2-01【行為空間の内外の否定】
先ほど紹介したように、野矢は、「論理空間の~部分空間を行為空間と呼ぶ」としている。このイメージは、この本全体を通じて変わらない。
ただし、1箇所だけ、そのことを否定している部分がある。第11回注2P195において、
「~行為空間は論理空間の「部分空間」であると書いてしまったが、行為空間の内と外を分ける明確な境界は存在しない~。むしろ論理空間の中に概念所有の「パースペクティブ」があると言った方がよいかもしれない。~論理的可能性の中には、私に身近で、私がふだんつかいこなしている概念から、もっと疎遠で浅い理解しか持っていない概念、さらにはグルーのようにまったく死んでいる概念まで、私にとっての「近さ-遠さ」がある。このように段階的に裾野をひらいたもの、それが行為空間にほかならない。」と述べている部分だ。
私は、この箇所を読むまでは、行為空間は論理空間の部分空間ということなので、なんとなく、目玉焼きのようなものを想像して、黄身が行為空間、白身が論理空間、というような感じで受け取っていた。しかし、そうではない。論理空間と行為空間の関係とは、目玉焼きのように2分できるようなものではなく、明確な境界はなく、段階的に行為空間ではなくなっていくようなイメージということだ。
ただ、「語る」においては、この注は重視されず、その後の文章でも行為空間の内外という議論は続いていく。この箇所は、ちょっとした萌芽のようなものにとどまっているようだ。
私は、 この萌芽、つまり行為空間の内と外を分ける明確な境界は存在しないということにこだわってみたい。
この議論を発展させていくにあたって、まず考えたいのが、グルー概念は行為空間の「外」の概念、野矢に言わせれば、「まったく死んでいる概念」なのかどうかだ。(野矢の「まったく」死んでいるという表現は、行為空間の「外」、という意味と同義だと思われる。同義だからこそ、その後も行為空間の内外という議論を続けることができるのだろう。野矢としては、行為空間の境界上の微妙な概念は色々あるけれど、さすがにグルー概念は行為空間の外だ、ということなのであろう。)
私はそこに疑問を感じる。段階的に裾野をひらき、明確な境界がないものである行為空間が、行為空間でなくなってしまうことなんてあるのだろうか。
ここで、富士山が行為空間と例えよう。富士山は段階的に裾野をひらいたものとしての行為空間のイメージには合致するだろう。そして、本州全体が論理空間としよう。
そうすると、富士山の頂上が「みかん」のような慣れ親しんだ概念で、富士山の5合目あたりは「インブリード」のような名前と簡単な意味くらいは知っている概念という感じだろうか。それらは、明らかに富士山(つまり行為空間)にある。
もう少し遠ざかって、青木ヶ原樹海のあたりはどうだろう。富士山にあると言う人もいるかもしれないし、もう富士山じゃないという人もいるかもしれない。
御殿場のあたりはどうだろう。私としては富士山という感じはしないが、人によっては、富士山という人がいるかもしれない。
では名古屋だとどうだろうか、などと遠ざかるにつれ、徐々に富士山性(行為空間性)は失われ、最後には、少なくとも鳥取あたりに行った時には、そこが富士山だという人はいなくなり、行為空間ではなくなる。
そして、野矢は、多分、鳥取のあたりにグルー概念があると考えているのだろう。
そこで私は、本当に鳥取は富士山でないのか、という疑問を持ち出したい。
本物の本州には富士山でないものはたくさんある。鳥取砂丘もある。そうすると、確かにそこは富士山ではなく鳥取砂丘だ、と言える。しかし、この喩えの元となった、論理空間、行為空間の議論においては、論理空間には行為空間しかない。ここは行為空間ではない何かだ、なんて言うことはできない。そう考えると、富士山の遥か遠くにも富士山性は行き渡っているのではないか。ここから先は富士山ではない、ここから先は行為空間にない、なんて言うことはできないのではないか。鳥取も富士山なのではないか、と私は考える。
言い方を変えてみる。
富士山のたとえ話ではなく、グルー概念が行為空間にないのかどうかという観点で直接的に考えてみよう。
まず、この本におけるグルー概念の話を振り返ってみる。
野矢は、第10回で、ネルソン・グッドマンが考案した「グルー」概念を紹介し、ブルーやグリーンといった概念と比べ、グルーは囲い込まれていないとしている。そこから、グルー概念は、頭では理解できるが、いわば体がついていかず、翻訳可能だが理解不可能な概念だとしている。そして、理解不可能だからグルー概念は行為空間にない、ということになる。
しかし、本当にグルーとは体がついていかない概念なのだろうか。確かに、日頃、目にした新緑の色を表現するときにグルーだ、とは言わない。グルー概念は用いない。しかし、哲学に関わっている人にとって、グルーというのは決して全く新しい概念ではない。グルーと言われれば、ああ、あれね、と思うだろう。哲学的な話をする場面では、グルー概念は決して体がついていかない概念ではない。新緑の色を表現することと哲学的な話をすることが、同じ実生活における一場面であるならば、グルー概念は明らかに囲い込まれている。その他の類似の概念、例えば、ある時点まではイエロー、ある時点からはレッドである色「イエッド」という(私が今考えた)概念よりは、グルーの方がなじみがあり、囲い込まれている。とするならば、グルーは(哲学的議論という)行為空間にある概念と考えるべきではないだろうか。グルー概念が囲い込まれていないと判断したのは、つまりは、概念の使用は日常生活での場面における使用のみを指し、哲学的な場面における使用は含まれないという限定があったからに過ぎないのではないだろうか。
(本当は、更に述べたいことがあるが、第3部で述べることとする。)
以上の議論を踏まえれば、論理空間の部分空間が行為空間という言い方ではなく、「論理空間のすべてが行為空間である」、とする方が適当であろう。

2-02【脱線:相貌=概念という副産物】
「論理空間のすべてが行為空間である」とすることで、「語る」において用いられている重要な用語のひとつである「相貌」の位置づけを再整理できる。
相貌概念は、第7回P108において「われわれが認識し、語り出すすべては、相貌をもっている」として導入される。
「語る」における相貌論について、「行為空間」という観点から見てみよう。
相貌と行為空間との関係について直接言及している部分はないが、第7回P109で「われわれにとっては、一匹の猫はどうしたって一匹の猫としての相貌を持っている。~それはすなわち、われわれがその分類を引き受け、いわばその概念を生きているからである。概念を変えるということは、生き方を変えることなのである。」としている。この「生き方」が、猫概念が「行為空間」にあるということを指すのではないだろうか。
また、第8回P129で「「観点αからはAの相貌が立ち現れる」ということが分かるのは、観点αに実際に立っている者だけでしかない。~相貌は「内側から」のみ把握される」と述べている。これは、ある生き方にあるという立場の内側から相貌として把握された概念が「行為空間」にある概念である、ということを指すのだろう。第8回で出されている例で言えば、イワシの頭を価値のあるものとしてみなす生き方をするということが、イワシの頭を価値のあるものとして「行為空間」に捉えているということなのではないだろうか。
つまり、野矢が行為空間にない代表例として挙げているグルー概念にについてP253で「われわれの行為空間にはグルーの相貌は存在しない。」と述べているとおり、相貌は行為空間に現れるということになる。
しかし、先ほど「論理空間のすべてが行為空間である」としたことから、相貌は論理空間に位置づけられることになる。そうすると、グルー概念にも相貌はあり、すべての概念に相貌があるということになる。
つまりは、概念と言ったとき、それは相貌と言い換えてもいい。相貌=概念 と言ってもいいだろう。このように、相貌をより簡素な構図に位置づけられるというのは、副産物ではあるが、成果だ。
(冒頭近くで、「概念」という言葉を、明確な意味合いで使うことができていない。他にもそのような不正確な言葉があるかもしれないがご容赦いただきたい。と弱気なコメントを書いたが、少なくとも「概念」については撤回できると思う。)

2-03【論理空間の厚み】
議論を先に進める。
私は、「論理空間のすべてが行為空間である」とした。
では、野矢は「論理空間の部分空間としての行為空間」というアイディアを持ち出すことで何を言いたかったのか。
野矢が感じたことを、よりしっかりと捉えて表現すれば、論理空間に行為空間の内外という2つの領域があるかのような話につなげるのではなく、論理空間には、あきらかに行為空間にあると言うべき富士山の頂上のような行為空間性が濃い(厚い)領域と、ほとんど行為空間にあるとは言えないような鳥取砂丘のような行為空間性が薄い領域とがある、と言うべきだったのだろう。
つまり、論理空間には行為空間性としての濃淡、または厚みがあるということだ。
繰り返しになるが、野矢は、私がこだわっている第11回注2において次のように言っている。
「論理空間の中に概念所有の「パースペクティブ」があると言った方がよいかもしれない。~論理的可能性の中には、私に身近で、私がふだんつかいこなしている概念から、もっと疎遠で浅い理解しか持っていない概念、さらにはグルーのようにまったく死んでいる概念まで、私にとっての「近さ-遠さ」がある。」
これは、私が「論理空間の行為空間性としての厚み」と言っていることの別の表現だと思われる。
しかし私は、野矢のこの表現を採用しない。それは、行為空間の中心にある「私」という余計なものが入り込んでいるからだ。
確かに、論理空間、行為空間とは、私の論理空間であり、私の行為空間であることから、「私」と論理空間、行為空間との関係性について検討を深めていけば、そのような結論に至るのかもしれない。しかし、この文章は「私」について検討することがテーマではないので、あえて、「私」を中心にした綺麗な円錐のようなかたちで行為空間を捉える必要はなく、その形状は問わず、不規則な濃淡や厚みのようなものに留めて捉えるほうがよいのではないかと思う。

2-04【論理空間と行為空間のたとえ方】
なお、行為空間を濃淡と捉えるか、厚みと捉えるかだが、行為空間は色や高さではないので、いずれにしても、たとえ話とならざるを得ない。
とすれば、イメージしやすいのであれば、どちらでもいいということになるだろうが、ここからは、私の好みもあるが、今後の話につなげるために、行為空間性を論理空間の「厚み」と捉えることとする。
ここで、読者でイメージを共有していないといけないので、補足説明する。
私は論理空間に厚みがあると言った。つまり、私は、野矢の論理空間を2次元の方眼紙のように捉え、その各マス目に色々な概念が配置されているイメージを持っている。
例えば、右に2マス目、上に3マス目にはリンゴ概念があり、右に3マス目、上に5マス目にはミカン概念があり、右に1324マス目、上に325マス目にグルー概念があるという感じだろうか。
そして、私は、その方眼紙、つまり論理空間には厚みがあるのではないかと言っている。リンゴ概念やミカン概念があるところは分厚くて、グルー概念があるところはペラペラになっている。そういうものなのではないかと。
そこで私は、確か私が通っていた小学校にあった、立体の世界地図を思い出す。ヒマラヤのところが高くなっていて、日本海溝のあたりが低くなっているあれだ。(他の学校にもあるのかな。)
ただ、論理空間はひとつだ、ということを考えると、島や大陸がたくさんある世界地図ではなく、日本地図のそれも本州だけの立体地図のようなもののほうがイメージに合う。
とにかく、そういうものをイメージして読み進めてもらえるといいと思う。
そして、野矢は、この厚さを表現するために、地図に等高線を描くように、この立体地図を切断してしまったのだと思う。そうすれば、断面が地図の部分空間となる。このような、不完全な厚さの捉え方をしたのだと思う。
ただし、注意しておきたいのは、不完全ではあるが、野矢のこの捉え方は誤りではないということだ。私は、今後も、場面に応じて、野矢の行為空間として、この等高線に登場してもらいたいと思っている。
また、もうひとつ注意しておきたいのは、私は、野矢の「行為空間」を「行為空間性」と読み替えたが、その意味合いについては、今述べた変更以外の変更は加えていないということだ。私は、野矢が「行為空間」について述べたことの大部分は「行為空間性」にも適用できると考えている。

2-05【行為空間性としての厚み:典型的な物語】
それでは、論理空間の行為空間性としての厚みとは何だろうか。
野矢の考えに沿えば、「行為空間」とは、論理空間の部分空間である。論理空間が可能な事実の総体だとすると、行為空間は生きた可能な事実の総体である。
そして、事実とは諸対象の結合であることを踏まえると、諸対象の可能な生きた結合が「行為空間」であると言えるだろう。
また、先程、「概念=相貌」と述べたとおり、今や、この「対象」とは、概念、相貌と読み替えてもよいと思う。つまりは、相貌、概念の生きた結合が「行為空間性」だと言える。
「語る」には、その結合を示した言葉があると思う。それは「典型的な物語」だ。
野矢は第23回P403で「ある概念を理解するとは、その概念のもとに開ける典型的な物語を理解することなのである。」と書いている。猫にとっての「典型的な物語」としては、例えば、「猫は、ネズミが好きだ」という物語がある。(飼っていないから、本当かどうかは知らないけれど) この物語においては、おおまかに言えば「猫」概念が「ネズミ」概念、「好き」概念と結合している、ということになるだろう。そして、この概念の結合こそが、物語だと言える。
つまり、「典型的な物語」とは、その物語を持つ概念(例えば「猫」概念)と、他の概念(例えば「ネズミ」概念「好き」概念)との生きた結合であり、それこそが「行為空間性」のことだと考えられるのではないだろうか。
別の言い方をしてみる。
野矢が「語る」でも例として挙げている「鳥」概念は、私にとっては、かなり行為空間性としての厚みがある概念だ。空を飛ぶものが多いけれど、空を飛ばないものもいる。小学生のときに隣にいた弟の頭にとまったヤツ(カラス)もいるし、数週間前に僕の頭に糞を落としたヤツ(スズメくらいの大きさの知らない種類の鳥)もいる。というようにいくらでも書き続けることができる。私は「鳥」概念を使いこなしている。
一方で、私があんまり知らないもの、例えば「スターフルーツ」概念についてだが、私はスターフルーツについて、南国の果物で、断面が星型で、シンガポールあたりに売っていて、あまり甘くない、というくらいしか語れない。あまり概念として使いこなせていない。
このような、概念についての説明文は、野矢が行為空間の内外の判断に用いている「概念所有」の程度を指していると同時に、その概念の「典型的な物語」の豊かさの程度と言い換えられるのではないか。そして、概念の行為空間性としての厚みを指すのではないかと思う。
念のための繰り返しになるが、「グルー」概念にも、例えば「野矢先生が本で書いていた概念」という物語がある。どんな概念にも、最低限の物語がある。それが、論理空間には行為空間性としての厚さがあるということだ。

2-06【脱線1:最低限の物語】
最低限の物語の例としては、例えば、「以下同様」の物語がある。
「以下同様」は論理空間を成立させるために必要な最低限の条件であると言える。
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考におけるア・プリオリな秩序は、操作のア・プリオリ性が支えるとされている。そして、その「操作」の根幹に「以下同様」があるとすると、「以下同様」とは論理空間を成立させるために必要な最低限の条件であると考えられる。
その「以下同様」でさえ、ひとつの典型的な物語であらざるをえない。つまり、「○○の概念は、以下同様に、同じように適用できる。」という物語だ。「以下同様」がひとつの物語であるということは、第13回の「以下同様」の議論において、P223で「本性と習慣によって囲い込まれた行為空間において初めて、「以下同様」という言葉は効果をもつ。」とされていることにも示されているのではないかと思う。

2-07【脱線2:典型的な物語とは何か】
ここで、「典型的な物語」というものについて、少し考えてみたい。この「典型的な」という限定は必要なのだろうか。
野矢は、この本の第23回注4P416で、「個体と普遍」の観点からの議論を行なっている。そこで、「個体は特定の相貌でも相貌の集合でもない」としている。つまり、相貌は普遍しか持たず、すべての概念は普遍だということだ。
そして、私は概念、相貌が持つ典型的な物語についての話をしている。つまり、普遍の持つ典型的な物語についての話をしている。普遍だからこそ、典型的なのは当たり前なのではないか。
これは、少なくとも私が今用いている文脈においては、「物語」に「典型的な」「ふつうの」という限定は不要だということを指しているのではないか。
このことは次のように言うこともできるだろう。
物語、つまり言葉で表現されたものとは「ふつうの」ものばかりだ。かなり特別な概念、例えば、野矢のいう隠喩表現「山が笑っている」は、野矢が思いついた時点では、「ふつうでない」ものだったかもしれないけれど、私が「語る」を読んだときには、既に野矢が例示として記載している「ふつうの」隠喩表現としか思えなかった。私にとって特別な一生に一度の燃えるような恋愛だって、そのことを誰かに語ったとたん、「ふつうの」一生に一度の燃えるような恋愛になってしまう。語られてしまった以上、すべて「ふつうの」物語になってしまうのではないか。
ふつうの物語、典型的な物語という表現は冗長なのではないか。よって、今後は、「典型的な物語」とはせずに、単に「物語」と統一することにする。

2-08【論理空間の内側に行為空間があることの疑問】
次の話に移りたい。
野矢は基本的なスタンスとして、論理空間の内側に行為空間があるとしている。また、「行為空間の内と外を分ける明確な境界は存在しない。」としている文脈においても、「論理空間の中に概念所有の「パースペクティブ」があると言った方がよいかもしれない。」としており、少なくとも、論理空間に付随するものとして行為空間を捉えている。私も、これまでの議論では、論理空間に厚さとしての行為空間性が付随している、という意味では、そのイメージを踏襲している。
はたしてそうだろうか。私は、新たに、論理空間を超える行為空間性があるという主張を追加したい。
野矢は、第23回P405において、「現実はつねに、典型的な物語をはみ出している」として、2つのことを挙げている。つまり、「現実は際限なく豊かなディテイルを持つ。」(P406)、「しばしば現実のものごとは典型から逸脱するような性質やふるまいを示す。」(P406)としている。逸脱、ディテイルは、「物語」をはみ出しているということだ。
ここで、概念の行為空間性としての厚みは物語だとしたことを思い出して頂きたい。つまりは、概念と、その概念についての物語が結びついているというイメージを持って頂きたい。
そして、野矢は、物語をはみ出す、と言っている。つまりは、概念とその概念についての物語の両方がはみ出すか、物語だけがはみ出して概念は残るか、ということになる。
どこからはみ出したのか。それは、論理空間からはみ出した、ということになろう。 しかし、論理空間から概念とその概念についての物語の両方が論理空間からはみ出してしまったらどうなるのか。当然、何も語れない。逸脱、ディテイルというようなことは語ることすらできないだろう。
では、論理空間から物語がはみ出して概念だけが残ったとしたらどうなるだろう。先程私が述べた、論理空間には物語という行為空間性の厚みがある、ということに反する。よって、これも採用できない。
ということで、その、逸脱、ディテイルとして、論理空間からはみ出したものは、実は「物語」ではなく、物語られている概念なのではないか、と私は思う。概念がはみ出た結果、論理空間上に、何の概念についてかわからない物語だけが宙に浮いているようなものなのではないか。
それは、いわば、逸脱のケースで言えば「○○は、突然変な鳴き声でくしゃみをする」というように、また、ディテイルのケースで言えば「○○は、グレーと黄色の毛を持つ。」というように、主語は特定されずに物語だけがある、ということなのではないか、ということだ。
そのうち、○○というところに「ポチ」が入り、ポチが、そのようなディテイルを持ち、逸脱をするかもしれない。しかし、ポチと、そのような物語がつながっておらず、何についてのものかわからない「物語」だけが宙に浮いているような状況がありうるのではないか、それが、逸脱であり、ディテイルなのではないかということだ。
これはつまり、「ディテイル」「逸脱」という論理空間上の宙に浮いている物語とは、概念がないので論理空間にはなく、しかし物語を持つので行為空間性はある、という行為空間性だけのおばけのようなものではないか。
この考え方は、第9回注5P161での「存在論的未知」の議論にも適用できると思われる。その議論は、「まだ人類に知られていない昆虫はたくさんいる。」はナンセンスだ、というものだった。これも、「○○は、昆虫として存在する。」という主語を特定されない物語だと考えれば、論理空間上の宙に浮いた行為空間性だけのおばけだと位置づけることができるのではないか。
また、一段の飛躍があるかもしれないが、更には、この考え方は、概念の習得の場面にも適用できるのではないかと考えられる。
つまり、P146で挙げられている「三枚におろす」の例で言えば、「○○とは、昨日、奥さんがやっていた行為だ」とか「○○とは、魚を食べる前に行う行為だ。」とか、「○○とは、骨と身の間にスッと包丁を入れる行為だ」とか、そういう物語おばけが集積され、「三枚におろす」概念とつながったとき、概念を習得するのではないか。
ただし、野矢もP412で「典型的な物語は~網目状に絡み合うものとなるのである。典型的な物語は全体として典型的な物語全体を語り出すものとなる。」としているように、概念の習得の場面には、全体論的な複雑さがあり、少なくとも、主語となっている「○○」という空欄を一つづつ埋めていくような単純なものではない。
野矢が第24回P428で、「(「うまく言い表せない」とは)、相貌誕生直前の、陣痛の呻き声なのである。」としているのは、「山が笑っている」という物語ができる前の、「○○が△△している」骨組みだけの物語がある状況において、○○と△△のどちらも埋められずに、一挙に全体論的に空欄を埋められるのを待ちながら、ただ山を前にして感動している、というような状況を示しているのではないかと思う。
少し脱線してしまったが、いずれにせよ、行為空間性は論理空間を超えうる。と私はいいたい。

2-09【比喩の変更 立体地図から肉の切断に】
私は、これまで、論理空間と行為空間の議論について立体地図のようなイメージで論じてきた。しかし、「論理空間」を超える「行為空間性」があるとしたことで、そのイメージは捨てなければいけない。地図上の地形であれば、富士山のように綺麗な円錐形でなくても、下から上に向かって狭くなっていく。これでは、論理空間の外に行為空間があるということが表現できない。
この立体地図の比喩を捨て去るにあたって、立体地図の比喩について、一つ指摘しておくべきことがある。立体地図を地図にするためには、海抜0メートルのところで切断をする必要があったということだ。つまりは、地図上の本州を論理空間として喩える場合、既に海抜0メートルで切断をしている。野矢の目玉焼きのような論理空間と行為空間の議論のイメージで言えば、立体地図を二度切断し、それぞれの切断面に、論理空間と行為空間が割り当てていたということだ。
そのことを踏まえ、必ず、1回目の切断である「論理空間」面での切断より、2回目の切断である「行為空間」面での切断が小さいものとなっていた立体地図の比喩を捨て、論理空間の外にも行為空間性がありうるような状況を表現するため、1回目の切断より2回目の切断が大きい場合も小さい場合もあるような、別のものを比喩に用いることとしたい。
その比喩として、私がイメージするのはでこぼこな肉の塊が宙に浮いているような映像だ。そして、その肉の塊を包丁で2回切断するイメージだ。または、何かでこぼこな岩か何かをCTスキャンのように2回輪切り映像で見るようなイメージでもいい。
野矢の論理空間と行為空間の議論で言えば、1回目の切断が論理空間にあたり、2回目の切断が行為空間にあたる。立体地図のイメージを踏襲し、必ず下から切っていくとすると、不整形だから、1回目の切断より2回目の切断のほうが大きくなる場合もある。
そのような比喩の置き換えをして、この先の議論を進めたい。

2-10【詳細1:「肉(岩)」とは何か】
ここでいくつか疑問が生じるが、そのうち、2つの疑問を取り上げたい。まず、一つ目の疑問は、そもそも、この肉(岩)とは何なのか、という問いだ。
実は、立体地図の喩えの段階でも、同様に、この立体地図とは何なのか、という疑問はあった。その問いに対しては、論理空間の行為空間性としての厚さという説明をしてきた。その説明自体がその場しのぎだったのだけれど、論理空間がどこだかわからなくなってしまい、行為空間が論理空間を超えることもあるなんて主張を始めたことで、この疑問が際立つことになってしまったと思う。
考えてみよう。この肉(岩)に含まれるものは、今まで述べたところで言えば、論理空間上にある概念と、その概念と結びついた物語と、論理空間上の概念と結びつかない物語のおばけ、それだけだ。
そして、概念と概念の結びつきが物語なのだとすれば、概念も物語の一部に過ぎない。
ということは、そこには物語しかない。
つまりは、肉(岩)とは何か、の答えは「物語」の集まりだ、というものだ。
そして、この物語の塊は、徹頭徹尾、言語的だということを留意しておくべきだろう。

2-11【詳細2:どこが論理空間なのか】
次の疑問は、肉(岩)のどこを切断した切断面が論理空間なのか、ということだ。
立体地図の例えでは、最も基礎となる部分というくらいの意味合いで地図の標高0メートルと言っていた。そのような例えができなくなくなった以上、どうすればいいのか。
私は、行為空間の捉え方については、野矢とは別の考えを持っているが、論理空間の捉え方については、私は異論はない。よって、それを考えるにあたっては、野矢(というか野矢の言うヴィトゲンシュタイン)はどのように論理空間を捉えたのかを考える必要がある。
当面の答えとしては、概念が成立するように切断を行うということになるだろう。ちょうど、切断した断面に沿って、概念が成立しているような切断面が、論理空間にあたる。
それでは、その切断すべき面をどのように見分けるのか。
論理哲学論考のヴィトゲンシュタインがいう、規則、つまり、先程、論理空間を成立させるものとした「以下同様」が手がかりとなる。
私は、先程、「以下同様」とは論理空間を成立させるために必要な最低限の条件であると述べた。つまりは、すべての概念が「以下同様」という物語を持って成立するように切断を行うということだ。
あくまでイメージとなるが、豊かな物語で満たされているが、無秩序でわかりにくくなっている地球の生き写しのような物語の塊に、うまく「以下同様」の物語が薄く広がるようなぎりぎりのところに包丁を入れ、成立する概念と、概念を成立させる物語とに秩序だてられた、簡素な白地図を作ることが、論理空間を成立させるということなのではないか。
まだ、詳細について述べるべきことはあるかもしれないが、とりあえずはこれで、野矢の目玉焼きのような論理空間と行為空間の関係から、物語の塊と、その切断面としての論理空間との関係へと、2次元から3次元への変換ができたのではないかと思う。