野矢は、「論理空間の~部分空間を行為空間と呼ぶ」としている。このイメージは、この本全体を通じて変わらない。
ただし、1箇所だけ、そのことを否定している部分がある。第11回注2P195において、
「~行為空間は論理空間の「部分空間」であると書いてしまったが、行為空間の内と外を分ける明確な境界は存在しない~。むしろ論理空間の中に概念所有の「パースペクティブ」があると言った方がよいかもしれない。~論理的可能性の中には、私に身近で、私がふだんつかいこなしている概念から、もっと疎遠で浅い理解しか持っていない概念、さらにはグルーのようにまったく死んでいる概念まで、私にとっての「近さ-遠さ」がある。このように段階的に裾野をひらいたもの、それが行為空間にほかならない。」と述べている部分だ。
私は、この箇所を読むまでは、行為空間は論理空間の部分空間ということなので、なんとなく、目玉焼きのようなものを想像して、黄身が行為空間、白身が論理空間、というような感じで受け取っていた。しかし、そうではない。論理空間と行為空間の関係とは、目玉焼きのように2分できるようなものではなく、明確な境界はなく、段階的に行為空間ではなくなっていくようなイメージということだ。
ただ、「語る」においては、この注は重視されず、その後の文章でも行為空間の内外という議論は続いていく。この箇所は、ちょっとした萌芽のようなものにとどまっているようだ。
私は、 この萌芽、つまり行為空間の内と外を分ける明確な境界は存在しないということにこだわってみたい。
この議論を発展させていくにあたって、まず考えたいのが、グルー概念は行為空間の「外」の概念、野矢に言わせれば、「まったく死んでいる概念」なのかどうかだ。(野矢の「まったく」死んでいるという表現は、行為空間の「外」、という意味と同義だと思われる。同義だからこそ、その後も行為空間の内外という議論を続けることができるのだろう。野矢としては、行為空間の境界上の微妙な概念は色々あるけれど、さすがにグルー概念は行為空間の外だ、ということなのであろう。)
私はそこに疑問を感じる。段階的に裾野をひらき、明確な境界がないものである行為空間が、行為空間でなくなってしまうことなんてあるのだろうか。
ここで、富士山が行為空間と例えよう。富士山は段階的に裾野をひらいたものとしての行為空間のイメージには合致するだろう。そして、本州全体が論理空間としよう。
そうすると、富士山の頂上が「みかん」のような慣れ親しんだ概念で、富士山の5合目あたりは「インブリード」のような名前と簡単な意味くらいは知っている概念という感じだろうか。それらは、明らかに富士山(つまり行為空間)にある。
もう少し遠ざかって、青木ヶ原樹海のあたりはどうだろう。富士山にあると言う人もいるかもしれないし、もう富士山じゃないという人もいるかもしれない。
御殿場のあたりはどうだろう。私としては富士山という感じはしないが、人によっては、富士山という人がいるかもしれない。
では名古屋だとどうだろうか、などと遠ざかるにつれ、徐々に富士山性(行為空間性)は失われ、最後には、少なくとも鳥取あたりに行った時には、そこが富士山だという人はいなくなり、行為空間ではなくなる。
そして、野矢は、多分、鳥取のあたりにグルー概念があると考えているのだろう。
そこで私は、本当に鳥取は富士山でないのか、という疑問を持ち出したい。
本物の本州には富士山でないものはたくさんある。鳥取砂丘もある。そうすると、確かにそこは富士山ではなく鳥取砂丘だ、と言える。しかし、この喩えの元となった、論理空間、行為空間の議論においては、論理空間には行為空間しかない。ここは行為空間ではない何かだ、なんて言うことはできない。そう考えると、富士山の遥か遠くにも富士山性は行き渡っているのではないか。ここから先は富士山ではない、ここから先は行為空間にない、なんて言うことはできないのではないか。鳥取も富士山なのではないか、と私は考える。
言い方を変えてみる。
富士山のたとえ話ではなく、グルー概念が行為空間にないのかどうかという観点で直接的に考えてみよう。
まず、この本におけるグルー概念の話を振り返ってみる。
野矢は、第10回で、ネルソン・グッドマンが考案した「グルー」概念を紹介し、ブルーやグリーンといった概念と比べ、グルーは囲い込まれていないとしている。そこから、グルー概念は、頭では理解できるが、いわば体がついていかず、翻訳可能だが理解不可能な概念だとしている。そして、理解不可能だからグルー概念は行為空間にない、ということになる。
しかし、本当にグルーとは体がついていかない概念なのだろうか。確かに、日頃、目にした新緑の色を表現するときにグルーだ、とは言わない。グルー概念は用いない。しかし、哲学に関わっている人にとって、グルーというのは決して全く新しい概念ではない。グルーと言われれば、ああ、あれね、と思うだろう。哲学的な話をする場面では、グルー概念は決して体がついていかない概念ではない。新緑の色を表現することと哲学的な話をすることが、同じ実生活における一場面であるならば、グルー概念は明らかに囲い込まれている。その他の類似の概念、例えば、ある時点まではイエロー、ある時点からはレッドである色「イエッド」という(私が今考えた)概念よりは、グルーの方がなじみがあり、囲い込まれている。とするならば、グルーは(哲学的議論という)行為空間にある概念と考えるべきではないだろうか。グルー概念が囲い込まれていないと判断したのは、つまりは、概念の使用は日常生活での場面における使用のみを指し、哲学的な場面における使用は含まれないという限定があったからに過ぎないのではないだろうか。
(本当は、更に述べたいことがあるが、第3部で述べることとする。)
以上の議論を踏まえれば、論理空間の部分空間が行為空間という言い方ではなく、「論理空間のすべてが行為空間である」、とする方が適当であろう。

2-02【脱線:相貌=概念という副産物】
「論理空間のすべてが行為空間である」とすることで、「語る」において用いられている重要な用語のひとつである「相貌」の位置づけを再整理できる。
相貌概念は、第7回P108において「われわれが認識し、語り出すすべては、相貌をもっている」として導入される。
「語る」における相貌論について、「行為空間」という観点から見てみよう。
相貌と行為空間との関係について直接言及している部分はないが、第7回P109で「われわれにとっては、一匹の猫はどうしたって一匹の猫としての相貌を持っている。~それはすなわち、われわれがその分類を引き受け、いわばその概念を生きているからである。概念を変えるということは、生き方を変えることなのである。」としている。この「生き方」が、猫概念が「行為空間」にあるということを指すのではないだろうか。
また、第8回P129で「「観点αからはAの相貌が立ち現れる」ということが分かるのは、観点αに実際に立っている者だけでしかない。~相貌は「内側から」のみ把握される」と述べている。これは、ある生き方にあるという立場の内側から相貌として把握された概念が「行為空間」にある概念である、ということを指すのだろう。第8回で出されている例で言えば、イワシの頭を価値のあるものとしてみなす生き方をするということが、イワシの頭を価値のあるものとして「行為空間」に捉えているということなのではないだろうか。
つまり、野矢が行為空間にない代表例として挙げているグルー概念にについてP253で「われわれの行為空間にはグルーの相貌は存在しない。」と述べているとおり、相貌は行為空間に現れるということになる。
しかし、先ほど「論理空間のすべてが行為空間である」としたことから、相貌は論理空間に位置づけられることになる。そうすると、グルー概念にも相貌はあり、すべての概念に相貌があるということになる。
つまりは、概念と言ったとき、それは相貌と言い換えてもいい。相貌=概念 と言ってもいいだろう。このように、相貌をより簡素な構図に位置づけられるというのは、副産物ではあるが、成果だ。
(冒頭近くで、「概念」という言葉を、明確な意味合いで使うことができていない。他にもそのような不正確な言葉があるかもしれないがご容赦いただきたい。と弱気なコメントを書いたが、少なくとも「概念」については撤回できると思う。)

2-03【論理空間の厚み】
議論を先に進める。
私は、「論理空間のすべてが行為空間である」とした。
では、野矢は「論理空間の部分空間としての行為空間」というアイディアを持ち出すことで何を言いたかったのか。
野矢が感じたことを、よりしっかりと捉えて表現すれば、論理空間に行為空間の内外という2つの領域があるかのような話につなげるのではなく、論理空間には、あきらかに行為空間にあると言うべき富士山の頂上のような行為空間性が濃い(厚い)領域と、ほとんど行為空間にあるとは言えないような鳥取砂丘のような行為空間性が薄い領域とがある、と言うべきだったのだろう。
つまり、論理空間には行為空間性としての濃淡、または厚みがあるということだ。
繰り返しになるが、野矢は、私がこだわっている第11回注2において次のように言っている。
「論理空間の中に概念所有の「パースペクティブ」があると言った方がよいかもしれない。~論理的可能性の中には、私に身近で、私がふだんつかいこなしている概念から、もっと疎遠で浅い理解しか持っていない概念、さらにはグルーのようにまったく死んでいる概念まで、私にとっての「近さ-遠さ」がある。」
これは、私が「論理空間の行為空間性としての厚み」と言っていることの別の表現だと思われる。
しかし私は、野矢のこの表現を採用しない。それは、行為空間の中心にある「私」という余計なものが入り込んでいるからだ。
確かに、論理空間、行為空間とは、私の論理空間であり、私の行為空間であることから、「私」と論理空間、行為空間との関係性について検討を深めていけば、そのような結論に至るのかもしれない。しかし、この文章は「私」について検討することがテーマではないので、あえて、「私」を中心にした綺麗な円錐のようなかたちで行為空間を捉える必要はなく、その形状は問わず、不規則な濃淡や厚みのようなものに留めて捉えるほうがよいのではないかと思う。

2-04【論理空間と行為空間のたとえ方】
なお、行為空間を濃淡と捉えるか、厚みと捉えるかだが、行為空間は色や高さではないので、いずれにしても、たとえ話とならざるを得ない。
とすれば、イメージしやすいのであれば、どちらでもいいということになるだろうが、ここからは、私の好みもあるが、今後の話につなげるために、行為空間性を論理空間の「厚み」と捉えることとする。
ここで、読者でイメージを共有していないといけないので、補足説明する。
私は論理空間に厚みがあると言った。つまり、私は、野矢の論理空間を2次元の方眼紙のように捉え、その各マス目に色々な概念が配置されているイメージを持っている。
例えば、右に2マス目、上に3マス目にはリンゴ概念があり、右に3マス目、上に5マス目にはミカン概念があり、右に1324マス目、上に325マス目にグルー概念があるという感じだろうか。
そして、私は、その方眼紙、つまり論理空間には厚みがあるのではないかと言っている。リンゴ概念やミカン概念があるところは分厚くて、グルー概念があるところはペラペラになっている。そういうものなのではないかと。
そこで私は、確か私が通っていた小学校にあった、立体の世界地図を思い出す。ヒマラヤのところが高くなっていて、日本海溝のあたりが低くなっているあれだ。(他の学校にもあるのかな。)
ただ、論理空間はひとつだ、ということを考えると、島や大陸がたくさんある世界地図ではなく、日本地図のそれも本州だけの立体地図のようなもののほうがイメージに合う。
とにかく、そういうものをイメージして読み進めてもらえるといいと思う。
そして、野矢は、この厚さを表現するために、地図に等高線を描くように、この立体地図を切断してしまったのだと思う。そうすれば、断面が地図の部分空間となる。このような、不完全な厚さの捉え方をしたのだと思う。
ただし、注意しておきたいのは、不完全ではあるが、野矢のこの捉え方は誤りではないということだ。私は、今後も、場面に応じて、野矢の行為空間として、この等高線に登場してもらいたいと思っている。
また、もうひとつ注意しておきたいのは、私は、野矢の「行為空間」を「行為空間性」と読み替えたが、その意味合いについては、今述べた変更以外の変更は加えていないということだ。私は、野矢が「行為空間」について述べたことの大部分は「行為空間性」にも適用できると考えている。

2-05【行為空間性としての厚み:典型的な物語】
それでは、論理空間の行為空間性としての厚みとは何だろうか。
野矢の考えに沿えば、「行為空間」とは、論理空間の部分空間である。論理空間が可能な事実の総体だとすると、行為空間は生きた可能な事実の総体である。
そして、事実とは諸対象の結合であることを踏まえると、諸対象の可能な生きた結合が「行為空間」であると言えるだろう。
また、先程、「概念=相貌」と述べたとおり、今や、この「対象」とは、概念、相貌と読み替えてもよいと思う。つまりは、相貌、概念の生きた結合が「行為空間性」だと言える。
「語る」には、その結合を示した言葉があると思う。それは「典型的な物語」だ。
野矢は第23回P403で「ある概念を理解するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語を理解することなのである。」と書いている。猫にとっての「典型的な物語」としては、例えば、「猫は、ネズミが好きだ」という物語がある。(飼っていないから、本当かどうかは知らないけれど) この物語においては、おおまかに言えば「猫」概念が「ネズミ」概念、「好き」概念と結合している、ということになるだろう。そして、この概念の結合こそが、物語だと言える。
つまり、「典型的な物語」とは、その物語を持つ概念(例えば「猫」概念)と、他の概念(例えば「ネズミ」概念「好き」概念)との生きた結合であり、それこそが「行為空間性」のことだと考えられるのではないだろうか。
別の言い方をしてみる。
野矢が「語る」でも例として挙げている「鳥」概念は、私にとっては、かなり行為空間性としての厚みがある概念だ。空を飛ぶものが多いけれど、空を飛ばないものもいる。小学生のときに隣にいた弟の頭にとまったヤツ(カラス)もいるし、数週間前に僕の頭に糞を落としたヤツ(スズメくらいの大きさの知らない種類の鳥)もいる。というようにいくらでも書き続けることができる。私は「鳥」概念を使いこなしている。
一方で、私があんまり知らないもの、例えば「スターフルーツ」概念についてだが、私はスターフルーツについて、南国の果物で、断面が星型で、シンガポールあたりに売っていて、あまり甘くない、というくらいしか語れない。あまり概念として使いこなせていない。
このような、概念についての説明文は、野矢が行為空間の内外の判断に用いている「概念所有」の程度を指していると同時に、その概念の「典型的な物語」の豊かさの程度と言い換えられるのではないか。そして、概念の行為空間性としての厚みを指すのではないかと思う。
念のための繰り返しになるが、「グルー」概念にも、例えば「野矢先生が本で書いていた概念」という物語がある。どんな概念にも、最低限の物語がある。それが、論理空間には行為空間性としての厚さがあるということだ。

2-06【脱線1:最低限の物語】
最低限の物語の例としては、例えば、「以下同様」の物語がある。
「以下同様」は論理空間を成立させるために必要な最低限の条件であると言える。
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考におけるア・プリオリな秩序は、操作のア・プリオリ性が支えるとされている。そして、その「操作」の根幹に「以下同様」があるとすると、「以下同様」とは論理空間を成立させるために必要な最低限の条件であると考えられる。
その「以下同様」でさえ、ひとつの典型的な物語であらざるをえない。つまり、「○○の概念は、以下同様に、同じように適用できる。」という物語だ。「以下同様」がひとつの物語であるということは、第13回の「以下同様」の議論において、P223で「本性と習慣によって囲い込まれた行為空間において初めて、「以下同様」という言葉は効果をもつ。」とされていることにも示されているのではないかと思う。

2-07【脱線2:典型的な物語とは何か】
ここで、「典型的な物語」というものについて、少し考えてみたい。この「典型的な」という限定は必要なのだろうか。
野矢は、この本の第23回注4P416で、「個体と普遍」の観点からの議論を行なっている。そこで、「個体は特定の相貌でも相貌の集合でもない」としている。つまり、相貌は普遍しか持たず、すべての概念は普遍だということだ。
そして、私は概念、相貌が持つ典型的な物語についての話をしている。つまり、普遍の持つ典型的な物語についての話をしている。普遍だからこそ、典型的なのは当たり前なのではないか。
これは、少なくとも私が今用いている文脈においては、「物語」に「典型的な」「ふつうの」という限定は不要だということを指しているのではないか。
このことは次のように言うこともできるだろう。
物語、つまり言葉で表現されたものとは「ふつうの」ものばかりだ。かなり特別な概念、例えば、野矢のいう隠喩表現「山が笑っている」は、野矢が思いついた時点では、「ふつうでない」ものだったかもしれないけれど、私が「語る」を読んだときには、既に野矢が例示として記載している「ふつうの」隠喩表現としか思えなかった。私にとって特別な一生に一度の燃えるような恋愛だって、そのことを誰かに語ったとたん、「ふつうの」一生に一度の燃えるような恋愛になってしまう。語られてしまった以上、すべて「ふつうの」物語になってしまうのではないか。
ふつうの物語、典型的な物語という表現は冗長なのではないか。よって、今後は、「典型的な物語」とはせずに、単に「物語」と統一することにする。

2-08【論理空間の内側に行為空間があることの疑問】
次の話に移りたい。
野矢は基本的なスタンスとして、論理空間の内側に行為空間があるとしている。また、「行為空間の内と外を分ける明確な境界は存在しない。」としている文脈においても、「論理空間の中に概念所有の「パースペクティブ」があると言った方がよいかもしれない。」としており、少なくとも、論理空間に付随するものとして行為空間を捉えている。私も、これまでの議論では、論理空間に厚さとしての行為空間性が付随している、という意味では、そのイメージを踏襲している。
はたしてそうだろうか。私は、新たに、論理空間を超える行為空間性があるという主張を追加したい。
野矢は、第23回P405において、「現実はつねに、典型的な物語をはみ出している」として、2つのことを挙げている。つまり、「現実は際限なく豊かなディテイルを持つ。」(P406)、「しばしば現実のものごとは典型から逸脱するような性質やふるまいを示す。」(P406)としている。逸脱、ディテイルは、「物語」をはみ出しているということだ。
ここで、概念の行為空間性としての厚みは物語だとしたことを思い出して頂きたい。つまりは、概念と、その概念についての物語が結びついているというイメージを持って頂きたい。
そして、野矢は、物語をはみ出す、と言っている。つまりは、概念とその概念についての物語の両方がはみ出すか、物語だけがはみ出して概念は残るか、ということになる。
どこからはみ出したのか。それは、論理空間からはみ出した、ということになろう。 しかし、論理空間から概念とその概念についての物語の両方が論理空間からはみ出してしまったらどうなるのか。当然、何も語れない。逸脱、ディテイルというようなことは語ることすらできないだろう。
では、論理空間から物語がはみ出して概念だけが残ったとしたらどうなるだろう。先程私が述べた、論理空間には物語という行為空間性の厚みがある、ということに反する。よって、これも採用できない。
ということで、その、逸脱、ディテイルとして、論理空間からはみ出したものは、実は「物語」ではなく、物語られている概念なのではないか、と私は思う。概念がはみ出た結果、論理空間上に、何の概念についてかわからない物語だけが宙に浮いているようなものなのではないか。
それは、いわば、逸脱のケースで言えば「○○は、突然変な鳴き声でくしゃみをする」というように、また、ディテイルのケースで言えば「○○は、グレーと黄色の毛を持つ。」というように、主語は特定されずに物語だけがある、ということなのではないか、ということだ。
そのうち、○○というところに「ポチ」が入り、ポチが、そのようなディテイルを持ち、逸脱をするかもしれない。しかし、ポチと、そのような物語がつながっておらず、何についてのものかわからない「物語」だけが宙に浮いているような状況がありうるのではないか、それが、逸脱であり、ディテイルなのではないかということだ。
これはつまり、「ディテイル」「逸脱」という論理空間上の宙に浮いている物語とは、概念がないので論理空間にはなく、しかし物語を持つので行為空間性はある、という行為空間性だけのおばけのようなものではないか。
この考え方は、第9回注5P161での「存在論的未知」の議論にも適用できると思われる。その議論は、「まだ人類に知られていない昆虫はたくさんいる。」はナンセンスだ、というものだった。これも、「○○は、昆虫として存在する。」という主語を特定されない物語だと考えれば、論理空間上の宙に浮いた行為空間性だけのおばけだと位置づけることができるのではないか。
また、一段の飛躍があるかもしれないが、更には、この考え方は、概念の習得の場面にも適用できるのではないかと考えられる。
つまり、P146で挙げられている「三枚におろす」の例で言えば、「○○とは、昨日、奥さんがやっていた行為だ」とか「○○とは、魚を食べる前に行う行為だ。」とか、「○○とは、骨と身の間にスッと包丁を入れる行為だ」とか、そういう物語おばけが集積され、「三枚におろす」概念とつながったとき、概念を習得するのではないか。
ただし、野矢もP412で「典型的な物語は~網目状に絡み合うものとなるのである。典型的な物語は全体として典型的な物語全体を語り出すものとなる。」としているように、概念の習得の場面には、全体論的な複雑さがあり、少なくとも、主語となっている「○○」という空欄を一つづつ埋めていくような単純なものではない。
野矢が第24回P428で、「(「うまく言い表せない」とは)、相貌誕生直前の、陣痛の呻き声なのである。」としているのは、「山が笑っている」という物語ができる前の、「○○が△△している」骨組みだけの物語がある状況において、○○と△△のどちらも埋められずに、一挙に全体論的に空欄を埋められるのを待ちながら、ただ山を前にして感動している、というような状況を示しているのではないかと思う。
少し脱線してしまったが、いずれにせよ、行為空間性は論理空間を超えうる。と私はいいたい。

2-09【比喩の変更 立体地図から肉の切断に】
私は、これまで、論理空間と行為空間の議論について立体地図のようなイメージで論じてきた。しかし、「論理空間」を超える「行為空間性」があるとしたことで、そのイメージは捨てなければいけない。地図上の地形であれば、富士山のように綺麗な円錐形でなくても、下から上に向かって狭くなっていく。これでは、論理空間の外に行為空間があるということが表現できない。
この立体地図の比喩を捨て去るにあたって、立体地図の比喩について、一つ指摘しておくべきことがある。立体地図を地図にするためには、海抜0メートルのところで切断をする必要があったということだ。つまりは、地図上の本州を論理空間として喩える場合、既に海抜0メートルで切断をしている。野矢の目玉焼きのような論理空間と行為空間の議論のイメージで言えば、立体地図を二度切断し、それぞれの切断面に、論理空間と行為空間が割り当てていたということだ。
そのことを踏まえ、必ず、1回目の切断である「論理空間」面での切断より、2回目の切断である「行為空間」面での切断が小さいものとなっていた立体地図の比喩を捨て、論理空間の外にも行為空間性がありうるような状況を表現するため、1回目の切断より2回目の切断が大きい場合も小さい場合もあるような、別のものを比喩に用いることとしたい。
その比喩として、私がイメージするのはでこぼこな肉の塊が宙に浮いているような映像だ。そして、その肉の塊を包丁で2回切断するイメージだ。または、何かでこぼこな岩か何かをCTスキャンのように2回輪切り映像で見るようなイメージでもいい。
野矢の論理空間と行為空間の議論で言えば、1回目の切断が論理空間にあたり、2回目の切断が行為空間にあたる。立体地図のイメージを踏襲し、必ず下から切っていくとすると、不整形だから、1回目の切断より2回目の切断のほうが大きくなる場合もある。
そのような比喩の置き換えをして、この先の議論を進めたい。

2-10【詳細1:「肉(岩)」とは何か】
ここでいくつか疑問が生じるが、そのうち、2つの疑問を取り上げたい。まず、一つ目の疑問は、そもそも、この肉(岩)とは何なのか、という問いだ。
実は、立体地図の喩えの段階でも、同様に、この立体地図とは何なのか、という疑問はあった。その問いに対しては、論理空間の行為空間性としての厚さという説明をしてきた。その説明自体がその場しのぎだったのだけれど、論理空間がどこだかわからなくなってしまい、行為空間が論理空間を超えることもあるなんて主張を始めたことで、この疑問が際立つことになってしまったと思う。
考えてみよう。この肉(岩)に含まれるものは、今まで述べたところで言えば、論理空間上にある概念と、その概念と結びついた物語と、論理空間上の概念と結びつかない物語のおばけ、それだけだ。
そして、概念と概念の結びつきが物語なのだとすれば、概念も物語の一部に過ぎない。
ということは、そこには物語しかない。
つまりは、肉(岩)とは何か、の答えは「物語」の集まりだ、というものだ。
そして、この物語の塊は、徹頭徹尾、言語的だということを留意しておくべきだろう。

2-11【詳細2:どこが論理空間なのか】
次の疑問は、肉(岩)のどこを切断した切断面が論理空間なのか、ということだ。
立体地図の例えでは、最も基礎となる部分というくらいの意味合いで地図の標高0メートルと言っていた。そのような例えができなくなくなった以上、どうすればいいのか。
私は、行為空間の捉え方については、野矢とは別の考えを持っているが、論理空間の捉え方については、私は異論はない。よって、それを考えるにあたっては、野矢(というか野矢の言うヴィトゲンシュタイン)はどのように論理空間を捉えたのかを考える必要がある。
当面の答えとしては、概念が成立するように切断を行うということになるだろう。ちょうど、切断した断面に沿って、概念が成立しているような切断面が、論理空間にあたる。
それでは、その切断すべき面をどのように見分けるのか。
論理哲学論考のヴィトゲンシュタインがいう、規則、つまり、先程、論理空間を成立させるものとした「以下同様」が手がかりとなる。
私は、先程、「以下同様」とは論理空間を成立させるために必要な最低限の条件であると述べた。つまりは、すべての概念が「以下同様」という物語を持って成立するように切断を行うということだ。
あくまでイメージとなるが、豊かな物語で満たされているが、無秩序でわかりにくくなっている地球の生き写しのような物語の塊に、うまく「以下同様」の物語が薄く広がるようなぎりぎりのところに包丁を入れ、成立する概念と、概念を成立させる物語とに秩序だてられた、簡素な白地図を作ることが、論理空間を成立させるということなのではないか。
まだ、詳細について述べるべきことはあるかもしれないが、とりあえずはこれで、野矢の目玉焼きのような論理空間と行為空間の関係から、物語の塊と、その切断面としての論理空間との関係へと、2次元から3次元への変換ができたのではないかと思う。

「語りえぬものを語る」を読んで 1はじめに

平成24年の冬から春にかけて、私が初めて書いた長文です。
野矢先生の本に触発されて書いたものです。

PDF:kataru

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1-1【はじめに】
野矢が「語りえぬものを語る」(以下、「語る」という。)において行っている議論は、まるで繊細な糸のようだ。
野矢は、多分意図的に、その糸を束ねずに、その繊細なままキャンバスに敷き詰め、絵画のように仕上げようとしている。糸が1本にまとまってしまうことで、糸本来の繊細な美しさを失わせてしまうことを恐れているかのようだ。
「あえて束ねない」これが野矢があとがきで「哲学的風景をともに見てもらう」と表現しているスタンスなのではないか。
しかし、私は、あえて、私なりにこの糸のうちの何本かをキャンバスから剥がし、束ねてみたい。
多分、野矢も、そのような姿勢を読者に期待しているのではないかと思いつつ。

1-2【論理空間と行為空間】

 この本から、論理空間と行為空間の議論を中心に、いくつかの糸を取り出し、束ねることにする。
まず、「論理空間」についてであるが、この概念は「語る」の第1回から登場する。
(なお、この文章では、「概念」という言葉を、現実に書き留められた文字列のような意味で使ったり、頭の中にイメージしたアイディアのような意味で使ったり、と、あまり、明確な意味合いで使うことができていない。他にもそのような不正確な言葉があるかもしれないがご容赦いただきたい。)
「語る」における「論理空間」とは、ウィトゲンシュタインの論理哲学論考に沿ったもので、可能な事実の総体、最も広い意味での可能性である論理的可能性の総体のことである。
一方で、「行為空間」についてはかなり進み、第11回P183において、それまで議論の中心となっていた「相対主義」とバトンタッチするように初登場する。
「行為空間」の導入までの経緯はこうだ。まず、「行為空間」が導入される直前の第10回で、ネルソン・グッドマンが考案したグルー概念が紹介され、グルー概念は、ブルーやグリーンといった用語を用いた定義が可能なので、翻訳可能であるが、体がついていかず、理解不可能な概念だとしている。そして、第11回に入り、グルー概念は、翻訳可能であることから論理空間に含まれる概念ではあるが、グッドマンに言われなければ思いつきもしなかった、実際には一顧だにされなかった概念であり、グルー概念は所有していない概念であるとしている。そして、所有していない概念を使用する可能性は「死んだ可能性」だとしている。他にも、「死んだ可能性」として、隕石が落ちるというような習慣によって無視される可能性、お札が勝手に増えるというような世界像・探求の論理(指針)に対する疑いが挙げられている。一方、私(野矢)の行為に関わる可能性は「生きた可能性」であり、「論理空間の中で生きた可能性によって作られる部分空間を行為空間と呼ぶ」としている。P209では、そのことをまとめて「行為空間は、①概念所有、②習慣による囲い込み、③世界像、という三つの観点から制限を加えられた論理空間の部分である。」と述べている。