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うちのネコのこと ~チーズ編~

僕の家にはチーズというネコがいる。

僕の家には、チーズとタックンという二匹のネコがいる。あまり固有名詞を書くと身バレしてしまうかもしれないけれど、名前をきちんと書き残しておくことは、身バレのリスクよりも大事なことのように思えるので、あえて書き残しておくことにする。

この文章で書き残しておきたいのは、二匹のネコのうちチーズのことだ。実は今、チーズはうちにはいなくて入院している。心筋症という病気なので、どんなにすべてが良く転がっても、長くても数ヶ月の命だということがわかっている。だから、僕の家にはチーズというネコがいる、と現在形で書いていいのかわからなくなる。僕が書き残したいのが、チーズが元気だった頃のことだから、余計にわからなくなってしまう。だけど、あえて現在形で書いておくことにする。もしかしたら、今後、数ヶ月であっても、おまけのご褒美のような日々があるかもしれないからだ。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

だけど、もしそうならなくても、十分、彼女(チーズは女の子)には楽しませてもらった。これからは彼女の好きにしたらいいと思う。彼女が生きようとする限り、僕と妻は、それをサポートするだけだ。この思いは、実際に近くにチーズというネコが今いるかどうかはあまり関係ない。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

チーズの体調のこと

僕は以前、飼っていた別のネコについての文章を書いたことがある。『ハナの死で考えたこと』http://dialogue.135.jp/2018/03/17/hana/という文章だ。

今は読み返したくないのであやふやな記憶だけど、この文章の中心は彼女(ハナちゃんも女の子)の調子が悪くなってからのことが中心だったと思う。一方で、この文章で僕が書きたいのはチーズが元気だった頃のことだ。

だけど、とりあえずの記録として、ハナちゃんと同じように、チーズの調子が悪くなってからのことも書き残しておく。本編は元気だった頃のことなので、そこまで読み飛ばしてください。

さて、チーズの体調に関係ありそうな話は出生の頃まで遡る。チーズは、妻の知人の知人が赤ちゃんネコを保護し、ハナちゃんがいなくなって寂しがっていた妻が譲り受けてきたネコだ。妻が聞いたところによると保護の経緯は、路上に可愛そうな赤ちゃんネコの死体があると思ったら生きていた、というものだったそうだ。死にかけネコだ。きっとチーズの体調の悪さはこのあたりにも起源があるような気がする。(チーズという名前は、保護した家の子供が名付けたそうだ。)

なお、うちに来たときは、もう1歳近くなっていて、死にかけの赤ちゃんネコではなくなっていたけれど、痩せて小さいネコだった。その頃から元気いっぱいという感じではなく、ご飯もあまり食べない子だった。

その後はご飯を食べないながらも元気にしていたけれど、昨年の秋頃、つまりチーズが多分5歳半くらいの頃、突然まっすぐに歩けなくなり、足をひきつるような感じになってしまった。あわてて救急病院に連れて行ったところ、アンモニアが高いということだった。原因がわからないのでアンモニアを下げる薬を飲ませたところ、時々、同様の症状は出るけれど、最初のときほど長時間ではなかったので、てんかんか何かと思い、様子見していた。なお、今もその理由はわからない。

そのような状況が半年ほど続き、今年のゴールデンウィークの前半、ネコの世話は娘に任せ、久しぶりの夫婦での3泊旅行から帰ったところ、どうもチーズの様子がおかしかった。苦しいような、怒ったような、変な感じだったのだ。だが、時間が経つと元に戻ったので深くは考えず、連休明けに一応病院に連れて行こう、と妻と話していた。ただ、ふたりとも、なんとなく、この数ヶ月、元気がどことなくないような感じはしていた。

そして連休明け、ちょっと遠くの専門的な感じの動物病院に妻がタクシーで連れていったところ、待合室でいきなりパニックのようになり何回も吐いてしまった。その結果、誤嚥性肺炎になってしまった。そして、肺炎の検査をするなかで、心臓も心筋症の疑いがあるということが判明した。

月曜日にパニックになり、そして1週間かけて徐々に調子が悪くなり、木曜日にはレンタルした酸素室の中に入れても見ていられないほど息苦しそうになってしまった。妻は連日のように病院に連れていき、誤嚥性肺炎の治療をしていたけれど、今日、金曜日になって、ようやく、息苦しいのは、誤嚥性肺炎だけでなく、主に心筋症による胸水のせいだということが判明した。そして今は、胸水を抜いた経過観察のために、チーズは入院している。

胸水がたまるほどの心筋症というのはかなり深刻だ。ネットで調べた限りでは、うまくいけば数ヶ月生きる可能性はあるが、すぐにでも心臓が止まって突然死してしまう可能性もある。更に誤嚥性肺炎があり、多分肝臓のせいでアンモニアが高いということも考えると、チーズは満身創痍だと言っていいだろう。かなり厳しい状況である。

以上がチーズの体調についての記録だ。

このように書いてみると、ハナちゃんのときは僕が看病でがんばったけれど、チーズについては妻ががんばっているので、これはほぼチーズと妻についてのストーリーだと言ってもいい。だからこれは、書く権利がない者が、それでも書かずにはいられないから書いた、排泄物のような文章にすぎない。

排泄物と表現したけれど、僕がこのようなことを書いているのは、もう二度とこのことを書かないで済むようにするためだ。

書くことで、今後は、その書いたことについて思い出さなくて済むようになる。なぜなら、あえて思い出さなくても、ここにそのときの記憶が保存されるからだ。文章として、まるで剥製のようにチーズの記憶を残しておくのは、悪趣味かもしれないけれど、僕なりの過去との折り合いの付け方である。

あともうひとつの理由として、似たような症状のネコを飼う飼い主のなにかの役に立つかもしれない。

チーズの紹介

 さて、いよいよ、チーズが元気な頃の話に移る。

 うちには、チーズとタックンという二匹のネコがいるけれど、チーズは妻に懐いていて、タックンは僕に懐いている。だからチーズはいわば隣のネコだ。だから、やはりチーズが元気な頃の話も妻の方に書く権利がある。僕は傍観者として、チーズの元気な頃の記憶を剥製として残すような作業をしている。そうしたくなるほどには僕も傍観者として落ち込んでいる。

 ただし、チーズが元気な頃の話をすることの意義は、それだけではないような気もしている。もう少しマシな意味がどこかにあるような気がしている。そんなものが本当にあるかどうかを確かめるためにも書き進めてみたい。

 さて、まずはチーズのことを紹介しておきたい。誰かが飼っているネコのことなんて知りたくないと多くの人は思うだろうけれど、奇特な人はいるかもしれないし、僕自身のためになるし、こうやって書き連ねていくうちに、なにか気づくことがあるかもしれない。

 チーズは6歳のハチワレで、体重が3kg少々しかない小さいやせっぽちのネコだ。しっぽは短くて、手足が白くて、鼻と肉球はきれいなピンクで、キョトンとした顔をしている。妻はその顔の可愛さにやられて連れてきたようだ。

 さきほども書いたけれど、食が細くて、元気なときでもなかなかご飯を食べない。チュールくらいは嬉しそうに食べるけれど、それほど量は食べない。唯一、猫草は嬉しそうに食べる。もう一匹のタックンも猫草が好きだから、このときだけは奪い合いになる。だから、僕が猫草を摘んで帰ったときは、なぜわかるのかは不明だけれど、玄関から出そうになって二匹で待っている。僕はそれをどかしてうまく家に入る。草が好きだからか、ベランダにあるオリーブの木の葉も、どこまで飲み込んでいるかはわからないけれど、バリバリと引きちぎる。

 ただ、猫草を食べても食べなくてもだけど、しょっちゅう吐く。だいたい、ドライフードが膨らみすぎてしまったときに吐くようだ。胃が小さいのかもしれない。それが少々心配だったけれど、今や心臓や肺が大問題なので、それは杞憂だったということになる。

 警戒心が強くて来客があっても絶対に出て来ない。宅急便がインターフォンを鳴らすと「ウ~」と唸る。

 声も独特で、可愛い顔なのに「ウギャ」という感じの濁点が多めのダミ声で、声が大きい。ゴロゴロするときの音も大きくて、チーズが隠れていても、ゴロゴロする音でどこにいるかわかるほどだ。

 本ニャンは公表してほしくないかもしれないけれど、チーズは脱腸気味だ。時々お尻をシーツにこすりつけ、赤い筋を書く。やめてほしい。

 チーズはタックンと仲がいい。先にチーズが来て、一匹じゃ寂しいかと思ってタックンを2ヶ月後くらいに迎え入れた。タックンのほうが大きいので、じゃれながら喧嘩になっていくとチーズが折れるかたちにはなるが、基本的に、チーズのほうが先住猫としての威厳があるように思える。年齢は逆だけど、力がある弟を、「仕方ないなあ」と見守る姉のような感じだ。

 だから寒いときはくっついて丸くなっているし、互いに毛づくろいもしている。タックンがチーズの頭を押さえてペロペロ舐めるから、チーズの眉間のところはツバ臭いことが多い。

 チーズは人間が好きなネコだ。よく妻の顔にくっついて寝ているようだし、妻がいないときなどは僕の股の間で寝ることもある。僕は寝相が悪いので僕が寝たあとはどこかに行ってしまうようだが、妻の顔のところで寝ているときは、朝までそのままのこともよくあるようだ。

 人間が集まって話していると、そこがテレビの音などでうるさくない限り、必ず近くにいる。人間が食卓を囲んでいるときだけは不思議といないことが多いけれど、それ以外はだいたい近くにいる。僕がパソコン椅子からベッドに足を投げ出していると、二匹が奪い合うように膝に乗ってくる。チーズはベストな場所をタックンにとられて、その隙間に潜り込むように座っている。妻がソファーに横たわってテレビを観ているときも同様だ。

 二匹はだいたい一緒にいて、妻の観察によれば、最近はたいてい、午前中は僕のベッドに二匹でいて、午後は妻のベッドに二匹でいるようだ。

 あと、チーズは器用なネコだ。引き戸をすぐ開けられるようになったし、小さい頃はよくボールをドリブルしていた。紐のおもちゃで遊んでいても、タックンは捕獲しようとする感じだけど、チーズは手でうまく挟んでキャッチしようとする。チーズの手が人間みたいだったらいいのになあ、と思う。

 どうでもいいネコ自慢になってしまうけれど、チーズは仕草がかわいい。ベッドの上に手だけを出しておもちゃを攻撃してみたり、レンジフードの上に置いたダンボールから顔をのぞかせたりする。(レンジフードを踏み台にして天窓に登ってしまうと危ないのでダンボールで封鎖しているのだ。)パソコンを使っていると、たいてい僕でも妻でも邪魔をしにきて、キーボードの上に乗る。だから、謎の文字が入力されてしまう。それはそれで困るけれど、とてもかわいい。

 一人遊びも上手で、ネズミのおもちゃを咥えて、ウ~と唸りながら僕や妻のところに持ってきてくれる。偉いね~と褒めると満足そうにしている。妻が洗濯物を干して、2階のベランダから1階に空のカゴを持って下りるときは、そのなかに入る。妻はそれをネコエレベーターと呼んでいる。妻が洗濯物を畳んでいると、バスタオルに勝負を挑み、ケリケリする。

 ひとつひとつは、ネコならよくあることなのかもしれないが、全体として、チーズは控え目で仕草がやさしいのだ。あまり野性的じゃない、と言えばいいのだろうか。

 だから、妻が爪を切るときも協力的だし、妻に目やにを取ってもらうのも好きだ。印象深いのは、チーズと紐のおもちゃで遊んでいるときのことだ。すると、たいてい、体が大きいタックンが割り込んできて、おもちゃを奪ってしまう。そんなとき、チーズは不満そうに「フッ」と息を吐いて少し離れる。それはまさに、仕方ないなあ、と弟におもちゃを譲る姉の仕草だ。

 控えめだけど、決して運動神経は悪くない。以前飼っていたハナちゃんは生まれつき体が弱かったのであまりジャンプもできなかったが、チーズは体が小さいせいかそこそこ身軽だ。若い頃は吹き抜けの天窓まで上がることもあったし、今も虎視眈々と食器棚にジャンプして入ろうと狙っている。そして数日に一度は侵入を許してしまい、皿にはネコの毛がついている。チーズは体重が軽いので、階段の上り下りも軽やかだ。タックンだと、トントントンと音がするけれど、チーズの場合はトコントコンという音がする。調子が悪くなる直前、スケルトン階段の下から階段を下りるチーズを眺めていた一瞬を忘れたくない。まるで空を飛んでいるみたいだった。

 そして、一番のチーズの特徴は、よくしゃべるということだろう。ハチワレはよくしゃべるというけれど、チーズは本当によくしゃべる。啼く、ではなく、しゃべるのだ。チーズが前で待っているのでベランダに出る戸を開けてあげると、必ず、「ニャッ」と言いながら外に出る。明らかに僕に軽く声をかけている。チーズは脱腸気味なので時々お尻を拭いてあげると、「ニャー!」と一声だけ怒る。これは明らかに「やめてよ、もう」と怒っている。僕はあまりやらないけれど、妻が何か話しかけると、よく「ウニャウニャ」と相づちを打つ。また、チーズが何かを話しかけてきて、妻が「そうだね~」と相づちを打つこともよくあるそうだ。僕もよく目撃しているけれど、確かに会話をしているようにしか見えない。

 よくしゃべるからだろうか。チーズは頭がいいように感じる。特に印象的だったのは、僕がタックンを予防接種に連れていったときのことだ。妻によれば、チーズは妻の回りをグルグルと回り、僕とタックンが立ち去る方向に向かってニャーと啼いていたそうだ。それはまるで、「ママ、タックンが連れてかれた~!」と訴えているようだった、とのことだ。

妻とも意見が一致しているけれど、チーズは一言で言うと不思議なネコだ。不思議なほどに色んなことがわかっている。当然、ひとつひとつの仕草はネコなのだけど、すべてをつなげると、かなり人間味があるし、言葉が通じない分、しばしば人間より賢いのではないかと思わせるような存在だ。妻は妖精で天使だと言っている。

執着がなくて儚げで、控えめで優しい存在。この家にちょっと訪問してみました、という感じで数年間滞在してくれているような存在。それが僕にとってのチーズ像だ。

チーズの生命

チーズは病気の特性上、長くてもあと数ヶ月しか生きることはできない。状況はもっとひどいから、遅かれ早かれ、命が尽きようとしている、と考えた方がいいだろう。

だけど、チーズは今まで5年間、我が家にいた。そして今もいる。この生きてきて、そして今も生きているチーズとは一体何なのだろう。チーズが元気だった頃のことを現在形によって書くことで、そのことを僕は考えておきたい。今が、チーズのことを現在形で書き、考えることができる最後のチャンスかもしれない。

チーズの生命は二通りに捉えることができるだろう。チーズ自身にとってのチーズの生命と、僕たちにとってのチーズの生命だ。一人称の生命と二人称の生命と言ってもいい。

僕たちにとってのチーズの生命とは、多分、幸せの塊のようなものだ。そして、チーズとは、僕たちにその幸せを届けてくれる天使のような存在である。もう一匹のタックンも当然僕たちを幸せにしてくれている。けれど、彼はネコっぽいネコなので、勝手に自分自身が幸せになり、僕たちも勝手に幸せになっている、という感じがする。一方のチーズは、チーズがいることで僕たちが幸せになることを、チーズ自身が自覚していて、意図的に僕たちを幸せにしてくれているような感じがする。その意味で「幸せを届けてくれる」という表現がふさわしい。だから天使なのだ。

そして、僕たちも、その幸せの受け手としてふさわしい存在であると思いたい。僕も妻もチーズの具合が悪くなるまできちんと話し合ったことはなかったけれど、ともに、チーズが元気である限られた時間のなかで、その瞬間ごとの幸せを受け取ることに自覚的であろうとしていた。そうすることで、チーズが届けてくれるものを漏れなく受け取ろうとしていた。チーズが横で寝てくれている瞬間、チーズが挨拶してくれている瞬間、そんな瞬間ごとをかけがえのないものとして受け止めようとしていた。そして、僕たちはきちんと受け取ることができた、と信じたい。

チーズがいてくれていた5年間は我が家の黄金期と言っていいと思う。子供の病気など色々ありはしたが、家があって、そこに人間3人とネコ2匹の家族がいて、仕事にも不安はなくて、介護の問題もなく、物質的に充実していた。今後も別のかたちでの幸せはあるだろうけれど、この5年間は、中年の僕たちに典型的な人生の充実期だったのだろうと思う。チーズを失おうとしている今、これはチーズが運んできてくれた期間限定の幸せなのだろうなあ、と噛み締めている。僕たちは次のフェイズに進み、そこで、チーズ抜きでも別な形で幸せになれるということをチーズに見せてあげたい。

チーズは5年間、僕たちを見守り、応援してくれ、そして幸せを届けてくれた。それが少なくとも今までのところでのチーズの生命の僕たちにとっての意味のような気がする。

では、チーズの生命のチーズ自身にとっての意義とはどのようなものなのだろうか。

まず言えることとしては、チーズが僕たちに幸せを届けてくれているのと同様に、僕たちもチーズを幸せにしていると信じたい、ということがある。チーズの生命とはチーズ自身に幸せをもたらすものであって、その幸せを僕たちが手助けできていればいいなあ、と僕は願う。

だが、チーズの生命は、チーズ自身にしか捉えることはできない。それは当たり前のことなのだけど、加えて優しく控えめだという彼女特有の性格もある。彼女の病気は心筋症という先天性のものだ。だからチーズは自ら寿命を決めているとも言える。多少看病の仕方に不手際があって、僕たちが彼女の寿命を縮めてしまったということはあるかもしれない。強制給餌をもっと丁寧にすればよかったとか、もっと早く診察すればよかったとか、後悔はある。だけど、それは多少の誤差であって、おおむね、彼女は自らの生命のあり方も自らで選ぼうとしているように僕には見える。チーズはこんなところまで、僕たちに配慮してくれて、優しいのだ。彼女は、不手際を後悔している僕たちに、「関係ないよ。私が決めたことだから大丈夫だよ。」と言ってくれているような気がする。

そのような事情もあり、結局、チーズの生命とは何か、という問題はチーズがあえて自分自身だけで背負っている問題であり、彼女自身にしかわかりえないものである。そこにはいわゆる一人称特有の問題がある。

人間同士であれば、考察はここで終わるか、または哲学的な方向に進むだろう。だが、チーズはネコであり僕たちのペットであるとともに、僕たちにとっては天使のような、妖精のような存在だ。そんなチーズに対しては、もう少し語ることがあるような気がする。

まず、チーズはペットであり、まさに子供のような存在であり、僕たちが保護し、面倒をみてあげるべき存在だ。だから、チーズの生命とは何か、という問題については僕たちが答えを出してあげなければならない。それは生命の冒涜ではなく、僕たちとチーズはそのような関わり方しかできないのだ。

もしそうならば、僕たちは、チーズの生命を幸福で定義するしかないだろう。僕たちがチーズをどれだけ幸せにし、そしてチーズがどれだけ幸せそうにしているかでチーズ自身の生命の意義は決まる。僕たちはそうするしかないし、チーズはそうされるしかないのだ。これがひとつの答えである。

更に、チーズは単なるペットであるだけでなく天使で妖精でもある。彼女は単なる動物ではなく、僕たちにとって彼女は僕たちに幸せを届けてくれる存在であり、幸せの使徒のような存在だ。それならば僕たちは彼女をそのように処遇しなければならない。

幸せの使徒としてのチーズを信じるならば、僕たちはどこまでも、チーズ自身にとってのチーズの生命とは、幸せの使徒としての生命であると信じなければならない。それならば、幸せの使徒たるチーズの生命を輝かせるのは、やはり幸せによってであるはずだ。チーズのおかげで僕たちが幸せになり、その幸せをチーズに感謝し、その幸せをチーズに返すことによってこそ、幸せの使徒であるチーズ自身の生命はより輝くはずだ。

つまり、チーズがペットであるにせよ、幸せの使徒であるにせよ、いずれにせよ、チーズにとってのチーズ自身の生命とは、幸福により定義されるものなのである。そして、その幸福とは、決して漠然としたものではなく、僕たち家族が具体的に把握し、判断することができるものなのである。

明らかにチーズは僕たちに幸せを届けてくれている。病院の酸素室で息苦しくしているだろう今だってそうだ。彼女がいるからこそ、僕はこの幸せな5年間を噛みしめることができている。この文章は、チーズに対する感謝の手紙だ。この気持ちが彼女に届くといいなあ、と僕は願っている。そう願うこと自体が僕を幸せにしてくれる。

そして、同じように、チーズに幸せが届いていればいいなあ、と僕は願う。僕たちがしたことによりチーズが幸せになっていて、そして僕たちに感謝してくれていて、その感謝の表現こそがチーズが僕たちに幸せを届けるということだといいなあ、と僕は願う。

つまり、僕の願いは、僕たちとチーズの間で幸せの循環が成立している、ということである。お互いに、幸せにしてくれたことに感謝し、互いを幸せにしようとするという、まさにその営みこそが、幸せである、という意味での幸せの循環である。

つまり、チーズが幸せの使徒であると考えるならば、僕たちもチーズにとっての幸せの使徒にならなければならないということである。そして、ある程度まではそれを成し遂げているということである。

これは根拠のない単なる願いだけど、そう的外れなものではないと思う。僕たち家族はそのような関係を築けていると信じたい。そして僕自身は、幸せの使徒として、もっと幸せを感じ、もっと感謝し、もっと幸せを届けられるよう成長したい。そうでないとチーズに不釣り合いだ。チーズに笑われてしまう。

風の谷のナウシカの漫画の感想

※2300字くらいです。完全ネタバレ注意です。

昔、ほぼリアルタイムで読んでいたのだけど、ふと読みたくなって全巻を買い直した。

昔読んだときの感想は忘れたけれど、今回の感想を一言で言うと、この本の主題は、「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」というものだ。前のときはそうは感じなかった気がする。読むたびに感想がかわるというのはいい本の証拠だ。

さて、僕の勝手なランキングだと、この本に出てくる、他の人(生き物)に影響を与えた人(生き物)トップ10は次のとおりになるだろう。

10位 シュワを吹き飛ばした巨神兵
9位 ナウシカの後日談として国を治めたクシャナ&チクク
8位 200年前に土鬼をつくったナウシカに似た初代皇帝
7位 たくさんの街を飲み込んだ巨大粘菌
6位 戦争を引き起こしたトルメキア王
5位 蟲と瘴気を武器に使って大海嘯を引き起こした土鬼の皇弟
4位 何度も大海嘯で腐海を広げた王蟲たち
3位 シュワの墓所を作って悪用される技術を後世に残した人
2位 シュワの墓所を破壊したナウシカ
1位 火の七日間を起こした昔の人
番外 悪人だけど登場が遅いからあまり人を殺してない土鬼の皇兄

このなかには、クシャナ&チククのように良い影響しか与えていない人もいるし、トルメキア王や土鬼の皇兄や火の七日間を起こした昔の人のようにほぼ悪い影響しか与えていない人もいる。また、最初は良い人だったのに途中から悪い人になってしまった初代皇帝と皇弟のような人もいるし、ナウシカやシュワの墓所を作った人のように、良い悪いの判断がつきにくい人もいる。

だけど、この本は、そんな評価はどうでもよくて、それがとにかく生きるということなんだよ、と言っているように僕には思えるのだ。

1位はともかく、2位のナウシカと3位の墓所を作った人に着目して考察してみよう。

ナウシカは物語の終盤まで、人を殺したくない、人が不幸にならないようにしたい、いや人以上に腐海の生き物たちを殺したくないし、不幸から救いたい、そう思って行動をしている。だけど、大海嘯に飲み込まれ、巨神兵に出会ったあたりから、ナウシカは大きく変わっていく。
例えばナウシカは、何千、何万の人の死をすでに見てきたのに、一匹のキツネリス(テト)の死を悼む。それはエゴだとしりつつ、そのエゴこそが生きるということだと気付いていく。

そして、最終盤、ナウシカはシュワの墓所との対決に赴く。
ナウシカは、シュワの墓所を作った人たちが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということを見過ごしていると断罪する。数千年前の一握りの人間のアイディアにより、何千年もの生命の営み、つまり生命相互の影響のやりとりをなかったものにして、すべてを消し去って、再び予定どおりの生命のプロセスを再開させるなんて傲慢だ、ということである。そしてナウシカは墓所を破壊する。

だけど、物語のラストでナウシカは、墓所と王蟲とに同じ血が流れていることに気づく。つまり墓所も生命のひとつだったということだ。考えてみれば墓所とは、何千年も前の人々の生命の営みの結果としてつくられたものである。墓所さえも「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」という原則からは離れることはできなかったのである。そして、それを破壊したナウシカも当然、他の生命に大きな影響を与える、という意味ではほぼ同等のことをやっている。そして王蟲たちも、大海嘯を引き起こしてほぼ同等のことをやっている。先ほどのランキングに入ったような登場人物(生命)たちは以下同様である。

きっとナウシカはどこかのタイミングでそのことに気付いていたのだろう。自分や墓所を作った人たちを含めたすべての生命の愚かさと力強さを慈しみながら、あえてそのような行動をしたのだろう。それが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということであり、ナウシカ自身が生きるということだから。

哲学的には、風の谷のナウシカとは、人を殺してはいけないというようないわゆる道徳から脱道徳に向かう本だということになるだろう。脱道徳というかたちの倫理があるのなら、道徳から倫理に向かっているとも言える。
ナウシカにおける倫理とは、変化だと僕は思う。現状に安住せず、前に進むことこそがナウシカの指針である。だから何千年も前の計画をただ実行しようとする墓所は破壊される。
そして変化は他者への影響を伴う。他者への影響を恐れていては変化することはできない。そしてその変化の責任を負うことこそが成長である。だからナウシカは巨神兵や蟲使いの従者たちといった者たちの責任を負っていく。終盤においてナウシカが母のようになっていくのはそのためである。そして、親になった僕がそのことに気づくのも必然なのだろう。

・・・

おまけ感想。

7巻の最後のほうは、コマ割りが詰め込みすぎのように感じた。多分早めに終わらせたかったんだろうなあ。ラストはもう少しゆったりと描いてほしかった。あと10ページあれば。

昔の人が墓所にどのような役割を持たせたかったのかがよくわからない。浄化後の人類を保管しているだけなら、変に科学技術を漏らさずひっそりとしていればいい気がするし。浄化中の中継ぎ人間(ナウシカたち)も多少は文明の恩恵が得られるよう、優しさから知的活動を維持しようとした、ということなのかなあ。エサ(新たな知識)を小出しにすることで。

ウクライナのこと

いつもは哲学が最優先で、他に大きなニュースがあってもいずれ哲学に戻っていくのだけど、今回はそうもいかないのでここに吐き出しておく。全く哲学な話ではないし、政治素人の特に目新しいこともない話なので、読む価値は全くない。ご承知おきを。

僕が気になって仕方ないのは、当然ウクライナ侵略のことだ。

ウクライナで起こっていることは、多分、死者の数や被害の大きさでは飛び抜けて酷いことではないだろう。これまであった、そして今現在も起きているだろう中東やアフリカでのよく知らない出来事のほうが、よほど悲惨なものである可能性が高い。世界がウクライナに注目するのは、そこで苦しんでいるのが白人だからであり、そして悪のプーチンと善のウクライナ市民の対決というエンターテイメント性があるからではないか、と勘ぐってさえしてしまう。

だけど、やはり僕もウクライナのことが気になる。それはなぜかといえば、ロシアという国連常任理事国が、政情不安でもない国に対して、直接、首都にまで攻撃するというのが衝撃だったからだ。そして、そのような蛮行に対して、国際社会は、経済制裁以上のことができないということが露呈したからだ。これは第二次世界大戦以降、初の事件だと思う。

今回のことから、NATOや日本や韓国などのアメリカと直接軍事同盟を締結している国でなければ、アメリカは軍隊を動かさないということが明らかになった。加えて、軍事同盟を締結していたとしても、そう簡単には助けてくれないだろう、ということも明らかになった。

独立国家ウクライナ相手でいけるなら、中国の一部である台湾はもっと危ない。明確にアメリカと軍事同盟を結んでいないベトナムもやばい。日本だって、日本人が何人も戦い、死んでいかなければ、アメリカはきっと助けてくれない。

僕の中に、ベルリンの壁崩壊以来、すっかり忘れていたあの感覚が蘇ってきている。僕たちは常に(内戦状態にあるなどのきっかけがなくても)突然、日常を奪われる可能性に直面しているのだ。

そして今回僕が学んだのは、このようなときに大事になるのは「物語」だということである。プーチンやトランプには本当にやばいことをやるかもしれないという物語があるし、ウクライナ軍には祖国を愛し、勇敢に戦うという物語がある。僕は当然反トランプだけど、残念ながらバイデンには鈍重で扱いやすいという物語しかなかったのだろう。人が紡ぐ物語が複雑に絡まり合い、政治は思わぬ方向に進んでいく。

専門家は、軍事力を比較したり、経済制裁時の世界経済への影響を考慮したり、地政学的な影響を分析したりするけれど、なかなかそのとおりにものごとは進まない。なぜそうならないかといえば、そこには理性ではすくい取れない感情があり、人間の生き様があるからなのだろう。

重要となるのは「物語」つまり、他者、この場合は世界からどのように見られているか、という視点である。僕たちはプーチンの心の中は読めないし、ウクライナ軍人ひとりひとりの人生も知らない。だけど、僕たちはプーチンに狂った独裁者、または強いロシアを回復しようとするしたたかな政治家という物語を読み込むし、ウクライナ軍人には絶望的な状況でも勇敢に戦う愛国者という物語を読み込む。物語が悪い方向に働けば、(ナチスドイツのチェコ併合のように)プーチンの暴走を止められないという事態を生み出すし、良い方向に転がれば、SWIFTからのロシア排除のような動きにもつながる。(僕は、損得勘定だけではなく、ウクライナ国民の努力が世界を動かしていると信じたい。)

だから、今回のことで僕が気づいたのは、(僕自身も含めて)人は、他者にどのように見られているかを、もっと気にするべきだということだ。人は、他者にとっては、物語の演者である。他者に働きかけるうえでは、わかりやすく、心に訴えるような物語を紡ぎ出すことが有効だ。政治家のような人ならなおさらだ。トランプのようなポピュリストが成功するのはそのためだし、ジョブズのようなプレゼンがうけるのもそのためだ。そして、それは生半可にできることではない。ときにはウクライナ軍人のように命をかけなければ、他者を動かすような物語を紡ぐことはできない。その点で僕は、日本の政治家にも、日本人にも、僕自身にも不満がある。例えば、僕たちは、安全安心で健康で幸福になれるような制度や年収というような静的な状態ではなく、活き活きとした予測不可能な物語をもっと大事にしなければならないのではないか。

もうひとつ、僕が感じているのは、こんなときでも僕は僕自身ができることをするしかない、ということだ。僕が構想しているのは、このサイトにあるとおり「対話の哲学」だ。対話の哲学というからには、プーチンのような独裁者とは反対の立場を表明するものとなるだろう。対話の重要性についての説得力を高めることは、権力者の独断に制限を加えることにつながりうるはずだ。

つまり、僕が哲学をすることは、ひいては、僕が望むような世界をつくりだすための営みともなりうる、ということである。だから、僕が哲学をするにあたっては、ウクライナの人たちを思うことはモチベーションになりうる。今回のことはそのように僕自身と結びつけることもできる。

だが、それはそれでいいことではあるのだけど、実は余計な夾雑物であり、僕の哲学を変質させてしまうのではないか、という危惧もある。実は、僕は僕の哲学に、あまり倫理的な含意を込めたくなかったのだ。だけど、今回のことで、ちょっと気持ちが変わりつつもある。

そんな迷いはあるけれど、ここで吐き出したので、とりあえず哲学のほうに頭を切り替えよう。

スノーボードのこと

※2000字くらいですが、それにしても読者が得るものがなさそうな文章なのでスルーして結構です。

全く哲学ではないけれど、自分のことが少しわかったので、うれしくて書き残しておくものです。だから、僕に興味がある人(つまり僕)以外は読まなくていいです。

今、冬季オリンピックがやっているけれど、僕は平野歩夢のハーフパイプでの金メダルの滑りをきちんと見ていない。

まあ、スノーボードに興味がなければ普通のことだけど、僕は20代の頃、スノーボードが好きで、あんなオリンピックサイズじゃないけれど、ハーフパイプに入ったこともあるから、それは普通のことではない。

(僕は運動があまり得意ではないけれど、スキーは子供の頃からやっていたので、その流れでスノーボードも好きで、黎明期のスノーボードにはハマっていたのだ。)

僕は小さなハーフパイプに入ったことはあるけれど、あれは怖い。まずハーフパイプに入るためには、崖のようなところを真下に滑っていかなければいけないのだけれど、それが結構怖い。そしてガリガリに固められた氷のようなところを失速しないように滑るのも難しい。そして、その勢いを殺さないように壁のようなところを上がっていくのが更に難しくて怖い。

怖いから無意識にスピードを殺してしまい、壁の一番上まで登って、その上に飛び出すことなんて結局できず、壁を登る途中でパタッと向きを変えて滑ることくらいしかできない。

だけど、そのときにわずかに感じる浮遊感が気持ちいいのだ。体が横になりながら斜め上に浮かび上がるような、ちょっと他では味わえない感覚である。ジャンプ台から飛び立つのが縦の浮遊感だとしたら、ハーフパイプの浮遊感は3Dの立体的浮遊感という感じだろうか。その浮遊感は30年近く経った今でも覚えている。

それを感じたくて何回かハーフパイプに入ったけれど、20代半ばになり、怪我をすると色々と支障が生じる立場になり、また、自分の運動神経のなさを思い知ったので、そういうのはやめることにした。

このくらいのことは語れるくらいだから、オリンピックのハーフパイプ競技くらい見てもいいと思われるかもしれない。だけど、僕は見たくないのだ。あれは、僕が好きだったハーフパイプではない。

平野歩夢がリップ(ハーフパイプの縁)から飛び出る瞬間は心が踊る。あんなに高く飛べたらどんなに気持ちいいだろうかと思う。だけどそこからすぐにハーフパイプは高飛び込みかフィギアスケートのように回転数を競う競技になってしまう。くるくる回る平野君を見ていて、あんなの全然気持ちよさそうじゃないしクールじゃない、と感じてしまうのだ。

いや、きっと平野君はクールなのだろう。クールじゃないのは、オリンピック競技化したハーフパイプだ。僕がハーフパイプに求めていたのは、1cmでも高く飛び、より浮遊感を感じることであったはずだ。そのうえで、見たこともないようなグラブを決めたり、ひねりや回転を加えたりして、周囲に自慢することはあってもいい。だがそれは、浮遊感を感じる余裕を周囲に見せつけるためのトッピングであり、ちょっとした遊びの要素に過ぎない。ハーフパイプはおろかワンメイク(ジャンプ台から飛ぶこと)でもグラブなんてできなかったけれど、目指すべき理想としては、そのように思っていた。

そんな理想から遠くかけ離れたハーフパイプなんて見たくない。僕が好きなのは、スキー場の脇にある、誰にも注目されることのない小さなハーフパイプなのだ。

なお、僕は小学生の頃スイミングスクールに行っていたので水泳も好きなのだけど、水泳については、ハーフパイプに感じるようなモヤモヤはない。水泳のトップレベルの選手を見ていると、あんなに早く泳げたら楽しいだろうなあ、と思う。スノーボードで転んで肩を痛めたから、今はもう泳げないけれど、調子よく泳いでいるときに、体が水と一体になったような浮遊感とでも言うべき感覚になったことは今でも少し覚えている。あんなのを感じているなんて羨ましい。

水泳と対比するとよくわかるけれど、やっぱり僕は採点競技が嫌いなのだろうと思う。僕が好きだった自由なスノーボードというものに、誰かの勝手な価値観を持ち込み、その価値観に沿って競わせて、それを商業化していく。僕はそれが許せないのだ。

また、この文章を書いていて気づいたけれど、僕は、そもそもスポーツというのは見るものではなくてやるものだと考えているのだろう。だから僕は、結局水泳がテレビでやっていてもほとんど見ない。

さらに、もうひとつこの文章を書いていて気づいたけれど、僕は、スポーツの魅力とは、快感、それも浮遊感とでもいうべき、ある特定の快感が得られるところにあると考えているようだ。そういえば、僕はスキューバダイビングも好きだったのだけど、あれにも浮遊感がある。また、スポーツではないけれど、最近はまっている哲学対話の魅力とは、うまく対話できているときに感じる浮遊感である。

そう考えると、僕の好みは意外と単純だなあ、と思う。これが今回の大きな気づきである。

GIRL FRIEND

※1700字くらいです。

僕は高校生の頃、ある人を好きになった。帰国子女で英語がペラペラで、クラスで一番の成績の女の子だった。僕は頭がいい女の子が好きだったのだ。結局、その恋はうまくいかなかったけれど、それからずっと、僕が好きなタイプは「頭がいい人」としてきたし、実際そうだった。

なお、頭がいいといっても、成績がいいというだけの意味ではない。ROOSTERSのGIRL FRIENDという曲に、「そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる」という歌詞がある。そういうことなんだよなあ、って高校生の僕は思っていた。

高校生の僕の気持ちをより正確に表現するなら、僕は、僕のことを理解してくれる人を求めていた。きっと当時の僕は、母性のようなものを求めていて、母親のように、よしよし、と僕の頭をなでながら、僕のことを全て包み込んでくれるような人を求めていたのだろう。(実の母親がそのような人だったかどうかは別として。)

当然、そのような人などいる訳ないから、高校生の僕の恋はうまくいかなかったし、その後の僕は路線変更していくことになる。

だけど結局僕は、たいして変わることができなかったのかもしれない、と最近気づいた。僕がこのような文章を書いているのは、心の奥底では誰かに理解してほしいと願っているからなのだろうし、哲学カフェのような活動をしているのも、互いに理解しあうことを目指しているからなのだろう。僕は君を理解しようとするから、君も僕を理解しようとしてほしい、そんな場を作り上げようとしているのかもしれない。僕は、僕を理解してほしいという気持ちを手放すことはできなかった。

僕は、僕の何を理解してほしいのだろう。それは決して、僕が好きな食べ物や僕が昨日したことのような事実を知ってほしいということではない。僕が理解してほしいのは僕の心のなかであり、僕が何を感じ、何を考えているのか、といったことである。

当然、人間の内面を完全に理解することはできない。完全に理解できないどころか、全く理解できないという考え方もありうる。哲学的には、他者の痛み自体を直接的に知ることはできない、という議論もあるくらいだ。

だから、僕が僕のGIRL FRIENDに願うのは、僕の内面に興味を持ち、僕の内面を知りたいと願ってくれることだと言ったほうがいい。加えて、いろんなことがわかってて、ちょっと機転が効いた言葉があればなおよいけれど、それはおまけであって、必須ではない。

だけど僕も年齢を重ね、そんな青臭いことは切り離して生きていくこともできるようになった。今の僕は会話において僕の内面の理解なんて求めていない。僕は聞き役を務めるのも苦手じゃないし、僕のことを話す場面でも、海外旅行での失敗談のような面白かった出来事や、テレビやネットから最近仕入れた知識など、差し障りのない話もできる。差し障りがないというのは僕の外の世界の客観的な出来事についての話であり、そのような話であれば、大抵の人は興味を持ってくれる。そのような話で会話を埋め尽くすことはできるし、そのような会話も結構楽しい。

だけど僕は孤独だなあ、と思う。

僕が夢想するのは、このような場面だ。

僕はその人の内面に興味を持ち、その人も僕の内面に興味を持ってくれる。互いに相手のことを知ろうとするけれど、当然、それは決して完全に達成されることはない。だから、僕からその人に向かう興味のベクトル、そしてその人から僕に向かう興味のベクトルが何重にも重ね書きされることになる。これが対話である。

その対話の成果物として何かが生まれる。それは僕の内面自体ではなく、相手の内面自体でもないけれど、それでも、僕たちの内面と何らかの関係があるものが、興味のベクトルの軌跡の集合体として生まれることになる。

このような、何か新しいものを生み出すような営みを、誰かとともにできれば、僕は孤独ではなくなるのかもしれない。

だけど経験上、このような願いは、実現の見込みがない青臭い幻想だということも、重々承知している。

僕は少し疲れているのかもしれない。疲れると、どうも極端な方向に思考が進む。孤独や幻想といった極端な言葉しか思いつかないのは、その現れかもしれない。

やばいと逸脱

最近、意識的に「やばい」という言葉を使うようにしている。若者用語を使って若者に迎合したいという面もあるのだろうけれど、それを抜きにしても、「やばい」というのは、つくづくいい言葉だと思うのだ。

昔ながらの意味では「やばい」は悪いことだった。やばい奴というのは常識が通じない危険な奴だった。だけど、昔から、やばい奴にはどこか否定しきれない特別さもあったようにも思う。学校の不良にどこか憧れていたように、僕には、やばい奴への憧れがあった。30年近く前、スノーボードが流行り始めた頃、僕はスノーボードのビデオを見るのが好きだった。やばい奴らがやばい高さのジャンプ(エアー)を決めていた。滑り以外でも、きっとクスリでも決めているのだろうと思うような言動をしていて、そのやばさも格好よかった。そのとき、やばい、という言葉を使っていたかどうかは忘れたけれど、僕にとってのやばい、とはそういう感覚をひきずった言葉だ。

僕が好きな怒髪天というバンドのボーカルの増子直純によれば、ロックはやばい優先だ。「やばい」とはロックだということでもある。(そのことについて、僕は『ロックの日』という文章で書いたことがある。http://dialogue.135.jp/2018/02/17/69nohi/

僕にとっての「やばい」は、逸脱という言葉に置き換え可能だ。今までどおりの延長ではなく、決まったレールから逸脱することが「やばい」だと言える。

「やばい」のよさは、善悪のような物差しが適用できないという点にある。そこにあるのは、逸脱の大きさという絶対値のみである。プラスかマイナスかは逸脱してからでないとわからない。

だから、「やばい」は純粋な驚きの表現だとも言える。未知なるものへの驚きを意識的に見逃さないようにしようとして、僕は「やばい」という言葉を使うのかもしれない。

そのわからなさこそが未来そのものだとも言える。逸脱がなければ、変化もないし、成長もない。僕は未来の可能性という価値の片面は、そこに逸脱し、変化し、成長する可能性が広がっているところにあると思っている。(未来の価値のもう片面は、現在の延長として幸せを掴み取る可能性が広がっているというところにあり、どちらの可能性を重視するかは場合によりけりなのだろう。)

僕は、逸脱し、変化し、成長する場面を想像するときには、フランクルの『夜と霧』を思い出す。僕が好きなのは、収容所のなかでマロニエの木と語らう若い女性が、死の数日前に劇的な成長を遂げたというエピソードだ。その成長は、過去との連続性が乏しいという意味で、逸脱という言葉がふさわしいと思う。(以前書いた『夜と霧を読んで』という文章http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/で触れている。)

このように、僕が考える「やばい」は劇的な成長という未来の可能性ともつながっている。だから僕は「やばい」と言いたくなる状況に着目し、そのやばさを自分に対して推奨していきたい。

だけどそのように自分を鼓舞しなければならないのは、実際のところ、「やばい」を選ぶのはきついからなのだろうなあ。

身体的理想 踊るように、羽ばたくように生きる

久しぶりにあまり哲学的でない文章を書くことにする。

僕にとって哲学的な文章とは、誰かに役立つかもしれない文章で、哲学的でない文章とは僕以外の誰にも役立たなさそうな文章のことだ。

このように区分することは、僕の価値を過大に見積もっているのかもしれない。科学者ならば科学的に役立つし、建築家なら建築的に役立つが、僕にはそのような知識も技術もない。だけど、僕だって哲学でなら誰かの役立つことかもしれない、と考えていることになるのだから。

とにかく、だからこの哲学的でない文章は、僕だけのための文章である。

昨日のヨガのクラスで呼吸の仕方について話があったが、そこで、実は皆が呼吸を上手くできているのに、それを感じ取れていないだけだ、というような話があった。考えてみれば、無意識にできているのに、それを意識的に感じ取ることができないというのは、よくあることだろう。例えば、僕は、人並みにバランスをとって二足歩行ができるのに、どのようにバランスをとっているのかを意識することはできない。すぐには他に具体例を挙げられないけれど、似たようなことは色々とあるだろう。

僕はそこから、プラトンのイデア説と想起説を連想した。僕たちはイデア界では完全な歩行や完全な呼吸を意識できていたのに、この世界に生まれてきて、それを忘れてしまっただけなのだ。なんて。それが事実かどうかは別として、そう考えるとなんだかテンションがあがる。

僕は難しいヨガのポーズができないけれど、この世界に生まれる前にいたイデア界では、僕の身体はすべてのポーズを理想的なかたちでとれたはずではないか。もしかしたら、僕の身体は、理想的なあり方をしていたときには、この世界のすべてを表現し尽くせていたのではないか。それは、理想とは、もしかしたら到達できるかもしれない希望ではなく、現に確かに一度は手にしていたものなのではないか、なんて思いを馳せる。

だから僕は、僕の身体を既に理想形を経験したものとして取り扱うことにしよう。僕は、理想を想起するように僕の身体を取り扱うことにしよう。そうすると、少しだけ頑張れて、少しだけヨガのポーズをうまくとれるような気がする。

ヨガでちょっときついポーズをとろうとして自分自身を鼓舞するとき、もうひとつイメージすることがある。僕は僕の身体に翼が生えていて、空を飛ぶようなイメージを持つと少しだけ頑張れる。(そのことは『空と大地の間の「幅」』http://dialogue.135.jp/2021/06/26/haba/という文章で書いたことがある。)

これも僕の身体に宿る潜在的な能力を引き出すときのイメージだ。僕の身体には、僕が知らない歴史があり、僕が知らないような能力を秘めている。

話は変わるが、今朝、僕は不思議な夢を見た。他人の夢の話なんてまず面白くないし、特に今朝の夢は明確なストーリーもないから面白く伝えようもない。だけど僕自身にとっては、とても象徴的で示唆に富むものだったので、書き残しておく価値がある。

僕はアフリカの学校にいた。たくさんの小学生か中学生くらいの黒人の生徒たちがいて、汚くして騒がしくて、少なくとも好ましいところではなかった。(なお、僕はアフリカに行ったことがないし、僕がテレビで観たことがあるアフリカとも全然違ったので、どこでもない僕がイメージしただけの場所だったのだろう。)

なぜか僕はそこで、捜し物を一緒に探してもらったり、色々案内してもらったりして、ある程度の時間を過ごすうちに、その好ましくなさは、好ましさに変わっていた。

彼ら(彼女ら)は思慮が浅くて、踊ったり奇声を上げたりして騒々しかったけれど、そこに何か否定し難いものを感じるようになってきたのだ。理性的に考え、適切に判断して行動するのとは違う、別ルートの正しさがあるように思えたのだ。

夢から醒めたあとで思い返すと、それは生命力と呼ぶべきものだったのだろう。彼らの躍動する身体には生命力という正しさが秘められていたのだ。

ヨガの話と夢の話は、身体に秘められる力についての話だという点で共通している。身体には理想を体現する力が潜在しており、それは生命力と呼ばれるものである。僕は哲学が好きで、思考により哲学的に迫ることができる真実があると思っているけれど、それとは別に、イデア界かアフリカかはよくわからないけれど、全く別のところにもうひとつの真実があるということになる。思考的な真実と身体的な真実という二つの真実がある。そして後者の真実は生命力と名付けることもできる。

だけど、この二つの真実は、全くの別物とも言い切れないだろう。なぜなら僕はこの身体を使って哲学をしているからだ。できれば僕は、理想的なかたちでヨガをするように、またはアフリカの少年少女のように踊るように、哲学をするべきなのだろう。そのようなことはすぐにはできないから、せめて僕は僕の身体を動かし、踊り、羽ばたくところから始めるべきなのだろう。僕は踊るように、羽ばたくように生きていくぞ!

と書きつつも、思い返すと、僕は昔から、踊り、羽ばたくという言葉に象徴されるような浮遊感の虜なのかもしれない。僕はスノーボードで新雪を浮かぶように滑るのが好きだったし、ジャンプするのも好きだった。ライブでノっているときのあの感じは浮遊感と表現できるだろうし、海外旅行での非日常感も同種のものだ。酒を飲んで調子よく酔っているときの、または恋をしているときの、またはセックスをしているときの熱病のようなあの感覚も、どこかフワフワと漂っているような感じがある。そう考えると、僕は既に僕の身体を天上のイデア界に向けようとしている、と言えなくもない気がする。

と書き終わってみると、意外と哲学的な文章だったかも。

民主主義・試行錯誤・対話教育

1 政治について

(1)チャーチルの言葉

民主主義を擁護する際に必ずといっていいほど用いられるチャーチルの名言がある。うろ覚えだったのでネットで検索してみると次のような言葉だそうだ。

「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

僕はこの言葉に対して直感的に嫌悪感があった。格好良すぎて胡散臭い感じがしたのだ。

僕が感じた胡散臭さは民主主義に向けられたものだろうと今日まで思っていた。僕は民主主義よりも例えば五賢帝の時代のローマ帝政のほうがいい面もある、なんてことを考えているからだ。(血の繋がりがない優秀な子どもを教育して政治を任せるのはなかなかよいと思う。)だけど、それが嫌悪感の本当の理由だろうかと、このチャーチルの言葉に出会うたびにモヤモヤしていた。

今日、ふと、この言葉が好きではない本当の理由を思いつき、すっきりしたので書き残しておくことにする。

(2)思考停止・現状維持

僕がこの言葉が気に入らないのは思考停止しているからなのだ。僕には、この言葉は次のようなことを言っているように感じられる。

「現代の民主主義は確かに問題があるよね。日本の議員だってアメリカの大統領だって問題あるよね。だけど、残虐な領主が気ままに領民を虐げることができるような世界よりはマシでしょ。もし嫌だったら国のリーダーを選挙で変えることができるんだから。だから現代の社会も及第点なんだよ。」

ここにあるのは、現状を維持し、民主主義というお題目さえ守っていれば最悪の事態は免れられるという考え方だ。今の日本の政治システムも民主主義なのだからそう悪いものではない。だとしたら、これ以上政治システムについて考えても仕方ない。これは現状維持の思考停止以外の何者でもないだろう。

現代日本の場合は更に、この現状維持に日本独自の立憲主義が結びつく。日本国憲法は出来がいいから手を加えずに残すべきという考え方だ。だから僕は護憲という考え方が嫌いだ。(ちなみに僕の政治的主張は、核配備、政教分離、天皇制廃止(までいかなくても弱体化)といった独特な方向のものだから現在の改憲論議とは全く関係ない。)

僕が民主主義や護憲に対して抱く反感は、一言で言えば、なんで過去の人が決めたことに従わなければならないのか、というものだ。自分のことは自分で決めたいではないか。

僕が望むのは、試行錯誤して少しでもよい社会を手に入れることを目指そうとするダイナミズムだ。もしかしたら失敗するかもしれない。日本も世界も滅ぶかもしれない。それでも、もしかしたらより良い社会が手に入るかもしれないと挑戦し続けることだ。その試行錯誤のなかで見つける答えは民主主義かもしれないし、そうではないかもしれない。平和主義かもしれないし、象徴天皇制かもしれないし、そうではないかもしれない。とにかく過去の誰かにお膳立てしてもらった世界などクソくらえだ。とにかく僕は今ここで選びとった世界に住みたいのだ。

つまり、僕がチャーチルの言葉に反感を持ったのは、そこに込められた現状維持の臭いを嗅ぎつけたからだということになる。

だが実はチャーチルはそんなことはしていない。この文章を書くにあたってチャーチルの言葉には前段があることを知った。次のとおりだ。

「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

チャーチルはこれからも試みは続けられていくとしている。未来には民主主義以上の政治形態が見つかるかもしれないのだ。実はチャーチルの言葉は現状維持とは程遠いものだったのだ。それを誰かが切り取って悪用したに過ぎない。

(3)進歩主義

ところで、実は僕もチャーチルも、すでに民主主義よりもよい政治体制を見出しているように思う。それは、進歩主義や革新主義とでも呼ぶべきものだ。僕もチャーチルも試行錯誤や革新を通じて、より進歩した未来を見出そうとしているのだから、そのように名付けることは正当だろう。

だが残念ながら、進歩主義や革新主義という言葉は既に手垢がついてしまっている。現在用いられている進歩主義や革新主義とは、いわば概念的保守主義と言ってもいいものだ。なぜなら、自由や平等や人権といったフランス革命以降の先人が見出してきた概念を墨守し、無批判にそれらを守ろうとする考え方なのだから。

名前はともかく、僕とチャーチルが見出した、よりマシな政治体制とは、不断の試行錯誤を可能とするようなものだ。いわゆる民主主義でも絶対君主制でもかまわない。自由や平等や人権があってもなくてもかまわない。そのような枠にとらわれない動的な政治を可能とする体制なのだ。

(4)超・民主主義

ただし考えてみると、より幅広く深く試行錯誤を可能とするためには民主主義的で自由主義的な政治体制が必須のように思える。なぜなら君主ひとりが試行錯誤するよりも幅広い人々が試行錯誤したほうが、より試行錯誤できそうだし、制限なく自由に試行錯誤したほうが、より深く試行錯誤できるだろうからだ。

だが重要なのは、僕が求める民主主義的で自由主義的なものとは、現在の民主主義国家や自由主義国家が有するものでは全然足りないし、あえて言うならば似ても似つかないものだということだ。控え目に言っても現代日本と帝政ローマは五十歩百歩だ。そのような注意書きを付したうえであえて名付けるならば、僕が見出し、求めているのは、超・民主主義、超・自由主義とでも言うべきものなのかもしれない。その点では確かに民主主義は評価すべき政治体制ではある。

2 教育について

以上の政治についての議論は教育についての議論につなげることができる。

現在の教育システムは、民主主義や立憲主義といった既存の価値観を子どもに押し付けることに適している。実際、学校において、民主主義や日本国憲法といったものを否定することはなかなかできない。

僕はそこから脱し、より試行錯誤に適した教育が必要だと考えている。子どもが自ら試行錯誤する力を身につけることができるような教育である。

そう言うと、教育関係者は既に日本でも取り組みが始められていると答えるだろう。学習指導要領でもアクティブラーニングや対話による学びといったものが示されるようになっている、というように。

僕も哲学カフェという活動をしていて、対話に興味があるからそれはわかる。対話を通じて子どもが自ら試行錯誤して考える力がつくという道筋は否定しない。

だがそれでは全然足りない。もし学校の対話の時間に子どもが試行錯誤を学べるとするならば、それは、教師という大人が本気で対話のなかで試行錯誤することを認めるからだ。更には対話のなかで教師という大人が本気で試行錯誤してみせるからだ。そのような奇跡が訪れるのは、極めてわずかな瞬間しかない。その他の大多数の時間は、試行錯誤とは真逆のことばかり学ぶこととなる。なぜなら、大人自身が試行錯誤とは程遠い生き方をしているからだ。

教育において本当に必要なのは対話を教えることではなく、大人自身が試行錯誤しているのを見せることだ。もし教育において対話が役立つのならば、それは、対話というフォーマット自体に教育的意味があるのではなく、対話というフォーマットに、大人をも試行錯誤に導いていく不思議な力があるからだ。限られた対話の時間を終えても、大人は試行錯誤の見本を子どもに示し続けなければならない。それだけが子どもに試行錯誤する力を身につけさせる道に違いない。

当然、学校だけでは足りない。親も含めた社会全体が試行錯誤し続けなければならない。真の教育とは、大人の社会全体が真摯に試行錯誤することでしかない。それ以外は小手先のまやかしであり、失敗が運命づけられている。

大人が試行錯誤せずに子どもだけを試行錯誤させようとするのは、いわば負債の先送りであり、押し付けである。僕は子どもに対する対話教育というものに、そのような偽善を感じる。

妖精としての人生、妖精としての文章

1 妖精とは

僕は先日、サニーデイ・サービスの曽我部恵一について書いた際に、彼は妖精のようだと表現した。http://dialogue.135.jp/2020/10/03/harunokaze/

それからしばらく、妖精という言葉が心のどこかにひっかかっていた。なぜこんな言葉を使ったのだろう。自分で書いておきながら、僕は妖精という言葉に違和感があったのだ。普通、自分が書いた文章の言葉自体が心に残り続けるということはあまりない。(なぜなら、言葉とは自分の考えを表現したものに過ぎず、心に残るのは自分の考えであるはずだからだ。)だけど、この妖精という言葉は、僕の心で独り歩きしはじめていた。

僕は妖精という言葉にどのような意味を込めているのか。

先日僕は曽我部恵一のMVを観て、彼について「音楽の神に愛でられた、人間とは別の存在だ。彼はただ、音楽のためにだけ存在し、音楽を体現する存在なのだ。」と書いた。それを妖精と喩えた。

僕が妖精という言葉に託したのは、一言で言うと生活臭のなさかもしれない。具体例としては、曽我部恵一よりも有名な人、アイドルやハリウッドスターを思い浮かべるといいかもしれない。ただ、最近はSNSなどで色々と私生活についての情報が流れてくるから、いっそ、歴史上の偉人のほうがいいかもしれない。更には、イエス・キリストでも。

僕たち人間は日々生活しているけれど、妖精のような彼らは、ただ歌ったり、映画に出演したり、布教したりしている。そこには泥臭い日常はない。

そのように考えるならば、僕自身も実は妖精だと言えなくもない。職場の同僚から見た僕は、ただ働いている存在だ。オナラやゲップを職場ではしない。プライベートな話もするけれど、それはあくまで職場の人間関係を逸脱しない限りでのものだ。(仮に僕が逸脱した行動をとったとしても、それは逸脱した行動をする職場の人間として解釈されるにすぎず、どこまでも職場の人間関係に回収される。)僕は職場の同僚にとっては、ただ働くためだけのために存在する妖精だ。僕は他者にとっては妖精である。できの良さは別にしても。

このように考えているときの感覚は、自分探しとも喩えられるような、若い頃のあの感覚に似ている。誰も僕のある一面しか見てくれず、100%の僕を理解してくれる人などどこにもいない。そんなことばかりを考えていた頃の孤独な感覚だ。

だが、大きな違いがある。若い頃はそれが嫌だったけれど、今はそれが心地よい。僕は日常に埋もれるようにして日々をなんとか生き延びているけれど、そんな不純な僕のなかに含まれている最もきれいな上澄みだけを見てくれている人がいる。それはとても嬉しいことだ。

2 妖精としての人生

生きるとは、混沌とした人間としての人生を、他者から見られる妖精としての人生に変換していくことなのかもしれない。

若い頃の感覚に基づくならば、僕の人生には無限の可能性があるはずだ。それなのに、結局は有限でしかないものに変換されてしまう。それが若い頃の僕が描いていた人生だ。

一方で歳をとった現在の解釈を誇張するならば、人生とは名目上可能性に満ちていたとしても結局はありふれたものにならざるを得ない。そんな人生を、一瞬ではあっても、誰かに認められるような輝くものとすることができる。

そこには二つの不当な取引が含まれているように思う。

ひとつは、ありふれた人生をあたかも価値があるものにするような、何もないところから光を生み出す錬金術のような不当さだ。もうひとつは、無限の可能性を有限のちっぽけな結果に変換するような、いわば奪い去られるような不当さだ。前者は僕が濡れ手に粟で得てしまう不当さであり、後者は否応なしに奪い去られる不当さだと言ってもいい。ここには相反する二つの方向性がある。

重要なのは、この二つを対比して打ち消し合うことはできないし、また、この二つを循環や交換として捉えることで正当な取引として位置づけることもできないということだ。妖精の人生を手に入れたからといって、その代わりに人間の人生を差し出すことはできないし、いくら人間の人生を差し出しても、その代わりに妖精の人生を手に入れることが正当化されることはない。その意味で、妖精の人生と人間の人生との間の取引は、二重に不当なものだ。

この不当さは奇跡と言ってもいいだろう。無限の可能性としての(またはありふれたものとしての)人間の未来と、輝くような成果としての(または所詮有限でしかないものとしての)妖精の過去との間には、その間の変換を成し遂げる場としての奇跡的な今がある。

歳をとって、僕はこの不当な奇跡を積極的に引き受けたいと思っている。無限ではあっても不定形でしかない可能性としての未来を、有限ではあっても明確な成果としての過去に変換することを、この今において引き受けたいと思っている。長年生きるうちに、それを引き受けざるを得ない状況に追い込まれているとも言えるけれど、長年生きるうちに、それを責任を持って引き受けてもいいとようやく思えるようになった、とも言える。

そこで重要となるのは、妖精の創造性である。人間の僕は死んで無に帰るけれど、妖精の僕がつくりあげたものは残り続ける。ここに不当な奇跡を生むトリックがある。このトリックを積極的に認めるならば、僕は、妖精の創造性を最大限に発露しなければならない。

その意味では人が妖精になるとは創造するということであり、直接的に表現するならば、人は創造者、つまりクリエイターとなるべきなのだ。更にはっきり言うならば、人生の意義は何かを作り上げることにあり、そうしない人生には価値がない。

なお、何を作るかというジャンルを選ぶことはできるだろう。僕ならば、僕が作るものは哲学的な文章となるはずだ。僕は妖精のように哲学的な文章をつくりあげていきたい。それが人生の意義だ。

3 妖精としての文章

ここには妖精という言葉のもうひとつの含意がある。妖精という言葉のなかに、僕が進むべき道が示されている。クリエイターならば、妖精の名に恥じないような、価値あるものを求めるべきだ。

では、その価値とはどのようなものか。

多分、価値には二通りある。人間としての価値と妖精としての価値だ。

前者においては人間世界に役立つかどうかという観点が重要だ。価値を真・美・善と表現するならば、人間世界をうまく説明するような発見、人間世界に貢献するような(誰かの目を楽しませたり、メッセージ性があったりする)美術作品、人間世界に役立つような道徳といったものにこそ価値があるということになる。

後者の価値においては人間世界に役立つかどうかは関係ない。ただひたすら正しく、美しく、善いものを目指す。そこでは真・美・善がひとつに溶け合っている。

妖精ならば後者を目指すべきだろう。僕にとってクリエイターであるとは哲学的な文章を書くことだから、僕はただひたすら、人間世界に役立つかどうか似など目もくれず、ひたすら妖精的な価値があるような、真・美・善がひとつに溶け合うような文章を書いていくべきなのだ。ここで妖精という言葉は、僕が書く文章の指針となる。僕が書くべきは、妖精のように理想的な思考の流れを表現する文章だ。それを目指すのが僕のクリエイターとしての後半生なのだろう。

このようなことをめざして、僕は文章を書いているのかもしれない。

投資のすすめ

この文章はわかりやすい文章を書く練習のために書いたものです。

また、この文章は投資を全く知らないけど興味がある知人に僕なりの考えを説明するためのメモです。だから全く哲学的要素はありません。経済学的な誤りや独断も入っています。

0 わからないものには手を出さないという原則

この文章では、投資において僕が大事だと思うことを細々と説明していきます。

なぜなら、投資においては、わからないものには手を出さないという原則が大事だと思うからです。

逆に言えば、わかったら、分かる範囲で投資に手を出してほしいと思っています。多分、これから僕が説明しつつおすすめする程度の投資は、掃除の仕方や新幹線の乗り方といったことと同じくらいには人生において必要な知識だと思うのです。

1 投資のすすめ

1-1 お金を守る

これからおすすめする投資とは、ざっくり言うと、お金を減らさないようにすることです。だから、投資の目的はお金を守ることだと言っていいと思います。つまり、この文章はお金の守り方についての話です。(これから、お金を増やす、儲けるといった表現も使いますが、このことは覚えておいてください。)

お金を減らさずに守るというと、銀行預金やタンス預金をすればいいと思うかもしれません。確かにそうすれば、銀行が潰れたり、泥棒に盗まれたりしない限りお金はなくなりませんよね。だけど、実はそれではお金を守ることにはなりません。

まず、何十年の単位で見るとインフレにより確実にお金の価値は下がっていきます。昔は100円だった缶ジュースが120円になったりするように。経済学的に理論上絶対にインフレになるとは言えないかもしれないけれど、経験則的にはほぼそう言えるでしょう。インフレの影響を免れるためには、タンスからお金を出して、お金を動かす必要があるのです。

1-2 分散投資

また、銀行預金のより根本的な問題は、銀行預金だけでは「日本」の「現金」に資産が集中してしまうところにあります。実は資産をどこにも投資しないことはできません。手元に100万円があるとして、それで米国株を買わないからといって、どこにも投資していないニュートラルなお金にはなりません。米国株を買わず日本の銀行に預金をするということは、日本とアメリカとを比較し、日本を選択したということであり、現金での資産形成と株式での資産形成とを比較して、現金での資産形成を選択したということなのです。つまり、あなたは手持ちの資産100万円すべてを「日本」の「現金」に資産を集中するという危うい選択をしてしまったのです。

ここで「危うい選択」と表現しましたが、なぜこれが危ういかというと、投資においては分散投資をしたほうが安全である、という考え方があるからです。

もし、100万円のうち50万円を日本に投資し、50万円をアメリカに投資していたら、日本だけが不景気になっても半分しか影響を受けません。アメリカだけが好景気になれば半分はお金を増やすことができます。

さらには日本に投資している50万円のうち25万円で日本株を購入し、25万円を銀行預金にしておけば、株価が上がれば半分嬉しいし、株価が下がれば半分悲しくなるだけで済みます。

これが分散投資の考え方です。つまり小分けにしておいて、喜ぶのも悲しむのも「ほどほど」に抑えよう、という戦略です。

一方で、もし100万円全額を日本円で銀行預金にしておいたらどうでしょう。円高ドル安になればラッキーだと喜ぶでしょう。1ドル=100円だったのが1ドル=90円になれば、アメリカ旅行で10万円以上贅沢ができるのですから。また株式が暴落して不景気になっても嬉しいでしょう。株価が例えば半分になったら、それは世の中の株式に投資していた資産家の資産がすべて半分になるということなので、その分不景気になって商品の価格が値下がり、資産を全額銀行預金していた人は引き出した現金で商品を安く買うことができるのですから。(株式しか持っていなかった人は商品が半額になっても資産も半分になっているので買えるものは変わりません。)

ここまでが銀行預金をして日本円の現金に集中投資することのメリットですが、当然、集中投資が不幸を招く場合もあります。円安になれば資産価値は下がりますし、株価があがって好景気になったなら、物価上昇にも関わらず現金の額は変わらないので、相対的には資産価値が下がることになります。皆が好景気で喜んでいるときに取り残されてしまうことになります。つまり、好景気によるインフレについていけないことになります。

このような事態に陥らないように、分散投資を勧めているのです。

1-3 リスクを受け入れられるか

ここで、「円安やインフレがあっても日常生活で困ることはないのだから銀行預金でいいではないか。」という反論があるのではないかと思います。

確かにそのとおりです。海外旅行での買い物でレートを計算するときや、ハイパーインフレーションで紙幣を束で持っていかなければパンも買えないような極端な状況でなければ、多分、実感として、「ああ、銀行預金だけでなく分散投資しておけばよかった。」などと後悔することなどないでしょう。

一方で、分散投資を選択してアメリカ株式を購入していたら、毎日の円ドルのレートが気になってしまうし、アメリカ株大暴落なんていうニュースを読んだら心穏やかではいられないでしょう。「いやいや、逆に日本円の現金は相対的に価値が高まったんだよ。」なんて言われても慰めにしかなりません。

僕もそう感じるだろうし、多分それは心理学的に人間に当然の反応であって、なにもおかしいことではありません。だから無理に、投資に対する恐怖心を押し殺して投資する必要などないと思うのです。なぜなら、所詮、お金は幸せになるための手段ですから、お金のせいで不安になってしまったら本末転倒です。

だから、株式などに投資をするかどうか、また、投資をするにしてもどの程度とするかは、自分の心や家族の意見に耳を傾けたうえで判断すべきと思います。

1-4 人生における投資の意義

それでも僕は、攻めた投資を勧めます。なぜなら投資とは、自分の未来を少しでもコントロールしようとする努力だと思うからです。

なお、僕が勧める攻めた投資とは、儲けが大きい博打のような投資をするという意味ではありません。不安に打ち勝ち、分散投資という基本に則り、理にかなった投資を理屈どおりに淡々と実行するということです。詳しくは後述しますが、それは、最適と思うかたちで資産配分するということでもあります。日本円の預金20%、日本の株式30%、ドルの外貨預金25%、ドルの株式25%というように。(割合は適当です。)

なぜそれが未来のコントロールにつながるのかと言えば、それを実行するだけで、リスクに対する恐怖心に負けて不効率な資産の配分をしてしまった人よりも有利な道を歩める可能性が高まるからです。

ただし、あくまで高まるのは可能性です。最適と考える投資をしても資産が減ることはあります。というか、儲かったときより損をしたときのほうが心に残ることをかんがえると、実感としては損してばかりと感じるかもしれません。

それでも攻めた投資を勧めるのは、自分の人生を自分で選んでいるという実感につながるからです。リスクへの恐怖に打ち勝ち、淡々と自らが定めた投資を継続することができたなら、その結果がどうであっても最善を尽くしたという自信につながるのではないでしょうか。そして、その自信が、投資以外も含めた人生全般においてプラスになるのではないでしょうか。

1-5 投資の効果

ただ、こういう精神論だと響かないかもしれないので、別の方向から投資を勧めたほうがいいかもしれません。

投資が成功すれば金銭面での自由を得られます。何億もの資産があれば全く働かずに資産収入だけで暮らすこともできるかもしれません。だけど、そこまでいかなくても、例えば、1000万円の資産があり、そこから毎年3%の収入が得られれば、毎年30万円分を生活費に回すことができるし、うまくいければ海外旅行だって行けます。これはなかなかの成果でしょう。

その成果は無理をして博打のような投資をしないと到達できないものではなく、適切な投資を続けるだけで到達出来る可能性があるものなのです。

1-5-1 世界の株価

例えば今日(2020.10.18)のS&P500(アメリカの株価指数)は3483ですが、調べてみると、50年前の1970年10月の指数は84だったようです。(https://jp.investing.com/indices/us-spx-500-historical-data

これはつまり、アメリカに投資していたら、50年で資産が40倍に増えていたということを意味します。単純平均で年8%(400%÷50年)ですね。

たまたま当時のアメリカの調子がよかったと考えたとしても、今後もどこかに投資して年3%くらいだったら期待できそうな気がしませんか。

1-5-2 複利効果

更に着目したいのが複利効果です。

100万円投資して翌年に103万円になったとして、その3万円で温泉に行くのはいい選択です。温泉は気持ちいいし、日常から離れたところでのんびりご飯を食べるのは贅沢な気分になりますよね。だけど、もしその3万円を翌年の投資に回したら、
103万円×103%=1,060,900円となり、温泉に行くよりも900円増えます。これが複利効果です。
900円だとたいしたことがありませんが、もし20年間続けたなら、100万円は80万円増えて180万円になります。もし毎年温泉に行っていたら(20年×3万円で)60万円しか使えなかったはずなので、20年後には20万円の差が出ることになります。

ここで、20万円というと、やはりたいしたことがないと思うかもしれません。確かにそうなのです。20年温泉を我慢して、やっと20万円です。子どもが生まれてから20年間、子どもを国内旅行にも連れて行かずにお金をためて、20年後、成人した子どもとようやく80万円を使って海外旅行に1度だけ行ったとして、それが幸せなのかというと、僕は違うと思います。だから複利効果も念頭におきつつ無理はせずに今を楽しみつつ資産運用するのがおすすめです。

だけど投資を勧める立場としては、もう少しアピールしたほうがいいかもしれません。先ほどは年3%で計算しましたが、例えば、過去のアメリカと同様に年8%の伸びがあったとします。そうすると、100万円は20年後には466万円になります。毎年8万円を使ってしまっていたら、(20年×8万円で)160万円しか使えなかったはずなので、複利効果により200万円を手に入れられる計算になります。もしあなたが投資に楽観的な見通しを持つ方でしたら複利効果はより魅力的なものとなるはずです。

2 資産の種類

ここまでで、銀行預金やタンス預金だけでなく、外国株式なども含めて分散投資をすることの必要性と魅力は理解いただけたと思います。

ここからは、具体的にどのように分散投資すればいいのか、という話に移ります。

2-1 株式と現金

投資先となる資産としては、現金(預金)、株式のほかにも、債券、商品(金や小豆など)、不動産といったものがあります。

ちなみに、ここで挙げていないものとして投資信託がありますが、投資信託とは、株式や債券の買い方についての名前です。投資信託とは株式や債券をいくつかまとめたものを小分けにして売り買いしているものです。だから、投資信託とはつきつめると株式や債券のことです。また、その他にも有名なものとして外貨預金もありますが、外貨預金とは外国の預金なので、現金に含めることにします。

それでも色々な種類があって戸惑うかもしれませんが、ここまで列挙した資産はざっくりと、株式と現金に分けることができます。それ以外の債券、商品、不動産といった資産は、いずれも株と現金の二面性を持ったものとして扱うことができると考えています。

2-1-1 株式

株式は、ご存知のとおり、企業が発行するものです。株式とは、その企業の所有権を細かく分けたものだと言っていいでしょう。1棟のマンションに10世帯が住んでいるとします。これはつまり、そのマンションを10世帯で10分の1ずつ所有しているということです。外壁のペンキを塗るかどうか、管理会社をどこにするか、といったことは10世帯の合意で決めることとなります。それと同じ関係が企業と株式の間にはあります。

いやいや、実際は株主ではなく社長が色々と決定しているでしょう、と思うかもしれません。確かにそうなのですが、投資の観点では、企業=株式という視点が重要です。なぜ、企業と株式を同一視することが重要かと言えば、それは資本主義経済の担い手は企業だと言っていいからです。つまり、資本主義経済=企業=株式 なのです。(データ上も世界のGDPと世界の株式の総資産はほぼ連動しているようなので、この考えは大きくずれてはいないと思います。)

ここに株式の重要性があります。株を買うとは、つまり資本主義経済を買っているということであり、株を買わないとは、つまり資本主義経済に乗っかっていないということなのです。

何百年もの間、資本主義経済は右肩上がりでした。世界恐慌などで一時的に収縮することはあっても、資本主義経済は膨張し続けています。好むと好まざるとにかかわらず、僕たちは資本主義経済にとりこまれ、そのなかで物を買ったりしています。完全に自給自足の生活を送るのでなければ、資本主義経済に投資しないということは、右肩あがりの世界で、自分だけが(資本主義経済的な見地では)損をし続けるという選択をするということなのです。

脱線ですが、ここにお金持ちと貧乏人の差があるのだろうと思います。お金持ちはどんどんお金が増えていき、お金がない人は増やす元手がないので損をし続けることになります。そこには努力などではどうしようもない大きな格差があります。

それはともかく、資本主義経済に乗っかるための手段として株式投資には明らかな優位性があると言えるでしょう。

2-1-2 現金

株式の対極にある資産は現金です。現金はそのままでは額面上、増えもしないし減りもしません。長期的には資本主義経済の発展により、相対的には価値が減少していきます。明治時代の1円札は額面上1円の価値しかないように。だから現金は明らかに損です。

ただ現金は、先ほど指摘したように、なんとなく安心するという効果があります。ここまで色々と現金が不利であることを説明してきたけれど、それでも、株価が上下するのを毎日ニュースでチェックするよりも、銀行預金の預金高を眺めたほうが安心できる気持ちは僕も同じです。現金が持つこの魅力は無視してはならないと思います。

また、子どもを大学に入れるために500万円は準備が必要だとか、今月の食費として10万円くらいはとっておきたいとか、わかりやすさも現金の魅力です。突然ハイパーインフレーションになれば10万円では食費は賄えないかもしれないけれど、そのような僅かな可能性を無視するならば、現金さえあれば将来に備えることができます。近い将来に必要なお金は手元に必要です。(どのくらいが近い将来かは後述します。)

もうひとつ、すぐに使えるというのも現金の優位性でしょう。証券会社を使っていて意外と面倒なのが資産の現金化と現金の出し入れです。株か投資信託かといった資産の種類により違いはありますが、手続きに数日は見ておいたほうがいいです。もし不動産投資などをしていたら、現金化には月単位で時間がかかるでしょう。現金化までの間に必要となる可能性がある額の現金は手元に置いておくべきです。

以上のような現金の優位性も考慮し、ある程度の現金は手元に残しておくべきでしょう。(このような文章を読むような方は、すべてを株に回すようなことはないと思いますが。)

2-1-3 債券

債券とは、国や企業の借金を証券化したものです。借金なので国や企業はお金を貸してくれた人に利息を払います。利息を狙って債券を購入するのです。ではその利息はどのように決まるのかというと、借金する時点で予想される資本主義経済の伸び率によってです。国か企業から「今年の資本主義経済は3~7%伸びると思うけど、平均の5%よりちょっと少ないけど、確実に4%の利息を払うからお金を貸してくれない?」と提案されて「他のところに投資したら5%くらい儲かる可能性が高いけど、それより確実に4%を狙ったほうがいいかな。」なんて思った人が債券を買うのです。

そのように考えると、資本主義経済に乗っかっているという点では債券は株式に近いし、将来が確定して安心できるという点では債券は現金に似ています。つまり債券は株式と現金の中間の性質があると言っていいと思います。

(なお、そこから更に債券の発行元の信頼度で利息は上下します。先進国の国債なら利息は低いし、破綻しそうな国や企業の債券なら利息は高くなります。直近の1年で10%の確率で破綻しそうな国の債券なら、年10%くらいの利息を上乗せしてもらえなかったら買う気にはなりませんよね。また、外国の債券は外貨としての性質もあります。だから為替レートによっては大きく損をすることもあります。利率が高い債券には注意しましょう。)

2-1-4 商品

商品と呼ばれるもののなかには、金、原油、大豆といったものがあります。

正直、この文章を読むような人は商品には興味がないと思うけれど、金くらいは検討するかもしれないので僕の考えを簡単に説明しておきます。

金は最近20年くらい価格が上昇し続けていますが、金の価格があがるのは世界のお金(貨幣)が増えているからです。金も採掘されてはいますが、それよりもお金(貨幣)が増えているので相対的に金の価格が上がっているのです。

では、なぜお金(貨幣)が増えるのかといえば、やはり資本主義経済が膨張しているからです。つまり、金の価格が上昇するのは、資本主義経済が膨張することの影響を受けているから、ということになります。とすると、この点では金は株式の一種と考えてもいいでしょう。

他の商品も似たようなものとも言えますが、原油や小豆は投資のためだけの商品ではなくいわゆる実需もあり、価格の変動も大きくなります。また原油を買うためには原油を保管するためのタンカー代も負担しなければならない、産出国が正常不安定だと事件が起きて価格が大きく変動することもある、といった様々な留意点が商品ごとにあります。よってその分野に詳しくない限り、金以外の商品は避けたほうがいいと思います。ちなみに僕自身は、金についても、例えば新しく海水から金を精製する技術ができて価格が大きく下がるのでは、といったことを考えてしまうので手を出すつもりはありません。わからないものには手を出さないという原則を特に心にとどめておくべきなのが商品の分野だと思います。

2-1-5 不動産

不動産も商品に似ています。バブルを例に出すまでもなく、不動産というのは余ったお金が流れ込む先です。金と同様に、投資に値する不動産には限りがあるので、世界経済が膨張するにつれ、世界の不動産の価格は右肩上がりになっていきます。その点では、商品と同様に、不動産も株式と似たようなものと言えるでしょう。

一方で、不動産についても、不動産ならではの様々な特徴があります。火事があれば燃えてしまう、アパートを建てた途端に近くにあった大学が移転してしまうなどなど。不動産は一番身近な金融商品かもしれません。

その点では、商品と同様に不動産も初心者向けではないのですが、不動産については自分で使うこともできる、という特徴があることは留意しておくべきでしょう。つまり、持ち家も資産運用のひとつなのです。賃貸に住み続けるか持ち家にしたほうがいいのか、という問題は、マイホームの夢というような漠然としたものではなく、資産運用のひとつ、それも上級者向けの資産運用だということを肝に銘じてシビアに検討すべきでしょう。
(ちなみに僕は持ち家にしました。賃貸だとちょうどいい物件がないというのが大きな理由です。ただし将来貸せそうか、転売できそうか、といったこともそれなりに考えて決断しましたよ。)

なお、不動産の場合、非常に低い金利でローンを組めるという点も重要でしょう。個人が投資目的で融資を受けることはなかなか難しいですが、住宅を買う場合にだけ非常に有利な条件で認めてもらえます。だから、なるべく長期の住宅ローンを組み、返済額を最低限にして、余剰のお金を投資に回すという戦略をとることもできます。ただこれも、不動産というただでさえ上級者向けの資産運用を、借金してまで行うということなので、それなりの検討が必要でしょう。

以上のように、すべての金融商品は、資本主義経済に乗っかっている株式的な側面と、そこから外れるものとしての現金的な側面を有していると考えることができるでしょう。

図で示すと、「株式・不動産――商品(金)――債券――現金」となるでしょうか。(金の位置づけは微妙ですが。)

2-2 基本戦略

ここまで、投資先となりうる資産について種類ごとに考察してきました。

他にもデリバティブと呼ばれるような金融商品もありますが、契約上の複雑な仕組みを使ったものなので、わからないものには手を出さないという原則を踏まえれば避けたほうがいいでしょう。ちなみにFXもデリバティブの一種です。ざっくり言うと、デリバティブとは保険の一種で、「○○の事態が生じたときに損をしないor儲かる」という契約を結ぶということです。保険料を支払う代わりに家が火事になったら建て替え費用を補填してくれる火災保険と同じようなものです。同様に、(1ドル=105円の今)1ドルが100円以下に下がったら利率がゼロになる代わりに1ドルが100円以上のまま推移すれば利率を倍にするという契約を結ぶことになります。(ただし、火災保険とこの例のデリバティブでは、どちらが胴元になるかで違いがあります。火災保険の場合は保険会社がリスクを負い、デリバティブではドル安となるリスクを我々が負うことになります。)

そのような上級者向けの金融商品を除外するならば、僕が提案する投資戦略は次のようにまとめることができます。

ステップ1:必要な現金の額を把握し、とっておく。

ステップ2:残りは株式投資に回す。

ステップ3:株式と現金との中間的な性質を持つ投資先(債券、商品(金)、不動産(特に持ち家))について、どの程度、株式や現金と置き換えることができるか検討する。

ということになります。

ステップ3が複雑なのですが、重要なのはステップ1と2なので、ステップ3については無視しても大きな問題はありません。

債券を買うか、金はどうか、と悩むのが面倒なら、株式しか買わなくても大きな問題はありません。不動産についても、持ち家にするのは相応の決断が必要だけど、賃貸にしている限り大きく失敗することはないはずです。

3 投資の具体的な戦略

さて、現金と株式を組み合わせるという基本戦略を定めたところで、具体的な投資の仕方という各論に移ります。

さきほどの基本戦略で、いくら現金でとっておき、いくら投資に回せるかは明らかになったとして、次の段階として、手持ちのお金を具体的にどのように投資すればいいのかを検討することとなります。(いくら現金としてとっておくべきか自分で考えるのが不安なら、ファイナンシャル・プランナーに相談をしたらいいと思います。ライフステージごとにいくら必要なのか、わかりやすく教えてくれるでしょう。ただ、変なところとつながっていないところに相談しましょうね。)

3-1 個別株vs投資信託

ここでの投資とは、原則として株式投資を指すので、まず個別株を買えばいいのか、投資信託を買えばいいのか、について考えましょう。

なお、念のため説明しておくと、個別株とは、ソフトバンクやアップルといった企業の株を購入することです。

この問題については結論は簡単で、はっきり言って、個別株を買うのはやめましょう。

わからないものには手を出さないという原則を踏まえるならば、個々の会社の事情など素人にわかるはずがありません。もしあなたが内部の関係者で事情に通じていたら、インサイダー取引となり犯罪です。

また、個別株に手を出すということは情報収集などに相応の時間をかけることにつながります。あなたの趣味が株式投資でない限り、このようなことに時間を使うことは人生の無駄です。投資に費やす時間を最低限に抑えて人生を有意義に使いましょう。

では、時間をかけずに効率よく投資をするにはどうすればいいのでしょう。

その答えが、ここまで僕が勧めてきた、分散投資を導入し、資本主義経済の膨張に乗っかるという戦略です。
広く薄く投資すれば大きく損をすることはなくなるし、資本主義経済の膨張という揺るがない事実に乗っかれば間違いありません。

そのためにちょうどいいのが投資信託です。
投資信託は、色々な企業の株式(や国の債券)をまとめたものなので、例えば、米国情報技術セクターETFという投資信託を買えば、アップルやマイクロソフトなどの株式を少しずつ購入したのと同じことになります。
(ETFとは、投資信託を株式のように取引できるようにしたものです。)
これならば、たとえアップルが倒産しても、少し値下がりするだけの被害に抑えることができますよね。

絶対、選ぶべきは投資信託です。

3-2 日本株式vs外国株式

世界にはアップルやマイクロソフトだけでなく、なだたる企業があります。一方で日本だって、一時の勢いはないにせよ、トヨタやソフトバンクなど負けていません。近年の株価の伸びでは日本は分が悪いけれど、そもそも、わからないものには手を出さないという原則を踏まえるならば、日本人であるならば、多くの情報が得られる日本に投資したほうがよいようにも思えます。

海外と日本、どちらの戦略もありうるとは思うのですが、ただひとつの点を考慮し、僕は、日本ではなく海外に投資すべきと考えます。

考慮すべきは、日本に住んで、日本で給料をもらっているという時点で、すでに日本に集中投資しているようなものだ、という事実です。

多分、この文章を読むような方は、働かずに済むような資産家ではなく、日々、仕事をして日本円で稼いでいるでしょう。将来、日本の景気がよくなれば、給料はあがるし、年金などの社会保障も安泰となります。そうなったら、正直、ちまちまと投資をして増やしたお金など、あまり必要ありません。

一方で、もし日本の景気が悪くなり、給料が下がったり、年金制度が破綻したりしたとき、外国株式に投資していたらどうでしょう。生活の助けに多少なる程度の額かもしれませんが、そのようなお金が無傷で残っていたことに、とても有り難く思うのではないでしょうか。

不必要なときには少ない額でいいけれど、必要なときにはなるべく多くの額がほしい。そのためには、日本の経済とは別の値動きをする資産を持っていたほうがいいのです。とするならば、日本株に投資するか、日本以外の外国株とするかの答えは明らかでしょう。

株式投資を外国株に絞ることで、逆に、仕事は日本、株式投資は外国というかたちでの分散投資ができるのです。

3-3 積立投資

ここまでで、株式投資をするなら、日本以外の外国株式の投資信託だということがわかりました。

では、早速、手元にある100万円で100万円の投資信託を買えばいいのでしょうか。それはちょっと急ぎすぎですよね。

今の株価が安いのか高いのか、これから株価が上がるのか下がるのかは誰も知りません。知っていたらその人は億万長者です。だから、今、どんなに買いどきだと思っても値下がりするリスクはあります。全額で投資信託を買ってしまって、いきなり値下がりしたら、投資なんて嫌になってしまいますよね。

おすすめは定額を少しずつ積み立てるという戦略です。これはドルコスト平均法とも呼ばれ、大きく損はしないし、大きく得もしないけれど、ちょっと得かな、という感じのやり方です。

僕は、この戦略は、実際に得するかどうかよりも、心穏やかに投資できるという点にメリットがあるように思えます。
株価が大きく下がっているときには、既に買った分は値下がりしてしまったけれど、これから買う分は安く買えるんだ、と自分を慰めることができます。
株価が上がっているときは、もっと早く買っておけばよかった、もう少し下がったら買おうかな、なんてモヤモヤ考えずに、自動的に淡々と購入することで、買い時を逃さずに投資することできます。
人間の心の弱さを補うものとして、積立投資戦略はとても有効だと思うのです。

なお、毎月の給料から一定の額を投資に回すという場合、いくらずつ積立をするかは簡単に決められますが、すでにある100万円をいくらずつ積立に回すかは難しい問題です。

僕にも答えはありませんが、考慮すべきは、世界的な株価の下落は、これまで、コロナ・リーマン・・・と遡ると10年に1度くらいの頻度で起きているといいう事実です。そう考えると少なくとも数年かけて積立が終わるよう、少しずつ積立をしたほうがいいように思います。一方で、早めに投資を始めないと儲けも少なくなるというジレンマはあるのですが・・・

3-4 投資の期間

ここまでで、よし、投資するぞ、と思っていただいた方がいたら嬉しいです。

だけど、ここまで勧めてきてなんですが、その投資はなんのためにするのでしょうか。たぶん、将来、まとまったお金が必要になったときのために、ということだと思いますが、それはいつのためでしょうか。

僕が考える投資とは、10年、20年の長期間で行うことを想定しています。長期的な経済環境の変化から資産を守るための投資なのですから当然でしょう。未来は不透明だからこそ、少しずつ分散投資をすることでリスクを減らして資産を守るという戦略をとっています。だから短期的には損をすることもあります。

もし、あなたが今、中学生の子どもがいる親で、大学進学資金で株式投資しようとしているならばやめたほうがいいと思います。(または後述する債券投資に限ったほうがいいと思います。)数年で得られるかもしれない儲けは少ない割に、万が一、損をして大学進学ができなくなったら、最悪、家庭崩壊です。

僕の提案する投資が一番適しているのは、老後資金のために行う投資です。

10年、20年と投資期間があれば、コロナやリーマン級の株価下落があったとしてもいずれ持ち直すでしょう。これまでの資本主義経済の傾向を信じるならば大きく損をすることはないはずです。うまくいけば、年8%の複利効果によりお金は大きく増えるかもしれません。そうしたら早期退職をして世界一周旅行ができるかもしれません。(僕の願望です・・・)

そういう妄想はともかく、重要なのは、長期的な世界経済の変動に家計がついていけるということです。万が一、日本の財政が破綻しても、日本だけが経済停滞して貧しい国になっても、外国資産というかたちで資産を守ることができるのです。

このような長期的な視点の投資は、少なくとも10年くらい先を見据える余裕を持って行うべきだと思います。

もし、あなたが目指す投資が僕が考える投資とずれているならば、少なくとも僕が提案するままに投資をするのはやめたほうがいいと思います。

3-5 NISAとIDECO

ここまで、なるべく汎用的な内容にしようと心がけてきましたが、ここで2020年の今にしか通用しないだろうことに触れておきます。

NISAとIDECOです。これらがどのような制度かは色々と情報があるので皆さんにお調べいただくとして、ざっくり言うと、いずれも税金が安くなる制度です。だから、条件に合えば絶対に使うべきだと思います。

ただ、その前提として、投資の期間をどの程度想定するか、という問題があります。NISAは頻繁に売り買いすると不利になる可能性があり、IDECOは60歳まで引き出せません。

だけどこれらは、僕が考える長期的な投資スタイルでは問題とはなりません。先ほど想定したような、10年、20年先の老後を見据えて長期の投資期間を考えているならば、積極的にこれらの制度を使うべきだと思います。

4 具体的な投資のあれこれ

ここまでで、目指す投資スタイルが明らかになりました。10年、20年という長期間にわたり、NISAやIDECOを最大限活用し、日本以外の外国株式の投資信託を積立投資しつづけるというものです。

ここからは、僕自身の経験を踏まえた独断も含めて、具体的にどうすればいいのか、お示ししたいと思います。

4-1 証券会社選び

まず、お世話になる証券会社を選ぶことになりますが、ポイントはいくつかあると思います。

①長期間お世話になるので、できるだけ大手で安心できるところ。(万が一破綻しても、お金が引き出せないなんてことはないですが、色々面倒なので。)

②NISAやIDECO、投資信託の取り扱いが充実しているところ。(個別株の取引が充実しているところではなく。)

③費用が安くて色々と便利なネット証券。

という感じでしょうか。当てはまるところはいくつかありますが、独断と偏見では、2020年10月現在だと「SBI証券」がいいと思います。なお、あわせて「住信SBIネット銀行」の口座も開設しておくと色々と便利かもしれません。(ほかには「楽天証券」もいいかもしれませんね。「マネックス証券」はなんとなく、少し玄人向けな気がします。)

4-2 投資信託の銘柄選び

証券会社を決めたら、いよいよ銘柄選びです。(その前に面倒な口座開設手続きはありますが・・・)

4-2-1 インデックスファンド

まあ、外国株式の投資信託ならなんでもいいのですが、おすすめは、インデックスファンドというものです。投資信託には、投資信託を運用する人があれこれ考えて投資するアクティブファンドと、株価の指標(日経平均とかダウ平均とかいうやつです。)に機械的に連動するだけのインデックスファンドというものがあります。本気で儲けようとするならば、ファンドマネージャーを信頼してアクティブファンドもいいでしょうが、僕が推奨する投資は、あくまで分散投資をして資産を守るためのものなのでインデックスファンドで十分です。

インデックスファンドのメリットはコストの安さです。投資信託にかかるコストとしては、購入時にかかる買付手数料と、毎年かかる信託報酬とがあるのですが、インデックスファンドはいずれも低く抑えられています。

ダメ押しとなりますが、面白いことに、決してアクティブファンドの成績は決して優秀ではありません。ソースはきちんと調べていませんが、アクティブファンドの成績の平均値はインデックスファンドに負けているらしいです。

ということで、インデックスファンドで間違いないでしょう。

4-2-2 アメリカか世界か

さて、具体的な銘柄を選ぶ際の最大の難関のひとつは、世界全体の株式を買うか、それともアメリカの株式を買うか、です。

実は分散投資と言っても、世界の株式の3分の2はアメリカ株です。つまり株式に分散投資するとは、アメリカ株を買うということにかなり近いです。これでは分散投資にならないですよね。ここが苦しいところです。

それならば諦めて本家のアメリカ株に限るか、それとも、これからは新興国の時代だということで世界株を選ぶかは、個人の好みの問題だと思います。

この問題を僕自身が考えるにあたって重要だと思っている視点は「人口ボーナス」と「覇権国家」です。

人口ボーナスとは、人口が増えているときに、その国の経済は伸びるという法則です。人口増が経済成長のボーナス加点になっているから人口ボーナスです。戦後日本がよい例でしょう。若いベビーブーム世代は、老人介護などの問題を抱えずに右肩上がりの経済成長を達成しました。それと同じことが世界中で起きているというのが人口ボーナスという視点です。

この視点から東南アジアそして中国の成長が説明でき、その次はアフリカだと言われています。ちなみにアメリカは先進国になっても移民による人口増が予想されている珍しい国です。

つぎに「覇権国家」ですが、これは、どちらかというと政治学用語です。紀元前後はローマ帝国が覇権国家で19世紀はイギリスが覇権国家でした。20世紀は当然アメリカです。現代は覇権国家アメリカに準覇権国家である中国が挑戦しようとしている図式でしょうか。

アメリカと中国の振る舞いを見ていれば、覇権国家のメリットは明らかでしょう。覇権国家になれば、ジャイアンのように自分のルールを周囲に押し付けて有利な状況を作り上げることができるのです。覇権国家だけが世界経済の果実を総取りできるとも言えます。(僕はあまり詳しくないですが、1985年のプラザ合意がその例でしょう。これは覇権国家アメリカが日本に円高を押し付けることでアメリカが日本の富を奪い取ったとも言えるでしょう。)

僕個人は、このような観点から、米国株に絞ってもいいかな、と考えています。どうせ米国株が下がれば、よほどのことがない限り、全世界の株が値下がりするだろうし、とも思っています。(このあたりは人それぞれだと思います。)

あと、細かい話ですが、世界株式より米国株式のインデックスファンドのほうが手数料はちょっと安いです。

また、世界株式タイプの投資信託の多くは、投資先に日本が含まれてしまっているので、少額でも日本に投資してしまうことが嫌でしたらやめたほうがいいかもしれません。

ということで、世界株式と米国株式の二択で悩んでください。

4-2-3 債券も少々

ここまで株式前提で話を進めてきましたが、安心感という点では現金に近い性質を持つ債券も捨てがたいものがあります。

債券を発行するということは、アメリカのような一流国が利率を決めて利息を払うと約束してくれているのです。この約束が破られるときは世界の経済が破滅するときでしょうから、あまり気にすることはありません。ですので、債券は実質的には外国通貨での定期預金のようなものと考えてよいでしょう。

更に投資信託になっていれば、いつでも売り買いができるので、数日待てば現金化することもできます。

ということで、安心感を重視するなら、投資信託を選ぶにあたっては株式だけでなく債券の投資信託を考慮に入れてもいいと思います。
または、当座必要でないけれど確実に現金として確保しておきたい分は、現金ではなく債券にしておいてもいいと思います。

なお、ここ場合も外国債券を選ぶのがポイントです。日本の債券を選ぶということは結局、日本円に集中投資していることになってしまいます。外国の債券ならば通貨の面では分散投資ができるので、僕が提案している投資スタイルにうまく合致します。

4-2-4 銘柄選び

以上を踏まえると、具体的には、世界株式か米国株式のインデックスファンドに、好みに応じて外国債券の投資信託を組み合わせるという戦略がおすすめということになります。

では、それを踏まえて銘柄選びです。

(実は僕が提案している投資スタイルは非常にオーソドックスなものなので、最近出てきているロボアドバイザーを使っても同じようなことになります。つまり、こんなに長々と読まなくても、ロボアドバイザーサービスに申し込めばよかったのです。だけど多分、ロボアドバイザーはIDECOやNISAに対応していないので、それらを活用する方は普通に自分で銘柄を選ぶ必要があります。)

コストが低いインデックスファンドには、いくつかブランドがあって、2020年現在、代表的なものは、eMAXISとバンガードです。このあたりは移り変わりがあるので参考までですが。まあ、インデックスファンドはコスト競争が激しく、いきつくところまでいっている感があるので多分、どれを選んでも大差ないです。

ただ、証券会社の一覧に出てくる投資信託のなかには米国株式のうち中小企業だけに投資するものや、世界株式のうち先進国にだけ投資するもの、というように投資先を限定したものもあるので注意してください。ここで選ぶべきは、なるべく薄く広く投資するタイプの投資信託です。

あと、債券も混ぜるなら、バランス型と呼ばれるカテゴリーを選ぶといいかもしれません。これは債券と株式などいくつかの種類の金融資産をバランス良く混ぜたものです。

とにかく証券会社のサイトで、国際株式、国際債券(またはバランス)のカテゴリーに区分されているインデックスファンドを手数料が安い順で並び替えてよさそうなやつを選びましょう。購入する銘柄で検索をすればネット上で評判も出てくると思います。

そのようにして選んだものは多分メジャーな銘柄なので積立購入に対応しているし、多くは積立NISAやIDECOにも対応していると思います。

積立日の設定は、気分としてですが月初や月末よりは普通の日のほうが変な値動きがなくていいと思います。自動車もやっぱり月初や月末のほうが混んでいるので、そういう日はなんとなく避けたほうがいいかな、と。

あと、ボーナス月の増額もしないほうがいいと思います。目指すは均等な分散投資ですから。

ということで投資の準備はこれでおしまいです。あとは自動で毎月積み立ててくれます。お疲れ様でした。

5 その後の作業

その後の作業は税金の手続きくらいです。NISAにしておけば非課税なので手続きは不要です。IDECOは年末調整で手続きが必要です。

最初のうちは儲かっているかどうか気になるかもしれませんが、なるべく放っておきましょう。ただ、口座のお金がなくなって積立ができなくなっていたりするかもしれないので、時々チェックしましょう。そのためにも、あまり複数の証券会社を使うのはオススメしません。ただでさえ証券会社の口座にログインすると、いろいろな通知が届いているので、それを読まなければならなくて面倒くさいのです。

将来的にお給料に余裕ができたときなどには積立額の調整も必要となります。ここで重要なのは、自分のお財布の具合によって積立額を調整するのはいいけど、景気や株価といった外的な事情で積立額をいじるべきではないということです。だいたい人間の心理は裏目に出ます。安いときに買って高いときに売るのが商売の鉄則であると重々承知しつつも、株価が下がると投資から手を引きたくなり、株価が上がると投資に力を入れたくなります。そのような心理を克服するために機械的に積立にしたのに、色々といじっていたら意味がありません。日頃は投資のことなど忘れて、数ヶ月に一度、残高を確認してほくそ笑むくらいが投資との適度な距離のとりかたです。

6 趣味としての投資

ということで機械的な積立投資をお勧めしてきましたが、もし投資が面白いと感じたら、個別株を買ったり、デリバティブに手を出したり、色々試してみてもいいでしょう。

なぜなら自分のお金がかかっているのだから真剣に色々勉強するだろうからです。また、自分の判断で行動した結果、失敗したり成功したりするなかで学ぶことも多いでしょう。それはきっと、今後の投資において役に立つと思います。

そう考えると、趣味としての投資に回すのはせいぜい総資産の1割くらいにしておいたほうがいいでしょう。また、もし家族の資産を投資しているのだとしたら、きちんと家族の了解をとりましょう。家族の幸せのために投資をしているのですから投資が家族にとっての不幸になってしまったら元も子もありません。僕自身、投資をしていて負けを取り返そうと博打のように熱くなってしまうことがありました。投資は結構危険な趣味です。ほどほどに。