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チーズその3 ごめんなさい

※22000字近くあります。僕にとっては結構大事な文章ですが、僕が先日、亡くなってしまったネコのことを書いて吐き出しているだけの文章とも言えます。

1 チーズが亡くなるまでの経緯

チーズといううちのネコのことを書くのは3回めだ。そしてようやく最終回になると思う。なぜなら、チーズは、亡くなってしまったからだ。僕は、僕のなかに何か強い感情があるとき、それを文字にして吐き出すと少し落ち着く。だから僕はこの文章を書いている。

そのような目的で書く文章だから、あえて前に書いたことを読み返さずに書く。だから、同じことを書いてしまっているかもしれない。けれど、同じことを二回も思いつくなんて、それはそれでいいじゃないか。

1回め http://dialogue.135.jp/2022/05/21/cheese/

2回め http://dialogue.135.jp/2022/05/30/junkan/

チーズは5歳半で亡くなった。前には6歳と書いたはずだけど、家族で確認したら5歳半だった。なんでそんな勘違いをしていたんだろう。少しでも長生きしたことにしたいから、あえて考えないようにしていたのかもしれない。やっぱり早すぎる。

まず、簡単にチーズが亡くなるまでの経緯を記録しておく。

2022年5月16日、なんだか調子がイマイチに見えたので、念のため病院につれていったところ、原因不明(あとで考えると多分、心筋症によるもの)で暴れて吐いて、誤嚥性肺炎になった。

だんだんひどくなり、20日から23日までは入院した。一時は死んでしまうかと思ったけれど、退院できて、最初は強制給餌だったけれど徐々にご飯を食べるようになり、27日くらいからは結構よくなってきて、そこから1週間強、ちょっと活動量は低いけど以前と変わらないチーズ、くらいになって、色々とかわいい姿を見せてくれた。

ただ6月7日くらいから、なんとなく食欲が落ちてきて、機嫌はよさそうだったけれど、10日からは息がだんだん息が荒くなってきた。。もともと、14日(火)には病院に行く予定があったのだけど、それまでに胸水を抜いておけばいいのかな、と思い病院に連れていくことにした。そして、日曜日でもやっている病院をみつけ、12日(日)の夕方、僕のベッドの横で息は荒いけれどのんびり僕を見ているチーズを不意打ちで捕まえ、ケージに押し込めて午後5時45分頃に家を出て病院に連れていった。

診察の結果、胸水はなく、多分拘束型心筋症由来の肺水腫、心筋症はかなり悪いとわかった。利尿剤の連続点滴が至急必要なので24時間治療ができる病院に連れていくべきということになった。

移動するタクシーの途中で、口を開けて息をするようになり、目を見開き、吐きそうな動作をして奇声をあげた。15分くらいで病院に到着した頃には意識も朦朧で、そこから治療が始まった。それが18時45分くらい。

その病院では、利尿剤の効きが悪く、今夜を乗り切れるかはわからないと言われた。五分五分とは言われなかったが、それに近いニュアンス。2時間くらい病院にいたあと、家に帰り、午後9時頃、遅い夕食を食べた。

そして明日は仕事前に病院に面会に行こうと思ってベッドに入ってウトウトした頃、12時少し前、病院から電話があり、娘と一緒に病院に駆けつけた。それが2022年6月13日0時15分頃。だが残念ながら到着の直前、チーズは息をひきとったとのことだった。死亡時刻は0時15分とのこと。まだ温かくて、鼻や口からは液体が出ていた。聞くと、数時間は小康状態だったけれど、23時半くらいから息が荒くなり、そして亡くなったとのことだった。

僕はずっとチーズが亡くなるとき、苦しまないといいなあ、と願っていた。心筋症による肺水腫というのは水に溺れるような苦しさがあるらしい。そのような苦しみがなければいいと願っていた。チーズの場合は、少なくとも午後5時45分までは普通にしていたし、本当に苦しかったのは、多分午後6時45分から午前0時15分までの5時間半くらいだろう。とても苦しくて、とても頑張ったと思うけれど、それほど長く苦しまなかったのはよかったなあ、とも思う。

だけど、あっという間だった。直前まで、あんなに元気そうだったのに。日曜日の昼、僕と妻と娘は、ベランダでゴロゴロしたり、洗濯物にケリケリしたりしているチーズを見て、こんなかわいいチーズをもう少し見ていたいなあ、と思っていた。だけど、そのとき、皆、言葉には出さなかったけれど、今というのは、とてもかけがえのない時間だということはよくわかってはいた。

チーズはかわいくて、やさしくて、ひかえめで、かしこいネコだ。The RoostersのGirl Friendの歌詞のような女の子だ。きっとこれから、チーズを思い出すとき、BGMでこの曲が流れるのではないだろうか。歌詞と違うのは、結構、美人ネコだということくらいだ。

シルクのドレスがよく似合う あの娘がおいらのガール・フレンド そんなに美人じゃないけど とってもかわいく笑ってみせる ~ あの娘がおいらのガール・フレンド そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる ~ もしもあの娘が去ったなら おいら一日 泣き暮らす ~ G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L GIRL FRIEND G.I.R.L Oh GIRL FRIEND

あと、もうひとつ歌とは違うのは、チーズは僕のガールフレンドというより、妻のガールフレンドだという点だ。いつも妻のベッドで一緒に寝ていた。いつも妻に話しかけていた。(もう一匹、僕になついてるボーイフレンドがいるから、夫婦間の猫バランスはとれてました。)

妻はちょうどチーズを病院に連れていく直前、19日日曜日の午後4時頃、二泊三日の出張に出てしまい、チーズの最期に立ち会うことができなかった。僕が一連の判断と行動に関わるなかで、妻とチーズの関係を失わせてしまったのは心苦しい。

2 具体的な後悔

僕は、12日日曜日に病院に連れていくという判断をしたこと自体は間違いではなかったと思っている。病院に連れていくと思い至ることができた自分を褒めたいという思いもある。日曜日に開いている病院を探し、良い先生に出会い、適切な治療を試みることができた。チーズにやるべきことをやってあげられたという自負がある。

だけど、一方で、もし、この日、病院に連れていかなければ、あと数日、いや数時間は普段どおりのチーズでいられたかもしれない、という後悔がある。

病院の先生からは、このまま治療しなければ夜を越せないと言われはした。だけど、チーズは通院のストレスで容態が悪化する繊細なネコなので、通院さえしなければ、もう少しの間は大丈夫だったのではないか、とも思う。

そう思うと、どこかで妻に対して心苦しいし、妻と会えないまま別れることになってしまったチーズに対しても心苦しい。

僕は今回、本当に色々と後悔している。病院に連れて行かずに家でそっとしておけばよかったとか、いや、もっと早く病院に連れていけばよかったとか、色んな思いが交錯している。自分でも矛盾しているとわかっているし、そのときにはそうするしかなかったという慰めの言葉のほうが理屈があるというのもよくわかっている。だけどどうしても後悔してしまう。

昨年の10月、チーズの調子がおかしいと思ったとき、もっと検査をしておけばよかった。そうしたら、心筋症が早く見つかっていたかもしれない。

そこでは無理でも、4月になり、てんかんのような症状が出る頻度が多くなり、少し食欲が落ちているかな、と思ったとき、病院に連れていけばよかった。

一旦治療して落ち着いたあと、6月7日頃からまた食欲が落ちてきたとき、または6月10日、呼吸数が多くなっていると気づいたとき、病院に連れていけばよかった。

そして、6月12日は、病院に連れていかなければよかった。または、入院のためタクシーで移動するとき、そのままケージに入れずに洗濯ネットに入れてあげたら少しは落ち着けたかもしれない。調子が少し悪くなったあのとき、もう少しケージを開けてなでてあげたら、ストレスが軽減したかもしれない。

最後にチーズを抱いたのが、嫌がるチーズを病院に連れていくときだったというのもとても悲しい。僕のことを疑わずに僕のベッドに座って僕を眺めていたチーズを、不意打ちのように抱えて、ケージに詰め込んだのだ。最後のチーズとの関わり合いが、チーズの信頼を失い、チーズを苦しめるものだったというのは悲しいことだ。あれが最後になるとは思いもしなかった。(正確には、病院で治療中に動かないように少し抱いたりもした。)

加えて、僕の行動だけでなく、僕の心のあり方に対しても後悔している。

実のところ、5月下旬から6月上旬にかけて、チーズが低空飛行で頑張っていたときも、それを全力で応援することができなかった。僕はチーズの面倒をみることに少し倦んでいた。そしてそのような気持ちを言葉にしてしまったこともある。

具体的には、急変する直前、妻とチーズの面倒をみることの負担感について話し、それをチーズに聞かれていたことが、僕は心苦しい。あれが最後の日のことでなければよかったのに。あと一日、僕が言葉にしなかったら、僕はずっと、それを言葉にせずに済んだのに。

そして、以上のような諸々のことは、すべてチーズは赦してくれそうな気がする。だけどその赦し自体が僕の後悔を増幅する。

もし、病院に連れていかなければ、チーズは自宅で、もう少し長生きして、直前までそこそこ機嫌よく過ごし、そして突然、苦しまずに死ぬことができたかもしれない。だけど、もし、病院に連れて行かなければ、チーズの苦しみとは別に、どうして病院に連れて行って最善の治療を施さなかったのだろう、と僕はもっと後悔していただろう。

自分のことだけを考えたなら、僕の自己満足としては、やはり病院に連れて行ってよかったのだ。チーズは、そこまでわかっていて、あえて、僕のために連れ回されてくれたのではないか。少なくとも、僕は結果的に、チーズに助けられた。僕は最初からチーズに赦されていた。チーズのおかげで、僕は、やるべきことはやったと思うことができた。僕はチーズの手のひらの上で踊っていただけなのだ。

だけど、本当なら、僕は飼い主なのだから、その先をいって、チーズのことをもっとわかっておいてあげるべきだった。本当は、僕がチーズを助けるべきなのに、僕は、チーズが亡くなる最後の数時間まで、チーズに助けられてしまった。僕のなかにはそんな後悔もある。

後悔は色々あるけれど、やはり一番の心残りは通院のタイミングの判断だろう。チーズはもともと病院に行くこと自体が非常にストレスになるネコで、予防接種などで病院に行ったあとは、たいてい物陰に隠れていた。だから通院の判断はとても難しくて毎回悩んだ。

そして残念ながら、事実として、一連の通院の判断はほとんど裏目に出てしまった。

僕は少しでもチーズに長生きしてほしいと願って、いくつかの重要な選択をしたけれど、そのうちの多くは、結果的にチーズの寿命を短くしてしまい、そしてチーズに苦しみを与えてしまったような気がする。

3 パターナリズム的性向 

僕は思う。僕はチーズの飼い主として何点だったのだろうか、と。いくつかの選択に失敗しているのだから100点ではないだろう。だとしても70点くらいだったらいいなあ、とも思う。僕は後悔もあるけれど、そこそこ頑張ったという自負もある。僕は失敗もしたし、チーズを傷つけるようなことも言ったけれど、なかなか良い選択もしたし、チーズに優しくすることもできたではないか。そう自分を誇りたいとも思う。僕のなかには、後悔と自負が渦巻いている。

そう思えるほどには、僕はやるべきことをやった。チーズを病院に連れていき、容態が急変していく数時間、僕は意外と冷静だった。最善の選択は何か、チーズとここにいない妻のために何をすべきか、を常に考えていた。午後9時頃、病院から一旦帰宅するため、苦しむチーズとお別れをするときにも涙は出なかった。多分また会えると思っていたのもあるけれど、僕の涙は妻にもチーズにも役に立たないときちんと計算をしていたから、そういうことは差し控えたのだ。僕は自分の感情を殺して、やるべきことをやった。

だから、亡くなったチーズを連れて帰り、発泡スチロールに入れ、コンビニで氷を買ってきて、火葬の手配をした後も、最後のやるべきことをしている。

保冷剤の入れ替えという最後の作業である。14日の夜、出張から帰ってくる妻に少しでもきれいなチーズを見せてあげて、そして15日に火葬をするまで、チーズをきれいにしておく。妻とチーズの関係を少しでもよいものにするために支援をする。

チーズの魂はここにはないような気がするし、妻もそう言っていた。けれど、チーズの存在が何かを妻に伝えるだろう。そして妻が何かをチーズに伝えるだろう。そんな媒介としてのチーズの肉体を維持して妻に届けるための作業であり、そのような意味で、妻とチーズの関係に対して、僕ができる最後の貢献である。

僕は、何にせよ「やるべき」という義務ばかりを考えている。ベストのタイミングで病院に連れていく「べき」とか、妻にきれいなチーズをみせてあげる「べき」とか。

僕の態度は、極めてパターナリズム的だと思う。保護者的で、先回りして自分勝手にものごとを決めてばかりいる。チーズや妻が実際にどう思っているなんて考えず、僕は僕自身が「やるべき」と思うことばかりをしている。

特に、チーズのようなしゃべれない相手に対しては、僕のパターナリズムは暴走する。相手が人間なら、そんなことは求めてないよ、と否定してもらえるけれど、チーズはそんなことはしてくれない。だから僕は、僕の考えに基づき、チーズならばそう望むはずだと僕が考えることばかりを「やるべき」だと強く思ってしまう。

僕のパターナリズムの暴走は、僕自身の「やりたい」をも圧殺してしまう。「やるべき」の前では、すべての「やりたい」は甘えとなってしまう。僕の心が望んでいること、例えば、チーズの世話に疲れたから気分転換したいとか、チーズはこのくらいで赦してくれると思いたいとか、そういう僕の「やりたい」は、チーズのために最善を尽くしていないという点で甘えなのである。

チーズに対して僕のパターナリズム的な性向が強く出てしまうのはなぜかというと、僕はチーズのことを僕の所有物だと思っているからなのだろう。(妻の所有物でもあるというのはともかくとして。)

チーズは僕の所有物だから、僕に管理責任があり、僕には最善の管理をする義務がある。逆に、所有物なのだから好き勝手に処分する権利がある、と開き直ることもできるはずだけど、僕はどうしてもそうは思えず、所有者としての義務にばかり目がいってしまう。

思えば、僕は、チーズに限らず、ぬいぐるみや洋服や家電製品を捨てるのも苦手だ。僕という所有者だけが彼らを幸せにすることができるはずなのに、その彼らを捨てるのはよくないことだと思ってしまう。また、最近は、肉食もなるべく避けたいと思っている。これも僕の皿の上にある生命に対して僕は最善を尽くす義務を果たしていない、と思っているということなのだろう。一応、ゴミはきちんと捨てるし、普通に焼肉も食べるので、実生活と折り合いはつけている。けれど、僕にはそういうところがある。

それに比べれば、(子供を除く)人間は気楽だ。人間は自立していて、その人がその人自身に対して全責任を負っている。究極的には、僕は彼らに義務を負わない。(せいぜい、彼らに危害を加えない、という消極的な義務を負うのみである。)だから、ウクライナの人が死んでも、親が病気になっても、それは一義的には彼ら自身の問題であり、僕の問題ではない。だから僕は、チーズのことほどに苦しむことはない。

当然、そこには優しさや思いやりという別の問題がある。僕は彼らに共感し、彼らに優しくしたいと思い、そこから、やさしくする「べき」という、義務に近い感情も生まれる。だが、チーズに対して感じる義務感とは全く種類が違うものである。

チーズは自分自身では通院できないから、僕だけが病院に連れていくかどうかを判断しなければならない。だけど、人間なら、手助けはしても、最終的にはその人自身の判断である。

人間は、人間だけが理解できる精緻な人間社会をつくりあげ、そこに病院やら薬やらタクシーやらといった様々な「もの」やサービスもつくりあげた。人間ならば、そのような人間社会で好きに過ごせばいい。だがチーズやぬいぐるみや洋服や家電製品といった人間以外の存在は、人間社会における「もの」やサービスに直接アクセスすることができないから、人間が代わりに仲介してあげなければならない。そして、そのような人間社会にチーズたちを招き入れたのは僕であり、代わってあげられるのは僕だけなのである。僕は、チーズに対して、そのような、切迫した責任感がある。

もし、苦しむのが僕自身だったら、苦しむのは嫌だけれど、きっと後悔することはないだろう。また、苦しむのが僕ではない独立した存在、つまり人間であっても、きっとこれほど後悔することはないだろう。だが、僕自身ではなく、僕から完全に独立もしていない、僕が所有するチーズという存在だからこそ、僕はこのように後悔してしまうのだ。

4 具体的な内容がない「ごめんなさい」

だから僕は、自宅にチーズの亡骸を連れて帰り、妻のベッドの上に置いた後、チーズに「ごめんなさい」と言った。

実のところは、そのような言葉は発したくなかったし、発するとも思っていなかった。だけど、ふと、僕は「ごめんなさい」と言ってしまったのだ。あとから、なぜそのような言葉が出てしまったのかと考えると、ここまで書いてきたようなことがあったからなのだろう、ということになる。

僕には先ほど書いたような個別具体的な様々な後悔がある。特に通院の要否の判断は後悔ばかりだ。だけど、もし、すべての判断がうまくいっていたとしても、結局いつかチーズが亡くなってしまったなら、そのとき、きっと僕は「ごめんなさい」と言っていたはずだ。なぜなら、僕はチーズに対して原初的な所有者責任があるからである。

先ほど述べたように、チーズは人間社会の仕組みを人間ほどに理解することはできないから、僕がチーズの代わりに考えてあげなければならない。だが、それはチーズが何も望んでいないということではない。チーズには何らかの望みがあるはずであり、もし、チーズが人間社会の仕組みを理解していたら、きっとこうしたかっただろう、という望みがあるはずである。僕は、その望みを知りえないままに自分なりに答えを出すしかない。だから僕は、チーズのためにすることは常に、多かれ少なかれ間違いなのである。

だから僕は、チーズの所有者として、常にチーズに「ごめんなさい」と言うしかない。それは、僕がそのような責任を負うと決めたからには逃れることができない「ごめんなさい」である。

なお、チーズの望みの知り得なさは、チーズが人間社会を理解していないことだけではなく、チーズと言葉でのコミュニケーションができない、ということにも由来するだろう。チーズはよくしゃべるネコだけど、僕にはチーズの考えを言葉で理解することはできない。だから僕は、チーズの望みも理解できない。

だが、もしチーズの言葉を理解することができたとしても、チーズは人間社会の仕組みを知らないネコだから、チーズの言葉に従えばいいとはならない。きっと、チーズが喋れたら、日曜日の午後、病院には行きたくない、と駄々をこねただろう。だけど、僕はチーズと違って、病院は嫌なことをするところではなく、治療をするところだと知っているから、無理やり病院に連れていくだろう。だから、チーズと言葉が通じたとしても、通じなかったとしても、結局、チーズは死に、僕は、チーズの亡骸に向かって「ごめんなさい」という言葉を発することになる。言葉が通じるかどうかに関わらず、僕の「ごめんなさい」は不可避なのである。

そのことを、僕がチーズに対して発した「ごめんなさい」という言葉には具体的な内容がない、と表現することもできるだろう。具体的な反省点があってもなくても、僕は「ごめんなさい」と言うだろうし、僕がチーズを所有するということだけを理由に僕は「ごめんなさい」と言うだろうから、その言葉には内容がないのである。

この具体的な内容がない「ごめんなさい」こそが本当の「ごめんなさい」なのではないだろうか。

これが今回チーズから学んだことだ。僕は前に書いた文章で、チーズに「ありがとう」を学んだと書いた。そして、この文章で書きたいのは、チーズに「ごめんなさい」も学んだということである。

5 具体的な内容がない言葉たち

先日書いたと思うけれど、「ありがとう」にも具体的な内容はない。具体的なことは何もしてくれなくても、チーズがそこにいてくれるだけで、僕はチーズに「ありがとう」と思う。具体的な内容のなさ、という点で「ごめんなさい」と「ありがとう」はとても似ている。

そして、僕は、「ごめんなさい」や「ありがとう」は特別な言葉だと思う。

僕は、なぜ親が子に「ごめんなさい」と言うようにしつけるのかが不思議だった。「ごめんなさい」と言っても失敗はなかったことにはならないのだから、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」でいいではないか、と思っていた。または「反省しているので、そんなに怒らないで許してください。」でもいい。そのような具体的な内容がなく、ただ「ごめんなさい」と言うことに何の意味があるのだろうかと思っていた。

だが考えてみれば、「ごめんなさい」にはそのような具体的な内容がないからこそ、そこには特別な意味があるのである。

「ありがとう」も同様である。「ありがとう」という言葉がもし、「うれしかったので、次回も同じようにやってくださいね。」という具体的な意味を持っていたらさもしい。友人からの誕生日プレゼントの中身が全く欲しいものではなかったとしても、自分のことを思ってプレゼントを準備してくれたというそのことだけで、「ありがとう」と言うのである。これは具体的な内容がない「ありがとう」だろう。(このことは、以前「2種類のごちそうさま」としても書いた気がする。http://dialogue.135.jp/2018/02/18/nisyurui1/

「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉には、伝えるべき具体的な内容がないはずなのに、その言葉でしか伝えられない、言葉にできない何かがある。「ありがとう」や「ごめんなさい」には、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」のような別の言葉では言い換え不可能な、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉でしか伝えられない特有の意味がある。いや、より正確には、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉ですら伝わらないはずなのに、なぜか「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉をふと発してしまい、そして、なぜかそのことで伝わってしまう何かがそこにある。

チーズという言葉が通じない存在のことを考えることで、僕は自分のなかにある、具体的な内容がない言葉たちの存在に気づくことができた。「ありがとう」や「ごめんなさい」はチーズのような言葉が通じない存在であっても通じる言葉であり、そして、チーズのような言葉が通じない存在に対して語りかけるときにこそ、その本質が純粋なかたちで見えてくる言葉である。「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を発するとき、その言葉は通常の意味では通じなくても、いや通じないからこそ、意味を持つ言葉なのである。

そう考えてみると、世の中には、具体的な内容がある言葉と、具体的な内容がある言葉の二種類があるようだ。「お醤油を取って。」とか「明日は運動会だ。」というような具体的な内容がある言葉と、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉である。

6 内的世界の住民に向けた言葉

通常、言葉というのは、相手に通じることが前提となっている。「お醤油を取って。」や「明日は運動会だ。」という言葉を受け取った人は、その言葉の意味を言葉通りに理解することができる。つまり通常の具体的な内容がある言葉とは、相手に働きかけるための言葉であると言えるだろう。「お醤油を取って。」というのは、相手にお醤油をとるという動作をしてもらうための言葉だし、「明日は運動会だ。」というのは、親にお弁当を忘れないでね、と伝えるための言葉であったり、徒競走で転ばないかどうか不安だという気持ちを理解してもらうための言葉であったりする。それを僕は、具体的な内容がある言葉と呼んでいる。

一方の「ありがとう」や「ごめんなさい」はそうではない。僕のチーズに対する「ありがとう」や「ごめんなさい」は、チーズに何かを働きかけるための言葉ではないし、チーズに理解してもらうことも期待していない。もし、チーズが僕の感謝の気持ちを理解してくれたり、僕の謝罪を受け入れてくれたりしたら嬉しいだろうけれど、そんなことは望んでいない。そんなことは望まず、ただ僕は「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を発しているだけだ。

このことは、人間に対する場合でも同じことだろう。もし「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が、相手に感謝の気持ちを理解してもらったり、相手に謝罪を受け入れてもらったりすることを期待する「だけ」の意図から発せられたとするなら、それは本来の「ありがとう」や「ごめんなさい」ではない。本質的には「ありがとう」や「ごめんなさい」とは、そのような意図などなく、ただ発せられる言葉なのである。

では、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉たちは、何に向かって発せられているのだろうか。目の前にいる話し相手に対してではないし、単なる独り言ということでもないだろう。

唐突だけど、僕は、「ありがとう」や「ごめんなさい」は、自分の心の内側の内的世界にいる他者に対して発せられる言葉だと考えたい。

内的世界というアイディアはいかがわしいと思われるかもしれないが、極めて日常的な感覚として、このいわゆる物質世界とは別に、心的な内的世界とでもいうべきものがあるという捉え方をすることは自然なことだろう。

自然科学的な世界観からすれば、心的な内的世界なんて幻だと思われるかもしれない。だが、僕たちは例えばシャープペンシルをプラスチックや金属の塊としてではなく、文章を作成する道具としても認識している。それはつまり、物質世界に心理的な解釈を加えているということである。その心理的な解釈も自然科学により説明できると考えることは可能だろうし、哲学的には、そこから、心的な内的世界なんて本当にあるのか、幻ではないのか、いや、物質世界のほうが幻なのかもしれない、なんていう議論が展開されることになる。

だけど、それはともかく、そのような議論の出発地点として、物質世界と重ね合わせるように、並行して心的な内的世界があるという常識的な実感があることは否定できないはずである。つまり、この常識的な世界とは、シャープペンシルをプラスチックや金属の塊として捉えるような物質的な外的世界と、シャープペンシルを文章を作成する道具として捉えるような内的世界を重ね合わせたような世界である。または、チーズを一匹の動物として捉えるような外的世界と、チーズを大切なペットとして捉えるような内的世界を重ね合わせたような世界である。

そのうえで、哲学的な議論の末、僕の内的世界は幻であり、なかったことになってしまうかもしれないけれど、その議論の手前においては、僕の内的世界はここにある。だから、僕のこの世界は、常識的に考えるならば、物質的な外的世界と心的な内的世界の混交物である。だから僕は現に、その程度はともかくとして心的な内的世界を生きている、ということになる。

そして、その内的世界とは、僕だけのプライベートな世界であり、僕にすべての権限があり、そして僕にすべての責任がある世界である。

当然、僕だけの内的世界であっても、それを好き勝手に操作することはできない。物質世界において朝がくれば、僕の内的世界においても僕は起きて仕事に行かなければいけないし、僕の内的世界においても、もうチーズの姿を僕の家の中で見つけることはできない。

それでも、僕の内的世界においては僕は自由にものごとを解釈することができる。出勤を辛いことだと位置づけることもできるし、楽しいことだと位置づけることもできる。チーズの死を永遠の別れと位置づけることもできるし、まだチーズの魂は見えないけれど、このあたりでうろうろしていると想像することもできる。僕には、物質的な制約はあるけれど、その範囲内での心的な自由がある。

考えてみれば、ものごとの具体的な内容についての記述は、物質的なものである。「お醤油を取って。」というのは、テーブルの上にある醤油ボトルという物体を移動させる動作として描写することができるだろうし、「明日は運動会だ。」というのは、明日という時点において、たくさんの人間が小学校に集まるという物質的な状況として描写可能である。もし「ごめんなさい」が、「次回はこのような失敗をしないよう頑張ります。」という具体的な内容がある記述だとするならば、それは、約束を忘れないようにスケジュールに登録してこまめに確認する、というような具体的な動作として描写できるだろう。いずれも物質的な外的世界のできごとであり、僕はそこから離れることはできない。

だが、言葉には、具体的な内容のない言葉もある。「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉である。これらの言葉は、具体的な内容がないから、物質的に描写することもできない。その証拠に、ベランダでゴロゴロするネコという物理的な状況に対して、「ごめんなさい」と言うことも言わないこともできるし、または「ありがとう」と言うことも言わないこともできる。つまり、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容のない言葉を発するかどうかには、物質的な描写から離れた、心的な自由がある。

そのように考えるならば、「ありがとう」や「ごめんなさい」とは、僕の心的な内的世界の住人に対する言葉だと言えるのではないだろうか。当然、心的な内的世界という捉え方自体がナイーブなものであり、哲学的にはいくらでも議論に付すことができるものだろう。だが、「ありがとう」や「ごめんなさい」が、単に目の前の他者に対する言葉ではなく、または、単に自分自身に対する言葉でもない、と考えるための出発地点としては、心的な内的世界という設定は、よくできているように思う。

だから、「ありがとう」や「ごめんなさい」といった具体的な内容がない言葉を発するとき、この物質的かつ心的なものとしての常識的世界は、物質性のベールを剥がされ、世界の心的な側面が顕在化する。もし物質的な世界観だけによるならば、「ありがとう」などと言わず、「次回も同じようにやってください。そうすれば私は喜びます。」と言えばいいし、「ごめんなさい」などと言わず、「怒るのをやめてください。同じことを繰り返さないように気をつけます。」と言えばいいはずだ。だが、そのような言葉ではなく、あえて「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を選ぶとき、僕はそれ以上の何かを伝えようとしている。だが、その何かを言葉で説明することはできない。だからこそ、その言葉は、具体的な内容がない心的な内的世界に向けた言葉である、ということになるのではないだろうか。

「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉を通じて、僕は自分自身の内的世界を垣間見ることができる。そこには、「ありがとう」や「ごめんなさい」と言うに値するたくさんの他者が住んでいる。そこはずいぶんと賑やかな世界である。そして、嬉しいことに、そこにはチーズも住んでいる。僕が「ありがとう」や「ごめんなさい」と語りかける限り、チーズはここにいる。そう考えることは、少しは慰めになる。

7 時間の超越と忘却

チーズはもうこの物質世界にはいないけれど、僕の心の中の内的世界にはいる。「ありがとう」や「ごめんなさい」とチーズに語りかける限り、現に僕は、チーズにアクセスすることができる。

だから、この常識的な世界が単なる物質的な外的世界ではなく、心的な内的世界との混交物だとするならば、この常識的世界においても、チーズは現に存在していることになる。僕が階段を見上げ「ありがとう」という言葉とともに、チーズの不在を確認するならば、チーズはそこにいる。僕のベッドで丸くなっているチーズを思い、「ごめんなさい」という言葉とともに、そこで撫でるように手を動かせば、チーズはそこにいる。なぜなら、僕の心はそこに向かっており、そして、そこにチーズの存在を内的に見いだしているからだ。

それを、チーズは今も「潜在的に存在している」と表現することもできるだろう。チーズは、チーズの不在として、僕に語りかけられるようにして存在している。

これを潜在的存在と呼ぼう。このような存在のあり方を認めるならば、潜在的存在は時間を超越する。僕がチーズに語りかけることで、チーズは時間を超えて潜在的に存在することができる。階段から僕たちを見下ろし、柱に頭を擦り付けて、「ニャー」とだみ声でなくチーズは、今でも潜在的に存在しているのだ。

ただし、チーズは潜在的に存在しているといっても、自由自在に存在はしていない。チーズが空を飛ぶことはないし、チーズが風呂に入っていることはない。(チーズは風呂に一度も入ったことがない。)チーズは僕が過去を思い出すようにして存在している。僕が、過去のチーズを思い出し、想像する限りでしかチーズは潜在的に存在することができない。

だから、僕がチーズのことを忘れていけば、チーズは潜在的にも存在しなくなっていくのだろう。この文章はチーズが亡くなった直後から書いているけれど、今日は25日土曜日でらり、もうすぐ2週間である。そして、チーズのことを思い出すことも少なくなってきている。だんだん、「ありがとう」とも「ごめんなさい」も思わなくなってきている。こうして徐々に、チーズは僕の内的世界からも退場していくのだろう。

僕は、こうして、チーズを忘れていくことに対しても「ごめんなさい」と思ってしまう。「ごめんなさい」とすら思わなくなることに対しての「ごめんなさい」であり、きっと、これこそが、チーズに対する最後の「ごめんなさい」である。

それは寂しくて、心苦しいことだけど、そう悪いことではないとも思う。なぜなら、僕が、僕の人生を生きるためには、チーズをある程度は忘れなければならないからだ。例えば、僕はこうして文章を書くことこそが、僕がやるべきことだと思っているけれど、今のままではチーズのことしか書くことができない。新しいことを書くためには、チーズのことを思い出してばかりはいられない。

かといって、チーズの死は無駄で、なかったことにするべきということでもない。チーズの死を経験し、そしてそれを忘却するというプロセスを経ることで、僕は何かを手に入れることができるはずだ。この成長のプロセスは、チーズを忘れ、僕が次の一歩を踏み出すことで成し遂げることができる。つまり、忘却は成長に変換されるのであり、そして今、僕はその作業を完遂するときなのである。

ここまで書いてきた僕の文章を読み直しながら思う。この文章は、僕とチーズの記録であり、僕の経験と忘却の記録であり、そして僕の成長の記録である。そして、僕は、この文章を書き終え、そしてチーズを忘却することでこそ、成長することができる。それはつまり、成長した僕の中で、チーズはいつまでも潜在的に存在し続けるということである。成長した僕をチーズに見せてあげることこそが、チーズがあのとき、確かに顕在的に生きていたという証をチーズに示してあげるということであり、そして、今もチーズが潜在的に生きているということをチーズに示してあげるということなのである。

きっと、他者と関わるとはそういうことなのだろう。僕はチーズからそのことを学んだ気がする。

8 ありがとうとごめんなさいの違い

ところで、「ありがとう」も「ごめんなさい」も具体的な内容がない言葉である。では、いずれも具体的な内容がないという点では同じなのに、どうして、「ありがとう」と「ごめんなさい」との間には違いがあるのだろうか。

チーズはネコだから、人間社会を理解できず、人間社会における正解を知ることはできない。だから僕は、チーズへの「ごめんなさい」には具体的な内容がないと考えている。「ごめんなさい」が具体的な内容を持つためには、チーズが人間社会の仕組みを理解していたら何を望むかがわかっていて、その望みを達成できなかったことに対して、「ごめんなさい」と言わなければらならない。だけど、それは叶わぬことだから、僕がチーズのためにすることは、その内容に関わらず、常に間違えてしまっている。だから僕は何をしても「ごめんなさい」と言うしかない。これが具体的な内容のない「ごめんなさい」である。

だが、考えてみれば、僕がチーズの望みを全く知らないというのは言い過ぎだろう。少なくとも、チーズが機嫌良さそうにベランダでゴロゴロしている時間が少しでも長く続くことこそが望ましい、という明確な望みは確かにあるのではないだろうか。僕と妻と娘は、チーズを病院に連れて行く直前の昼、少し息が荒いながらもベランダでゴロゴロと遊ぶチーズを見ながら、こんな時間がいつまでも続けばいいと思っていた。それはチーズも同じはずだ。ついでに言うならば、一緒にゴロゴロしていたもう一匹のタックンも同じはずだ。あのとき、確かに、その場にいた三人と二匹は、ベランダでゴロゴロすることこそが望みだ、ということを、言葉を交わさずとも共有していたはずなのだ。

そのうえで、もしチーズと言葉を交わすことができれば、「君と今後もベランダで遊べるように、今、病院に行っても体調は大丈夫?」と聞けるし、チーズに人間並みの知識があれば「タクシーで15分くらいかかるんだけど、乗り物酔いはしない?」なんて聞くこともできただろう。そのように確認しつつ、一緒に、ベランダでゴロゴロして遊ぶという明確な目標に到達するための方策を練ることもできたはずだ。

だけど、残念ながらそれができなかったから、明確な目標を目の前にしつつも、そこにたどりつくまでの具体的な道筋は僕一人で手探りで決めるしかなかった。そして僕はその判断が正しいものだったのか、最後まで知ることはできなかった。だから具体的な内容がない「ごめんなさい」なのである。

確かに「ごめんなさい」には具体的な内容がない。だが、その内容のなさは、ベランダでゴロゴロするというチーズの望みは十分に具体的に知りつつも、そこに至る道筋の具体的な内容がわからない、という点で、具体的な内容がないのである。

一方で、もうひとつの具体的な内容がない言葉である「ありがとう」は、「ごめんなさい」とよく似ているけれど、違いがある。

対比するようにして述べるならば、「ありがとう」とは、一緒にベランダでゴロゴロして遊べたことに対する感謝の言葉である。そのように考えるならば、「ありがとう」という言葉についても、一緒にベランダでゴロゴロして遊ぶ、という状況に対する言葉である、という明確な内容がある。

だが、「ありがとう」という言葉に具体的な言葉に内容がないのは、一見、一緒にベランダでゴロゴロして遊ぶという具体的な状況が大事なように見えて、実は、そこには何らこだわっていないからである。もし、チーズがベランダではなくてリビングでゴロゴロしても、または、調子が悪くてベランダでうずくまっていても、または、チーズがベランダにもリビングにも、どこにもいなかったとしても、僕のチーズに対する「ありがとう」には変わりがない。確かに、「ありがとう」という言葉は、具体的な内容があったほうが発しやすい言葉である。だけど、それはあくまでもきっかけとしてあったほうがいいだけであって、すぐに僕は、そのような具体的な内容は重要でないということに思い至ることができる。僕が「ありがとう」というとき、たまたまベランダでゴロゴロして遊ぶチーズをイメージしたとしても、それはそれだけのことであり、僕は、そのような具体的な状況とは関係なく、ただチーズに「ありがとう」と言っているのである。

そのように考えるならば、「ありがとう」と「ごめんなさい」とでは、その具体的な内容のなさに違いがあると言えるだろう。「ありがとう」では、その言葉の対象自体に具体的な内容がないが、「ごめんなさい」では、その言葉の対象は具体的だが、その対象に至る道筋に具体的な内容がないのである。「ありがとう」の内容のなさは、目的の内容のなさであり、「ごめんなさい」の内容のなさは、手段の内容のなさだと言ってもいいだろう。

だが、「ごめんなさい」の内容のなさをもう一段深めて、もし、チーズが死んでいなくても、調子が悪くてベランダでうずくまっていても、リビングでゴロゴロしても、または、チーズがベランダで幸せそうにゴロゴロしていても、チーズに対する「ごめんなさい」には変わりがない、と言うこともできるだろう。

実際、僕は、あの日曜日、幸せそうにゴロゴロしているチーズを前にして、荒く上下しているチーズのお腹を見ながら、苦しそうにしているなあ、もう少しなんとかしてあげられないかなあ、とも思っていた。僕は、自分の力不足を悔いていた。先ほど、僕たちは、幸せそうにゴロゴロしているチーズという正解を手に入れていた、と言ったけれど、それは一面的な捉え方であり、もう一面では、僕はその状況に不穏なものを感じ、そしてそれを恐れてもいた。

そこまで考慮に入れるならば、どんな状況であっても僕は「ごめんなさい」と言ってしまうという点で、このような「ごめんなさい」にはその道筋・手段として内容がないだけでなく、その対象・目的としても内容がない、と言うことができるだろう。僕は、具体的にどのような状況であれば「ごめんなさい」と言わずに済むのかわからないし、もし何らかの状況を目指すとしても、どのように目指せばいいのか、その具体的な道筋がわからない。そこには二重の具体的な内容のなさがある。

整理しよう。ベランダでチーズがゴロゴロする、という状況に対して、僕は、「ありがとう」と「ごめんなさい」という二つの態度をとることができる。その状況を肯定的に捉えるならば「ありがとう」であり、否定的に捉えるならば「ごめんなさい」である。そして、その肯定性や否定性は、具体的な状況を離れ、具体的な内容のない、肯定性や否定性へと展開されていく。

だが違いはもうひとつあり、「ありがとう」はその肯定的な状況をただ受け止めるのに対し、「ごめんなさい」は、その否定的な状況にただ注目するのではなく、その否定的な状況を避けるための道筋・手段に焦点が移っていく。だから、その否定的な状況ではなく、その否定的な状況を避ける道筋・手段が見つけられないことに対して、僕は「ごめんなさい」と言う。

9 「こんにちは」や「さようなら」

レベルの違いはあれど、「ありがとう」も「ごめんなさい」も具体的な内容がない言葉だが、そのような言葉は他にもある。例えば、「こんにちは」や「さようなら」という言葉がそうだろう。

トレッキングをしていて、人とすれ違うとき、「こんにちは」と挨拶をする。そこから、頂上はまだ先ですか、なんて具体的な話になることもあるけれど、たいていは「こんにちは」と言っておしまいだ。その相手とは、これまで一度も会ったことがない人であり、そして、きっとこれからも二度と会わない人である。登山という行為を同じタイミングで同じ場所で一瞬だけ共有している、という関係しかない。あえて言うならば、登山の「こんにちは」には、そのような具体的な内容がある、と言えなくもない。だが、僕は、この人は登山をしている人だから共通点があるなあ、なんて考えて「こんにちは」と言うのではない。あえて言えば、木や山ばかり見ているなかで、急に言葉が通じる人間が登場したから声をかけたにすぎない。その人は、もしかしたら僕と主義主張が合わないネトウヨかもしれないし、もしかしたら殺人鬼かもしれない。それでも、その人がどのような人かどうかなど関係なく、その相手が人間だということだけを理由に、僕は「こんにちは」と言う。このときの「こんにちは」は極めて具体的な内容に乏しい言葉だと言うことはできるだろう。

似たようなことが「さようなら」でも言える。仲がいい人でも、それほどでもない人でも、別れのときには「さようなら」と言う。そこには、通常、「東京でもがんばれよ。」とか、「本当は行かないでほしい。」とか、具体的な内容がない言葉がつきまとっている。しかし、そのような内容をすべて言葉にしてしまったあとでも、それでもきっと、別れのときに「さようなら」とは言うだろう。そのときの出がらしのような「さようなら」は、極めて具体的な内容に乏しいはずだ。

「こんにちは」には出会ったときに用いる言葉だ、という以上の具体的な内容はなく、そして「さようなら」は別れのときに用いる言葉だ、という以上の具体的な内容はない。

だが、もう一つ具体的な内容があるとするならば、いずれも、肯定的な言葉だ、という共通点があるとは言えるだろう。それは「ありがとう」も同じである。

「ありがとう」も「こんにちは」も「さようなら」も、ほとんど具体的な内容がない言葉だが、その言葉を発する相手は肯定的な存在であり、その肯定性だけは内容として持っているとは言える。(「こんにちは」と「さようなら」は用いられる場面が限定されているので、「ありがとう」のほうがより具体的な内容がない言葉とは言えるだろうけれど。)

だから、これらを肯定的で具体的な内容がない言葉と呼びたい。

10 否定的な言葉の肯定性

一方の否定的で具体的な内容のない言葉にも、「ごめんなさい」以外のバリエーションがありそうだ。例えば、「ばかやろう」や「死ね」のような罵りの言葉が考えられる。これらは、相手の頭が悪いと言いたいのでも、本当に死んでほしいと願っているのでもないから、具体的な内容のない言葉だと言えそうだ。

このような罵りの言葉を、どのようなときに使うのかと言えば、口喧嘩をしているときだろう。僕が喧嘩をする相手といえば、妻だ。「ばかやろう」や「死ね」とは言わないけれど、僕は何らかの罵りの言葉を妻に投げかけているような気がする。具体的に何と言っているかは思い出せないけれど。

では、このような罵りの言葉を投げつける相手が否定的な存在なのかというとそうではない。僕は妻のことが好きで結婚したのだし、それは今も変わらない。時々、喧嘩をすることはあるけれど、妻のことは肯定的な存在だと捉えている。肯定的な存在であるはずなのに、その肯定性が欠けてしまったから、僕は口喧嘩をして、妻に罵りの言葉を投げかけ、その肯定性をなんとか回復しようとしているのだ。

同様に、「ごめんなさい」を言う相手も、チーズという肯定的な存在である。病気により、その肯定性が欠けてしまったから、僕はなんとか肯定性を回復しようとし、それがうまくいかないから、僕は「ごめんなさい」と言っているのである。

つまり、否定的な言葉にも、その奥底には肯定性がある。具体的な内容のない言葉は、一見否定的なものであっても、肯定的なものであっても、いずれにせよ、肯定的な対象に対して投げかけられる言葉であり、ある意味、肯定的な関係性を認めるからこその言葉なのである。

なぜ、そんなことを考えているのかといえば、僕は、チーズに向かって、「ごめんなさい」と思うのが苦しいからである。

チーズは、存在するだけで肯定そのものである。そして「ありがとう」はチーズの肯定性をそのまま受け止める言葉だけど、「ごめんなさい」はチーズの肯定性を一旦否定したうえで、なんとか肯定性を回復しようとする、というようなまわりくどいことをしている。チーズはそのままで肯定性のかたまりなのに、あえてチーズが病気になって肯定性を失ってしまった、と考え、そのうえで、がんばって治療して肯定性を少しでも回復しようとして、それに失敗してしまったことに後悔し、そして「ごめんなさい」と言っている。

だから、「ごめんなさい」はあくまで派生的であり、本質は「ありがとう」にある。僕は本当は、チーズに謝罪する必要などなく、ただ感謝さえしていればいいのだ。

そう思うことで、僕は少し楽になる。

「ありがとう」も「ごめんなさい」も「こんにちは」も「さようなら」も「ばかやろう」も、そこにはほとんど具体的な内容はない。共通してあるのは、ただ、肯定的な存在を認める、という内容だけである。「ありがとう」が最もそれを純粋なかたちで示しており、「こんにちは」と「さようなら」は、そこに出会いと別れという場面の限定を加えたものである。「ばかやろう」は、その肯定性の欠如を回復しようとする場面で発せられる言葉であり、「ごめんなさい」は、その回復の試みが失敗したときに発せられる言葉である。

いずれにせよ、それらは、肯定的な存在そのものに対して向けられた言葉であり、その存在とは、僕の心的な内的世界における存在である。また、その存在は、この物質的な外的世界と心的な内的世界が混交した常識的な世界においては、潜在的なものとして存在することとなる。

だから、僕は、チーズに対して、「ありがとう」、「ごめんなさい」、「こんにちは」、「さようなら」、「ばかやろう」といくらでも語りかけることができる。僕が忘却するまでは、そうすることが許される。だから、今のところ、僕は、チーズに「さようなら」とは言いたくない。「こんにちは、チーズ、ありがとう、チーズ、ごめんなさい、チーズ」と当分の間は言い続けることにする。(「ばかやろう、チーズ」と言ってもいいけれど、あんまりそういう気持ちにはならない。)

11 過去のなかの天国

チーズが亡くなってすぐ、家族で天国の話をした。もしチーズが天国にいったとしたら、そこは、どんな天国なのだろう、なんていうことを話したのだ。

チーズの天国はきっと、大草原のような場所ではないような気がする。なぜなら、チーズは、家のなかにいたことしかないからだ。せいぜい、チーズにとっての天国とは、窓が沢山あって、そこから色んな面白いものが見えたり、ダンボールがたくさんあって、いくらでもその中に入って遊べたりするような場所だろう。

天国というのは、いくらでも望みが叶う場所だとしたら、天国には、どれだけ望めるか、という想像力の限界があるはずだ。天国とは、想像できることしか叶わない場所なのである。

そして、想像できることは過去の経験に左右される。過去に経験したことのうち、最も望ましいことを繋ぎ合わせ、せいぜいそれを誇張するようにしてしか、天国を思い描くことはできない。天国で食べる料理は、あのときに食べた料理の10倍美味しいはずだ、とか、天国で出会う美女は、この世界の最高の美女の10倍美しい、とか、そんなふうに。

だから、天国は過去の経験のなかにある、とも言える。過去に出会ったものすべてに再会できる場所こそが天国なのである。だから、僕の天国には、きっとチーズもいるだろう。

さて、僕はこれまで、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉について考えてきた。その一方には、具体的な内容がある言葉がある。では、具体的な内容はどこにあるかというと、天国と同じように、過去の経験のなかにあるのではないだろうか。

僕の「ごめんなさい」は具体的な内容がない言葉だけど、「もう一度、あの日のようにベランダでゴロゴロすることができなくてごめんなさい。」と言ったとき、僕の言葉は、具体的な内容を獲得している。この言葉に吹き込まれているのは、過去における具体的な内容である。

そこに吹き込まれるのはあくまで過去である。だから僕は、「チーズと一緒に風呂に入れなくてごめんなさい」などと、過去に起こらなかったことについて言うことはできない。また「チーズに、来月発売予定のちゅーる(美味しいネコのおやつ)の新製品を食べさせてあげることができなくてごめんなさい」いうことはできるけれど、これは一見、過去とはかけ離れているように見えても、天国の美女が10倍美しい、というのと同じで、過去のちゅーるを加工して、誇張しただけのことであり、過去の具体性から離れることはできていない。

天国であっても、この世界であっても、具体的な内容は過去にあるのだ。

だからこそ、多くの具体的な内容がある無数の言葉のなかから、わずかに混ざっている、「ありがとう」や「ごめんなさい」のような具体的な内容がない言葉を見つけ出し、そこに着目することには意味がある。そのような具体的な内容がない言葉だけが、過去を離れる力を持っている。そして、それこそが僕が未来への一歩を踏み出す力となる。

僕はもう、チーズに対しては、具体的な内容がない言葉しか投げかけることはできない。それはとても寂しいことだけど、だからこそ、チーズは、僕に、前に進む道を示してくれているとも言える。

もう少し推敲して整えようと思ったけれど、またチーズのことで、その4を書くこともできるよう、ここで書き終えることにする。

ありがとう、チーズ。

※ この文章では、「具体的な内容がない言葉」や「潜在している存在」といった概念を用いたけれど、これらは、入不二基義が用いている、無内包や潜在性といった概念に触発されて用いたものです。

「老いと死の哲学的考察」を読んで ~irifujingの考察~

※この文章は結構長文です。22000字くらいあります。ネコがちょっと元気になったので書いてみました。

入不二基義の『老いと死の哲学的考察』という文章(以下、『老いと死』)を読んで色々と触発されたので、触発されて考えたことを考察として書いてみた。

(入不二の文章としては具体的な話も結構盛り込まれていて(特に前半は)読みやすいほうだと思うし、ネットに無料で掲載されているのでぜひ皆さん読んでください。https://note.com/shobunsha/n/n25f15f8de381

 文章内で引用されている『「私の死」と「時間の二原理」』もネットで読めます。https://image02.seesaawiki.jp/i/i/irifuji/ba8ac5d1ccff52d8.pdf

さて読んでいただこうとしている方のために、前もって、この文章が何を考察しているのかを簡単に示しておこう。

実は、半分感想のようなつもりで当て所なく書き始めてみたけれど、書き終えてみると、僕が書いたことの半分くらいは、入不二の哲学の論じ方についての考察となっていることに気づいた。

入不二はirifujingとも呼ばれる独特な哲学の論じ方をする。僕は彼が論じる内容とあわせて、その論じ方にも魅力を感じるし、色々と気になってしまう。だから、この文章はirifujingの考察であるとも言えそうなので、そのような副題を追加してみた。

irifujingという言葉がどれほど有名なのかgoogle検索してみたところ、哲学者山口尚のnote(https://note.com/free_will/n/naf0d27d6a097)がヒットした。山口は次のようにいう。(このnoteも面白いので哲学好きな方は読んで下さい。)

ここ(※入不二基義の文章)で展開されているロジックの運びは、業界ではときに、英語の動詞で「Irifuji」、動名詞(現在分詞)で「Irifujing」と呼ばれている。すなわち、同型の論理によって事態がどんどんと高階化(あるいは低階化)していく、という理路が「イリフジング」である。

僕がここで論じようとしていることはおよそ、こんなことだと思う。

1 人事評価

(1)成果主義

『老いと死』は、大きく二つのパートに分かれている。第一部が老いの話で、第二部が死の話である。

第一部の老いの話で個人的に面白かったのは、老いの話が会社の人事評価の話とつなげられるところだ。以前、人事評価的な仕事を少しやったことがある僕としては、こんなことをここまで哲学的に語ることができるのか、と驚きながら読ませていただいた。

入不二は、人事評価について、年齢主義と能力主義という二種類に区分して考察を深めている。だが僕にとっては、年功(序列)主義と成果主義という言葉のほうが馴染みがある。ほぼ、年齢主義=年功主義で能力主義=成果主義と考えていいと思うけれど、実はそこに多少のズレがあるようにも思う。

入不二の「年齢 ─ 能力 ─ 成果」という軸に当てはめるならば、

「(年齢)-年齢主義-年功主義-(能力)-能力主義-成果主義-(成果)」といった関係性になるだろうか。年齢主義のほうが年功主義よりも年齢寄りだし、能力主義よりも成果主義のほうが成果寄りのような感じがある。それぞれに説明を加えると次のようになる。

年齢主義:年齢さえ重ねれば経験により能力が高まるという考え

年功主義:加齢と経験による能力の高まりが、成果で裏付けられるという考え

能力主義:成果によってこそ能力を把握できるという考え

成果主義:成果を賃金に反映することで、成果を目指して従業員が働くという考え

ここで僕が問題としたいのは、能力主義と成果主義の間にある僅かだが実は大きな違いだ。成果主義も能力主義も成果に着目するという点では変わりがない。ただし成果主義は、過去において発揮した成果そのものに対して賃金を支払うが、一方の能力主義は、過去の成果によって担保された、将来において発揮が期待される能力に対して賃金を支払う。いずれも成果に着目するという点ではよく似ているけれど、未来に着目するのか、過去に着目するのか、という大きな違いがある。

1本ホームランを打ったら100万円もらえるという成功報酬型の契約をしたプロ野球選手を考えてみよう。年間30本のホームランを打ち、シーズンの終わりに3000万円の報酬を手にしたとする。(ちょっと少ないけれど)この3000万円は既に打ったホームランに対するもの(成果主義)なのか、それとも、今後もホームランを量産してくれそうな期待に対するもの(能力主義)なのか、という問題である。

多分、保険の外交員の場合は前者(成果主義)である。だから家族に保険に入ってもらったりして能力と関係なく契約をとっても、それを成果としてカウントすることができる。一方で、重要な役員ポストへの昇進を判断するような場合は後者(能力主義)だろう。ビッグプロジェクトを幸運により成し遂げた褒美として昇進させるのではなく、それを実力の証明として理解し、更に実力を発揮することを期待して役員にするのである。

『老いと死』で行っている入不二の議論を、僕は、成果主義否定の主張として読むこともできると思う。(入不二自身は一言もそんなことを言っていないけれど)入不二の議論に基づくならば、重要なのはあくまで能力であり、会社は、従業員の表層的な成果ではなく、従業員の内面に潜在した能力こそに注目するべきなのである。

それは、アンチエイジングのために化粧をした人に対して声をかけるときのことを考えれば明らかだろう。入不二の老いの文法によれば、アンチエイジングとしての化粧は、「加齢 ─ 老い ─ 老け」のうちの老けという現れに対する操作の作業である。つまりこれは、「年齢 ─ 能力 ─ 成果」のうちの成果に対する作業と同等である。

たいていの人は、化粧をした人に「若く見えますね。」とは褒めずに、「若いですね。」と褒める。なぜなら、アンチエイジングとは、老けという現れに対する操作であるだけでなく、その作業を通じて、老いという潜在的な能力について、より良く見せようとする操作だからである。アンチエイジングで望むことは、若く見えることではなく、若いと思われることなのである。人はその意図を十分理解しているからこそ、「若く見えますね。」ではなく「若いですね。」と褒めるのである。

この、若く見えることと若いこととの関係は、仕事での成果を出すこと(成果主義)と、その成果を通じて能力を示すこと(能力主義)と同じ関係にある。成果を出した従業員は「こんなに成果を出して偉いですね。」ではなく「こんなに成果を出すなんて能力があってすごいですね。」と褒められるべきなのである。

若く見える・老け・成果という現れは、それ自体に価値があるのではなく、その現れを通じて、潜在的な若さ・老い・仕事の能力を知ることができることにこそ価値があるのである。そうだとするならば、過去の成果だけに報いる成果主義ではなく、過去の成果を通じて従業員の将来に向けた潜在的な能力に着目する能力主義を採用する「べき」ということになる。

(2)保険会社の倫理

僕はここで「べき」という言葉を用いて、倫理的な判断を行った。つまり、保険会社の保険外交員に対する成果主義的な人事制度は悪であり、もっと従業員の潜在的な能力に着目する能力主義のほうが善である、という主張を僕は行ったことになる。これはかなり倫理的な主張である。なぜ、僕はいきなり、このような主張を導くことができたのか。確かに「若く見えますね。」よりは「若いですね。」のほうが望ましいし、「こんなに成果を出して偉いですね。」よりは「こんなに成果を出すなんて能力があってすごいですね。」のほうが喜ばれるだろうけど、若く見えること自体や成果自体を褒めても間違いではない。「べき」というのは言い過ぎではないか。

だが、あえてそのように言えるヒントが入不二の言葉のなかに隠されていると思う。

入不二は「老けも成果・業績も、「どのように見えるか」「どのように評価されるか」という他人の視線(の内面化)によって成立する。すなわち、間主観的(共同主観的)な水準にある。」と言っている。この共同主観という観点こそが、僕の倫理的な主張を理論づけてくれているのではないだろうか。

共同主観とは、つまり、相互に相手を自分と同じような主観を持つ主体として認めるということである。僕とあなたが共同主観を持つならば、僕はあなたを僕のような人間として認めるということであり、あなたも僕を同じように同等の人間として認めるということである。

だから、もし会社と従業員にも共同主観が成立しているならば、会社(の経営陣)は従業員を単なる道具ではなく、一人の人間として認めなければならない。保険会社(の経営陣)は、外交員のひとりひとりを単なる金づるではなく、一人の人間として認めなければならない。そして一人の人間として認めるということは、その外交員を長期的に人生を生きていく存在として認め、その存在に対して付き合っていく態度をとるということであるはずだ。それならば、成果のみに着目する成果主義ではなく、その成果を通じてその人の能力を把握しようとする能力主義を選択しなければならない。このようにして、共同主観の成立を認めるならば、そこから成果主義の否定まで一気に議論を進めることができるのである。

そして、保険会社(の経営陣)は従業員と共同主観が成立しているはずだ。単なる従業員向けのリップサービスとしてではなく、保険会社(の経営陣)と従業員との間には共同主観が成立していなければならない。

なぜ共同主観が成立しているかというと、保険会社が成果主義を採用しているからである。

成果主義を採用するということは、従業員に成果を気にして仕事をさせるという選択をしたということになる。それはつまり、入不二の言葉によるならば、従業員を、「「どのように評価されるか」という他人の視線(の内面化)によって成立する、間主観的(共同主観的)な水準にある」存在として認めたということである。保険会社(の経営陣)が従業員を共同主観的な存在として認めるということは、つまり、自らと従業員との間に共同主観が成立していることを認めるということである。従業員は、保険会社を「自らの成果を評価する主体」として認め、そして、保険会社は、従業員を「保険会社から自らの成果を評価されることを知っている主体」として認める。そのような相互関係があり、成果についての共同主観が成立しているからこそ、成果主義が成立する。逆に言うならば、成果主義が成立するならば、評価者と被評価者の間に共同主観が成立していなければならない。

このようにして成果主義を採用し、共同主観の成立するという第一歩を認めるならば、先ほど示したとおり、そこから一気に成果主義の否定が導かれることとなる。つまり成果主義の採用は成果主義の否定に直結する。成果だけで従業員を操るような成果主義は、哲学的には端的に誤りなのである。

入不二が言うとおり、人間には、年齢と現れの間の広大な中間領域としての潜在的な能力がある。それを老いと呼ぶにせよ、仕事上の能力と呼ぶにせよ、そこには、一人の人間が人生を通じて発揮することが期待されている可能性が潜んでいる。人は、その潜在領域を泳ぎ、潜り、ときには加齢に抗いながら、ときには諦めながら、なんとか生き抜いていくのだ。

そして、人は他者のその営みをなんとか把握し、評価しようとする。見た目から潜在的な能力を推測して「若いですね。」と声をかけたり、能力主義の人事評価制度により人事査定を行ったりする。または、年齢から潜在的な能力を推測して(儒教的に)年長者を敬ったり、年齢主義の人事評価制度により人事査定を行ったりする。

それらの営みは、不完全ではあるけれど能力にアクセスしようとする意図を有しているという点で間違いではない。ただし、「若く見えますね。」と褒めたり、人事評価制度として成果主義を採用することは、共同主観性に反するという点で端的に誤りなのである。

僕はこれは、人事制度を考える上では結構重要なことのように思う。入不二哲学的には大したことのない話かもしれないけれど。

2 文法と中間

(1)文法の深化

そろそろ人事評価の話から哲学の話に移っていくと、第一部の老いの話で最も重要なのは、文法と中間というアイディアの導入部ともなっているという点にあるだろう。第二部では文法と中間という議論の枠組みを使って死についての考察を深めているが、第一部は、老いを例として用いて同じ議論の枠組みを用いることで、準備運動としての導入部となっているのである。

老いの文法は、人事評価制度の話と組み合わせて「加齢 ─ 潜在的な能力変化(成長・老い) ─ 顕在的な現れ(成果・老け)」と要約して表現することができるだろう。当初は、老い(成長)というひとつの概念として捉えていたものを、加齢と老け(成果)の二つの概念に引き裂く。そして二つに引き裂かれた概念の中間領域に改めて老い(成長)という概念を位置づけ直している。入不二は「深層文法」という用語も用いているが、この概念を引き裂き、そして中間領域に位置づけ直すという操作のことを文法の深化と呼ぶこともできるだろう。

(2)顕在と潜在

そして、この深化の作業においては、顕在と潜在の区別が重要である。まず、老いの文法は、当初、老いという唯一の常識的な概念として顕在化する。そのうえで、老いという唯一の概念を、加齢と老けという概念に二分し、それぞれを顕在的に位置づける。つまり唯一の顕在から二つの顕在に移行する。そして二つの顕在する概念の間には、その中間領域が潜在的に生じることになる。更に深化の次の作業として、この中間領域に、当初の老いよりも一段深化した、加齢でも老けでもない老いを、潜在的な老いとして位置づけ直す。入不二は、この深化した潜在化した老いを、肉体(物質)的な老いとして表現しているが、それは潜在の再顕在化と呼ぶことができるだろう。このようにして、「唯一の概念の顕在 → 二つの概念の顕在 → 中間領域の潜在 → 深化した概念の中間領域への潜在的位置づけ → 深化した概念の再顕在化」というように、顕在と潜在を反復するようにして深化の作業は行われる。

さらに、「肉体(物質)的な老い」として再顕在化された老いに対しては、再び、深化の作業を加えることができる。

例えば、「肉体(物質)的な老い」として再顕在化した老いを、「加齢(時間経過)」と「染色体のテロメアの短縮化」に二分することができるかもしれない。これは物理的な老いを、時間経過という絶対的かつ顕在化した事実と、テロメアの短縮化という共同主観的かつ顕在化した事実とに引き裂いて捉え直すということである。すると、再び老いは、それらの顕在化した事実の中間領域に潜在化して位置づけられることになる。つまりここでは、老いとは、時間経過によりテロメアが短くなるという潜在的な能力である、として解釈されることになる。こうして二段階目の深化のサイクルが完了する。だが、この描写はすでに再顕在化しているから、再々度、深化のプロセスに投入することができる。以下同様である。きっと、このような顕在化と潜在化のサイクルはいくらでも繰り返すことができるのだろう。

以上のように、老いの文法の深化の過程では、顕在と潜在が交互に登場する。なお、これは老いに限らず、すべての概念についてそうなるはずである。それは、AとBという二つの概念が関係のあるものとして併記されたなら、その間には必ず「AとB」の「と」や「A・B」の「・」のような中間的な表記が必要となることからも明らかである。二つの顕在的な概念を関係づけたなら、その中間には必ず潜在領域が出現するのである。

そして、もうひとつ重要なこととして、その深化の過程では、必ず、「ずれ」が生じるということがある。当初は老いに注目していたが、その老いについての考察を深めようとすると、その老いは、老いとは似て非なる加齢と老けとして把握されることになる。これが「ずれ」である。そして、再び加齢と老けの中間にある「肉体(物質)的な老い」に着目しようとすると、それはまた似て非なる、加齢とテロメア短縮化となってしまう。老いを捉えようとすると必ずそこには「ずれ」が生じるのである。なお、この「ずれ」という現象は老いに限らず、何らかの概念をより深く把握しようとする際には必ず生じることだろう。ある概念に説明を加える際には、その説明を加えられる概念、被説明概念とは異なる概念を用いなければならない。もし被説明概念と説明概念とで同じ概念を使ってしまったら、それはトートロジーとなってしまう。トートロジーを避けるためには、必ず「ずれ」が生じるのである。

ところで、この「ずれ」は誤りとして避けるべきではない。それは、もともとその概念のなかに含まれていたはずの、ある特定の側面の顕在化であり先鋭化であるとも言え、その概念を深く捉えるためには必須の作業であるとも言えるからだ。

(3)文法の深化にあたっての基本文法

まとめるならば、任意の概念Aに着目しようとすると、その概念Aは概念Bと概念Cという似て非なるものとして顕在的に把握されるという「ずれ」が生じ、そこで概念の取り逃がしが生じる。そして概念Bと概念Cの間に「と」や「・」と表記されるような中間領域が生じ、そこに一段階深められた概念Aが潜在的に位置づけられる。そして、その潜在的な概念Aは概念A’として再顕在化することになる。これが文法の深化である。この文法の深化の手順、つまり①ある概念への着目、②ずれを伴う二分された概念の顕在化、③潜在的な中間としての当初概念の再出現というサイクルは、文法の深化にあたっての基本文法と言ってもいいと僕は思う。それは①「A」→②「B(・)C」→③「B(A’)C」と表すこともできるだろう。

なお、「B(A’)C」という形式が唯一のものかどうかは僕はわからない。だが、「加齢(老い)老け」のほかにも、「断絶(運命)連続」(これは入不二の運命論)とか、「能動態(中動態)受動態」(これは國分功一郎)とか、例をいくつも挙げられる。(入不二の『あるようにあり、なるようになる』(以下、『あるなる』)第24章にはこのような例がいくつも挙げられている。)また、Bと非B(¬B)という排中律を考慮するならば、すべての概念について、「B(A’)¬B」ということができると思われる。これはつまり、排中律では取り逃がしてしまう中間領域があり、そこに当初概念が再出現することを意味する。

入不二は、『現実性の問題』p.305において、あひる・うさぎの反転図形を例にして、「一つの土台的な相貌があって、その上で二つの相貌が反転する」と述べる。これはつまり、A(あひる・うさぎ図形全体)という土台となる概念があり、そのうえにB(あひる)とC(うさぎ)という二つの概念があり、そして、その中間領域にA’(あひるにもうさぎにも見える)といいう深化した概念が再出現することを表現したものであると僕は考える。つまり、「あひる(あひるにもうさぎにも見える反転図形)うさぎ」であり、「B(A’)C」である。そして、この反転図形は、同時にあひるにもうさぎにも見えることはないから、再び、深化のサイクルに投げ込まれることになる。

なお、文法という言葉遣いは、「A」→「B(・)C」→「B(A’)C」のような動的なサイクルにも使えるし、「B(A’)C」というような静的な構造にも使えるし、また、具体的に、A・B・Cにどのような概念が入るか、ということまで含めて使うこともできる。

つまり、文法という言葉は、①サイクルとしての動的な文法、②構造としての静的な文法、そして③概念が代入された具体的な文法、という三種類の使い方ができる。

例えば『老いと死』には次のような表現がある。

「死は、老いの延長線上に位置づけられることが多い。しかし、老いと死ではその文法はかなり異なっていると言わざるをえない。端的に言えば、「老いと死は連続しない」「死は老いの延長線上にはない」。」

この場合の文法とは、「B(A’)C」という構造のA・B・Cに具体的にどのような概念が入るかも含めた③概念が代入された具体的な文法という意味であると解釈すべきだろう。後ほど述べるとおり、老いも死も「B(A’)C」という概念構造は共通していると僕は思っている。だけど、そのA・B・Cに入る言葉は全く共通していないから、老いと死の文法は異なっているのである。

(4)排中律

さて、第二部に入ると死の話に移るけれど、僕がなかなか理解できなかった言葉がある。「変形エピクロス説」という言葉である。

エピクロスが言っていることはわかるし、変形エピクロス説として入不二が何を言っているかもある程度はわかるつもりだ。だけど、入不二が言っていることが、どのようにエピクロスと関係し、どうして変形エピクロス説という名前が与えられるかが一読してはよくわからなかったのだ。

だけど、読み直して、次の入不二の言葉に出会ってようやくわかった。

「択一的な二つの選択肢を用意して、どちらを選択しても同じ結論(死はなんでもない)に至るという論法を使っていて、これもエピクロス説の特徴である。つまり、排中律(AまたはAではないかのどちらかである/A∨¬A)という論理が働いている。」という言葉である。エピクロス説と入不二説をつなげるのは排中律なのである。エピクロスの場合は、死ぬ前と死んだ後の二分化であり、入不二の場合は一元論と二元論の二分化である。

死というひとつのことについて、エピクロスは、死ぬ前の議論と死んだ後の議論を並行して展開し、入不二は、物質だけの一元論と物質/魂の二元論という二つの議論を並行して展開した。そしていずれの議論によるにせよ、死は存在しないと結論づける。この議論の構造の類似性に着目し、入不二は自らの議論を変形エピクロス説と呼んでいるのである。

ここで行われているのは、つまり排中律による二分化である。エピクロスによれば死ぬ前でなければ死んだ後であり、死は死ぬ前か死んだ後としてしか捉えることはできない。また、入不二によれば一元論でなければ二元論であり、死は一元論か二元論でしか捉えることはできない。「死=死ぬ前の死∨¬死ぬ前の死(死んだ後の死)」であり、「死=一元論における死∨¬一元論における死(二元論における死)」である。

そして、排中律という言葉や論理の根幹に関わるものの力を借りているという点で、排中律によって二分されたいずれの議論によっても同じ結論に至る、という議論構造を持っているエピクロス説も入不二の変形エピクロス説も極めて強力な議論である。その議論を否定するためにはその排中律によって設定された議論領域自体を否定しなければならないからだ。それを否定するためには言語の根幹を否定しなければならない。

なお、入不二は自らの変形エピクロス説を「エピクロス説の存在論化」と呼んでいるけれど、僕は以上のような意味で、入不二がやっていることは「エピクロス説の存在論化」であると同時に「エピクロス説の意味論化」とも言えるように思う。入不二が行っていることは、言語の根幹にある排中律を自覚的に使った作業であり、その作業で認識論を使っていないという点も踏まえるならば、極めて意味論的な作業だと僕は思う。

(5)排中律と基本文法

ここでの排中律による二分化の話は、さきほどの基本文法の話と結びつけることができるだろう。つまり、死という一つのものに着目しようとすると、それは、エピクロスならば、死ぬ前と死んだ後と二分化する「ずれ」が生じ、取り逃がしが生じる。また、入不二ならば、物質的な死と魂の死として二分化する「ずれ」が生じ、取り逃がしが生じる。そして、死ぬ前と死んだ後の中間、または物質的な死と魂の死の中間に、本当に論じたかった死が潜在的に再出現するのである。

つまり、エピクロスならば、「B(A’)C」という基本文法に、「死ぬ前の死(死’)死んだ後の死」という代入を行ったということであり、入不二ならば「物質的な死(死’)魂の死」という代入を行ったということである。これはつまり、エピクロスや入不二が、どれほどBとC、つまり死ぬ前や死んだ後、または、物質と魂の両面から死を捉えようとしても、もともと捉えようとしていたA、つまり死は、死’、死’’、死’’’としてどこまでも把握から逃れ、中間領域に潜在していく、ということを示している。

そこにあえて意識を向けないことで死を否定しようとしたのが、エピクロスである。そして、そこに意識を向け、中間としてすくい取り、その無限の遂行のなかにこそ生を見出すことで死は到達できないものであると考えたのが入不二であると言えるだろう。

以上のように考えると、先ほど、入不二の変形エピクロス説は「死=一元論∨¬一元論(二元論)」であるとしたが、より正確には「死=物質的な死∨¬物質的な死(魂の死)」と描写したほうがいいように思う。更には、僕は、死などという言葉を使わず、もっと異なる描写をしたほうがよいとも思っている。このことについては第3章で論じていきたい。

(6)ノンシャランで無頓着

『老いと死』を通じての僕にとっての最大の収穫は、入不二が言う、ノンシャランで無頓着な態度についての理解が深まったことである。

僕が入不二このような態度に注目するようになったのは、『あるなる』で「ケ・セラ・セラ(の未来)」というアイディアに触れてからだと思う。

当時の僕の理解だと次のようになる。時間には連続した時間と、断絶した時間(『老いと死』だと〈水平的な連続する推移〉と〈垂直的な立ち止まる時間〉)という二面性がある。だから、未来にも、垂直的に切断され断絶した未来と、水平に連続した未来とがあることになる。断絶した未来とは、現在から隔絶され、全く予測できない未来であり、連続した未来とは、現在とべったりに繋がり、因果法則などにより完全に確定した未来である。これは常識とはかけ離れた時間の捉え方だと言えるだろう。

常識的には、未来には多少は自由の余地もあるけどほぼ決まっている。僕はがんばれば多少お金持ちになることはあるけれど、イーロン・マスクのような金持ちになることはない。いや、もしかしたらイーロン・マスクのようになることはあっても、チンギス・ハーンのような帝国をつくりあげることは絶対にない。いや、もしかしたらチンギス・ハーンのようになることはあっても、不死の身体を手に入れたり、タイムトラベルできるようになることは絶対にない。いやもしかしたら・・・。どこに限界を置くかはともかくとして、僕の未来にはそのような限界があり、僕はその限界のなかであがいているにすぎない。常識的には未来というものにはそのような限界がある。

だが『あるなる』は、その常識的な捉え方を排中律的に二分化し、全くの確定した未来とともに、全くの白紙の未来を僕に示してくれた。僕は『あるなる』での入不二の議論をそのように理解し、僕は後者の連続した未来に息苦しさを感じ、前者の隔絶した未来に「ケ・セラ・セラ(の未来)」としての希望を感じた。ただ、僕にとって、それは喜ばしいことではあったけれど、同時に、半分しか自由がないという点では寂しい気持ちがしたことも確かだった。諦めと解放感が混在したような気分だった。

だが、『老いと死』によってノンシャランで無頓着とは、そのようなものではないことを知った。それは例えば、死についての一元論と二元論を自由に飛び回り、そして更にその間の中間領域でも泳ぎ、潜るような態度である。入不二にとっての自由とは、議論の末にようやく不自由とセットで手に入れられるようなものではなく、その議論を自由に繰り広げるということ自体としての自由であり、そして複数の議論の間を渡り歩き、そして議論に泳ぎ潜る自由のことだったのである。

だから、本当の「ケ・セラ・セラ」とは、先ほどの『あるなる』の時間論に適用するならば、決定した未来とケ・セラ・セラの未来という二つの議論を自由に渡り歩くことができるということであり、そしてその間の領域に見出すことができる中間的な未来をも泳ぎ、潜ることができるということなのである。入不二は、『あるなる』の最終章において、サーフボードでビッグウェーブに乗るという比喩を用いていたが、そこで述べていたのは、きっとそういうことなのだろう。

時間や未来から離れ、より一般化して述べるならば、この自由とは、概念を自由自在に操作し、複数の並列する議論を自由に渡り歩き、時には俯瞰し、時には、議論の中に浸り切るような動的な視点を持った哲学者の自由である。ノンシャランで無頓着とは、哲学者だけが持つことができる自由のことなのである。

先ほど、入不二の変形エピクロス説を、「B(A’)C」という基本文法にあてはめ、「物質的な死(死’)魂の死」という描写を行った。そして物質と魂の両面から死を捉えようとしてもどこまでも逃れていく死を、死’、死’’、死’’’と表現した。これは、概念を自由自在に操作する一例であり、基本文法または概念と遊んでいると言ってもいいだろう。そして、入不二は、この遊びの天才なのである。

(書いてみて思い出したけれど、似たことをどこかで既に書いたかもしれない。そうだとしたら、『老いと死』により、より深く理解できた、ということである。)

なお、『あるなる』の冒頭では、「概念を動かしてみる」というプロローグがある。そこで述べていることと、僕が『老いと死』から読み取ったことはとても似ているように僕は思う。だから、『老いと死』は、『あるなる』の直系の続編だと言ってもいいように僕は思う。

3 死の文法、世界の文法

(1)魂

第二部の死の話については、このように読んだら(ある種の人にとっては)理解しやすいのではないか、という提案がある。それは、ここで登場する魂という用語を、永井の〈私〉の独在性として読むという提案である。

そのように読むならば、入不二の一元論と二元論の対立とは、つまり、永井の独在性を全く認めない物理主義と、いわゆる常識的な世界のなかに独在的な〈私〉を見出す永井の独在論との対立だということになる。

このアイディアは入不二の書きぶりを踏まえても、それほど間違ったことではないと思う。例えば『老いと死』には「「魂」は、墓場を飛び回るような精妙な物質ではない。むしろ、「私のこれ」「今のこのこれ」が魂に相当する。私や今を通して特異的に現れる〈これ〉というあり方は、物質的な領域には位置づけられない。」という表現がある。この「私や今を通して特異的に現れる〈これ〉」という表現は、極めて独在論的だと僕は思う。

そうだとするならば、入不二の結論は次のように言い換えることもできるだろう。「魂としての私(=独在的な〈私〉)は、「死=無」とは別の存在論的水準にあって、「無くなる」ことも「在り続ける」こともない。」と。これは極めて永井的な結論だと僕は思う。

そして僕が興味深かったのは、その永井的な深みのある哲学的結論すらも、入不二のノンシャランで無頓着な態度からすると、自由に飛び回るための足場の一つにしか過ぎなくなるという点にある。入不二は永井の議論すらも、ただそれが可能であるという理由だけにもとづき相対化し、俯瞰し、そこに自由を見出しているのである。

このような無根拠な相対化は、一見、哲学としては軽薄な態度のようにも思えるけれど、そこにこそ入不二の哲学の価値があり、深みもあるという不思議な逆転が生じていることこそが、入不二の議論の魅力だと僕は思う。

(2)魂の一元論・世界の文法

『老いと死』で入不二が用いるのは、物質だけの一元論と、物質/魂の二元論の対立構造である。

この議論の範囲内ではそれでいいと思うが、僕はそれに加えて、実は、もうひとつ魂の一元論とでもいうべき議論があり、ここには、「魂の一元論 - 物質/魂の二元論 - 物質の一元論」という文法があるのではないか、と僕は思っている。つまりこれは、「(一人称的な)世界」についての文法でもあるということになる。「魂 - (魂と物質が混在した)世界 - 物質」という世界についての文法でもある、ということである。

世界という概念を深く捉えようとすると、世界は魂の世界と物質の世界へと排中律により二分化することができる。なぜなら、物質でないものは魂であるからだ。だが、それでは満足できないから、魂と物質の中間領域に常識的な世界が再び潜在的に位置づけられることになる。つまり物質/魂の二元論とは、魂だけ、物質だけというようには先鋭化されえない、魂と物質が混在するような常識的な世界のあり方のことだということになる。

そして、魂とは永井的な独在的な〈私〉だとするならば、魂の一元論というのは、つまり、独我論と結び付けられた独在論的な世界のことである。この世界にあると思っているものは、すべて私の認識でしかなく、目の前にあるパソコンは単なる私がそのように知覚しているだけであり、昨日の昼に飲んだレモンサワーは私の単なる記憶である、ということになる。すべては僕の内的な世界における出来事であり、それがあたかも時間経過とともに生起したような記憶があるだけだ、ということになる。もう少し詳細に語れそうにも思うが、、魂の一元論とは、およそ、そのような独我論的な世界を思い描いてもらえればいいだろう。永井も『世界の独在論的存在構造』p.180において「なぜか知らないが、高度な知性をもった人間が、ともあれ最初から単独で存在している」「(様々な経験・能力を有していると想定してよいが)他者の存在だけは経験したことがない」という状況を想定している。そのような単独存在者としての知的存在が魂として存在しているような状況である。いわばデカルト的な懐疑をしている独在論的主体だけがいる状況だと言ってもいいだろう。

これは独我論としてそれほど変わったものではないし、このように考えてもそれほど問題がないし、多分、物理主義と同程度には破綻もない。全ては物質的な出来事であり、内面などないという見解と、全ては精神的な出来事であり、外面などないという見解は同程度にしか偏った考え方ではないはずである。

そして、実際に存在するのは魂だけでこの世界は幻だと考える魂の一元論と、実際に存在するのは物質だけで魂など幻であるとする物質の一元論とを対比することで、その中間領域に、この世界は物質の世界と魂の世界とを重ね合わせたものであると捉えるような、いわば常識的な物質/魂の二元論を位置づけることができる。これが世界という概念を深化させる「世界」→「物質・魂」→「物質(二元論的な世界)魂」という文法である。入不二の議論をこのように読み替えることは可能だと僕は思う。

(3)入不二の図式の書き換え

以上を踏まえるならば、『老いと死で』入不二が提示した図式は、魂の一元論を追加し、次のように書き換えることができるだろう。

説明を加えると、入不二の図式に対して僕が行ったことは、領域①と④を付け加え、②と⑤に下線部の変更を加える、という作業である。

まず領域①は、領域③と対称的である。つまり、物質一元論においては脳や身体が消え去ってしまえば、それが死であるというのと対称的に、この独我論的な魂が消え去ってしまえば、それが死であり、無であるという考え方である。よって領域①では「死=無」が肯定される。

そして領域②は、そのように魂が消え去ったとしても、二元論なのだから身体や脳としての生命は残る、という考え方が付け加わっている。これは、入不二がもともと提示していた、身体や脳がなくなっても魂としての生命は残る、という考え方の逆バージョンである。

この領域①と②で想定されているのは、今朝、目覚めてみたら、永井均としての身体はそこにあるのに、昨日は永井均であった〈私〉が消えてしまったような事態だろう。領域①の議論によるならば、そのようにして誰かが今朝目覚めるということはありえず、ただ〈私〉は死んでしまっておしまいとなる。一方の領域②の議論によるならば、そのようなことが起きたとしても、永井均自身も含めて誰も気づかないまま、永井均の人生は続いていくことになる。

また領域④には、領域⑥と対称的なかたちで、魂の死に見えるものは、単なるパターンの変容であり、実は死ではない、という議論を入れ込むことができる。

ただし、領域⑥のパターンは物質のパターンであるのに対して、領域④のパターンとは思考や知覚のパターンであろう。独我論的な魂の一元論においては、世界とはつまり、内的な世界であり、死として描写されるものは、つまり、内的な世界における活動が停止することだと言えるからだ。つまり死とは思考や知覚が止まることだということになる。

だが思考がないというのは、思考がないというひとつの思考のあり方であり、知覚がないというのも、知覚がないというひとつの知覚のあり方だと言うこともできる。思考がなく、知覚がないというのも、思考や知覚のひとつのあり方だとするならば、それは内的な世界における単なるパターンの変容に過ぎないということになる。つまり内的な世界に死はおとずれない、ということになる。

同じことを思考や知覚のパターン変容と領域⑥における物質的なパターンの変容と並列的に述べてみよう。

宇宙が消え去り、すべての原子がこの世界からなくなったとしても、それは物質がないという物質のひとつのあり方である。物質というと誤解があるならば、それは物質的な時空のひとつのあり方である。それならば、箱のなかに何も入っていなくても、そこには何も入っていない時空があり、物質がなにもない宇宙にも、そこには何も物質がない時空が広がっているはずである。

同様に、思考や知覚が全くない内的世界とは、それは全くの無ではなく、何も入っていないという内的世界のひとつのあり方であると言うことができる。

そのような意味で、外的世界において物質が完全に消え去ったとしても、それは「死=無」ではなく、あくまでそのような外的世界があるだけであり、内的世界において、全く思考や知覚が消え去ったとしても、それは「死=無」ではなく、あくまでそのような内的世界があるだけなのである。これが領域④における「死=無」の否定の道筋である。

また、領域⑤については、入不二の無関係の議論に加え、もうひとつの無関係の議論を加える必要がある。

入不二の無関係の議論とは、つまり、二元論であるからには、物質と魂の両方の存在を確保しなければならない一方で、魂と物質とは全くの無関係だから、物質世界からは魂の存在も不在も確保できない、よって物質の側からは二元論を成立させることはできず、そこにあるのは「死=無」である、という議論である。

この議論を逆転させることで、もうひとつの無関係の議論を行うことができる。つまり、物質と魂は無関係だから、内的な精神世界からは物質の存在も不在も確保できないという議論である。これはデカルト的な懐疑を行う場面を考えれば明らかだろう。この内的な知覚はもしかしたら夢かもしれないし、悪霊に騙されているのかもしれない。だからこの内的な知覚を手かがりに物質世界にアクセスすることはできない。よって魂からすると物質は無関係である、ということになる。よって、魂の側からしても、やはり二元論を成立させることはできず、そこにあるのは「死=無」である、ということになる。ここでは、物質の側からみた場合の魂の無関係性と、魂の側からみた場合の物質の無関係性が二重に重なっている。

以上のように捉えることで、あくまで概観としてだが、この図式においては、魂の一元論と物質の一元論の間にさまざまな対称性を見出すことができる。二元論を軸とした線対称の構造である。このことからも、二元論は、魂の一元論と物質の一元論のちょうど中間に位置づけられる考え方であることがわかるだろう。

(4)二元論の問題

ここで注目したいのは、図式の中間にある領域②と⑤、つまり二元論である。領域②、つまり議論があまり徹底されていない段階では、二元論は両立という戦略で議論を乗り切ろうとする。脳がなくなって物質が否定されてもまだ魂が残っているし、魂がなくなってもまだ物質としての脳が残っている、というように。二つあるから、どちらか片方が残っていればまだ飛べる双発の飛行機のような戦略である。これはなかなかに強さがある議論だと僕は思う。

だが領域⑤に至り、議論が徹底されると、魂と物質のどちらか片方でも生き残ればいい、というような戦略は不徹底であるとして放棄されることになる。なぜなら、二元論を維持するためには、魂と物質の両方を無傷なまま維持しなければならないからである。だから、領域⑤のより徹底された二元論においては、魂と物質のいずれか片方でも維持できないとなれば、それは死を意味することになる。だから領域⑤においては「死=無」は肯定されることになる。

だが、領域⑤の議論には具合が悪いところがあるのではないだろうか。

まず、領域⑤での議論を再確認しておこう。そこでの議論とは、物質世界の側からにせよ、魂の世界の側からにせよ、物質と魂の間には無関係の断絶があり、もうひとつの世界にアクセスができないというものであった。よって、確実なかたちで物質と魂の二元論を確保することはできない。よって領域⑤にあるのは、つまり死であるという結論に至る。よって領域⑤では「死=無」を肯定することになる。

だが、この議論は実はおかしい。なぜなら、本来の死とは生きていたものが死ぬということだったはずだが、領域⑤における死とは、そもそも生きることすらできない死だからだ。二元論における物質と魂の無関係の断絶により、いっときでも、物質と魂の存在を同時に確認することが不可能なのである。物質と魂を同時に備えなえていないのだから、全く生きることができない。つまり領域⑤の二元論を採用するならば、そもそも最初から死んでいるのである。これは議論の破綻である。この議論はそもそも、生と対比されるものとしての死を考えていたはずなのに、その議論を始めることすらできないのだから。

加えてもうひとつまずいことがある。ここでの二元論は、魂と物質が無関係であるという意味では十分に無であるが、仮に魂か物質の一方が有ったとしても無であると言えてしまい、その点では、「死=無」という議論としては不徹底だとも言えるからである。物質の観点からは、仮に魂があったとしても、物質と魂の無関係さを強調することで「死=無」を肯定できるし、魂の観点からは、仮に物質があったとしても、魂と物質の無関係さを強調することで「死=無」を肯定できてしまう。「死=無」を肯定しつつも魂や物質が存在する余地を残してしまうという点で、「死=無」のうちの「無」の議論としては不徹底なのである。

以上を踏まえるならば、領域⑤の議論は、色々と問題があることがわかる。まず、そもそも「死=無」だから、「死=無」になるとは言えないし、また、魂と物質のいずれかが残る余地があるため、確実に「死=無」になるとも言えない。領域②の両立戦略においては、二元論は強みだったはずなのに、その議論が徹底されて領域⑤に至ると、二元論の強みが裏目に出てそこに矛盾が生じてしまうのである。

では、なぜ、この魂/物質の二元論がそのような道筋をたどるのかといえば、この二元論が「魂の一元論(魂/物質の二元論)物質の一元論」という基本文法における中間領域の議論だからなのだろう。

中間領域の議論の特徴は、その不徹底さにある。なぜなら、中間領域の議論を徹底しようとすると、そこで議論の二分化とずれが生じてしまい、中間領域を中間領域のままで捉えることができないからだ。中間領域の議論はどこまでも逃げてしまうのである。それは、入不二が老いについての議論で示したとおりである。老いを老いのままで捉えきることはできず、それは加齢や老けになってしまう。それと同じことが魂/物質の二元論においても起きているのである。

だから、中間領域に位置づけられる魂/物質の二元論が徹底され、領域②から領域⑤に深まると、一見、頑健そうに見えた議論に色々と綻びが生じる。この綻びとは、この二元論が中間領域に位置づけられていることの証左であり、そして、二元論として顕在化された中間は、文法の深化にともない、再び言葉から逃れ、潜在していく運命にあるということを示すものなのである。

以上が、僕が再構成した入不二の死の文法の概要である。

そして、死の文法とは世界の文法でもあり、魂/物質の二元論とはつまり世界のことであることを思い起こすならば、ここでの主題は世界でもあるということになる。世界についての文法においては、世界はどこまでもこのようにして取り逃がされるのだ。

4 入不二が書きそうで書かなかったこと

ここまで僕は、入不二が書きそうで書かなかったことを書いてきたつもりだ。

第一章においては、入不二が行った能力主義と年齢主義の対比ではなく、能力主義と成果主義の対比を行った。

第二章においては、入不二が用いた文法という概念についての考察を展開し、文法の深化の基本文法というものまで導入した。

第三章においては、入不二の物質一元論と魂/物質の二元論の対比の構図に、もうひとつの一元論として魂の一元論を追加した。

これらが余計な蛇足なのか、それとも入不二の議論の側面支援となっているのか、僕にはよくわからない。少なくとも僕自身にとっては、入不二の議論を体系立てて理解するために必要な付け加えだったと思っている。僕の理解は単なる誤解なのかもしれないがその意図だけは確かだ。

重ねて強調しておきたいのは、僕はここまで入不二の議論の批判をひとつもしていないつもりだということである。それが必要な側面支援だったのか、余計な蛇足で、単なる誤りなのかはともかくとして、ここまで行ってきたことは、すべては付け加えなのである。

だが、ここで一つだけ入不二の文章の批判をしておきたい。

入不二はタイトルに反して、実は死の話をしていないのではないだろうか。入不二の主たる議論とは、魂/物質の二元論と物質一元論を対比するものであった。僕が提案したような構図の読み替えをするかどうかはともかく、いずれにせよ、そこで登場するのは魂と物質である。魂とは生きるものの魂であり、そして物質とは生きるものの身体としての物質である。それならば、つまり、入不二が行っているのは、死ではなく生についての議論であるということになる。

そして入不二は生についての議論をベースとして、そこに生の欠如としての死を描写しようとして、そこに困難を見出す。これは当然のことではないだろうか。直截に死を捉えようとせず、生を経由して死を捉えようとしても成功するはずがない。

僕の入不二に対する批判とはこのようなものである。

だけど僕は思うのだ。死を知るためには、まず生を知らなければならない。一人称の死であればなおさらである。もし、そうだとするならば、死を語るために生を語るという入不二のやり方はとても正当なものだともいえるのではないだろうか。

これも、入不二が書きそうで書かなかったことだと僕は思う。そして、これが余計な蛇足なのか、それとも入不二の議論の側面支援となっているのかどうかも、僕にはよくわからない。

5 irifujing

第4章を書いてみて、僕はふと疑問に思った。僕はどうして、入不二にすり寄るようなことを書いているのだろう、と。入不二の考えに反していようがいまいが、これは僕自身の考察である。入不二の考察を踏み台にした僕の考察が、入不二を批判していようがしていまいがどちらでもいいのではないか。

だが、この文章は、厳密には僕だけの考察ではない。ここに書いたのは、僕が入不二から学び取ったと思いこんでいることであり、つまり、入不二が考えたはずのことを僕なりに読み取ったことを書き残したかったのである。僕は、入不二の考えを理解しようとし、入不二が考えただろうことを考え、入不二が書くはずだったことを書こうとしたのである。

「入不二ならこうだったはずである」と考えることは、つまり、irifujingとも呼ばれる入不二の議論の進め方自体を理解しようということである。だから、この文章の半分くらい(特に文法に関する部分)は、irifujingについての考察として読むことができると思う。

僕が第4章において、入不二の議論から外れていないかを気にしたのは、僕の考察がirifujingの文法に収まっているかどうか不安だったからなのだろう。

そして僕は、この考察はirifujingとも言われる入不二の議論を捉え、その魅力の一端を表現することに成功していると思っている。

具体的には、僕は、irifujingについて、文法という言葉で捉えようとし、それにある程度は成功したと思っている。(正確には、書いている間は意識していなかったが、書き終わってから気づいたのだけど。)

だから最後に、僕が提示した「文法」と絡めてirifujingの魅力を再確認してみたい。僕は、文法について、①サイクルとしての動的な文法、②構造としての静的な文法、そして③概念が代入された具体的な文法、という三種類に区分したので、この区分に沿って確認していくのがよいだろう。

まず、「①サイクルとしての動的な文法」としてのirifujingの魅力については、冒頭で引用した山口の言葉を引用することで十分伝わるだろう。再掲すると山口は次のように言っている。

ここ(※入不二基義の文章)で展開されているロジックの運びは、業界ではときに、英語の動詞で「Irifuji」、動名詞(現在分詞)で「Irifujing」と呼ばれている。すなわち、同型の論理によって事態がどんどんと高階化(あるいは低階化)していく、という理路が「イリフジング」である。

この同型の論理を反復適用することにより、動的に事態が動かされ、高層化(低層化)していく、というのは、まさに、僕が「サイクルとしての動的な文法」として述べていることである。入不二は何らかの構造を反復適用することで概念を動かし、僕たちをとんでもないところにまで連れて行ってくれる。これこそがirifujingの醍醐味だと思う人も多いだろう。この『老いと死』でも、老いや人事評価という身近な話から始めて、僕たちをかなり遠くまで連れて行ってくれたし、死についても、特に引用されている『「私の死」と「時間の二原理」』では、かなりしつこい(褒め言葉です)反復適用を実演してみせてくれている。

また、「②構造としての静的な文法」としてのirifujingの魅力だが、入不二は『老いと死』でも変形エピクロス説という議論の構造を提示している。また、「B(A’)C」というのはあくまで僕が提案した文法構造だが、それは入不二が提示した「老い」の文法構造を一般化したつもりのものである。構造自体に面白さがあるからこそ、その構造を動かすことで、そこから更に動的な面白さを引き出すことができているのだろう。

なお、「B(A’)C」として僕が着目した、入不二の「老い」の文法構造は、『あるなる』で重要な役割を果たしている「中間」と、『現実性の問題』で重要な役割を果たしている「潜在」をコンパクトに取り込むことに成功していると思う。だから、もし、僕が提案した「B(A’)C」という文法構造が面白いものになっているならば、それは、僕が『老いと死』に加えて『あるなる』と『現実性の問題』に大きな影響を受けたからである。その点で、僕のこの文章は、入不二の近著の紹介文くらいにはなっていると思う。

最後の「③概念が代入された具体的な文法」としてのirifujingの魅力は、入不二の魅力として僕が最も強調したいところである。入不二は、どのような概念を構造に代入すれば議論が面白くなるかを熟知している。または意識的なものかどうかはともかく、天才的な嗅覚を持っている。

僕が基本文法として述べたとおり、ある概念Aに着目しようとすると、そこで「ずれ」が生じ、それが概念Bや概念Cという似て非なるものになってしまう。例えば老いに着目すると、それが加齢や老けになってしまう。普通はそれは単なる取り逃がしであり、それが言葉の限界ともなる。僕が哲学カフェをやっていたときに感じたけれど、そのずれにより誤解が生じたり、議論が堂々巡りになってしまったりする。ある人の老いについての発言を、ある人は老けについての発言として誤解してしまうから、議論がおかしくなってしまう、ということはよくある話である。

だが、入不二はそのずれ方を熟知していて、どのようにずれれば面白くなるかを知りつつ、あえて能動的に概念をずらしてさえいる。言葉の限界を、逆に言葉を前に進める力に変えてすらいるのだ。『あるなる』のプロローグにあるように、入不二は、まさに概念を動かしているのだ。

それを成し遂げるためには、どの概念を選定し、どのように概念をずらしていくのかが重要となる。入不二がこれまで選んできたのは、相対主義、運命、現実といった概念であり、入不二は、それらの概念を魅力的なかたちで動かし、新たな相対主義論、新たな運命論、新たな現実論を僕たちに見せてくれた。この『老いと死』でも、老いや死といった概念を動かし、新たな老いや新たな死を僕たちに提示してくれている。(僕は、『老いと死』では死という概念は実は動かしておらず、動かしたのは、生または世界という概念だと思ってはいるけれど。)

この、うまく動く概念を選ぶ嗅覚は、少なくとも僕は真似ができないなあ、と思う。

チーズから学んだこと

※18000字くらいあります。

1 幸福の循環

僕は飼っているチーズというネコのおかげで、幸福の循環というアイディアを思いついた。昨日、『うちのネコのこと ~チーズ編~』(http://dialogue.135.jp/2022/05/21/cheese/)として書いたとおりだ。

僕がチーズから学んだのは、次のようなことだ。
①自分の生命であれ、他の生命であれ、生命は幸せと結びついている
②生命は、他の生命を幸せにしようとして優しくする
③生命は、他の生命から優しくされたら感謝する
④実は、生命は、他の生命から優しくされるから幸せになるのではなく、他の生命に優しくし、他の生命から感謝されることでこそ、自らが幸せになることができる

これらは、僕とチーズとの間のこととして気づいたものであり、すべての生命に言えるかどうかはわからないし、そもそも根拠がない単なるドグマだ。だけど、一応の論拠はある。美しさという論拠である。

このアイディアに基づくならば、生命Aが生命Bに優しくし、それを生命Bが感謝で返し、そして生命Bも生命Aに優しくし、生命Aが感謝で返し、そして優しくする、という循環が生じる。この循環こそが幸福のプロセスなのである。僕はこれを美しい考え方だと思うし、その美しさには何らかの真実が宿っているように思う。美しいから正しい。これが僕の提出する正しさの論拠である。

以上が優しさと感謝による幸福の循環というアイディアである。あくまでこれは僕自身が考えたことではなく、ネコのチーズから学んだことだ。僕は少なくともチーズはそのような循環を構成する存在だと信じているし、そして僕自身も、少なくともチーズにとってのそのような存在でありたいと願っている。

2 尊重がある

幸福の循環というアイディアに基づき考えた場合、誰かに優しくすることと、(優しくした結果として)誰かに感謝されることと、誰かから優しくされることと、(優しくされた結果として)誰かに感謝することは、循環のなかで重なり、溶け合っていくことになる。ちびくろサンボのトラのように。優しくすることと優しくされることは重なり、感謝することと感謝されることは同義となっていく。また「(優しく)する・(感謝)する」という能動態と「(優しく)される・(感謝)される」という受動態の違いも失われていく。そこには、ただ「優しさがある(優しさが存在する)」「感謝がある(感謝が存在する)」としか表現できないような状況が現出する。そしてついには「優しさがある」と「感謝がある」も重なっていく。

その重なった結果については、優しさや感謝ではなく別な言葉で表現した方がいいだろう。僕はそれを「尊重」と呼びたい。なぜなら、優しくするとは、つまり他の生命を優しくするに値する存在として尊重することであり、感謝するとは、つまり、他の生命を感謝するに値する存在として尊重することだからである。そうだとするならば、幸福の循環のサイクルにより、すべてが溶け合った結果、最終的には、ただ「尊重がある(尊重が存在する)」という状況が現出することになる。つまり尊重がただ存在する状況こそが幸福なのである。

ただし、最終的な結果という表現や、存在するという表現は誤解を与える表現かもしれない。幸福の循環とはあくまで動的なものであり、固定的な状況ではない。尊重がただ存在する状況をよく観察するならば、そこには生命と生命の間での尊重の交換、つまり優しくする、優しくされる、感謝する、感謝される、という循環が生じているはずなのである。そのような動的な状況こそが幸福だということになる。

3 祈りの構造

だが、実感として、このアイディアには怪しいところがある。特に僕とチーズの間に限るならば、この循環のなかで最もおぼつかないのは、僕の感謝がチーズにきちんと伝わるかどうかである。チーズの優しさは僕に十分伝わっているし、僕の優しさもチーズに伝わっていると思う。チーズは話せないけれど、チーズが僕の優しさに感謝していると僕にはわかるつもりだ。だけど、僕の感謝がチーズに伝わっているかどうか、実はよくわからない。

なぜ僕からの感謝が伝わっているかがわかりにくいかというと、優しくするという顕在的な行為よりも感謝するという潜在的な行為のほうが受け手に伝わっているかどうかわかりにくく、更に、受動的な「される」よりも能動的な「する」のほうが、受け手の状況がわかりにくいからだろう。

つまり、次のように分類できる。
①顕在・受動 優しくされる 僕にとって最もチーズの状況(優しくする)がわかりやすい
②顕在・能動 優しくする 僕にとって2番目にチーズの状況(優しくされる)がわかりやすい
③潜在・受動 感謝される 僕にとって3番目にチーズの状況(感謝する)がわかりやすい
④潜在・能動 感謝する 僕にとって最もチーズの状況(感謝される)がわかりにくい

このように分類するならば、僕の感謝というのは極めて潜在的な行為であり、そして能動的なことだから、それがチーズに確実に届くかどうかは、その感謝の発信者である僕にはなかなかわからない、ということになる。これは大問題である。なぜなら、もし僕の感謝がチーズに届かなければ、幸福の循環のサイクルが成立しなくなるのだから。

ここで、僕とチーズは幸福の循環を成立させるために別の力を借りる必要があるだろう。その力とは、神様の力である。

実は、僕は神様に具体的なことを祈るのが好きではない。なぜならば、受験に合格するとか手術が成功するといったことは、成否は関係者の努力や運によって決まることだし、失敗したとしてもそれは乗り越えるべき課題であり、その課題を避けることはできないと思うからだ。けれど、「僕の感謝がチーズに届きますように。」という願いは祈るに値するように思う。なぜなら、本質的に関係者の努力や運ではどうしようもなくて、また、その成否の結果もわかり得ないようなものごとは、僕たちの世界から隔絶しており、祈りによってしかアクセスすることはできないからだ。

このような祈りが叶うと信じることは、その結果を検証しようもないという意味で、ドグマである。よって、「僕の感謝がチーズに届きますように。」という祈りは、つまり「幸福の循環が成立していますように。実は単なるドクマでしかない、この美しい構造が成立していますように。」と祈ることである。よって、この幸福の循環とは祈りの構造であるとも言えるだろう。

ただし、以上のような話となるのは、僕の相手がチーズという言葉の通じないネコだからである。相手が人間であれば、言葉によってこの伝達が成功しているかどうか確認できるし、伝達が成功していなければ再チャレンジすることもできる。だから、祈りが必要となるのは、その相手が、言葉が通じない動物や、遠く離れた人や、死んでしまった人のような場合だけである。祈りによってしかアクセスできないものに対してだけ、祈りは役立つのだ。

だが一方で、哲学的には、目の前にいる人間に対して言語を用いるときでさえ、その言語によるコミュニケーションが成立していると考えることは無根拠だとも言える。それが露呈するのは他者の痛みの場面である。僕たちは他者の痛みを知ることができない。だから、誰かにこの痛みを言葉で伝えても、それがこの痛みとして伝わるかどうかはわからない。それならば僕たちはやはり祈るしかない。「この言葉がうまく相手に伝わりますように。」と祈るしかないのである。だから、僕がチーズから教わったことは、人間同士であっても無駄にはならない。人間同士の言語によるコミュニケーションにおいても、根底には祈りがあるのである。当然それは感謝の言葉でも同じことである。感謝の言葉が届くことは、祈りなのである。

動物との間にせよ、死者との間にせよ、生きた人間同士にせよ、幸福の循環という構造は、神様への祈りの力を借りることで、ようやく確実にそのサイクルを回すことができるのだ。

4 夾雑物

僕は、この幸福の循環という構造は極めて美しく、僕はチーズとともに、それを構成する存在でありたいと願う。

だけど、無垢な動物、または幸せの使徒であるチーズとは違って、僕は不純な人間である。僕は、そのサイクルに没頭するには色々なものを抱えすぎている。僕は、チーズが死なないか不安だし、チーズのことを考えることは負担だし、チーズの世話をしていると疲れることもあるし、きっと今後手間がかかるチーズを疎ましく思ってしまうときもあるだろう。僕は、ただ優しくし、優しくされ、感謝し、感謝される「だけ」でいることはできない。それ以外の余計なことを考えてしまうし、感じてしまう。それらがすべて余計な夾雑物であるとは知りつつも、それをやめることができない。

きっと、それらの夾雑物こそが、人間が成長するための課題であり、その夾雑物をなんとか処理していくことこそが、成長するということなのだろう。僕はチーズの死に直面し、この成長の課題を突きつけられている。

(1)労力と献身

では、僕自身が成長していくために、まずは、その処理すべき夾雑物について具体的に列挙し、処理するにあたってどのような課題があるのかを考えてみたい。

まず思いつくのは、労力、努力という夾雑物である。僕は、チーズを動物病院で診てもらうために必要なお金を稼いだり、適切な動物病院を探すのに時間をかけたり、うまくチーズの病状を見極められるような知識を入手したり、給餌をうまくできるような技術を身につけようとしたりする。そのようなことに僕は労力をかけ、よりうまくできるよう努力する。このような労力をかけずに済むならば、もっとチーズに優しくし、また感謝することもできる気がする。また、チーズの優しさや感謝をもっと心から受け止めることもできそうな気がする。優しさと感謝による幸福の循環にとって、労力とは余計な夾雑物である。

だけど、労力とは、優しくあるためには必要不可欠であるという側面もある。優しさとは、単なる心構えではなく、実際に相手の力になるということを含んでいるだろう。口先だけで優しさを語り、何も努力しない楽天的なヤブ医者よりも、患者を救おうと努力し、疲弊しつつも実際に患者を救う医者のほうが、本当の優しさを持っているはずだからだ。優しさは、時には苦しくて疎ましいような労力を伴うのである。

そのように考えるならば、僕がチーズに優しくするためには、その優しさを表現するために必要な労力をかける必要がある。さらには、労力とは優しさの表現そのものであると言ってもいいだろう。人は労力をかけ、努力することによってこそ身をもって優しさを表現することができる。だから優しさとは献身と言い換えてもいいだろう。よって、労力とは単なる取り除くべき夾雑物ではないということになる。労力とは、疎ましいけれど、それ自体が優しさの発露でもあるような二面性を持つものなのだ。つまり労力とは必要不可欠な夾雑物なのである。

(2)不安と期待

では、労力のほかにはどのような夾雑物があるだろうか。

今回のことを振り返ってみると、そこには常に不安という夾雑物がつきまとっている気がする。僕はチーズのことで毎日不安だ。病状が急変するかもしれない、新たな悪い病気が見つかるかもしれない、入院がストレスになってしまうかもしれない、といった不安だ。だが、こういった不安は優しさの発露においては全くもって不要である。不安があってもなくても、僕にできることは変わらない。僕にできるのは、なるべく技術がある動物病院にネコを任せ、病院に言われたとおりのことをして、ネコの病気について僕なりに勉強し、ネコに感謝し、ネコにその感謝が伝わることを祈ることだけである。不安に思いながらやっても、不安に思わずにやっても、やることは全く同じである。これは夾雑物の最たるものだろう。

だが、そんなことは当たり前なのに、それでも不安を手放せないのは、不安にも二面性があるからだろう。不安とは単なる忌むべきものではなく、期待と離れがたく結びついている。僕は明日もチーズが生きていることを期待するし、できれば家に戻れるくらいに回復することを期待する。そんな期待があるからこそ、もしその期待が裏切られたらどうしようと不安になるのだ。期待とは、来たるべき未来にハードルを設けるということであり、不安とは、そのハードルを超えられなかったときのことを思って不安になるということなのである。期待するためには不安を手放す訳にはいかないのである。

もし不安と一緒に期待まで手放してしまったら、僕はチーズに優しくすることはできないだろう。なんとか明日もチーズに生きてほしいと期待するからこそ、そのために必要なサポートをする。僕は期待を持たずに優しくすることなどできない。そのように考えるならば、不安にも二面性があり、不安とは必要不可欠な夾雑物である、ということになる。

(3)行き止まり感と論理的・科学的予測

もうひとつ、僕と妻を消耗させるのが、いずれにせよそろそろ終わる、という感覚である。行き止まり感とでも名付ければいいのだろうか。チーズは残念ながら、どんなに頑張っても、どんなに治療がうまくいっても、あと数ヶ月しか生きることはできない。チーズは6歳で、人間に喩えるならば40代だから、これはとても残念なことだ。チーズが心筋症を発症したと知ったときから、僕たちとチーズがいる世界はあと少しで消えてしまうことが運命づけられている。

僕はこれによく似た気持ちを知っている。海外旅行の最終日の気分だ。夕方には飛行機に乗ることを思いながら、海外のリゾート地の浜辺で最後の散歩をする。そういうときに限って空は晴れ渡っていて、到着したばかりの観光客が楽しそうに写真をとっていて、数日前の自分たちみたいだな、なんて思いながら、僕たちはそれを見ている。とても濃密だけど、どこか色褪せたような世界。今、チーズに感じている行き止まり感とはこういうものである。

このような感覚も、優しさや感謝や尊重とは全く関係がない。なくて済むならそのほうがいいような種類のものだ。つまり余計な夾雑物である。

だけど、僕は人間であり、論理的かつ科学的にものごとを考え、未来を予測する生き物である。予測するからこそ、僕は今日の夕方の飛行機に乗らなければいけないことを知っているし、チーズの命が長くてもあと数ヶ月だということを知っている。もし、予測がなければ、僕は人間として未来を思考し、未来に向かって生きることはできない。僕が人間である限り、この行き止まり感を手放すことはできないのである。

なお、この行き止まり感が未来に対する態度であるのと同様に、先ほどの不安も未来に対する態度であるだろう。行き止まり感とは、わかっている未来に対するネガティブな態度であるのに対して、不安とは、わからない未来に対するネガティブな態度である。

未来の確定した側面に目を向けるにせよ、不確定な側面に目を向けるにせよ、未来を考えることは、より上達し、より優しくあろうとして未来に向かって生きる人間にとっては必須なことだろう。そうだとするならば、未来から行き止まり感と不安だけを切り離して捨てることはできない。行き止まり感と不安は、僕たちが目指す未来の一部なのである。

(4)喪失感と過去の思い出

ここまで、不安と行き止まり感という夾雑物を、未来につながるものとして論じてきたが、過去に目を向けるならば、僕らを悩ます夾雑物として、喪失感があるだろう。

僕たちは、もうチーズは以前のように元気に遊び回ることはないことを知っている。あのときのように、チーズが高いところに登って隙間から顔を見せることはもうないし、そこから飛び降りて、もう一匹のネコとじゃれ合うのを見ることももう二度とない。そのようなチーズの姿は過去の記憶のなかにしかなく、僕たちはそれを再び手にすることはできない。

このような喪失感を僕たちが抱くことは、優しさや感謝や尊重と関係がないという意味で、やはり幸福の循環システムにおける夾雑物である。なくて済むならないほうがいいたぐいのものである。

だが、喪失感という夾雑物を取り除くためには、過去の思い出も一緒に取り除かなければならない。少なくとも、チーズとの思い出を何らかの肯定的なものとして評価することを捨て去らなければならない。もし僕がチーズについての過去の思い出を肯定的なものとして捉えることを取り除いてしまったら、僕がなぜ、このチーズというネコに感謝し、そして優しくするのかがわからなくなってしまうだろう。チーズは、通りすがりのネコではなく、僕と肯定的な関係を長年続けてきたという過去があるからこそ、そこには優しさと感謝の循環の蓄積があったと言えるのである。そして、だからこそ、これからも僕はチーズに優しくし、感謝することができるのである。そのように考えるならば、僕が幸福の循環のなかにいるためには、この喪失感を過去の思い出とともに気軽に捨て去ることはできない。

(5)後悔と反省

喪失感のほかにもうひとつ、過去につながる夾雑物がある。後悔である。僕はチーズのことではいくつも後悔している。もっと早く違う病院に連れていけばよかった、強制給餌のやり方をもっと丁寧に学んでからやればよかった、といった後悔である。後悔というのは夾雑物としてかなり強力で、後悔の念におそわれると、優しくし、感謝するという、そもそも最も大切にすべきことすら忘れてしまうほどである。後悔こそが真っ先に取り除くべき夾雑物のように思える。

だが一方で、後悔は上達のためには必須であるとも言える。より優しくなるためには、より上達しなければならないとするならば、後悔は優しさのために必須とさえ言える。僕は過去の失敗を後悔するからこそ、反省して次は同じような失敗をしないように労力をかけて上達を目指す。それが優しさである。後悔という過去も、それが反省につながるという意味で、幸福の循環においては必要なのである。

喪失感が肯定的な過去の存在意義だとするならば、後悔とは否定的な過去の存在意義である。過去には良いことも悪いこともある。良い過去の思い出は喪失感として僕に降りかかってくるし、悪い過去の思い出は後悔として僕に降りかかってくる。どちらも僕の心を揺り動かし、僕が優しさや感謝に専念することの邪魔をする。だが、過去を過去として受け止め、その過去を優しさにつなげるには、そう都合よく喪失感と後悔だけを捨て去ることはできない。喪失感と後悔とは、僕が拠って立つ過去の一部なのである。

5 過去と未来

(1)時間の捉え方

ここまで、労力、不安、行き止まり感、喪失感、後悔という5つの夾雑物を取り上げてきた。僕うはうまくチーズの世話をしようとして、その労力に疲弊しているし、チーズが病気になって、突然死んでしまわないかと不安だし、結局は数ヶ月でお別れだと思うと行き止まり感とでもいうべきものを感じるし、もう元気なチーズを見ることができないという喪失感があるし、あのときもっとよい治療をすればよかったという後悔もある。常にではないけれど、しばしば、そのような気分におそわれる。そんなとき、僕は、もっと他にやるべきことがあるだろう、とどこかで思っている。そんなことよりも、僕はもっとチーズに優しくし、もっと感謝すべきではないのか。僕たちとチーズに残された時間はそれほど多くないはずだから、不安や行き止まり感や喪失感や後悔にかまける暇はない。これらは可能ならば取り除きたい夾雑物である。

だけど、僕がより優しく生きるためには、それらを単なる夾雑物として簡単に手放すことはできない。労力をかけなければチーズに献身的に尽くすことはできないし、不安がなければ未来への期待もないし、行き止まり感は人間として論理的・科学的に未来を思い描くことと不可分である。喪失感とは過去の幸せな思い出であり、優しさと感謝の原動力でもあり、後悔とは過去の失敗から学んで、より優しくあろうとするためには欠くことはできない。そのような意味で、これらは必要不可欠な夾雑物である。

そして、これらの5つの夾雑物のうち、労力を除いた4つは、不安・行き止まり感という未来に関するものと、喪失感・後悔という過去に関するものに分類できる。つまり、僕たちは過去から未来に向けてこの世界を生きていく存在であるという時間的な事実と、これらの夾雑物とは密接に結びついている。

特に行き止まり感と喪失感は、それぞれ、未来と過去そのものを捉えていると言ってもいいだろう。行き止まり感というのは、人間として論理的・科学的に未来を捉え、予測することそのもののことだと言ってもいい。旅はいつか終わり、そしてチーズとの別れはいつか来るということを知っていなければ僕は人間とは言えない。また、喪失感についても、喪失感とは、過去を思い出の蓄積として捉えることそのもののことだと言ってもいいだろう。もし僕が思い出を全く持たなければ、それも人間とは言えないだろう。

つまり、人間にとっての未来とは予測の未来だからこそ、そこに行き止まり感があり、そして人間にとっての過去とは想起の過去だからこそ、そこに喪失感があるのである。僕が人間としてこの時間を生きていくためには、僕は未来に行き止まり感を感じ、そして過去に喪失感を感じて生きていくしかないのである。行き止まり感と喪失感とは、予測と想起という、人間による時間の捉え方そのもののことだと言ってもいい。

(2)自由意志

5つの夾雑物のうち、行き止まり感と喪失感を時間と結びつけてみた。それは「過去の記憶をもとに、未来を論理的、科学的に予測する」という決定論的な時間の捉え方である。

残る夾雑物である労力と不安と後悔も別のかたちで時間と結びついている。それは「後悔という過去の反省を糧にして、労力をかけて努力し、不安とともに期待を持って未来を切り開く」という時間の側面である。これは自由意志論的な時間の捉え方だと言えるだろう。つまり、5つの夾雑物は、時間論的には2つのグループに分類することができ、行き止まり感・喪失感の決定論グループと、労力・不安・後悔の自由意志論グループに分けることができるのである。

幸福の循環ということを考えるならば、より注目するべきは労力・不安・後悔の自由意志論グループのほうだろう。僕は決定論グループに分類した行き止まり感と喪失感だけではチーズに優しくすることはできない。行き止まり感と喪失感は、想起される事実としての過去と、論理的・科学的に予測できる未来を僕に与えてくれるにすぎない。つまり過去と未来という時間軸を客観的に捉え、僕に時間を認識させてくれるに過ぎない。そのような時間認識は、僕が活動するにあたっての時間的な基盤とはなるが、その時間において僕が主体的に活動し、自主的に優しくするということまでは導くことはできない。僕が主体的に活動するためには、その基盤の上に更に、僕の自由意志が必要である。それを与えてくれるのが労力・不安・後悔である。

では、労力・不安・後悔の自由意志論グループがどのように時間と対応するか確認してみよう。まず、過去の失敗を反省するからこそ、僕は自発的に未来を切り開くことができる。そして不確定な未来に期待するからこそ、不安を感じつつも、僕は自発的に未来を切り開くことができる。そして、自ら未来を切り開くということは、つまり、この現在において労力を厭わず努力するということである。幸福の循環の枠組みで捉えるならば、この努力とは優しくあろうとする努力のことである。こうして、過去=後悔(反省)、現在=労力(優しさ)、未来=不安(期待)というように三つの時制と三つの夾雑物とを組み合わせることができる。

このうちで自由意志として重要な役割を果たすのは、現在における労力である。過去を後悔して反省し、未来に不安を感じつつも期待するからこそ、現在において労力をかけることができる。この労力とは、つまり世界に対する積極的な働きかけのことであり、つまり労力こそが自由意志であるということである。過去の後悔と未来の不安は、ともに現在の労力に貢献する限りで自由意志の確立に役立っていると言ってもいいだろう。過去の後悔と未来の不安はあくまで従たるものであり、もっとも重要なのは自由意志の発露そのものとしての、現在における労力なのである。

ここまで、5つの夾雑物を時間と絡めて論じてきたが、それは次のようにまとめることができるだろう。

時制     :   過去        現在        未来
自由意志論: 後悔(反省) → 労力(貢献) ← 不安(期待)
決定論   : 喪失感(想起)             行き止まり感(予測)

僕の考えによれば、時間はこのようなあり方をしている。より正確に述べるならば、チーズの病気というネガティブな出来事を通じて考察した結果だから、これはネガティブな側面を強調した場合の、時間のひとつの描写の仕方であるとも言える。

(3)自由意志論と決定論

以上のように夾雑物を丁寧に腑分けすることにより、夾雑物は二面性があり、そう簡単に捨て去ることができないことが判明し、あわせて、時間論と紐づけることで、自由意志論グループと決定論グループとに分類できることもわかってきた。

自由意志論と決定論の対立は哲学的な大問題なので、ここで簡単に答えを出すことはできないが、常識的には、決定論をベースにして、自由意志論がその上に乗っかっている、という見方をすることはできるだろう。論理的、科学的に世界のあり方は決まっている。水を熱すればお湯になるし、点滴でネコに水分を与えれば、水を全く飲まないよりは長生きできる。それは当然の決定した事実である。そのうえで、人は自由意志に基づき労力をかけることで、その決定した世界を多少は変えることができる。上手にネコに強制給餌をできるよう努力すれば、その努力の分だけネコは上手に栄養をとり、命をつなぐことができるかもしれない。人間の努力では物理法則を根本的に変え、ネコの病気がなかったことにすることはできないけれど、努力の積み重ねにより、多少はネコの病状に影響を及ぼすことができる。努力はすることもしないことも選べるけれど、努力することを自由意志により選択すれば、その選択により、決定した世界を多少は変えることができる。

以上のような常識的な考え方に基づくならば、これらの夾雑物の二面性、つまり捨て去るべきだが捨てられないという二面性には二種類があることがわかる。

決定論グループに属する喪失感(想起)と行き止まり感(予測)は、世界のあり方そのものに由来しているという点で、より根源的で捨て去ることを想像すらできないものである。一方の自由意志論グループに属する後悔(反省)、不安(期待)、労力(優しさ)は、自由意志を捨てることが可能だとするならば、捨てることはできる。だが、捨ててしまっては自由意志により優しさを選ぶことすらできなくなってしまうから、捨ててはいけないのである。捨てるべきだが捨てることが不可能な決定論的な二面性と、捨てるべきだが捨ててはいけないという自由意志論的な二面性があるのである。

6 人間の優しさと神の優しさ

ここで再び、その夾雑物を本当に捨て去ってはいけないのか、という問題に立ち返るべきだろう。ここで取り上げる夾雑物とは、つまり自由意志という夾雑物である。優しさと感謝の幸福の循環構造のなかには自由意志は登場しない。つまり自由意志とは夾雑物である。だが、その夾雑物は、優しくあるために不可欠だから、やむを得ず、とりあえずの居場所を確保されるのである。だが、本当に自由意志は優しくあるために必要なのだろうか。

この問題を考えるために、まず自由意志を明確に捉え直しておこう。自由意志とは、つまり、4(1)で述べた努力・労力のことである。過去の後悔は反省として現在の努力・労力につながるから必要であり、未来の不安は期待として現在の努力・労力につながるから必要なのである。よって、現在における努力・労力こそが自由意志の本質であり、現在における努力・労力が幸福の循環構造によって不要となれば、自由意志も不要だということになる。

さて、4(1)において僕は努力・労力について次のように述べた。


 ~労力とは、優しくあるためには必要不可欠であるという側面もある。優しさとは、単なる心構えではなく、実際に相手の力になるということを含んでいるだろう。口先だけで優しさを語り、何も努力しない楽天的なヤブ医者よりも、患者を救おうと努力し、疲弊しつつも実際に患者を救う医者のほうが、本当の優しさを持っているはずだからだ。優しさは、時には苦しくて疎ましいような労力を伴うのである。

このヤブ医者と名医の比喩は本当にそのとおりなのだろうか。優しさとは、どこまでも内心の優しさのことであり、どれほど努力したかどうかは優しさとは全く関係ないのではないだろうか。

当然、僕自身の心情としては、疲弊した名医こそが優しいのだと考えたい。優しくあるためには、単に優しい心情だけでは足りず、現に労力をかけ、より上手に優しくあろうと上達し、そしてその優しさを労力をかけて発揮しなければならない。疲弊した名医は、悪態をつきつつも、何年間も手術の腕を磨き、そして何時間にもわたる困難な手術を成し遂げ、患者を救う。それを成し遂げるほどの労力をかけたからこそ、彼は優しいのである。同じように僕は、疲弊してでも、チーズにとって最もよい治療をしてあげて、最もよい看病をしてあげたいと願う。僕はそのようなものとして優しさを捉えたい。

しかし、チーズから教わったことは、幸福の循環構造のほかにもうひとつある。それは、その循環は、祈りによって駆動されるということである。感謝も優しさも祈りによってしか伝わらないのである。僕がどれだけ努力し、労力をかけたかどうかは、実は優しさにとっては全く関係ない。なぜなら、優しさとは祈りなのだから。

当然、このような結論は受け入れ難いだろう。僕自身もそうである。僕のこの労力は、幸せとは全く関係がなく、全く意味がないことだとは思えない。だが、チーズの言うとおり、少なくとも、それを受け入れざるをえない一面があるのは確かだろう。だから、ここで少なくとももうひとつの優しさがあることは認めるべきだろう。優しくあろうとして努力し、労力を費やす人間の優しさと、もうひとつ、ただ祈る神の優しさである。

神の優しさに比べると人間の優しさには限界がある。僕は色々と努力し、労力をかけ、人間の優しさを発揮することによって、疲れてしまって、もしかしたらチーズを疎ましく思ってしまうことがあるかもしれない。だから僕は、なんとか、そのようなネガティブな思いを抱かないように配慮しながら、最大限の労力をかけ、最大限の優しさを表現しなければならない。

そのために必要となるのは、自分の限界を知ることだろう。僕は仕事や趣味もあるから、チーズに優しくすることだけをしている訳にはいかない。そこにはおのずとかけられる限界がある。その限界を知り、その範囲内で最大限に労力をかけることが望ましい。

そのうえで僕は、その限界の範囲内でより多くのことをしてあげられるよう上達するべきだろう。より優しくするためには、より能力を向上し、より効率的にものごとをできるようになることが必要である。

そのように考えるならば、人間の優しさには、その優しさが疎ましさに転化しない限りで、できるだけ優しくあるべき、という限界があるということになる。また限界を超えないまでも、頑張りすぎれば、最大限の労力をかけるべき、できるだけ上達すべき、といった言葉で自らを鼓舞せざるをえない状況が生じる。優しさとは本来、心の奥底から湧き出る自主性に基づくものだとするならば、人間の優しさは、頑張りすぎた場合には、「べき」という言葉で象徴される義務感の力を借りて、その優しさを遂行することになる。本来の優しさからかけ離れた義務感に覆われてしまうというのも人間の優しさのもうひとつの限界だろう。人間の優しさには、疎ましく思わない限りでしか優しくできないという限界があり、また、疎ましく思わないまでも、自主性ではなく義務感から優しくせざるを得なくなるというもう一つの限界があるのだ。

一方で、神の優しさには限界がない。いくらでも相手を思い、いくらでも祈っていいからだ。そう考えると、人間の優しさは旗色が悪い。優しさとは相手を思いやる内心の発露だとするならば、人間の優しさにはその発露の仕方の限界があるが、神の優しさには限界がない。

勝ち馬に乗り、人間の優しさを手放し、神の優しさだけを受け入れるというアイディアは魅力的である。もし、そうしたならば、先ほど掲げた5つの夾雑物のうち、少なくとも労力、不安、後悔という三つの夾雑物は手放すことができるからだ。僕は、チーズに労力をかけることなく、心穏やかにただ祈ることができるし、何も期待せずただ祈るならば不安に感じることもない。よって過去の失敗を後悔し、そこから学び、反省を次に活かす必要もなくなる。

なお、それでも時間的に世界を把握する限り、過去の喪失感や未来の行き止まり感からは逃れることはできない。だが、後悔や不安のような激しい感情に比べて、喪失感や行き止まり感は寂しさとも言い換えられるような緩やかさがあり、まだ対処しやすい。よって、人間の優しささえ手放せば、大部分の夾雑物を手放すことができると言える。

だけど、それでも僕は思う。人間の優しさを手放し、神の優しさだけになってしまったら、この世界がうまく回るはずがないではないか、と。要するに人間の優しさとは自由意志を前提とした優しさのことであり、人間が主体的に世界に関わることができるということを前提とした優しさのことである。そして神の優しさとは決定論を前提とした優しさのことであり、人間は祈りでしか世界に関わることができないということを前提とした優しさのことである。つまりこれは、やはり自由意志の問題なのである。

7 今を生きる

自由意志の問題は手強い。だから、ここでも僕はチーズに教えを請いたいと思う。

ネコのチーズは人間ではないから、人間の自由意志の範疇の外で生きている。そして身をもって神の優しさに駆動された幸福の循環構造を僕に教えてくれた。一方の僕は人間だから、自由意志に基づき、より上手に他者に優しくあろうと足掻く人間の優しさと、チーズから教わった神の優しさとの二つを抱えこんでしまっている。

これが自由意志の問題なのだが、ここで立ち止まらず、もっと先を考えるべきだろう。すると、チーズは、自由意志だけでなく、その手前にある時間という問題領域からも外れ、時間の範疇の外で生きているということに気づくだろう。チーズは過去の思い出の喪失感に悩まされることもなく、未来を予測し、行き止まり感を感じて寂しさを感じることもないはずだ。チーズには自由意志の問題がないだけでなく、決定論的な時間の問題すらないのだ。

人間の用語を用いるならば、チーズは今だけを生きていると言ってもいいだろう。今だけを生きているから、期待も不安もないし、行き止まり感も論理的な予測もないし、喪失感も過去の想起もないし、後悔も反省もない。だから努力して苦労することもない。今だけを生きるとはそういうことである。すべての夾雑物を捨て去り、幸福の循環にただ身を投じるということである。

チーズが今だけを生きているのに対して、人間である僕は過去と未来につながる現在を生きている。今と現在を使い分けるならば、チーズはそれしかない今を生きており、僕は過去や未来と紐付けられた現在を生きている。

僕はヨガとか瞑想も好きだから、この今を生きるというアイディアは魅力的である。これはいわば悟りの境地と言ってもいいだろう。今回のことがあって、とても身近にそれを成し遂げている大先輩がいることに気付いた。ネコはすごいなあ、と僕は思う。

だが、ネコはそもそも、夾雑物など持っておらず、過去や未来という時間も持っていない。そもそも持っていないものを捨て去る必要などない。だけど人間は、ネコの境地に至るためには、それらをあえて捨て去るという不自然なことを成し遂げなければならない。僕にはそれが、よりよい世界を目指すという人間の営みの放棄でもあるように思えてしまう。苦労からの敵前逃亡である。

僕はやはり、チーズに教わったネコの境地を心に留めつつも、あえて人間の境地に踏みとどまり、二律背反を抱えつつ生きるしかないようだ。だが、チーズから教わったことは決して無駄ではない。知らずに苦しむのと、知りつつ苦しむのでは、見える景色が全く違うはずだからだ。

8 生きるノウハウ・光

今後、僕がうまく生きていくために大事なポイントは「動性」だろう。これからの僕は、ネコの境地と人間の境地の二つを抱えて生きるのだから、その二つの境地をうまく行き来しなければならない。そこで必要なのは立ち止まらず動くことである。

これまで慣れ親しんできた人間の領域に立ち返るのは簡単である。問題は、いかに一時的であってもネコの境地に入り込むかである。ネコの境地に少しでも入り込まなければ、人間の境地を相対化して眺めることはできない。つまり、チーズから教わったことを活かすことができない。

ここからは全く哲学ではなく、いわばスピリチュアル系な話になるけれど、僕の場合、今だけに意識を向けるためには「光」をイメージすることが役立つ。今ここの僕自身に光が降り注いでいるイメージである。きっとこれがうまくいくのは、光が差し込む先である、今ここの僕自身にだけ意識が向くからなのだろう。これは僕の瞑想のテクニックである。

そして今回のことがあって思いついて、その光を少し広げ、僕とチーズの両方に降り注ぐところをイメージしてみた。これはつまり、今ここの僕と今のチーズ(例えば、数キロメートル離れた動物病院で入院している今のチーズ)にだけ意識を向けるということである。

これこそが幸福の循環なのではないか。僕がチーズに降らせている光とは、つまりチーズへの優しさの表現であり、チーズへの感謝の表現であり、つまりチーズの尊重である。そして、その光を僕もチーズとともに味わっているということが、つまり、チーズからの優しさの表現であり、チーズからの感謝の表現でもある。僕とチーズがともに光に包まれているということが、つまり幸福の循環のなかに僕たちがいるということの証左なのである。

だから、この光は祈りの光だと言ってもいいだろう。僕の優しさや感謝がチーズに届くように祈るとは、つまり、チーズに差し込む光を思い描き、それが本当の光だと信じることであり、チーズの優しさや感謝が僕に届くようにと祈るとは、つまり、チーズとともに僕に差し込む光を思い描き、その光を信じることなのである。

だから、僕は具体的な何かを祈ってなどいない。ただこの光を思い描くだけである。祈りとは、具体的な内容を持たない行為なのだろうと僕は思う。その無内容さを象徴するものとして光はふさわしい。

なお、このアイディアは哲学と全く関係ないという訳でもない。僕が好きな入不二基義は、『現実性の問題』において、現実性の力を光に喩えている。そしてその力は無内包(無内容)だとも言っている。また、その無内包を象徴するものとして祈りにも言及している。つまり、入不二的に述べるならば、この光とは、まさに無内包の現実性の力のことなのである。

それを受け入れるならば、この光とは、つまり、僕とチーズが現実のものであることを示すものである。入不二の言葉の使い方でないが、僕とチーズが現に存在していることを示している、と言ってもいい。この今において、僕とチーズは確かに存在している。存在を認めるとは、つまりその存在を尊重するということであり、それこそが、その存在に対する原初的な優しさであり、そして感謝の表現でもあり、そしてその存在に対して優しさや感謝が届くように祈ることでもある。このようにして、存在=尊重=優しさ=感謝=祈りは一体のものとして結びつく。

なお、入不二は、現実は顕在する存在だけではなく、潜在する存在にも及ぶと考える。だから、病気になる前の元気なチーズも現実だということになる。だから、僕のこの光も、病気になる前のあの元気なチーズに降らせることができるだろう。入不二が言うとおり、現実性が遍在しているならば、僕のこの光もあまねく降り注ぐはずである。

だから、「今を生きる」というのは誤解を与える表現かもしれない。チーズが本当に僕に教えてくれたことは、「無時間を生きる」と言い換えたほうがいいかもしれない。時空を超えて、僕はすべてに優しくし、そしてすべてに感謝し、すべてを尊重し、すべてを祈り、すべての存在を認めることができるはずである。チーズはそうしており、僕がチーズから学ぶべきことも、そういうことなのだろうと思う。

きっと、チーズから見える世界は、過去も未来もすべてがそこにあり、すべてが光に包まれていて、そしてそこで優しさと感謝が循環しているのだろう。これは入不二が描く現実性の描写とも酷似している。僕もこんな世界に住み続けたいと願う。

※ 僕は以前、『バイタル・スフィア』(http://dialogue.135.jp/2018/03/17/vitalsphere/)という文章を書き、愛と存在の二元論的な世界を提案したけれど、僕がチーズと入不二から学んだところによれば、この世界とは、存在と愛がひとつに重なる一元論的な世界だということになる。

9 没頭と忘却

だけど、残念ながら、僕は光あふれるユートピアに長居することはできない。やがて僕は人間の世界に戻り、なんとかチーズが元気になってほしいと願い、腕がいい動物病院をネットで探したり、上手な給餌の仕方を勉強したりしなければならない。そんなことに疲弊しながら、今後どうなるのか不安になったり、失敗を後悔したり、どうやっても大きく寿命を伸ばすことはできないと寂しくなったり、失われた過去の思い出を寂しく思い出したりしながら、なんとか、僕はこの世界で少しでも何かチーズのためになることをしたいともがくしかない。

それでも、僕は光に包まれたチーズの世界を思い起こすことで、少しは元気がわいてくる。チーズが僕に教えてくれたことは決して無駄ではない。それに僕は「光」を用いることで、いつでもチーズの世界を覗くことができる。

僕がうまく生きていくためには、この人間世界と、チーズの世界とをうまく行き来することが肝要だ。そこでのキーワードは動性である。中途半端に立ち止まらず、きちんと二つの世界に入り切るのだ。

中途半端に労力をかけることを諦め、無力感から祈ってもチーズの世界に至ることはできない。一時的であっても、すべてを捨て去り、無内包の光を降らせるように祈らなければ、チーズが教えてくれたことを思い出すことはできない。

また、中途半端に現実をみつめ、他人ごとのように人間世界での営みのことを考えても人間世界でうまく立ち回ることはできない。この人間世界においては、僕はチーズの世界のことなど忘れ、この人間世界に没頭し、この人間世界がよりよい世界となるよう努力し、苦しくても、悲しくても、寂しくても、そこに全力をかけるしかない。

中途半端ではない全面的な没頭と全面的な忘却こそが重要なのである。振り切るような動性が僕にとっては必要なのである。そのようにして僕自身をうまくコントロールし、できればコントロールしていることも忘れ、人間の世界とチーズの世界を渡り歩いていくのが僕にとっての最適解なのだろう。これはチーズが教えてくれたことではなく、僕自身が思いついたことだけれど、そう悪くないアイディアだと思う。

※ この文章を書くのに一週間くらいかかったけれど、そのうちにチーズは退院して、結構元気になった。二度とないと思っていたけれど、楽しくおしゃべりしてくれたり、高いところに登ってみせたり、自力でご飯を食べてみせたりしてくれている。いつまでこれが続くかはわからないから毎日が心配だけど、とても嬉しい。

うちのネコのこと ~チーズ編~

僕の家にはチーズというネコがいる。

僕の家には、チーズとタックンという二匹のネコがいる。あまり固有名詞を書くと身バレしてしまうかもしれないけれど、名前をきちんと書き残しておくことは、身バレのリスクよりも大事なことのように思えるので、あえて書き残しておくことにする。

この文章で書き残しておきたいのは、二匹のネコのうちチーズのことだ。実は今、チーズはうちにはいなくて入院している。心筋症という病気なので、どんなにすべてが良く転がっても、長くても数ヶ月の命だということがわかっている。だから、僕の家にはチーズというネコがいる、と現在形で書いていいのかわからなくなる。僕が書き残したいのが、チーズが元気だった頃のことだから、余計にわからなくなってしまう。だけど、あえて現在形で書いておくことにする。もしかしたら、今後、数ヶ月であっても、おまけのご褒美のような日々があるかもしれないからだ。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

だけど、もしそうならなくても、十分、彼女(チーズは女の子)には楽しませてもらった。これからは彼女の好きにしたらいいと思う。彼女が生きようとする限り、僕と妻は、それをサポートするだけだ。この思いは、実際に近くにチーズというネコが今いるかどうかはあまり関係ない。だから、僕の家にはチーズというネコがいる。

チーズの体調のこと

僕は以前、飼っていた別のネコについての文章を書いたことがある。『ハナの死で考えたこと』http://dialogue.135.jp/2018/03/17/hana/という文章だ。

今は読み返したくないのであやふやな記憶だけど、この文章の中心は彼女(ハナちゃんも女の子)の調子が悪くなってからのことが中心だったと思う。一方で、この文章で僕が書きたいのはチーズが元気だった頃のことだ。

だけど、とりあえずの記録として、ハナちゃんと同じように、チーズの調子が悪くなってからのことも書き残しておく。本編は元気だった頃のことなので、そこまで読み飛ばしてください。

さて、チーズの体調に関係ありそうな話は出生の頃まで遡る。チーズは、妻の知人の知人が赤ちゃんネコを保護し、ハナちゃんがいなくなって寂しがっていた妻が譲り受けてきたネコだ。妻が聞いたところによると保護の経緯は、路上に可愛そうな赤ちゃんネコの死体があると思ったら生きていた、というものだったそうだ。死にかけネコだ。きっとチーズの体調の悪さはこのあたりにも起源があるような気がする。(チーズという名前は、保護した家の子供が名付けたそうだ。)

なお、うちに来たときは、もう1歳近くなっていて、死にかけの赤ちゃんネコではなくなっていたけれど、痩せて小さいネコだった。その頃から元気いっぱいという感じではなく、ご飯もあまり食べない子だった。

その後はご飯を食べないながらも元気にしていたけれど、昨年の秋頃、つまりチーズが多分5歳半くらいの頃、突然まっすぐに歩けなくなり、足をひきつるような感じになってしまった。あわてて救急病院に連れて行ったところ、アンモニアが高いということだった。原因がわからないのでアンモニアを下げる薬を飲ませたところ、時々、同様の症状は出るけれど、最初のときほど長時間ではなかったので、てんかんか何かと思い、様子見していた。なお、今もその理由はわからない。

そのような状況が半年ほど続き、今年のゴールデンウィークの前半、ネコの世話は娘に任せ、久しぶりの夫婦での3泊旅行から帰ったところ、どうもチーズの様子がおかしかった。苦しいような、怒ったような、変な感じだったのだ。だが、時間が経つと元に戻ったので深くは考えず、連休明けに一応病院に連れて行こう、と妻と話していた。ただ、ふたりとも、なんとなく、この数ヶ月、元気がどことなくないような感じはしていた。

そして連休明け、ちょっと遠くの専門的な感じの動物病院に妻がタクシーで連れていったところ、待合室でいきなりパニックのようになり何回も吐いてしまった。その結果、誤嚥性肺炎になってしまった。そして、肺炎の検査をするなかで、心臓も心筋症の疑いがあるということが判明した。

月曜日にパニックになり、そして1週間かけて徐々に調子が悪くなり、木曜日にはレンタルした酸素室の中に入れても見ていられないほど息苦しそうになってしまった。妻は連日のように病院に連れていき、誤嚥性肺炎の治療をしていたけれど、今日、金曜日になって、ようやく、息苦しいのは、誤嚥性肺炎だけでなく、主に心筋症による胸水のせいだということが判明した。そして今は、胸水を抜いた経過観察のために、チーズは入院している。

胸水がたまるほどの心筋症というのはかなり深刻だ。ネットで調べた限りでは、うまくいけば数ヶ月生きる可能性はあるが、すぐにでも心臓が止まって突然死してしまう可能性もある。更に誤嚥性肺炎があり、多分肝臓のせいでアンモニアが高いということも考えると、チーズは満身創痍だと言っていいだろう。かなり厳しい状況である。

以上がチーズの体調についての記録だ。

このように書いてみると、ハナちゃんのときは僕が看病でがんばったけれど、チーズについては妻ががんばっているので、これはほぼチーズと妻についてのストーリーだと言ってもいい。だからこれは、書く権利がない者が、それでも書かずにはいられないから書いた、排泄物のような文章にすぎない。

排泄物と表現したけれど、僕がこのようなことを書いているのは、もう二度とこのことを書かないで済むようにするためだ。

書くことで、今後は、その書いたことについて思い出さなくて済むようになる。なぜなら、あえて思い出さなくても、ここにそのときの記憶が保存されるからだ。文章として、まるで剥製のようにチーズの記憶を残しておくのは、悪趣味かもしれないけれど、僕なりの過去との折り合いの付け方である。

あともうひとつの理由として、似たような症状のネコを飼う飼い主のなにかの役に立つかもしれない。

チーズの紹介

 さて、いよいよ、チーズが元気な頃の話に移る。

 うちには、チーズとタックンという二匹のネコがいるけれど、チーズは妻に懐いていて、タックンは僕に懐いている。だからチーズはいわば隣のネコだ。だから、やはりチーズが元気な頃の話も妻の方に書く権利がある。僕は傍観者として、チーズの元気な頃の記憶を剥製として残すような作業をしている。そうしたくなるほどには僕も傍観者として落ち込んでいる。

 ただし、チーズが元気な頃の話をすることの意義は、それだけではないような気もしている。もう少しマシな意味がどこかにあるような気がしている。そんなものが本当にあるかどうかを確かめるためにも書き進めてみたい。

 さて、まずはチーズのことを紹介しておきたい。誰かが飼っているネコのことなんて知りたくないと多くの人は思うだろうけれど、奇特な人はいるかもしれないし、僕自身のためになるし、こうやって書き連ねていくうちに、なにか気づくことがあるかもしれない。

 チーズは6歳のハチワレで、体重が3kg少々しかない小さいやせっぽちのネコだ。しっぽは短くて、手足が白くて、鼻と肉球はきれいなピンクで、キョトンとした顔をしている。妻はその顔の可愛さにやられて連れてきたようだ。

 さきほども書いたけれど、食が細くて、元気なときでもなかなかご飯を食べない。チュールくらいは嬉しそうに食べるけれど、それほど量は食べない。唯一、猫草は嬉しそうに食べる。もう一匹のタックンも猫草が好きだから、このときだけは奪い合いになる。だから、僕が猫草を摘んで帰ったときは、なぜわかるのかは不明だけれど、玄関から出そうになって二匹で待っている。僕はそれをどかしてうまく家に入る。草が好きだからか、ベランダにあるオリーブの木の葉も、どこまで飲み込んでいるかはわからないけれど、バリバリと引きちぎる。

 ただ、猫草を食べても食べなくてもだけど、しょっちゅう吐く。だいたい、ドライフードが膨らみすぎてしまったときに吐くようだ。胃が小さいのかもしれない。それが少々心配だったけれど、今や心臓や肺が大問題なので、それは杞憂だったということになる。

 警戒心が強くて来客があっても絶対に出て来ない。宅急便がインターフォンを鳴らすと「ウ~」と唸る。

 声も独特で、可愛い顔なのに「ウギャ」という感じの濁点が多めのダミ声で、声が大きい。ゴロゴロするときの音も大きくて、チーズが隠れていても、ゴロゴロする音でどこにいるかわかるほどだ。

 本ニャンは公表してほしくないかもしれないけれど、チーズは脱腸気味だ。時々お尻をシーツにこすりつけ、赤い筋を書く。やめてほしい。

 チーズはタックンと仲がいい。先にチーズが来て、一匹じゃ寂しいかと思ってタックンを2ヶ月後くらいに迎え入れた。タックンのほうが大きいので、じゃれながら喧嘩になっていくとチーズが折れるかたちにはなるが、基本的に、チーズのほうが先住猫としての威厳があるように思える。年齢は逆だけど、力がある弟を、「仕方ないなあ」と見守る姉のような感じだ。

 だから寒いときはくっついて丸くなっているし、互いに毛づくろいもしている。タックンがチーズの頭を押さえてペロペロ舐めるから、チーズの眉間のところはツバ臭いことが多い。

 チーズは人間が好きなネコだ。よく妻の顔にくっついて寝ているようだし、妻がいないときなどは僕の股の間で寝ることもある。僕は寝相が悪いので僕が寝たあとはどこかに行ってしまうようだが、妻の顔のところで寝ているときは、朝までそのままのこともよくあるようだ。

 人間が集まって話していると、そこがテレビの音などでうるさくない限り、必ず近くにいる。人間が食卓を囲んでいるときだけは不思議といないことが多いけれど、それ以外はだいたい近くにいる。僕がパソコン椅子からベッドに足を投げ出していると、二匹が奪い合うように膝に乗ってくる。チーズはベストな場所をタックンにとられて、その隙間に潜り込むように座っている。妻がソファーに横たわってテレビを観ているときも同様だ。

 二匹はだいたい一緒にいて、妻の観察によれば、最近はたいてい、午前中は僕のベッドに二匹でいて、午後は妻のベッドに二匹でいるようだ。

 あと、チーズは器用なネコだ。引き戸をすぐ開けられるようになったし、小さい頃はよくボールをドリブルしていた。紐のおもちゃで遊んでいても、タックンは捕獲しようとする感じだけど、チーズは手でうまく挟んでキャッチしようとする。チーズの手が人間みたいだったらいいのになあ、と思う。

 どうでもいいネコ自慢になってしまうけれど、チーズは仕草がかわいい。ベッドの上に手だけを出しておもちゃを攻撃してみたり、レンジフードの上に置いたダンボールから顔をのぞかせたりする。(レンジフードを踏み台にして天窓に登ってしまうと危ないのでダンボールで封鎖しているのだ。)パソコンを使っていると、たいてい僕でも妻でも邪魔をしにきて、キーボードの上に乗る。だから、謎の文字が入力されてしまう。それはそれで困るけれど、とてもかわいい。

 一人遊びも上手で、ネズミのおもちゃを咥えて、ウ~と唸りながら僕や妻のところに持ってきてくれる。偉いね~と褒めると満足そうにしている。妻が洗濯物を干して、2階のベランダから1階に空のカゴを持って下りるときは、そのなかに入る。妻はそれをネコエレベーターと呼んでいる。妻が洗濯物を畳んでいると、バスタオルに勝負を挑み、ケリケリする。

 ひとつひとつは、ネコならよくあることなのかもしれないが、全体として、チーズは控え目で仕草がやさしいのだ。あまり野性的じゃない、と言えばいいのだろうか。

 だから、妻が爪を切るときも協力的だし、妻に目やにを取ってもらうのも好きだ。印象深いのは、チーズと紐のおもちゃで遊んでいるときのことだ。すると、たいてい、体が大きいタックンが割り込んできて、おもちゃを奪ってしまう。そんなとき、チーズは不満そうに「フッ」と息を吐いて少し離れる。それはまさに、仕方ないなあ、と弟におもちゃを譲る姉の仕草だ。

 控えめだけど、決して運動神経は悪くない。以前飼っていたハナちゃんは生まれつき体が弱かったのであまりジャンプもできなかったが、チーズは体が小さいせいかそこそこ身軽だ。若い頃は吹き抜けの天窓まで上がることもあったし、今も虎視眈々と食器棚にジャンプして入ろうと狙っている。そして数日に一度は侵入を許してしまい、皿にはネコの毛がついている。チーズは体重が軽いので、階段の上り下りも軽やかだ。タックンだと、トントントンと音がするけれど、チーズの場合はトコントコンという音がする。調子が悪くなる直前、スケルトン階段の下から階段を下りるチーズを眺めていた一瞬を忘れたくない。まるで空を飛んでいるみたいだった。

 そして、一番のチーズの特徴は、よくしゃべるということだろう。ハチワレはよくしゃべるというけれど、チーズは本当によくしゃべる。啼く、ではなく、しゃべるのだ。チーズが前で待っているのでベランダに出る戸を開けてあげると、必ず、「ニャッ」と言いながら外に出る。明らかに僕に軽く声をかけている。チーズは脱腸気味なので時々お尻を拭いてあげると、「ニャー!」と一声だけ怒る。これは明らかに「やめてよ、もう」と怒っている。僕はあまりやらないけれど、妻が何か話しかけると、よく「ウニャウニャ」と相づちを打つ。また、チーズが何かを話しかけてきて、妻が「そうだね~」と相づちを打つこともよくあるそうだ。僕もよく目撃しているけれど、確かに会話をしているようにしか見えない。

 よくしゃべるからだろうか。チーズは頭がいいように感じる。特に印象的だったのは、僕がタックンを予防接種に連れていったときのことだ。妻によれば、チーズは妻の回りをグルグルと回り、僕とタックンが立ち去る方向に向かってニャーと啼いていたそうだ。それはまるで、「ママ、タックンが連れてかれた~!」と訴えているようだった、とのことだ。

妻とも意見が一致しているけれど、チーズは一言で言うと不思議なネコだ。不思議なほどに色んなことがわかっている。当然、ひとつひとつの仕草はネコなのだけど、すべてをつなげると、かなり人間味があるし、言葉が通じない分、しばしば人間より賢いのではないかと思わせるような存在だ。妻は妖精で天使だと言っている。

執着がなくて儚げで、控えめで優しい存在。この家にちょっと訪問してみました、という感じで数年間滞在してくれているような存在。それが僕にとってのチーズ像だ。

チーズの生命

チーズは病気の特性上、長くてもあと数ヶ月しか生きることはできない。状況はもっとひどいから、遅かれ早かれ、命が尽きようとしている、と考えた方がいいだろう。

だけど、チーズは今まで5年間、我が家にいた。そして今もいる。この生きてきて、そして今も生きているチーズとは一体何なのだろう。チーズが元気だった頃のことを現在形によって書くことで、そのことを僕は考えておきたい。今が、チーズのことを現在形で書き、考えることができる最後のチャンスかもしれない。

チーズの生命は二通りに捉えることができるだろう。チーズ自身にとってのチーズの生命と、僕たちにとってのチーズの生命だ。一人称の生命と二人称の生命と言ってもいい。

僕たちにとってのチーズの生命とは、多分、幸せの塊のようなものだ。そして、チーズとは、僕たちにその幸せを届けてくれる天使のような存在である。もう一匹のタックンも当然僕たちを幸せにしてくれている。けれど、彼はネコっぽいネコなので、勝手に自分自身が幸せになり、僕たちも勝手に幸せになっている、という感じがする。一方のチーズは、チーズがいることで僕たちが幸せになることを、チーズ自身が自覚していて、意図的に僕たちを幸せにしてくれているような感じがする。その意味で「幸せを届けてくれる」という表現がふさわしい。だから天使なのだ。

そして、僕たちも、その幸せの受け手としてふさわしい存在であると思いたい。僕も妻もチーズの具合が悪くなるまできちんと話し合ったことはなかったけれど、ともに、チーズが元気である限られた時間のなかで、その瞬間ごとの幸せを受け取ることに自覚的であろうとしていた。そうすることで、チーズが届けてくれるものを漏れなく受け取ろうとしていた。チーズが横で寝てくれている瞬間、チーズが挨拶してくれている瞬間、そんな瞬間ごとをかけがえのないものとして受け止めようとしていた。そして、僕たちはきちんと受け取ることができた、と信じたい。

チーズがいてくれていた5年間は我が家の黄金期と言っていいと思う。子供の病気など色々ありはしたが、家があって、そこに人間3人とネコ2匹の家族がいて、仕事にも不安はなくて、介護の問題もなく、物質的に充実していた。今後も別のかたちでの幸せはあるだろうけれど、この5年間は、中年の僕たちに典型的な人生の充実期だったのだろうと思う。チーズを失おうとしている今、これはチーズが運んできてくれた期間限定の幸せなのだろうなあ、と噛み締めている。僕たちは次のフェイズに進み、そこで、チーズ抜きでも別な形で幸せになれるということをチーズに見せてあげたい。

チーズは5年間、僕たちを見守り、応援してくれ、そして幸せを届けてくれた。それが少なくとも今までのところでのチーズの生命の僕たちにとっての意味のような気がする。

では、チーズの生命のチーズ自身にとっての意義とはどのようなものなのだろうか。

まず言えることとしては、チーズが僕たちに幸せを届けてくれているのと同様に、僕たちもチーズを幸せにしていると信じたい、ということがある。チーズの生命とはチーズ自身に幸せをもたらすものであって、その幸せを僕たちが手助けできていればいいなあ、と僕は願う。

だが、チーズの生命は、チーズ自身にしか捉えることはできない。それは当たり前のことなのだけど、加えて優しく控えめだという彼女特有の性格もある。彼女の病気は心筋症という先天性のものだ。だからチーズは自ら寿命を決めているとも言える。多少看病の仕方に不手際があって、僕たちが彼女の寿命を縮めてしまったということはあるかもしれない。強制給餌をもっと丁寧にすればよかったとか、もっと早く診察すればよかったとか、後悔はある。だけど、それは多少の誤差であって、おおむね、彼女は自らの生命のあり方も自らで選ぼうとしているように僕には見える。チーズはこんなところまで、僕たちに配慮してくれて、優しいのだ。彼女は、不手際を後悔している僕たちに、「関係ないよ。私が決めたことだから大丈夫だよ。」と言ってくれているような気がする。

そのような事情もあり、結局、チーズの生命とは何か、という問題はチーズがあえて自分自身だけで背負っている問題であり、彼女自身にしかわかりえないものである。そこにはいわゆる一人称特有の問題がある。

人間同士であれば、考察はここで終わるか、または哲学的な方向に進むだろう。だが、チーズはネコであり僕たちのペットであるとともに、僕たちにとっては天使のような、妖精のような存在だ。そんなチーズに対しては、もう少し語ることがあるような気がする。

まず、チーズはペットであり、まさに子供のような存在であり、僕たちが保護し、面倒をみてあげるべき存在だ。だから、チーズの生命とは何か、という問題については僕たちが答えを出してあげなければならない。それは生命の冒涜ではなく、僕たちとチーズはそのような関わり方しかできないのだ。

もしそうならば、僕たちは、チーズの生命を幸福で定義するしかないだろう。僕たちがチーズをどれだけ幸せにし、そしてチーズがどれだけ幸せそうにしているかでチーズ自身の生命の意義は決まる。僕たちはそうするしかないし、チーズはそうされるしかないのだ。これがひとつの答えである。

更に、チーズは単なるペットであるだけでなく天使で妖精でもある。彼女は単なる動物ではなく、僕たちにとって彼女は僕たちに幸せを届けてくれる存在であり、幸せの使徒のような存在だ。それならば僕たちは彼女をそのように処遇しなければならない。

幸せの使徒としてのチーズを信じるならば、僕たちはどこまでも、チーズ自身にとってのチーズの生命とは、幸せの使徒としての生命であると信じなければならない。それならば、幸せの使徒たるチーズの生命を輝かせるのは、やはり幸せによってであるはずだ。チーズのおかげで僕たちが幸せになり、その幸せをチーズに感謝し、その幸せをチーズに返すことによってこそ、幸せの使徒であるチーズ自身の生命はより輝くはずだ。

つまり、チーズがペットであるにせよ、幸せの使徒であるにせよ、いずれにせよ、チーズにとってのチーズ自身の生命とは、幸福により定義されるものなのである。そして、その幸福とは、決して漠然としたものではなく、僕たち家族が具体的に把握し、判断することができるものなのである。

明らかにチーズは僕たちに幸せを届けてくれている。病院の酸素室で息苦しくしているだろう今だってそうだ。彼女がいるからこそ、僕はこの幸せな5年間を噛みしめることができている。この文章は、チーズに対する感謝の手紙だ。この気持ちが彼女に届くといいなあ、と僕は願っている。そう願うこと自体が僕を幸せにしてくれる。

そして、同じように、チーズに幸せが届いていればいいなあ、と僕は願う。僕たちがしたことによりチーズが幸せになっていて、そして僕たちに感謝してくれていて、その感謝の表現こそがチーズが僕たちに幸せを届けるということだといいなあ、と僕は願う。

つまり、僕の願いは、僕たちとチーズの間で幸せの循環が成立している、ということである。お互いに、幸せにしてくれたことに感謝し、互いを幸せにしようとするという、まさにその営みこそが、幸せである、という意味での幸せの循環である。

つまり、チーズが幸せの使徒であると考えるならば、僕たちもチーズにとっての幸せの使徒にならなければならないということである。そして、ある程度まではそれを成し遂げているということである。

これは根拠のない単なる願いだけど、そう的外れなものではないと思う。僕たち家族はそのような関係を築けていると信じたい。そして僕自身は、幸せの使徒として、もっと幸せを感じ、もっと感謝し、もっと幸せを届けられるよう成長したい。そうでないとチーズに不釣り合いだ。チーズに笑われてしまう。

風の谷のナウシカの漫画の感想

※2300字くらいです。完全ネタバレ注意です。

昔、ほぼリアルタイムで読んでいたのだけど、ふと読みたくなって全巻を買い直した。

昔読んだときの感想は忘れたけれど、今回の感想を一言で言うと、この本の主題は、「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」というものだ。前のときはそうは感じなかった気がする。読むたびに感想がかわるというのはいい本の証拠だ。

さて、僕の勝手なランキングだと、この本に出てくる、他の人(生き物)に影響を与えた人(生き物)トップ10は次のとおりになるだろう。

10位 シュワを吹き飛ばした巨神兵
9位 ナウシカの後日談として国を治めたクシャナ&チクク
8位 200年前に土鬼をつくったナウシカに似た初代皇帝
7位 たくさんの街を飲み込んだ巨大粘菌
6位 戦争を引き起こしたトルメキア王
5位 蟲と瘴気を武器に使って大海嘯を引き起こした土鬼の皇弟
4位 何度も大海嘯で腐海を広げた王蟲たち
3位 シュワの墓所を作って悪用される技術を後世に残した人
2位 シュワの墓所を破壊したナウシカ
1位 火の七日間を起こした昔の人
番外 悪人だけど登場が遅いからあまり人を殺してない土鬼の皇兄

このなかには、クシャナ&チククのように良い影響しか与えていない人もいるし、トルメキア王や土鬼の皇兄や火の七日間を起こした昔の人のようにほぼ悪い影響しか与えていない人もいる。また、最初は良い人だったのに途中から悪い人になってしまった初代皇帝と皇弟のような人もいるし、ナウシカやシュワの墓所を作った人のように、良い悪いの判断がつきにくい人もいる。

だけど、この本は、そんな評価はどうでもよくて、それがとにかく生きるということなんだよ、と言っているように僕には思えるのだ。

1位はともかく、2位のナウシカと3位の墓所を作った人に着目して考察してみよう。

ナウシカは物語の終盤まで、人を殺したくない、人が不幸にならないようにしたい、いや人以上に腐海の生き物たちを殺したくないし、不幸から救いたい、そう思って行動をしている。だけど、大海嘯に飲み込まれ、巨神兵に出会ったあたりから、ナウシカは大きく変わっていく。
例えばナウシカは、何千、何万の人の死をすでに見てきたのに、一匹のキツネリス(テト)の死を悼む。それはエゴだとしりつつ、そのエゴこそが生きるということだと気付いていく。

そして、最終盤、ナウシカはシュワの墓所との対決に赴く。
ナウシカは、シュワの墓所を作った人たちが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということを見過ごしていると断罪する。数千年前の一握りの人間のアイディアにより、何千年もの生命の営み、つまり生命相互の影響のやりとりをなかったものにして、すべてを消し去って、再び予定どおりの生命のプロセスを再開させるなんて傲慢だ、ということである。そしてナウシカは墓所を破壊する。

だけど、物語のラストでナウシカは、墓所と王蟲とに同じ血が流れていることに気づく。つまり墓所も生命のひとつだったということだ。考えてみれば墓所とは、何千年も前の人々の生命の営みの結果としてつくられたものである。墓所さえも「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」という原則からは離れることはできなかったのである。そして、それを破壊したナウシカも当然、他の生命に大きな影響を与える、という意味ではほぼ同等のことをやっている。そして王蟲たちも、大海嘯を引き起こしてほぼ同等のことをやっている。先ほどのランキングに入ったような登場人物(生命)たちは以下同様である。

きっとナウシカはどこかのタイミングでそのことに気付いていたのだろう。自分や墓所を作った人たちを含めたすべての生命の愚かさと力強さを慈しみながら、あえてそのような行動をしたのだろう。それが「人(生き物)が人(生き物)に影響を与えるということこそが生きるということだ。」ということであり、ナウシカ自身が生きるということだから。

哲学的には、風の谷のナウシカとは、人を殺してはいけないというようないわゆる道徳から脱道徳に向かう本だということになるだろう。脱道徳というかたちの倫理があるのなら、道徳から倫理に向かっているとも言える。
ナウシカにおける倫理とは、変化だと僕は思う。現状に安住せず、前に進むことこそがナウシカの指針である。だから何千年も前の計画をただ実行しようとする墓所は破壊される。
そして変化は他者への影響を伴う。他者への影響を恐れていては変化することはできない。そしてその変化の責任を負うことこそが成長である。だからナウシカは巨神兵や蟲使いの従者たちといった者たちの責任を負っていく。終盤においてナウシカが母のようになっていくのはそのためである。そして、親になった僕がそのことに気づくのも必然なのだろう。

・・・

おまけ感想。

7巻の最後のほうは、コマ割りが詰め込みすぎのように感じた。多分早めに終わらせたかったんだろうなあ。ラストはもう少しゆったりと描いてほしかった。あと10ページあれば。

昔の人が墓所にどのような役割を持たせたかったのかがよくわからない。浄化後の人類を保管しているだけなら、変に科学技術を漏らさずひっそりとしていればいい気がするし。浄化中の中継ぎ人間(ナウシカたち)も多少は文明の恩恵が得られるよう、優しさから知的活動を維持しようとした、ということなのかなあ。エサ(新たな知識)を小出しにすることで。

永井と入不二の対比 ~「現に」と「今の私において」~

※この文章は12000字以上あります。

僕は、永井均の独在論と入不二基義の現実論は、現時点における哲学の最深部に到達していると思う。

当然、哲学において何を最深部とみなすかは、その哲学者による。あくまで僕の観点に基づき、二人の議論が「僕の哲学の」最深部に到達していると判断しているにすぎない。

一方で、僕は僕の観点以外に立つことなどできない。僕は僕の哲学以外の哲学など想像もつかない。よって留保条件なしに、二人の議論こそが、「哲学」の最深部に到達していると言い切っても、それほど間違えてはいないだろう。

この文章で僕は、二人の哲学がどのように哲学の最深部に到達しているのかを示すとともに、僕自身はどうやってその奥に進もうとしているのかを書き残しておきたい。

ただし、書いていたら途中で考えが行き止まってしまったので、とりあえず、前半部分を『永井と入不二の対比』というタイトルで先行して掲載することにする。後半部分は『永井と入不二の相克』として書きたいと考えている。

1 永井の議論の書き換え

ア 二つの重要なもの

僕は、永井の独在論にはある種の正しさがあると思っているが、同時に疑問もある。永井の独在論においては〈私〉と〈今〉は極めて特別なものとして位置づけられているけれど、なぜ、そんなに特別なものが二つもあるのだろうか、という疑問である。〈私〉と〈今〉は特別であり、三つ目の類例はない。それほど特別なものが、一つでも三つ以上でもなく、ちょうど二つあるというのは奇妙ではないか。その裏には隠された理由があるのではないか、と僕は疑ってしまうのだ。

永井は〈私〉と〈今〉の特別さを描写する際に、無内包の現実という語を用いる。〈私〉と〈今〉には内包(内容)がなく、それこそが現実だからである。私が〈私〉であるためには、私が日本人男性であるというような私を構成する内容は関係がない。もし突然、なぜか私がウクライナ人女性になったとしても、それが私であれば〈私〉である。同様に、今が〈今〉であるためには、今が2022年でありゴールデンウィークの最中だ、というような内容は関係ない。もし突然、なぜか今が西暦1600年になり、関ヶ原の戦いの真っ只中になったとしても、それが今であれば〈今〉である。そのような意味で、〈私〉も〈今〉も無内包の現実なのである。

僕は以上の議論は正しいと思う。だけど議論として足りないとも思う。もし完全な無内包(内容)だとしたら、〈私〉と〈今〉を取り違えてしまったとしてもおかしくないはずだ。〈私〉はかなりの程度まで無内包ではあるけれど、〈今〉と取り違えない程度には内包を有しているのではないだろうか。

その問題は〈私〉の説明の仕方にも現れている。〈私〉について説明するためには、常識的な「私」を出発地点とせざるをえない。「私」から《私》、《私》から〈私〉と、いわば、「私」の内包を薄めるようにして、無内包の〈私〉を説明するようなやり方を取らざるをえない。だが、食塩水はどんなに水で薄めても食塩水でありつづけるように、有内包の「私」をどんなに薄めても、〈私〉は有内包である。だからこそ、〈私〉を〈今〉と取り違えることはない。

これは〈私〉と〈今〉を逆にしても同じことである。〈私〉にせよ、〈今〉にせよ、そこに僅かに残る痕跡こそが、永井の独在性の議論の不徹底さの証拠なのではないか、と僕は考えている。

イ 〈私〉の内包 時間連続性

では、〈私〉に残る「私」の痕跡は何かというと、〈私〉は時間連続性を有する、というものである。僕の考えでは、〈私〉は時間連続性という内包を有している。

いきなり〈私〉だと伝えにくいので、主体としての「私」、実存的な《私》、独在的な〈私〉へと段階的に説明しよう。

まず、主体としての人間というような常識的な意味での「私」を想定するためには、その主体が時間的に連続して存在するのでなければならないことは説明を要しないだろう。とは言っても、すでにこの段階においても、その連続性は常識的なかたちでなくてもいい。例えば、(確か)永井が思考実験で示したように、月曜日はAさん、火曜日はBさん、というように、曜日ごとに人格が色々な身体を渡り歩くようなことがあってもいい。だが、それが「私」であるためには、その人格がそのような特殊なあり方で時間連続性を有することが広く知られていなければならない。「ああ、今日は火曜日だからBさんなんだね。」なんて話しかけられることが可能でなければならない。なぜなら「私」が時間連続性を持つという捉え方は、ちょっとSF的で非常識な状況も含めつつも、誰もが理解し、共有できる、常識的な捉え方だからである。

そこから話が一段上がり、その「私」が実存的な《私》であった場合を考えよう。つまり、曜日ごとに身体を渡り歩く人格が自分自身であった場合である。この場合、他者がそのことを知っている必要はない。他の誰もが知らなくても、自分自身だけが、そのような奇妙な存在であることを知っていればよい。だがその場合でも、自分自身には、月曜日はAさん、火曜日はBさんというかたちで身体を渡り歩いていたなあ、という認識は必要である。つまり、《私》であるためには、自分自身だけには、そのような特殊なあり方の時間連続性を有しているという認識が必要になる。これは先ほどの常識的な「私」とは違って、孤独な状況である。「僕は今はBさんだけど、昨日はAさんだったんだよ。」と誰かに訴えても、その人からは「それは、君の妄想じゃないの。昨日だってBさんである君と会って話をしたよ。」なんて言われてしまうだろう。それに対して「昨日のBさんは僕じゃないんだよ。」と訴えても、その声は届かない。ただし自分のなかの確信だけは残っている。これはつまり、誰かと共有することはできないが、自分だけは自分自身が時間連続性を有しているという確信を持てる状況である。

更に、もう一段せり上がり、独在的な〈私〉を問題にするならば、もう、過去についての記憶や、時空連続性という認識すらも要らない。なぜなら、そのような認識などなくても、独在的にそれが〈私〉だからだ。

だが、それでも、〈私〉は何らかのかたちで時空連続性を持たなければならない。毎日同じ身体を持っているか、それとも曜日ごとに異なる身体を渡り歩いているかは確かめようがない。昨日のBさんの記憶を持っていたとしても、実はそれが植え付けられた偽物の記憶かもしれないという疑いがあったとしても、そのような記憶の内容とは関係なく、とにかく昨日の「私」はなんらかのかたちで〈私〉だったはずなのである。

もしかしたら、私は突然、何十年分の記憶を持ったかたちで5分前に生まれたのかもしれなくて、そもそも昨日などないのかもしれない。けれど、それでも、そのような思考実験ができる程度には〈私〉は時間的に連続して存在しているはずである。そのようにして、とにかく何かしらのかたちで時間連続性を持っている存在が〈私〉なのである。

僕が〈私〉は時間連続性を有する、と言ったのは以上のような意味においてである。記憶や認識は関係がないという意味で、〈私〉は意味論的に時間連続性を有する、と言い切ってもいいだろう。時間連続性こそが〈私〉の内包であり、その限りで〈私〉は無内包ではないことになる。

なお永井は想起という機能を重視しており、〈私〉がどのような内容の時間連続性を有するかは、想起という特別な働きにより把握できると考えているようだ。想起が過去の〈私〉と今の〈私〉を紐づけ、〈私〉に内容を与える。僕には昨日、連休の谷間に出勤したという記憶があり、そして僕は今、パソコンで文章を書いている。〈私〉とはそのような内容の時間連続性を有する、ということになる。

だが、僕には、そのような永井のアイディアは独在性の問題の深層には届かないように思える。なぜなら、もしかしたら昨日出勤した記憶や、今、パソコンを打っているという認識はデカルトが想定したような悪魔が僕に見せる幻かもしれないからだ。そのような不確かなものに頼ることは議論の次元を浅くしてしまう。記憶や認識の問題から離れ、どのような内容にせよ、とにかく〈私〉は、その意味からして時間連続性を有するのである、として扱うことに留めておくべきと思われる。

ウ 〈今〉の内包 出来事性

〈私〉には時間連続性という最低限の内包があるとしたが、〈今〉についても、同様に出来事性とでもいうべき最低限の内包があると僕は考えている。

〈今〉についても、〈私〉と並行するかたちで、「今」と《今》と〈今〉の三段階で論じていったほうがいいだろう。つまり、この歴史におけるどの時点も今であったという意味での、すべての時点を指す「今」と、その各時点が今であったときを指す《今》と、まさにこの時点が今であるという意味での〈今〉である。実は、〈私〉と〈今〉は問題が少し違っていて、まさにこの時点としての〈今〉のほうがわかりやすく、「今」がこの歴史に満ちているという捉え方は、逆にものごとをわかりにくくするかもしれない。だが、〈私〉と〈今〉の同型性を確認するため、あえて「今」から話を進めることにしたい。

さて、歴史は「今」に満ちている。関ヶ原の戦いは「今」であったし、真珠湾攻撃も「今」であったはずである。つまり、僕が生まれるはるか昔、科学的にはビッグバンの時点から始まる全ての時点において、その時点が「今」であったことがあるはずである。そして、その「今」が現在に徐々に近づいてきて、西暦1600年が「今」であったときに関ヶ原の戦いがあり、西暦1941年が「今」であったときに真珠湾攻撃があったはずである。つまり僕が生まれる遥か昔から、歴史は「今」に満ちている。これが「今」である。

だが、僕が生まれてからの歴史は別の色合いを持っている。それを《今》で表すことができる。西暦2001年が《今》であったとき、僕は赤ちゃんを抱いた僕の妻と一緒に、テレビでツインタワーに飛行機が突っ込むのを見ていた。西暦2011年が《今》であったとき、僕は職場で地震の揺れで書棚が倒れないか心配していた。そして昨日が《今》であったとき、僕は連休の谷間に出勤し、うんざりしながら仕事をしていた。そこには、単なる「今」ではなく、僕の内側から把握できる情景を伴う実存的な《今》がある。

そして、それをもう一歩進めると、まさに、この文章をパソコンで打っている〈今〉がある。この〈今〉について、その内容を描写して伝えるのは難しい。なぜなら、〈今〉はどんどん過ぎ去ってしまうからだ。例えば、「例えば」という語を入力している〈今〉と書いたとしても、その時点では、僕はもう「例えば」という語など入力していない。発声により伝えたとしても同じである。「今!」と僕が叫んだとしても、そのとき〈今〉は過ぎ去ってしまっている。

仮に、うまく〈今〉を指し示せたとしても、描写の困難さは解消しないだろう。なぜなら、その〈今〉の内容と、その時点が〈今〉であることは何の関係もないからだ。「今」や《今》であれば、関ヶ原の戦いがあったとき、家族三人でテレビを観ていたとき、といったように、そこでの出来事の内容を手がかりに「今」や《今》を指し示すことができる。しかし、〈今〉をそのように指し示すことはできない。

そのような意味で〈今〉は無内包である。〈今〉は内包により指し示すことができないから無内包なのである。だが〈今〉は全くの無内包ではない。なぜなら、その〈今〉においては、何らかの出来事が生じているはずだからである。もし今日が退屈な一日で特筆すべきことが何も起こらなかったとしても、何も起こらなかったという出来事が生じているはずである。そのような意味で〈今〉には出来事性という内包があるとしたい。特定の事実や情景の認識とは無縁であるという意味で、意味論的な観点から、〈今〉には出来事性という内包があると言ってもよいだろう。

なお、この出来事性を避けるために、出来事が生じ得ないような状況を想定しても無駄である。遠い未来、地球が太陽に飲み込まれ、その太陽も消滅し、宇宙自体が拡散し、ビッグフリーズに至り何も生じることが物理的にありえない事態となったとしても、それが今であったならば、そこでは何も起こっていない、という出来事が生じているはずである。

エ  今の私 重複適用

まとめるならば、「私」という共通認識や、《私》という認識論的な実存の先に、〈私〉には時間連続性という意味論的な最低限の内包がある。そして同様に、「今」という人類共通の歴史や、《今》という認識論的な実存の先に、〈今〉には出来事性という意味論的な最低限の内包がある。そのような内包があるからこそ、僕たちは〈私〉と〈今〉を取り違えることがないのである。

だが、この時間連続性と出来事性という二つの内包は必要なのだろうか。無内包性を徹底するためには、このような内包をも捨て去るべきなのではないだろうか。それはつまり、〈私〉と〈今〉の区別を放棄するべきではないか、という提案である。

〈私〉と〈今〉の区別をなくすために手っ取り早いのは、両者をつなげてしまうことだろう。つまり、今の私(または私の今)という観点に立つということである。

僕には独我論的な傾向があるせいかもしれないけれど、今の私という観点に立つことは意外と容易だと思う。なぜなら、何にでも、「今の私において~という認識が生じている。」という表現を付加できるからだ。「部屋にダンボールが転がっている」という文は、「今の私において、部屋にダンボールが転がっているという認識が生じている。」と言い換えることができる。「昨日雨が降った」という文は「今の私において、昨日雨が降ったという認識が生じている。」と言い換えることができる。「ウクライナでミサイルが発射された」であっても「130億年前にビッグバンがあった」であっても、同じ操作が可能である。すべては、今の私において生じた認識なのである。

 だが、このような理解は、「今の私」か、せいぜい《今の私》にしか届かない。さきほどの私や今と同様に、今の私についても、人々が共通理解として持つことができる「今の私」と、実存的に持つことができる《今の私》と、独在的で意味論的な〈今の私〉とがありうる。もし、誰もがどの時点においても「今の私において~という認識が生じている。」と言うことができる、と理解したならば、それは「今の私」である。また、もし、この今の私が実際に持っている認識に基づき、たしかに「今の私において~という認識が生じている。」と言うことができる、と考えたならば、それは《今の私》である。

今の私を〈今の私〉として理解するためには、認識論を離れ、意味論的に〈今の私〉を捉えなければならない。つまりそれは、「今の私において~という認識が生じている。」ではなく、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という言葉を付加するということである。

つまり「部屋にダンボールが転がっている」は、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」となる。同様に「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、ウクライナでミサイルが発射されたことを意味する。」や、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、130億年前にビッグバンがあったことを意味する。」となる。

この言い換えは確かに成立すると僕は思う。それではこの言い換えは何を意味するのだろうか。多分、ここに〈私〉と〈今〉を重ね合わせ、〈今の私〉とすることの最大の難関がある。永井はこの問題を察知していたからこそ、〈私〉と〈今〉を分離させたままとしたのだろう。

実は、確かにこれは難問だが、その答えはとても簡単なものである。結論から述べるならば「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という言葉を付加することには何の意味もないのだ。

「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」は、「部屋にダンボールが転がっている」と全くの同義である。なぜなら、「部屋にダンボールが転がっている」ということは、誰かの認識など関係なく「部屋にダンボールが転がっている」のであり、「部屋にダンボールが転がっている」という文章を読んだ人は、その今の私において、「部屋にダンボールが転がっている」という意味の文章であるということを理解するのだから。「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」というのは、その「~」に入る文章が、そのような意味を持つ文章として成立するための条件を顕在化させたにすぎない。つまり、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という付記は単に消去可能なのである。

よって、独在論的で意味論的な〈今の私〉とは、全く意味のない蛇足であり、消去されるべきものである、ということになる。永井が〈私〉と〈今〉の独在論から〈今の私〉の独在論に進まなかったのは、〈私〉と〈今〉には論ずべきことがあり、そこにこそ面白さがあるはずなのに、〈今の私〉と重ね合わせた途端、その面白さが消え去ってしまうことを知っていたからなのではないだろうか。つまり、〈今〉と〈私〉を重ね合わせ、〈今の私〉とすることの最大の難関とは、そのような事態を思い描くことの難しさではなく、そこまで議論を突き詰めた場合、〈今〉と〈私〉に関する哲学的興味まで消去されてしまうことに由来する難しさなのである。

だが、僕はそこにこそ哲学の面白さがあると感じる。なぜなら、その〈今の私〉として議論の意味が消え去ってしまう瞬間にこそ、永井の独在論を最も純化したものが閃光のようにたち現れるように思えるからだ。確かに、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において、部屋にダンボールが転がっていることを意味する。」は、「部屋にダンボールが転がっている」と全くの同義である。だが、全くの同義であるとして、その付記を消去するという動作を遂行する瞬間にこそ、独在性の謎のすべてがつまっているように思えるのだ。

別な言い方をするならば、全く無意味なものとして消去できるということは、全く無意味に付加することもできる、ということである。すべての文に対して、「(今の私の認識の内容に係わらず)今の私において~であることを意味する。」という付記が可能である。なぜなら、それが世界のあり方だからである。世界はそのような独在的なあり方をしている。これが永井の独在論の最深部だと僕は思う。

(ア)共通理解と実存

なお、ここでは、〈今の私〉という独在性に着目してきたが、共通理解としての「今の私」でも似たようなことが言える。

人々の間に共通理解というものが可能であり、つまり「部屋にダンボールが転がっている。」という誰かの言葉を理解できるということは、その言葉を発する人にとっての「今の私」において「部屋にダンボールが転がっている」という認識が立ち上がっているということを理解できるということである。「部屋にダンボールが転がっている。」という文を話し手と聞き手の間で共通理解することができるということは、「今の私において、部屋にダンボールが転がっているという認識が生じている。」という共通理解があるということである。これは、すべての文について同じことが言えるから、つまり、「今の私において~という認識が生じている。」という付記は消去可能であるということを意味している。また、あえて任意の文に対し、「今の私において~という認識が生じている。」という付記をすることで、世界はそのような共通認識を含んだあり方をしているということが明らかとなる。

実存的な認識としての《今の私》についても同様のことが言える。実存的な主体が、「部屋にダンボールが転がっている。」という認識を持つということは、つまりその認識主体である「今の私」において「部屋にダンボールが転がっている」という認識が立ち上がっているということである。そして、実存的には、すべての文について同じことが言えるから、つまり、「今の私において~という認識が生じている。」という付記は消去可能であるということを意味している。また、あえて任意の文に対し、「今の私において~という認識が生じている。」という付記をすることで、世界はそのような実存的なあり方をしているということが明らかとなる。

つまり、「今の私において~という認識が生じている/であることを意味する。」という付加・消去可能な付記は、それぞれ、「今の私」という世界の共通理解的なあり方、《今の私》という世界の実存的なあり方、〈今の私〉という世界の独在的なあり方という三つの世界のあり方を象徴的に示している、ということになる。

そして、永井の議論を受け継ぐならば、その根源にあるのが〈今の私〉という独在的な世界のあり方であり、、「今の私」という共通理解的な世界のあり方や《今の私》という実存的な世界のあり方はそこから派生するものである、ということになる。

2 入不二の現実論

ア 入不二の現実論の類似性

ここまで、永井の〈私〉と〈今〉の独在論を僕なりに展開し〈今の私〉とする議論を行ってきた。そして、〈今の私〉はすべての文に付加できるし、消し去ることもできるという点にこそ面白さがあると論じてきた。

この議論の形式は、実は僕のオリジナルではなく、入不二基義が現実論として行ってきた議論の形式を僕なりに移植したものである。

入不二は、「現に」という語は全ての文に付加することができると論ずる。(『現実性の問題』第2章)例えば、「ソクラテスは哲学者である。」は「現に、ソクラテスは哲学者である。」と言い換えることができる。入不二によれば、この「現に」は透明に働く遍在的な現実性の力を表している。その透明性の証拠として、「現に」を付加しても、消去しても全く事態は変わらない。また、その遍在性の証拠として、すべての文に「現に」を付加できる。「現に部屋にダンボールが転がっている」のであり、「現に130億年前にビッグバンがあった」のである。

僕が「今の私において」で行ったのも同じことである。「今の私において、ソクラテスは哲学者である(ことを意味する/という認識が生じている。)」のである。つまり、今の私の独在性も、透明に働く遍在的な独在性の力なのである。

なお、ここからは、(ことを意味する/という認識が生じている。)は省略し、「今の私において、ソクラテスは哲学者である。」と表記することとしたい。それでも十分に理解可能だし、そのほうが、「現に」で象徴される現実性と「今の私において」で象徴される独在性とを並列的に示すことができるように思えるからである。

イ 入不二の現実論の必要性

さて、ここで入不二の現実論を登場させたのは、その類似性を指摘するためだけではない。入不二の「現に」の現実論がなければ、永井の独在論(正確には、永井を拡張した「今の私」の独在論)を明確に捉えることはできないと考えるからである。

この文章の冒頭で、永井が〈私〉と〈今〉という二つの特別なものを持ち出したと批判したことを思い出していただきたい。〈私〉と〈今〉を〈今の私〉と重ね合わせることで、より議論を先に進められるはずなのに、永井は不徹底に〈私〉と〈今〉という二つに分けたまま残してしまった。そして永井は内包を消し去り、無内包に至ることに失敗した。そこには〈私〉の時間連続性という内包と、〈今〉の出来事性という内包が残ってしまった。僕はそのように批判した。

だが、永井の選択は必然でもあった。〈今の私〉と重ね合わせた途端、それは「今の私において」という不要な付記となってしまい、消え去ってしまう。それはつまり、私や今について考察するという哲学的な面白さもあわせて消え去ってしまうということである。〈私〉を論ずるためには、〈私〉ではないもの、つまり〈今〉が必要だし、〈今〉を論ずるためには、〈今〉ではないもの、つまり〈私〉が必要である。特別なものが二つあるからこそ、輪郭を保って有意義な議論を遂行することができる。

同様に、〈今の私〉についても、その議論を有意義に行うためには、〈今の私〉ではないものが必要である。そこで登場するのが、入不二の〈現に〉である。〈今の私〉という独在論の議論を更に進めるためには、〈現に〉という現実論が必要なのである。特別なものはやはり二つ必要なのである。

3 独在論と現実論の対比

「今の私において」で象徴される独在論と、「現に」で象徴される現実論とを対比することで、二つの議論の輪郭がはっきりとしてくる。

大抵の文に対して、「今の私において」も「現に」も自由自在に付け加えることができる。「今の私において、ソクラテスは哲学者である。」だし「現に、ソクラテスは哲学者である。」である。「今の私において、部屋にダンボールが転がっている」だし「現に、部屋にダンボールが転がっている」である。

だが、例外がいくつかある。例えば、トレッキングをしていたら蛇に遭遇したと思ってびっくりしたら実はロープだったというような、いわゆる見間違いの事例がある。この場合、「今の私において、登山道に蛇がいる。」は言えるが、厳密には「現に、登山道に蛇がいる。」とは言えない。なぜなら、現実にそこにあるのはロープだからである。それでも「現に、登山道に蛇がいる。」と言えそうに思えてしまうのは、そこに「現に、(今の私において)登山道に蛇がいる。」という付記を暗黙に行ってしまっているからである。

見間違いに似た例としては、フィクションの場合がある。昔話の本を読んでいるならば「今の私において、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできる。だが、厳密には「現に、かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできない。なぜなら、そのような現実はないからである。ただし、あえて言うならば、「現に、(今の私において)かぐや姫は月に帰って行った。」と言うことはできるだろう。

いずれも、現実と非現実の間にある境界についての問題であり、「現に」の現実性の遍在性ではその壁を乗り越えられないが、「今の私において」の独在性の遍在性によれば、その壁を乗り越えられる、ということを示している。ただし、現実性の遍在性は独在性にも及ぶ点には留意するべきである。現実性の遍在性は、「現に、今の私において」というかたちで独在性の力をも取り込み、非現実にまで到達することが可能となるのだ。

以上は現実性に比べて独在性が優位な事例だったが、逆に現実性が優位になる例としては、想定外のことを取り扱うような場合があるだろう。例えば「明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」というような文を考えてみよう。想定外なのだから、今の私には想定外の出来事にアクセスすることはできない。だから「今の私において、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と言うことはできない。しかし、「現に、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と述べることは極めて自然なことである。なぜなら、どんなに想定外の出来事も、それが現実だからである。それでも、実際に「今の私において」想定外の出来事というものを考えられているのだから、そこにも独在性の力は及ぶ、と考えるのならば、「(現に)今の私において、明日には、核戦争やもっとすごい想定外の出来事が起きるかもしれない。」と言うことはできるだろう。

独在性に比べて現実性が優位となる事例としては、他にも、他者の痛みを取り扱うような場合があるだろう。「今の私において、彼の胃はキリキリと痛い。」とは言えないが、「現に、彼の胃はキリキリと痛い。」と言うことはできる。ただし、この例でも、「(現に)今の私において、彼の胃はキリキリと痛い。」というように述べることはできる。

この二つの例は、いずれも今の私(独在)と今の私ではないもの(非独在)との間にある境界についての問題であり、「今の私において」の独在性の遍在性ではその壁を乗り越えられないが、「現に」の現実性の遍在性によれば、その壁を乗り越えられる、ということを示している。ただし、さきほどの例とちょうど反対に、独在性の遍在性は現実性にも及ぶから、独在性の遍在性は、「現に、今の私において」というかたちで現実性の力をも取り込み、非独在にまで到達することが可能となる。

まとめよう。入不二の現実性も、永井の独在性も、いずれも遍在する透明な力である。両者は単独ですべてを説明する力を持っているという点で同等の力を有していると言っていいだろう。現実性は、見間違いやフィクションのような非現実にさえ及ぶし、独在は、想定外や他者の痛みのような非独在にさえ及ぶ。つまり。両者ともすべてをその力の支配下に組み入れてしまう働きを持っている。

だが、現実性と独在性とを並べて比較し、その違いに敏感になるならば、確かに、現実性よりも独在性のほうが優位となる場面や、逆に、独在性よりも現実性のほうが優位になる場面がある。現実性が非現実にまで及ぶためには独在性の力を取り込む必要があるし、独在性が非独在にまで及ぶためには現実性の力を取り込む必要がある。これはつまり、現実性と独在性はいずれも透明で遍在的な力でありながら、その力のあり方が異なるということである。

今の私という独在性だけでは見えてこなかったし、入不二の現実性だけでも見えてこなかったものが、二つ揃うことで、その輪郭が見えてくる。これは永井が〈私〉と〈今〉でやったのと同じことだ。重要なものは二つ必要なのである。

だが、先ほど僕は、あえて〈私〉と〈今〉を重ね合わせ、〈今の私〉こそが真の独在性についての表現だとすることで議論を前に進めた。それならば僕は、ふたたび、現実性と独在性を重ね合わせればいいのだろうか。それとも両者の違いを際立たせていくべきなのだろうか。そんなことを後半では考えていきたい。

議論の頑健さ

※2500字くらいです。考えていることの断片です。

色々と書いている断片のうち、切り離して完結させておいておいたほうがよさそうなことを保存しておく。

これは、僕という懐疑論者が、なぜ入不二基義の現実性の議論に魅力を感じるのかについての文章である。

1 入不二の現実論の頑健さ

懐疑論者である僕にとっての入不二の哲学の魅力の一つは、その頑健さである。入不二の議論は驚くような頑健さを持っているように思えるのだ。まずはその頑健さについて述べることにする。

入不二の現実論によれば、現実性は遍在している。その遍在性は「現に」という副詞はどのような文にも付加できるということに象徴的に示されている。「現に」僕はパソコンで文章を書いているし、「現に」ウクライナでは戦争が起こっている。日常は「現に」現実である。入不二が強調する現実の遍在性は、そのようにして日々の生活の中から掬い取ることができる。入不二の現実性の議論とは、誰もが共有できるような、極めて当たり前の日常の実感から理解できるものなのである。入不二の文章を読む限り、入不二自身も、そのような経路で遍在する現実性を理解することを読者に期待しているように思える。

だが一方で、現実の遍在性は、あえて日常の実感に基づく常識的な理解の経路にこだわる必要はないという点にも注意しておくべきである。現実の遍在性は、日常から離れ、特殊な状況を想定してみても同じことである。たとえ僕が水槽の中の脳みそであったとしても、また、この世界が5分前に創造されたとしても、入不二の現実論は全く影響を受けず、全く揺らぐところがない。なぜなら、「現に」僕は水槽の中の脳みそであり、「現に」5分前に世界は創造されたのだから。それがどんなに特殊な状況でも、それは「現に」現実なのである。入不二の現実性は、日常でも、日常から遠く離れた思考実験的な状況設定でも全く揺らぐことはない。現実性は状況設定に全く影響を受けない。

僕が考える入不二の現実論の頑健さとはこのことであり、入不二の議論の魅力のひとつはここにあると僕は思う。

2 懐疑論

なぜ懐疑論者である僕にとって入不二の現実論の頑健さが魅力的なのか、少し描写しておこう。

他の懐疑論者がどういう動機で懐疑論者になるのかは知らないけれど、僕の懐疑は単なる思考実験上の産物ではなく、本当にそんな懐疑に包み込まれたような、何らかの実感を伴ったものである。つまり、本当に水槽の中の脳みそかもしれない、本当に5分前の世界と今の世界は断絶しているのかもしれない、と思ってしまうときがあるということである。(実は、僕の懐疑はちょっと違うのだけど、わかりやすい例として、そういう懐疑だということにしておいてほしい。)

当然いつもではないけれど、時々、本当にそんな気持ちになるときがあるのだ。そんなとき、僕は、何もかもを失い、底なし沼にはまったような気分になる。どうしようもなく孤独で、どうしようもなく無力感に襲われる。こんな気持ちを論理でどうにかしたい、というのが僕の哲学を始めた動機のひとつである。

同じようなことを考えたことがある人ならば以上の説明だけで伝わるだろうけれど、これでわかってくれる人は少ないだろうから、別の伝え方を考えた方がいいかもしれない。それは、死んだらどうなるのだろう、と想像するときの不穏な感じを思い浮かべてもらえればいいかもしれない。多くの人は死後が全くわからないことに対する不安を感じるのではないだろうか。たいていのひとは地獄も天国も信じていないだろうから、なんとなく死後は無だと思っているだろうけれど、そもそも、その無というものがどういうものかはさっぱりわからない。わからないから不安になる。僕が懐疑により感じる不安とは、この死後に向けた不安が拡大し、死ぬ前の世界も覆い尽くすような不安だと想像してもらえればいいかもしれない。

入不二の現実論は、そんな僕にひとつの足がかりを与えてくれる。もし、全てが疑わしいとしても、それは「現に」疑わしいのだ。僕の手元には「現に」という手がかりだけはある。そのように考えることで、「本当は」水槽の中の脳みそかもしれない、僕は底なし沼にはまっている、という残酷な現実が180度反転し、「現に」水槽の中の脳みそかもしれない、「現に」僕は底なし沼にはまっている、という救いの言葉に転換する。そう思うことで、とにかく僕は現実とのつながりを確認し、安堵できる。懐疑論者にとっては、入不二の議論の頑健さは救いとなりうる。

わかりにくいかもしれないので、引き続き死後の世界の比喩を用いるならば、「現に」死後の世界はあるのだし、もし、死後の世界がないのだとしたら、「現に」死後の世界はないといとも言える。現実性の力は、死後の世界にすら及んでいる。よって、確かに死後の世界はわからないが、現実性によってアクセス可能な程度にしかわからなくはない、とも言うことができる。僕たちは入不二の現実論によって、わからなさを飼いならすことができる。

入不二は、現実性の力を光に喩えるけれど、その点で、懐疑論者にとっては、現実性の議論とは救いの光であると言えるかもしれない。

以上が入不二の現実論の頑健さであり、僕にとっての入不二の現実論の魅力である。言い換えるならば、入不二の現実論の魅力は、僕のような懐疑論的な人間であっても、その議論を懐疑に付することなく真正面から受け入れることができるところにある、とも言える。

3 驚き(補足)

ここまでの文章は、僕が先日書いた文章『驚きと疑い』(http://dialogue.135.jp/2022/04/09/utagai/)を書く前にすでに書いていたものだから、多少、話がつながっていない。

補足するならば、僕の底なし沼にはまったような無力感とは、〈世界〉に驚き、圧倒されたことによる無力感であるということになる。そして、僕が入不二の現実論に感じる安堵とは、取り付く島もない圧倒的な〈世界〉に対して、多少は効果的な対応ができるという希望である、ということになる。

永井の一方向性と、永井と入不二の議論の対比

7200字くらいあります。最近入不二・永井関係ばかり書いている気がする・・・

1 はじめに

先日の永井や入不二らによるワークショップについて、文章を書いた。

『永井・入不二・青山・谷口・僕』http://dialogue.135.jp/2022/03/19/nagaikoki/

うち入不二による発表については、動画もアップされている。

『〈 〉についての減算的解釈 ─永井の独在性から入不二の現実性へ』https://youtu.be/qDAshhcWTdA

このワークショップについては、いずれ本になるそうなので、そこまで待ってもいいのだけど、特に入不二の発表について、考えたことがあったので書き残しておく。

入不二の動画の17:10くらいから『「一方向性(〈私〉→実在世界)」の内に含まれる「断裂」と「循環」』という発表がされている。入不二の発表のなかでも、特にこの部分から思いついたことについての話である。

2 〈私〉から実在世界への一方向性

永井の独在論によれば、〈私〉と実在世界の関係は、〈私〉から実在世界に行き着くことはできるが、逆に、実在世界の側から〈私〉に行き着くことはできない、という一方向性があるとされる。

確かに、普通の意味での「私」、つまり人物個体としての「私」しかいない実在世界をどこまで調べ尽くしても、そこに独在的な〈私〉を見つけることはできない。実在世界から〈私〉に至る経路は閉ざされている。だからこそ永井は偉業を成し遂げたのだとも言える。永井は、実在世界のなかには見つけることができないはずの〈私〉をなぜかみつけ出してしまい、更には、それを明確に独在性の問題として捉えることに成功してしまったのだ。

だが、一旦永井が成し遂げたとおりに〈私〉の高みに立ってしまった後に、そこから「私」の実在世界に下りることは容易である。なぜなら、独在的な〈私〉は、実存的な概念により描写できる《私》や、人物個体としての「私」として当たり前に理解されるのだから。〈私〉を私という言語で捉えた途端、それは《私》や「私」になってしまうことになる。

「私」から《私》に至り、更にそこから〈私〉に至ることは不可能と呼べるほどに困難な道のりだが、逆に、〈私〉から《私》、更に「私」に至ることは、そのような道筋を歩んだことに気付かないほどに容易である。永井はそれを一方向性と呼んでいる。

それに対して入不二は、その前半は認めつつ、後半を否定する。独在的な〈私〉からこの地球上に何十億人もの「私」がいるような実在世界に至る道はそれほど容易なことではないのだ。

入不二はその問題を断裂と循環として示す。

断裂とは「一」未満ということであり、〈私〉から実在世界への一方向の推移を完遂することはできないということである。なぜなら、〈私〉を実在世界と接続し、《私》という主体を現出させることはできても、その主体が実在世界というようなものを構成する力はないからだ。つまり一方向の推移を「1」とするならば、その推移は道半ばの「0.5」で断裂するということである。(なお、なぜそのような力がないかというと、〈私〉とは(永井的な用語としての)無内包の現実であり、内包(イコール内容と僕は解釈している)に満ちた実在世界を構成する力はないということであろう。)

独在的な〈私〉の世界と、人物個体としての「私」が複数いるような常識的な実在世界との間には断絶という問題があるということを入不二は示している。

もう一方の循環の問題とは、もし、〈私〉から実在世界への推移を成し遂げてしまったならば、それは一方向の推移ではなく「両」方向の循環になってしまう、という問題である。

〈私〉から「私」への推移を完遂するということは、つまり、出発地点の〈私〉と到着地点である「私」が私という語で結び付けられるということである。それならば、私という語を手がかりにして、不可能なはずだった、「私」から〈私〉に至ることは極めて容易なことである。「私」から〈私〉に至る道筋が(永井が見出した道筋以外では)不可能なのは、目的地点である〈私〉が無内包であり、実在世界のなかでは無内包なものを見つけることは不可能だからである。だが、それを〈私〉と表記できてしまった途端、そこに到達することは容易なことである。

入不二はそのことを、〈私〉と《私》と「私」の三水準の私が、私という表記を貫くことにより、自在に行き来できてしまう、という自体として述べている。これはつまり、一方向の推移を「1」とするならば、その推移は横溢し「2」の循環に至ってしまうということである。

よって、永井の一方向性は「1」として完遂することはできず、断裂の「0.5」または循環の「2」となってしまう。一方向性の「1」とは、「0.5」の断裂と「2」の循環の合成物なのである。

以上の説明は、入不二の説明に僕なりの言葉を補ってはいるが、説明として概ね間違ってはいないと僕は思う。そして僕はその説明に同意する。

2 〈私〉を固定的に捉えることはできない

入不二は直截には言っていないが、僕は、この困難は、永井の独在性を〈私〉という固定的な表現で示すことの困難に由来するものだと思う。

永井は確かに〈私〉を発見した。正確には、自明なものについて〈私〉という輪郭を与えた。だが、より正確に言うならば、永井は〈私〉があるはずの方向を指し示すことに成功したに過ぎないとも言える。人は、あちらに北極星がある、と真北を指差すことはできても、(現代の科学技術では)北極星に到達することはできない。同様に、人は〈私〉の方向を指し示すことができても、そこに到達することはできない。

入不二は、僕が比喩的に述べたことについて、次のように表現している。

「〈私〉へ至らんとするルートは無限の否定性を特徴として持つ。私という人物個体や概念・形式ではないという無限の否定としてのみ〈私〉は存在する。」

〈私〉を北極星に喩えるならば、北という方角は、無限の否定性である。無限の否定を完遂することはできないから、〈私〉に到達することはできない。しかし、都度、無限に否定し続けることによって、〈私〉の方角を指し示すことはできる。〈私〉とは、そこに到達することはできないが、指し示すことはできるものなのである。

〈私〉とは蜃気楼のようなものだと言ってもいいかもしれない。蜃気楼は、光の屈折がはるか遠くのオアシスを間近に見せる幻である。(蜃気楼にいつかは到達できるという違いはあるけれど。)入不二は、そのような側面を強調し、永井の〈私〉を虚焦点と呼んでいる。永井の本に従い人々が理解することができる〈私〉とは、そのようなものなのである。永井の〈私〉を捉え切り、概念として固定的に手元に置くことはできない。

さきほど、〈私〉から実在世界への一方向の推移は完遂できない、と言ったが実は、そもそも我々は、〈私〉という固定的な出発地点に立つことなど、できていなかったということである。一方向の推移の不可能性はここに由来するものである。

なお、この問題について永井は十分に自覚的だと思う。なぜなら、永井は、永井が書いた文章を読んだ読者が、〈私〉について理解することをも否定しているからである。永井の〈私〉は、第一発見者である永井だけがアクセスできるという秘教的なあり方をしている。だから、僕のような悟っていない者が〈私〉を固定的な地点として捉えることなどできないのである。当然、この文章を読んでいる(永井以外の)あなたであっても、青山拓央や入不二のような永井哲学の理解者であっても同じである。ここにも無限の否定が及んでいる。

きっと、永井の〈私〉に至る道筋の最も根源的なところにある否定とは、言語で表現されることの否定であり、永井以外の者が永井と同様に理解することの否定なのだろう。

なお、僕は語感としては、否定というよりは拒否としたほうがいいように思うので、これからは〈私〉に至る道筋が持つこの性質を、拒否性と呼ぶことにしたい。

〈私〉に接近するためには、〈私〉が持つ拒否性を受け入れ、〈私〉の拒否性に十分に自覚的であることが必要である。〈私〉とは〈私〉に接近することを〈私〉から拒否されることによってのみ近づくことができるものなのである。だから、本質的に、そこに到達することは決してできない。よって、〈私〉を到達地点として固定的に描写することは誤りである。

入不二の一方向性の困難は、そのことを指し示していると僕は理解している。

3 入不二の道筋

ここまで、永井が示した〈私〉への道筋の特殊さについて論じてきたが、実は入不二は、永井とは全く別の〈私〉へと至る道筋があると考えている。永井とは全く反対に向かい、大きく迂回して、裏から〈私〉に至る道筋である。日本からロンドンに行こうとして、シベリア上空を飛ぶのではなく、太平洋を横断し、アンカレジ経由で向かうような道筋である。

入不二が現実論として示す道は、「現に」という副詞で表現されるような、遍在的な現実の力を使う道筋である。

入不二の現実論において重要な役割を果たす現実性という語を理解するにあたって特殊な状況を想像する必要はない。ごく当たり前の状況において、ごく当たり前に、現実性はあまねく働いている。僕は「現に」会社に出勤したり、「現に」昼寝をしたりする。「現に」ウクライナで戦争が起きたし、僕は「現に」そのことを嘆いたり、「現に」そんなことを忘れて楽しく過ごしたりしている。

どんなにつまらない日常であっても、どんなに特別な非日常であっても、それは「現に」現実である。何もせずに昼寝をした一日も「現に」昼寝をしたのであり、何億円もかけて宇宙旅行をした一日も「現に」ロケットに乗ったのである。どんなにありえないような思考実験的な状況であってもそれは変わらない。「現に」悪霊がデカルトを騙しているのだし、「現に」水槽の中の脳なのである。

日常も非日常も、「現に」現実である。そのような理解を、「現に」という副詞を付け加えることでそのことを誰もが極めて当たり前に共有できる。入不二の現実論はそこに尽きている。永井の独在論につきまとっているような理解の困難さは全くない。永井の独在論が門戸を閉ざし秘教的であるのに比べて、入不二の現実論はあっけらかんと門戸が開かれており顕教であると言ってもいいだろう。もし、入不二の現実論を理解するのが難しいと感じるならば、それはきっと、そこに何らかの理解の困難があるはずだと疑っているからなのではないか。だが残念ながら、入不二の議論には、読者が自力で悟らなければならないような障壁はない。きちんと入不二が示す議論を追っていくことでそのとおりに理解できるものである。以上のような入不二の議論の特徴について、永井の独在論には拒否性があるのに対して、入不二の現実論には受容性があるとまとめておきたい。

だから、入不二の現実論には、永井の独在論のような、ひりひりするような緊迫した中心性がない。あっけらかんと現実は遍在している。

入不二はそこに、なんらかの事情で中心性が加わることで、〈私〉という特異点が生じると考えている。つまり、入不二によれば、〈私〉とは、「遍在性+中心性=独在性」という極めて単純なかたちで描き切ることができるものなのだ。入不二はそのことについて、動画の最後のほうで唯一中心分有型の〈私〉として述べている。

以上が実在世界から独在的な〈私〉へと向かう東廻りのルートである。永井が東京からロンドンまで西廻りで直行しようとしたのに対し、入不二は実在世界から、純粋な現実性を経由し、そこから〈私〉に至るというアンカレジ経由の迂回ルートを発見したのだ。

4 永井と入不二の対比

 なお、入不二は、現実性を力として捉えている。「ウクライナで戦争が起きた。」という文を「現に、ウクライナで戦争が起きた。」とすることで、現実性が付与され、文が現実のものとなる。これが現実の力である。なお、この力は透明であり、「現に」という言葉を、それを可視化するためにあえて用いているにすぎない。だから、「現に」という言葉を外しても、実は「ウクライナで戦争が起きた。」という文には現実性がある。

 このことは、永井の〈私〉の独在性には、拒否によってのみ迫ることができる、ということに似ている。永井の独在性にある拒否性も、拒否という力である。入不二の現実性にも、永井の独在性にも力動性がある。

 その点で、永井と入不二は、ちょうど背中合わせのような関係にあると思う。永井の議論を駆動しているのは、拒否の力であり、入不二の議論を駆動しているのは受容の力である。そこにあるのは、全く同質なのに、向きだけが違う二つの力だ。

 その力は、入不二ならば、すべての文に「現に」という言葉を付与することができる、という普遍性として表現できる。一方で、永井の場合には、あらゆる言葉の内で、「私」(と「今」)に限定して特別性を認め、更に、その「私」(と「今」)も、通常の用法ではなく、更に《私》(と《今》)に限定して特別性を認め、それでも飽き足らず、更に〈私〉(と〈今〉)に限定して特別性を認める、ということをやっている。つまり、二人が言語に対して行っている作業も、ちょうど、普遍化と特別化という真逆のことである、と言える。

 その結果、表現されるものは、入不二ならば全てを受容するような、凪いだ普遍性であり、永井ならば全てを拒否し、せり上がるような中心性である。

 入不二は、ベタとスカという言葉を用いたこともあるが、入不二の現実性はベタである一方で、永井の独在性は、すべてを拒否し、内容がなくてスカスカだという意味で、スカと呼ぶこともできると思う。

 永井の独在論は、拒否の力であり、そこで用いられるのは限定され特別化した私や今といった用語であり、そこで見出されるのはせりあげるような中心性であり、全てを拒否した結果としてのスカである。一方の入不二の現実論とは、受容の力であり、そこで用いられるのは、「現に」という普遍的な用語であり、そこで見出されるのは凪いだ遍在性であり、全てを受容した結果としてのベタである。二人の議論は、異常のような対比ができると思う。

※ なお僕は、入不二の受容という言葉には、何ら倫理的な意味合いはないと思っている。あえ て言えば、善も悪もすべて受容するという意味で、極めて非倫理的な考え方だと言ってもいいと思う。この点でも、すべての倫理を拒否するという意味で非倫理的な永井とは対象的な立場にあると言えるだろう。

5 無内包の現実

 背中合わせに立っていた二人が、ぐるっと思索の旅をし、また出会う場所が「無内包の現実」である。永井はシベリア上空を通ってロンドンに着き、入不二はアンカレジ経由でロンドンに着く。二人が落ち合う場所が「無内包の現実」(純粋現実性)である。

 同じ場所であっても、そこまで至る経路が違うから、見える景色は異なる。永井の「無内包の現実」とは、内包をすべて拒否し、内包がありえないという意味での無内包である。一方で入不二にとっての「無内包の現実」とは、内包はあってもなくてもよいが、内包と関係ない次元での現実という意味での無内包である。そのせいだと思うが、最近の入不二は、あまり「無内包の現実」という語は使わず、純粋現実性というような別な表現を好んでいる。

 よって、二人が指し示すものは全く異なるとも言える。だが、それでも同じ地点に到達していると僕に思えるのは、それが、この常識的な実在世界から最も遠いところだからである。二人が見ている景色は全く異なるが、ここから最も遠いところを見ているという点で二人が見ているものは重なるはずである。二人が重なる地点としての「無内包の現実」とは、まさに無内包であり、そこに現実性であれ、独在性であれ、何らかの意味を込めることはミスリーディングである。「無内包の現実」とは、この常識的な実在世界から最も遠いところを地点として意味するだけの言葉なのである。

 だから、二人の議論をロンドン旅行に喩えるよりは、日本の反対側のブラジルあたりを持ち出したほうがよかったかもしれない。二人は、ここから最も遠いところへ旅をしようとしていただけなのだ。

6 補足 中心分有型の〈私〉

そのように考えるならば、このワーキンググループで入不二が中心分有型の〈私〉というようなものを持ち出し、永井の議論に合わせたことは過剰なサービスだったと言ってもいいだろう。この中心分有型の〈私〉の議論とは、二人は「無内包の現実」というロンドンで待ち合わせればよかったのに、あえてモスクワあたりまで入不二が永井を迎えに行ったようなものだからである。

その無理は、入不二が、遍在するベタの現実性に、中心性を加え、〈私〉という特異点を立ち上げたところに現れている。僕は、この中心性の付け加えは、入不二の議論の弱さだと思っている。

確かに、ここでも現実の偏在性は働いており、現実においては、「現に」中心性は加えられ、「現に」〈私〉という特異点が立ち上がる。その点では、この事象は入不二の現実論の圏内で行われているとは言える。だが、入不二の現実論は、そこで特異点として特権的に立ち上がるのが、なぜ〈私〉(か〈今〉)なのか、ということが説明できない。永井と比べた場合、入不二の議論にはそのような弱さがある。

ただし実は、これはどうでもいい弱さである。なぜなら、入不二の現実論の目的地は、「無内包の現実」(純粋現実性)だからである。入不二はロンドンに着いたのに、あえてそこで飛行機を乗り換え、永井を迎えにモスクワに行く必要はない。ロンドンでのモスクワ行きの飛行機への乗り換えとは、ベタの遍在する現実に、あえて、〈私〉という特異点を付け加えることを意味している。 

2種類の疑問文

※7000字くらいあります。

1 決定疑問文と補足疑問文

疑問文には、はい/いいえで答えられる決定疑問文と、はい/いいえでは答えられない英語の5W1Hのような補足疑問文という区分があることを最近知った。「ここにリンゴはありますか。」が決定疑問文であり、「ここに何がありますか。」や「リンゴはどこにありますか。」が補足疑問文である。

僕がここで提示したいアイディアはふたつある。一つ目が「疑問文は本来、決定疑問文ではなく、補足疑問文なのではないか。」というものであり、二つ目が「懐疑論者がやっていることは、決定疑問文をつくるという作業なのではないか。」というものである。

2 質問と確認

まず、一つ目の、「疑問文は本来、決定疑問文ではなく、補足疑問文なのではないか。」から始めよう。

疑問文は質問をするために用いられるということまでは言っていいだろう。では、なぜ人は質問をするのだろうか。人は、何かわからないことがあるから質問をするのだろう。「ここに何がありますか。」「リンゴはどこにありますか。」というように。これはつまり、知識が欠けていて、「ここに◯◯があります。」とか「△△にリンゴがあります。」といったことしかわかっていないことを意味する。欠けている知識を埋めようとして、質問者は質問をする。

ここで用いられるのは補足疑問文である。

一方で、決定疑問文においては、質問者は「ここにリンゴがあります。」ということは知っている。知っているからこそ、「ここにリンゴはありますか。」という言葉遣いをすることができる。ただ、その知識に自信がないから、確認しようとして、決定疑問文を発話する。もし、リンゴがない、ということを知っているならば、「ここにリンゴはありませんか。」と発話するだろう。

これを広義の質問と呼んでもいいけれど、欠けている知識を埋めようとする、という動機がない点で、(狭義の)質問とは大きく異なる。その点を考慮すると、僕は、補足疑問文は(狭義の)質問であるが、決定疑問文は確認である、と区別したい。

2-1 例外

この話には例外があると思われるかもしれない。テストの設問では「リンゴが2つ入っているカゴに3つのリンゴを加えると全部で何個ですか。」(答えは5個だと先生は知っている。)などと補足疑問文を用いることもある。また、15行くらい前で僕が用いたように「なぜ人は質問をするのだろうか。」(僕なりの答えを提示する準備ができている。)などと、話を進める上でのレトリックとして用いることもある。これらは確かに、欠けている知識を得ようとして行う質問ではない。

だが、本来の質問としての補足疑問文と、テストやレトリックとしての補足疑問文との違いは、ある種の真剣さの有無により見分けられるように思う。真剣に補足疑問文を用いていれば、それは質問だが、一見、同じように補足疑問文を用いていても、そこに真剣さがなければ、それは質問ではないということになる。当然、テストの出題者である学校の先生や、この文章を書いている僕は、真剣に補足疑問文を用いてはいるが、ある種の真剣さには欠けている。ここでは二種類の真剣さが登場しており、僕はその違いについて説明しなければいけないのだけど、結構難しい問題で、話が長くなりそうなので省略したい。今のところはなんとなく、真剣に生きることと、真剣に発話することくらいの違いがあるという予感がある、という程度にとどめておきたい。

なお、その場合でも、補足疑問文の受け手である生徒(児童)や読者の立場に立つならば、それがある種の真剣さを獲得し、質問になるということはありうる。この点でも真剣さの有無はわかりにくい。

3 区別の理由

話がややこしくなるので例外については横に置いておき、補足疑問文は(狭義の)質問であるが、決定疑問文は確認である、と区別できることまでは同意いただいたことにしよう。

さて、なぜ僕は、あえてこのような区別を強調するのだろうか。ここからは、その理由について、二つのやり方で説明を試みたい。この説明を通じて、この問題は単なる言葉の分類の問題ではなく、少なくとも僕にとっては、切実な問題であるということが伝わることを願っている。

3-1 確認はきりがない

第一の理由は、質問に比べて確認は問題含みの行為だと思うからである。

確認というのは、実はきりがない行為である。外出したとき、家から数歩離れてから、家の鍵をかけたか気になって戻って確認する、という経験は多くの人があるだろう。たいていは一度確認すれば安心するけれど、病的な人ならば、もう一度戻って確認するかもしれない。もしかして、さっき戸締まりを確認したのは記憶違いかもしれない、なんて哲学的懐疑を始動してしまったら、原理上はその確認は無限に何度でも行うことができる。AがBに対して戸締まりをしたか確認する場面を考えよう。

A「戸締まりをしましたか。」

B「はい。」

A「本当に戸締まりをしましたか。」

B「はい。」

A「本当に、本当に戸締まりをしましたか。」

B「はい。」・・・

というように。この応答は無限に続けることができる。

戸締まりだと思考実験的すぎるかもしれないけれど、日常的な実感として、例えば本の校正などではきっと何度も文章を確認し、その確認作業はきりがないと思うのではないだろうか。そのような意味で確認はきりがない。

一方で、補足質問により「リンゴはどこにありますか。」と話し手が質問したなら、聞き手は「テーブルの上にあります。」などと応答することで質問は終了する。ここには大きな違いがあるように思える。

通常の決定疑問文はもっと穏やかなかたちで用いられるという反論もあるだろう。A「戸締まりをしましたか。」B「はい。」というやりとりは通常一回限りで終えられ、しつこく続けられることはない。

だが、そのような場合には、その決定疑問文は、実は決定疑問文ではなく補足疑問文であったのだと考えることができるのではないだろうか。実際は次のような補足疑問文の省略表現であると考えられる。

A「戸締まりをしたかしていないかのどちらですか。戸締まりしている可能性のほうが高   いので、戸締まりしていた場合には省略して、はい、と答えてください。」

B「はい。」

つまり、穏健な質問としての決定疑問文とは、実は、答えの予測と答え方の省略を組み合わせた補足疑問文なのである。

3-2 文化的要因

このような説明だけだと、僕が単に細かいところにこだわっているだけに見えるかもしれないので、もう一つの理由に移ろう。

僕が決定疑問文と補足疑問文との区別を意識するのは、決定疑問文の存在は、多分に文化的な要因によるものだと考えられるからだ、とも言える。決定疑問文は便利で広く使われているから実例があるかどうかは知らないが、理屈上は、決定疑問文がない言語というものも想像できる。例えば「リンゴがテーブルの上にありますか。」は完全に「リンゴがテーブルの上にあると思われますが、確認をお願いします。」という表記で置き換えることができる。

一方で補足疑問文は、どのような疑問詞を用いるかは文化による違いはあっても、全く補足疑問文がない言語は想像できない。時間についての疑問詞がなく「いつですか。」を「いずれの時点ですか。」としか表現できない言語体系はありえても、全く補足疑問文がない世界は想像ができない。もし、そんな世界があったとしたら、それは、つまり話し手が不知の事項について聞き手に質問することができない世界が存在してしまうということである。

決定疑問文が表現する確認という行為は、疑問文によらずとも表現が可能だが、補足疑問文が表現する質問という行為は、何らかの専用の表現が必要なのである。つまり、他の表現で置き換え可能である確認としての決定疑問文は本当の疑問文ではなく、置き換えができない補足疑問文こそが真の疑問文なのである。

3-3 純粋に知的な行為としての発話

二通りのやり方で、質問としての補足疑問文から、確認としての決定疑問文を区別することの意義を強調してきたが、実はこの二つの説明は同じ一つの動機から行ったものである。

僕は、純粋に言語的な行為と、純粋でない言語的な行為を区別したいと考えている。純粋に言語的な行為とは、例えば、(理想状態としての)哲学カフェなどで行われるような、言葉を交わすことだけを目的とした発話のことであり、純粋でない言語的な行為とは、そこに僅かではあっても、言葉を交わすこと以外の何らかの目的が混入しているような、より日常的にありがちな発話のことである。

そして、僕は、質問としての補足疑問文のほうに純粋性を見出し、確認としての決定疑問文のほうに言語以外の夾雑物を見出そうとしている。「リンゴはどこにありますか。」は不知のものを知りたいという動機による知的に純粋な発話だが、「本当に戸締まりをしましたか。」は、不安を払拭して安心したいという不純な動機による発話だ、という方向で僕は考えたいと思っている。※1

当然、補足疑問文を使っていても、純粋な発話ばかりではない。(殺人を認めていない被疑者に対して)「あなたが殺していないと言える証拠はどこにあるんですか。」などと問い詰め、罪を自白させ、憎い犯罪者を牢屋にぶち込もうとするだけの発話もあるだろう。※2

きっと、ほとんどの補足疑問文がそのようなものなのだろうが、それでも僕は、補足疑問文というものの中に、純粋に知的な行為としての発話の萌芽を見出している。

※1 このように述べてみて明確になったが、僕は、純粋に言語的な行為と、純粋に知的な行為とを結びつけているようだ。つまりそこには、言語とはどこまでも知的なものであり、純粋な言語とは知的な目的にのみ用いられるものである、という思想がある。この思想を別のかたちで表しているのが、このブログのタイトルにしている「対話の哲学」というアイディアである。

※2 僕は、刑事の取り調べが非倫理的で劣っていると言っている訳ではない。僕は発話には、言語としての側面と、行為としての側面があると考えている。(ネーミングはともかくとして。)そして、通常の意味での倫理性は、行為がその評価対象となる。だから、刑事が凶悪犯を自白させることは、溺れる人を助けに海に飛び込むのと同じように、行為として倫理的な行為である、ということになる。

4 懐疑論者

では、二つ目の「懐疑論者がやっていることは、決定疑問文をつくるという作業なのではないか。」という話に移りたい。

ところで、いろいろな文章で繰り返し書いているけれど、僕は懐疑論者だ。だから、この問題は、つまり、「懐疑論者である僕が行っている懐疑は、一見すると質問のような見かけをしているが、実は、それは知識を求めようとするものとしての(狭義の)質問ではなく、確認としての決定疑問文をつくる作業に過ぎないのではないか。」という問題であることになる。

要は、ここまで僕が行ってきた補足疑問文と決定疑問文の区別の話は、懐疑論者である僕のための話だったということになる。きっと読者の多くは懐疑論者ではないだろうから、ここからの話はあまり役に立たない話になってしまうだろう。そのような方にとっても少しでも役立つ話をしようとここまで頑張ってきたので、それで勘弁していただきたい。ここまでの話は、流れとしては、ここからの話のための枕に過ぎないとは言え、懐疑論者ではない方にとっても独立した価値がありうるものだと僕は思っている。

さて、懐疑論者である僕にとっての目下の悩みは、懐疑に答えが出ないことである。「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑に対して、「そのとおり、夢である。」という答えも、「いいや、夢ではない。」という答えも出すことができない。

だが、ここまで行ってきた、質問としての補足疑問文と、確認としての決定疑問文という区別を当てはめるならば、この問題は雲散霧消してしまう。「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑は決定疑問文であり、質問ではなく確認なのである。だから、戸締まりの確認が無限に可能なように、このような懐疑も無限に可能なのである。この懐疑を打ち切るためには、答えを見つけるのではなく、ただ確認を打ち切るしかない。それが答えなのである。

戸締まりの確認との類比性を強調するならば、「この世界は巨大な夢なのではないか。」という懐疑は不安の表現である。この世界というものに不穏さを感じ、その不穏さを解消するためには質問に対する答えを探さなければならないと誤解し、僕は懐疑論者になったということである。

または、先日書いた文章、『驚きと疑い』(http://dialogue.135.jp/2022/04/09/utagai/)を踏まえるならば、僕はこの世界への驚きの表現として、このような決定疑問文を用いているに過ぎないとも言える。

どちらにせよ、僕の懐疑は、純粋に言語的な行為ではなく、大いに不純な夾雑物が含まれている。つまり、言語性に対比するものとしての行為性の混入である。

5 わからない

以上の話は、ここで終わればうまくまとめられていると思う。だが、残念ながら、当初の計画どおりにはいかず、不器用に付け足さなければいけないことを思いついてしまった。

懐疑論者が行う懐疑には、補足疑問文も用いられる。例えば「この世界において確かなものは何か。」というような懐疑である。これをどのように扱えばいいのだろうか。

まず言えるだろうことは、この懐疑は、「この世界は巨大な夢なのではないか。」のような懐疑とは種類が違うということである。夢の懐疑にせよ、「これはプラスではなくクワスなのではないか。」という規則の懐疑にせよ、思考実験的な具体的状況を想定した懐疑は、(多分)決定疑問文で表現することできる。一方で、「この世界において確かなものは何か。」という懐疑には具体的な状況想定がない。そこに違いがあるように思える。

なお、具体的な状況を想定した思考実験的な補足疑問文を作ることもできるだろう。例えば、「この世界が巨大な夢だとしたら、夢から覚めた世界はどのようなものなのか。」という補足疑問文は成立する。

だが、これは懐疑論者の懐疑ではない。なぜなら、「この世界が巨大な夢だとしたら」という状況設定が揺るぎないものとして確定しているからだ。懐疑論者ならばまさに疑うべきところが前提になってしまっている。やはり決定疑問文を用いて、夢の懐疑のように、思考実験的な状況設定をまるごと疑うのでなければ、懐疑論者の懐疑を十二分に表現することはできないのだ。

残念ながら、僕はこの問題について、これ以上の答えを今は持ち合わせていない。あえて答えの方向を予想するならば、それは「わからない」という答え方に関係しているように思う。

「この世界において確かなものは何か。」という質問に対しては、「わからない」という答え方がありうる。その場合でも、「この世界において確かなものは◯◯である。」という知識の欠如に対して、「この世界において確かなものは「わからない」である。」という穴埋め(補足)がされる。つまり、質問に対するきちんとした回答となっており、新たな知識を獲得しているという点で、純粋に知的で言語的な活動だと評価することができる。その証拠に、「この世界において確かなものが何かはわからない。」ということを前提にして、どうしてわからないのか、とか、いつかわかるときがくるのか、というような思考を続けることができる。

だが、「わからない」という言葉は、補足疑問文だけではなく、決定疑問文の答えとしても用いることができる。「リンゴは机の上にありますか。」「わかりません。」という応答である。もし、補足疑問文に対しても、決定疑問文に対しても、同じ「わかりません。」という答え方を認めるならば、ここまで論じてきた、質問としての補足疑問文、確認としての決定疑問文という議論の枠組みがすべて壊れてしまうように思える。なぜなら、見かけ上、補足疑問文であっても、決定疑問文であっても、結局は、「わかります」か「わかりません」かの二者択一の返答がまずあるはずだ、ということになるからだ。

「リンゴはどこにありますか。」「(その答えは)わかります/わかりません」

「リンゴは机の上にありますか。」「(その答えは)わかります/わかりません」

という応答である。補足疑問文か決定疑問文かを区分するためには、「(その答えは)わかります」という応答があった場合に、更に「では、リンゴはどこにありますか。」という補足疑問文や「では、リンゴは机の上にありますか。」という決定疑問文を重ねなければならない。

どうも、「わからない」という答え方には、ここまで論じてきた補足疑問文か決定疑問文かという問題とは、別の問題が潜んでいるように思える。そのことと、「この世界において確かなものは何か。」という「わからない」としか答えられないような補足疑問文についての問題はつながっているように思える。

驚きと疑い

※この文章は1万字少々あります。

1 あれは何だったのか

僕は懐疑論者だ。僕は昔からずいぶん疑い続けて生きてきた。当然、四六時中疑い続けている訳ではないけれど、ふとしたきっかけで疑いが頭をもたげてきて、それに対応することにかなりの労力をかけて生きてきた。

だけど、年を取るにつれ、そのようなことが徐々に少なくなってきている。僕の疑いとは哲学的な疑いだから、当然、そう簡単に解決するはずがないのだけど、解決しないまま、疑うことが減ってきたのだ。

きっと歳をとったということであり、仕事やなにやらに忙殺されて余裕もなくなってきたということなのだろう。懐疑というのはこのようにして解決していくものなのかもしれない。世の中の人々はそうしているのであり、僕はそれに少々時間がかかっただけなのかもしれない。それは、ちょっと寂しいけれど、ちょっと心休まることでもある。ようやく人並みになれたという安心感である。

当然、それにより問題から離れられる訳ではない。話は逆であり、ようやく、冷静に、腰を据えてこの疑いに取り組めるようになったと言ってもいい。懐疑の真っ只中では問えなかったようなかたちで、(「これは何だ。」ではなく)「あれは何だったのか。」と問うことができるのだから。

そこで、この文章では、「あれは何だったのか。」について、少し考えてみたい。

2 驚きから疑いへ

哲学に触れているうちに、僕はこの懐疑を(永井均から学んだ語である)タウマゼインと結びつけられることに気付いた。この疑いは、僕の哲学の第一歩であり、僕の哲学の源泉であるという意味で、伝統的にタウマゼインとも呼ばれる哲学的驚きとかなり近いものとして捉えることができる。「あれは何だったのか。」とは疑いの表現であると同時に驚きの表現でもあると言えるということである。

では、この疑いと驚きとは全く同じものなのだろうか。違うとしたら両者はどのような関係にあるのだろうか。

僕の実感としては、疑いは驚きから始まるように思える。例えば「この世界はすべて幻であり、僕は水槽の中の脳なのではないか。」という疑いは、まず、そのような可能性を思いついたことの驚きとして始まる。疑えることの驚きである。つまり、驚きは疑いに先行する。

そう考えるならば、疑いとは驚きの表現の仕方のひとつだと言えるかもしれない。人が「この世界はすべて幻であり、僕は水槽の中の脳なのではないか。」と疑うとき、それは単に疑っているのではなく、そのような疑いが成立することの驚きを表現しているのである。

哲学に限らず日常的にも、驚きから疑いへ、という法則性は成立しているように思える。圧倒的な光景を目の当たりにしたとき、人はただ立ちすくむ。初めてローマでフォロ・ロマーノの遺跡を見たときや、テレビ中継で田畑を遡上していく津波の映像を見たときの僕がそうだった。まず、ただすごいとしか言いようがない驚きがあったうえで、ようやく、そのことについての思考を巡らすことができる。順序は、驚きから疑いなのである。驚きこそが疑いの本質であると言ってもいいだろう。

それが顕著に現れるのが旅行(特に海外旅行)である。フォロ・ロマーノの例のとおり、旅は驚きの連続である。景色であれ、料理であれ、人であれ、日常では出会わない新奇なものに出会い、それに驚くのが旅の醍醐味だと言ってもいいだろう。

旅先で未知の景色や料理に出会ったとき、「すげえ、なんだこれ。」と僕はつぶやく。僕の哲学的懐疑も、実は同じことで、この世界に驚嘆し、「すげえ、なんだこれ。」とただつぶやいているだけなのかもしれない。そのような意味で、懐疑とは驚きの表現のひとつなのである。なおその懐疑については、海外旅行であればガイドブックに書いてある答えを読めば済むけれど、哲学の場合にはそうはいかない。(哲学書に答えらしきものが書いてあることはあるけれど、僕は納得できないから、僕は自分で答えを探している。)

とにかく以上のとおり、順序としては、まずは驚きがあり、そこから派生するようにして懐疑という症状が生じると描写できるだろう。

3 疑いから驚きへ

だが旅も驚きの連続ばかりではない。やがて旅も飽きる。僕は海外旅行が好きなのだけど、僕の場合、4日目くらいから、旅が日常となり新奇なものに出会うことが日常となっていく。そして、大学生の頃の記憶を探ると、2週間を超えると旅に疲れて何にも出会いたくなくなる。

同様に、歳をとると、若い頃に感じた哲学的驚きが薄れていくのではないだろうか。その結果、あれほど僕を包んでいた懐疑も、どこか他人ごとのような気がしてきているのかもしれない。

ここで旅と哲学の違いが生じる。旅に飽きたならば家に帰ればいいが、哲学の場合には帰るべきところはない。なぜなら僕は、哲学的驚きから派生する哲学的懐疑により、帰るべき当たり前の日常を疑っているのだから。

だから今の僕は、歳を取るにつれて驚きは消えつつあるのに、ただ懐疑だけがしぶとく残っているという状況である。僕は、この懐疑を解決しないことには、死んでも死にきれないなあ、と思っている。(いつもではないけれど、そういう気分になるときがある。)

その懐疑について考えるためには、どうしても、昔から抱いていた哲学的驚きのことを思い出さなければならない。だから、今や順序は逆であり、驚きから疑いへ、ではなく、疑いから驚きへ、である。

なお、この驚きと疑いの関係性の逆転は悪いことばかりではない。なぜなら、先ほど述べたとおり、驚きの只中では疑うことさえできないからだ。哲学に限らず、驚きにより言葉を失っているときに懐疑の思考などできる訳がない。驚きについて思考するためには、ある程度の時間経過による飽きや慣れが必要なのだ。

以上の驚きと疑いの関係についての考察は、僕に新たな気づきをもたらしてくれる。これまで僕は、自分自身が懐疑論者であり、それも世の哲学者たちが想定する懐疑論者よりもはるかに徹底した超・懐疑論者だと思っていた。僕には、世の懐疑論者は、懐疑という行為を遂行可能な確かなものとして確立し、懐疑自体を疑っていないように見えていた。例えばデカルトは「我思う(疑う)故に我あり」と言うけれど、なぜそんなことが言えるのかさっぱりわからなかった。疑いにより何かに到達できるなんてどうして言えるのだろうと僕はずっと思っていた。

だが実は、僕がやっていたのは懐疑ではなく、ただ驚きの只中にあり、言葉を失っていたにすぎなかったのだ。僕は徹底的に懐疑していたと思っていたけれど、実はそれは言葉を失うほど驚いていたことの表現であったにすぎない。僕がデカルトの議論に不徹底さを感じたのは、デカルトが僕の驚きを十二分に表現できていなかったことに対する不満であり、それは、画家が書いた富士山の絵が富士山の美しさを十二分に表現できていないことに感じる不満と大差ないものだったのである。

僕はようやく熱病から醒め、思考のためにあえて疑い、あえて萎えた驚きを思い出すことで、僕は、驚きについて思考し、疑いについて思考することができるようになってきた。僕は言葉をとりもどし、言語以前の僕だけの哲学ではなく、思考を言葉で表現するものとしての、いわゆる哲学を開始することができるのだ。

こうして僕は歳を重ねることにより「驚きから疑いへ」から「疑いから驚きへ」という逆転を成し遂げることができた。少し寂しいけれど、この逆転は、驚きと疑いから距離を置き、驚きと疑いについて思考するためには必須のものだったのだろう。

ここからは、この逆転を成し遂げた視点から、驚きと疑いについての考察を行う。それはつまり若い頃に抱えていた驚きと疑いを変質させてしまうということである。それは少し残念なことだけど、それしかできないのだから仕方ない。せめて極力その変質を自覚しつつ考察を進めるほかはない。

4 視点の固定

さて、考察を始めるにあたって、まずは驚きと疑いのうち、疑いに着目してみたい。疑うとはどういうことなのだろうか。

例えば、「私は水槽の中の脳かもしれない。」と疑うという例を取り上げてみよう。そこで疑われているのは、目の前にペットボトルがある、というような外的な認識である。実際はペットボトルなんてないのに、脳を操作されてペットボトルの映像を見せられているのかもしれない、という懐疑が生じている。だから、疑われているのはペットボトルがあるという外的な認識である。一方でペットボトルの映像が見えている、という内的な認識は疑われていない。内的な認識が確実なものであるからこそ、そこから外的な認識を疑うことができる。ここには疑われていない内的な認識と疑われている外的な認識という対比がある。

なお、ここで確実視されている内的な認識とは、つまりは疑っているという私の認識だとも言える。だからこそデカルトが言うとおり私の存在は確実であることになる。コギト、つまり私の認識という確実な地点があるからこそ、そこを梃子の支点として、外界を有意味に疑うことができるのだ。

確実な地点と不確実な地点という対比は他の例でもあてはまる。例えば、「5分前に世界は創造されたかもしれない。」という疑いがある。ここで疑われているのは5分前より古い時間である。一方で疑われていないのは5分前より新しい時間である。5分前よりも新しい時間については常識的な時間が確保されているからこそ、それより古い時間を疑うことができる。なお、5分前というのは便宜的なものであり、3分前でも1分前でもいい。だが少なくとも、過去の時間を疑うという行為を成立できる程度には時間の幅を確保する必要があるだろう。思考できる程度の幅の現在を固定された支点とすることで、有意味に過去を疑うことができるようになるのである。ここにあるのは確実な現在と不確実な過去という対比である。

以上のことから明らかなように、疑うためには、固定された支点が必要である。支点さえあれば、どんなに巨大な疑いでも遂行可能である。だが、どんなに巨大な疑いであっても、その支点だけは疑うことができない。

なお、僕が哲学を学んだ限りでは、その固定された支点とは、たいていは「今ここの私」である。さきほど二つの例を出したけれど、一つ目の例は「私」を支点とした場合であり、二つ目の例は「今」を支点とした場合である。この二つはとても強力で使い勝手のよい支点だ。僕は永井均の哲学が好きなのだけど、彼の哲学が人気なのは、このあたりに理由があるように思う。(このことは後ほど取り上げる。)

5 「今ここの私」が「この世界」を疑う

以上の疑いについての話はある種の正しさがあると思うけれど、それほど新しい話ではない。僕は本当は、このような話ができてしまう手前の話をしたかったはずなのだ。若い頃の僕のタウマゼインを思い出すならば、疑いとはあくまでも派生するものであり、その手前には驚きがあったはずだ。年月が経ち、多少擦り切れてしまったけれど、まずは驚きがあったはずなのだ。それを取り逃さないためには疑いから驚きへと議論を移す必要がある。

驚きについて論じるためには、多少は驚きについての具体的な輪郭を与えておいたほうがわかりやすいだろう。実は具体的な輪郭を与えることで、すでに変質があり、驚き自体を取り逃がしてしまうはずなのだが、伝わりやすさを優先し、あえて便宜的に、直接的に驚きを描写しておきたい。(この変質については後ほど取り上げる。)

先ほど、懐疑について述べるなかで、懐疑を成立させるための固定された支点としてありがちなのは「今ここの私」だと言った。それに対応するかたちで述べるならば、ありがちな哲学的驚きとは「この世界」に対する驚きだろう。なぜなら、僕たちは、この世に生まれて「この世界」と出会うからだ。生まれてきた赤ん坊は周囲を見渡し、ここは何なのだ、と思うに違いない。そのような意味で、多くの人は「この世界」に驚いていると言えるのではないだろうか。

そして、ありがちな情景の描写を更に続けるならば、人は「この世界」に対する驚きを表現するため、「今ここの私」を固定した支点として「この世界」を疑っているということになる。多くのひと、多分僕自身も含めたほとんどの人は「この世界」に驚く。だが懐疑論者と呼ばれる一部の人は、その驚きを驚きとして素直に表現するのではなく、その驚きを「この世界」に対する懐疑として表現しようとする。その懐疑を成立させるために便宜的に設けたのが、「今ここの私」という支点である。「今ここの私」という揺るがない支点があるからこそ、十二分に「この世界」に対する懐疑を遂行することができる。以上が哲学的驚きから懐疑論者が誕生するまでのおおまかな道筋である。

ここまでの議論でわかるように、懐疑論者は大きな取り違えをしている。本当に疑い得ないのは驚いた「この世界」のほうであり、「今ここの私」とは、その驚きを疑いとして描写するために便宜上導入した仮置きの支点に過ぎない。初発としての哲学的驚きを踏まえるならば、決して手放してはいけないのは「この世界」のほうであり、「今ここの私」などどうでもいい。「今ここの私」から「この世界」を疑う我らが懐疑論者は、本当はどうでもいいガラクタのようなものを大事に抱えつつ、真に大事だったはずのものに疑いの眼差しを向けているということになる。

なぜこんなに簡単にわかることを懐疑論者が間違えてしまうのかといえば、今ここで論じているような立場には実は決して立つことができないはずだからだ。僕は今、驚きと疑いを俯瞰的に眺める、決して立つことができない神の地点に立ってしまっている。決して立つことができない地点に立ったならばこんなにクリアに捉えられることが、哲学を遂行する当事者になった途端、全く見えなくなってしまう。それはつまり、これほどクリアに述べていることには無理があり、便宜的な嘘が混入しているということである。

無理は、「この世界」という言葉にあらわれている。導入時に注意喚起した通り、「この世界」という言葉は不正確だ。僕が本当に驚いたものを十二分に表現することができていない。はっきり言うならば、僕が驚いたものは「この世界」などというものではない。僕は「この世界」が「この世界」などというものではないということに驚いたと言ってもいい。そのことを真摯に表現しようとするならば、僕は懐疑の道に進むしかなかったのだ。

だが、一方で、驚きと疑いについて考察するために、「この世界」という用語を導入することは悪いアイディアではないだろう。永井の〈私〉や〈今〉も似た動機で導入された言葉である。哲学にはそのような言葉がたくさん転がっている。だから僕も、〈世界〉などと表現することが許されるだろう。(なお、永井は〈私〉や〈今〉を〈世界〉より優位にとらえているが、僕は、〈私〉や〈今〉よりも〈世界〉を優位に捉えることになる。)

6 懐疑論以外の処理方法

6-1 通常の場合

以上でおよそのところは語りきったが、補足しておきたい事項がある。さきほど、「この世界」への驚きを処理しようとして、多くの懐疑論者が「今ここの私」が「この世界」を疑うという理路に至る、と述べた。そのうえで、実はそれは便宜上の仮置きの視点から揺るぎないはずのものを疑うという転倒をしてしまっているということを述べた。懐疑論者以外の人はどうしているのだろうか。当然、そこには色々なバージョンがあるだろうが、いくつか思いついたものを列挙しておきたい。

まず、懐疑論者でない大多数の人たちがとるだろう通常の解決策に触れておくべきだろう。僕とは違う道筋なので、あくまで推測であり、どれだけ一般化できるかはわからないが、彼らは、その驚きを忘れるか、または、より個別具体的な驚きとして理解するか、のいずれかなのではないだろうか。

前者の忘れるという解決をとった場合、彼らは、驚きに慣れて飽きた今の僕に近い状況に最初から立つことができる。つまり、最初から「この世界」を思考により捉え、言語により描写可能なものとして理解できるということである。いわゆる常識的な世界観である。タウマゼインから哲学が始まるとするならば、彼らは哲学を始めないという選択をしたということであり、また、その選択をしたことすら忘却するという選択をしたということである。僕はそれはとても健全なことだと思うし、どこか羨ましい。

 後者の個別具体的な驚きとして理解する、というのも、かなりポピュラーなやり方だろう。「この世界」の驚きを、この世界へ因果への驚きと解釈するならば、そこから科学が始まるだろうし、この世界の美しさへの驚きとするならば、それは芸術への道である。この世界の人間に着目するならば、それは倫理や道徳となるだろう。「この世界」を我が国と解釈すれば国粋主義者となるだろうし、家族などの身近な人と解釈することもできそうだ。「この世界」のなかの何かに着目し、それに驚くならば、それがその人の哲学の始まりとなる。美学や倫理学はそのようにして始まるのだろう。

なお、強調しておきたいが、「この世界」の全体ではなく一部に着目すること自体は決して哲学の劣化や堕落ではない。なぜなら、そうせざるをえない当事者にとっては、それが全てであるはずだからだ。彼らにとっての全部が、僕のような部外者が傍から見ると一部であるように見えるに過ぎない。そして、きっと、〈世界〉を「この世界」としか描写できない僕も、傍から見れば個別具体化からは免れられていないに違いない。だが、それは決して恥じることではない。

6-2 入不二の場合

僕も含めた多くの人が、哲学的驚きに対しては、このような対応をとっていると思うが、ごく少数の天才たちは、少し毛色の違う対応をしているように思える。ここではそのうち二人だけ取り上げておきたい。

まず取り上げたいのは僕がファンである入不二基義だ。繰り返し述べた通り、僕を含めた多くの懐疑論者は「この世界」への驚きを表現しようとしながら、驚きと疑いを転倒し、「今ここの私」が「この世界」を疑うという懐疑を遂行している。

入不二も「この世界」に驚くというところまでは同じだが、彼はそこから、何も転倒せず、ただ素直に「この世界」への驚きを表現することに(少なくともある程度まで)成功しているのではないだろうか。

入不二がやっているのは現実論である。つまり、入不二の用語によるならば、「この世界」とは現実であるということになる。当然、僕がとりあえず「この世界」と名付けたものは、精緻な哲学的議論を経ていない問題含みな概念なので、入不二ならば、自らが重視する現実と「この世界」というようなものを同一視することは拒否するだろう。だが、入不二哲学の雰囲気を伝えるための方便としては、彼の現実を「この世界」と表現することは、そうおかしいことではないだろう。確か、入不二も、現実を指示する動作として、両手を広げ、天に向けてかざすような動作を挙げていたと思う。入不二の現実を〈現実〉と表記し、僕の表記としての〈世界〉と並べるならば、そこにはかなりの一致を見出すことができるように思う。

多少の議論の粗さはあるが、ポイントは、入不二にとっては、「この世界」という現実が出発地点かつ目的地点であり、その他の要素、例えば「今ここの私」というようなものは途中経過としての議論の材料に過ぎないというところにある。だから「今ここの私」などというものは、疑っても何をしても構わない、あくまで付随的な問題なのである。

入不二は独我論についての本(『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』)も出しており彼には懐疑主義的なところがある。僕は入不二のそういうところも好きなのだが、僕が切実に懐疑しているのに対し、彼はどこか道具的に懐疑をしているように感じていた。それは僕と彼の興味の違いなのだろうと思っていたが、より正確には、僕と彼の哲学的驚きへの対処の仕方の違いに由来するものだったのだろう。つまり彼に比べて、僕が単に回り道をしているに過ぎないということである。

6-2 永井の場合

もう一人の天才とは、「今ここの私」的思考の親玉とでも言うべき永井均である。

永井も入不二と同様に、多くの懐疑論者が驚きと疑いを転倒し、驚くべきものを疑うという不可避的な誤りを犯しているのに対して、何も転倒せず、ただ素直に驚き、驚いたままに哲学を遂行することに成功しているように見える。ただし、何に驚いているかが入不二とは違う。僕の見立てでは、入不二が「この世界」に驚いているのに対し、永井は「今ここの私」に驚いている。

そして、そこからぶれることなく、ただ「今ここの私」への驚きに始まり、「今ここの私」に終わるものとして、独在論的な哲学を遂行し続けている。「今ここの私」への驚きにひたりつき続けている。

だから、彼が「この世界」について述べたとしても、それは途中経過としての議論の材料として触れているに過ぎない。だから「この世界」などというものは疑っても何をしても構わない。永井は様々な思考実験を行い、そこで「この世界」に対する懐疑も様々なかたちで行う。それは一見すると、僕のような懐疑論者が行うあの懐疑によく似ている。だが、動機は全く異なり、永井が行っていることは、あくまで「今ここの私」への驚きを表現するための手段としての懐疑でなのである。

ここに(入不二と比べた場合の)永井特有の難しさがある。永井が行っていることは、「今ここの私」が「この世界」を疑うという点で、多くの懐疑論者と全く同型なのだ。ただし、その動機が全く異なる。それがわかりにくくて誤解されやすい。永井の人気は、この誤解に支えられていると言ってもいいように思う。

永井にとっては「この世界」などどのようなものであっても構わない。よって「この世界」は容易に懐疑に付することができるものとなる。確かに永井は、「今ここの私」が「この世界」を疑うということをやってはいるが、その懐疑の内実が大多数の懐疑論者とは全く異なるのだ。多くの懐疑論者は取り違えながらも切実に懐疑しているのに比べ、永井の懐疑は、あくまで「今ここの私」への驚きを語るための道具であり、付随的なものである。

7 無頓着さ

永井と入不二のことを僕なりに考察してみて、ひとつのことを確認できたように思う。僕はなんとなく、二人には懐疑論者的なところがあると思っていたけれど、彼らは懐疑論者ではなく、単に無頓着なだけなのだ。永井は「この世界」に無頓着であり、入不二は「今ここの私」に無頓着である。無頓着だからこそ、容易に懐疑に付すことができる。やっていることは一見懐疑論者に似ていても、懐疑論者ならば切実に懐疑に付す一方で、彼らは無頓着に懐疑に付している。そこには、大人が怨恨から人を殺めることと、幼児がアリの巣を水攻めすることくらいの違いがある。彼らが天才だとするならば、そこに天才たるゆえんがあるように思われる。僕のような凡人には、彼らの無頓着さが羨ましい。

実は、僕の懐疑とは「全てが疑わしい」というものであり、その疑いを成立させるための支点として言語を想定していた。僕は、言語を揺るぎないものと信じている訳ではないが、便宜上、僕の懐疑をとりあえず近似値としてでも描写するためには、言語という支点が最もマシなものとだろうと考えていた。だからこそ、僕のこのブログのタイトルは「対話の哲学」となっている。対話としての言語こそが、僕の哲学にふさわしいと思っていたのだ。

だが、彼らの無頓着さをみていると、そんな妥協などせずに、ただ驚いたものを驚きっぱなしでいればいい、とも思えてくる。まだ疑い始める前の、ただ圧倒され、ただ驚いていた「あれ」のことだけを、余計なことなど頓着せず、ただ考えればいいとも思えてくる。本当の哲学とは、そういうものなのかもしれない。

8 「あれ」を探しに

だが、僕はここで困ってしまう。僕が驚いた「あれ」とは何なのだろう。僕はまだそれをうまく語ることができない。永井や入不二には、自らが驚いた「あれ」について、懐疑などという迂回路を通らず直線的に把握するだけの力量があった。だからこそ、無頓着でいられたのであり、それが天才ということなのだろう。

残念ながら、きっと天才ではない僕には、今のところ迂回路が必要であり、これまで行ってきた懐疑の積み上げも無駄にはならない。だけど、このままではまずいので、迂回の仕方、つまり懐疑の使い方は考え直さないといけないように思う。

今回考えてみて、僕を含めたたいていの人は、驚きと疑いが逆転し、本来、疑ってはいけないものを疑い、拠って立ってはいけないところに立ってしまっていることがわかった。ただし、驚いているからこそ注目し、注目しているからこそ疑っているということだから、決して見当違いという訳ではない。そこに注目しつつも、そこに向けていた疑いから慎重に離れ、疑いを成立させるために仮置きしていた足元の支点に疑いの眼差しを戻すという作業をすればよいはずだ。僕ならば、言語という僕が仮置きしていた支点にこそ疑いの眼差しを向けつつ、今のところ「すべて」としか言いようがない何かに「驚きの目を向ける」ということである。それは当たり前のことを当たり前にやろうとする、ということである。

意識的に驚きの目を向ける、という表現に違和感があることからも明らかだが、当然、不可逆の逆転を遡るような芸当をそう安々と成し遂げることはできない。きっとどこかで無理が生じるだろう。だが、無理を承知で逆転を再逆転しようとすることで見えてくるものもあるはずだ。失敗が運命づけられた試みをあえて繰り返す果てに、わずかに垣間見えるものがあるかもしれない。

僕が今のところ想定している新たな迂回路とはそのようなものである。

こう書くと少々悲観的に聞こえるだろうけれど、僕が求める「あれ」は、そのような動的な試みと相性がいいようにも思えている。なぜなら、永井の独在性も、入不二の現実性もいずれも動的なあり方をしているからだ。永井や入不二が、原始的な驚きから離れずに哲学を遂行することに成功しているのは、そこに力動性が宿っているからではないだろうか。

そして、これから僕がやろうとしているトライアンドエラーの動的な運動には、驚きと疑いの間をつなぐ動性があると同時に、永井の独在性と入不二の現実性の間をつなぐ動性があるような予感がある。うまくいけば、僕は永井と入不二を架橋するような動的な何かを見つけることができるかもしれない。それはなかなか面白い目標設定ではないだろうか。