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やばいと逸脱

最近、意識的に「やばい」という言葉を使うようにしている。若者用語を使って若者に迎合したいという面もあるのだろうけれど、それを抜きにしても、「やばい」というのは、つくづくいい言葉だと思うのだ。

昔ながらの意味では「やばい」は悪いことだった。やばい奴というのは常識が通じない危険な奴だった。だけど、昔から、やばい奴にはどこか否定しきれない特別さもあったようにも思う。学校の不良にどこか憧れていたように、僕には、やばい奴への憧れがあった。30年近く前、スノーボードが流行り始めた頃、僕はスノーボードのビデオを見るのが好きだった。やばい奴らがやばい高さのジャンプ(エアー)を決めていた。滑り以外でも、きっとクスリでも決めているのだろうと思うような言動をしていて、そのやばさも格好よかった。そのとき、やばい、という言葉を使っていたかどうかは忘れたけれど、僕にとってのやばい、とはそういう感覚をひきずった言葉だ。

僕が好きな怒髪天というバンドのボーカルの増子直純によれば、ロックはやばい優先だ。「やばい」とはロックだということでもある。(そのことについて、僕は『ロックの日』という文章で書いたことがある。http://dialogue.135.jp/2018/02/17/69nohi/

僕にとっての「やばい」は、逸脱という言葉に置き換え可能だ。今までどおりの延長ではなく、決まったレールから逸脱することが「やばい」だと言える。

「やばい」のよさは、善悪のような物差しが適用できないという点にある。そこにあるのは、逸脱の大きさという絶対値のみである。プラスかマイナスかは逸脱してからでないとわからない。

だから、「やばい」は純粋な驚きの表現だとも言える。未知なるものへの驚きを意識的に見逃さないようにしようとして、僕は「やばい」という言葉を使うのかもしれない。

そのわからなさこそが未来そのものだとも言える。逸脱がなければ、変化もないし、成長もない。僕は未来の可能性という価値の片面は、そこに逸脱し、変化し、成長する可能性が広がっているところにあると思っている。(未来の価値のもう片面は、現在の延長として幸せを掴み取る可能性が広がっているというところにあり、どちらの可能性を重視するかは場合によりけりなのだろう。)

僕は、逸脱し、変化し、成長する場面を想像するときには、フランクルの『夜と霧』を思い出す。僕が好きなのは、収容所のなかでマロニエの木と語らう若い女性が、死の数日前に劇的な成長を遂げたというエピソードだ。その成長は、過去との連続性が乏しいという意味で、逸脱という言葉がふさわしいと思う。(以前書いた『夜と霧を読んで』という文章http://dialogue.135.jp/2018/03/17/yorutokiri/で触れている。)

このように、僕が考える「やばい」は劇的な成長という未来の可能性ともつながっている。だから僕は「やばい」と言いたくなる状況に着目し、そのやばさを自分に対して推奨していきたい。

だけどそのように自分を鼓舞しなければならないのは、実際のところ、「やばい」を選ぶのはきついからなのだろうなあ。

身体的理想 踊るように、羽ばたくように生きる

久しぶりにあまり哲学的でない文章を書くことにする。

僕にとって哲学的な文章とは、誰かに役立つかもしれない文章で、哲学的でない文章とは僕以外の誰にも役立たなさそうな文章のことだ。

このように区分することは、僕の価値を過大に見積もっているのかもしれない。科学者ならば科学的に役立つし、建築家なら建築的に役立つが、僕にはそのような知識も技術もない。だけど、僕だって哲学でなら誰かの役立つことかもしれない、と考えていることになるのだから。

とにかく、だからこの哲学的でない文章は、僕だけのための文章である。

昨日のヨガのクラスで呼吸の仕方について話があったが、そこで、実は皆が呼吸を上手くできているのに、それを感じ取れていないだけだ、というような話があった。考えてみれば、無意識にできているのに、それを意識的に感じ取ることができないというのは、よくあることだろう。例えば、僕は、人並みにバランスをとって二足歩行ができるのに、どのようにバランスをとっているのかを意識することはできない。すぐには他に具体例を挙げられないけれど、似たようなことは色々とあるだろう。

僕はそこから、プラトンのイデア説と想起説を連想した。僕たちはイデア界では完全な歩行や完全な呼吸を意識できていたのに、この世界に生まれてきて、それを忘れてしまっただけなのだ。なんて。それが事実かどうかは別として、そう考えるとなんだかテンションがあがる。

僕は難しいヨガのポーズができないけれど、この世界に生まれる前にいたイデア界では、僕の身体はすべてのポーズを理想的なかたちでとれたはずではないか。もしかしたら、僕の身体は、理想的なあり方をしていたときには、この世界のすべてを表現し尽くせていたのではないか。それは、理想とは、もしかしたら到達できるかもしれない希望ではなく、現に確かに一度は手にしていたものなのではないか、なんて思いを馳せる。

だから僕は、僕の身体を既に理想形を経験したものとして取り扱うことにしよう。僕は、理想を想起するように僕の身体を取り扱うことにしよう。そうすると、少しだけ頑張れて、少しだけヨガのポーズをうまくとれるような気がする。

ヨガでちょっときついポーズをとろうとして自分自身を鼓舞するとき、もうひとつイメージすることがある。僕は僕の身体に翼が生えていて、空を飛ぶようなイメージを持つと少しだけ頑張れる。(そのことは『空と大地の間の「幅」』http://dialogue.135.jp/2021/06/26/haba/という文章で書いたことがある。)

これも僕の身体に宿る潜在的な能力を引き出すときのイメージだ。僕の身体には、僕が知らない歴史があり、僕が知らないような能力を秘めている。

話は変わるが、今朝、僕は不思議な夢を見た。他人の夢の話なんてまず面白くないし、特に今朝の夢は明確なストーリーもないから面白く伝えようもない。だけど僕自身にとっては、とても象徴的で示唆に富むものだったので、書き残しておく価値がある。

僕はアフリカの学校にいた。たくさんの小学生か中学生くらいの黒人の生徒たちがいて、汚くして騒がしくて、少なくとも好ましいところではなかった。(なお、僕はアフリカに行ったことがないし、僕がテレビで観たことがあるアフリカとも全然違ったので、どこでもない僕がイメージしただけの場所だったのだろう。)

なぜか僕はそこで、捜し物を一緒に探してもらったり、色々案内してもらったりして、ある程度の時間を過ごすうちに、その好ましくなさは、好ましさに変わっていた。

彼ら(彼女ら)は思慮が浅くて、踊ったり奇声を上げたりして騒々しかったけれど、そこに何か否定し難いものを感じるようになってきたのだ。理性的に考え、適切に判断して行動するのとは違う、別ルートの正しさがあるように思えたのだ。

夢から醒めたあとで思い返すと、それは生命力と呼ぶべきものだったのだろう。彼らの躍動する身体には生命力という正しさが秘められていたのだ。

ヨガの話と夢の話は、身体に秘められる力についての話だという点で共通している。身体には理想を体現する力が潜在しており、それは生命力と呼ばれるものである。僕は哲学が好きで、思考により哲学的に迫ることができる真実があると思っているけれど、それとは別に、イデア界かアフリカかはよくわからないけれど、全く別のところにもうひとつの真実があるということになる。思考的な真実と身体的な真実という二つの真実がある。そして後者の真実は生命力と名付けることもできる。

だけど、この二つの真実は、全くの別物とも言い切れないだろう。なぜなら僕はこの身体を使って哲学をしているからだ。できれば僕は、理想的なかたちでヨガをするように、またはアフリカの少年少女のように踊るように、哲学をするべきなのだろう。そのようなことはすぐにはできないから、せめて僕は僕の身体を動かし、踊り、羽ばたくところから始めるべきなのだろう。僕は踊るように、羽ばたくように生きていくぞ!

と書きつつも、思い返すと、僕は昔から、踊り、羽ばたくという言葉に象徴されるような浮遊感の虜なのかもしれない。僕はスノーボードで新雪を浮かぶように滑るのが好きだったし、ジャンプするのも好きだった。ライブでノっているときのあの感じは浮遊感と表現できるだろうし、海外旅行での非日常感も同種のものだ。酒を飲んで調子よく酔っているときの、または恋をしているときの、またはセックスをしているときの熱病のようなあの感覚も、どこかフワフワと漂っているような感じがある。そう考えると、僕は既に僕の身体を天上のイデア界に向けようとしている、と言えなくもない気がする。

と書き終わってみると、意外と哲学的な文章だったかも。

語られない世界からの語りの立ち上がり(『新しい語り方と環世界』の補足)

僕は先日、『新しい語り方と環世界』(http://dialogue.135.jp/2021/09/23/new/)という文章を書いた。そのときの僕は書きたいことを書ききったつもりだったけれど、読み返してみて、どうも話がずれてしまっていたことに気づいた。僕はもう少し、形而上学っぽいことを考えていたはずなのに、どうも倫理学寄りにずれてしまったようだ。

実は、僕が書いたことは、フォーラムでの現代認識論やフェミニスト認識論と呼ばれる分野についての話を踏まえたものだった。(僕の理解では)フェミニズムとは女性の価値の問題であることからも明らかなように、つまりこれは認識論という(僕にとっては)形而上学的な問題を価値化し、倫理学化した議論であるとも言えるだろう。

だから、形而上学っぽい話が倫理学にずれていくのは当然ではあるのだけど、僕としてはできるならば、形而上学の問題を倫理学的に答えるのではなく、倫理学の問題を形而上学的に答えることを目指したいという気持ちがある。価値の問題を僕の形而上学に取り込んでいきたいのだ。だから、現代認識論がやろうとしていることと僕が目指すことは、よく似ているけれど、ちょうどベクトルが逆だとも言える。

だから僕の考えでは、やはり僕が先日の文章で語った「真ではないことを語る」というフェミニスト倫理学的なアプローチは、成功し得ない。だけど、成功しないから意義がないのではなく、成功しないからこそ意義がある。なお、その逆である「真であることを語る」ことも同様に、成功し得ないし、だからこそ意義がある。「真ではないことを語る」ことも「真であることを語る」ことも、ともに成功し得ないということこそが、僕が本当に語りたいことを指し示しているように思う。

僕が語りたいことは、比喩で表現するならば、深い海のようなものである。僕は先日の文章で、梅雨の雨の湿気のなか包まれるような環世界を思い描いた。あの空気感と、僕が深い海としたものは同じものである。僕が語りたいことは、僕を包む梅雨の雨のようで、深い海のようなもので、それを言葉で捉えることはできない。

僕は海の底から沸き上がったひとつの泡に包まれているかのようだ。決して捉えることができないもののなかから、突然、僕の世界が立ち上がる。そこから僕の語りも含めた全てが始まる。僕はそんなことを書きたいと思っていた。だから、もともとのタイトルは『語られない世界からの語りの立ち上がり』というものだった。

このように書いてみると、やはり『新しい語り方と環世界』という文章は必要だったのだろう。あれを書いたからこそ、この文章が少しは理解し得るものとなった。二つの文章があるからこそ、僕が本当に表現したいものに少しは近づくことができた。そんな気がする。

新しい語り方と環世界

1 哲学若手研究者フォーラム

先日、哲学若手研究者フォーラムというイベントに参加した。(http://www.wakate-forum.org/)

僕も将来、大学院に行って、年齢はともかく、キャリアとしては若手研究者になることがあるかもしれないから、どんなものか見ておきたかったのだ。

せっかくなので色々と読んだり参加したりしてみたら、刺激を受けた。消化できないほどのインプットを詰め込むという体験は久しぶりだったように思う。少しでも消化するため、ここに吐き出しておきたい。

なお、フォーラムの発表内容は非公開なので、具体的な内容にはなるべく踏み込まず、そこから僕が勝手に考えたことだけを書くことにする。

2 新しい語り方

一番の収穫は、哲学には、従来型の語り方とは別に、新しい語り方があるという可能性に気づけたことだ。

哲学とは、ある側面では、「真なることを語ることを目指す営み」だと言っていいだろう。その対象が善や美といったものであっても、善や美について、なんらか真なることを語ろうとするはずだし、真そのものを考察の対象とする場合でも、真についての真なることを語ることを目指そうとする。

僕は、それが当然だと思っていた。

だけど、そうではないのかもしれない。真なることを語ることは必然的に失敗せざるを得ないのかもしれない。やるべきことは、真ではないことを語ることであったり、真なることを語らないことであったりするのかもしれない。

例えば、フェミニズム的な文脈においては、従来の哲学が行ってきた「真なることを語ることを目指す営み」は、生理や出産が必然的につきまとわないという意味で、男性的な身体を持った当事者としての哲学者が前提にされているという批判がある。その場合、「真なることを語ることを目指す営み」自体が、男女の差に目を見落とし、その点で、本質的に誤りとなる可能性を秘めている。

それならば、真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。それはつまり、フェミニズム的に述べるならば、まずは男女の性差という不正を暴くことが出発点となるということである。そして、これまで当然視されてきた男性的な語り方とは違う、全く新しいかたちでの語り方を探していくべき、ということになる。

3 パラリンピック

僕はそのような方向性には魅力を感じる。新しい可能性が秘められているような気がする。だけど、そこには困難もあるように思える。その困難は、パラリンピックをテレビで観て感じたものと似ている。

パラリンピックでは、障害の程度によりクラス分けがされる。実はきちんと観ていないので適当な例だけど、100メートル走であれば、きっと、足に障害がある人と手に障害がある人では、足に障害がある人のほうが障害の重いクラスになるだろうし、片足に障害がある人よりも、両足に障害がある人の方が障害の重いクラスに振り分けられることになるだろう。競技を成立させるためには、そのような振り分けが重要となるから、ニュースでもやっていたけれど、振り分けの基準ギリギリの人がどちらのクラスに振り分けられるのか、といった問題も生じることになる。

僕が感じた困難とは、同じ障害のクラスの中でも、障害が比較的軽い人と、比較的重い人がいて、明らかに障害が軽い人のほうが有利になるという問題のことだ。どんなに細かく障害を区分けしても、障害の程度は一人ひとり微妙に違うから、この問題はどこまでもつきまとう。(またより現実的には、あまり細かく区分すると、クラスあたりの参加者が少なくなりすぎ、競技として成立しなくなるという問題もあるだろう。)

これと同じようなことが、弱者を論理で擁護しようとするフェミニズムのような営みには本質的につきまとうのではないだろうか。

例えば、「女性は出産という不利があるのだから、女性を優遇すべき」という考え方が説得力を持ち、そのとおり女性が優遇される社会になったとする。そうすると、出産が可能な女性と、出産が不可能な女性(病気で出産ができない人など)との間での差別が生じることになる。

更に、何らかのかたちで全女性を平等に優遇する社会になったとしても、人種や年齢といった、それ以外の側面による差別の解消は後回しになる。更に、そのような先天的な差異による差別をすべて解消したとしても、学歴や努力や運といった後天的な要素による差別は解消しない。どこかで何らかの区別をして異なる取り扱いをするならば、そこに差別が生じることは避けられない。

いや、差別と区別は異なる、という反論は当然あるだろう。きっと差別とは、悪い区別のことである。区別には差別と呼ばれるような悪い区別と単なる区別があり、悪い区別だけを撲滅すべきということになる。それはそうなのだけど、パラリンピックでのクラス分けのような単なる区別も、クラス分けによる不幸を生み得るという点で悪い点もある。少なくとも、差別と区別はよく似ている。

4 区別による立ち上がり

 人間を男性とそれ以外に区別することで男性が立ち上がり、人間を健常者とそれ以外に区別することで健常者が立ち上がる。障害者を足に障害がある人とそれ以外に区別することで(パラリンピックでの)足障害者クラスが立ち上がる。それは価値中立的に捉えるならば区別である。

 ただしフェミニズム的には、何かと「それ以外」というかたちで区別するということに差別を見る。男性ではない女性やLGBTは「それ以外」としてひとくくりに扱われ、健常者ではない知的障害者や身体障害者が「それ以外」としてひとくくりに扱われ、足障害者クラスではない右手障害者や両手障害者が「それ以外」としてひとくくりに扱われ、無視される。

 そこで、着目されてこなかった「それ以外」に着目し、スポットライトを当てることで悪しき区別(差別)を価値中立的な区別に是正しようとするのがフェミニズム的な道筋なのだろう。

 そのような流れの先に、男性でも女性でもない「それ以外」をLGBTとして着目したり、身体障害に比べて扱いにくかった知的障害に着目したり、といった最近の動向は位置づけられるのだろう。

 僕はこれを「区別による立ち上がり」と呼びたい。男性をそれ以外から区別することで男性が立ち上がり、男性を除くそれ以外から女性が立ち上がり、男性と女性を除くそれ以外からLGBTが立ち上がる。更には男性と女性とLGBTを除くそれ以外からQやXジェンダーが立ち上がったりもするのだろう。

 この「区別による立ち上がり」には原理的に限界はない。パラリンピックでのクラス分けの例を用いるならば、どんなに細かく障害を捉えてクラス分けをしても、そのクラス内では微細な障害の程度の違いが残る。男性のなかにも男性っぽい男性もいれば、女性っぽい男性もいるだろうし、そもそも、男性・女性という区分自体がなじみにくい男性もいるだろう。そのような違いはほぼ個性と言ってもいいものであり、男性や女性やLGBTといった言葉では掬い取ることはできない。

5 「区別による立ち上がり」の功罪

論理上重要なことは、この「区別による立ち上がり」により同じ区分に捉えられた人の内部では、区別は差別として機能するということである。パラリンピックで同じクラスに区分されたならば、そのクラスのなかで比較的障害が軽いAさんと、比較的障害が重いBさんの間では、Aさんのほうがきっと活躍できるだろう。Aさんはパラリンピックに出場できても、Bさんは地元の草大会にしか出場できないかもしれないし、AさんはレギュラーでBさんは補欠になるかもしれない。同じように頑張っていても、そこには外的な要因による扱いの違いがある。これは差別である。

 だが、より実践的に重要なことは、一旦「区別による立ち上がり」が起動したならば、そこで生じた差別を是正するために「区別による立ち上がり」は有用である、という点である。男性という区別が立ち上がった後の男性社会において、それまでスポットライトが当てられてことなかった「それ以外」に女性という名前を与え、女性という区別を立ち上げることは、女性の立場を引き上げることに直結する。

 区別は本質的に差別的であるが、その差別を是正できるのも区別の力である。

6 言語の差別性

 最善の解決策は、そもそもの区別が始まる前に戻ることだと考えるかもしれない。男性にスポットライトが当たるという第一歩がなければ、それ以降の問題も立ち上がらなかったはずだからだ。

 だがそれは難しいと僕は思う。(後ほど修正するので、正確には、僕はそう思っていた。)なぜなら、この第一歩は、言語の働きと直結しているからだ。言語を使用するということは、その発せられた言葉を「それ以外」と区別するということだからだ。つまり言語とは「区別による立ち上がり」である。僕が「コップがある。」という言葉を発することで、僕はそこにペットボトルや茶碗ではなく、コップがあるという区別を立ち上げている。その区分上、ペットボトルや茶碗の可能性は全て「それ以外」として均され、ペットボトルと茶碗の違いは抑圧される。これは差別である。(これを外的差別と言ってもいいだろう。)更には、ただ「コップがある。」という描写に留めるということは、そのコップのより詳細の内容、例えば青い色や使い込まれてついた傷といったものには着目しないということである。これも、コップという種のなかにある違いを抑圧するということであり、差別である。(これを内的差別と言ってもいいだろう。)つまり、言語とは、本質的に差別を発生させる装置なのである。

 それならば、言語を使用する存在である人間が、この差別から逃れることは不可能であるように思える。(少なくとも僕はそう思っていた。)

7 真ではないことを語る

だけど僕は、先述のフォーラムに参加し、「真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。」ということに気づき、この先入観の是正可能性を考え始めている。

僕は、哲学とは「真なることを語ることを目指す営み」だと考えてきたけれど、実はこれは、哲学に留まらず、言語使用全般に当てはまる。僕が「コップがある」と語るということは、つまり「コップがある」が真であり、その真なることを言葉で指し示そうとしているということである。

確かに、言葉とは(そして多分、人間の思考というものは)そのようなものなのだろう。だが、もしかしたら、コップがある状況を描写するときに、あえて「『ペットボトルがある』は真ではない」というような語り方が可能なのではないだろうか。僕が考え始めているのはそのようなことである。

ちょっと例が抽象的すぎて逆にわかりにくいかもしれないので、別の例を用いるならば、男性がいる状況は「『女性がいる』は真ではない」とも描写できるし、健常者がいる状況は「『障害者がいる』は真ではない」とも描写できるということである。ある状況を描写する際に、「ではない」という否定を経由することにより、そこにいる男性や健常者ではなく、不在の女性や障害者に焦点をあてた描写が可能となる。

これが、「真なることを語る前に、まずは真ではないことを語るべきなのかもしれない。」という僕の気づきの実践例であり、「区別による立ち上がり」が必然的に導入する差別に抗う道である。このような新しい語り方がありうるのではないだろうか、と僕は考えている。

 だが、「『女性がいる』は真ではない」も「『障害者がいる』は真ではない」も不格好で不自然な表現だ。これらは、要は、女性や障害者を「ではない」という言語の否定の力を用いて逆説的に表現しようとしたものだと言える。「○○に注目しない」とあえて明示することで、その注目されなかったものに注目を向ける論法である。この不自然さは拭い去り難く、このような語り方では、自由に言語は操り、更に議論を進めることは難しい。別のやり方が必要となるように思える。

8 環世界

 言葉によって直接的に言葉で表現できないものを指し示す道筋はそう多くはないと思うが、もうひとつ、イメージに訴える語り方というものもあるだろう。

 僕にとってのイメージに訴える語り方とは「環世界」という言葉を使ったものである。少し昔の哲学者(調べてみるとユクスキュルというドイツ人)が生物学っぽい分野で使ったもので、虫には虫の環世界がある、というような話だったと思う。僕が知っているのは、そのような「環世界」という言葉の表面だけであって詳細は知らないけれど、確かにそうだと思うし、いい言葉だと思う。

 僕は環世界について考えるとき、僕をつつむ世界の触感のようなものを重視する。季節は梅雨で、天気は雨だ。濃密な湿気が僕の身体を包んでいる。湿気が湿気として、世界のマテリアルとしての存在感をもって、僕を取り囲む。僕は、水の底に沈み込んだようで、まるで水中に漂う空気の泡のひとつのなかに捉えられたように感じる。梅雨の雨の日の水中の空気の泡。これが僕の環世界のイメージである。だから僕は、人間には人間の環世界があり、カエルにはカエルの環世界があるのだなあ、と思う。なぜカエルかというと、季節は梅雨で、天気は雨だからだ。

 環世界における、僕とカエルの間にあるものは区別ではないし、差別でもない。なぜなら、僕とカエルの間は、濃密な梅雨の湿気によって完全に隔絶しているからだ。僕をつつむ水中の空気の泡と、カエルを包む水中の空気の泡は交信不能であり、相互に関わることはありえない。だから、僕をつつむ空気の泡は広大な宇宙を旅する宇宙船になぞらえてもいいだろう。ただし、通信機能は故障し、行く先もわからず孤独に漂う宇宙船である。

 残念ながら、このように下手な詩のような言葉をいくら積み重ねても、言葉で区別を否定することはできない。僕とカエルが属するのは同じ水中であり、同じ宇宙でなければならない。同じところに属する二者の間には区別が必然的に存在しなければならない。だけど僕が環世界の比喩でなんとかイメージとしてでも伝えたいのは、区別を超えた隔絶である。

9 当事者性

 とにかく、環世界の比喩が成功し、僕はイメージとして、何かを読者に伝えることが成功したとしよう。それならば僕は、「真ではないことを語る」やり方(「『女性がいる』は真ではない」など)で表現したことと、全く同じことを環世界の比喩で伝えることができたということになる。女性には男性から隔絶した女性の環世界があり、障害者には健常者から隔絶した障害者の環世界がある。そこには通常の意味での区別は存在せず、だから差別も存在しない。僕が表現したいのは、そういうことである。

 「真ではないことを語る」という否定を用いたやり方と、環世界の比喩というイメージを用いたやり方を重ね合わせることで、見えてくるものがあるように思う。それは、女性の環世界にいることができるのは女性だけであり、障害者の環世界にいることができるのは障害者だけだということである。男性がいる場面において「女性がいる』は真ではない」と発言できるのは女性だけなのである。そこには極めて強力な当事者性が入り込んでいる。

 そして環世界という捉え方に忠実になるならば、女性一般というような環世界はない。そこから、僕ならば一気に実存や永井の独在性のような話に持っていきたいけれど、そのような話を抜きにしても、女性でも障害者の間にも身体的な差異や過去の経験の積み重ねによる個人差があることは確かだろう。これは一人称的な当事者性から始めるべき話なのだ。

10 僕の当事者性・反知性主義

それならば僕も、僕の当事者性から語るべきだろう。僕は男性で、僕は健常者だ。僕は世間的には最も優遇されがちな中高年男性で、実際、職場では年功序列でそのような立場にいる。金銭的にも困っていないし、このような文章を書くことができるくらいには知的能力もあるし、ヨガをやるくらいには身体能力もある。つまり僕は強い立場にあり、僕は決して差別される側の立場にはいない。(時々、海外旅行に行くと、一部の白人が差別的だと感じるくらいだ。)

だから僕は差別を語る資格はないし、きっと差別を語る能力もない。

資格も能力もないことの証左だと思うけれど、健常者の男性的な論理からすると、正直、フェミニズム的な言説は反知性主義的だと感じる。知性とは「真なることを語ることを目指す」ものだとするならば、その否定から始めようとするフェミニズム的議論は、これまでの知の積み重ねを全否定するものであり、危険を感じる。なぜなら、言語とはそもそも「真なることを語ることを目指す」ものならば、それを言語によって否定するような試みは究極的には失敗することは自明だからだ。僕が行った二つのアプローチ、つまり言語の否定の力を用いるやり方とイメージに訴えるやり方がともに完全には成功し得ないことからも、それは示されていると思う。

11 何を語るか、から誰が誰を語るか

ではどうすればいいのか。きっと、進むべきは、完全に男性的な従来型の知のあり方でもなく、かといって(急進的な?)フェミニズム的に完全に従来の知を否定するのでもないような、その両者を調停するような道筋なのだろう。

僕はそのような道筋を見つけられてはいないけれど、ひとつの改善点として、「語られた内容だけではなく、誰が語ったかに注目する」ということが挙げられると思う。例えば「白人はずるい。」という言葉は、それだけでは誤りだろう。なぜなら、明らかに、ずるくない白人もいるからだ。だが、差別を受けてきた黒人がその言葉を発したならば、それは正しいものとなる。また、「不法滞在する外国人の犯罪率は高い。」という言葉も、客観的な数値としては正しいかもしれないが、合法的に日本に住む日本人が発したものならば、検討の余地があると思う。その言葉は、明らかに在留外国人の当事者性に不用意に踏み込んでいる。ある命題の真偽を判定するためには、その命題の内容だけでは足りず、その命題の発話者が重要となるのだ。

そのようなところからなら、被差別の当事者ではない僕でも語ることができるというのが、僕のアイディアの利点だと思う。キャッチコピーとしては内包から外延へ、とでもなるだろうか。

僕は、語られた言葉の内容だけではなく、その人がどのような人なのかに思いを馳せなければならない。一方で、誰が発した言葉か、というだけでなく、その言葉の内容にも、もっと注目してほしいとも思う。必要なのは静的なバランス感覚ではなく、その両極の動的な行き来なのだろう、と僕は考えている。

僕の倫理的考察のとりあえずの到達地点の確認 ~ウィリアムズの中間的な議論の僕なりの含意 ~

0 はじめに

この文章は27000字以上あるので気をつけてください。ウィリアムズにある程度即した話を読むなら10章まででいいです。(それでも15000字くらいあります。)あとは独自考察です。最後の16章は自分向けのメモ書きです。(3000字くらいあります。)あと、アップしてから6章の次が8章になってることに気づいたけど、まあいいや。

バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』を読んだ。読書会にも参加し、僕なりにきちんと読んだつもりだ。読み終えて、僕の倫理学という学問分野への興味はある程度満たされたように思う。とりあえず、行き着くところまで来たという感覚がある。

僕の主な興味は倫理学にはないので、倫理学の本はあまり読まないのだけれど、僕にとって重要な本はふたつある。ひとつが、この本、バーナード・ウィリアムズの『生き方について哲学は何が言えるか』で、もう一冊は、永井均の『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』だろう。僕の倫理学は永井から始まり、とりあえずはウィリアムズで区切りがついたような気がする。

ウィリアムズと永井の共通点は、世の倫理学よりも一段深いところから議論を始めているという点にあると思う。具体的には、道徳の外にいるアモラリストの存在に着目し、道徳対非道徳というところから議論を始めているということである。ただし、両者には違いもある。永井においては道徳と倫理に違いはなく、非道徳とはつまり非倫理でもあるのに比べ、ウィリアムズは道徳と倫理とを分け、非道徳ではあっても非倫理ではないところで踏みとどまろうとしている。この文章においては、僕はこのような違いに着目して議論を進めていくことになるだろう。

なお、僕自身の興味はどちらかというと形而上学にある。だから、僕はこの文章を出発地点として倫理学を始めるというよりは、この文章を、僕の倫理学のとりあえずの到達地点とし、区切りをつけたいと思っている。半年以上、この本に捕らわれて倫理学的なことについて色々と考えてきたけれど、他のこともやりたいと思っているので。

1 2つの極

 倫理学について考えるとき、僕はその議論がどのような視点から行われているかがまず気になってしまう。倫理学において採用される視点には2つの方向性があると思うのだ。

 一つは、なるべく普遍化・抽象化し、理性的にものごとを捉えようとする方向性だ。これはきっと倫理学において、とてもポピュラーなもので、世の殆どの倫理学はこのような方向の中に位置づけられると言ってもいい。現代における倫理学の主流であるカント的な義務論や功利主義(以下、その他の帰結主義も功利主義に含めます。)はその典型例だろう。

世の中には色々な法律や慣習がある。ある社会では殺人は例外なく認められないが、ある社会では国家による死刑は例外的に認められる。それ以外にも、異教徒を殺すという例外もありえるし、戦争による殺人は称賛されることさえもある。つまり一貫していない。だから倫理学者は整理し体系化しようとしている。カントであれば、人間を実践理性として抽象化し、そこから「他者の人格は手段ではなく目的として扱うべき」というような根本的な義務を見出し、義務の体系を作り上げた。また功利主義者ならば、抽象的な功利計算というひとつの関数により、すべての行為の善悪を判断できることを目指した。

いずれもが世の中のものごとをできる限り普遍化・抽象化し、理性的にものごとを捉えようとする方向性にあるものだと言っていいだろう。

(規範倫理学における第三の有力説とも言える徳倫理学については多少違うとも言えるが、例えばアリストテレスならば、善きポリス市民というようなかたちで主体の一般化・抽象化を行っているという点では、本質的に同じベクトルに位置づけることができるだろう。)

普遍化・抽象化ではない、倫理学におけるもうひとつの方向性は、実存主義的な方向性である。僕は勉強不足なので不確かだけど、多分、倫理学の世界においては、かなりマイナーな道筋だろう。この道筋は、僕の理解では、ニーチェや永井均がたどったものだ。

この方向を極めたのが永井均だと思うので、永井的に説明するならば、これは、「今ここの私」という独在性を重視する方向に進んでいく道である。この独在性とは、とりあえずは個別性と言い換えてもいい。先ほどの殺人の例を用いるならば、殺人を全否定する社会と死刑は容認する社会とでは、社会が異なり、そこでの殺人の意味も異なるという視点を重視する考え方である。その方向で考えを推し進めていくならば、同じ殺人という言葉が使われていても、事案ごとに行われていることは全く異なり、殺人というひとくくりの言葉で片付けることは適切ではない、ということになる。そして、その殺人という出来事は、当事者としての「今ここの私」に強く紐付けられることになる。

ここで挙げた2つの方向性を、とりあえず、「抽象化」と「実存化」と呼ぶことにしよう。これはいわば、神に向かう方向と、私に向かう方向と言ってもいいだろう。カントは人間を俯瞰して眺める神の視点を目指している。一方で永井のまなざしは「今ここの私」に向かっている。

多分、カント的な道筋が世には広まっていて、永井的な道筋はひっそりと隠れている。だから僕は永井均の『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』を読み、世の中の倫理学の本とは正反対のことが書かれていることに驚いた。既存の常識をひっくり返し尽くしたところに魅力を感じた。永井(やニーチェ)は、それまで倫理学においては常識的なものであった神に向かう視点を転回させ、私に向かう視点を見出したのだ。僕がそのときに感じたことを説明するならばこのようになるだろう。

2 中間

だけど僕は永井では満足ができなかった。なぜなら、既存の常識の逆転とは、何かしらの肯定でもあるからだ。永井がやったことは「今ここの私」の肯定だと言ってもいい。だけど、なぜそんなに簡単に何かを肯定できるのだろうか。僕は基本的に懐疑論者だから、何かを肯定するということに抵抗があるのだ。だから僕は永井では満足できず、まだ考え続けている。

なお、永井ならば、この肯定はタウマゼインに裏付けられているというのだろう。どうしようもなく「今ここの私」は存在しているということの揺るぎなさである。これはいわゆるデカルトのコギトの道筋である。僕はそれには同意できないから、まだ考え続けているということになる。

その答えの候補のひとつをウィリアムズは『生き方について哲学は何が言えるか』(以下、英語タイトルの頭文字からELPとします。)で示してくれているように思う。(もうひとつの答えの候補は入不二基義が示していると思うけれど、入不二については後ほど簡単に触れます。)

これは僕にとってとても重要なことだから、僕はウィリアムズにきちんと向き合いたい。そう思って半年くらい色々と考えてきた。

ではウィリアムズはどのような道をとったのだろうか。他の倫理学者と同様に神に向かったのだろうか。それとも永井やニーチェのように私に向かったのだろうか。そのいずれでもないと僕は理解している。

 まず明らかにウィリアムズは神に向かう抽象化を拒否している。ELPの全章を通じて行ったことのかなりの部分が、カントや功利主義者といった、これまでの倫理学者たちが行ってきた神に向かう抽象化を否定する作業だと言っていいだろう。例えば、ELPでは第3章でアリストテレスの徳倫理学を否定し、第4章でカントの義務論を否定し、第5章で功利主義を否定している。これは多分ウィリアムズの最も有名な業績であり、これ以上、僕が言葉を足す必要はないだろう。

 もう一方で、忘れてはならないが、ウィリアムズは、言葉は少ないものの、実存化の道筋も拒否している。ELPにおいて、実存主義的なものとしての決断モデルについて、その決断が正しいという確信がどこからやってくるのかを説明できないということを理由に否定している(p.329)ことからも、それは明らかだろう。

 では、ウィリアムズは、抽象化も実存化も拒否し、どこに向かおうというのか。僕の(そして入不二基義の「あるようにあり、なるようになる」の)言葉で表現するならば、ウィリアムズは、どこまでも「中間」に留まろうとしている。「中間」とはつまり、抽象化が目指す先にある「神」と、実存化が目指す先にある「私」との間にある領域のことである。

 そのことはELPの冒頭での「人はどう生きるべきか。」(p.15)という問題設定からも明らかである。これはつまり、人生を生きる人間というものを問題としているということである。神と私の中間とは、人生を生きる人間の領域なのである。

 当然ながら人間は神ではない。また、人間は人称的に複数存在するという点で私の一人称性を強調する実存的な私とも異なる。加えて、時間的な側面を強調するならば、人間は、無時間的な神とは異なり、また、人生を送る通時的な存在であるという点で、「今」という観点を強調する実存とも異なる。

 ウィリアムズは、そのような意味で、神と私の間に確保されるべき人間の領域にこだわり、そこに「ひたりつく」(永井用語)ようにして議論を行っている。

 だから当然、ウィリアムズの議論は人間本性という考えとも親和性が高いものとなる。なぜなら、ウィリアムズが対象としているのは、神のような理性ではなく、「今ここの私」として実存化された私でもなく、現に生きている人間全般についてのものだからだ。

また人間という視点に立つからこそ、ウィリアムズは倫理という問題意識を持ち、倫理学を論じたのだろう。なぜなら、人間とは、つまり複数の個人からなる社会的な存在であるということであり、他の人間、つまり自分と同等の他者との関係性から様々な倫理の問題が生じることになるからだ。唯一の存在者である神や実存的な私の視点によるならば、自分と肩を並べる他者は存在せず、少なくとも通常の意味での倫理の問題は生じようがない。人間という観点と、倫理学という問題意識は、必然的にペアで同時発生的に生じるものなのかもしれない。

 倫理学者ウィリアムズは世の哲学者のように神へ向かう抽象化に振り切ることなく、かといって、永井やニーチェのように実存的な私の方向にも振り切ることなく、神と私の中間にある人間の領域に留まり、そこに留まることを自覚したうえで、人間本性や倫理についての考察を深めている。これがウィリアムズについての僕の見立てであり、僕が見立てたウィリアムズの凄さだと思う。

3 道徳と実践的必然性

 なお、ウィリアムズがその点に自覚的だという証拠は、彼の議論における2つの重要なキーワードから見出すことができるだろう。

ひとつは「道徳」である。彼は道徳という語を倫理とは明確に分けて使用している。ウィリアムズは「道徳なるものは倫理的なるものの特殊な発展形態」(p.26)であるとする。僕は全面的にこの捉え方に賛同する。僕の言葉で述べるならば、道徳とは、義務や利益といった抽象的な概念を極端に普遍化・抽象化するような考え方だと言ってよいだろう。これはつまり、神に向かう道のことである。倫理学者たちは、カントならば義務、功利主義者たちならば福利といった抽象的な概念(ウィリアムズによれば薄い概念)を普遍的に適用することで、あたかも神の視点に立とうとしたのだ。これは誇張ではないと思う。カントの定言命法は神の言葉のようだし、功利主義においては、神のような世界的行為主体を想定せざるを得ない。世界的行為主体とは、全人類(場合によっては動物も含む)のすべての選好を知り、不偏不党の立場から福利を分配する立場にある者のことであるが、これはほぼ神のことであろう。つまり倫理学者たちは、言葉を使って神の力を手に入れようとしたのだ。そのような不遜な誤魔化しをウィリアムズは道徳という語を用いて暴き出し、決定的とも言える道徳批判を展開したのだと僕は思う。

ただし、ウィリアムズは道徳批判を行うことによって倫理学を全否定しようとしたのではない。ウィリアムズは道徳と倫理とを区分し、道徳を否定したうえで道徳という言葉では回収できない倫理の議論領域を見出そうとした。これはつまり、倫理を学問として論ずることができる程度には普遍化、抽象化の道筋があると考えようとしたということでもある。ウィリアムズの「道徳」「倫理」という言葉遣いは、ウィリアムズが極端な抽象化と極端な実存化のいずれの道も採らず、その中間領域に留まり続けようとしたことの証左だと思う。

もうひとつのウィリアムズの重要用語は「実践的必然性」(pp.364-365)である。これは、ウィリアムズ的な述べ方で実存的な視点を捉えようとしたものだと僕は考えている。この言葉は「無条件でどこまでも優先する「ねばならない」である。」とも説明される。つまり、(ウィリアムズが用いた例ではないが)例えば、いきなり理由もなく叩かれたら怒るのは当然だ、というようなときの必然性とは異なる、特殊な必然性があるとウィリアムズは述べる。悟りを開いたブッダであれば叩かれても怒らないだろう。現に叩かれたのがブッダであれば怒らないのは必然だし、叩かれたのが僕であれば怒るのは必然だ。このような必然性のことをウィリアムズは「実践的必然性」と呼んでいる。ブッダや僕といった個人の間の違いに着目しているという点で、この捉え方は実存的なものであることは確かだろう。

ウィリアムズは「実践的必然性」を生み出す人それぞれの違いをアイデンティティや性格の問題として解釈している。ブッダは怒りにくい性格を持っているから、現に殴られても怒らないし、僕は怒りやすい性格を持っているから、現に殴られたら怒るということになる。これはつまり、僕とブッダを横にならべ、性格という視点で分析し、僕とブッダに横串を通すような捉え方であるとも言える。もし、更に実存の方向に進もうとするならば、それはアイデンティティや性格によるものではなく、例えば、決断の問題だとすることもできるだろう。ブッダが怒らないことはブッダの決断であり、僕が怒ることは僕の決断であり、要はひとそれぞれの問題でありそれ以上の分析はできない、というように。だがウィリアムズは、それを独断であるとて却下し、そのような方向には進まなかった。その点でウィリアムズの捉え方は、実存化に振れすぎず、ぎりぎりのところで踏みとどまり、普遍化、抽象化の道筋を残しているとも言えるだろう。ウィリアムズは「実践的必然性」の重要性を自覚しながらも、実存主義的な決断に向かう道筋を独断として拒否し、なんとか倫理学をやろうとしている。これはつまり、道徳と実践的必然性の中間に倫理を位置づけ、そこを自身の主戦場と定めたということなのだろう。

 だから、ウィリアムズの議論領域は、僕の言葉によるならば、神と私の中間であり、ウィリアムズの用語を用いるならば、道徳と実践的必然性の中間ということになるのだろう。

4 入不二基義

ここからウィリアムズが示した方向についての考察を進める前に、僕がもうひとつの魅力的な方向だと考えている入不二基義の議論について触れておこう。

 入不二のアプローチは、普遍的な世界と実存的な私という両極に向かうベクトルを、更に推し進め、世界と私の先に突き抜けようとするものだ。ここからが入不二の議論の面白いところだが、その結果、世界と私は一致し、世界と私という議論の限界は消滅する。まるで手品のようだが、少なくとも僕にはそのとおりとしか思えない。(詳細は、入不二基義『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』第1章を参照)

 この入不二の議論は形而上学的な存在論的な議論だが、これを倫理学的に述べるならどうなるのだろう。(実は、入不二は全く倫理学的なことを論じないので、以下は僕なりに入不二ならばこう論ずるのではないか、と考えたものである。だからこれは入不二本人のものではなく、あくまで僕による入不二的な議論である。)

ウィリアムズの倫理学的な議論に引き寄せて入不二的な議論を行うためには、ELPで取り上げられていた、道徳の外で生きるアモラリストに着目するといいだろう。アモラリストとは、倫理的な議論になど参加せず、倫理のことなど気にせず生きる人のことである。あえて言えば、倫理のことなど気にしない、という生き方こそがアモラリストの倫理だということになる。(ここでは倫理と道徳の違いは大きな意味を持たないので、語感として、非倫理主義者ではなく、あえてアモラリストとしておく。ELPではこれを、道徳否定主義者(p.56)と呼ぶけれど、否定というより無視と言ったほうがいいように思う。)

 ウィリアムズはアモラリストを警戒し、慎重に取り扱うが、なぜそうするかといえば、アモラリストはウィリアムズが主戦場と定めた倫理の外側にいるからだ。倫理の領域とは、つまり神と私の間にある人間の領域のことだが、アモラリストはその外側にいることになる。人間の側からは、アモラリストとは、神より向こう側、私より向こう側にいる存在だということになる。

 まず、アモラリストが神より向こう側にいるということは、つまり、アモラリストは倫理の神様の支配下にないということである。アモラリストは倫理的な議論を超越した、より一般的な視点を手に入れているからこそ、倫理的な議論に重要性を感じず、倫理的な議論に参加しない。そのような存在には、善いことも悪いこともない。神様は悪い行いを罰し、善い行いを称賛するけれど、そのアメもムチもアモラリストには届かない。倫理の神様が持つ最も強力な力は罪悪感だろう。倫理の神様の支配下にある人は、罪を犯したことを誰にも気づかれず、罪を罰せられることがなくても、決して罪悪感という罰からは逃れられない。しかしアモラリストに罪悪感が生じることはない。その点でアモラリストは、あたかも神を超えた神のようであり、そのような神を倫理の神様の支配下に置くことは出来ない。

 また、アモラリストが私より向こう側にいるということは、つまり、アモラリストは私という実存的な主体ではないということである。実存主義が実存「主義」であるためには、少なくとも、複数の実存的な主体の間で言葉が交わされ、主義主張として議論が成立する必要がある。ウィリアムズの議論はかなり実存主義的なものではあるが、人それぞれが、性格やアイデンティティという「実践的必然性」を抱えていると考えているという点で、この領域から離れてはいない。しかし、アモラリストは、そのような人それぞれの対等性すらも拒否する。議論の相手を自らと対等な実存的な主体などとは考えず、自分だけが特別な実存的な主体であると考える。アモラリストは単なる実存的な主体ではないという点で、私の向こう側に立ち去ってしまっているのだ。

 アモラリストは、神の向こう側と捉えるにせよ、私の向こう側と捉えるにせよ、複数の人間による社会的な共同生活という、倫理が成立するための前提条件を拒否しているという点では同じである。というか、アモラリストがアモラリストとしての居場所を確保するためには、神の向こう側であり「かつ」私の向こう側であるとしなければならない。つまり、神と私という人間にとっての限界の両方から逃れたところにしかアモラリストの居場所はないということになる。

 ここで、アモラリストの主張を振り返ってみよう。アモラリストは、自らを、神を超えた神だとする。だからアモラリストは神の向こう側にいることができる。また、アモラリストは、自らを、単なる「私」よりも特別な実存的な主体であるとする。だからこそアモラリストは「私」の向こう側にいることができる。そして重要なのは、アモラリストは、この二つの主張を同時に行わなければならない、ということである。つまり、アモラリストは、神を超えた神であり、かつ「私」よりも特別な実存的な主体でなければならない。

 これは端的に言って、かなりの困難を伴うだろう。神を超えるほどの抽象的な普遍性を持ちつつ、「私」を超えるほどの個別性、実存性を持たなければならないというのは、明らかに論理的矛盾がある。それは不可能である。よって、アモラリストは存在できず、アモラリストの居場所は消滅する。または、仮にそれが可能だとしたら、それはアモラリストこそが唯一の全体となるということであるはずである。つまりアモラリストこそが世界そのものであるということになるが、その世界にはアモラリストもアモラリストではない人も含まれることとなり、アモラリストと非アモラリストである普通の人という区別自体が無化される。

 以上が、入不二本人の議論ではないが、入不二的な議論を僕なりに倫理学に適用したものだ。

 そして入不二的な議論で重要な点は、アモラリストの居場所を追い詰めるために神と私の領域を拡大していくと、神と私は一致し、そもそも、神と私という区分が無化し、人間の領域という倫理学の問題設定自体が無化されるという点である。これはつまり人間とアモラリストを分ける壁が取り払われたということである。そこでの人間とは、従来どおりの倫理的な人間ではなく、倫理的な人間であり、かつアモラリストである、ということになる。だがそれは実はそれほど特殊な状況ではない。実はそこには、時には倫理的であり時には倫理的ではない人間がいる、当たり前の世界が広がっているだけである。入不二は、(入不二自身は行っていないが、)倫理学を否定するのではなく、倫理学を消去するのだ。以上が入不二的な倫理学の道筋の僕なりの説明である。

5 内側と外側

さてウィリアムズに戻ることにしよう。ウィリアムズは、入不二的な方向には進まず、神と私の間の人間の領域に踏みとどまり、そこで倫理学を展開した。彼の倫理学から何を学ぶことができるのだろうか。僕には、少なくとも、カントや功利主義者たちのように、中途半端なかたちで神への普遍化の道を進もうとした倫理学者よりも、ウィリアムズから学ぶべきものは多いように思える。

 まず、振り返りも兼ねて、ウィリアムズは内側と外側の区分に敏感だったという証拠を列挙しておこう。ここまでの議論はつまりは、内側と外側についての議論だったとも言える。多くの倫理学者は、神という外側の視点に立ち、倫理を道徳として俯瞰的に捉えようとした。入不二は内側を最大まで拡大し、外側を追いやり、内側と外側の区分自体を消滅させた。一方でウィリアムズは倫理の内側に立ち続け、そこで何ができるかを探ろうとしている。ウィリアムズは意識的に内側に立ち続けようとしたからこそ、内側と外側の区分に敏感だったのだ。

 まず明確な証拠として、「以下さまざまな文脈で私は外的及び内的観点の関係について述べることにしよう。」(p.115)という記述がある。また、「実践的必然性の結論が、いつも外側から-つまり内部の深いところから-やってくるように思われる」(p.370)という記述もある。これは、実存的な必然性が、どこか外側からやってくるのではなく、人間の領域の内部から由来し、人間の領域の内部で完結しているとウィリアムズが考えていることの現れであろう。更には、注記ではあるが、行為の理由について論ずる中で、「私は、行為の絶対的に「外的」な理由、つまり、行為主体がすでにもっているいかなる動機にも訴えることのない理由がありうるとは考えない」(p.420)という記述もある。これは、強く捉えるならば、倫理学において、行為主体、つまり当事者である人間の外側だけで完結するような論理はありえない、ということを主張しているように思える。

 以上のことを踏まえるならば僕の指摘はそれほど的外れではないと思う。ELPとは神と私の間にある人間の領域を確定したうえで、その内部でどのような倫理を描くことができるかを考察した本であり、内側をめぐる、どこまでも内側についての本なのではないだろうか。

 なお、僕はこの本に登場するカントや功利主義者といった倫理学者に否定的だけど、アリストテレスは興味深いと思っている。なぜならアリストテレスも内側と外側の区別に意識的だったからだ。アリストテレスは、内側と外側の区別を十分意識したうえで、その両者を統合しようとした。つまり、人間の外に出て、俯瞰した神の視点に立ち、論理的に道徳を論ずるだけでなく、そこから人間の内側に立ち返り、神の論理と人間本性に基づく実践と一致させようとしたのだ。

僕の見立てでは、アリストテレスは、神と私という二つの限界のうち、神という限界をうまく処理することには成功したと思う。だが残念ながら、もう一方の実存的な私という限界については無自覚であった。だから、アリストテレスに対する最も強力な批判は、「お前の議論は、あまりに私的なものすぎる。」というものになるだろう。アリストテレスの議論は、きっとアリストテレス本人にとっては非の打ち所がないものだし、彼と価値観を共有している人にとってもかなりの説得力があるものだろう。だけど、文化が異なり、共有するものが少ない別の人間、つまり別の実存にとっては、どうしてそれが徳として賛美されるのか理解できない。そうなるのは、アリストテレスは人それぞれの実存という問題に、あまりにも無頓着だったからなのだろう。

6 実践

 ウィリアムズは、抽象的な神と実存的な私という二つの方向を十分知りつつも、その方向に向かわず、その中間にある人間の領域の内側に留まり続け、そのなかで人間の倫理について考察を深めた。

 だから、ウィリアムズが抽象的な神の方向へと進む論理と実存的な私へと進む実践という二つの方向を見据えているのも当然である。そのうえで、抽象的な論理を通じた神への方向への行き過ぎを修正するため、実践の重要性を強調している。

 ウィリアムズによれば、倫理とは説明するものではなく、実践するものである。そして、倫理の実践とは自分の人生を首尾一貫した人間の人生として方向づけるものである。

 難しいのは、その実践を説明しようとすると論理が立ち上がり、それはつまり、神への抽象化の道を進むことになってしまうという点である。実践を説明しようとすると、例えば、その倫理の実践の目的は何か、というような話となり、そこから倫理の実践の目的は幸福のためである、というような話となり、更に、幸福への寄与の度合いから普遍的な把握が可能である、というような功利主義的な考え方につながってしまう。そのような意味で実践は語り得ない。(ウィリアムズは、この実践を外側から語ろうとして、性格やアイデンティティという捉え方をするが、後述するように、僕にはこれが成功しているとは思えない。性格やアイデンティティとは長期的には変化しうるものではあるが、ある時点では静的なものとして把握されざるを得ない。それが動的なものであるはずの実践をうまく捉えきれていないように思えるのだ。)

 だから、実践的な倫理の説明においては発生論的な説明が幅を利かすこととなる。子供が成長するにつれて教育を通じて倫理を学んでいく、というような説明である。このような説明を推し進めたのが徳倫理学なのだろう。

 だが、そのような説明の道筋では、倫理の本質については説明できない。例えば、教育と洗脳の違いについての説明はできないし、徳を身につけないよりも徳を身につけたほうがいいということの説明も不可能だろう。つまり、善いとされることが本当に善いことであるということの説明ができない、というような問題に答えられないということである。

 僕の見立てでは、この困難はそもそも、教育と洗脳を比較し、徳があることと徳がないこととを比較することが可能であるように思えてしまうということに由来しているのではないだろうか。つまりこの問題は、複数のものごとを比較するという言語使用の根幹(永井均の用語では「ものごとの理解の基本形式」)に関わっているということである。そして僕は、この問題の解決の糸口は、言語使用自体を言語で完全に捉えることはできないという点に着目するところにあるはずだと考えている。言語使用においては、言語使用の実践という言語で捉えることのできない領域がある。この実践に着目することで、言語によってはなかなか捉えることのできない徳のような概念についても扱うことが可能になるのではないだろうか、と僕は考えている。この点で、ウィリアムズが実践を重要視することは僕の問題意識とも繋がっている。

8 吟味

 ここまで述べてきたように、ウィリアムズの困難は、抽象的な神と実存的な私という敵と同時に戦い、二方面作戦を展開せざるを得ないという点にある。抽象化に抗うために実存的な視点を強調しすぎれば、それは独断に陥るし、独断を避けて論理的な議論の重要性を説けば、それは道徳になってしまう。だから、ウィリアムズ的な道筋を採用する場合に最も重要なのは、どれだけ繊細なバランス感覚を持って綱渡りのような議論を展開できるかであり、その成否に全てがかかっていると言ってもいいだろう。

 だからウィリアムズは吟味するような態度を重視する。(吟味という言葉が登場しているかどうかは忘れたけれど。)例えば、ウィリアムズは収斂(p.266)という言葉を用いる。収斂という言葉には、一挙に結論が出るのではなく、徐々にゆっくりと結論に向かっていくというイメージがある。また、収斂により導かれた結論とは、必ずしも明確な唯一の命題で示されるようなものでなくてもよい。収斂する前よりも多少でも問題が絞れていれば、それでよいはずだ。そのような収斂という言葉には、吟味するような態度が似合っていると思う。

 ウィリアムズの言葉に「倫理においては、反省は知識を破壊しうる」(p.291)という言葉がある。これは二方面作戦の困難を述べたものだと言っていいだろう。倫理的な知識は、抽象と実存の両方から支えられている。抽象とは、知識を知識として把握できるために最低限必要な論理性である。また実存とは、ELPにおいては超伝統社会として戯画的に描かれているような実践である。この両者はこれまで述べたとおりベクトルが逆で相性が悪いから、抽象的な側面を強調することは、実存的な側面を弱めることにつながる。抽象的な反省は知識の実存的な側面を破壊することになる。

 ウィリアムズにとって重要な点は、「反省は知識を破壊しうる」としつつも、それ以降もELPにおいて反省を止めないという点にある。反省は知識を破壊するものではあるが、反省は知識にとって必要でもあるのだ。それはつまり、反省により知識を破壊することは知識にとって必要だということでもある。喩えるならば、食べ物の味という価値を知ることは、食べて味わい、食べ物の価値を減ずることによってしか成し遂げられないことに似ている。それならば、そのような作業はよく吟味されるべきであることは当然だろう。そのような意味で、ウィリアムズの態度には吟味という言葉がふさわしい。

 ウィリアムズは神の方向に突き抜け、抽象的な道徳に至る道筋は選ばず、内部に留まり、実践的にじっくり吟味する道筋を選んだ。それはつまり、倫理を探求するというこの実践が自己言及的に倫理に与える影響についても吟味するということである。神の立場に立ってしまえば自己言及の問題は生じない。なぜなら、探求する主体と探求される客体という二分法が成り立つからだ。この一例が「総督邸の功利主義」(p.218)と描写されるような立場だろう。逆に完全に実存主義的な立場に立ってしまっても自己言及の問題は生じない。完全に実存主義的とは、例えば、ウィリアムズが批判した「リベラルを装う人」(p.328)のニヒリスティックな態度もしれない。これも別なかたちで、リベラルを装う知識人という主体と、知識の対象である世界という客体を分離した二分法を用いているため、自己言及の問題は生じない。

いずれの道も進まず、ウィリアムズがしたように、探求する主体も探求される客体も人間であるということに正面から向き合うならば、自己言及的な議論を避けることはできない。そこでできることは、自らが発した言葉に誠実に向き合い、それを吟味し、のろのろと不器用に議論を前進させていくことだけなのだろう。

 ELPでは取り上げられていないので詳しくは知らないけれど、ウィリアムズは倫理学を系譜学として、歴史的に捉えることを重視していたそうだ。きっとこれは、倫理の歴史を内側から吟味し、その内側から倫理を組み立てていくような作業のことなのだろう。僕は彼の議論がどの程度うまくいっているのかは知らないけれど、少なくとも、ウィリアムズの、どこか泥臭い議論のスタイルに合致したアイディアではあるように思える。

9 信頼・誠実

 ウィリアムズの重要用語として自信(p.331)というものがある。そして、ウィリアムズは、哲学は自信を涵養するとも言う。だが僕は、自信と言うと個人的すぎるので、信頼と言ったほうがいいように思う。何への信頼かというと、僕の理解では、抽象的な神と実存的な私の間に広がる人間の領域への信頼である。だから、この信頼とは人間への信頼と言ってもいい。(あえて自信という言葉にこだわるならば、この自信とは人間社会全般に対する自信であると言えるだろう。そうすると、社会を一人称的に自分ごととして捉えるという倫理性と自信との深い結びつきが強調されることになる。)

 そして、その信頼とは、ELP全般を通じてウィリアムズ自身が行った、どこか泥臭い、吟味するような、ひたりつくような哲学の実践に対する信頼だとも言っていいだろう。つまり、泥臭く生きている、人間の人生の実践に対する信頼でもある。

 それならば、このウィリアムズ自身も含めた人間への信頼とは、誠実さにもつながるだろう。信頼されたからには、それに応えなければならない。信頼に応えるということは、誠実であろうとするということである。このあたりに誠実さという価値の起源がありそうな気がする。ELPでの「私は、現にある私という地点から熟慮しなくてはならないのである。誠実さは、現実の私に対する信頼をも要求するのであって・・・」(p.387)という描写はこのことを指しているのではないだろうか。

 更に、誠実という言葉は、ウィリアムズがどこまでも神と私の領域の内側に留まることによって、遂行的に神と私、または論理と実存を尊重しようとしたことをも指しているのかもしれない。つまり、内部に留まり、外部を侵害しないことにより、逆に外部を尊重しようとする姿勢こそが、外部に対して誠実であるということである。語りえぬことは沈黙せねばならない。

それならば、自然科学的な知的議論と倫理的議論の違いとは、外部に対する誠実さの有無に由来する、ということになるだろう。そして、カントや功利主義者たちの倫理学は、自然科学的な議論形式を直輸入し、非誠実で非倫理的なやりかたで倫理学を遂行してしまった、という問題提起にもつながるのだろう。

なお、もし、カントや功利主義者たちの議論に倫理的な価値があるならば、その価値は、彼らの議論の内容がすばらしいから、というだけではなく、より重要なのは、彼らが彼らなりに誠実に議論をしていたからなのだろう。そして、その哲学者たちの議論の過程を系譜学的に追うことで、そこにある誠実さという価値を掬い取ろうとしているのが、ウィリアムズのアプローチなのかもしれない。

10 近接性

ここまで、ウィリアムズの魅力は、その議論の内容ではなく、その議論の実践的な遂行のスタイルにあるということを強調しすぎたようにも思うけれど、ウィリアムズの議論の内容も興味深い。

 特に興味深かったのは「近接性」(p.360)の議論である。複数の義務が同時排他的に生じる場面において、どの義務を選択して遂行するのかを説明する際には、近接性という基準が役立つ。困っている遠くの他人よりも、同じように困っている近くの親戚を助ける、というような話である。

 なお、この近接性とは、距離的な近さや血の近さというような客観的なものというよりは、心理的な近さとでもいうべき主観的なものだと言ったほうがいいだろう。だから親戚よりも押しの芸能人のほうに近さを感じることはありうる。

 僕が興味深いのは、まず、その説明の力強さである。たいていの義務の競合の問題は近接性という切り口で説明ができそうに思えるし、近接性という説明を与えることが実生活でもかなり役立つように思える。例えば、アフリカの難民を救わず、近くの友人ばかりを気にかけて生きてきたことに気づき罪悪感を持っている人に対して、近接性という説明はその罪悪感を解消する力がありうる。飼っているネコと職場の同僚のどちらを優先するか悩んでいる人が、自分に本当に近接性があるのはどちらなのかを自問自答することで、自分の決断を整理することもできうる。

 もうひとつ興味深いのは、近接性とは、先ほどから問題としてきた、内側と外側の問題と直結した概念であるように思えるからだ。近接性とは、つまり、客観的に並べられている複数の義務のうちから、主観的なやり方でいずれかの義務を選ぶ際の基準である。そしてその基準とは、主観的なものごとを、近接性という、客観的な距離を連想させるような指標で並び替え、順位付けをするものである。客観を主観で説明し、主観を客観で説明するという意味で、近接性とは客観と主観の混合物だと言える。そして、客観を神の視点、主観を私の視点とするならば、近接性とは、神と私の中間というウィリアムズの議論領域にきれいに合致した指標であるとも言えるだろう。

 この近接性という言葉をこれまでの議論とつなげるならば、誠実とは、身近な人に誠実であることであり、そして、信頼とは、身近な人を信頼することなのかもしれない。そして、何が身近なのかをじっくりと吟味して議論を進めることが倫理学の実践においては必要であり、それこそが系譜学である、ということなのかもしれない。

11 様相の潰れ

ここまでがウィリアムズに即した(と僕自身が思っている)議論である。ここからは、ウィリアムズから徐々に離れていきたい。

僕の問題意識は、ウィリアムズよりも更に実存寄りのところにある。例えば僕は「実践的必然性」の問題をアイデンティティや性格の問題として解釈するようなウィリアムズのアイディアには同意できない。僕の言葉で表現するならば、実践的必然性とは「どんな可能性があったように見えても、起こってしまった現実は決まってしまっている。」という意味での現実の必然性のことである。つまりこれは僕が好きな入不二基義が取り組んでいる『現実性の問題』の領域の話である。ウィリアムズの実践的必然性とは、入不二ならば「様相の潰れ」と言うのだろうと思っている。

『現実性の問題』を読んでいない方のために「様相の潰れ」について少し説明しよう。僕は今、パソコンで文章を書いているけれど、僕はこれからトイレに行くこともできるし、冷蔵庫からアイスを取り出して食べることもできる。だけど僕がなんとなく、偶然的に文章を書き続けることとしたならば、僕はトイレに行くことはできないし、アイスを食べることもできない。僕が文章を書き続けることは必然であり、それ以外の可能性はないことになる。僕がパソコンに向かい続けることは、いくつかの選択肢のうちの可能なひとつのあり方だし、偶然の選択とも言えるし、振り返ってみれば必然でもある。このように考えると、可能や偶然や必然がひとつのところで重なり、いずれの言葉もうまく働かなくなってしまう。入不二によればここで、可能性、偶然性、必然性といった諸様相の潰れが生じているということになる。

(ウィリアムズは「べしはできるを含意する」(p.341)という公式を持ち出すけれど、この議論はかなり様相の潰れに近づいている。ただし、様相の潰れに至ると、正確には「べしはできると一致する」ことになる。)

では、いつ様相の潰れが生じるのかといえば、「今」においてである。未来のことであれば可能性が開けているように少なくとも思えるし、過去のことであれば完全に確定しており、それ以外の可能性などなく、ただ必然的であるとしか思えない。そのような意味で、必然性と偶然性と可能性が揺らぎながら重なるのは、「今」においてだけである。

また、そこにいるのが人間ではなくプログラムされたロボットならば、そこにあるのは必然性か、または乱数でプログラムされた偶然性だけである。必然のようで偶然のようなもの、つまり自由意志を見出すことができるのは、モノとしての人間ではない。もしモノとしての人間に自由意志を認めるとするならば、モノとして人間と見分けがつかない精巧なアンドロイドにも自由意志があることになってしまう。自由意志を認めることができるのは、そのようなモノ性に還元できない主体である。自由意志を認めることができるのは、人間は人間でも、自分自身か、または、自分自身によく似た(同等の)存在としての他者でしかない。そのような意味で、必然性と偶然性が揺らぎながら重なるのは、「私」においてだけであると言ったほうがいい。

つまり「今ここの私」においてだけ、必然性と偶然性と可能性が揺らぎながら重なる。入不二はこれを様相の潰れという語を用いて捉えたが、ウィリアムズは同じものを「実践的必然性」という言葉で捉えているのだと僕は解釈したい。これはウィリアムズの性格やアイデンティティという捉え方よりも一段階、実存的な捉え方だと言っていいだろう。

だが、注意すべきは、それでも、このように言葉で論じることができるという点で、この議論は完全には実存に振れきってはいないという点である。もし、完全に実存的な方向に話が行き着いてしまえば、そのことを言語で語ることはできないだろう。ウィトゲンシュタインが論じていることはそういうことだと思うけれど、ここでは深入りをせず、ここまで実存的な方向に進んでも、あくまでここは抽象化と実存化の中間領域に留まっているということだけを確認しておきたい。

なお、ウィリアムズについての文章のなかで、あえてこのような読み替えを提案するのは、このような読み替えによってもウィリアムズの議論の価値は失われないし、(少なくとも僕にとっては)ウィリアムズが述べようとしていたことが、より鮮やかに捉えられるように思えるからである。もしかしたら、この修正によりウィリアムズの議論の詳細(系譜学の内容など)については変更を迫ることになってしまうかもしれないが、基本的な議論の枠組みは揺らぐことはないと思っている。

12 善のクオリア

 ウィリアムズの本というよりもひとつの倫理学書を読んだ感想としてだけど、ELPにはクオリアという言葉は登場しない。形而上学的な文脈では、実存的な問題を語るうえでクオリアというのは便利な言葉だと思うけれど、倫理学ではクオリアという言葉はあまり使われないのだろうか。ウィリアムズの議論はかなり実存的なものだからクオリアという言葉を使うとうまく説明ができそうに思える。

 例えば、ELPでは数学的真理と倫理的な真理を対比し、数学的真理については、「直観によって把握された真理が、その理論の起点となることができるだろう。」(p.191)とされる。そのうえで数学と同様に倫理的真理も直観で把握できるとする考えを直観モデルと呼び、それは誤りであるとする。ここでの直観とは、クオリアと呼ぶこともできるように思える。数学的真理であるという直観は、いわば真のクオリアであると言える。一方で、倫理的真理であるという直観は善のクオリアとも呼べるだろう。つまりウィリアムズは、真のクオリアを認め、善のクオリアを否定したということになる。これを真の直観や善の直観と呼んでもいいけれど、クオリアと呼ぶことで、より実存的な議論に接続しやすくなるように思う。

 では、なぜ真のクオリアや真の直観はうまくいくのに、善のクオリアや善の直観はうまくいかないのか。当然、真についても直観モデルはうまくいかないという批判はありうるだろう。(確か、解説かなにかに、ウィリアムズへの批判として、自然科学に対する素朴な信頼を持ちすぎている、というものがあった気がする。)だが常識的に考えて真と善は扱いが異なり、善についての直観モデルは、真についてのものより一層の困難があるように思える。そこにある違いとは何だろうか。本当にそこに違いはあるのだろうか。

13 過去・未来・時間推移

 ウィリアムズから遠く離れすぎてしまうけれど、真と善にまつわる問題に答えるためには、どうしても時間論に踏み込まざるを得ない。というか、僕は時間論が好きだから、このような方向に話が進まないと面白くない。

 まず、時間という着眼点を踏まえるならば、倫理学理論のうち、カント的義務論と功利主義はきれいに過去と未来という鏡像のような関係にあるように思える。つまり、義務論は過去という時制と関係があり、功利主義は未来と紐付けることができる。ウィリアムズもELPにおいて、義務について「越し方を振り返る」と述べる一方で、福利主義や功利主義の領域の話をするなかで「これとは違った種類の倫理的考慮として、前向きの倫理的考慮がある」(p.29)としているとおりだ。

 義務論とは義務を強調するものであるが、ウィリアムズの洞察のとおり、義務は、義務違反に対する非難に主眼が置かれている。義務論とは非難のシステムであると言ってもいいだろう。そして、非難は既に行われてしまった過去の行為に対して行われる。そのような意味で義務論は過去を振り返る議論である。当然、義務論は、将来行われる行為の義務についても論じるだろう。だがその議論は、未来の行為時点よりも更に未来の評価時点を仮定し、そこから振り返るようにして行われるはずだ。行為時点と評価時点との関係では、行為時点は過去となる。つまり義務論における未来とは、過去化された未来であると言ってもいい。

 一方の功利主義は未来と紐づく。行為時点においては、その行為がどのような帰結を招くかは正確にはわからず、どのような功利が生じるかもわからない。功利主義はそのような不確かさに関わっているという点で不確かな未来と紐付いている。だがそれをあえて功利「主義」として明確なかたちで体系化するためには、不確かな未来を洞察できるような神の視点が必要となる。それが理想的観察者としての世界的行為主体(pp.171-172)である。世界的行為主体は、行為時点でのすべての行為主体のデータを把握し、そこから生じるだろう因果性をすべて把握しているから、行為時点にいながら、帰結時点を完全に把握できる。これはつまり、未来を無時間的に眺めることができるということになる。実際には当然、このような芸当は不可能である。だから功利主義は、過去において功利主義的に正しい判断をしなかったからといって、その者を責めたりはしない。その過去のある時点における判断は、その時点ではどのような未来を招くかはわからなかったのだから仕方がないということになる。これはつまり、過去を未来化して捉えるということである。功利主義とはどこまでも理想であり、いつか未来において達成できるかもしれない希望である。そのような意味でも功利主義は未来と紐付いている。

 僕は、過去も未来も過去のように捉える義務論と、過去も未来も未来のように捉える功利主義とはちょうど合わせ鏡のような鏡像関係にあると感じている。そのような関係にあるからこそ、義務論と功利主義は、倫理学の二大潮流となることができたのではないだろうか。互いが半分の真理を抱えていて、互いの半分を組み合わせることで、ようやく一人前に倫理を語ることができるようになるのかもしれない。

 では、もうひとつの重要な倫理学理論である徳倫理学はどのように時間と関わるのだろうか。僕の見立てだと、徳倫理学は過去から未来(または未来から過去)という時間推移と関わりが深いように思われる。具体的には、徳倫理学は、(僕の少ない知識だと)子供が大人になる成長過程や古代から近代に向かう人間の歴史を描写することに長けているように思われる。

逆に、苦手なのは、そもそも倫理とは何かという抽象的な問いに応じる場面や、とるべき行動についての普遍的な判断基準を与える場面であろう。徳がある者が徳についてうまく語ることはできないというのは、この苦手さの現れのひとつだろう。

だが、そのような問題(ウィリアムズであれば道徳と呼ぶような問題領域)に関与せず、倫理が立ち上がった後のことについて考察を行う限り、徳倫理学は極めて有用なものとなる。倫理の起源の第一歩と倫理の最終的な目的がどこかから外的に与えられさえすれば、その二点間をつなぐことは徳倫理学が得意とするところだ。どこから来てどこに向かうかわからない倫理の実践的な過程を徳倫理学は上手に描写する。ここでの過程という用語は、ここまで用いてきた用語によるならば、実践と呼んでもよいだろう。徳倫理学のなかには実践的な動性が内在しており、この実践的な動性が倫理学の出発地点と目的地点とをつなぎ合わせているのだ。

なお、徳倫理学が苦手とする出発地点と目的地点という二点の静的な描写は、義務論と功利主義が得意とするところである。カントは定言命法として議論の出発地点を鮮やかに指し示しているし、ベンサムは最大多数の最大幸福という目的地点を明確に指し示している。(ロールズの契約論は、無知のベールという出発地点を定めた議論であるという意味で、義務論的だと言えるかもしれない。)

その意味で、倫理学における学説とは、他の学問領域のように相互に排他的に論争し合うような関係にはなく、相互に補い合うような関係にあるのかもしれない。倫理学学説がある意味、倫理的なあり方をしているというのは興味深い。

14 現在

 では、過去=義務論、未来=功利主義、時間推移=徳倫理学と紐付けることで、三つの主要学説により、時間を全て掬い取ることができたのだろうか。

 いや現在が足りない。ここまでで取り上げた倫理学説のなかには現在を重視するものは見当たらない。僕の考えでは、現在という時制と紐付けられる倫理学説は永井均のものである。永井の倫理学とは、冒頭でも少し触れたが「今ここの私」という独在性を重視するものである。「今ここの私」のうちの「私」に重点を置くなら独我論的となるし、「今」に重点を置くなら独今論的となる。永井のアイディアが今を強調するものであることは明らかだろう。

 永井の独我論は特殊なものだ。通常、独我論というと、デカルト的な外界の懐疑とつながり、私しか存在しない、他者など存在しない、という展開となる。だが、永井の議論は、他者も存在してもいいけれど、私はそれとは全く異なる特別な存在の仕方をしている、という方向に進む。このような考え方は非常にアモラリストと親和性が高いものである。自分だけが特別なのだから、特別ではない他者よりも明らかに優位な立場にある。だから自分だけが好き勝手をしてよい、ということになる。(永井の主張はここには留まらないけれど、そのように読むことは可能である。)

 永井は「私」についての議論と同様のことを「今」に対しても行うことが可能だとする。その結果、この今だけが特別な時点であり、過去や未来といった他の時点のことなど気にせず、今だけを特別扱いして好き勝手してもよい、ということになる。つまり、未来の健康を気にかけて今覚醒剤をやらないなんて愚かだ、ということになる。ここでは、独今論とはそのようなものであるとしておこう。(永井の主張はここには留まらないけれど、そのように読むことは可能である。また、ウィリアムズの近接性のアイディアは、永井によるならば、「独在的な私」からの距離というかたちでのひとつの現れだということになるだろう。)

 つまり、現在と親和性が高い永井の倫理学理論とは、独我論であり独今論であり、アモラリストの倫理学理論である。

 ここで先ほどのクオリアの話に戻すと、僕は、クオリアは現在と深い関わりがあると考えている。なぜなら、クオリアは現在においてしか存在し得ないからだ。目の前にパソコンが見えるというクオリアは必ず現在のものである。いや、1分前にお茶を飲んだクオリアもあると思われるかもしれないけれど、そのクオリアとは1分前の過去を現在において想起している、現在における想起のクオリアである。こうしてクオリアと永井的な独今論は直結する。クオリアを肯定的に捉えるためには現在の特権性を認めなければならないし、クオリアを否定するならば、それは現在の特権性を認めないということにもなる。

 ここにはクオリアや、現在の特権性や、永井のアモラリスト的な倫理学を全て受け入れる道筋と、それらを全否定する道筋という二つの道があるだろう。僕は受け入れた上で、その先を考えたいと思っている。更に、僕が進む道は二つに枝分かれしている。ひとつは入不二の、全てを受け入れたうえで、それら全てを手品のように消し去る道筋である。もうひとつは、ウィリアムズの、そのような極端な方向の議論が可能であることを認めたうえで、極端には向かわず、その手前の、極端と極端の間に見出すことができる中間領域において、なんとか哲学をやっていこうとする道筋である。僕は、そのいずれの道にするかは決めていないが、いずれにせよ、僕が進む道は、クオリアがあり、特権的な現在があり、そして永井のようなアモラリストがいる世界である。

 僕の考えでは、究極的には、クオリアには真も善も(美も)ない。なぜなら、クオリアとは、特権的な現在における一回限りのものだからだ。よって、唯一のものについて、複数のクオリアを比較するようにして、これは真でこれは善である、というような分類をすることはできないはずだ。

 だけど、ウィリアムズならば、そのような究極的な議論自体を避けるから、クオリアについても、完全な肯定と、完全な否定の中間の道筋を探るはずだろう。そのような中間的な混合物として、善のクオリアのようなものを措定することはできうる。それは、善の直観とも言い換えられるようなものである。

 なお、ウィリアムズは直観主義を否定するけれど、それはきっと、直観のみにより全てを説明できるとする極端に抽象的な議論を避けているに過ぎない。僕はウィリアムズ自身の議論の詳細は知らないけれど、系譜学的な議論としては、倫理学において直観概念を肯定的に扱う余地はありうる。また、直観と呼んでも善のクオリアと呼んでもいいけれど、そのようなものを何らかのかたちで取り込まなければ、その系譜学は十分なものにはならないようにさえ思える。なぜなら、系譜学とはこれまでの倫理学の営みを歴史的に漏れなく振り返る作業であるはずだからだ。それならば、直観主義という、ある程度の説得力力を持つ議論を門前払いすることはできないのではないか。

 ここまで来ると、僕が問題提起した、真のクオリアと善のクオリアの違いという問題は大きな問題ではなくなる。なぜなら、善のクオリアがウィリアムズ的な中間的な議論により認められるのと同様に、真のクオリアも、自然科学という中間的な議論により認めることができるに過ぎないとも言えるからだ。真と善で違いがあるように思えるのは、ウィリアムズのような常識的な捉え方だと、自然科学は究極的な真実であるように思えるに過ぎない。自然科学だって、科学哲学という領域があることから明らかなように、奥深いところではクオリアに代表されるような実存の問題から逃れきってはいない。

かなり実存寄りな僕の理解だと、いずれにせよ、名もなき唯一であるはずのクオリアに、真とか善とかといった名前をつけているに過ぎない。

 僕は決して、自然科学を貶めてはいない。僕は自然科学がこれほどまでに成功していることに驚嘆している。この成功とは、自然科学の実験や検証といった研究手法がとてもうまくできているからこそのものなのだろう。僕にとっての自然科学の魅力は、その成功した結果にあるのではなく、その成功のプロセスにある。そこには更に解き明かすべき秘密が隠されているように思う。(僕は、自然科学の成功の要因は、実験による検証を通じて、極端な議論が補正され、中間的な領域に留まり続けることができたからではないか、と考えている。)

そして、僕は、倫理学についても、原理上は、自然科学と同様の成功を収める道筋がありうるように思える。それはきっと、自らの学問領域が中間的なものであることを自覚し、極端に進みすぎず、進むべき方向を微修正しつつ進むような繊細な道筋なのだろう。ウィリアムズの系譜学が正しい道筋かどうかはわからないけれど、ひとつの試行としては適切なものであるように思える。

15 物語

 最後に、もう少しだけ自説を展開させておきたい。ウィリアムズが述べたことから離れ、僕なりにウィリアムズ的に中間領域に留まる議論を展開するとしたら、僕ならばどのように考えるだろうか。

 僕がこれまで重視してきたのは、神への抽象化と私への実存化の中間である。カントや功利主義者のように義務や功利といった単純な抽象概念に還元せず、かといって、永井やニーチェのように単なる「人それぞれ」とも解釈されかねない私の実存にも進まない道筋である。極端な議論は麻薬のような魅力があるけれど、そこから必ず取りこぼすものがある。ウィリアムズはそんなふうに考えていたように思える。

 我々人間は人生を生きている。ウィリアムズはそんな常識的なところから議論を始める。そこにあるのは、我々人間の人生を、義務や功利といったかたちでひとくくりにせず、かと言って、人それぞれの実存というようなかたちで人間を分断しない視点である。ウィリアムズに寄り添い、ウィリアムズの視点に立ったときに僕が見いだすのは、ゆるやかに繋がった人間たちの人生である。

 そのようなものとしての人間の人生を描写するのに適切なのは「物語」ではないだろうか。人間の人生とは、義務論や功利主義のような単純な構造で描写できるものではない。一方で、言葉にもできないような人それぞれが抱える実存から始めてしまっては、人間の人生を「描写」して誰かに示すことなどできない。単純化しすぎず、かと言って個別性を強調しすぎず、語りうるものとして人間の人生を描写することを、物語と呼ぶことは適切だろう。これは人間の人生のポータブル化の作業と言ってもいいと思う。

 人間の人生は、物語としてポータブル化することにより、ある程度の複雑さを維持したまま、他者に理解可能なものとなる。他者に理解されることにより、そこから議論を始めることができる。原理的には、人類が地球に誕生してからの全ての人間の物語を重ね合わせることで、そこから、全ての人間の人生を考慮した物語を生み出すことができる。その物語とはきっと倫理的に正しいものになるはずだろう。僕は、ウィリアムズが目指す系譜学とは、そのようなものであるべきだと考えている。

 当然、人類誕生以降の全ての人類の人生を重ね合わせることなど現実には不可能である。だから、そこには作業の圧縮化、省力化のテクニックが必要となる。それはつまり適度な抽象化であり、その抽象化をどのように行うかという手腕を振るう際にこそ哲学者の出番があるとウィリアムズは考えているのだろう。

 そのように考えるならば、物語化という僕のアイディアは、徳倫理学に近いものとなるだろう。僕は、従来の徳倫理学がうまくいかなかったのは、徳倫理学に内在する本質的な欠陥によるものではなく、哲学者ごとの個別具体的な失敗の積み重ねによるものだと考えている。例えばアリストテレスの議論が失敗したのは、中庸というような基準を用いて作成した徳のリストが過度に普遍化され、抽象化されていたからであり、人間の物語としては不適切なものであったからなのだろう。(僕は詳しくないので想像だけれど)徳倫理学者の失敗は、そこから何か抽象的で普遍的な真理を一気に引き出そうと焦るところから生じるのではないだろうか。きっとウィリアムズの系譜学もそのままで完全に成功することはないだろうが、最も失敗しやすい誤りには自覚的だから、より有望であるように思える。

 より重要なことは、ウィリアムズの系譜学は、その失敗から学び、よりましなアプローチが考案されるということも含意しているはずだ、というところにあるだろう。そのような営みの連鎖こそが真の倫理学へと向かう道筋であり、そのような営み自体が真の倫理学であり、実は、僕が考える物語化ということが指し示しているものなのだろう。つまり、そこにあるのは、倫理学者たちの、哲学の実践と吟味であり、倫理学者たちの誠実な姿勢と、倫理学というものに対する信頼であり、そのようなものとしての哲学者たちの物語なのである。

 なお、真や美といったその他の価値について考える際には、このような物語化の作業は必要ない。なぜなら、そもそも、この物語化の作業は、我々人間の人生というものに対する興味から始まっていたからだ。この興味と真や美では何の関わりもないし、あえて言うならば、我々人間の人生というものに対する興味こそが倫理の源泉だとも言えるのだろう。(もし真や美が何かしらの物語を持つとしたら、それは倫理的な真、倫理的な美となるはずである。)

16 おまけ:メモ

以下は自分向けの備忘録です。

物語という観点から捉えるならば、功利主義とは、現在という時点から捉える限りの、未来というものが有する最低限の物語なのかもしれない。未来とは、現在から全く隔絶しているものであるはずだけど、それをあえて描写し、理想的な未来というものを想像するならば、その未来とは「幸福」な未来でなければならない。つまり、お花畑に満ちた天国のような未来である。そのような幸福を目指すものとして功利主義はあると言える。

 だけど、残念ながら僕は、お花畑に満ちた天国になど住みたくはない。僕が住みたいのは、現在と断絶した不確定な未来が待ち受けている世界である。僕は欲張りだから幸福と不確定さの両方を望んでいる。未来の不確定さを上手く捉えきれていないという点で功利主義は未来についての完全な物語とは言えないように思える。

 一方の義務論とは、過去についてのよくできた物語だとも言える。特に、過去における「後悔」を義務はうまく描写している。カントの義務論は、実現不可能だと思えるほどに過大な要求を僕に押し付けるけれど、その要求が未来の行動についてのものではなく、過去の反省についてのものだと考えれば腑に落ちる。僕が自分自身の過去の行動を後悔するとき、カントのように全てを自分のせいだと考えて後悔する。僕の後悔の物語はカントのようだ。だけど、人生は過去にばかり目を向けるものではないし、過去だって後悔すべきことばかりで満ちている訳でもない。その点でやはり義務論は過去を全て捉えきっている訳ではない。(ELPでは遺憾や自責の問題が論じられる(pp.343-344)が、遺憾とは自分が物語に登場していないということであり、自責とは自分が物語に登場しているということなのだろう。)

 人生を物語として捉える観点は、ウィリアムズ的に中間領域に留まる議論から導かれるものだから、例えば、自由のようなものについても中間的にしか取り入れることができない。つまり僕の物語論?は、自由を、自由そのものではなく、自由の物語としてしか取り入れることができない。だから、真の完全な自由は、この中間的領域の外にいるアモラリストにしか手に入れられないということになる。つまりアモラリストの自由とは物語からの自由であるとも言える。

 では、中間領域に留まり、自由の物語として自由を捉える限りで、最も自由になるためにはどうすればいいのだろうか。それは、自分が関与して、できる限り豊富な物語を紡ぎ続けるということに尽きるのではないだろうか。物語の価値はその物語の豊かさにあるはずだ。それならばできることは、その営みに関与し、少しでも価値を高めようとすることでしかないだろう。(ELP p.120で言っていることはそういうことだと思う。)

別の自由の方向として、自殺したり、人類を絶滅したり、といった自由はありうるけれど、それは物語りを止めるということであり、物語内部での自由ではない。

 ここに登場した二つの自由、つまりアモラリストの自由と、豊富な物語を紡ぐ自由は、消極的自由と積極的自由という区分に対応するように思える。もしそうだとしたら、二つの自由はどちらも手に入れることが望ましいけれど、両立は不可能だということになる。

 

 物語論?において、どの程度の抽象度で物語を描くかは難しい問題である。あまりに抽象化すると全体を捉え損ねるし、過度に個別的すぎると何の役にも立たなくなる。

 物語の有用性は、つまり運の超越(p.378)にこそあるのだろう。物語は人間を鼓舞し、運を超越し、人生を生き抜く力を与えてくれる。そのような適切な物語を描くために倫理学はあると言ってもいいのではないか。

では適切な物語をどうすれば描けるのか、ということになるが、ウィリアムズは、反省を通じて生き残った濃い概念が持つ安定性に希望を持つ(p.386)。これを適切な物語と呼んでも大きな間違いはないように思える。

 倫理学が果たすべき、義務と義務との衝突・不整合を調停し整合させるという役割は極めて中間的である。なぜなら、不整合を整合させることが可能であるためには、実は整合しているものが不整合に見えるのでなくてはならないからだ。整合しているものが不整合な見かけを有しているということは実はおかしいし、少なくとも見かけの面では不整合なものを整合させることができるというのも実はおかしい。整合しているならばはじめから整合しているはずだし、不整合ならば最後まで不整合なはずだ。その不可能なことがなぜか可能となってしまうという点が、中間的であると僕が考える理由である。

 実はこれは、科学においても同様のことが起きる。だからこれは、倫理に限らず、人間の営みというものの中間性なのかもしれない。または、科学の倫理性を表しているのかもしれない。

僕は、ウィリアムズ的な倫理学において、信頼は重要だと考えているけれど、信頼とは、そこから先を考えないということにもつながる。「俺はお前を信頼する。」と言ったならば、それは「お前が間違えているかもしれないなんて、俺はこれ以上考えない。」ということでもある。信頼につきものの思考停止をどのように扱うべきなのだろうか。

僕は、それは、「人間の人生について考える」という倫理学の議論の枠組みの設定から必然的に生じるものであり、やむを得ないものだと考えている。枠組みから外れるような問題に対しては思考を停止せざるを得ない。

問題は、そのような議論の枠組みの設定が、真に自分の哲学の問題として誠実なものかどうか、ということなのだろう。つまり、倫理学は、倫理学に誠実な哲学的疑問を持ち(タウマゼインを持ち)その疑問に忠実な人にしか適切に実践できないということになる。

僕は、ウィリアムズの系譜学的なアプローチは、ほぼ徳倫理学と言い換えてもよいと考えており、系譜学的に徳を考察することにより、倫理学的に有用な知見を導くことができると考えている。だから、系譜学を上手に遂行するうえで求められる傾向性のようなものを、徳倫理学における徳、二階の徳として位置づけることもできるように思う。その例としては、ここまで取り上げたものとしては、吟味する姿勢、倫理学に対する信頼性や誠実性といったものがある。加えて、粘り強く継続的に倫理学に取り組む姿勢といったものもあるだろう。

僕が悩ましいと思っているのは、頭の回転の良さや豊富な知識と想像力、素早い決断力、客観的で理性的であろうとする姿勢といったようなものである。これらは、二階の徳と考えるべきなのだろうか。僕自身の哲学としては一旦、これ以上を考えることから離れようと思うけれど、哲学カフェの実践者としてはとても興味がある。誰か考えてください。

(ウィリアムズが重視した「多様性や探求の自由」(p.335)については、吟味する姿勢に含めることができるように思う。また、ウィリアムズは客観性について「未来に向けた隔たりの相対主義」(p.336)を用いて擁護しているけれど、どこまで成功しているかは微妙だと思う。)

心と世界のチューニング

ファイルを整理していたら発掘しました。数ヶ月前のメモ書き。

今のところ、これ以上は書き足せないけど、また埋もれたらもったいないので、ちょっとだけ体裁を整えてアップしておきます。

心と世界。

調和だと、ちょっと高尚すぎる。

境界の消去だと、ふたつのものの和になってしまう。

止揚だと、新しい特定の何かが生じるかのようだ。

そうではない。関わり合いを精緻にしていくのだ。

呼吸や瞑想を使って。

それならばチューニングという言葉がちょうどいいかもしれない。

ただし、心と世界を直接関わらせることはできない。

身体を介在させなければならない。

だから2箇所でチューニングを合わせる。

心と体、そして体と世界。結果として、心と世界のチューニングも合うはず。

心が体に気づき、そして世界に気づいていく。

世界も体に気づき、心に気づいていく。

より気づき、よりチューニングが合うにつれ、時間は経過する。

成長という意味での時間の動性。

動物倫理学

1 肉食の問題

詳細の説明は控えるけれど、最近、僕は、自分が工場式畜産の関係者だということを実感させられる経験をした。そして僕はベジタリアンになろうかと真剣に考えてしまった。積極的にベジタリアンを目指すというより、肉食は勘弁してほしいというような逃げ出したい気持ちになったのだ。

僕は牛・豚・鳥・羊と色々な種類の動物の肉を比較的安い費用でたくさん食べる。それは当たり前のことだと思っていた。だけど実は、当たり前のことではあっても当たり前の肉ではない。僕が食べるのは、当たり前のようにのんびりと牧場で育つ動物の肉ではなく、生まれたときから狭いところに閉じ込められ、外を走り回ったことなど一度もないような異常な状況で育てられた特殊な動物の肉なのだ。そのようなものを僕は喜んで食べてきたし、値段や栄養バランスやおいしさや円滑な人間関係を考えるならば、これからも喜んで食べるのだろう。だけど、色々なことに折り合いをつけつつも、せめて、少しでも何かを変えるべきではないだろうか。そんなことを考えている。

この文章は、少し混乱した僕の心情を整理するために書いている。自分のため、ある程度まで、吐きつくして考え尽くしたいと思って書いている。だから冗長になっているし、脇道に逸れたりもしている。という点をご容赦ください。

2 はじめての動物倫理学

他の文章でも繰り返し書いているように、今、僕の中では倫理学がブームだ。それならば、肉食について倫理学的に考察するのもいいのではないだろうか。そんな思いつきで田上孝一の『はじめての動物倫理学』という本を読んでみた。

この本によれば、(ウィリアムズの『生き方について何が言えるか』でも勉強したとおり、)規範倫理学には功利主義(帰結主義)と義務論と徳倫理学という大きな3つの流れがある。その規範倫理学を応用するのが応用倫理学であり、動物倫理学は応用倫理学の一部門である。だから動物倫理学にも、功利主義的動物倫理学と義務論的動物倫理学と徳倫理学的動物倫理学があることになる。

田上によれば、動物倫理学は義務論と相性がいいようだ。なぜなら、動物倫理学とは、(人間生活に影響がない範囲で)動物を極力大事にしましょうね、というような動物福祉的な観点を超え、動物自体に権利があると考えるものだからだ。ダイレクトに動物と権利をつなげるためには、つまり功利計算や動物を愛する人間の徳といったものを媒介せずに動物と権利をつなげるためには、カント的義務論の道筋がうまくいくのは確かだと思う。カント的に述べるならば、動物はなにかの手段ではなく、人間と同様に目的とすべき存在なのだ。なんら条件付けなく、ただ動物は動物であるだけで人間と同様に尊重されるべき存在なのだ。とても切れ味がよい。

このように論ずる動物倫理学は歴史が浅い若い学問なだけあって、突っ込みどころが満載だと思う。チンパンジーやゴリラのような動物とサンマやカブトムシのような動物は全く対等なのだろうか。もしノアの方舟が陸地を見つける前に海の中に沈んでしまいそうになったら、救命用ボートでどの動物を助けるべきなのだろうか。(サンマは助けなくていい気もするけれど。)また、なぜ動物に権利はあるのに植物には権利がないのだろうか。サンゴのような動物には権利はあるのだろうか。動物プランクトンと植物プランクトンとの間にある違いとはなんだろうか。動物に権利があってもロボットには権利はないのだろうか。等々。僕から見ると、動物倫理学は、これらの問いに対して、大多数の人を納得させられるような答えは持っていないように思える。動物という視点から倫理について考えるのはなかなか難しい。

なぜ、動物という視点からのアプローチが難しいのかというと、動物の問題の裏には人間の問題がまとわりついてくるからなのだろう。動物倫理学とは、いわば「動物」という範囲を設定する議論だから、その延長にある「人間」という範囲設定の問題ともつながる。つまり「動物の権利」よりも前に「人間の権利」が問題になるということだ。そもそも人間には権利があるとはどういうことだろうか。本当に、友人や家族と見知らぬ異国の人々とでは同じ権利を持っているのだろうか。もし同じ権利があるならば、僕は腕を一本骨折した友人のことなど放っておき、腕を二本骨折した見知らぬ人のことを考えなければならないのだろうか。人間のことすら整理しきれていないのに動物のことに手を出すのは時期尚早のような気もする。

3 動物倫理学の自然科学的な正しさ

一方で、動物倫理学を支持する人たちは、僕が抱く懸念は既に解決していると言うだろう。彼らならば、動物倫理学はどうして動物が人間と同等に扱われるべきかをきちんと根拠付けて議論できていると主張するだろう。また、将来的には、どの程度の範囲の動物を人間と同等に扱うべきかを定義できうると主張するだろう。

確かにそうなのだ。彼らの主張には自然科学という根拠がある。現在の自然科学の知見を踏まえれば、人間と動物の間には決定的な差はない。人間が言葉を使うように、言葉を使う動物もいる。道具を使うのも人間だけではない。動物も苦痛を感じて苦痛から逃れようとするし、人間と動物の間の遺伝子上の差はわずかなものだ。機能面だけを比較するならば、生まれたばかりの赤ちゃんや認知症の老人よりも成熟した健康なチンパンジーのほうが人間的だとすら言うこともできる。

また、今のところは達成できていないが、近い将来、自然科学的な知見を用いて、一定の範囲の動物を人間と同等の機能を有するものとして明確に定義づけることも実現しそうな勢いもある。(なんとなくそれは、大型霊長類やイルカのような一部の動物を人間と同等だと定義づけるようなものになりそうな気がする。)

動物倫理学は、人間の機能に着目し、自然科学の知見を用いて動物にまで拡大するという、かなり成功を見込めそうな道筋を発見したのだ。人間の主体としての機能を自然科学的に把握し、それを人間という従来の枠組みにとらわれずに動物にまで拡張することで、倫理の主体の範囲を明確に捉えきることができるようになるのだ。だから、この議論は、動物倫理学という枠には留まらず、人間も含めたものとしての、自然科学的機能主義に基づく主体論だと言ってもいいと思う。

正直、僕の直感ではそのような解決方法はなかなか受け入れがたいけれど、自然科学が大多数の人にとっての常識となっている現代においては、動物倫理学が持つ力を無視することはできない。それならば、先程僕が列挙したような動物倫理学に対する疑問は、自然科学によりいずれ解決することになるのかもしれない。

4 自然科学的な議論の威力

再度、我々、動物倫理学反対論者の立場に身を置いてみよう。

動物と人間を同一視するような動物倫理学の主張にはいくつもの反論を思いつく。動物倫理学は、これから成熟した人間になる赤ちゃんや、過去に健康な人間であった老人の特別さを無視している。人間が扱う言語と動物が扱う言語では複雑さが違う。等々。だけどそのような理由付けは、自然科学の知見という決定的な正しさと比べれば恣意的で怪しいもののように思える。どうも我々の旗色は悪いようだ。

だが、より決定的な我々の問題は、そもそも、動物と人間を同一視することに反対する人は、本当に赤ちゃんの成長可能性や言語の複雑さこそが自らの主張の根拠だと心から信じてはいないという点にある。そのような人は心の底では、赤ちゃんはこれから大人に成長するかどうかとは関係なく人間だと言いたいはずだ。また人間特有の言語の複雑さを論拠とはしても、仮に人間と同等以上に複雑な言語を話すカラスを発見したとしても、そのカラスを人間として扱いたくはないはずだ。反対論者の心の奥底には、論理では割り切れない極めて人間的で強力な感情がある。だけどその感情が「感情」として議論の俎上に乗ってしまったら、その「感情」は自然科学を味方につけた動物倫理学に対しては無力である。動物倫理学反対論者が本当の拠り所としている「感情」は、「感情」を離れたところで行う論理的な議論とは相性が悪い。

別の言い方をするならば、根源的な動物倫理学の議論の強さは、僕たち人間は肉食すべきか、という問いを立てた途端、その問題は、自然科学的な動物倫理学的な議論の土俵に取り込まれてしまうという点に由来しているとも言える。

どういうことか少し丁寧に言葉を補おう。「僕たち人間は肉食すべきか。」という問題設定は、個人的な問いではなく、「僕たち人間」という人間一般についての問いであると言える。そうだとすると、肉食すべきか、という問いに答える前に、人間一般という問題領域の設定の是非について考えざるを得ないはずだ。つまり、まずは、人間とはなにか、どこまでが人間か、という問題について整理せざるを得なくなるということだ。

そして、その答えは、私という個人ではなく、誰もが共通に持っている人間一般の特徴から論ずることになるはずだ。それならば、その答えは、人間には46本の染色体があって、道具や言語を使えて・・・というようなものになるだろう。つまり、「僕たち人間は肉食すべきか。」という問いは、「46本の染色体があって、道具と言語を使える者としての人間一般が肉食すべきか。」という問いであることが明らかになったことになる。これはほぼ、自然科学的な人間の機能に関する問題設定であり、さきほどの動物倫理学の議論の土俵に乗っている。

議論の出発地点が定まったならば、あとは簡単だ。自然科学的な道筋に入り込んだなら、そこから先に逃げ道はなく、動物倫理学の議論の流れに沿って、僕たちは人間と動物を同列に扱うべきだという帰結に向かって一直線に進んでいくことになる。

以上の考察が明らかにしているのは「僕たち人間は肉食すべきか」という問い方が既に自然科学的な動物倫理学への道筋をつけてしまっているということである。

5 個人的な道筋

だが本当に人間一般という問題設定から必然的に自然科学的な答え方が導かれ、動物倫理学的な議論に帰結せざるを得ないのだろうか。人間とはなにか、どこまでが人間か、という問題に対しては、DNAがこうなっていて、道具と言語を使えて、というような自然科学的な答え方とは違う対応の仕方は本当にないのだろうか。

対案としてはきっと色々なアイディアがあり、それぞれについて丁寧に検討していくべきなのだろう。だが紙幅の都合から、また、僕の興味はそこにはないという理由から、その問題には立ち入らず結論だけ述べたい。僕は、それらの対案はいずれも失敗すると考えている。自然科学的な議論の道筋を突き進む以外には、人間一般についての問いとすることを諦め「僕にとって」という個人の領域に進む道を選ぶしかないと考えている。

自然科学的な方向に進まず、かといって個人的な方向にも全く入り込まずに「人間一般にとって」という問題領域に完全に踏みとどまったまま、議論を深めることは不可能なのだ。そのような議論は、一見成功したように見えても、どこかで個人的な視点や自然科学的な知見を密輸入してしまっているはずだ。(例えば、優しさを持っているのが人間だ、という主張があったとしよう。だが優しさというものを定義するにあたっては、主張するその人が個人的に知っている優しさを用いているか、そうでなければ、客観的に自然科学によって記述できる優しさを用いているはずである。)

それならば、これから進む道は二つしかない。個人的な道筋に進むか、客観的で自然科学的な道筋に進むかの二者択一である。残念ながら僕は、動物倫理学が進んだような客観的で自然科学的な道筋では納得しきれないので、個人的な道筋に進むしかない。こうして僕にとっての肉食の問題は、「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題として立ち現れることになる。

6 議論の向き

ここからの議論では「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題をどこまで個人的な問題として純度を保って論ずることができるかが肝要となる。

当然ながら、ものごとを個人的な問題として論ずるにあたっては、個人的な視点を徹底することが重要だ。なぜそんな当然なことを強調するのかというと、議論というものは、複数で行う場合でも、このように一人で文章を書きながら行う場合でも、どうしても客観的な視点というものが混入しがちだからだ。そうならないように注意深く議論を進める必要がある。

議論の純度を保つための僕が最重要だと考える留意事項は、議論というものが本質的に有する双方向性にあえて意識を向けるということがある。議論というものは本質的に双方向的なものだが、双方向性は個人的な視点を純粋なかたちで保つことを困難にする。個人的な視点を保ちつつ議論を行うということには、避けがたい困難がある。もし完全に避けることができないならば、そこに意識を向け、双方向性という障害物からどのような影響を受けざるを得ないかを慎重に見極めるしかない。

さて、双方向性という障害物は議論のなかにどのように潜んでいるのだろうか。複数の人の間で行う議論を思い浮かべてもらえればわかりやすいと思うけれど、議論においては話す人と聞く人がいる。AがBに対して「私(A)はネコが好きだ。」と言ったなら、ネコが好きなのはBではなくAだ。だから「私(A)はネコが好きだ。」というAの言葉は、Bにとっては、「あなた(A)はネコが好きだ。」と理解される。Aが発した「わたし」という言葉をBは「あなた」と変換して理解する。AからB、BからAと議論の向きが変わるごとに、「わたし」という言葉は「わたし」と「あなた」の間で揺らいでいる。

同様に、「僕は肉食すべきか。」という、この文章の筆者(つまり僕)の問いは、この文章を読んでいるあなたにとっては、「(この文章の作者である)あなたは肉食すべきか。」として理解されるべきだ。だが、言葉が持つこのゆらぎに無頓着でいると、もしかしたら、あなたは「(この文章の読者である)私自身が肉食すべきか。」という問いとして解釈してしまうかもしれない。これはつまり、僕からあなたに向かうべき議論の向きを逆に取り違え、あなたは僕とあなたを同一視してしまったということである。これが双方性という障害物に衝突してしまった状況だ。

こうなってしまったら、あとは話が早い。僕とあなたは同じ人間であり、人間という種であり、DNA構成がこうなっていて、言語を使えて、道具を使える。つまり僕たち人間は動物倫理学的な主張に基づき、肉食を拒否すべきである。

そのような道筋に入り込まないためには、議論とは本質的に双方向で行われるものであることに留意し、議論の向きに留意し、個人的な視点から逸脱せず、議論の純度を保ったまま、議論を進めなければならない。つまり、「僕は肉食すべきか。」という問題は、どこまでも作者である僕の問題であり、読者であるあなたの問題ではない。あなたは僕の問題に何ら関わることはできない。ということになる。

だけど、このようにして純度を保つのはなかなか困難だ。そのように言われたら、きっと、読者であるあなたは、僕のそのような対応が面白くないだろうし、この文章を読み続けることすら止めたくなるかもしれない。

現に、ほとんどの哲学はそのような道には進まず、作者も読者も同列なものとして扱われ、読者は作者に置いていかれることなく議論は進んでいく。

だが、これこそが問題なのだ。「僕は肉食すべきか。」という極めて個人的な問題は、作者と読者を同列なものとして扱うような語り方では、その問題の本質を捉えることはできない。極めて個人的な問題を極めて個人的な問題のままに論ずるというのは不可能と言えるほどに難しいことなのだ。

7 権利という幻

だけど、厳格に作者と読者を切り分けたままでは、読者が面白くないだろうから、少しは柔軟に対応し、読者を大切にしたほうがいいかもしれない。(より重大なのは、僕は、作者としての私の時空的連続性も怪しいと思っていて、その意味では、私自身も一人称としての作者ではなく二人称的な読者性を含んでいると思っている。つまり厳密な一人称的な作者など、どこにもいないと考えていることになる。)

だから、多少譲歩して、作者と読者という区別ではなく、主体と客体という区別に置き換えてみよう。(永井均ならば、これは多少の譲歩どころではなく、決定的な問題の取り逃がしがあると言うだろう。)

そうすると、ここまで僕がしてきた話は、主体から客体へという議論の向きに意識的になるべきだ、という話になる。主体から客体へという議論の向きは一方通行であり、向きが逆転したり、その結果、両者の関係性が均されたりすることはありえない。世の中では、この議論の向きを軽視することによって様々な問題が生じているように僕には思える。哲学的な問題の多くは、主体と客体の同一視という問題に由来しているように思える。

その最たるものが、ここで取り上げている倫理の問題だろう。特に、権利や義務にまつわる問題は、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方向性に留意することで、かなり見通しがよくなるのではないだろうか。

結論から言えば、主体と客体を区別する視点に立つならば、権利とは、どこにも実体を見出すことができない幻のようなものだと僕は考えている。まずはこの僕のアイディアを、主体から客体へという議論の向きに言及せずに説明してみよう。

例えば、僕が道を歩いていたら、いきなりバッグをひったくられたとする。そのとき、僕のバッグの所有権はどこにあるのだろうか。僕は泥棒に向かって「返せ!」などと叫んで追いかけるかもしれない。そのとき、僕は所有権に基づき叫んでいるのだろうか。どうも僕にはそうは思えない。そのときの僕は、ただ夢中で泥棒を追いかけていて、権利のことなど念頭にはないはずだ。

権利が登場するのは例えば、警察で泥棒にバッグを盗られたと訴えるような場面だろう。交番でちょっと間の抜けた警察官に事情を説明したところ、どうしてそんな主張ができるの、と問われたら、きっとその警察官に向かって「僕には権利がある」と怒鳴るだろう。権利とは、あえて登場する必要がなければ登場せずに済むものだ。あえて言なくても僕はバッグの所有権があることを前提に泥棒を追いかけるし、泥棒も同じ前提を共有して逃げる。それが問題となるのは、間抜けな警察官が登場したときくらいである。その警察官ですらも一旦権利について理解したならば更に権利について問いただすことはない。権利が言葉として登場するのは権利が権利として機能していないときだけである。

それでも権利が幻だとするのは否定が強すぎると思われるかもしれない。権利というものは潜在的には存在すると描写することも可能だという反論はありうる。なぜなら人は潜在的に心のどこかで権利を意識しながら生きているとも言えるのだから。

だけど実際には、潜在的にでも僕たちが意識しているのは、権利よりも義務だと言ったほうがいいように思える。たいていの場合バッグを盗まれないのは、所有権があるからではなく、泥棒(になるかもしれない人)の側に盗らない義務があるからだと言ったほうが適切なように思える。

なお、そのように義務優位の理解をしてしまうのは、泥棒は作為的であり、泥棒をしないことは不作為的だからだという反論もありえるだろう。泥棒をしないというデフォルトの不作為の状態と義務とが結びつくから、義務のほうが権利よりも表面化しているということになる。

しかしこの反論に対しては再反論ができる。例えば、待ち合わせの約束を守るといった作為的な義務がある。待ち合わせの時間に渋谷のハチ公前に行くよりも、このまま家で寝ているほうがデフォルト状態だけど、だからといって、待ち合わせを守る義務と、守らせる権利とのどちらが基本かと言えば、義務だろう。待ち合わせを守らせる権利を主張する前に、そもそも待ち合わせを守らなければならないという直感がそこにはある。つまり、作為、不作為に関わらず、義務がまずあり、権利とは、義務から反射的・派生的に生じる幻のようなものなのだ。

8 主体と客体

以上の議論の流れは少々複雑だし、ちょっと危うい不確かなところがあるように感じられるだろう。だけど、さきほど述べたとおり、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性を重視することで、同じことをより明確に、より深く捉えることができる。やってみよう。

権利にせよ義務にせよ、主体の側にしか、それを帰することはできない。バックを盗まれた私であっても、約束の時間に合わせてベッドから起きようとしている私であっても、その私にだけ、権利や義務がある。泥棒やハチ公前で待っている友人には権利や義務はない。いや、人間なのだから泥棒や友人にも権利や義務はあると言いたくなるかもしれない。常識的にはそのとおりである。だけど、個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性を重視するならば、そのようなことは言えない。着目できるのはあくまで主体だけであり、泥棒や友人のような客体に対して何かを帰することなどできない。

非常識だと思うかもれないが、個人的な観点を徹底するならば、このような帰結となることは明確である。明らかに、客体としての誰かに権利や義務を帰することなどできず、ただ主体である私にしか権利や義務を帰することはできない。私以外の人間一般、つまり客体にまで幅広く権利や義務といったものを帰することができるように思えたのは、主客を混在化し、私を「私たち」に読み替え、人間一般の権利・義務のようなものを措定するという常識的な道を歩んでしまったからである。

常識的な道を外れることに抵抗があるかもしれない。だが、常識的な道をそのまま突き進んでも、待っているのは動物倫理学という茨の道だ。動物倫理学とは、何か大事なものを取り逃がしながら、その大事なものについて決して気づくことはできないという点で、倫理学の袋小路だと言ってもいいと僕は思う。

9 主体の権利

常識的な道から離れ、個人的な観点を徹底し、主体にしか義務や権利を帰することができないことを受け入れたとしよう。では、「権利を主体に帰する」とはどういうことだろうか。

「義務を主体に帰する」ならばよくわかる。主体としての僕には泥棒をしない義務や待ち合わせの約束を守る義務がある。それらの義務を意識的にでも無意識にでも胸に留め、僕はそのように生きている。主体である僕は言われなくとも様々な義務とともに生きている。

一方で、「権利を主体に帰する」とはどういうことか僕にはよくわからない。確かに常識的には僕にはバッグの所有権があるし、友人に約束を履行させる権利もあるだろう。だからといって僕は権利に基づき泥棒を追いかけ、約束に遅刻してきた友人を叱責しているのではないという実感がある。僕は日々の生活において、権利を使っていない。

これは自由という概念を介在させたほうが伝わりやすいかもしれない。

僕の義務は僕の自由を制限している。泥棒ではない人にむやみに追いかけないという義務に従うかどうか決定するにあたって、僕は自由ではない。僕に義務があるならば、その義務には従うべきだ。

一方で、僕の権利は僕の自由を制限しない。僕に泥棒をおいかける権利があるとしても、追いかけるかどうかは自由である。権利があっても追いかけないかもしれないし、より重要なことは、権利がなくても僕は追いかけるかもしれない。権利は僕の行動に何の影響も及ぼさない。

いや、権利や義務の有無を考慮して人間は生きている、という反論はあるかもしれない。権利がないのに人を追いかけたりしたら、警察に捕まってしまうかもしれない。そのようなリスクは考慮に値する。

だが、僕が言っていることはそういうことではない、あくまで僕は純粋に個人の視点に立っている。僕がここで想定しているのは、主体である僕が僕自身に対して課している義務であり、僕が僕自身に対して認めている権利のことである。人は自分自身に対して課した義務からは絶対に逃れることはできない。義務を履行しないことはできるが、その場合には罪悪感という罰が課される。一方で、自分自身に対して認めた権利は何らその人の行動に影響を及ぼさない。もし影響があるとしたら、それは、自分自身に対して認めた権利を超えたことをしてはいけない、という義務だからである。権利を自分自身に認めるということには何の意味もない。

以上のように考えるならば、義務と権利を同列に取り扱うことはできないことは明らかだろう。義務は主体に帰するものだが、権利はそのようにはなっていないのだ。

では権利はどこに登場するのかと言えば、客体の側である。主体である僕は約束を守るという義務を抱えているとき、その約束の相手である友人という客体に、権利という幻を見るのだ。僕がバッグを欲しがっているときでも同様だ。僕はむやみにバッグを盗らないという義務を抱えつつ、バッグを陳列している店や新品のバッグを持っている通行人に所有権という幻を見ている。重要なのは、僕はここで個人的な一方通行の議論をしているから、僕がその客体の側に立つことは不可能だということである。だからどこまでも主体である僕は権利を理解することはできない。

10 脱線1:主体の義務・言語の限界としての他者への配慮・自由

(この章は、書いてはみたものの、議論の流れとしては余計なものなので読み飛ばして結構です。)

主体である僕は権利を理解できない。だが、先ほど、泥棒をすべきでないというような義務については理解できるとした。ここでの義務とは他者への配慮と言い換えることもできるだろう。

 だけど、どこまでも主体的である僕に、義務、つまり他者への配慮の何を理解できるというのだろう。主体から客体に向かうベクトルの一方通行性を思い起こすならば、僕は客体つまり他者の側に立つことはできない。他者の側に立つことなく、他者についての何がわかるというのだろう。

 明らかに僕は、他者という、本来わかるはずがないものをなぜかわかってしまっている。これはつまり個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性に留意した議論にとどまることに失敗しているということである。僕は純粋であるべき議論のなかに、客体に原点性を認め、客体を原点として主体に向かう逆向きの議論を混入させてしまっている。だから他者への配慮や義務といったものに言及することが可能となってしまっている。これはつまり、先ほど、権利は幻だと述べたよりも更に根源的なレベルにおいて、義務についても本来言うことができないはずのことを言っているという問題が生じてしまっているということである。

 この問題は、明らかに、先ほどの妥協、つまり作者と読者という視点から、主体と客体という視点への移行が影響している。だから、この義務の成立の問題はかなり根源的であり、他者や言語といったものの成立と、ほぼその起源をともにしているものだと言えるだろう。「個人的な視点を徹底し、主体から客体へという議論の向きの一方通行性に留意した議論にとどまる」というスローガン自体が、他者も理解可能な言語で表されているし、個人と他者という二項対立を前提としたものである。それならば、そこから他者への配慮という意味合いでの義務が導入されるのは必然だとも言えるだろう。

 そして蛇足として付け加えるならば、このような最小限の描写としての義務から、自由という概念が生まれる。ここでの自由とは、他者への配慮という意味での義務に衝突しない範囲内で確保される選択肢のことである。

 僕の見立てでは、この地点こそが倫理学における言語の限界ではないかと考えている。この地点こそが、義務・自由・他者・言語といったものが一挙に立ち上がるようなビッグバンである。ビッグバン以前を語ろうとすると、言語で言語を語るという意味での困難が生じ、言葉が空回りしてくる。

 ただし、この文章で僕が強調したいのは、主体の権利と義務のうち、義務については言語の限界の瀬戸際での議論が必要だが、権利はそうではないということである。権利については、通常の議論の道具立てのなかで、個人の視点を純化して捉えることにより、それが幻であることを明確に解き明かすことができたと僕は考えている。(よって次章以降は、この章での議論は引き継がない。)

11 主張することの問題

 ここまでで明らかになったのは、個人的に一方通行的に捉えるならば、客体には権利も義務もないということ、そして、主体には義務はあるが権利はないということだ。まとめると、つまりは主体の義務しかないということだ。

 そこから客観的に双方向的に捉えていくことで、主体の義務から反射的・派生的に客体の権利が生じ、そこから類推するようにして、主体の権利や客体の義務といったものも生じることになる。

 では、一旦このようにして常識的な義務・権利システムが構築されてしまったら、ここまで僕が行ってきた議論は全く無意味なものとなってしまうのだろうか。ここまでの僕の議論を何らかのかたちで活かすことは全くできないのだろうか。

 僕はこの義務・権利システムにはもうひとつの突破口があると思っている。

 それは「権利を主張する」という言い方のおかしさである。

 さきほど確認したように、義務・権利システムの出発点は、主体の義務にある。つまり主体である僕が「(私自身の)義務を主張する」とは言える。そこから客観化し、双方向化する過程のなかで、僕は「(客体であるあなたの)権利を認める」とも言えるだろう。なぜなら義務から反射的に創造されるものとしての権利を認めるのだから。更には、主語が僕からあなたに譲り渡されることにより、あなたは「(あなた自身の)義務を主張する」と言えるようになるし、更には、あなたは「(あなた自身から見た客体としての私の)権利を認める」とも言えるようになるだろう。このように義務と権利は世界中の人に確かに拡大していく。

 だけど着目してほしいのは、この過程のなかで生じるのは、あくまで「義務を主張する」と「権利を認める」のペアだけだという点である。そこには「義務を認める」や「権利を主張する」はない。にもかかわらず(「義務を認める」はあまり使われないので無視すると)世間では「権利を主張する」という言葉が広く用いられている。そこに何らかの誤解があるのではないだろうか。

12 ルサンチマン・内省

ニーチェだったらこの誤解を、ルサンチマンと呼ぶのかもしれない。ニーチェ的に述べるならば、弱者は、あえて権利と義務を転倒し、本来できないはずの「権利を主張する」ことを可能とし、弱者ならではの武器を発明したということになる。

 強者であれば権利を主張する必要などない。腕力に自信があるならばバッグを盗られたなら追いかけて取り返せばいいし、部下が約束の時間に遅れたなら、ただそのことを咎めればいい。だけど弱者はそうはいかない。女性が男性の強盗に抵抗することは難しい場合が多いだろうし、上司が待ち合わせに遅れても、多くの部下は異議を唱えることはできない。腕力や人脈や権力という面での強者ならばなんでもないことでも、弱者は何ら対処できず、そんなとき、弱者はおとなしくしているしかない。

 だけど弱者であっても、権利を主張することでなんとかなる場合もある。盗難を警察に届け出たり、裁判を起こしたりして、法的に救済してもらう余地はある。きっと法制度というものが「権利を主張する」制度なのだろう。または法制度に頼ることができなくても、権利を主張することで、悪いのは相手であり、力が足りなかった自分ではないと自分を慰めることはできる。

 だから「権利を主張する」に至った経緯には、やむを得ない面もある。だが忘れてはならないのは、先ほどの考察を踏まえるならば「権利を主張する」ことは端的に誤りであり、あくまで方便であり、次善の策であり、必要悪でしかないということだ。

 では、どうすればいいというのか。僕が提案するのは内省だ。内省については最近書いているので詳細は省略するが、簡単に言うと、理想的には、強者も弱者も「権利を内省する」ことでルサンチマンを経ずとも強者と弱者の間に横たわる問題は解決すると僕は考えている。権利は主張するものではなく、内省するものなのだ。

(内省については、『オリンピック開会式をネタにしてウィリアムズの道徳について考えてみた』(http://dialogue.135.jp/2021/07/23/janaihou/)で書いています。)

13 肉食の倫理学的問題

ここまで、個人的な視点を徹底するため、議論というものが本質的に有する双方向性にあえて意識を向け、主体から客体へ向かうベクトルの向きに留意し、個人的な視点から逸脱せず、議論の純度を保ち議論を進めることにより、どのようなことが導かれるのかを見てきた。

その帰結は、倫理学的には、客体の権利・義務や主体の権利というものは導くことはできず、主体の義務しか導くことはできないというものであった。また、そこから義務・権利システムとしていくら拡張しても「権利を主張する」ことは導けないというものであった。更に、その対応としては、現実にはルサンチマン的に「権利を主張する」ことはやむを得ないけれど、理想的な対応としては「権利を内省する」べきだと僕は考えている。

 では、そのような知見を踏まえて冒頭の問いに戻りたい。さて僕は肉食すべきなのだろうか。

ここでまず留意すべきは、この問いは主体である僕だけの極めて個人的なものだという点である。つまりこれは、一義的には、主体である僕にとっての義務の問題である。そこではまだ義務・権利システムは立ち上がっていないから、反射的に生じるだろう客体の権利や、そこから更に派生するだろう主体の権利や客体の義務といったようなものは未だ存在しない。

この地点に立ち止まり、そこから先に進まないならば、この問いに対する答えは、僕は肉食をしてもよいし、しなくてもよい、というものになるだろう。なぜなら、そこにはそれ以上の議論の材料がないからだ。そこにあるのは好みや選好とでも呼ばれるような非哲学的な材料だけである。それならば好きにすればよい、ということになる。僕は僕自身の好みに応じて肉食したりしなかったりすることになる。

このままでは議論にすらならないのでもう一歩進み、義務・権利システムを立ち上げてみよう。そこは、僕の義務だけが佇んでいるようなさきほどまでの寂しい世界ではなく、義務や権利があふれる世界であり、それはつまり、生々しい他者が存在する世界でもある。だが注意しなければならないのは、そこにはまだニーチェ的なルサンチマンはなく、だから「権利を主張する」というような事態は生じることがないという点である。そこには確かに動物の権利はある。だけどそれは、あくまで主体である僕が動物を保護する義務があると考える限りにおける反射的な権利である。だから、その権利は主張されることはない。これはつまり、動物福祉的な捉え方のことである。この段階で僕は動物福祉的な考え方を手に入れることができたということになる。

更にもう一歩進むならば、僕はついにニーチェ的なルサンチマンを手に入れ、「権利を主張する」ことを覚える。これはつまり、完全に主体と客体を同一視し、自他を同一視するということである。ここで「僕は肉食すべきか」という極めてプライベートな当初の問いは「僕たち人間一般は肉食すべきか」という問いに変貌することになる。つまりここからは、自然科学的に基づく動物倫理学の道を進むことになる。このように、自然科学的な動物倫理学に進むプロセスとニーチェ的なルサンチマンにより「権利を主張する」こととなるプロセスが完全に同時並行で進行するのは偶然の一致ではない。動物の倫理学が、自然科学を武器にして、動物の権利を主張するものであることは必然なのだ。

なお、先ほど僕は、ルサンチマン的に「権利を主張する」よりも、もう少し上品に「権利を内省する」ほうが望ましいということを提案した。だけどそれでも、ここまでのプロセスは大きくは変わらない。ただ、動物の倫理学が、自然科学を武器にして、動物の権利を内省するものへと変貌するだけである。

僕が倫理学的に考察できるのはここまでである。このような知見を活かして、僕は肉食に対してどのように向き合うべきなのだろうか。更に考えてみよう。

14 肉食の実践的問題

 ここまでの整理で、倫理学的問題は、①完全に個人的な領域、②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域、③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域、という3つの領域に分けて扱うことができることが明らかになった。

 さて、実践的に僕は肉食についてどうすべきなのだろうか。

まず、①完全に個人的な領域においては、僕は僕の好み・選好・直感を重視するしかないと思う。僕の肉食の問題の出発点は、工場式畜産に対する嫌悪感だ。僕が『はじめての動物倫理学』を読んでつくづく感じたのは、第二次世界大戦以降主流となっている工場式畜産には特有の倫理的問題があり、大昔からの「生きるためには殺さなければいけない」論理は通用しなくなっているということである。確かに僕たちは、生きるために仕方なく、ではなく、ただ少しでも食費を安く上げるためだけに、不必要に劣悪な環境で動物を飼育するという倫理的な罪を犯している。僕はこの直感を大事にしたい。

ただし、僕はそれ以外にも色々な直感を持っている。僕は、美味しいご飯を食べて人生を楽しく生きるべきだと思っているし、動物だけでなく人間のことも大事にすべきだと思っている。それらとうまくすり合わせるべきという直感もある。

僕はこれらの直感に基づき、ToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。」と書き入れることにしよう。

次に「②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域」において重要なのは、どこまで、僕が先ほどの直感を丁寧にシステム化することができるかどうかであり、僕だけではなく、世の中の人々にも適用できるようなかたちで一般化できるかだと思う。

ここで役立つのはウィリアムズの近接性の議論(『メンタリストDaiGoの話』(http://dialogue.135.jp/2021/08/14/daigo/)で書いています。)だろう。例えば、友人との待ち合わせのために歩いていたら、溺れる子供を見つけたような場合、友人との約束の時間までに待ち合わせ場所に到着する義務よりも、子供を見殺しにしないという義務のほうを優先する。ウィリアムズによれば、これは対立する二つの義務のうち、より近接性の高い義務を優先したということである。

動物と人間とのいずれかを選んで助けなければならないとき、または、動物のなかでも、飼っているネコと見たこともない家畜とのいずれかを選んで助けなければならないとき、毛が生えて温かい哺乳類と昆虫とのいずれかを選ばなければいけないとき、僕はきっと、人間を、飼っているネコを、哺乳類を選ぶだろう。それは、ウィリアムズの言う通り、自分に近いかどうかという近接性に基づく判断があるように思える。この近接性という視点だけでどこまで完璧にシステム化できるかはわからないけれど、かなり有効な戦略であることは確かだと思う。僕はこの知見に基づき、ToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。自分に近いと僕が思う動物の肉はなるべく避けるようにする。(哺乳類よりは魚類、魚類よりは昆虫を食べるようにする。)」と書き加えることにしよう。

最後に「③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域」において重要なのは、やはり「権利を内省する」ことだろう。ここでの内省とは要は、他者とであれ自問自答であれ、権利についてしっかりと議論することだと言い換えてもいいだろう。(議論という言葉を使うならば、「内省する」とは議論であり、ルサンチマン的な意味で「主張する」ことも議論の一種であるという点で、内省と主張との間には大差はない。ただし、内省は受容的であるのに比べて、主張は攻撃的であるという意味で、その態度だけが決定的に違う。他者との共同作業がうまくいくのは当然、受容的なほうである。その意味では、議論よりも対話のほうが好ましい表現かもしれない。)

(議論というより)対話という視点から考えるならば、ここで考慮すべき他者とは、ともに対話を深め合うことができる人間だけである。動物とは対話ができないから、動物は他者ですらない。そうすると、ともに対話をする存在である人間は尊重すべきだが、ともに対話をできない動物のことは尊重しなくていいということになる。

だが本当にそうだろうか。他者との対話は言葉でしかできないものなのだろうか。言葉が通じない他者は殺しても構わないのだろうか。そのことを考えるために動物と対話を行おうととする場面を想像してみよう。僕個人の感覚で申し訳ないけれど、僕はそのとき動物の眼差しを思い出す。動物とは言葉は通じないけれど、動物とはその眼差しで対話することができる。そんな気がする。いや、それでは十分ではないだおう。では目がない動物ならばどうなのか、とった疑問が生じた場合のことも考えて更に踏み込んで述べるならば、動物とはその全存在をかけて対話することができる。僕はそう思う。

そこで僕はToDoリストに「工場式畜産により育てられた動物の肉はなるべく避けるようにする。自分に近いと僕が思う動物の肉はなるべく避けるようにする。(哺乳類よりは魚類、魚類よりは昆虫を食べるようにする。)心を通わせることができるように思える動物の肉はなるべく避けるようにする。」と書き加えることにしよう。このようにして出来上がったToDoリストが今回の考察の成果だ。

大事なのは「なるべく」という言葉だ。僕にとっては、家族や友人と円滑に社会生活を営んだり、美味しいご飯を食べたりすることも大事だ。そういうときは躊躇なく、楽しく肉を食べたいと思う。そういう考え方を、最近はフレキシタリアンとか、ゆるベジとかと呼ぶらしい。長々と書いた割にありがちな結論になってしまいました。すみません。

15 脱線2:環境倫理学・想像力

 (この章は脱線なので、読まなくて結構です。)

 「なるべく」という結論になってしまうのは、きっと、倫理的には、動物のことだけでなく、色々なことを考慮する必要があるからなのだろう。動物倫理学に近いものとして『はじめての動物倫理学』でも取り上げられているのが環境倫理学だ。動物も環境の一部ではあるけれど、人間に似た存在のである動物という視点ではなく、環境を環境そのものとして考慮しようとするのが環境倫理学だ。環境倫理学によれば、動物だけでなく生態系としての環境そのものも考慮しなければならない。

 僕の気力はもう限界で、環境倫理学の考察にまで手を出すことはできないが、僕がこの本を読む限り、田上の環境倫理学批判は成立しておらず、環境倫理学にはもう少し引き出せるものがありそうだと思う。

 環境倫理学に関わることとして、その手前の問題として書き残しておきたいのは、やはり、倫理とは想像力の問題なのだなあ、という実感である。

僕は①完全に個人的な領域、②義務権利システムは立ち上がっているけれども完全には自他が同一視されていない領域、③完全に自他が均され自然科学だけが正当性を持っている領域、という3つの領域を進むようにして議論を進めてきたけれど、最も重要なのは①完全に個人的な領域であり、その領域における限りでの個人的な選好や直感というべきものである。今回の話でいえば、工場式畜産に対する嫌悪感である。この嫌悪感が議論を駆動し、僕をここまで連れてきてくれた。

この嫌悪感は想像力の賜物だとも言えるだろう。僕は工場式畜産の悲惨な状況で飼育される動物のことを想像し、想像力により堅固なひとつの物語を作り上げた。この想像力を根源的な力として、倫理が駆動している。

今回、想像力は工場式畜産に対する嫌悪感を生んだけれど、きっと、想像力は、それとは全く別に、生態系の美しさ、完全さへの憧れのようなものを生むこともあるだろう。そうしたら僕は環境倫理学的な思考をするのかもしれない。なんとなく、環境倫理学に対しては、そんな可能性を感じる。想像力は色々なものを生み出す可能性を秘めている。

なお、僕の想像力は、そんなに上品なものばかりではない。例えば、僕は女性に対する征服欲のような想像力だって持っている。そんな想像力だって、非倫理的という意味での倫理を駆動する力を持っている。善いにせよ悪いにせよ生きる道筋を決めることが倫理なのだとしたら、そこで多種多様な想像力が重要な役割を果たしているのは間違いないと思う。僕は色々なことを想像し、色々な物語をつくりあげ、複数の物語に折り合いをつけ、それぞれの物語を「なるべく」尊重するようにして生きているのだろう。

メンタリストDaiGoの話

僕は時々、時事ネタを導入として自分の考察を述べることがある。時事ネタを使ってはいるけれど、それはあくまで「つかみ」に過ぎず、そこで行っている考察にはある程度の深みがあり、オリジナリティもあるという自負がある。だけどこの文章はそれほどの深みはなく、ただの時事ネタだ。

なぜそんな文章を書くのかというと、僕にとって文章を書くということは排泄行為でもあるからだ。思いついたことを書いて外に出さなければ次の思考が進まず、次の文章も書けない。だからこの文章は、書きたいことを書く準備のためにやむを得ず書くものである。

この文章を書いている2021年8月半ば、オリンピックも終わり、世間はメンタリストで有名なDaiGoの発言でちょっとした騒ぎになっている。僕はきちんとチェックしていないけれど、ホームレスの命よりネコの命のほうが大事だというような発言をしたそうだ。本当かどうかわからないけれど、北川景子と結婚したほうのDAIGOにも飛び火しているそうだ。混乱しないよう、仕方ないので問題を起こしたほうは正式にDaiGoと書くことにする。

DaiGoの問題に対する世間の評価は、ホームレス差別でとんでもないというものだ。だけど僕の見立てだとちょっと違う。その違和感を形にするために、この文章を書きたくなったのだ。

僕の理解だと、DaiGoは言うべき「真実」(念のためだけど、僕はこれを真実だと考えている訳ではないからカギカッコをつけている。)を言い損なったのだろう。彼がどこまで意識していたかどうかは別にして、僕ならば彼が言いたかったはずの「真実」を次のように言い表してみたい。

① 平等なんて嘘だ。すべての人は身近で自分が好む存在を大切にする。異国に住む全く見知らぬ人や嫌いな人よりも近くにいる家族や、好きな友人を大切にする。なお、その対象となる存在は人間に限らず、ネコなども含まれる。実際、人は遠くにいる人間や嫌いな人間よりも自分が飼っているネコのほうを大切にするではないか。

② 私(DaiGo)はホームレスのことが不潔で不快だから嫌いで、ネコのことは好きだ。

③ ①・②より、私(DaiGo)は自分から遠くて嫌いなホームレスより、身近で好きなネコのほうを大切にする。

このように書いてみると、この限りではDaiGoが言っていることはそれほどおかしくはないと思う。どちらかというと、このような意見に反論することのほうが問題となる場合が多いと思う。例えば、身近な家族や友人と、異国の名前も知らない人とを等しく取り扱うべきだという主張は極端すぎるだろう。もしその主張を貫徹するならば、アフリカのすべての難民の生活レベルが向上するまで、その人やその周囲の人は難民と同レベルの生活をすべきだということになる。もしそれができないならば、常に罪悪感を持ち続けるべきということになる。また、DaiGoという個人がホームレスのことを嫌いなのはおかしいという主張をする人が仮にいたとしたなら、その人は他人の好みに首を突っ込みすぎで、余計なおせっかいだと感じる人が多いだろう。丁寧に論じれば、もしかしたら、「真実」は真実ではないということになるかもしれないけれど、なかなか困難な道筋であることは確かだろう。そのような意味で、DaiGoが述べるべきだったことは、(カギカッコ付きの)「真実」だと僕は思う。

では、DaiGoがどこで間違えてしまったのかというと、①・②・③と分けるべき主張をごっちゃにして述べてしまったというところにあるのだろう。彼は、ホームレスが嫌いだということを自分の好みではなく、すべての人に共通の当然のことだと誤解してしまった。だが実は、すべての人共通なのは、嫌いなものより好きなものを尊重するという態度なのだ。彼はそこにある区別に気づかず、人は誰もが、ホームレスという嫌われ者よりもネコのほうを尊重すべきだ、と述べてしまったということになる。

そう考えると、世間から叩かれたDaiGoが反省し、ホームレスについて勉強しようと思い立ったことも筋が通っている。彼は自分の主張のうち、②にあたる部分が間違いだったと思っているのだろう。つまり、自分がホームレスを怠惰で不潔だと思っていたのは間違いかもしれない、ホームレスになった事情を勉強すれば、ホームレスのことを忌み嫌わなくなるかもしれない。彼はそのように思ったのだろう。

 だけど僕の見立てだと、そういう話ではない。きっと人は、無条件に何かを好きだったり、何かを嫌いだったりすることからは逃れられない。仏教ならば、そのような愚かさから少しでも抜け出せるように学ぶべきであり、そのような執着から抜け出すことこそが人生の意義だと言うのだろう。だけどそれはちょっと次元が違う話で、この文章が取り扱っているような日常レベルでは、人は当然に好悪とともに生きている。

頭がいいキャラで売っているDaiGoには申し訳ないけれど、残念ながら、彼が抱えていた問題は、心がけや性格に起因するものではなく、単に論理的な問題であり、彼がきちんと思考できなかったために生じた問題なのだ。

詳しくは知らないけれど、今回の発言は、DaiGoがYou Tubeか何かで彼のファンと応答するなかで出たもののようだ。DaiGo個人の問題というよりも、きっと、誰かが誰かに一方的に知を与えるような場のあり方が、きちんと思考をすることに適していないのだろう。

最後に、彼が言うはずだった「真実」のうち1つ目を再掲しておきたい。

① 平等なんて嘘だ。すべての人は身近で自分が好む存在を大切にする。異国に住む全く見知らぬ人や嫌いな人よりも近くにいる家族や、好きな友人を大切にする。なお、その対象となる存在は人間に限らず、ネコなども含まれる。実際、人は遠くにいる人間や嫌いな人間よりも自分が飼っているネコのほうを大切にするではないか。

これは、バーナード・ウィリアムズが「近接性」(『生き方について哲学は何が言えるか』pp.360-361)と呼んだものの僕なりの言い換えだ。遠くにいるホームレスの人が骨折して苦しんでいるのと、自分が飼っているネコが骨折しているのを同時に知ったなら、一定割合の人はきっと、ホームレスの人より飼っているネコのほうに駆けつけるだろう。それがネコではなくて自分の子供だったら100%の確率で子供を選ぶだろう。この「近接性」の議論はかなり説得力のあるものであり、DaiGoが述べるべき「真実」はこれだったのだろう。

だけど、僕はこの「真実」では満足できないから、その先を考えている。だけど、これ以上の「真実」はなかなか見つからない。その意味で、あくまでこれはカギカッコ付きの真実なのだ。

つまらない真理

僕がここに色々と書き連ねている動機の少なくともひとつは「未だ知られていない真理を記述したい」というものだ。

だけど、その真理は、新しくはあっても、つまらないものかもしれない。例えば、初めて「空気を吸うことが身体の維持に重要だ」ということを発見するような場合を想像してみたらいいだろう。そんなことをあえて言われなくても、全員が既に空気を吸い、身体を維持し、生きている。言葉としては知らなくても、皆がそのように実践している。つまり、このような知識は実生活には何の役にも立たない。新しくはあってもつまらない真理というものは確かにありうる。

そんな真理をあえて記述することに何の意味があるのだろうか。僕が一生を賭け、幸運にも真理を手に入れ、その真理を自慢げに書き残したならば、きっととても滑稽に見えるだろう。僕は、皆が既に知っている当たり前なことを得意げに大声で叫んで回る子供のようだろう。

確かにそうだ。僕も世の中がひっくり返るような真理を発見したいと願っている。初めて文字を発明した人や、初めて貨幣を発明した人のことを僕は知らないけれど、そういう人に僕は憧れる。僕は、この人が存在する前と後では世界が変わったと言われるような存在になりたい。せっかくなら、ADやBCといった記号付きで僕の存在を刻みつけたい。

一方で僕は全く何の役にも立たない真理を発見することにも憧れる。本当のすごいのはそういうものかもしれない。誰もが既に知っていたはずなのに、誰も言語化できていなかったことを捉えて表現する。言語化したからと言って、何の役にも立たないし、ほとんどの人にはその凄さもわからない。哲学の世界ではそういう知識(まだ真理とまでは呼べないにせよ。)がゴロゴロしている。例えば、永井均の〈私〉などはその典型例だろう。

(僕は正直、自分の哲学にだけ興味があって、学術的な意味での哲学という分野には興味がない。だけど哲学という分野にはこういう無駄だけど凄い知識がたくさんあるという点では素晴らしいと思う。)

 僕は矛盾している。僕は、生活者としては哲学的すぎるし、哲学者としては生活的すぎる。実生活なんてどうでもいいと思いつつ、実生活への意義というものにも強いこだわりがある。どうもそのあたりが、僕が大成しない理由なのかもしれないなあ。

ローカル・サイクル

山口尚の『日本哲学の最前線』を読んだ。山口は最近の日本哲学(J哲学)の潮流を不自由論という切り口で鮮やかにまとめ上げている。僕の理解では、ここでの不自由論とは、常識的な意味での自由に不自由をぶつけ、自由と不自由とをかき乱し、その撹乱の中に、より深い自由を見出そうとする議論だと言ってもいいと思う。

その撹乱のやり方は、この本に登場する6人の哲学者によって、それぞれ違う。また、撹乱自体に注力するか、それとも撹乱を手段としてその先に何を見出そうとするか、といったウェイトの置き方も違う。(多分、千葉と苫野がそれぞれの両極にいる。)だが、大ざっぱに捉えるとそのような潮流にあると言われると、確かにそんな気もしてくる。

この話と、僕が考えていることをつなげてみたい。

僕がやっていることも、この流れに位置づけられそうに思える。

僕が重視するのはある種の動性だ。自由と不自由という両極を捉えて論じるためには、その両極を媒介するようななんらかの動きが必要となるはずだ。

動性を拒否し、自由と不自由という両極を静的に論ずるためには、その両極を一挙に捉える視点が必要となる。もしそれが成功したとすると、ひとつの視点のなかに自由と不自由が含まれてしまうから、そこでの自由と不自由は両極性を失ったものとなってしまう。以上のように考えるならば、自由と不自由の両極性と静的な議論とは両立しないと言えるだろう。

僕は動性を議論に導入することによって、自由と不自由とを撹乱しようとしているとも言えるだろう。

僕から見ると、この本で紹介されている6人の哲学者も似たようなことをしているように思える。國分にとっての中動態とは静的なものではなく、そこに巻き込まれてしまうようなものであり、そこに動性がある。青山は自由の肯定と否定を一挙に成し遂げることにより、ゆらぎとでも言うべき動性を浮かび上がらせる。千葉の偶然性に動性が含まれているのは言わずもがなだろう。伊藤と古田と苫野はこの本でしか知らないから怪しいけれど、伊藤は身体をうごかしていると言えるだろうし、古田は言葉が動くのを待っているように思える。苫野の議論にも弁証法という動きがある。

僕が重視する動性を僕なりの言葉で表現すると、対話や呼吸といった言葉で表現することもできる。対話という双方向の動きとして、私(一人称)とあなた(二人称)とが接続する。呼吸という双方向の動きとして、私の身体と世界とが接続する。そんなイメージだ。

なぜ僕が対話や呼吸という言葉を使うのかというと、対話なら私とあなた、呼吸なら身体と世界という二つの対となるものを導入することができるからだ。

僕の実感として、ひとつだけの道具立てで豊かにものごとを描写することは難しい。僕は独我論者的だけど、完全な独我論、つまり「我」だけでものごとをうまく説明することはなかなかの困難だ。だけど、私とあなた、私と世界といった二元論を出発点に置くことが許されるならば、かなり容易にいろいろなものごとをうまく説明できるようになる。常識的な二元論を立ち上げることができるという点で対話や呼吸といった動性は使い勝手がよい、と言ってもいいだろう。

対話や呼吸といった動的な仕組みを使って、私とあなた、身体と世界といった複数のものごと(または地点)をまとめあげるという点を強調するならば、僕がやっていることはシステム的だと言ってもいいだろう。システムだと静的ならば動的なサイクルと言ったほうがいいかもしれない。対話ならば、私からあなたに向かうフェイズとあなたから私に向かうフェイズという2つのフェイズを含むサイクルがある。呼吸ならば私から世界に向かう(呼気という)フェイズと世界から私に向かう(吸気という)サイクルがある。そういったサイクルが何度も繰り返される。

何度もサイクルが繰り返されることで、そのサイクルの居場所としての場のようなものが成立するだろう。それこそが人間と呼ばれるものだったり、日常や実践と呼ばれるものだったりするのだと思う。そこにある現実の厚みのようなものこそが、このサイクルの場なのではないだろうか。

このような場が成立することにより、場の外側にあるものも浮き彫りになってくる。サイクルが届かないところに、人間でも日常でも実践でもないものがあることが明らかになる。きっとそれは神や(純粋な)理性や論理と言われるものだろう。なお僕はそこに言語を加えることもできると思っている。更には(ちょっと問題含みだけど)、永井的な(究極的な)私や実存といったものも加えられると思っている。

比喩的に描写するならば、神や理性を象徴するものとしての天と、(究極的な)私や実存を象徴するものとしての地の間に人間の日常の実践の領域があるという感じとなる。いわば、これは天と地の間にある僅かな人間との土地で行われているローカルな営みである。そして、先ほど述べたとおり、この人間の日常の実践とは、動的なサイクルである。そのような意味で、僕はこれをローカル・サイクルと名付ける。僕が重視する動性とは、天と地の間でささやかに行われているローカル・サイクルのことなのだ。

なぜ、ローカル・サイクルという名前にしたかというと、この本の第4章で伊藤の哲学について説明する際に、ローカル・ルールという言葉が登場したからだ。僕はこの言葉が気に入って、そこに動性を意味するサイクルという言葉を入れ込み、ローカル・サイクルとした。伊藤のローカル・ルールとは、僕のローカル・サイクルについての(ちょっと静的な)描写のことだと思う。

伊藤だけでなく、この本に登場する哲学者たちは、皆、このローカル・サイクル的な議論を繰り広げていると思う。そのように言える根拠は、彼らが皆、内側の視点からの議論を繰り広げているという点にある。彼らは、神や実存といった振り切った特別な視点を所与の出発点として議論を始めるようなことはせず、人間の日常の実践を踏まえて議論を丁寧に進めているように見える。それがローカルだということである。当然、ただ日常の実践に留まっていては話が深まらないから、形而上的な領域まで議論を動かしている。そのときに使っているのが何らかの動性だ。その動性は一度限りのものではなく、サイクルとして繰り返されることで、議論が力を持ち、形而上学的な領域にまで議論を進めることができる。だから彼らの議論はローカル・サイクル的だということになる。

だけど、そのようなやり方は、この本に登場している世代の哲学者の専売特許ではないだろう。その上の世代に位置づけられる、僕が好きな永井均や入不二基義もそのようなことをやっている。永井の議論の妙は、私の独在性という極を、あくまで内側の視点からの「ひたりつく」ような議論によりあぶり出しているという点にあり、その際に用いているのは〈私〉と《私》といったサイクルを回すという動性だとも言える。入不二の場合はもっと明確で、『現実性の問題』において円環モデルという、いわばローカル・サイクルそのものを描き出している。実は、僕がローカル・サイクルと呼ぶときに常にイメージしているのは、この入不二の円環モデルである。入不二はこの円環モデルにより、形而上学的な思索を深め、ついには神と実存を内側の視点から捉えることに成功している。つまり僕の評価だと、最も成功し最も大きなサイクルを描くことに成功しているローカル・サイクルとは、入不二の円環モデルである。ローカル・サイクルの起源は少なくとも永井と入不二に遡る。

なお、入不二や永井の議論は、外側の視点から客観的に神や実存を捉えているのではなく、あくまで内側の視点で捉えているという点が重要である。その重要さを強調するために、僕は「ローカル」サイクルと名付けていると言ってもいいだろう。決してローカルという言葉により何らかの限定や限界を強調している訳ではない。

そのように考えるならば、この本に取り上げられているような、永井や入不二の次の世代に位置する哲学者たちは、先人たちが発見し、すでに手元にあるローカル・サイクルを使って何ができるかを考えていると言ってもいいだろう。永井や入不二がローカル・サイクルの限界・地平を明らかにしたことを受け、そこから具体的に何が帰結するのかを考えていると言ってもいい。

山口の見立てでは、この本に登場する哲学者たちがやっていることは不自由論であるということが、僕の見立ての正しさを示唆していると思う。

不自由論に対比するならば、永井や入不二がやっていることは、不実存論であり不現実論だと言ってもいいだろう。または「不」論だと言ってもいいかもしれない。これらは、いわば形而上学の極北に位置づけられるような議論だと言えると思う。

それに比べて不自由論というのは、もう少し人間の日常の実践に寄ったところに位置づけられそうだ。きっと形而上学と倫理学が重なるあたりに自由は漂っているのだろう。そのようなものと格闘する思索はより倫理学的で実践的だと言ってはずだ。対比するならば、永井や入不二がローカル・サイクルのギリギリを攻め、ローカル・サイクルと格闘しているとするならば、この本の哲学者たちはローカル・サイクルに乗っかり、ローカル・サイクルの力をどれだけ引き出せるのかを試していると言ってもいいと思う。

当然、この本に登場する哲学者たちに形而上学的な思索が足りない訳ではない。その思索の方向づけにちょっとした違いがあると感じるのだ。

僕は彼らよりちょっと年配だからか、僕の好みは永井や入不二のほうにある。正直、この本に登場する哲学者たちの議論がちょっと物足りない。なんというかぶっ飛びきれていないのだ。だけど、そういうことではないのかもしれない。例えば、この本を読む限り、伊藤の魅力は、ぶっ飛んでいないというところにこそあるように思う。このあたりはちょっとわからないから、ぶっ飛んでない哲学の魅力を確かめてみたいから、まずは伊藤亜沙の『手の倫理』をポチってみようと思う。