2016年11月23日作

PDF:バイタル・スフィア

哲学者が何か究極的な真実のようなことを語るときには、世界、宇宙、時空、魂、生命、実存、現実といった、とても大きな言葉を使う。宗教でも同じだが、その場合には神という言葉を使うことになる。このような言葉たちは、いずれも、全てであり、唯一であり、決して外部から指し示すことができないような何かを指し示そうとしている。
僕は、そのような大きな言葉たちを理解しようとするとき、虚空に浮かぶ球体をイメージする。全てであり唯一なのだから、虚空と球という二つのものを描写すること自体が実は誤りなのだが、完全な図形である球という比喩は、全てであり唯一である完全な何かをうまく描写しているように思えるのだ。

僕たちは、この球体の住人だ。この球の内部に留まる限り、すべてはとてもうまくいく。なぜなら、全てであり、唯一である球の存在を認め、球の成立を認めるということは、全てを認めるということでもあるからだ。
全てを認めるとは、当たり前な世界が当たり前に成立しているのを認めるということだ。僕がいて、君がいて、ネコがいて、生命に満ちた地球があり、世界があり、時が流れている。そこには全てがある。
当たり前以上のこと、例えば、あの世とか、集合的無意識とか、そういったものを認めるかどうかはともかくとして、球体には、皆が当たり前としているものが全部詰まっていて、そこには、当たり前に成立している世界が広がっている。当然、時空と観察の成立を大前提とする自然科学のようなものも含まれている。また、同質で対等な他者というものの成立を大前提とする道徳、倫理のようなものも含まれている。何もかもがそこにはある。

そして、不思議と言えば不思議だし、当たり前と言えば当たり前なのだが、この当たり前な世界はとてもうまくいっている。この世界を、例えば、科学的な切り口で捉えても、道徳のような観念的な切り口で捉えても、何故かうまく、整合的に捉えらえることができる。
どういうことかというと、例えば、僕がとても不思議に思っているものに、他者への共感というものがある。これはとても不思議だ。まず、道徳の根幹に他者への共感があるのは明らかだし、共感したり、されたりすることで現に幸せになる。また、他者への共感の仕組みは科学的に明らかになりつつある。科学的に根拠付けられている。この一致は不思議だ。
一致の理由を説明するために、昔、人類がマンモス狩りをしていた頃、集団行動をとるためには共感が必須であり、共感するように進化してきた、というような生物学的、歴史的な説明をすることもできるが、その説明さえも、うまく一致する、という不思議さの例を一つ増やすことにしかならない。
共感の対極にあるのが、例えば、破壊衝動や麻薬といったものだろうが、麻薬で脳は一時的に喜んでも、その喜びは長期間持続できない。うまいことに、麻薬は共感ほどうまくいかない。この勧善懲悪的な構造も、うまく整合が取れているなあ、と思うのだ。
こんな風に、当たり前の世界のものごとたちは、当たり前にうまく結びつき合って、当たり前の世界をうまく構成している。

この当たり前の世界は非常にぬかりない。世の中は成功事例に満ち溢れている。この当たり前の世界に絡め取られていないものなどないと思えるくらいだ。
僕は、この世の中の当たり前さについての反証となりそうな事例はひとつしか思いつかない。とは言っても、当たり前の世界観に反した事例があるということではなく、当たり前の世界観と結びついていない事例があるということなのだが。また、この事例は、当たり前の世界観と結びついていないので、そもそも、当たり前の世界の住人である僕の視点から直接描写することはできない。なんとも頼りない反証だ。
しかし、その反証となる何かを指し示す道筋は二つ挙げることができる。一つ目が哲学的懐疑であり、二つ目が瞑想という道筋だ。どちらかでうまく伝わるといいのだけど。

まず、哲学的懐疑の道筋でいってみよう。僕が哲学的懐疑と呼ぶものの代表例は、デカルトの夢の懐疑だ。デカルトが、「我思うゆえに我あり」とした結論については、あまりいい答えとは思えないけど、夢や悪魔を持ち込んで、色々と疑ったことはすばらしいと思う。何となく疑うのではなく、筋道を立ててきちんと、とことん疑うことは僕にとっては大事なことで、それこそが哲学的懐疑だ。
哲学的懐疑でとことん疑っていると、何もかも疑わしくなる。デカルトはそこで、我を発見したとしているけれど、その我さえも疑うことはできる。どこまでも疑うことはできる。しかし、それでも、全く何もないということにはならない。何だかわからないけれど、何かは残っているような気がする。デカルトは堪えきれなくて「我」と名付けてしまったが、そうとも言えない何かがある。この何かが、この当たり前の世界と結びついていない何かだ。
「疑う」とは、どんなに純度を高くしたとしても、当たり前の世界のなかでの当たり前の行為だ。だからこそ、その行為に疑うという名前を付けることだってできる。この疑うという当たり前な行為では届かないところにある、得体の知れない何かは、当たり前の世界からは隔絶したところにあるはずだ。
僕が好きな哲学者である入不二基義の比喩を使うなら、この何かとは、地平線のようなものだ。見えているのに、どこまで行ってもたどり着くことができない。いや、決してたどり着くことができない一方で、その方向性を示してくれるものとしては、北極星のほうがいいかもしれない。船乗りは、北極星に向かって真北に船を操ることはできても、北極星に到達することはできない。いや、地平線、北極星といったイメージをもとに、もっとかっこいい名前を付けてみよう。やはり入不二の用語を使うなら、「極北」という名前はどうだろう。ヨーロッパの伝承の理想郷、ウルティマ・トゥーレは、現実世界から隔絶したところにあるものの名前としてふさわしい。
当たり前の世界観と結びついていない事例とは、哲学的懐疑という道筋で示された「極北」のことだ。まずは、こうまとめておこう。

僕は哲学が好きだから、こういう言い回しがしっくりくるのだが、そうでない人にとっては、もう一つの、瞑想という道筋で示したほうがわかりやすいかもしれない。
瞑想とは、いわば、全てを捨て去り、名付けることなどできない、ある境地を目指した活動だと言える。瞑想については詳しくないので、捨て去るという言葉は不適切かもしれないけれど、瞑想の過程は、僕とか、君とか、ネコとか、そういった当たり前の世界から離れるものだというのは確かだろう。
瞑想によってたどり着こうとする目標地点は、涅槃と言われている。たどり着いた人もいるとされているけれど、悟っていない僕には、なんだかわからないし、たどり着くということがどういうことかもよくわからない。だけど、何となく、哲学的懐疑によって指し示される「極北」によく似たものなのではないだろうか、という予感がある。
瞑想という道筋で示される「涅槃」は、その定義上、この当たり前な世界とはかけ離れていなければならない。だから、当たり前の世界観と結びついていないもうひとつの事例は、瞑想という道筋で示された「涅槃」のことだと言える。「極北」よりも、こちらのほうがわかりやすいかもしれない。

そして、極北と涅槃を、乱暴にイコールで結んでしまうなら、極北・涅槃は、全てであり、唯一である、完全な美を持つ球体に浮き出た染みのようなものだ。当たり前の世界の、当たり前な美しさを、この染みは貶めている。なぜなら、当たり前な世界とは関係なく、無根拠に、極北があり、涅槃があるのだから、これは当たり前な世界にとっては大事件だ。
更に、この染みは、球体を貶めるに留まらず、広がり、球体を食い尽くしてしまう。
まるで全てであり、唯一である完全な球体のように、調和し、幸せな、当たり前に成立していると思われていた世界に、調和を乱す染みが見つかる。そこで、不調和に我慢できず、この極北または涅槃を取り込み、当たり前の世界を再構成しようと試みる。だが、その試みは叶わず、球体の完全性は失われ、全ては崩壊してしまう。どんなにがんばっても、極北や涅槃を、当たり前の世界の当たり前のネットワークのなかに位置づけることはできない。なぜなら、当たり前の世界にあるどんな武器も、言葉も、極北や涅槃には届かないのだから。
この事態を僕なりに描写するならば、漆黒の虚空に浮かぶ、真っ白に輝く球体のなかに、小さな染みを見い出した途端、瞬く間に染みが広がり、球体は輝きを失い、砕け散ってしまった、というようなイメージだ。全てが台無しになった後には、漆黒と球体が混じったカオス、灰色ののっぺらな世界がどこまでも広がっている。僕は、それをなんとか再構築しようとするけれど、もう、手のつけようがない。そこに何かを構築する手がかりなど、もうないのだから。そこは、まさに、ウィトゲンシュタインが言う、つるつるの氷上だ。ここを、哲学的絶望と名付けたい。

しかし、話はこんな風に静かには終わらない。なぜなら、僕は、それでも、この灰色ののっぺらな世界がどこにあるのかと考えてしまうからだ。この灰色の世界は、どこかに位置づけられているはずだ。そう考えるなら、その場所は、やはり、漆黒の宇宙に浮かぶ、輝く球体の内でなければならない。なぜなら、僕にとっての世界とは、そういうものだからだ。こうして、この哲学的絶望という灰色の世界は、輝く光の中、生き生きとした当たり前の世界の中に再び取り込まれる。
そう、この球体は、静的な存在ではない。この輝く光は、僕の哲学的疑問や、哲学的絶望をどこまでも包み込んでくれる。僕の哲学という生の営みを、どこまでも包み込んでくれる。この球体は、動的であり、あえて言うなら、生命にあふれ、生き生きとしている存在だ。そこは、僕がいて、君がいて、ネコがいる、この当たり前な生きた世界だ。
僕は、この、灰色の世界を垣間みせながらも、脈打つように光り輝く球体にかっこいい名前を付けたい。
「バイタル・スフィア」
これが、この、僕がいて、君がいる当たり前の世界と、僕が途方にくれている、灰色ののっぺらな世界の、二つの世界に与える共通の名前だ。

このように、僕の「バイタル・スフィア」には、静と動、白い光と灰色の世界という二元性がある。ここで特に注目し、書き残しておきたいのは、母性と父性の二元性だ。
僕は、この球体の光に、優しさ、愛、母性を読み込む。光とは愛であり、そこに関心を持ち、注目するということだ。愛は球体を白く輝かせ、灰色の世界を、当たり前の、あの生命が満ちた世界として輝かせてくれる。
一方で、その球体を問答無用で成立させてしまう圧倒的な力に、僕は、父性を読み込む。父の力は、愛や関心などといったものにはお構いなく、灰色か輝いているかなんて関係なく、ただ球体を、世界を、成立させてしまう。そこにあるのは、無関心で無慈悲な力だ。
この世界、つまり光り輝く球体は、父性と母性が交接したところ、力と愛の二元論がぶつかりあう地点に現出している。父性と母性はひとつになることはない。ぶつかり合い渦巻くうねりのように動的にお互いを求めながらも、まるで見えない薄い膜で隔てられたように、分け隔てられ、一つになることはない。

実は、僕には哲学的野心がある。僕は、この両者を隔てる膜を取り払いたい。取り払うのが無理なら、当面はなるべく薄くしたい。僕は哲学とは、自分が拠って立つ足元を掘り起こす作業のように思っている。足元を掘り下げれば、少しずつ、僕とブラジルとの距離は近づいていく。そんなイメージだ。いつか、ブラジルまで届けばいいな、と願っている。僕の哲学の目的は、コンドームをどこまでも薄くしようとする、オカモトみたいだなあ。