5-1 私
私は先ほど「伝達」=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則+α」と述べた。
そして、その後更に、「独我論・独今論、アミニズム(希望)」を導入し、「伝達」=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)+α」となった。
しかし、今までの文脈において、説明の都合上、このαにあたるものとして、更にいくつかの概念をこっそりと導入している。少なくとも、「私」、「他者」、「時間」、「空間」の4つの概念を導入している。
よって、この数式は更に見直され、「伝達」=「発信者、受信者、対象」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)、私、他者、時間、空間+α」 ということになる。
しかし、このまま、これらの概念を密輸入したままにする訳にもいかないので、順序は違うが、ここで説明を行いたい。
まずは、「私」、「他者」、「時間」、「空間」のうち「私」について、この文章でどのように導入されていたかを確認してみよう。
先ほど、作者の作者性について述べる中で、作者というものを深く考えようとすると、そこに「私」を投影せざるを得ず、そのことを「作者性」と呼びたいとした。まず、ここに「私」が登場している。そして、この作者性の定義のとおり、この文章において、哲学書の作者の視点で述べるにあたっては、どのようなテーマについてであっても、その作者としての私が登場している。例えば、友人A、B、Cにて哲学書を読ませようとする哲学者として、また、自宅から駅までの道を歩きながら「犬」について考えを巡らせる者として、「私」は登場する。更には、この文章全般において、この文章の作者として「私」は登場している。
このように、「私」概念は、「作者」について述べる中で密輸入されている。全ては「伝達」つまり「作者、読者、哲学書」を経て述べるとしながら、勝手に「私」概念が既に入り込んでいる。これは、「以下同様の規則」というものが既に導入されていたところから、「読者」の「読者性」を経て導くことができると後付けで導入の経緯をせざるを得なかったことと同じ図式だ。
それでは、「私」については、どのような後付けの説明ができるのだろうか。
「私」概念については、永井均の哲学を持ち出すまでもなく、いわゆる(私の哲学に限定しない意味での)哲学においては、多面的な議論が可能な複雑な概念であると受け止められている。しかし、この文章、つまり「私の哲学」においては、「私」とは、あくまで、「作者」の「作者性」を超えるものではないと単純に考えている。なぜなら、全ての「私」という用語は、「この哲学書の作者」と置き換えることができるからだ。つまり、「私」と述べることは「作者」と述べることに等しく、単に「作者」=「私」ということだ。
この「私」は単純だという主張について、「私」は、この文章の作者として、哲学書の作者として、作者性の定義として、といった色々なレベルで登場しており複雑だと思われるかもしれない。しかし、この複雑さの原因は「作者」の方にある。「作者」には、先ほど述べたように、この文章の作者としての「作者」という意味と、この文章に語られている対象としての「作者」という二重性がある。つまりは、作者と、その作者が書いた文章に登場する作者という二重性だ。そして、この二重性は反復して適用されるため、「作者が書いた文章に登場する作者が書いた文章に登場する作者・・・」というように作者は重層的に繰り返し登場しうることとなる。このような「作者」の複雑さが「私」にも投影され、「私」は単に「作者」の複雑さを引き継いでいるだけにも関わらず、複雑なように見えるということだ。

5-2 読者としての私
また、既に、自分自身に対する伝達について述べるなかで「読者としての私」が登場しているではないか、という反論もあろう。これについては、「読者としての私」は、「私」ではない、と整理することとしたい。つまり、「私」は、「作者としての私」と「読者としての私」に分けられ、ここでは「作者としての私」を「私」とする、ということだ。
それでは、「読者としての私」とは何か、ということになるが、結論としては『「私」から時間的に「区別」された「他者」』と考えて頂きたい。「読者としての私」とは「他者」だ。
後ほど、この説明で用いている「他者」「時間」といったものについて述べることになるので、その後に理由を説明するが、当面はそう考えて頂きたい。(なお、「読者としての私」については、更に語るべきことがあるが、説明の都合上、更に分けて述べることとする。)

5-3 他者
次に「他者」について考えてみよう。
「他者」については、文章の受け手として登場する。「他者」という言葉はあまり用いていないが、例えばアミニズムについて述べるなかで、『他者に対して作者と同じに解釈してくれるという希望を持つということが「読者」の意味である。』などとしている。これは、他者の一部が読者である、つまりは他者の部分集合が読者であるということが隠された前提になっているということである。
よって、先ほど「私」については、「作者」=「私」としたが、「他者」については簡単に「読者」=「他者」とは言えない。他者の部分集合が読者であると言ったとおり「他者」は「読者」をはみ出しているように思われる。
ここで、「他者」と「読者」の関係を検討するにあたって、先ほど、読者の「読者性」について、独我論とアミニズムという、相反した捉え方を行ったことに立ち返り、この2つを分けて検討してみよう。
この検討にあたっては、繰り返しの確認になるが、私は、全ては「伝達」つまり「作者、読者、哲学書」を経て述べることにしたいと言ったことを考慮する必要がある。つまりは、このいずれかから「他者」が導かれるのであれば、「他者」がいるとしてよいが、いずれからも導かれないならば「他者」がいるとは言えないということになる。
このことを踏まえ、まず、読者の「読者性」について厳格に解し、読者性を有する読者としての他者を否定する独我論における「他者」について考えてみよう。この場合、読者をはみ出した他者、つまり、「読者ではない他者」、伝達の受け手でない他者とは何を指すのだろうか。
先ほど、独我論において作者自身以外の読者はいないと述べた。また、作者とは私のことなのだから、作者は他者ではありえない。とすると、他者とは作者でもなく読者でもないということになる。つまりは、「他者」は作者・読者のどちらを経ても導入されない。とすると、「他者」はどこにもいないか、「哲学書」を経て導入されるということになる。
仮に「他者」は「作者、読者、哲学書」のうち「哲学書」を経て導入されるとすると、そもそも「哲学書」を経て導入されるとは、どういうことなのだろうか。
それは簡単に言えば、哲学書に他者について書かれているということなのではないだろうか。哲学には色々な哲学があるから、他者について全く触れられない哲学もあるだろう。しかし、「私の哲学」においては、少なくとも、今書いているとおり、「他者」について触れている。おり、「私の哲学」では、「哲学書(対象)」に他者が存在する。このことが、「他者」は「私の哲学書(つまり、この文章)」にいる、ということなのだと私は考える。
また、もう一方の、読者の「読者性」について希望のもとに幅広く捉えようとするアミニズムの場合の他者について考えてみよう。
アミニズムにおいては、独我論のように作者以外の読者は否定されない。よって、「読者としての他者」は読者のなかに認められる。問題は、読者をはみ出した「読者ではない他者」だ。アミニズムにおいては、読者になってくれるのではないかという期待により、読者は拡大していく。先ほどの例えで言えば、読者となってくれるかもしれないという期待を宇宙人やイルカにさえ持つことができるならば、宇宙人やイルカは読者だ。そうした場合、「読者ではない他者」とは読者とは思えないもの、例えばネズミやサボテンのようなものを指す。このようなものたちを他者と呼ぶことができるのだろうか。
ここで、「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」を経て述べることとしたことに立ち返り考えてみると、仮にアミニズムの観点からネズミやサボテンに読者性が認められないとすると、このような「読者ではない他者」は、独我論における他者と同様に、「作者(発信者)、読者(受信者)、哲学書(対象)」のうちの作者でも読者でもないのだから、「哲学書(対象)」を経由してしか導かれないということになる。よって、アミニズムにおいても、ネズミやサボテンのような「読者ではない他者」は独我論と同じように「私の哲学書」のなかだけにいる、ということにならざるを得ない。
つまりは、独我論、アミニズムのどちらからアプローチしたとしても「読者ではない他者」は「私の哲学書」のなかにしかいないということになる。(独我論の場合、「読者としての他者」がそもそもいないのだから、全ての他者が「読者ではない他者」である。)
このように考えてみると、『他者に対して作者と同じに解釈してくれるという希望を持つということが「読者」の意味である。』などと、他者の一部が読者であり、他者の部分集合が読者であるように語り、「読者としての他者」と「読者ではない他者」はあたかも同列に比較可能なもののように語ってきたが、実は誤りであり、「読者ではない他者」については、「読者としての他者」とは全く導入のされ方が異なり、哲学書のなかでしか語ることができないものであったのである。
ここで整理すると、「読者としての他者」とは、独我論においては否定され、アミニズムにおいては「読者」のことである。そして、「読者ではない他者」とは独我論においても、アミニズムにおいても、哲学書のなかにあるものである、ということになる。

5-4 時間・空間:区別
次に、この文章において、「時間」概念がどのように導入されたのかを振り返ってみよう。
ここまでの文章で「時間」概念が登場していることを明確に述べた箇所として、自分自身に対する伝達について考えるなかで、白い犬のことを考えながら散歩する場面があった。そこでは、既に、「この説明は、散歩の例えで言えば「ガード下で」「小さな公園で」「一気に思考を行う」というように、時点や時間という考えを既に導入してしまっているという点で不正確なものとなっている。「ガード下で」「小さな公園で」という時点をひとつの時点と捉えるべきなのか、ひとつの時点で「一気に思考を行う」とはどういうことなのか、そもそも「時間」という概念を導入してよいのか、といったことについては現段階では何も検討を行っていない。」と明示している。
また、独今論について検討するなかでも、ガード下での私に対する小さな公園での私は、実は理想的な読者としては存在しない等と述べ、つまりは、ある時点での私とその時点より未来の時点での私の関係についての考察を行うことで、時点間の前後関係という意味での「時間」概念を導入していた。
ここで「時間」概念について検討するにあたっては、あくまで「私の哲学」における今までの議論を成立させるための必要最小限のものとして「時間」概念を捉えるべきということに留意する必要がある。ここまでの説明の都合上、時点の広がり、時点間の前後関係といった「時間」に関する様々な特徴、問題点を一気に密輸入してしまっているが、何が「私の哲学」において必須のものであり、何が、よりわかりやすく説明する都合上、便宜的に不必要に導入されたものなのかを見極める必要がある。
私は先ほど、散歩しながら白い犬のことを考える場面においては、ガード下での作者である私から小さな公園での読者である私に対して、思考、つまり哲学書の伝達が行われている、だからこそ、複雑な思考が可能である、と述べた。そして、この伝達を否定するものとして独今論があると述べた。
ここで注意すべきは、この作者と読者は別であるということである。「時間」概念のようなものを先取りしてしまえば、そんなことは当たり前だ、ということになるかもしれないが、ここでは「時間」というものが明らかでないところから、慎重に、必要最小限の「時間」を捉えようとしていることに留意して頂きたい。「時間」的なものを全て無視した場合、ガード下での「作者としての私」と小さな公園での「読者としての私」を「区別」するものは何もない。「区別」がなければ、この二つの私を作者と読者に振り分け、「伝達」というものを想定することもできなくなるのではないか。
この「区別」つまり「伝達」があるために必要な、作者と読者の「区別」を生み出すものが「時間」である。ガード下での「作者としての私」と、小さな公園での「読者としての私」を「区別」するものとして「時間」はある。これが必要最小限の「時間」の意味である。
ここには、更に、どこで哲学書、つまり思考の区切りがあるのか、「ガード下」と「小さな公園」で区切って本当にいのか、というような疑問がありうる。この疑問は時点の広がりというような別の議論につながるものかもしれない。しかし、この文章ではその方向には議論を発展させず、どこかで区切りがあるということは確かである、ということを確認するに留めたい。この区切り、区別を「時間」と名付けることが適当かどうかは別にして、何らかの「区別」という概念は導入せざるを得ない。これが、現時点で「私の哲学」から導くことのできる最小限度の「時間」の意味合いである。
また、「空間」についても、同様のことが言える。この文章では、「空間」という用語はここまで用いていないが、「作者としての私」と「読者としての他者」を分かつものとして、「空間」は存在する。「作者としての私」と「読者としての私」との間での伝達が生じるために必要な「区別」として「時間」概念を導入したのと同じように、「作者としての私」と「読者としての他者」との間での伝達が生じるために必要な区別として「空間」概念を導入することとなる。このように「時間」と「空間」は、いずれも「区別」概念の一形態と考えることができる。
よって、この文章においては「時間」「空間」とは「区別」のことであり、あえて「時間」「空間」という名称を用いなくともよいが、私はどうしても「時間」「空間」という用語を用いたくなってしまうので、そう呼ぶことにする。そして、「作者としての私」と「読者としての私」との「区別」を「時間的区別」と呼び、「作者としての私」と「読者としての他者」との「区別」を「空間的区別」と呼ぶことにする。

5-5 区別と独我論・独今論、アミニズム
この「区別」は、先ほど述べた独我論・独今論、アミニズムとも密接に関係する。
独我論や独今論は、「作者としての私」から見た「読者としての他者」や「読者としての私」を否定するものであるが、この否定は、「区別」の向こう側だからこそ発動する。「作者としての私」から、「読者としての他者」や「読者としての私」は、空間的、時間的に「区別」されているからこそ、「区別」の向こう側を否定することができる。
言い替えれば、この「区別」により「読者性」つまり「以下同様の規則」の力は、「読者としての他者」や「読者としての私」に及ばないという「以下同様の規則」の否定が、独我論・独今論の意味である、とも言える。
つまり、独我論とは、「作者としての私」から見て、「区別」の向こう側に理想的な読者がいるかもしれないということを、空間的区別により「以下同様の規則」は及ばないという理由から否定するという考えであり、独今論とは、ガード下での「作者としての私」から見て「区別」の向こう側にいる小さな公園での私が理想的な読者として存在するということを、時間的区別により「以下同様の規則」は及ばないという理由から否定する考えなのである。
しかし、一方で、「区別」は、否定としてだけでなく、肯定としても働く。「区別」の向こう側のことはわからないのだから、向こう側に読者はいるかもしれないという希望は持てる、という肯定的な考えをとることもできる。これがアミニズムである。よって、アミニズムも「区別」がなければ成立しない。「区別」がなければ、読者がいないことが明らかになってしまうのだから、希望は生まれない。
このように、独我論・独今論を立ち上げ、一方でアミニズムも立ち上げるものとして「区別」はある。

5-6 時間 過去と未来
時間という用語について、「区別」という意味で用いるとした。それは、つまり、時間には「区別」だけがあり、過去も未来もないということだ。
しかし、通常、「時間」には「区別」以上のもの、つまり、過去と未来という時間の前後関係といったものがあるものとして用いられており、少なくとも、私は、ここまで、そのように用いてきた。
ここで、過去、未来として述べてきたものが何なのか明らかにしたい。
注目したいのは、独我論・独今論と対比してアミニズムについて語る中で、「読者がいるかもしれない。」という希望があるとしたことだ。この希望には、『「未来には」読者がいるかもしれない。』という言葉が隠されているように思われる。
つまり、「読者としての他者」はいないという独我論を乗り越えようとするアミニズムの見地からは、今までは「読者としての他者」はいなかったが、未来にはいるかもしれないという希望があるということだ。これは、独今論を乗り越えようとするアミニズムの見地からも同様である。「読者としての私」という理想的な読者がいないという耐えられなさを乗り越えるものとして、未来の「読者としての私」には読者性があるかもしれないという希望がある。
つまり、独我論に対するアミニズムにおいても、独今論に対するアミニズムにおいても、過去には希望がなく、未来には希望がある、という意味での過去と未来の非対称性がある。
いや、正確に言うべきだろう。ここまでの議論においては、「伝達」=「作者、読者、哲学書」=「以下同様の規則、独我論・独今論、アミニズム(希望)、私、他者、時間、空間+α」 というところまでしか語ることができていない。過去や未来を導入するには至っていない。
よって、言い方が逆である。つまり、他者であれ、私であれ、読者がいるかもしれないというアミニズム的な希望があることが未来であり、その希望が欠けていることが過去である。つまり、過去・未来という概念を新たに導入する必要はなく、アミニズム的な希望の有無という観点から説明が可能である。
以上を言い直すと、「区別」により希望を肯定し、アミニズムの立場に立つということが未来の意味であり、「区別」により希望を否定し、独我論・独今論の立場に立つということが過去の意味なのである。

5-7 読者としての私(再考):原点性
先ほど、「読者としての私」とは、結論としては「私」から時間的に「区別」された「他者」と考えて頂きたい、とし、その理由については、「他者」「時間」「空間」について説明した後に述べることとしたので、ここでその理由を述べることとしたい。
「区別」について説明するなかで、「時間」と「空間」の類似性については述べたとおりなので、「作者としての私」と「読者としての他者」が空間的に「区別」されるのと同様に、「作者としての私」と「読者としての私」が、時間的に「区別」される、ということについて改めて説明する必要はないだろう。つまり、「読者としての他者」と「読者としての私」には「区別」される側であるという類似性がある。
そして、仮に「作者としての私」が「私」ならば、「区別」された「読者としての他者」や「読者としての私」を「私」と呼ぶことはできないということもご理解頂けるのではないかと思う。
問題は、なぜ「作者としての私」が「私」であり、「読者としての他者」や「読者としての私」は「私」ではないのか、ということだ。
ここで、「読者としての他者」が「私」ではないのはなぜか、という疑問はわかりにくいので省略すると、「作者としての私」が「私」であり、「読者としての私」は「私」ではないのはなぜか、つまり「作者としての私」と「読者としての私」のいずれかが「私」ならば、どちらが「私」かは、どのように決まるのか、という疑問に答える必要がある。
先ほど、独今論における時間的区別について述べるなかで、「作者としての私」と「読者としての私」が「区別」される状況において、当然のように、「作者としての私」を「区別」の手前に置き、「読者としての私」を「区別」の向こう側に置いていた。そして、「読者としての私」がいるかいないか、というような議論を行った。しかし、実は「読者としての私」を「区別」の手前に置き、「作者としての私」がいるかどうか、という議論もできたはずである。そうしなかったのはなぜかという疑問である。
この疑問に対する答えは、先ほど「作者性」について述べた際に触れたとおり、私は、常に哲学の作者であり、哲学の読者ではないという実感があるから、としか言えない。この実感がなぜ生じるか、というような話は更にできるのかもしれないが、疑問の答えとしては、そういう実感があるから、としか言えない。
この実感を原点性と呼ぶならば、原点性により「作者としての私」が優先される、と言い換えることができる。いや、「作者」=「私」なので、単に「作者」が優先される、と言ったほうがよい。それでも、「作者としての私」と言いたくなってしまうのは、「私」という語に、通常はこの原点性が込められているからなのだ。
よって、原点性のない「読者としての私」を「私」と呼ぶことはできない。これが答えである。
(それでも「読者としての私」と呼びたくなってしまう理由については次に少し触れることになる。)
なお、この原点性については、独我論における空間的区別においても同様のことが生じている。これが先ほど省略した「読者としての他者」が「私」ではないのはなぜか、という疑問の答えである。つまり、「作者としての私」と「読者としての他者」が「区別」される状況において、当然のように、「作者としての私」を「区別」の手前に置き、「読者としての他者」を「区別」の向こう側に置いていたのは、「作者としての私」の原点性によるものである。そして更に言えば、この「作者としての私」の原点性は、「私」の原点性によるものではなく、「作者」の原点性によるものだということに留意する必要がある。
以上、原点性という見地から述べたが、原点性は「作者」にあるということからも明らかなように、この原点性という述べ方は、前に述べた「作者」の「作者性」つまり、「作者」=「私」ということを、より正確に捉え直したに過ぎず、新たな概念を導入したものではない。つまり、「作者性」について、先ほどは、「私」に原点性があるかのようなかたちで「作者」=「私」と述べたが、「作者」に原点性があるという、より正確な形での言い換えを行ったに過ぎない。