これは2012年12月31日のアップとなってます。

感謝という言葉をキーワードに、「私の哲学」で述べようとしていたことの一部を具体的に説明しようとしたものです。とのこと。

ほかの長編よりは短めです。

PDF:nisyurui

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01 2種類の「ごちそうさま」
私には中学生の娘がいるが、昔から娘には、レストランで食事をした後は「ごちそうさま」と言うように、と注意している。私もなるべく言うようにしている。慌しい牛丼屋などでは小声になってしまうときもあるが、言うようにしている。
ハンバーグでも海鮮丼でも何でもいいが、レストランでご飯を食べた後に「ごちそうさま」と言う状況を細かく観察してみる。そうすると、厳密には2回「ごちそうさま」と言うチャンスがあることがわかる。1回目のチャンスが食べ終わったときで、2回目のチャンスが会計をするときだ。(なお、誰かにおごってもらったときに、店を出た後におごってくれた人に「ごちそうさま」と言うというような3回目のチャンスも例外的にはあるが、話を単純化するために省略する。)私は、そのチャンスを活かし、丁寧に2回言うときもあれば、1回だけ言う時もある。
では、2回言うのは、単に丁寧なだけなのだろうか。この2回の「ごちそうさま」は同じものなのだろうか。この文章では、この、日常的な風景についての疑問を手がかりにして、感謝というもののあり方を考えてみたい。
まず、会計のときの「ごちそうさま」に着目する。この「ごちそうさま」をどのように言っているかを思い返すと、レジでお金を払うときにレジに入っている店員に向かって言うことが多い。高いレストランでは席に来た店員に言うこともある。まとめて別の人が会計を済ませていれば、レジを通り過ぎるときや店を出るときに、タイミングをみて店員に言う。これらは、明らかに店員への感謝だ。もう少し広がりを持たせたとしても、その店に対する感謝だ。誰に感謝の言葉を述べているかは明確だ。
一方で、ご飯を食べ終わったときの「ごちそうさま」はどうだろう。この「ごちそうさま」は、単にレストランの人に言っているものではない。それは、店員がいない状況、例えば一人自宅でコンビニのご飯を食べている場面を考えればわかりやすい。
私は、コンビニのご飯を食べたあと、周りに誰もいなくても「ごちそうさま」と言うことが多い。(言わないこともあるので、「言うことが多い。」という程度にしておく。)
その言葉は、コンビニの店員や、コンビニ弁当の製造工場の人だけに言っているものではない。
では、この「ごちそうさま」は誰に言っているものか、と問われるとうまく答えることができない。不明確だ。あえて、感謝の対象を特定してみると、人によって違いはあるだろうが、コンビニの店員や、コンビニ弁当の製造工場の人に加えて、食材となる作物を栽培してくれた人、更には食料となってくれた生命や、生命を育んでくれた地球、食料を与えてくれた神様、といった幅広いものに感謝をしている、とも言えるだろう。しかし、それも、あえて聞かれれば、という程度で、実際に「ごちそうさま」と言うときに、そこまで明確に考えているとは思えない。(明確に神に感謝している、という人もいるかもしれないが、後ほど、神への感謝も不明確であると指摘することになる。)
つまり、食後の「ごちそうさま」は感謝の対象が不明確で幅広いものであるのに対して、会計のときの「ごちそうさま」は感謝の対象が「店または店員」と明確である。私の実感としては、食後の「ごちそうさま」は、あまり明確に意識せず、なんとなく自然に言っている。というか、自然に言わされているという気がする。または、結局、恥ずかしいとか、タイミングを逸したというような理由で実際は「ごちそうさま」と言わなくても、感謝の言葉を言おうかどうか、と自然に意識させられている気がする。
よって、これを受動的感謝と呼ぶことにしたい。一方で、会計のときの「ごちそうさま」は、意識的に、明確な誰か(何か)に伝えるという意図を持って言っている。これを能動的感謝と呼ぶことにしたい。