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やばいと逸脱

最近、意識的に「やばい」という言葉を使うようにしている。若者用語を使って若者に迎合したいという面もあるのだろうけれど、それを抜きにしても、「やばい」というのは、つくづくいい言葉だと思うのだ。

昔ながらの意味では「やばい」は悪いことだった。やばい奴というのは常識が通じない危険な奴だった。だけど、昔から、やばい奴にはどこか否定しきれない特別さもあったようにも思う。学校の不良にどこか憧れていたように、僕には、やばい奴への憧れがあった。30年近く前、スノーボードが流行り始めた頃、僕はスノーボードのビデオを見るのが好きだった。やばい奴らがやばい高さのジャンプ(エアー)を決めていた。滑り以外でも、きっとクスリでも決めているのだろうと思うような言動をしていて、そのやばさも格好よかった。そのとき、やばい、という言葉を使っていたかどうかは忘れたけれど、僕にとってのやばい、とはそういう感覚をひきずった言葉だ。

僕が好きな怒髪天というバンドのボーカルの増子直純によれば、ロックはやばい優先だ。「やばい」とはロックだということでもある。(そのことについて、僕は『ロックの日』という文章で書いたことがある。http://dialogue.135.jp/2018/02/17/69nohi/

僕にとっての「やばい」は、逸脱という言葉に置き換え可能だ。今までどおりの延長ではなく、決まったレールから逸脱することが「やばい」だと言える。

「やばい」のよさは、善悪のような物差しが適用できないという点にある。そこにあるのは、逸脱の大きさという絶対値のみである。プラスかマイナスかは逸脱してからでないとわからない。

だから、「やばい」は純粋な驚きの表現だとも言える。未知なるものへの驚きを意識的に見逃さないようにしようとして、僕は「やばい」という言葉を使うのかもしれない。

そのわからなさこそが未来そのものだとも言える。逸脱がなければ、変化もないし、成長もない。僕は未来の可能性という価値の片面は、そこに逸脱し、変化し、成長する可能性が広がっているところにあると思っている。(未来の価値のもう片面は、現在の延長として幸せを掴み取る可能性が広がっているというところにあり、どちらの可能性を重視するかは場合によりけりなのだろう。)

僕は、逸脱し、変化し、成長する場面を想像するときには、フランクルの『夜と霧』を思い出す。僕が好きなのは、収容所のなかでマロニエの木と語らう若い女性が、死の数日前に劇的な成長を遂げたというエピソードだ。その成長は、過去との連続性が乏しいという意味で、逸脱という言葉がふさわしいと思う。(以前書いた『夜と霧を読んで』という文章http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/で触れている。)

このように、僕が考える「やばい」は劇的な成長という未来の可能性ともつながっている。だから僕は「やばい」と言いたくなる状況に着目し、そのやばさを自分に対して推奨していきたい。

だけどそのように自分を鼓舞しなければならないのは、実際のところ、「やばい」を選ぶのはきついからなのだろうなあ。

身体的理想 踊るように、羽ばたくように生きる

久しぶりにあまり哲学的でない文章を書くことにする。

僕にとって哲学的な文章とは、誰かに役立つかもしれない文章で、哲学的でない文章とは僕以外の誰にも役立たなさそうな文章のことだ。

このように区分することは、僕の価値を過大に見積もっているのかもしれない。科学者ならば科学的に役立つし、建築家なら建築的に役立つが、僕にはそのような知識も技術もない。だけど、僕だって哲学でなら誰かの役立つことかもしれない、と考えていることになるのだから。

とにかく、だからこの哲学的でない文章は、僕だけのための文章である。

昨日のヨガのクラスで呼吸の仕方について話があったが、そこで、実は皆が呼吸を上手くできているのに、それを感じ取れていないだけだ、というような話があった。考えてみれば、無意識にできているのに、それを意識的に感じ取ることができないというのは、よくあることだろう。例えば、僕は、人並みにバランスをとって二足歩行ができるのに、どのようにバランスをとっているのかを意識することはできない。すぐには他に具体例を挙げられないけれど、似たようなことは色々とあるだろう。

僕はそこから、プラトンのイデア説と想起説を連想した。僕たちはイデア界では完全な歩行や完全な呼吸を意識できていたのに、この世界に生まれてきて、それを忘れてしまっただけなのだ。なんて。それが事実かどうかは別として、そう考えるとなんだかテンションがあがる。

僕は難しいヨガのポーズができないけれど、この世界に生まれる前にいたイデア界では、僕の身体はすべてのポーズを理想的なかたちでとれたはずではないか。もしかしたら、僕の身体は、理想的なあり方をしていたときには、この世界のすべてを表現し尽くせていたのではないか。それは、理想とは、もしかしたら到達できるかもしれない希望ではなく、現に確かに一度は手にしていたものなのではないか、なんて思いを馳せる。

だから僕は、僕の身体を既に理想形を経験したものとして取り扱うことにしよう。僕は、理想を想起するように僕の身体を取り扱うことにしよう。そうすると、少しだけ頑張れて、少しだけヨガのポーズをうまくとれるような気がする。

ヨガでちょっときついポーズをとろうとして自分自身を鼓舞するとき、もうひとつイメージすることがある。僕は僕の身体に翼が生えていて、空を飛ぶようなイメージを持つと少しだけ頑張れる。(そのことは『空と大地の間の「幅」』http://dialogue.135.jp/2021/06/26/haba/という文章で書いたことがある。)

これも僕の身体に宿る潜在的な能力を引き出すときのイメージだ。僕の身体には、僕が知らない歴史があり、僕が知らないような能力を秘めている。

話は変わるが、今朝、僕は不思議な夢を見た。他人の夢の話なんてまず面白くないし、特に今朝の夢は明確なストーリーもないから面白く伝えようもない。だけど僕自身にとっては、とても象徴的で示唆に富むものだったので、書き残しておく価値がある。

僕はアフリカの学校にいた。たくさんの小学生か中学生くらいの黒人の生徒たちがいて、汚くして騒がしくて、少なくとも好ましいところではなかった。(なお、僕はアフリカに行ったことがないし、僕がテレビで観たことがあるアフリカとも全然違ったので、どこでもない僕がイメージしただけの場所だったのだろう。)

なぜか僕はそこで、捜し物を一緒に探してもらったり、色々案内してもらったりして、ある程度の時間を過ごすうちに、その好ましくなさは、好ましさに変わっていた。

彼ら(彼女ら)は思慮が浅くて、踊ったり奇声を上げたりして騒々しかったけれど、そこに何か否定し難いものを感じるようになってきたのだ。理性的に考え、適切に判断して行動するのとは違う、別ルートの正しさがあるように思えたのだ。

夢から醒めたあとで思い返すと、それは生命力と呼ぶべきものだったのだろう。彼らの躍動する身体には生命力という正しさが秘められていたのだ。

ヨガの話と夢の話は、身体に秘められる力についての話だという点で共通している。身体には理想を体現する力が潜在しており、それは生命力と呼ばれるものである。僕は哲学が好きで、思考により哲学的に迫ることができる真実があると思っているけれど、それとは別に、イデア界かアフリカかはよくわからないけれど、全く別のところにもうひとつの真実があるということになる。思考的な真実と身体的な真実という二つの真実がある。そして後者の真実は生命力と名付けることもできる。

だけど、この二つの真実は、全くの別物とも言い切れないだろう。なぜなら僕はこの身体を使って哲学をしているからだ。できれば僕は、理想的なかたちでヨガをするように、またはアフリカの少年少女のように踊るように、哲学をするべきなのだろう。そのようなことはすぐにはできないから、せめて僕は僕の身体を動かし、踊り、羽ばたくところから始めるべきなのだろう。僕は踊るように、羽ばたくように生きていくぞ!

と書きつつも、思い返すと、僕は昔から、踊り、羽ばたくという言葉に象徴されるような浮遊感の虜なのかもしれない。僕はスノーボードで新雪を浮かぶように滑るのが好きだったし、ジャンプするのも好きだった。ライブでノっているときのあの感じは浮遊感と表現できるだろうし、海外旅行での非日常感も同種のものだ。酒を飲んで調子よく酔っているときの、または恋をしているときの、またはセックスをしているときの熱病のようなあの感覚も、どこかフワフワと漂っているような感じがある。そう考えると、僕は既に僕の身体を天上のイデア界に向けようとしている、と言えなくもない気がする。

と書き終わってみると、意外と哲学的な文章だったかも。

民主主義・試行錯誤・対話教育

1 政治について

(1)チャーチルの言葉

民主主義を擁護する際に必ずといっていいほど用いられるチャーチルの名言がある。うろ覚えだったのでネットで検索してみると次のような言葉だそうだ。

「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

僕はこの言葉に対して直感的に嫌悪感があった。格好良すぎて胡散臭い感じがしたのだ。

僕が感じた胡散臭さは民主主義に向けられたものだろうと今日まで思っていた。僕は民主主義よりも例えば五賢帝の時代のローマ帝政のほうがいい面もある、なんてことを考えているからだ。(血の繋がりがない優秀な子どもを教育して政治を任せるのはなかなかよいと思う。)だけど、それが嫌悪感の本当の理由だろうかと、このチャーチルの言葉に出会うたびにモヤモヤしていた。

今日、ふと、この言葉が好きではない本当の理由を思いつき、すっきりしたので書き残しておくことにする。

(2)思考停止・現状維持

僕がこの言葉が気に入らないのは思考停止しているからなのだ。僕には、この言葉は次のようなことを言っているように感じられる。

「現代の民主主義は確かに問題があるよね。日本の議員だってアメリカの大統領だって問題あるよね。だけど、残虐な領主が気ままに領民を虐げることができるような世界よりはマシでしょ。もし嫌だったら国のリーダーを選挙で変えることができるんだから。だから現代の社会も及第点なんだよ。」

ここにあるのは、現状を維持し、民主主義というお題目さえ守っていれば最悪の事態は免れられるという考え方だ。今の日本の政治システムも民主主義なのだからそう悪いものではない。だとしたら、これ以上政治システムについて考えても仕方ない。これは現状維持の思考停止以外の何者でもないだろう。

現代日本の場合は更に、この現状維持に日本独自の立憲主義が結びつく。日本国憲法は出来がいいから手を加えずに残すべきという考え方だ。だから僕は護憲という考え方が嫌いだ。(ちなみに僕の政治的主張は、核配備、政教分離、天皇制廃止(までいかなくても弱体化)といった独特な方向のものだから現在の改憲論議とは全く関係ない。)

僕が民主主義や護憲に対して抱く反感は、一言で言えば、なんで過去の人が決めたことに従わなければならないのか、というものだ。自分のことは自分で決めたいではないか。

僕が望むのは、試行錯誤して少しでもよい社会を手に入れることを目指そうとするダイナミズムだ。もしかしたら失敗するかもしれない。日本も世界も滅ぶかもしれない。それでも、もしかしたらより良い社会が手に入るかもしれないと挑戦し続けることだ。その試行錯誤のなかで見つける答えは民主主義かもしれないし、そうではないかもしれない。平和主義かもしれないし、象徴天皇制かもしれないし、そうではないかもしれない。とにかく過去の誰かにお膳立てしてもらった世界などクソくらえだ。とにかく僕は今ここで選びとった世界に住みたいのだ。

つまり、僕がチャーチルの言葉に反感を持ったのは、そこに込められた現状維持の臭いを嗅ぎつけたからだということになる。

だが実はチャーチルはそんなことはしていない。この文章を書くにあたってチャーチルの言葉には前段があることを知った。次のとおりだ。

「これまでも多くの政治体制が試みられてきたし、またこれからも過ちと悲哀にみちたこの世界中で試みられていくだろう。民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」

チャーチルはこれからも試みは続けられていくとしている。未来には民主主義以上の政治形態が見つかるかもしれないのだ。実はチャーチルの言葉は現状維持とは程遠いものだったのだ。それを誰かが切り取って悪用したに過ぎない。

(3)進歩主義

ところで、実は僕もチャーチルも、すでに民主主義よりもよい政治体制を見出しているように思う。それは、進歩主義や革新主義とでも呼ぶべきものだ。僕もチャーチルも試行錯誤や革新を通じて、より進歩した未来を見出そうとしているのだから、そのように名付けることは正当だろう。

だが残念ながら、進歩主義や革新主義という言葉は既に手垢がついてしまっている。現在用いられている進歩主義や革新主義とは、いわば概念的保守主義と言ってもいいものだ。なぜなら、自由や平等や人権といったフランス革命以降の先人が見出してきた概念を墨守し、無批判にそれらを守ろうとする考え方なのだから。

名前はともかく、僕とチャーチルが見出した、よりマシな政治体制とは、不断の試行錯誤を可能とするようなものだ。いわゆる民主主義でも絶対君主制でもかまわない。自由や平等や人権があってもなくてもかまわない。そのような枠にとらわれない動的な政治を可能とする体制なのだ。

(4)超・民主主義

ただし考えてみると、より幅広く深く試行錯誤を可能とするためには民主主義的で自由主義的な政治体制が必須のように思える。なぜなら君主ひとりが試行錯誤するよりも幅広い人々が試行錯誤したほうが、より試行錯誤できそうだし、制限なく自由に試行錯誤したほうが、より深く試行錯誤できるだろうからだ。

だが重要なのは、僕が求める民主主義的で自由主義的なものとは、現在の民主主義国家や自由主義国家が有するものでは全然足りないし、あえて言うならば似ても似つかないものだということだ。控え目に言っても現代日本と帝政ローマは五十歩百歩だ。そのような注意書きを付したうえであえて名付けるならば、僕が見出し、求めているのは、超・民主主義、超・自由主義とでも言うべきものなのかもしれない。その点では確かに民主主義は評価すべき政治体制ではある。

2 教育について

以上の政治についての議論は教育についての議論につなげることができる。

現在の教育システムは、民主主義や立憲主義といった既存の価値観を子どもに押し付けることに適している。実際、学校において、民主主義や日本国憲法といったものを否定することはなかなかできない。

僕はそこから脱し、より試行錯誤に適した教育が必要だと考えている。子どもが自ら試行錯誤する力を身につけることができるような教育である。

そう言うと、教育関係者は既に日本でも取り組みが始められていると答えるだろう。学習指導要領でもアクティブラーニングや対話による学びといったものが示されるようになっている、というように。

僕も哲学カフェという活動をしていて、対話に興味があるからそれはわかる。対話を通じて子どもが自ら試行錯誤して考える力がつくという道筋は否定しない。

だがそれでは全然足りない。もし学校の対話の時間に子どもが試行錯誤を学べるとするならば、それは、教師という大人が本気で対話のなかで試行錯誤することを認めるからだ。更には対話のなかで教師という大人が本気で試行錯誤してみせるからだ。そのような奇跡が訪れるのは、極めてわずかな瞬間しかない。その他の大多数の時間は、試行錯誤とは真逆のことばかり学ぶこととなる。なぜなら、大人自身が試行錯誤とは程遠い生き方をしているからだ。

教育において本当に必要なのは対話を教えることではなく、大人自身が試行錯誤しているのを見せることだ。もし教育において対話が役立つのならば、それは、対話というフォーマット自体に教育的意味があるのではなく、対話というフォーマットに、大人をも試行錯誤に導いていく不思議な力があるからだ。限られた対話の時間を終えても、大人は試行錯誤の見本を子どもに示し続けなければならない。それだけが子どもに試行錯誤する力を身につけさせる道に違いない。

当然、学校だけでは足りない。親も含めた社会全体が試行錯誤し続けなければならない。真の教育とは、大人の社会全体が真摯に試行錯誤することでしかない。それ以外は小手先のまやかしであり、失敗が運命づけられている。

大人が試行錯誤せずに子どもだけを試行錯誤させようとするのは、いわば負債の先送りであり、押し付けである。僕は子どもに対する対話教育というものに、そのような偽善を感じる。

妖精としての人生、妖精としての文章

1 妖精とは

僕は先日、サニーデイ・サービスの曽我部恵一について書いた際に、彼は妖精のようだと表現した。http://dialogue.135.jp/2020/10/03/harunokaze/

それからしばらく、妖精という言葉が心のどこかにひっかかっていた。なぜこんな言葉を使ったのだろう。自分で書いておきながら、僕は妖精という言葉に違和感があったのだ。普通、自分が書いた文章の言葉自体が心に残り続けるということはあまりない。(なぜなら、言葉とは自分の考えを表現したものに過ぎず、心に残るのは自分の考えであるはずだからだ。)だけど、この妖精という言葉は、僕の心で独り歩きしはじめていた。

僕は妖精という言葉にどのような意味を込めているのか。

先日僕は曽我部恵一のMVを観て、彼について「音楽の神に愛でられた、人間とは別の存在だ。彼はただ、音楽のためにだけ存在し、音楽を体現する存在なのだ。」と書いた。それを妖精と喩えた。

僕が妖精という言葉に託したのは、一言で言うと生活臭のなさかもしれない。具体例としては、曽我部恵一よりも有名な人、アイドルやハリウッドスターを思い浮かべるといいかもしれない。ただ、最近はSNSなどで色々と私生活についての情報が流れてくるから、いっそ、歴史上の偉人のほうがいいかもしれない。更には、イエス・キリストでも。

僕たち人間は日々生活しているけれど、妖精のような彼らは、ただ歌ったり、映画に出演したり、布教したりしている。そこには泥臭い日常はない。

そのように考えるならば、僕自身も実は妖精だと言えなくもない。職場の同僚から見た僕は、ただ働いている存在だ。オナラやゲップを職場ではしない。プライベートな話もするけれど、それはあくまで職場の人間関係を逸脱しない限りでのものだ。(仮に僕が逸脱した行動をとったとしても、それは逸脱した行動をする職場の人間として解釈されるにすぎず、どこまでも職場の人間関係に回収される。)僕は職場の同僚にとっては、ただ働くためだけのために存在する妖精だ。僕は他者にとっては妖精である。できの良さは別にしても。

このように考えているときの感覚は、自分探しとも喩えられるような、若い頃のあの感覚に似ている。誰も僕のある一面しか見てくれず、100%の僕を理解してくれる人などどこにもいない。そんなことばかりを考えていた頃の孤独な感覚だ。

だが、大きな違いがある。若い頃はそれが嫌だったけれど、今はそれが心地よい。僕は日常に埋もれるようにして日々をなんとか生き延びているけれど、そんな不純な僕のなかに含まれている最もきれいな上澄みだけを見てくれている人がいる。それはとても嬉しいことだ。

2 妖精としての人生

生きるとは、混沌とした人間としての人生を、他者から見られる妖精としての人生に変換していくことなのかもしれない。

若い頃の感覚に基づくならば、僕の人生には無限の可能性があるはずだ。それなのに、結局は有限でしかないものに変換されてしまう。それが若い頃の僕が描いていた人生だ。

一方で歳をとった現在の解釈を誇張するならば、人生とは名目上可能性に満ちていたとしても結局はありふれたものにならざるを得ない。そんな人生を、一瞬ではあっても、誰かに認められるような輝くものとすることができる。

そこには二つの不当な取引が含まれているように思う。

ひとつは、ありふれた人生をあたかも価値があるものにするような、何もないところから光を生み出す錬金術のような不当さだ。もうひとつは、無限の可能性を有限のちっぽけな結果に変換するような、いわば奪い去られるような不当さだ。前者は僕が濡れ手に粟で得てしまう不当さであり、後者は否応なしに奪い去られる不当さだと言ってもいい。ここには相反する二つの方向性がある。

重要なのは、この二つを対比して打ち消し合うことはできないし、また、この二つを循環や交換として捉えることで正当な取引として位置づけることもできないということだ。妖精の人生を手に入れたからといって、その代わりに人間の人生を差し出すことはできないし、いくら人間の人生を差し出しても、その代わりに妖精の人生を手に入れることが正当化されることはない。その意味で、妖精の人生と人間の人生との間の取引は、二重に不当なものだ。

この不当さは奇跡と言ってもいいだろう。無限の可能性としての(またはありふれたものとしての)人間の未来と、輝くような成果としての(または所詮有限でしかないものとしての)妖精の過去との間には、その間の変換を成し遂げる場としての奇跡的な今がある。

歳をとって、僕はこの不当な奇跡を積極的に引き受けたいと思っている。無限ではあっても不定形でしかない可能性としての未来を、有限ではあっても明確な成果としての過去に変換することを、この今において引き受けたいと思っている。長年生きるうちに、それを引き受けざるを得ない状況に追い込まれているとも言えるけれど、長年生きるうちに、それを責任を持って引き受けてもいいとようやく思えるようになった、とも言える。

そこで重要となるのは、妖精の創造性である。人間の僕は死んで無に帰るけれど、妖精の僕がつくりあげたものは残り続ける。ここに不当な奇跡を生むトリックがある。このトリックを積極的に認めるならば、僕は、妖精の創造性を最大限に発露しなければならない。

その意味では人が妖精になるとは創造するということであり、直接的に表現するならば、人は創造者、つまりクリエイターとなるべきなのだ。更にはっきり言うならば、人生の意義は何かを作り上げることにあり、そうしない人生には価値がない。

なお、何を作るかというジャンルを選ぶことはできるだろう。僕ならば、僕が作るものは哲学的な文章となるはずだ。僕は妖精のように哲学的な文章をつくりあげていきたい。それが人生の意義だ。

3 妖精としての文章

ここには妖精という言葉のもうひとつの含意がある。妖精という言葉のなかに、僕が進むべき道が示されている。クリエイターならば、妖精の名に恥じないような、価値あるものを求めるべきだ。

では、その価値とはどのようなものか。

多分、価値には二通りある。人間としての価値と妖精としての価値だ。

前者においては人間世界に役立つかどうかという観点が重要だ。価値を真・美・善と表現するならば、人間世界をうまく説明するような発見、人間世界に貢献するような(誰かの目を楽しませたり、メッセージ性があったりする)美術作品、人間世界に役立つような道徳といったものにこそ価値があるということになる。

後者の価値においては人間世界に役立つかどうかは関係ない。ただひたすら正しく、美しく、善いものを目指す。そこでは真・美・善がひとつに溶け合っている。

妖精ならば後者を目指すべきだろう。僕にとってクリエイターであるとは哲学的な文章を書くことだから、僕はただひたすら、人間世界に役立つかどうか似など目もくれず、ひたすら妖精的な価値があるような、真・美・善がひとつに溶け合うような文章を書いていくべきなのだ。ここで妖精という言葉は、僕が書く文章の指針となる。僕が書くべきは、妖精のように理想的な思考の流れを表現する文章だ。それを目指すのが僕のクリエイターとしての後半生なのだろう。

このようなことをめざして、僕は文章を書いているのかもしれない。

投資のすすめ

この文章はわかりやすい文章を書く練習のために書いたものです。

また、この文章は投資を全く知らないけど興味がある知人に僕なりの考えを説明するためのメモです。だから全く哲学的要素はありません。経済学的な誤りや独断も入っています。

0 わからないものには手を出さないという原則

この文章では、投資において僕が大事だと思うことを細々と説明していきます。

なぜなら、投資においては、わからないものには手を出さないという原則が大事だと思うからです。

逆に言えば、わかったら、分かる範囲で投資に手を出してほしいと思っています。多分、これから僕が説明しつつおすすめする程度の投資は、掃除の仕方や新幹線の乗り方といったことと同じくらいには人生において必要な知識だと思うのです。

1 投資のすすめ

1-1 お金を守る

これからおすすめする投資とは、ざっくり言うと、お金を減らさないようにすることです。だから、投資の目的はお金を守ることだと言っていいと思います。つまり、この文章はお金の守り方についての話です。(これから、お金を増やす、儲けるといった表現も使いますが、このことは覚えておいてください。)

お金を減らさずに守るというと、銀行預金やタンス預金をすればいいと思うかもしれません。確かにそうすれば、銀行が潰れたり、泥棒に盗まれたりしない限りお金はなくなりませんよね。だけど、実はそれではお金を守ることにはなりません。

まず、何十年の単位で見るとインフレにより確実にお金の価値は下がっていきます。昔は100円だった缶ジュースが120円になったりするように。経済学的に理論上絶対にインフレになるとは言えないかもしれないけれど、経験則的にはほぼそう言えるでしょう。インフレの影響を免れるためには、タンスからお金を出して、お金を動かす必要があるのです。

1-2 分散投資

また、銀行預金のより根本的な問題は、銀行預金だけでは「日本」の「現金」に資産が集中してしまうところにあります。実は資産をどこにも投資しないことはできません。手元に100万円があるとして、それで米国株を買わないからといって、どこにも投資していないニュートラルなお金にはなりません。米国株を買わず日本の銀行に預金をするということは、日本とアメリカとを比較し、日本を選択したということであり、現金での資産形成と株式での資産形成とを比較して、現金での資産形成を選択したということなのです。つまり、あなたは手持ちの資産100万円すべてを「日本」の「現金」に資産を集中するという危うい選択をしてしまったのです。

ここで「危うい選択」と表現しましたが、なぜこれが危ういかというと、投資においては分散投資をしたほうが安全である、という考え方があるからです。

もし、100万円のうち50万円を日本に投資し、50万円をアメリカに投資していたら、日本だけが不景気になっても半分しか影響を受けません。アメリカだけが好景気になれば半分はお金を増やすことができます。

さらには日本に投資している50万円のうち25万円で日本株を購入し、25万円を銀行預金にしておけば、株価が上がれば半分嬉しいし、株価が下がれば半分悲しくなるだけで済みます。

これが分散投資の考え方です。つまり小分けにしておいて、喜ぶのも悲しむのも「ほどほど」に抑えよう、という戦略です。

一方で、もし100万円全額を日本円で銀行預金にしておいたらどうでしょう。円高ドル安になればラッキーだと喜ぶでしょう。1ドル=100円だったのが1ドル=90円になれば、アメリカ旅行で10万円以上贅沢ができるのですから。また株式が暴落して不景気になっても嬉しいでしょう。株価が例えば半分になったら、それは世の中の株式に投資していた資産家の資産がすべて半分になるということなので、その分不景気になって商品の価格が値下がり、資産を全額銀行預金していた人は引き出した現金で商品を安く買うことができるのですから。(株式しか持っていなかった人は商品が半額になっても資産も半分になっているので買えるものは変わりません。)

ここまでが銀行預金をして日本円の現金に集中投資することのメリットですが、当然、集中投資が不幸を招く場合もあります。円安になれば資産価値は下がりますし、株価があがって好景気になったなら、物価上昇にも関わらず現金の額は変わらないので、相対的には資産価値が下がることになります。皆が好景気で喜んでいるときに取り残されてしまうことになります。つまり、好景気によるインフレについていけないことになります。

このような事態に陥らないように、分散投資を勧めているのです。

1-3 リスクを受け入れられるか

ここで、「円安やインフレがあっても日常生活で困ることはないのだから銀行預金でいいではないか。」という反論があるのではないかと思います。

確かにそのとおりです。海外旅行での買い物でレートを計算するときや、ハイパーインフレーションで紙幣を束で持っていかなければパンも買えないような極端な状況でなければ、多分、実感として、「ああ、銀行預金だけでなく分散投資しておけばよかった。」などと後悔することなどないでしょう。

一方で、分散投資を選択してアメリカ株式を購入していたら、毎日の円ドルのレートが気になってしまうし、アメリカ株大暴落なんていうニュースを読んだら心穏やかではいられないでしょう。「いやいや、逆に日本円の現金は相対的に価値が高まったんだよ。」なんて言われても慰めにしかなりません。

僕もそう感じるだろうし、多分それは心理学的に人間に当然の反応であって、なにもおかしいことではありません。だから無理に、投資に対する恐怖心を押し殺して投資する必要などないと思うのです。なぜなら、所詮、お金は幸せになるための手段ですから、お金のせいで不安になってしまったら本末転倒です。

だから、株式などに投資をするかどうか、また、投資をするにしてもどの程度とするかは、自分の心や家族の意見に耳を傾けたうえで判断すべきと思います。

1-4 人生における投資の意義

それでも僕は、攻めた投資を勧めます。なぜなら投資とは、自分の未来を少しでもコントロールしようとする努力だと思うからです。

なお、僕が勧める攻めた投資とは、儲けが大きい博打のような投資をするという意味ではありません。不安に打ち勝ち、分散投資という基本に則り、理にかなった投資を理屈どおりに淡々と実行するということです。詳しくは後述しますが、それは、最適と思うかたちで資産配分するということでもあります。日本円の預金20%、日本の株式30%、ドルの外貨預金25%、ドルの株式25%というように。(割合は適当です。)

なぜそれが未来のコントロールにつながるのかと言えば、それを実行するだけで、リスクに対する恐怖心に負けて不効率な資産の配分をしてしまった人よりも有利な道を歩める可能性が高まるからです。

ただし、あくまで高まるのは可能性です。最適と考える投資をしても資産が減ることはあります。というか、儲かったときより損をしたときのほうが心に残ることをかんがえると、実感としては損してばかりと感じるかもしれません。

それでも攻めた投資を勧めるのは、自分の人生を自分で選んでいるという実感につながるからです。リスクへの恐怖に打ち勝ち、淡々と自らが定めた投資を継続することができたなら、その結果がどうであっても最善を尽くしたという自信につながるのではないでしょうか。そして、その自信が、投資以外も含めた人生全般においてプラスになるのではないでしょうか。

1-5 投資の効果

ただ、こういう精神論だと響かないかもしれないので、別の方向から投資を勧めたほうがいいかもしれません。

投資が成功すれば金銭面での自由を得られます。何億もの資産があれば全く働かずに資産収入だけで暮らすこともできるかもしれません。だけど、そこまでいかなくても、例えば、1000万円の資産があり、そこから毎年3%の収入が得られれば、毎年30万円分を生活費に回すことができるし、うまくいければ海外旅行だって行けます。これはなかなかの成果でしょう。

その成果は無理をして博打のような投資をしないと到達できないものではなく、適切な投資を続けるだけで到達出来る可能性があるものなのです。

1-5-1 世界の株価

例えば今日(2020.10.18)のS&P500(アメリカの株価指数)は3483ですが、調べてみると、50年前の1970年10月の指数は84だったようです。(https://jp.investing.com/indices/us-spx-500-historical-data

これはつまり、アメリカに投資していたら、50年で資産が40倍に増えていたということを意味します。単純平均で年8%(400%÷50年)ですね。

たまたま当時のアメリカの調子がよかったと考えたとしても、今後もどこかに投資して年3%くらいだったら期待できそうな気がしませんか。

1-5-2 複利効果

更に着目したいのが複利効果です。

100万円投資して翌年に103万円になったとして、その3万円で温泉に行くのはいい選択です。温泉は気持ちいいし、日常から離れたところでのんびりご飯を食べるのは贅沢な気分になりますよね。だけど、もしその3万円を翌年の投資に回したら、
103万円×103%=1,060,900円となり、温泉に行くよりも900円増えます。これが複利効果です。
900円だとたいしたことがありませんが、もし20年間続けたなら、100万円は80万円増えて180万円になります。もし毎年温泉に行っていたら(20年×3万円で)60万円しか使えなかったはずなので、20年後には20万円の差が出ることになります。

ここで、20万円というと、やはりたいしたことがないと思うかもしれません。確かにそうなのです。20年温泉を我慢して、やっと20万円です。子どもが生まれてから20年間、子どもを国内旅行にも連れて行かずにお金をためて、20年後、成人した子どもとようやく80万円を使って海外旅行に1度だけ行ったとして、それが幸せなのかというと、僕は違うと思います。だから複利効果も念頭におきつつ無理はせずに今を楽しみつつ資産運用するのがおすすめです。

だけど投資を勧める立場としては、もう少しアピールしたほうがいいかもしれません。先ほどは年3%で計算しましたが、例えば、過去のアメリカと同様に年8%の伸びがあったとします。そうすると、100万円は20年後には466万円になります。毎年8万円を使ってしまっていたら、(20年×8万円で)160万円しか使えなかったはずなので、複利効果により200万円を手に入れられる計算になります。もしあなたが投資に楽観的な見通しを持つ方でしたら複利効果はより魅力的なものとなるはずです。

2 資産の種類

ここまでで、銀行預金やタンス預金だけでなく、外国株式なども含めて分散投資をすることの必要性と魅力は理解いただけたと思います。

ここからは、具体的にどのように分散投資すればいいのか、という話に移ります。

2-1 株式と現金

投資先となる資産としては、現金(預金)、株式のほかにも、債券、商品(金や小豆など)、不動産といったものがあります。

ちなみに、ここで挙げていないものとして投資信託がありますが、投資信託とは、株式や債券の買い方についての名前です。投資信託とは株式や債券をいくつかまとめたものを小分けにして売り買いしているものです。だから、投資信託とはつきつめると株式や債券のことです。また、その他にも有名なものとして外貨預金もありますが、外貨預金とは外国の預金なので、現金に含めることにします。

それでも色々な種類があって戸惑うかもしれませんが、ここまで列挙した資産はざっくりと、株式と現金に分けることができます。それ以外の債券、商品、不動産といった資産は、いずれも株と現金の二面性を持ったものとして扱うことができると考えています。

2-1-1 株式

株式は、ご存知のとおり、企業が発行するものです。株式とは、その企業の所有権を細かく分けたものだと言っていいでしょう。1棟のマンションに10世帯が住んでいるとします。これはつまり、そのマンションを10世帯で10分の1ずつ所有しているということです。外壁のペンキを塗るかどうか、管理会社をどこにするか、といったことは10世帯の合意で決めることとなります。それと同じ関係が企業と株式の間にはあります。

いやいや、実際は株主ではなく社長が色々と決定しているでしょう、と思うかもしれません。確かにそうなのですが、投資の観点では、企業=株式という視点が重要です。なぜ、企業と株式を同一視することが重要かと言えば、それは資本主義経済の担い手は企業だと言っていいからです。つまり、資本主義経済=企業=株式 なのです。(データ上も世界のGDPと世界の株式の総資産はほぼ連動しているようなので、この考えは大きくずれてはいないと思います。)

ここに株式の重要性があります。株を買うとは、つまり資本主義経済を買っているということであり、株を買わないとは、つまり資本主義経済に乗っかっていないということなのです。

何百年もの間、資本主義経済は右肩上がりでした。世界恐慌などで一時的に収縮することはあっても、資本主義経済は膨張し続けています。好むと好まざるとにかかわらず、僕たちは資本主義経済にとりこまれ、そのなかで物を買ったりしています。完全に自給自足の生活を送るのでなければ、資本主義経済に投資しないということは、右肩あがりの世界で、自分だけが(資本主義経済的な見地では)損をし続けるという選択をするということなのです。

脱線ですが、ここにお金持ちと貧乏人の差があるのだろうと思います。お金持ちはどんどんお金が増えていき、お金がない人は増やす元手がないので損をし続けることになります。そこには努力などではどうしようもない大きな格差があります。

それはともかく、資本主義経済に乗っかるための手段として株式投資には明らかな優位性があると言えるでしょう。

2-1-2 現金

株式の対極にある資産は現金です。現金はそのままでは額面上、増えもしないし減りもしません。長期的には資本主義経済の発展により、相対的には価値が減少していきます。明治時代の1円札は額面上1円の価値しかないように。だから現金は明らかに損です。

ただ現金は、先ほど指摘したように、なんとなく安心するという効果があります。ここまで色々と現金が不利であることを説明してきたけれど、それでも、株価が上下するのを毎日ニュースでチェックするよりも、銀行預金の預金高を眺めたほうが安心できる気持ちは僕も同じです。現金が持つこの魅力は無視してはならないと思います。

また、子どもを大学に入れるために500万円は準備が必要だとか、今月の食費として10万円くらいはとっておきたいとか、わかりやすさも現金の魅力です。突然ハイパーインフレーションになれば10万円では食費は賄えないかもしれないけれど、そのような僅かな可能性を無視するならば、現金さえあれば将来に備えることができます。近い将来に必要なお金は手元に必要です。(どのくらいが近い将来かは後述します。)

もうひとつ、すぐに使えるというのも現金の優位性でしょう。証券会社を使っていて意外と面倒なのが資産の現金化と現金の出し入れです。株か投資信託かといった資産の種類により違いはありますが、手続きに数日は見ておいたほうがいいです。もし不動産投資などをしていたら、現金化には月単位で時間がかかるでしょう。現金化までの間に必要となる可能性がある額の現金は手元に置いておくべきです。

以上のような現金の優位性も考慮し、ある程度の現金は手元に残しておくべきでしょう。(このような文章を読むような方は、すべてを株に回すようなことはないと思いますが。)

2-1-3 債券

債券とは、国や企業の借金を証券化したものです。借金なので国や企業はお金を貸してくれた人に利息を払います。利息を狙って債券を購入するのです。ではその利息はどのように決まるのかというと、借金する時点で予想される資本主義経済の伸び率によってです。国か企業から「今年の資本主義経済は3~7%伸びると思うけど、平均の5%よりちょっと少ないけど、確実に4%の利息を払うからお金を貸してくれない?」と提案されて「他のところに投資したら5%くらい儲かる可能性が高いけど、それより確実に4%を狙ったほうがいいかな。」なんて思った人が債券を買うのです。

そのように考えると、資本主義経済に乗っかっているという点では債券は株式に近いし、将来が確定して安心できるという点では債券は現金に似ています。つまり債券は株式と現金の中間の性質があると言っていいと思います。

(なお、そこから更に債券の発行元の信頼度で利息は上下します。先進国の国債なら利息は低いし、破綻しそうな国や企業の債券なら利息は高くなります。直近の1年で10%の確率で破綻しそうな国の債券なら、年10%くらいの利息を上乗せしてもらえなかったら買う気にはなりませんよね。また、外国の債券は外貨としての性質もあります。だから為替レートによっては大きく損をすることもあります。利率が高い債券には注意しましょう。)

2-1-4 商品

商品と呼ばれるもののなかには、金、原油、大豆といったものがあります。

正直、この文章を読むような人は商品には興味がないと思うけれど、金くらいは検討するかもしれないので僕の考えを簡単に説明しておきます。

金は最近20年くらい価格が上昇し続けていますが、金の価格があがるのは世界のお金(貨幣)が増えているからです。金も採掘されてはいますが、それよりもお金(貨幣)が増えているので相対的に金の価格が上がっているのです。

では、なぜお金(貨幣)が増えるのかといえば、やはり資本主義経済が膨張しているからです。つまり、金の価格が上昇するのは、資本主義経済が膨張することの影響を受けているから、ということになります。とすると、この点では金は株式の一種と考えてもいいでしょう。

他の商品も似たようなものとも言えますが、原油や小豆は投資のためだけの商品ではなくいわゆる実需もあり、価格の変動も大きくなります。また原油を買うためには原油を保管するためのタンカー代も負担しなければならない、産出国が正常不安定だと事件が起きて価格が大きく変動することもある、といった様々な留意点が商品ごとにあります。よってその分野に詳しくない限り、金以外の商品は避けたほうがいいと思います。ちなみに僕自身は、金についても、例えば新しく海水から金を精製する技術ができて価格が大きく下がるのでは、といったことを考えてしまうので手を出すつもりはありません。わからないものには手を出さないという原則を特に心にとどめておくべきなのが商品の分野だと思います。

2-1-5 不動産

不動産も商品に似ています。バブルを例に出すまでもなく、不動産というのは余ったお金が流れ込む先です。金と同様に、投資に値する不動産には限りがあるので、世界経済が膨張するにつれ、世界の不動産の価格は右肩上がりになっていきます。その点では、商品と同様に、不動産も株式と似たようなものと言えるでしょう。

一方で、不動産についても、不動産ならではの様々な特徴があります。火事があれば燃えてしまう、アパートを建てた途端に近くにあった大学が移転してしまうなどなど。不動産は一番身近な金融商品かもしれません。

その点では、商品と同様に不動産も初心者向けではないのですが、不動産については自分で使うこともできる、という特徴があることは留意しておくべきでしょう。つまり、持ち家も資産運用のひとつなのです。賃貸に住み続けるか持ち家にしたほうがいいのか、という問題は、マイホームの夢というような漠然としたものではなく、資産運用のひとつ、それも上級者向けの資産運用だということを肝に銘じてシビアに検討すべきでしょう。
(ちなみに僕は持ち家にしました。賃貸だとちょうどいい物件がないというのが大きな理由です。ただし将来貸せそうか、転売できそうか、といったこともそれなりに考えて決断しましたよ。)

なお、不動産の場合、非常に低い金利でローンを組めるという点も重要でしょう。個人が投資目的で融資を受けることはなかなか難しいですが、住宅を買う場合にだけ非常に有利な条件で認めてもらえます。だから、なるべく長期の住宅ローンを組み、返済額を最低限にして、余剰のお金を投資に回すという戦略をとることもできます。ただこれも、不動産というただでさえ上級者向けの資産運用を、借金してまで行うということなので、それなりの検討が必要でしょう。

以上のように、すべての金融商品は、資本主義経済に乗っかっている株式的な側面と、そこから外れるものとしての現金的な側面を有していると考えることができるでしょう。

図で示すと、「株式・不動産――商品(金)――債券――現金」となるでしょうか。(金の位置づけは微妙ですが。)

2-2 基本戦略

ここまで、投資先となりうる資産について種類ごとに考察してきました。

他にもデリバティブと呼ばれるような金融商品もありますが、契約上の複雑な仕組みを使ったものなので、わからないものには手を出さないという原則を踏まえれば避けたほうがいいでしょう。ちなみにFXもデリバティブの一種です。ざっくり言うと、デリバティブとは保険の一種で、「○○の事態が生じたときに損をしないor儲かる」という契約を結ぶということです。保険料を支払う代わりに家が火事になったら建て替え費用を補填してくれる火災保険と同じようなものです。同様に、(1ドル=105円の今)1ドルが100円以下に下がったら利率がゼロになる代わりに1ドルが100円以上のまま推移すれば利率を倍にするという契約を結ぶことになります。(ただし、火災保険とこの例のデリバティブでは、どちらが胴元になるかで違いがあります。火災保険の場合は保険会社がリスクを負い、デリバティブではドル安となるリスクを我々が負うことになります。)

そのような上級者向けの金融商品を除外するならば、僕が提案する投資戦略は次のようにまとめることができます。

ステップ1:必要な現金の額を把握し、とっておく。

ステップ2:残りは株式投資に回す。

ステップ3:株式と現金との中間的な性質を持つ投資先(債券、商品(金)、不動産(特に持ち家))について、どの程度、株式や現金と置き換えることができるか検討する。

ということになります。

ステップ3が複雑なのですが、重要なのはステップ1と2なので、ステップ3については無視しても大きな問題はありません。

債券を買うか、金はどうか、と悩むのが面倒なら、株式しか買わなくても大きな問題はありません。不動産についても、持ち家にするのは相応の決断が必要だけど、賃貸にしている限り大きく失敗することはないはずです。

3 投資の具体的な戦略

さて、現金と株式を組み合わせるという基本戦略を定めたところで、具体的な投資の仕方という各論に移ります。

さきほどの基本戦略で、いくら現金でとっておき、いくら投資に回せるかは明らかになったとして、次の段階として、手持ちのお金を具体的にどのように投資すればいいのかを検討することとなります。(いくら現金としてとっておくべきか自分で考えるのが不安なら、ファイナンシャル・プランナーに相談をしたらいいと思います。ライフステージごとにいくら必要なのか、わかりやすく教えてくれるでしょう。ただ、変なところとつながっていないところに相談しましょうね。)

3-1 個別株vs投資信託

ここでの投資とは、原則として株式投資を指すので、まず個別株を買えばいいのか、投資信託を買えばいいのか、について考えましょう。

なお、念のため説明しておくと、個別株とは、ソフトバンクやアップルといった企業の株を購入することです。

この問題については結論は簡単で、はっきり言って、個別株を買うのはやめましょう。

わからないものには手を出さないという原則を踏まえるならば、個々の会社の事情など素人にわかるはずがありません。もしあなたが内部の関係者で事情に通じていたら、インサイダー取引となり犯罪です。

また、個別株に手を出すということは情報収集などに相応の時間をかけることにつながります。あなたの趣味が株式投資でない限り、このようなことに時間を使うことは人生の無駄です。投資に費やす時間を最低限に抑えて人生を有意義に使いましょう。

では、時間をかけずに効率よく投資をするにはどうすればいいのでしょう。

その答えが、ここまで僕が勧めてきた、分散投資を導入し、資本主義経済の膨張に乗っかるという戦略です。
広く薄く投資すれば大きく損をすることはなくなるし、資本主義経済の膨張という揺るがない事実に乗っかれば間違いありません。

そのためにちょうどいいのが投資信託です。
投資信託は、色々な企業の株式(や国の債券)をまとめたものなので、例えば、米国情報技術セクターETFという投資信託を買えば、アップルやマイクロソフトなどの株式を少しずつ購入したのと同じことになります。
(ETFとは、投資信託を株式のように取引できるようにしたものです。)
これならば、たとえアップルが倒産しても、少し値下がりするだけの被害に抑えることができますよね。

絶対、選ぶべきは投資信託です。

3-2 日本株式vs外国株式

世界にはアップルやマイクロソフトだけでなく、なだたる企業があります。一方で日本だって、一時の勢いはないにせよ、トヨタやソフトバンクなど負けていません。近年の株価の伸びでは日本は分が悪いけれど、そもそも、わからないものには手を出さないという原則を踏まえるならば、日本人であるならば、多くの情報が得られる日本に投資したほうがよいようにも思えます。

海外と日本、どちらの戦略もありうるとは思うのですが、ただひとつの点を考慮し、僕は、日本ではなく海外に投資すべきと考えます。

考慮すべきは、日本に住んで、日本で給料をもらっているという時点で、すでに日本に集中投資しているようなものだ、という事実です。

多分、この文章を読むような方は、働かずに済むような資産家ではなく、日々、仕事をして日本円で稼いでいるでしょう。将来、日本の景気がよくなれば、給料はあがるし、年金などの社会保障も安泰となります。そうなったら、正直、ちまちまと投資をして増やしたお金など、あまり必要ありません。

一方で、もし日本の景気が悪くなり、給料が下がったり、年金制度が破綻したりしたとき、外国株式に投資していたらどうでしょう。生活の助けに多少なる程度の額かもしれませんが、そのようなお金が無傷で残っていたことに、とても有り難く思うのではないでしょうか。

不必要なときには少ない額でいいけれど、必要なときにはなるべく多くの額がほしい。そのためには、日本の経済とは別の値動きをする資産を持っていたほうがいいのです。とするならば、日本株に投資するか、日本以外の外国株とするかの答えは明らかでしょう。

株式投資を外国株に絞ることで、逆に、仕事は日本、株式投資は外国というかたちでの分散投資ができるのです。

3-3 積立投資

ここまでで、株式投資をするなら、日本以外の外国株式の投資信託だということがわかりました。

では、早速、手元にある100万円で100万円の投資信託を買えばいいのでしょうか。それはちょっと急ぎすぎですよね。

今の株価が安いのか高いのか、これから株価が上がるのか下がるのかは誰も知りません。知っていたらその人は億万長者です。だから、今、どんなに買いどきだと思っても値下がりするリスクはあります。全額で投資信託を買ってしまって、いきなり値下がりしたら、投資なんて嫌になってしまいますよね。

おすすめは定額を少しずつ積み立てるという戦略です。これはドルコスト平均法とも呼ばれ、大きく損はしないし、大きく得もしないけれど、ちょっと得かな、という感じのやり方です。

僕は、この戦略は、実際に得するかどうかよりも、心穏やかに投資できるという点にメリットがあるように思えます。
株価が大きく下がっているときには、既に買った分は値下がりしてしまったけれど、これから買う分は安く買えるんだ、と自分を慰めることができます。
株価が上がっているときは、もっと早く買っておけばよかった、もう少し下がったら買おうかな、なんてモヤモヤ考えずに、自動的に淡々と購入することで、買い時を逃さずに投資することできます。
人間の心の弱さを補うものとして、積立投資戦略はとても有効だと思うのです。

なお、毎月の給料から一定の額を投資に回すという場合、いくらずつ積立をするかは簡単に決められますが、すでにある100万円をいくらずつ積立に回すかは難しい問題です。

僕にも答えはありませんが、考慮すべきは、世界的な株価の下落は、これまで、コロナ・リーマン・・・と遡ると10年に1度くらいの頻度で起きているといいう事実です。そう考えると少なくとも数年かけて積立が終わるよう、少しずつ積立をしたほうがいいように思います。一方で、早めに投資を始めないと儲けも少なくなるというジレンマはあるのですが・・・

3-4 投資の期間

ここまでで、よし、投資するぞ、と思っていただいた方がいたら嬉しいです。

だけど、ここまで勧めてきてなんですが、その投資はなんのためにするのでしょうか。たぶん、将来、まとまったお金が必要になったときのために、ということだと思いますが、それはいつのためでしょうか。

僕が考える投資とは、10年、20年の長期間で行うことを想定しています。長期的な経済環境の変化から資産を守るための投資なのですから当然でしょう。未来は不透明だからこそ、少しずつ分散投資をすることでリスクを減らして資産を守るという戦略をとっています。だから短期的には損をすることもあります。

もし、あなたが今、中学生の子どもがいる親で、大学進学資金で株式投資しようとしているならばやめたほうがいいと思います。(または後述する債券投資に限ったほうがいいと思います。)数年で得られるかもしれない儲けは少ない割に、万が一、損をして大学進学ができなくなったら、最悪、家庭崩壊です。

僕の提案する投資が一番適しているのは、老後資金のために行う投資です。

10年、20年と投資期間があれば、コロナやリーマン級の株価下落があったとしてもいずれ持ち直すでしょう。これまでの資本主義経済の傾向を信じるならば大きく損をすることはないはずです。うまくいけば、年8%の複利効果によりお金は大きく増えるかもしれません。そうしたら早期退職をして世界一周旅行ができるかもしれません。(僕の願望です・・・)

そういう妄想はともかく、重要なのは、長期的な世界経済の変動に家計がついていけるということです。万が一、日本の財政が破綻しても、日本だけが経済停滞して貧しい国になっても、外国資産というかたちで資産を守ることができるのです。

このような長期的な視点の投資は、少なくとも10年くらい先を見据える余裕を持って行うべきだと思います。

もし、あなたが目指す投資が僕が考える投資とずれているならば、少なくとも僕が提案するままに投資をするのはやめたほうがいいと思います。

3-5 NISAとIDECO

ここまで、なるべく汎用的な内容にしようと心がけてきましたが、ここで2020年の今にしか通用しないだろうことに触れておきます。

NISAとIDECOです。これらがどのような制度かは色々と情報があるので皆さんにお調べいただくとして、ざっくり言うと、いずれも税金が安くなる制度です。だから、条件に合えば絶対に使うべきだと思います。

ただ、その前提として、投資の期間をどの程度想定するか、という問題があります。NISAは頻繁に売り買いすると不利になる可能性があり、IDECOは60歳まで引き出せません。

だけどこれらは、僕が考える長期的な投資スタイルでは問題とはなりません。先ほど想定したような、10年、20年先の老後を見据えて長期の投資期間を考えているならば、積極的にこれらの制度を使うべきだと思います。

4 具体的な投資のあれこれ

ここまでで、目指す投資スタイルが明らかになりました。10年、20年という長期間にわたり、NISAやIDECOを最大限活用し、日本以外の外国株式の投資信託を積立投資しつづけるというものです。

ここからは、僕自身の経験を踏まえた独断も含めて、具体的にどうすればいいのか、お示ししたいと思います。

4-1 証券会社選び

まず、お世話になる証券会社を選ぶことになりますが、ポイントはいくつかあると思います。

①長期間お世話になるので、できるだけ大手で安心できるところ。(万が一破綻しても、お金が引き出せないなんてことはないですが、色々面倒なので。)

②NISAやIDECO、投資信託の取り扱いが充実しているところ。(個別株の取引が充実しているところではなく。)

③費用が安くて色々と便利なネット証券。

という感じでしょうか。当てはまるところはいくつかありますが、独断と偏見では、2020年10月現在だと「SBI証券」がいいと思います。なお、あわせて「住信SBIネット銀行」の口座も開設しておくと色々と便利かもしれません。(ほかには「楽天証券」もいいかもしれませんね。「マネックス証券」はなんとなく、少し玄人向けな気がします。)

4-2 投資信託の銘柄選び

証券会社を決めたら、いよいよ銘柄選びです。(その前に面倒な口座開設手続きはありますが・・・)

4-2-1 インデックスファンド

まあ、外国株式の投資信託ならなんでもいいのですが、おすすめは、インデックスファンドというものです。投資信託には、投資信託を運用する人があれこれ考えて投資するアクティブファンドと、株価の指標(日経平均とかダウ平均とかいうやつです。)に機械的に連動するだけのインデックスファンドというものがあります。本気で儲けようとするならば、ファンドマネージャーを信頼してアクティブファンドもいいでしょうが、僕が推奨する投資は、あくまで分散投資をして資産を守るためのものなのでインデックスファンドで十分です。

インデックスファンドのメリットはコストの安さです。投資信託にかかるコストとしては、購入時にかかる買付手数料と、毎年かかる信託報酬とがあるのですが、インデックスファンドはいずれも低く抑えられています。

ダメ押しとなりますが、面白いことに、決してアクティブファンドの成績は決して優秀ではありません。ソースはきちんと調べていませんが、アクティブファンドの成績の平均値はインデックスファンドに負けているらしいです。

ということで、インデックスファンドで間違いないでしょう。

4-2-2 アメリカか世界か

さて、具体的な銘柄を選ぶ際の最大の難関のひとつは、世界全体の株式を買うか、それともアメリカの株式を買うか、です。

実は分散投資と言っても、世界の株式の3分の2はアメリカ株です。つまり株式に分散投資するとは、アメリカ株を買うということにかなり近いです。これでは分散投資にならないですよね。ここが苦しいところです。

それならば諦めて本家のアメリカ株に限るか、それとも、これからは新興国の時代だということで世界株を選ぶかは、個人の好みの問題だと思います。

この問題を僕自身が考えるにあたって重要だと思っている視点は「人口ボーナス」と「覇権国家」です。

人口ボーナスとは、人口が増えているときに、その国の経済は伸びるという法則です。人口増が経済成長のボーナス加点になっているから人口ボーナスです。戦後日本がよい例でしょう。若いベビーブーム世代は、老人介護などの問題を抱えずに右肩上がりの経済成長を達成しました。それと同じことが世界中で起きているというのが人口ボーナスという視点です。

この視点から東南アジアそして中国の成長が説明でき、その次はアフリカだと言われています。ちなみにアメリカは先進国になっても移民による人口増が予想されている珍しい国です。

つぎに「覇権国家」ですが、これは、どちらかというと政治学用語です。紀元前後はローマ帝国が覇権国家で19世紀はイギリスが覇権国家でした。20世紀は当然アメリカです。現代は覇権国家アメリカに準覇権国家である中国が挑戦しようとしている図式でしょうか。

アメリカと中国の振る舞いを見ていれば、覇権国家のメリットは明らかでしょう。覇権国家になれば、ジャイアンのように自分のルールを周囲に押し付けて有利な状況を作り上げることができるのです。覇権国家だけが世界経済の果実を総取りできるとも言えます。(僕はあまり詳しくないですが、1985年のプラザ合意がその例でしょう。これは覇権国家アメリカが日本に円高を押し付けることでアメリカが日本の富を奪い取ったとも言えるでしょう。)

僕個人は、このような観点から、米国株に絞ってもいいかな、と考えています。どうせ米国株が下がれば、よほどのことがない限り、全世界の株が値下がりするだろうし、とも思っています。(このあたりは人それぞれだと思います。)

あと、細かい話ですが、世界株式より米国株式のインデックスファンドのほうが手数料はちょっと安いです。

また、世界株式タイプの投資信託の多くは、投資先に日本が含まれてしまっているので、少額でも日本に投資してしまうことが嫌でしたらやめたほうがいいかもしれません。

ということで、世界株式と米国株式の二択で悩んでください。

4-2-3 債券も少々

ここまで株式前提で話を進めてきましたが、安心感という点では現金に近い性質を持つ債券も捨てがたいものがあります。

債券を発行するということは、アメリカのような一流国が利率を決めて利息を払うと約束してくれているのです。この約束が破られるときは世界の経済が破滅するときでしょうから、あまり気にすることはありません。ですので、債券は実質的には外国通貨での定期預金のようなものと考えてよいでしょう。

更に投資信託になっていれば、いつでも売り買いができるので、数日待てば現金化することもできます。

ということで、安心感を重視するなら、投資信託を選ぶにあたっては株式だけでなく債券の投資信託を考慮に入れてもいいと思います。
または、当座必要でないけれど確実に現金として確保しておきたい分は、現金ではなく債券にしておいてもいいと思います。

なお、ここ場合も外国債券を選ぶのがポイントです。日本の債券を選ぶということは結局、日本円に集中投資していることになってしまいます。外国の債券ならば通貨の面では分散投資ができるので、僕が提案している投資スタイルにうまく合致します。

4-2-4 銘柄選び

以上を踏まえると、具体的には、世界株式か米国株式のインデックスファンドに、好みに応じて外国債券の投資信託を組み合わせるという戦略がおすすめということになります。

では、それを踏まえて銘柄選びです。

(実は僕が提案している投資スタイルは非常にオーソドックスなものなので、最近出てきているロボアドバイザーを使っても同じようなことになります。つまり、こんなに長々と読まなくても、ロボアドバイザーサービスに申し込めばよかったのです。だけど多分、ロボアドバイザーはIDECOやNISAに対応していないので、それらを活用する方は普通に自分で銘柄を選ぶ必要があります。)

コストが低いインデックスファンドには、いくつかブランドがあって、2020年現在、代表的なものは、eMAXISとバンガードです。このあたりは移り変わりがあるので参考までですが。まあ、インデックスファンドはコスト競争が激しく、いきつくところまでいっている感があるので多分、どれを選んでも大差ないです。

ただ、証券会社の一覧に出てくる投資信託のなかには米国株式のうち中小企業だけに投資するものや、世界株式のうち先進国にだけ投資するもの、というように投資先を限定したものもあるので注意してください。ここで選ぶべきは、なるべく薄く広く投資するタイプの投資信託です。

あと、債券も混ぜるなら、バランス型と呼ばれるカテゴリーを選ぶといいかもしれません。これは債券と株式などいくつかの種類の金融資産をバランス良く混ぜたものです。

とにかく証券会社のサイトで、国際株式、国際債券(またはバランス)のカテゴリーに区分されているインデックスファンドを手数料が安い順で並び替えてよさそうなやつを選びましょう。購入する銘柄で検索をすればネット上で評判も出てくると思います。

そのようにして選んだものは多分メジャーな銘柄なので積立購入に対応しているし、多くは積立NISAやIDECOにも対応していると思います。

積立日の設定は、気分としてですが月初や月末よりは普通の日のほうが変な値動きがなくていいと思います。自動車もやっぱり月初や月末のほうが混んでいるので、そういう日はなんとなく避けたほうがいいかな、と。

あと、ボーナス月の増額もしないほうがいいと思います。目指すは均等な分散投資ですから。

ということで投資の準備はこれでおしまいです。あとは自動で毎月積み立ててくれます。お疲れ様でした。

5 その後の作業

その後の作業は税金の手続きくらいです。NISAにしておけば非課税なので手続きは不要です。IDECOは年末調整で手続きが必要です。

最初のうちは儲かっているかどうか気になるかもしれませんが、なるべく放っておきましょう。ただ、口座のお金がなくなって積立ができなくなっていたりするかもしれないので、時々チェックしましょう。そのためにも、あまり複数の証券会社を使うのはオススメしません。ただでさえ証券会社の口座にログインすると、いろいろな通知が届いているので、それを読まなければならなくて面倒くさいのです。

将来的にお給料に余裕ができたときなどには積立額の調整も必要となります。ここで重要なのは、自分のお財布の具合によって積立額を調整するのはいいけど、景気や株価といった外的な事情で積立額をいじるべきではないということです。だいたい人間の心理は裏目に出ます。安いときに買って高いときに売るのが商売の鉄則であると重々承知しつつも、株価が下がると投資から手を引きたくなり、株価が上がると投資に力を入れたくなります。そのような心理を克服するために機械的に積立にしたのに、色々といじっていたら意味がありません。日頃は投資のことなど忘れて、数ヶ月に一度、残高を確認してほくそ笑むくらいが投資との適度な距離のとりかたです。

6 趣味としての投資

ということで機械的な積立投資をお勧めしてきましたが、もし投資が面白いと感じたら、個別株を買ったり、デリバティブに手を出したり、色々試してみてもいいでしょう。

なぜなら自分のお金がかかっているのだから真剣に色々勉強するだろうからです。また、自分の判断で行動した結果、失敗したり成功したりするなかで学ぶことも多いでしょう。それはきっと、今後の投資において役に立つと思います。

そう考えると、趣味としての投資に回すのはせいぜい総資産の1割くらいにしておいたほうがいいでしょう。また、もし家族の資産を投資しているのだとしたら、きちんと家族の了解をとりましょう。家族の幸せのために投資をしているのですから投資が家族にとっての不幸になってしまったら元も子もありません。僕自身、投資をしていて負けを取り返そうと博打のように熱くなってしまうことがありました。投資は結構危険な趣味です。ほどほどに。

サニーデイ・サービス「春の風」 憧れと嫉妬

僕は、音楽を聞くときは、Spotifyなどを使って音だけを聞くのではなく、YouTubeで動画を流すことが多い。「ながら」作業ができないからでもあるけれど、僕はMVが好きなのだ。
MVにも色々なパターンがあって、短編映画のような動画も好きだけど、アーティスト本人がただ演奏しているのも好きだ。

今日、サニーデイ・サービスの「春の風」という動画を観た。僕はサニーデイ・サービスのボーカル&ギターをしている曽我部恵一のファンだ。彼は90年代後半から第一線で活躍し続けているアーティストで、ソロ名義や曽我部恵一バンド名義でも多くの作品を残している。

「春の風」は疾走感があって、若々しくて、僕とほぼ同年齢でベテランの領域にいる彼がこんな曲をつくるなんて、なんて素敵だろう、と思った。いや、歳の割に、なんて適切ではない。ただただいい曲だった。

画面の向こうで歌い、ギターをかき鳴らしている彼は、僕から遠く隔絶していて眩しかった。僕は彼に憧れて、そして、ちょっと嫉妬していた。こんな気分になったのが久しぶりだったので、僕はこんな文章を書こうと思ったのだ。

彼は僕のように、餃子を食べて口がにんにく臭くなったり、仕事に疲れて夜中にエッチな動画を開いたり、せっかくの休日に布団の中でTwitterを見て過ごしたりはしない。
彼はただ、空の下で、ギターを弾き、素敵な言葉を紡いでいる。きっと彼にも僕と同じようなちょっと格好の悪い瞬間はあるのだろうけれど、MVのなかの彼は、どこまでも透明で、どこまでも輝いていた。
僕は、そんな動画のなかの彼に憧れて、嫉妬しているのだ。

こんな嫉妬なら悪くない。嫉妬とは、自分の外側の世界に、自分が持っていない素晴らしいものがあると感じることであり、現状ではその何かを手に入れられないことに気づくことなのだろう。僕はどうも内側にこもりがちで、外の世界にはたいしたものが転がっていないと思いこむところがある。
たまには僕も自分を更新し、動画の中の彼が持っているものを目指していこう。曽我部恵一という個人が持っているかどうかは知らないけれど、MVのなかの彼が持っているあれを目指していこう。もしかしたら、僕も誰かからそんなふうに見られることがあるかもしれないと期待しつつ。

動画のなかの彼は妖精だ。人間ではなく、音楽の神に愛でられた、人間とは別の存在だ。彼はただ、音楽のためにだけ存在し、音楽を体現する存在なのだ。そんな彼のことを僕は妖精のようだと思う。(彼の曲に、中年の天使について歌ったものがあるから、妖精ではなく天使でもいいかもしれない。)

僕も哲学の神に愛でられた存在になろう。いや、そんなことは不可能だから、せめて一瞬でも、誰かにそう見られるような存在となることを目指そう。そんなことを思った。

(10/4追記)
だから僕は文章を書くのかもしれない。書いている間だけでも、そして文章の中でだけでも、僕は妖精のような純粋な存在になれるから、僕は文章を書くのかもしれない。

「愛を伝える5つの方法」を読んで ~愛と対話の話~

1 5つの愛の言語

「愛を伝える5つの方法」という本を読んだ。夫婦が仲良くするためにとても大切なことが書かれていた。わかりやすく、コンパクトなのでたくさんの人に読んでほしい。数時間あれば流し読みで十分理解できると思う。(僕は古本で買ったけれど、キンドル・アンリミテッドにも入っているようだし。)

この本の主題は、一言で言うならば、「愛の伝え方には5種類あり、相手が得意な方法で伝えないと、その愛は伝わらない。」というものだ。5種類の愛の伝え方とは、僕の表現で置き換えるならば、①言語、②時間、③物、④行為、⑤身体となる。言葉で愛を表現してほしい人に対して、物(プレゼント)で愛を表現しても、その愛は伝わらない。身体接触で愛を表現してほしい人に対して、掃除をしてあげたり、ご飯を作ってあげたり、といった行為をいくらしても、その愛は伝わらない。そういったズレが、夫婦の問題を生じさせている。だから、夫婦がうまくいくためには、相手の愛の言語を知り、その言語で愛を語らなければならない。この本で書かれていることの主なところはこのようにまとめることができるだろう。なお、この本では、愛の伝え方のことを愛の言語とも呼んでおり、英語話者に対して中国語で語りかけるような愛の言語のズレが生じているから、夫婦の問題が生じてしまう、という比喩も用いている。

2 脱線:夫婦カウンセリング

脱線だが、なぜ僕がこの本を読んだのかというと、夫婦カウンセリング(コーチング)を受けていたら、この本の話が出てきて、興味が湧いたからだ。確かに、僕と妻との問題は、愛の言語のずれに起因する側面があったように思う。

なお、脱線してまでプライベートな夫婦カウンセリングのことになぜ触れたかというと、第三者がカウンセラー(コーチ)として夫婦関係に関与することがもっと一般化したらいいと思ったからだ。夫婦で正式にカウンセリング(コーチング)を受けるというのは思ったより意義ある経験だった。お金を払った分だけ真剣に取り組めたし、夫婦で同じ話を聞いて共通の知識を身につけることで、その後の生活でも「これは、あのときのあの話だから注意しようね」なんていうかたちで使えるからだ。閉鎖的なものになりがちな夫婦関係に他者の目が入ることで明らかに夫婦関係はもっとよくなる。ぜひ、特に結婚したての夫婦に、もっとカジュアルに体験してほしいと思う。

3 キリスト教的な愛

実は、この本に書かれていたことで、主題である5種類の愛の言語の話以外に、もうひとつ興味深かったことがある。

それは、キリスト教的な愛についての描写だ。キリスト教的な愛と言っても、神学的な難しい話ではない。多分、日曜日の教会での説教で聞いても皆が理解できるような話だ。この本の作者はアメリカのキリスト教の牧師でもあるからだろうが、この本の根底には、世俗的キリスト教の観点からの愛が流れている。

僕は、この愛の話を、相手に合わせて自分と異なる愛の言語を語ることの困難さと、その困難を乗り越えることの重要さについての話だと理解した。

この本は、妻と触れ合ったり、旅行をしたりして一緒に楽しい時間を過ごすことこそが愛の表現だと思っている僕に対して、そうではなく、毎日トイレ掃除をすることで愛を表現しなさい、と命ずる。正確には、そのようなかたちで愛を表現するかどうかを僕の選択に委ねる。この本は僕に対して「彼女は毎日のトイレ掃除を通じて愛されていると理解することができるようだけど、あなたは毎日のトイレ掃除というかたちで愛を囁く覚悟はある?」と問いかける。

これはかなり厳しい選択だ。これではまるで僕は彼女に気に入られるためだけにトイレ掃除をするみたいだ。確かにトイレ掃除は必要だけど、たいして汚れていないのに、ただ彼女の機嫌を取るために毎日、無駄なトイレ掃除をするなんて耐えられない。(なお、これはフィクションです。我が家ではトイレ掃除は僕の担当ではありませんし、毎日は掃除していません。)

ここで、この本はキリスト教的な愛を持ち出す。これは彼女の機嫌を取るための行為ではなくて愛なのです、と。トイレ掃除とは、キリストが弟子の足を洗うのと同じく献身としての愛なのです、と。

4 恋と愛

ここでの愛とは、恋愛という言葉を用いるなら、恋と対比しての愛だと言ってよいだろう。「恋と愛とは違うのか」という、多くの人が一度くらい考えたことがあるだろう人気のある哲学的テーマだ。

この本では、この恋と愛の違いの問題ついても見解を述べている。その見解は、恋と愛とは全く違う、というものだ。この本によれば、恋とは一時的な(多分罹患後2年ほどで自然治癒する)病のようなものだ。そして嵐のような恋が過ぎ去ってから、全く別のものとして本当に重要な永続的な愛が始まる。一時的な恋と永続する愛の間には大きな違いがあり、だからこそ夫婦で愛を育むことは重要だとこの本は強調する。

僕はこれまで、恋と愛について、重なる部分もあり、異なる部分もある、というくらいに考えていた。だが、確かに恋と愛の間にはこの本が述べるような断絶はあるように思う。そして、その断絶は、きっと恋と愛のプロセスには真逆といってよいほどの違いがあることに由来するのだろうと気づいた。

4-1 恋

ここからは、この本に書かれていることではなく僕個人の理解だが、恋のプロセスは次のようになるだろう。

① AがBに好ましい特徴を見つけて、相手を気に入る。

② うまくいけばBもAに好ましい特徴を見つけて、自分を気に入る。

③ AとBは、お互いに好ましい特徴を持っていて、相性がいいのだから、二人とも自然体でやりたいことをすればうまくいく。

このようなプロセスを経て恋は始まる。しかしこの本に沿うならば、この恋のプロセスは行き詰まることとなる。

恋のはじまりにおいて、僕は、彼女には好ましい特徴(優しい、趣味が合う 等)があるから、僕が自然体で振る舞えば、きっとそれを受け止めてくれるし、一緒に色々なことができるだろうと考える。きっと彼女も、彼には好ましい特徴(頭がいい、頼りがいがある 等)があるから、私が自然体でいれば、きっと理解してくれるし、安心して過ごすことができると考えるだろう。恋の始まりにおいて抱くこのような思いは一見妥当なように思える。お互いに認めた者同士がペアになれば、他の組み合わせよりもうまくいく可能性は飛躍的に高いに違いない。

しかし実際にはそうはならない。長時間にわたり一緒に過ごすことは思ったよりも難事業であり、一点でもうまくいかないことがあると、そこから綻び、全てが崩れてしまうことがありえる。確かに、お互いに認め合った夫婦であれば、他の人と組むよりも多くのことはうまくやれるけれど、どうしても生じてしまうたまたま合わなかった僅かなことが問題となり、その問題が夫婦関係全体を覆い尽くしてしまうことがあるのだ。

それでも、恋の初期には取り繕って相手にいいところばかり見せてしまうし、恋で盲目になってしまっているから僅かな問題に気づくこともないだろう。けれど、いつか恋の魔法が解けると、問題が顕在化し、それがたとえ僅かなものであっても、うまくいっている部分よりも、その僅かな問題のほうに目を向けざるを得なくなる。

これは、砂漠で喉が乾いているときに、空気があるからいいとは思えないのと同じことなのだろう。人間は生きていくうえで水も空気も必要だ。空気がなかったら一瞬で死んでしまうのだから、はるかに水よりも空気のほうが重要だと言ってもいいだろう。しかし砂漠で喉が乾いているとき、空気があったからいいとは思わない。周囲にある空気には意識も向かない。

同じことが夫婦の間でも起きる。彼女の優しさや彼の頭の良さは空気のように充満しているけれど、そこには目が向かず、毎日のトイレ掃除を求める彼女のヒステリックな物言いや、生返事でさぼる彼のだらしなさが砂漠での喉の乾きのように二人の心を支配するようになる。

このようにして恋は夫婦関係の変化に対応することができず、恋という熱病は冷めていくこととなる。

4-2 愛

そこで登場するのが愛だ。愛の立場に立つならば、そもそも、好ましい特徴があるから相手を好きになる、という順序自体が間違いなのだ。本当の愛においては、理由などなくても、まず献身しなければならない。相手に好ましい特徴があるかどうかや相性がよいかどうかなど関係なく。

このような愛の立場は、さきほどの恋のプロセスの反転図形のように、次のようなかたちで描写できるだろう。

① (なにもなくとも、まず)Aは、Bに対してBが望むことをする。

② BがAのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、BはAを気に入る。

③ (Aを気に入った)BがAが望むことをする。

④ AがBのなかに(望むことをしてくれるという)好ましい特徴を見つけて、AはBを気に入る。

⑤ AとBとが、お互いに好ましい特徴を持つようになり、よい関係となる。

以上の恋と愛のプロセスを対比するならば、

恋:(好きという)理由→行為→(結果は自然についてくる)

愛:(理由はない)→行為→(相手が喜び、二人がうまくいくという)結果

というように、理由・行為・結果という三者のなかでの力点の置き方の違いがある。恋においては、お互いが好きであれば、どのような行為をしても結果は望ましいものであるはずだ。一方、愛においては、理由はどうでもよく、ただ相手に奉仕し、相手が望む結果を目指すものである。または、恋においては、好きだから相手に奉仕する。奉仕したならば当然にお互いにとって良い結果を招くのだからそんなことはどうでもいい。愛においては、好きでも嫌いでもいいのでただ相手に奉仕する。だからこそ夫婦関係がうまくいくという結果がついてくる。

このような(理由を無視して)行為と結果というかたちで描写されるものが、この本での、世俗的キリスト教の文脈での愛のかたちなのだろう。

4-3 世俗的な愛

なお、この愛について、「世俗的」キリスト教的な愛としたのは、この愛が結果を重視したものだからだ。これに対しては、多分、相手が喜ぶというような見返りを期待しているようでは本当の愛ではないという反論があるだろう。愛をつき詰めるならば、理由も結果も関係なく、ただ奉仕という行為だけが重要だという真っ当な考え方だ。

だが僕はあえて、行為と結果というペアで愛を捉えるべきと主張したい。奉仕した結果として相手が喜び夫婦関係はうまくいくと考えることは、僕のような凡人が奉仕するにあたってはとても重要なことだ。あえて言うならば、相手を喜ばせるために、夫婦関係をうまくいかせるために方便として奉仕すると言ってもいい。それでは奉仕とは呼べないかもしれないけれど、それでもいいと思っている。

僕が描こうとしているのは、求道者でなくても、長くつきあった老齢の夫婦であれば誰でも普通にたどり着くことができるような、どこにでもある愛の姿だ。僕はどこにでもある普通の夫婦関係がうまくいくことを願っている。この本と同じように。

5 格好悪い愛

さて、普通の恋愛における恋と愛のプロセスの違いについて再確認しよう。恋と愛では、理由と行為と結果での力点の置き方に違いがあるのだった。

ここで特に着目したいのは、恋には好きという理由があるが、愛は理由ない行為、つまり奉仕から始まるという点だ。

この違いを重視するならば、恋から愛に進むために必要なのは、まず自分から格好悪い役回りをすることだと言ってよいだろう。自分の価値観と相容れなくても、プライドを捨てて、まず自分から相手が望むことをする。「あなたの愛を手に入れるために、まず自分からあなたを愛します。」恥をかき捨ててこんな宣言をし、愚直にそのとおりに実行することこそが愛なのだ。奉仕の愛とは、このようにとても格好の悪いものなのだ。

できれば、こんな格好の悪いことは極力手際よく済ませて、はやく愛のエンジンを着火し、愛の好循環を起動させたい。多分、一旦起動してしまえば、そんなに格好悪い思いはしなくて済む。愛は羽ばたくまでがみっともない。

では、愛を効率よく起動させるためにはどうしたらいいのだろう。せっかくプライドを捨てて、力を振り絞って自分から率先して愛を表現するならば、できれば最初から成功させたい。そのためには、失敗なくストライクを狙えるようなノウハウを事前に入手しておいたほうがいい。

そこで重要になるのが、この本が示してくれる5つの愛の言語だ。奉仕の愛を成功させるためには愛の言語について学び、相手への上手な伝え方を知る必要がある。ここにこの本の大きな意義がある。

だから、この本では自分の愛の言語を知り、相手の愛の言語を知るためのノウハウが色々と書かれている。愛の始まりは格好の悪いものだからこそ、このようなノウハウを知り、最短距離で愛を立ち上げることは、とても重要なのだ。

6 この本への不満

だけど僕はこの本の詳細に不満がある。5つという愛の言語の区分は粗すぎるように思うのだ。それは、この本でも愛の言語に「方言」という下位区分が登場することからも明らかだろう。「方言」という言葉は、お互いに同じ愛の言語を使っていても方言が違うから理解し合うことができない、という文脈で登場する。この本も、愛の言語を5種類に分類するだけでは足りないことは認めている。

それならば、方言の違いも事前に列挙すればいいように思うけれど、それは難しいだろう。なぜなら方言はいくらでも考えつくことができるからだ。例えばプレゼントを喜び、プレゼントを愛情言語とする人々のなかにも金額が高い品物が好きな人とセンスがいい品物が好きな人がいる、というように細分化はどこまでも可能だ。多分、愛の言語は5種類どころではなく、人の数だけあるのだろう。それどころか同一人物のなかでも、愛の言語は少しずつ変わっていくに違いない。昨日は優しい言葉が欲しかったけれど、今日は勇気づけるような言葉が欲しい、というように。

だから、相手の愛の言語を十分に把握することは不可能だ。それならば常に、相手のことを丁寧に観察し、完全には把握できない相手の愛の言語を少しでもよく知ろうとする絶え間のない努力が必要になる。

そもそも、愛の言語を分類し、当てはめて理解する、というやり方が、愛の言語を描写するには不十分なのだろう。

だから、この本における、チェックリストで愛の言語を見つけるというアプローチも不完全である。5種類ではなく、例えば方言も取り入れて10種類に増やしても同じことだ。またチェックリストの結果が同じだったり違ったりすることで一喜一憂することにも意味はない。最終的に愛の言語を見つける唯一の道筋は、この本にも書いてあったが、二人で話す時間をとり、お互いに望みを具体的に伝え合うしかない。

愛の言語は無限にあり、変化していくものだから、二人の対話を通じて少しずつ知っていくべきものなのだ。

7 格好の悪い愛2

二人で話し、お互いの望みを伝え合う場面を想像してみる。「僕は毎朝、ハグをして、キスして欲しい。」「僕は一人で休日を過ごすのが寂しいから、一緒に海に行きたい。」僕はそんなことを妻に言っているはずだ。こんな情景を思い浮かべてみるととても恥ずかしくなる。僕にとっては格好の悪いことで、プライドもなにもあったものではない。

だけど、やはり、このような格好悪いことこそが愛なのだ。

格好悪いことをすることこそが格好いい。そのような逆転が愛という言葉のなかには含まれている。僕は愛という言葉がどこかいかがわしく、あまり好きでなかったが、このように解釈するならば悪くないと思う。僕は愛という言葉に勇気づけられて、率先してプライドを捨てることができる。

愛とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その愛し方を愚直に実行することなのだ。

全てが認められ、自由気ままに振る舞えばよかった恋の季節が終わった後、つまみ食いのように別の恋を求めるのではなく、恋ではない生き方を求めるならば愛するしかない。それは一見、かなり格好悪くてプライドを傷つけられることだ。だけど、この本は「それは愛だから大丈夫だよ」と勇気づけてくれる。僕はキリストの愛をそのようなメッセージと受け取った。

格好悪さを乗り越える勇気を与えてくれるもの、これこそが愛なのだろう。

8 蛇足:この本を批判したことへのフォロー

(以下は蛇足です。)

なお、僕は、この本が愛の言語を5種類に分け、チェックリストで簡単に判別できるようにしたことを不十分だと批判したけれど、この本の目的を考えるならば適切なものだと思う。

なぜなら、この本が第一に目指したのは、夫婦間での愛の言語の「違い」を具体的に、かつ簡単に理解してもらうことだろうからだ。5種類にすれば、相手と違う可能性は5分の4で80%となる。チェックリストを使って愛の第一言語を調べるだけでほとんどの夫婦は愛の言語の違いに気づくことができる。この本が伝えたいのは愛の言語の「一致」ではなく「違い」だとするなら、この80%という数字は悪くない。不幸にも20%に含まれてしまった夫婦も、方言の違いを考慮できるし、なにより、二人で愛の第一言語を調べる過程で、お互いの感じ方の違いに気づき、そこから話し合いを始めることができるだろう。

なお、以上のこの本の効能は、夫婦で仲良く読んだ場合を想定している。だが残念ながら、パートナーと一緒にこのような本を読むことができない状況でも、この本のアプローチは有効だろう。

とりあえず、相手の協力がなくても、5区分を用いて、荒っぽくでも相手の愛の言語にあたりをつけることができる。そして、一人だけでこっそりと相手に奉仕し、愛の好循環のプロセスを発動することができる。それは二人で始めるよりも大変な道のりだろうが、少しずつでも良い方向に進むことはできるだろう。(この本にもそのような事例があった。)一人でとりあえずのスタートを切るためには、二人で始めるときよりも、この本のようにわかりやすく単純化された記述は役立つに違いない。

以上の二つの理由から、僕はこの本のアプローチは適切だと思う。僕がこの本を批判してでも描きたかったのは、その先の続きだ。

9 蛇足:対話

僕がこの本を取り上げたのは、僕が興味を持っている「対話」につながるものだからだ。最後に、多くの人にはどうでもいいことだろうけど、自分のために、ここまでの話と対話とをどのように接続できるかを述べる。

繰り返しの確認になるが、夫婦の間の愛の最も望ましいあり方とは、自分をさらけ出し、相手に愛し方を教えてもらうことであり、そして、その教えてもらった愛し方を愚直に実行することであった。

ここには僕が重視する対話の二つの要素が現れている。自分をさらけ出すとは、対話において話し手に求められる誠実性のことだ。妻と対話するならば、話し手である僕は、プライドなど捨てて、愛し方がわからないことを妻に申し出ることが重要となる。それが妻に対して誠実であるということだ。また、教えてもらった愛し方を実行するとは、対話において聞き手に求められる誠実性のことだ。せっかく伝えてもらった言葉を、自分の価値観に合わないから、格好悪いから、といった理由で無視することなく、しっかり受け止め、そのまま自らの行動に反映させることが重要だ。このように、愛においては、対話における話し手としての誠実性と聞き手としての誠実性の二つが重要となる。このようにして、ここまで述べてきた愛と対話は重なっていく。

更には、愛とは、誠実な対話のことだと言ってもいいように思う。僕が妻を愛するとは、誠実に妻と対話することなのだ。

半歩先の話

僕は何か思いついたアイディアを、誰かに「やってあげる」ことが好きだ。すべての人に届かないにしても、それが誰かの役に立つととても嬉しい。そこで、相手の評価はそれほど重要ではない。感謝されなくていいけれど、僕から見て、役に立っていると思えることが重要だ。

だから、往々にして、僕がやっていることは押し付けになってしまっているだろう。最も望ましい「やってあげる」は、僕が思いついたことではなく、相手が思っていることを「やってあげる」なのだから。

当然、独りよがりにならないよう、相手のことをなるべく知って、その人が望みそうなことを提供できるよう心がけてはいる。だが、僕の価値観上、やりたくないことはしたくない。(極端な例としては、殺人したいという望みに協力はできない。)それに、相手が明確に望むことばかりをしていたら、僕という存在が無意味なものに思えてきてしまう。(購買にパンを買ってこいと言われて買いに行くパシリか、道具のようなものになってしまう。)だから、それにも限界がある。

落としどころとして、相手が望むことの一歩先とまでは言わないけれど、半歩先を提供できるよう心がけている。相手が望むだろうことも理解しようとしつつ、僕の価値観ともすり合わせて、相手の望みと僕の思いの中間点あたりを目指している。

その試みがうまくいけば、相手は喜んでくれるし、僕もうれしくなる。そうすれば、相手は僕のことをもっと認めてくれるし、僕ももっと色々したくなる。その結果、更に相手は喜んでくれて、僕もうれしくなる。好循環が生まれる。もしうまくいかなければ、逆に負のスパイラルに陥る。

この成否を分けるのが、いわゆる相性なのだろう。ただ相性と言っても、お互いの価値観や性格だけではなく、上司と部下というような立場や、それまでの経緯というか、二人の間の歴史とでも呼ぶべきものまでも含んだものだ。

では、なぜ、僕は「やってあげる」ことが好きなのだろう。それは多分、自己実現とか承認欲求と呼ばれるものと大きく関係するのだろう。自分が思いついたアイディアを達成し、それを評価してもらえるのが嬉しいということは多くの人が同意してくれるように思う。特に僕にとっては、世界に貢献しているかどうかが重要だ。簡単に言えば、僕が存在することで、世の中が少しいい方向に進んだと思いたい。

もうひとつ重要な理由として、僕もそのようにしてほしいという願いがあるのだと思う。僕が願っていることの半歩先で、僕が思いもしなかったことを、だけど言われてみれば確かに望んでいたことを、提供してくれる人を探している。

この半歩先が難しいのは、自分のことも尊重しつつ、相手をしっかり見なければならないからなのだろう。一歩先なら自分のアイディアだけを見ていればいいし、0歩先なら相手が明確に望むことだけをしていればいい。半歩先を成功させるためには、相手と自分の両方に注意を払わなければいけない。それはとても手間がかかることだ。

半歩先は労力を要することだから、限られた人生においては、なかなか達成できることではない。だけど、なぜかうまくいくときもある。そんなときは、相手に興味を持ち、注目することが苦にならない。そして、無理をせずとも、自然と相手のことがわかる。そして相手が同じ思いだということもなんとなくわかる。それは幻想なのかもしれないけれど、確かにそのときには、そう思える。

というと、なんとなく恋愛っぽい話に聞こえるかもしれないが、恋愛に限らず、友人とでも、職場の人間関係でも起こることだ。それが相性であり、そのような人間関係を手に入れたくて、僕は人生の何割かを費やしているのかもしれない。

では、そのような相性のよい関係を手に入れられるかどうかは偶然に左右されるしかないのだろうか。運命の出会いという言葉もあるように、確かにそのような一面もあるように思える。だが、ある程度までは言葉で補うことはできるように思える。言葉でお互いの願いや価値観について伝え合い、二人の間の溝を狭める。生じてしまった誤解を言葉で丁寧に取り除くように努める。そのような努力を重ねれば、「言葉が通じない」一部の人を除く、多くの人と半歩先の関係を構築できるのではないか。

ただ、そこで重要なのは、単に言葉を交わせばいいのではないということだ。まず、発する言葉は真摯なものでなければならない。また、相手の言葉も真摯なものとして受け止めなければならない。そして、言葉は交わし続けなければならない。この3つのことさえできるのなら、大抵の人と、いい関係を構築することができるに違いない。

だけど、それはとても労力がかかることで、理想論に過ぎないとも思う。だからこそ僕は、そのような人間関係を手に入れたくて、僕の人生の何割かを費やしている。

コロナ騒ぎと生きるということ

コロナ騒ぎの渦中にある今、思うことを書き残しておく。

1 コロナの数値的な話

コロナにかかると、何%かの人が死亡すると言われている。実際に何%になるかは医療体制の状況や年齢によりけりのようだ。ここでは仮に1%としておこう。もし実際は2%や0.5%だったとしても、話を進めるうえでは大きな問題はない。

今後、コロナはどうなっていくのだろう。このまま対策をとらなければ、皆が感染して免疫を獲得し、これ以上、感染が広がることがなくなったところで流行は終わるのだろう。そうなるためには全員が感染する必要はないが、かなりの割合の人が感染する必要がある。ネットでは70%程度の感染が必要だという情報があった。その情報は正確ではなくても目安にはなるように思える。

つまり、世界の人口が70億人として、70億人×70%=約50億人が感染する必要があることになる。また、死亡率が1%とすると、50億人×1%=5千万人が死亡することになる。

スペイン風邪の場合は、当時の人口約20億人のうち、数億人が感染し、数千万人が死亡したということなので、この試算には大きなずれはないのではないか。

当然、飛躍的に医療が進歩しており、ワクチンや治療薬の開発も進んでいる。だが、開発には1年程度はかかるとされている。スペイン風邪が2年程度で終息したことを踏まえると、死者・感染者を半減させる程度の効果しかないように思える。

以上の僕の試算は、多分フェルミ推定と呼ばれるものだ。桁が合っている程度のざっくりとした推計を目指すものなので算出した数値はかなり怪しい。だから、推計が悲観的なものになりすぎないように、仮に、人間とウィルスの戦いが、特効薬や移動制限などにより人間側に有利に展開されたとしよう。その結果、70億人×感染率70%×死亡率1%=5千万人、という試算より大幅に死者数は抑えられ、死者は700万人だったとしよう。

これは、全世界の人口70億人の0.1%が死亡するという計算となる。

その場合でも、2020年3月29日現在の死者数が3万人なので、これから、これまでの200倍の死者が出るということになる。

仮にスペイン風邪と同じように終息まで2年かかり、それまでに均等に死者が出るとすると、700万人÷365日×2年=1万人が毎日死亡することになる。

また、日本に目を転じると、人口1億人の0.1%が死亡するとするなら、死者は10万人となる。2年間、均等に死者が出るとすると、1日あたりの死者は150人となる。

これは、世界を破滅させるような数値ではないが、現在の騒動がまだ序の口にあると思わせるに十分なものだろう。

2 将来の死の可能性への注目について

このような数値を書き連ねたのは、どうも、世間は、こういう数値に目をあまり向けていないように思えるからだ。

日々、何人が感染して何人が死亡したとか、誰が感染したというようなことはニュースになるけれど、今後の予想が話題になることはほとんどない。

そのような将来予測は専門家にしかわからないので、専門家に任せておけばいいということなのだろう。

ただ、専門家も、そのような将来予測を広く知らしめることはない。不確定要素が多すぎるからかもしれないし、専門家とはそれぞれの分野の専門家であり、全体としての予測を行うような立場にはないからかもしれない。

だが、それらはすべてまやかしの言い訳だと思う。

本当は、皆、死から目を背けているのだ。

いや、当然、これまでの過去の死者には目を向けている。死者が何人ということは大きなニュースになるし、個々の死のエピソードにも注目は集まる。

正確には、皆、将来の死の可能性から目を背けている。誰もそれを見たくないのだ。

だが、実際に、死の可能性は目前にあり、死は僕たちを捉えようとしている。

僕のフェルミ推定的な計算結果は、多分、大きなずれはないと思う。将来、コロナによる死は0.1%の確率で僕たちを待っているのだ。

そこから年齢や健康状態などを考慮すれば、個人ごとの死亡率のばらつきはあり、例えば、0.01%~1%というような幅を広げた予測が必要となるかもしれない。

だが、無視できない確率での死が待っているということは確かだ。

3 死の意義について

このような暗い話をするのはなぜかと言えば、僕は、今回のコロナは悪くない話だと思うからだ。

僕たちは、1%か0.1%か0.01%かはわからないけれど、無視できない確率で、コロナにより死ぬ。いくら目を背けても多くの人はそのことを感じつつあるはずだ。これは、死により絶対的に失うものについて気付くということであり、失うかもしれないと思うからこそ、何を持っていたのか気付くことができるということでもある。それならば、その持っているものについて、大事にしようと思えるのではないだろうか。つまりこれは「死を思え」だ。ここにこそ、今回のコロナ騒動の意義があるように思える。

僕は、5年前にガンになった。実際には初期の胃がんで、5年生存率は95%とか99%というようなものだった。だけど、はっきりしたことは手術をするまではわからず、ガンができた場所も結構微妙だったので食道の進行がんかもしれないという話もあった。だから、5年生存率はもっと低いかもしれないと思った時期もあった。(食道は胃よりも組織が薄いので、組織からガンが漏れ出やすいようなのです。)

僕はがんになって、死なずに生きているということの意義を少し実感できた。当然、よりステージが進んだがん患者に比べればたいしたことない話だけど、ある程度の大きな数値で死の可能性を示されたことは、僕の人生において確かに大きな意味があった。僕は死を思い、生を思うことができたのだ。

つまり、僕にとってのガンと同じような意義が、コロナにはあるように思えるのだ。

皆、そろそろ死ぬ。そして、その「そろそろ」は意外と近いかもしれない。だとするならば、死なないのではなく、生きることを考えたほうがいい。そのためには、死に目を向けるべきなのだ。

4 コロナ対策について

死から生へ、と視点を変更するならば、コロナの感染を防ぐために、色々な活動を自粛することについても、よくよく考える必要がある。

コロナによる死者を減らすために、色々と対策をすることは当然必要だ。だが、それは、あくまで、死なないための取り組みに過ぎない。人間の営みとは、生きる営みであり、死なないための取り組みとは、その最低限の条件を整えるためのものに過ぎない。

死なないための取り組みの危険なところは、それ自体に、なにか大きな意義があるように感じられる魅力があるということだ。

今回のコロナで、医師が不眠不休で人の命を救ったり、製薬会社が新しい治療薬の開発に取り組んだり、市民が家に引きこもって買いだめした食材を食べてしのいだり、老人がマスクを探して薬局に並んだりしている。そこには「生」につながっているという高揚感があり、やるべきことをやっているという意義に満ちている。

だが実は、それらは全て、自分ではない誰かや、今の自分ではない未来の自分が生きるためのものだ。そこには、今の自分が生きるということへの考慮が欠けている。これらは、いわば死なないための取り組みに過ぎない。更に言えば、今の自分の「生」から目を背け、他の誰かや未来の自分に「生」を押し付けているに過ぎない。

だとするならば、他の誰かや未来の自分のために、今の自分の活動を自粛し、制限するということは、いわば、本物の金貨を差し出し、偽物の金貨を手に入れているようなものだとも言える。偽物には偽物の価値があるから、一概に悪い取引とは言えないが、そのような取引をしているということは心に留めておいたほうがいいだろう。

今回のコロナでの一番恐ろしい被害は、コロナにより死なないことを優先するあまり、この数ヶ月、または数年間、皆が生きることを忘れてしまうことだ。

人生が100年とするなら、この1年は全体の1%にあたる。若い人にとっては、実感としての割合は更に大きなものとなるだろう。

高齢者を中心に0.1%死ぬかもしれないことと、若い人も一律に1%確実に生きなくなることでは、後者のほうが問題ははるかに重大なのではないだろうか。

では、僕は具体的に何を言いたいのか。

僕はこう言いたい。「死なないしかしてない人は、生きるをしている人のことを邪魔しないでほしい。」

100年後の未来 ユートピアでの生と死について

1 未来予測での科学技術の重要性

アステイオンという雑誌で「100年後の日本」という特集があり、たくさんの人が寄稿していたので、僕も書いてみることにした。寄稿するあてはないけれど。

100年後という期間設定は、ちょうど想像力が尽きるぎりぎりのところにある感じが面白い。50年後だと結構想像できそうだし、200年後だと想像もつかない感じがする。

今後100年間で確実に大きく変わっていくのは科学技術だろう。

この100年間に偶然の事件が起こる可能性はある。100年のうちに大きな隕石が落ちて地球が氷漬けになっていたり、釈迦やキリストのような特別な才能を持った人が突然登場して新たな真理を教えてくれたり、ということがないとは言えない。だが、それほどの重大事件が偶然に発生する確率は低いため、考慮に入れる必要はないだろう。

また、偶然ではない着実な人間の営みは、美術や文学など、科学技術以外の様々な分野に及ぶが、これらについても、大きな変化を想定する必要はないだろう。思えば、科学技術の発展というものがなければ、未来予測はこれほど魅力的でなかったかもしれない。科学技術の発展がない世界では、ただただ王様が交代したり、飢饉や豊作が周期的に繰り返されたり、平板な歴史が積み上げられるだけだろう。産業革命前でも、歴史を大きく動かしてきたのは、製鉄技術の発明や、稲作の伝播といった広義の科学技術の発展であった。

ただし、人間の営みのなかで、科学技術に匹敵するインパクトを有してきたものとして、宗教や思想があるだろう。宗教が共同体の団結を高めたり、プロテスタント的な合理的思考が科学技術の発展を促したり、というように宗教や思想が歴史に大きな影響を与えることは確かにあった。

しかし、宗教や思想がそれ自体として、今後の100年間で目立った変化が生じるという可能性を考慮に入れる必要はないように思える。科学技術が持つ影響力は、産業革命以降、幾何級数的に増大しているが、一方で、宗教や思想の持つ影響力は仮に増大しているとしても、せいぜい算術級数的なものであると言えるだろう。もし、宗教や思想に大きな変化が生じるならば、それは、宗教や思想それ自体としての変化ではなく、科学技術の発展により促された変化であるだろう。(そのことは後ほどとりあげる。)

だから、今後100年の未来予測のうちのかなりの部分は、科学技術がどのように発展し、それがどのようなインパクトを社会に与えるのか、というものになる。加えて、これまでの科学技術の発展がすでに社会に与えている影響、例えば人口動向やグローバリゼーションについての話を盛り込めば、未来予測の大半がカバーできるだろう。

2 科学技術の目標の分類

まずは準備のため、そもそも科学技術というものが目指していること、つまり科学技術の目標について、人間の欲求と関連させ、僕なりに分類してみる。

科学技術を科学と技術に分けるならば、科学における主な目標は、「世界を知る。」というものだろう。これは、知識欲と言ってもよく、世界の始まりが知りたくてビッグバン仮説を検証したり、新種の昆虫をみつけたくてジャングルで調査をしたり、といった代表例が挙げられる。

科学技術のうち技術における主な目標は「世の中を便利にする。」というものだろう。この目標を目指す活動としては、例えば、手で洗濯するのは大変だから洗濯機を作ったり、いつでも連絡がとれたほうが便利だから携帯電話を作ったり、というようなものが該当する。

当然、世の中を便利にしたいという動機で研究を行う科学者もいるだろうし、知識欲から新商品の開発を目指す技術者もいるだろう。だから、この区分はあくまで、相対的なものだ。

主に技術に関わる目標としては、もうひとつ、今回の話に深く関わる「長生きする。」というものがあるように思える。単に「長生きする。」だと否定する人も多いかもしれないが、若々しく、健康に長生きする、とするならば、誰もが望むものだということに異論はないのではないか。

科学技術の目標については、主に科学に関わるもの1つと、主に技術に関わるもの2つ、計3つを挙げたが、これでほぼ網羅しているように思える。ほかにも、科学者として成功して有名になりたいとか、たくさん給料をもらって金持ちになりたいとか、同じ研究室にいるあの人に認められて結婚したいとか、個人としての目標は色々とあるだろうが、それは、科学技術に限らないものなので、科学技術の目標には含めないものとしよう。

※ 微妙なものとしては、方程式の美しい解法を見つけたい、などといった美的な動機・目標もあるかもしれない。

この3つの目標をさらに2つに分けることができるように思える。ゴールが明確になっている目標と、そうではない目標のふたつだ。

「世界を知る。」という目標に向かう活動については、まず、すでにある仮説を検証する、みつかりそうな新種の昆虫を想定したうえで昆虫を探す、といったものがある。これらは、事前にゴールが明確になっている活動であり、これらは「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」ことを目標としていると言い換えることもできるだろう。

もうひとつ、全く新しい仮説を考える(その結果相対性理論を思いつく)、ジャングルに網を仕掛けて無作為に昆虫を捕獲する(その結果想定外の新種の昆虫を発見する)、といった、始める前はゴールが明確になっていない活動もある。これらは「世界を新たに発見する。」ことを目標にしていると言ってもいいだろう。このように明確なゴールの有無により、「世界を知る。」という目標は更に二つに分けることができる。

「世の中を便利にする。」という目標に向かう活動については、まず、手で洗濯するのは大変だから洗濯機を作る、といった、ゴールが明確になっているものがある。これは「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」ことを目標にしていると言ってよいだろう。

もうひとつ、インターネットを使った新しい道具を考える(その結果スマホを思いつく)といったような、始める前はゴールが明確になっていない活動もある。これは「新たな物質的成果または余暇を発見する。」ことを目標にしていると言ってもいいだろう。このように、「世の中を便利にする。」という目標についても、明確なゴールの有無により、更に二つに分けることができる。

一方で、「長生きする。」という目標に向かうものとしては、ガンの特効薬を作ってガンで死なないようにする、肉体をサイボーグ化し不死を目指すといった活動があるが、いずれもゴールが明確になっており、「長生きする。」についてはすべてが明確なゴールがある目標であるように思える。

以上をまとめると、次のようになる。

目標の分類

ゴール明確 ゴール不明確
主に科学 「世界を知る。」
「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」 「世界を新たに発見する。」
主に技術 「世の中を便利にする。」
「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」 「新たな物質的成果または余暇を発見する。」
主に技術 「長生きする。」
「長生きする。」 (なし)

※うまく表示できないのでできればPDFで見てください。

3 目標の達成状況

これらの科学技術の目標のうちいくつかは、現在、科学技術の発展により急速に実現が進んでいる。

特に、「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」については、少なくとも富裕層に限るならば、かなり達成されつつあると言ってよいのではないか。仕事をせずに暮らすことができる大富豪が、科学技術上の問題により、何か物質的な成果や余暇が不足していて困る、などといった問題が生じることはほぼないだろう。昔ならば、冬にスイカを食べることはできなったし、数時間(人生というスパンではほぼ無視してよい時間といえるだろう)で日本からアメリカに移動することはできなかったけれど、現代においては多少の金を払えばいずれも手に入れることができる。

また、「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」についても、時期を設定し、例えば、「1900年時点で仮説になるなどして既になんとなく知られていたことをよりよく知る。」とするならば、それは達成されつつあると言えるだろう。僕は、科学史は詳しくないけれど、相対性理論の正しさが日食時に検証されたことなどが具体例として挙げられるはずだ。

一方で、「世界を新たに発見する。」と「新たな物質的成果または余暇を発見する。」については、急速に進捗はしているけれど、達成の目途は立っていない。やればやるほど、どんどん新しい課題が生じてきて、終りが見えないというのが実情だろう。このいずれもが、ゴールが不明確である目標に区分されることは偶然ではないだろう。

つまり、科学技術の目標のうち、ゴールが明確なものについては、現在、達成されつつあり、ゴールが不明確なものについては、何をもって達成とするかが決まっていない、というそもそもの性質に起因し、達成に近づいていない、という状況にある。

例外が「長生きする。」であり、これについてはゴールが明確だが、達成されつつあるとも、達成に近づいていないとも言えない状況にある。インフルエンザなど病気の治療薬は色々とできているが、ガンなどは依然として克服できていない状況にある。これはどうしてだろうか。

4 長生きの問題

この「長生きする。」に関する疑問を足掛かりにして、この文章では、100年後の「死」のあり方について予測してみたい。ここには、世間ではあまり注意が向けられていない、科学技術の大きな問題が潜んでいると思うのだ。(なお、全く誰も気付いていない、とは言わない。多分、そこには、誰もが知っているけれど、多くの人があえて口にしないような問題があるのだと思う。)

では、「長生きする。」についての疑問を明確化しよう。

「長生きする。」という目標はゴールが明確なのに、なぜ、「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」というような目標に比べて達成が難しいのだろうか。

まず考えられることは、人間の身体というのは、冷蔵庫やスマホなどに比べて手ごわいのだろう。人類は長い年月、病気やケガといった身体の問題と戦ってきた。現時点では、骨折をきれいに治したり、インフルエンザのワクチンを事前接種したり、一定の戦果をおさめつつある一方で、ガンや老衰といったものについては、まだ勝利は見えていない。人間の身体という、すでに完成しているものについて、分析し理解していくことは、すでに理解されたパーツを組み立てて、例えば冷蔵庫のようなものを創り上げることに比べて困難なのだろう。後者については詳しい仕組みはわからなくても、とりあえず使えればいい、という解決策をとることさえできるのだから。

だから長生きは難しい。人間には、早く移動したい、楽に生活したい、おいしいものを食べたい、といった色々な欲求がある。これらの欲求はかなり満たされつつあるが、長生きをしたい、という欲求は、それらに比べて、100年くらい遅れているのではないだろうか。

それならば、100年後には医療や生命工学等の分野の研究は進展し、長生きという目標もかなり達成されているのではないだろうか。100年前はお腹いっぱいご飯を食べることは当然ではなかったが、今では当然となっているように、100年後には、長生きは当然なものとなっているのではないだろうか。科学技術の幾何級数的な発展状況を踏まえると、これまでの100年に比べて、今後の100年は大きな進展があることは確実だろう。100年後の人類は、少なくとも富裕層に限るならば、陳腐な例だが、サイボーグ化するなどにより、ほぼ無限の健康な生命を手に入れることができるとさえ想像できる。

だが、これをもって、「長生きする。」が達成されたと言っていいのだろうか。そこには科学技術の進展だけでは達成できない、長生きに固有の問題点があるように思える。

その問題とは、「いつまで長生きすれば、「長生きする。」が達成されたことになるのだろうか。」という問題だ。

多分そこには、限界がないのではないか。さきほど「長生きする。」とはゴールが明確な目標だとしたが、実はゴールは不明確なのだ。ゴールが不明確だから、どんどんゴールが先延ばしされていくこととなり、いつまでも達成に近づくことはない。これは、先ほど挙げた「世界を新たに発見する。」や「新たな物質的成果または余暇を発見する。」といった目標と同じ問題を抱えているということだ。

いや、この説明は正確ではないだろう。ガンによって死なないようにする、という目標については、ゴールが明確だ。ガンの特効薬を作ればいい。一方で、不死の存在となる、という目標については、ゴールが明確ではない。肉体をサイボーグ化し理論上、永遠に生きられるようになったとしても、具体的に何年生きればゴールなのかが明らかではない。正確には、「長生きする。」には、「寿命まで健康で生きる。」というゴールが明確な問題と、「寿命を延長する。」というゴールが不明確な問題とが含まれており、その二つを切り分けるべきなのだ。

よって、先ほどの表は次のように書き換えるべきだろう。

目標の分類

ゴール明確 ゴール不明確
主に科学 「世界を知る。」
「世界のなんとなく知っていることをよりよく知る。」 「世界を新たに発見する。」
主に技術 「世の中を便利にする。」
「より簡単に物質的な成果または余暇を手に入れられるようにする。」 「新たな物質的成果または余暇を発見する。」
主に技術 「長生きする。」
「寿命まで健康で生きる。」 「寿命を延長する。」

※うまく表示できないのでできればPDFで見てください。

このように整理するならば、「寿命まで健康で生きる。」という目標については、ゴールが明確な他の目標と同様に、100年後にはほぼ達成されていると考えてもよいだろう。ガン特効薬は開発されるし、よほどの大怪我をしても移植により死なずに済むようになる。

5 ユートピアの実現

表の全体を眺めてみよう。100年後、表の左側のゴールが明確な目標はほぼ達成され、表の右側のゴールが不明確な目標だけが残っている。これは、明らかに、ゴールが明確な目標と不明確な目標とでは、その問題の質が異なるということを意味している。もしかしたら多くの方が既に気付いているかもしれないが「ゴールが不明確な目標」という言い方自体が矛盾をはらんでいる。これは目標とすら言えない、いわば「目標もどき」または「偽目標」なのだ。100年後、科学技術の目標はほぼ全て達成され、そこには偽目標しか残っていない。そういう時代を人類は生きることになる。

僕は、もう50歳に近いけれど、僕が子供の頃、科学技術にはまだ、リニアモーターカーや火星旅行といった、流線型の未来があった。達成を待っているゴール達が至るところに転がっていた。しかし、いつの間にか、そのようなゴールは直接的に達成されるか、別の形で間接的に達成され色あせていった。

※ 間接的な達成とは、リニアモーターカーではないけれど、短距離の飛行機移動が一般的になったり、有人の火星旅行ではないけれど、無人の探査機が人間の目よりも詳細のデータを集めたり、ということを指している。

それでも、残っている科学技術上の目標として、現在はまだ病気との戦いがある。早く移動したい、楽に生活したい、おいしいものを食べたい、といった目標はかなり達成されてしまったが、病気に打ち勝ちたい、という目標の達成はまだ遠い。

近年、医療分野が注目されることが増えているように思う。今回考察するまでは、なんとなく、日本が高齢化したからなのかな、と思っていた。しかし、改めて考えてみて、そこにしか、科学技術が活躍できる場が残されていないからなのだと気付いた。今後数十年、医療や生命工学といった分野に人類の資源のかなりの部分が投下されていくことになるのではないだろうか。

そして、100年後、いよいよ、科学技術の最後のフロンティアが開拓され尽くしたとき人類はどうなっていくのだろうか。言い換えれば、「科学技術上のたいていの疑問は解決していて、物質的な欲求は十分に満たされていて、十分な余暇があって、望むだけ若々しく健康に長生きできる。」という状況が手に入れられたとき、人はどうやって生きていくのだろうか。これは、つまり、ユートピアにおいて人はどのように生きていくのか、という問題だ。

正確には、100年後であっても、様々な問題が残っているだろう。一部の富裕層はユートピアに到達していたとしても、そこには大きな貧富の差が残っているのは明らかだ。また、地球温暖化などの環境問題も現在よりも大きな問題となっているに違いない。だから、まずは、これまでの科学技術の発展が、その他の分野に及ぼした歪みと向き合っていく必要がある。科学技術的な目標は達成されても、そこには社会的な問題が残っている。

いつの日か、それらの問題は解決されていってほしい。できれば100年後の未来には解決されていてほしい。しかし、ここでの議論の範囲で重要なのは、もし解決されなくても、富裕層のなかでも、ある程度利己的で自分のことにしか目がいかない種類の(僕のような)人は、一足早く、このユートピア問題に直面することになることは確かだということだ。多分、このユートピア問題は、かなりの高確率で近い将来に訪れるものなのだ。

それならば、100年後の未来について考えるためには、このユートピア問題について、詳細に検討することが有益なのではないだろうか。

6 ユートピアの実態

さきほど、科学技術にはゴールが明確な目標と、ゴールが不明確な偽目標があるとした。そして、前者は達成されつつあり100年後にはほぼ達成されるが、後者はその性質上、達成されることはないとした。

前者の目標は、具体的な欠如を埋めたいという欲求に基づいていると言ってよいだろう。すでに誰かが保有している「あれ」を保有したい、という羨ましさを満たすような欲求を満たすためのものだと言ってもいいかもしれない。

なお、この羨望する先にある誰かとは、特定の個人ではなくてもいい。洗濯機を手に入れたいという目標ならば、それは例えば、隣の家にいる洗濯が上手なあの召使いがうちにも欲しい、という欲求に基づくものだと言えるかもしれない。それならば、羨望する先にいるのは隣の家の主人であろう。しかし、まだ飛行機が発明されない時代に、日本からアメリカまで船旅をしながら、数時間でアメリカまで着いたらいいのに、と望む先にあるのは、具体的な人物ではない。そこにいるのは、目標が叶えられた理想的な自分自身だと言ってよいだろう。

つまり、様々な場合を想定して汎用的に定義するならば、ゴールが明確な目標とは、願いが叶えられた理想的な自分自身を思い描きながらも、そこに至ることができないという具体的な欠如があり、そのギャップを埋めたいという欲求に基づくものなのだ。

一方で、ゴールが不明確な偽目標については、そのような具体的な欠如がない。スマホが発明されるまでは、スマホを使っている自分自身を思い描きながら、スマホを手に入れられないという具体的な欠如を感じていた、などということはなかっただろう。また、相対性理論を発見するまでは、相対性理論的なものをなんとなく気付きながら、明確化できないことに欠如を感じていた、ということもなかっただろう。

当然、スティーブ・ジョブズやアインシュタインには、その欠如に気付いた瞬間があっただろう。ただし、スマホや相対性理論の欠如に気付いた瞬間、スマホや相対性理論のアイディアを思いつくはずだ。それにより、即時にその欠如は充足される。

当然、このような描写は誇張されすぎていて不正確だろう。実際には、スマホは携帯電話やパソコンから徐々に派生されたし、多分、相対性理論も、その前準備となるような数々の仮説のうえに見いだされたものなのだろう。だが、不明確なゴールを目指すという矛盾を表現するためには、このような描写も必要であり、この描写はジョブズやアインシュタインが成し遂げたことの、ある一側面を捉えていると思う。

さて、100年後に一部の富裕層に訪れるユートピアにおいて、残っているのは、ゴールが不明確な偽目標だけだ。そこで科学技術においてできることは、アインシュタインのように新しい科学的発見をしたり、ジョブズのように新しい技術を開発したり、ということしかない。それらは、既存の問題の解決にはつながらない、いわば遊びのようなものだ。なぜなら、ユートピアにおいては、解決すべき問題など残っていないのだから。

誰も問題を感じたことがないことをわざわざ掘り返して、新しい科学的発見をしたり、誰も欲したことなどない新製品をわざわざ開発したりする。そのようなものなどなくても世の中はうまくまわっているのに、あえてそこに余計なものを付け加える。そのような自己満足の遊びだけが、ユートピアでできることなのだ。

いや、ユートピアでできることはもうひとつ残っている。長生きすることだ。

寿命まで健康で若々しく生きるということならば、ゴールが明確な目標だと言ってよいだろう。若くして命を落とさず、せめて平均寿命くらいの年齢までは生きてほしいとか、人類の最高齢は120歳くらいだから、そのくらいまで皆が生きられるようにしたいとか、そのような具体的な願いは、ゴールが明確であり、多分100年後には科学技術上は達成可能となるだろう。つまり、これらはユートピアの問題ではない。

一方で、その欲求が、寿命までではなく、いつまでも長生きしたい、となった途端、それはユートピアの問題になる。際限なく、どこまでも長生きを続けることは、ユートピアでできる、数少ない自己満足の遊びのひとつとなりうる。

多分、ジョブズやアインシュタインほどに才能がない人にとっては、ユートピアでできる唯一の遊びでさえあるだろう。

このようにして、僕の100年後の未来予測は、ひとつの到達点にたどりついた。そこにあるのは、ユートピアという名のディストピアだ。富裕層の一部は、科学技術の発達の恩恵により、退屈に、ただ長生きだけを目指して生きていくこととなる。できることはそれしかないのだ。僕は、そのような未来が到来する情景を具体的に思い描くことができる。

7 「死」について考える

多分、多くの人にとって、天国というのは、実は、あえて行きたくなるようなところではないのだろう。ただお花畑だけがあるところで、永遠に生活させられるなんて、想像しただけでも怖くなる。死後に行く天国ならば、多分そこにたどり着く過程で、なにか精神的に悟ったりして、大きな変化があるのだろうが、100年後の未来においては、そのような精神的なフォローは何もなく、いきなり行きたままユートピアに放り込まれることになる。

それならば、自分の子孫たちがこのような事態に陥る前に、僕たちは準備作業をしておくべきなのではないだろうか。その準備とは、「死」について考えることだと思う。無限に生かされるユートピアというおぞましい未来を見据え、いつ、どのように死ぬのかを今から考えておくべきなのだ。

ここで、死に関する僕の考えを述べてもいいけれど、それでは未来予測という趣旨から外れてしまうので、最後に、価値中立的に今後100年で「死」について想定されることを列記しておこう。

① 少なくとも、苦痛を伴わずに自らの永遠の生命を終えること、つまり安楽死は一定程度認められることになるだろう。

② サイボーグ化などの積極的な人体改造を伴わずに生きることのできる年齢の上限、多分100歳くらいで、死を選ぶかどうかの判断の機会が与えられるだろう。

③ 皆と同じものがほしい、というような生き方は否定され、ジョブズやアインシュタインのような、新しいものを創造する力が生きる価値、人間としての価値として、高く評価されることになるだろう。なお、この創造は、科学技術だけではなく、文学や芸術といった分野のものでもいいだろう。

④ 一方で、そのような新たな創造ができない場合のために、生の限界を知り、死を選ぶことを正当化するような思想や宗教が発明され、力を持つだろう。

⑤ その思想や宗教の内容は、人生を将来や他者のために使うのではなく、自分自身の現在のために使うことを推奨するようなものになるだろう。

 ※ 人生を将来や他者のために使うとは、世界を便利にするとか、人命を救うとか、というようなことを人生の目標にすることを指す。これらは、完全なユートピアにおいては無意味なものとなる。

⑥ 知的集合体としての一体化など、死とは違う形での生の終わらせ方が発明されるかもしれない。

以上が、僕の100年後の未来予測だ。僕は、このようなかたちで、産業革命以降、数百年に及ぶ、科学技術それ自体が重要な役割を果たしてきた時代は終わりを告げると予測する。それは、生や死や個人や生命というものの意味合い自体が大きく変わっていく時代の幕開けとなるのではないだろうか。そこで重要になるのは、文学や芸術や、そして哲学なのではないかと考えている。

8 おまけ 100年後のその他の予測

この文章で行った考察に関わるかもしれない、今後100年のその他の未来予測を列記しておく。

自動翻訳による言語の問題の解消

遺伝子レベルでの外見や能力のデザイン

マトリクス的な仮想現実での、反社会的な欲求や承認欲求の充足

脳の操作による自己肯定感の充足

テレパシー的なかたちでの、他の人間との一体感の醸成

AIの脳への接続

AIによる文章の理解・評価・思考の深化

冷凍保存による未来への片道タイムトラベルの実現

人類絶滅に備えるための月・火星への一部移住

人体改造による宇宙進出