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驚きと疑い

※この文章は1万字少々あります。

1 あれは何だったのか

僕は懐疑論者だ。僕は昔からずいぶん疑い続けて生きてきた。当然、四六時中疑い続けている訳ではないけれど、ふとしたきっかけで疑いが頭をもたげてきて、それに対応することにかなりの労力をかけて生きてきた。

だけど、年を取るにつれ、そのようなことが徐々に少なくなってきている。僕の疑いとは哲学的な疑いだから、当然、そう簡単に解決するはずがないのだけど、解決しないまま、疑うことが減ってきたのだ。

きっと歳をとったということであり、仕事やなにやらに忙殺されて余裕もなくなってきたということなのだろう。懐疑というのはこのようにして解決していくものなのかもしれない。世の中の人々はそうしているのであり、僕はそれに少々時間がかかっただけなのかもしれない。それは、ちょっと寂しいけれど、ちょっと心休まることでもある。ようやく人並みになれたという安心感である。

当然、それにより問題から離れられる訳ではない。話は逆であり、ようやく、冷静に、腰を据えてこの疑いに取り組めるようになったと言ってもいい。懐疑の真っ只中では問えなかったようなかたちで、(「これは何だ。」ではなく)「あれは何だったのか。」と問うことができるのだから。

そこで、この文章では、「あれは何だったのか。」について、少し考えてみたい。

2 驚きから疑いへ

哲学に触れているうちに、僕はこの懐疑を(永井均から学んだ語である)タウマゼインと結びつけられることに気付いた。この疑いは、僕の哲学の第一歩であり、僕の哲学の源泉であるという意味で、伝統的にタウマゼインとも呼ばれる哲学的驚きとかなり近いものとして捉えることができる。「あれは何だったのか。」とは疑いの表現であると同時に驚きの表現でもあると言えるということである。

では、この疑いと驚きとは全く同じものなのだろうか。違うとしたら両者はどのような関係にあるのだろうか。

僕の実感としては、疑いは驚きから始まるように思える。例えば「この世界はすべて幻であり、僕は水槽の中の脳なのではないか。」という疑いは、まず、そのような可能性を思いついたことの驚きとして始まる。疑えることの驚きである。つまり、驚きは疑いに先行する。

そう考えるならば、疑いとは驚きの表現の仕方のひとつだと言えるかもしれない。人が「この世界はすべて幻であり、僕は水槽の中の脳なのではないか。」と疑うとき、それは単に疑っているのではなく、そのような疑いが成立することの驚きを表現しているのである。

哲学に限らず日常的にも、驚きから疑いへ、という法則性は成立しているように思える。圧倒的な光景を目の当たりにしたとき、人はただ立ちすくむ。初めてローマでフォロ・ロマーノの遺跡を見たときや、テレビ中継で田畑を遡上していく津波の映像を見たときの僕がそうだった。まず、ただすごいとしか言いようがない驚きがあったうえで、ようやく、そのことについての思考を巡らすことができる。順序は、驚きから疑いなのである。驚きこそが疑いの本質であると言ってもいいだろう。

それが顕著に現れるのが旅行(特に海外旅行)である。フォロ・ロマーノの例のとおり、旅は驚きの連続である。景色であれ、料理であれ、人であれ、日常では出会わない新奇なものに出会い、それに驚くのが旅の醍醐味だと言ってもいいだろう。

旅先で未知の景色や料理に出会ったとき、「すげえ、なんだこれ。」と僕はつぶやく。僕の哲学的懐疑も、実は同じことで、この世界に驚嘆し、「すげえ、なんだこれ。」とただつぶやいているだけなのかもしれない。そのような意味で、懐疑とは驚きの表現のひとつなのである。なおその懐疑については、海外旅行であればガイドブックに書いてある答えを読めば済むけれど、哲学の場合にはそうはいかない。(哲学書に答えらしきものが書いてあることはあるけれど、僕は納得できないから、僕は自分で答えを探している。)

とにかく以上のとおり、順序としては、まずは驚きがあり、そこから派生するようにして懐疑という症状が生じると描写できるだろう。

3 疑いから驚きへ

だが旅も驚きの連続ばかりではない。やがて旅も飽きる。僕は海外旅行が好きなのだけど、僕の場合、4日目くらいから、旅が日常となり新奇なものに出会うことが日常となっていく。そして、大学生の頃の記憶を探ると、2週間を超えると旅に疲れて何にも出会いたくなくなる。

同様に、歳をとると、若い頃に感じた哲学的驚きが薄れていくのではないだろうか。その結果、あれほど僕を包んでいた懐疑も、どこか他人ごとのような気がしてきているのかもしれない。

ここで旅と哲学の違いが生じる。旅に飽きたならば家に帰ればいいが、哲学の場合には帰るべきところはない。なぜなら僕は、哲学的驚きから派生する哲学的懐疑により、帰るべき当たり前の日常を疑っているのだから。

だから今の僕は、歳を取るにつれて驚きは消えつつあるのに、ただ懐疑だけがしぶとく残っているという状況である。僕は、この懐疑を解決しないことには、死んでも死にきれないなあ、と思っている。(いつもではないけれど、そういう気分になるときがある。)

その懐疑について考えるためには、どうしても、昔から抱いていた哲学的驚きのことを思い出さなければならない。だから、今や順序は逆であり、驚きから疑いへ、ではなく、疑いから驚きへ、である。

なお、この驚きと疑いの関係性の逆転は悪いことばかりではない。なぜなら、先ほど述べたとおり、驚きの只中では疑うことさえできないからだ。哲学に限らず、驚きにより言葉を失っているときに懐疑の思考などできる訳がない。驚きについて思考するためには、ある程度の時間経過による飽きや慣れが必要なのだ。

以上の驚きと疑いの関係についての考察は、僕に新たな気づきをもたらしてくれる。これまで僕は、自分自身が懐疑論者であり、それも世の哲学者たちが想定する懐疑論者よりもはるかに徹底した超・懐疑論者だと思っていた。僕には、世の懐疑論者は、懐疑という行為を遂行可能な確かなものとして確立し、懐疑自体を疑っていないように見えていた。例えばデカルトは「我思う(疑う)故に我あり」と言うけれど、なぜそんなことが言えるのかさっぱりわからなかった。疑いにより何かに到達できるなんてどうして言えるのだろうと僕はずっと思っていた。

だが実は、僕がやっていたのは懐疑ではなく、ただ驚きの只中にあり、言葉を失っていたにすぎなかったのだ。僕は徹底的に懐疑していたと思っていたけれど、実はそれは言葉を失うほど驚いていたことの表現であったにすぎない。僕がデカルトの議論に不徹底さを感じたのは、デカルトが僕の驚きを十二分に表現できていなかったことに対する不満であり、それは、画家が書いた富士山の絵が富士山の美しさを十二分に表現できていないことに感じる不満と大差ないものだったのである。

僕はようやく熱病から醒め、思考のためにあえて疑い、あえて萎えた驚きを思い出すことで、僕は、驚きについて思考し、疑いについて思考することができるようになってきた。僕は言葉をとりもどし、言語以前の僕だけの哲学ではなく、思考を言葉で表現するものとしての、いわゆる哲学を開始することができるのだ。

こうして僕は歳を重ねることにより「驚きから疑いへ」から「疑いから驚きへ」という逆転を成し遂げることができた。少し寂しいけれど、この逆転は、驚きと疑いから距離を置き、驚きと疑いについて思考するためには必須のものだったのだろう。

ここからは、この逆転を成し遂げた視点から、驚きと疑いについての考察を行う。それはつまり若い頃に抱えていた驚きと疑いを変質させてしまうということである。それは少し残念なことだけど、それしかできないのだから仕方ない。せめて極力その変質を自覚しつつ考察を進めるほかはない。

4 視点の固定

さて、考察を始めるにあたって、まずは驚きと疑いのうち、疑いに着目してみたい。疑うとはどういうことなのだろうか。

例えば、「私は水槽の中の脳かもしれない。」と疑うという例を取り上げてみよう。そこで疑われているのは、目の前にペットボトルがある、というような外的な認識である。実際はペットボトルなんてないのに、脳を操作されてペットボトルの映像を見せられているのかもしれない、という懐疑が生じている。だから、疑われているのはペットボトルがあるという外的な認識である。一方でペットボトルの映像が見えている、という内的な認識は疑われていない。内的な認識が確実なものであるからこそ、そこから外的な認識を疑うことができる。ここには疑われていない内的な認識と疑われている外的な認識という対比がある。

なお、ここで確実視されている内的な認識とは、つまりは疑っているという私の認識だとも言える。だからこそデカルトが言うとおり私の存在は確実であることになる。コギト、つまり私の認識という確実な地点があるからこそ、そこを梃子の支点として、外界を有意味に疑うことができるのだ。

確実な地点と不確実な地点という対比は他の例でもあてはまる。例えば、「5分前に世界は創造されたかもしれない。」という疑いがある。ここで疑われているのは5分前より古い時間である。一方で疑われていないのは5分前より新しい時間である。5分前よりも新しい時間については常識的な時間が確保されているからこそ、それより古い時間を疑うことができる。なお、5分前というのは便宜的なものであり、3分前でも1分前でもいい。だが少なくとも、過去の時間を疑うという行為を成立できる程度には時間の幅を確保する必要があるだろう。思考できる程度の幅の現在を固定された支点とすることで、有意味に過去を疑うことができるようになるのである。ここにあるのは確実な現在と不確実な過去という対比である。

以上のことから明らかなように、疑うためには、固定された支点が必要である。支点さえあれば、どんなに巨大な疑いでも遂行可能である。だが、どんなに巨大な疑いであっても、その支点だけは疑うことができない。

なお、僕が哲学を学んだ限りでは、その固定された支点とは、たいていは「今ここの私」である。さきほど二つの例を出したけれど、一つ目の例は「私」を支点とした場合であり、二つ目の例は「今」を支点とした場合である。この二つはとても強力で使い勝手のよい支点だ。僕は永井均の哲学が好きなのだけど、彼の哲学が人気なのは、このあたりに理由があるように思う。(このことは後ほど取り上げる。)

5 「今ここの私」が「この世界」を疑う

以上の疑いについての話はある種の正しさがあると思うけれど、それほど新しい話ではない。僕は本当は、このような話ができてしまう手前の話をしたかったはずなのだ。若い頃の僕のタウマゼインを思い出すならば、疑いとはあくまでも派生するものであり、その手前には驚きがあったはずだ。年月が経ち、多少擦り切れてしまったけれど、まずは驚きがあったはずなのだ。それを取り逃さないためには疑いから驚きへと議論を移す必要がある。

驚きについて論じるためには、多少は驚きについての具体的な輪郭を与えておいたほうがわかりやすいだろう。実は具体的な輪郭を与えることで、すでに変質があり、驚き自体を取り逃がしてしまうはずなのだが、伝わりやすさを優先し、あえて便宜的に、直接的に驚きを描写しておきたい。(この変質については後ほど取り上げる。)

先ほど、懐疑について述べるなかで、懐疑を成立させるための固定された支点としてありがちなのは「今ここの私」だと言った。それに対応するかたちで述べるならば、ありがちな哲学的驚きとは「この世界」に対する驚きだろう。なぜなら、僕たちは、この世に生まれて「この世界」と出会うからだ。生まれてきた赤ん坊は周囲を見渡し、ここは何なのだ、と思うに違いない。そのような意味で、多くの人は「この世界」に驚いていると言えるのではないだろうか。

そして、ありがちな情景の描写を更に続けるならば、人は「この世界」に対する驚きを表現するため、「今ここの私」を固定した支点として「この世界」を疑っているということになる。多くのひと、多分僕自身も含めたほとんどの人は「この世界」に驚く。だが懐疑論者と呼ばれる一部の人は、その驚きを驚きとして素直に表現するのではなく、その驚きを「この世界」に対する懐疑として表現しようとする。その懐疑を成立させるために便宜的に設けたのが、「今ここの私」という支点である。「今ここの私」という揺るがない支点があるからこそ、十二分に「この世界」に対する懐疑を遂行することができる。以上が哲学的驚きから懐疑論者が誕生するまでのおおまかな道筋である。

ここまでの議論でわかるように、懐疑論者は大きな取り違えをしている。本当に疑い得ないのは驚いた「この世界」のほうであり、「今ここの私」とは、その驚きを疑いとして描写するために便宜上導入した仮置きの支点に過ぎない。初発としての哲学的驚きを踏まえるならば、決して手放してはいけないのは「この世界」のほうであり、「今ここの私」などどうでもいい。「今ここの私」から「この世界」を疑う我らが懐疑論者は、本当はどうでもいいガラクタのようなものを大事に抱えつつ、真に大事だったはずのものに疑いの眼差しを向けているということになる。

なぜこんなに簡単にわかることを懐疑論者が間違えてしまうのかといえば、今ここで論じているような立場には実は決して立つことができないはずだからだ。僕は今、驚きと疑いを俯瞰的に眺める、決して立つことができない神の地点に立ってしまっている。決して立つことができない地点に立ったならばこんなにクリアに捉えられることが、哲学を遂行する当事者になった途端、全く見えなくなってしまう。それはつまり、これほどクリアに述べていることには無理があり、便宜的な嘘が混入しているということである。

無理は、「この世界」という言葉にあらわれている。導入時に注意喚起した通り、「この世界」という言葉は不正確だ。僕が本当に驚いたものを十二分に表現することができていない。はっきり言うならば、僕が驚いたものは「この世界」などというものではない。僕は「この世界」が「この世界」などというものではないということに驚いたと言ってもいい。そのことを真摯に表現しようとするならば、僕は懐疑の道に進むしかなかったのだ。

だが、一方で、驚きと疑いについて考察するために、「この世界」という用語を導入することは悪いアイディアではないだろう。永井の〈私〉や〈今〉も似た動機で導入された言葉である。哲学にはそのような言葉がたくさん転がっている。だから僕も、〈世界〉などと表現することが許されるだろう。(なお、永井は〈私〉や〈今〉を〈世界〉より優位にとらえているが、僕は、〈私〉や〈今〉よりも〈世界〉を優位に捉えることになる。)

6 懐疑論以外の処理方法

6-1 通常の場合

以上でおよそのところは語りきったが、補足しておきたい事項がある。さきほど、「この世界」への驚きを処理しようとして、多くの懐疑論者が「今ここの私」が「この世界」を疑うという理路に至る、と述べた。そのうえで、実はそれは便宜上の仮置きの視点から揺るぎないはずのものを疑うという転倒をしてしまっているということを述べた。懐疑論者以外の人はどうしているのだろうか。当然、そこには色々なバージョンがあるだろうが、いくつか思いついたものを列挙しておきたい。

まず、懐疑論者でない大多数の人たちがとるだろう通常の解決策に触れておくべきだろう。僕とは違う道筋なので、あくまで推測であり、どれだけ一般化できるかはわからないが、彼らは、その驚きを忘れるか、または、より個別具体的な驚きとして理解するか、のいずれかなのではないだろうか。

前者の忘れるという解決をとった場合、彼らは、驚きに慣れて飽きた今の僕に近い状況に最初から立つことができる。つまり、最初から「この世界」を思考により捉え、言語により描写可能なものとして理解できるということである。いわゆる常識的な世界観である。タウマゼインから哲学が始まるとするならば、彼らは哲学を始めないという選択をしたということであり、また、その選択をしたことすら忘却するという選択をしたということである。僕はそれはとても健全なことだと思うし、どこか羨ましい。

 後者の個別具体的な驚きとして理解する、というのも、かなりポピュラーなやり方だろう。「この世界」の驚きを、この世界へ因果への驚きと解釈するならば、そこから科学が始まるだろうし、この世界の美しさへの驚きとするならば、それは芸術への道である。この世界の人間に着目するならば、それは倫理や道徳となるだろう。「この世界」を我が国と解釈すれば国粋主義者となるだろうし、家族などの身近な人と解釈することもできそうだ。「この世界」のなかの何かに着目し、それに驚くならば、それがその人の哲学の始まりとなる。美学や倫理学はそのようにして始まるのだろう。

なお、強調しておきたいが、「この世界」の全体ではなく一部に着目すること自体は決して哲学の劣化や堕落ではない。なぜなら、そうせざるをえない当事者にとっては、それが全てであるはずだからだ。彼らにとっての全部が、僕のような部外者が傍から見ると一部であるように見えるに過ぎない。そして、きっと、〈世界〉を「この世界」としか描写できない僕も、傍から見れば個別具体化からは免れられていないに違いない。だが、それは決して恥じることではない。

6-2 入不二の場合

僕も含めた多くの人が、哲学的驚きに対しては、このような対応をとっていると思うが、ごく少数の天才たちは、少し毛色の違う対応をしているように思える。ここではそのうち二人だけ取り上げておきたい。

まず取り上げたいのは僕がファンである入不二基義だ。繰り返し述べた通り、僕を含めた多くの懐疑論者は「この世界」への驚きを表現しようとしながら、驚きと疑いを転倒し、「今ここの私」が「この世界」を疑うという懐疑を遂行している。

入不二も「この世界」に驚くというところまでは同じだが、彼はそこから、何も転倒せず、ただ素直に「この世界」への驚きを表現することに(少なくともある程度まで)成功しているのではないだろうか。

入不二がやっているのは現実論である。つまり、入不二の用語によるならば、「この世界」とは現実であるということになる。当然、僕がとりあえず「この世界」と名付けたものは、精緻な哲学的議論を経ていない問題含みな概念なので、入不二ならば、自らが重視する現実と「この世界」というようなものを同一視することは拒否するだろう。だが、入不二哲学の雰囲気を伝えるための方便としては、彼の現実を「この世界」と表現することは、そうおかしいことではないだろう。確か、入不二も、現実を指示する動作として、両手を広げ、天に向けてかざすような動作を挙げていたと思う。入不二の現実を〈現実〉と表記し、僕の表記としての〈世界〉と並べるならば、そこにはかなりの一致を見出すことができるように思う。

多少の議論の粗さはあるが、ポイントは、入不二にとっては、「この世界」という現実が出発地点かつ目的地点であり、その他の要素、例えば「今ここの私」というようなものは途中経過としての議論の材料に過ぎないというところにある。だから「今ここの私」などというものは、疑っても何をしても構わない、あくまで付随的な問題なのである。

入不二は独我論についての本(『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか』)も出しており彼には懐疑主義的なところがある。僕は入不二のそういうところも好きなのだが、僕が切実に懐疑しているのに対し、彼はどこか道具的に懐疑をしているように感じていた。それは僕と彼の興味の違いなのだろうと思っていたが、より正確には、僕と彼の哲学的驚きへの対処の仕方の違いに由来するものだったのだろう。つまり彼に比べて、僕が単に回り道をしているに過ぎないということである。

6-2 永井の場合

もう一人の天才とは、「今ここの私」的思考の親玉とでも言うべき永井均である。

永井も入不二と同様に、多くの懐疑論者が驚きと疑いを転倒し、驚くべきものを疑うという不可避的な誤りを犯しているのに対して、何も転倒せず、ただ素直に驚き、驚いたままに哲学を遂行することに成功しているように見える。ただし、何に驚いているかが入不二とは違う。僕の見立てでは、入不二が「この世界」に驚いているのに対し、永井は「今ここの私」に驚いている。

そして、そこからぶれることなく、ただ「今ここの私」への驚きに始まり、「今ここの私」に終わるものとして、独在論的な哲学を遂行し続けている。「今ここの私」への驚きにひたりつき続けている。

だから、彼が「この世界」について述べたとしても、それは途中経過としての議論の材料として触れているに過ぎない。だから「この世界」などというものは疑っても何をしても構わない。永井は様々な思考実験を行い、そこで「この世界」に対する懐疑も様々なかたちで行う。それは一見すると、僕のような懐疑論者が行うあの懐疑によく似ている。だが、動機は全く異なり、永井が行っていることは、あくまで「今ここの私」への驚きを表現するための手段としての懐疑でなのである。

ここに(入不二と比べた場合の)永井特有の難しさがある。永井が行っていることは、「今ここの私」が「この世界」を疑うという点で、多くの懐疑論者と全く同型なのだ。ただし、その動機が全く異なる。それがわかりにくくて誤解されやすい。永井の人気は、この誤解に支えられていると言ってもいいように思う。

永井にとっては「この世界」などどのようなものであっても構わない。よって「この世界」は容易に懐疑に付することができるものとなる。確かに永井は、「今ここの私」が「この世界」を疑うということをやってはいるが、その懐疑の内実が大多数の懐疑論者とは全く異なるのだ。多くの懐疑論者は取り違えながらも切実に懐疑しているのに比べ、永井の懐疑は、あくまで「今ここの私」への驚きを語るための道具であり、付随的なものである。

7 無頓着さ

永井と入不二のことを僕なりに考察してみて、ひとつのことを確認できたように思う。僕はなんとなく、二人には懐疑論者的なところがあると思っていたけれど、彼らは懐疑論者ではなく、単に無頓着なだけなのだ。永井は「この世界」に無頓着であり、入不二は「今ここの私」に無頓着である。無頓着だからこそ、容易に懐疑に付すことができる。やっていることは一見懐疑論者に似ていても、懐疑論者ならば切実に懐疑に付す一方で、彼らは無頓着に懐疑に付している。そこには、大人が怨恨から人を殺めることと、幼児がアリの巣を水攻めすることくらいの違いがある。彼らが天才だとするならば、そこに天才たるゆえんがあるように思われる。僕のような凡人には、彼らの無頓着さが羨ましい。

実は、僕の懐疑とは「全てが疑わしい」というものであり、その疑いを成立させるための支点として言語を想定していた。僕は、言語を揺るぎないものと信じている訳ではないが、便宜上、僕の懐疑をとりあえず近似値としてでも描写するためには、言語という支点が最もマシなものとだろうと考えていた。だからこそ、僕のこのブログのタイトルは「対話の哲学」となっている。対話としての言語こそが、僕の哲学にふさわしいと思っていたのだ。

だが、彼らの無頓着さをみていると、そんな妥協などせずに、ただ驚いたものを驚きっぱなしでいればいい、とも思えてくる。まだ疑い始める前の、ただ圧倒され、ただ驚いていた「あれ」のことだけを、余計なことなど頓着せず、ただ考えればいいとも思えてくる。本当の哲学とは、そういうものなのかもしれない。

8 「あれ」を探しに

だが、僕はここで困ってしまう。僕が驚いた「あれ」とは何なのだろう。僕はまだそれをうまく語ることができない。永井や入不二には、自らが驚いた「あれ」について、懐疑などという迂回路を通らず直線的に把握するだけの力量があった。だからこそ、無頓着でいられたのであり、それが天才ということなのだろう。

残念ながら、きっと天才ではない僕には、今のところ迂回路が必要であり、これまで行ってきた懐疑の積み上げも無駄にはならない。だけど、このままではまずいので、迂回の仕方、つまり懐疑の使い方は考え直さないといけないように思う。

今回考えてみて、僕を含めたたいていの人は、驚きと疑いが逆転し、本来、疑ってはいけないものを疑い、拠って立ってはいけないところに立ってしまっていることがわかった。ただし、驚いているからこそ注目し、注目しているからこそ疑っているということだから、決して見当違いという訳ではない。そこに注目しつつも、そこに向けていた疑いから慎重に離れ、疑いを成立させるために仮置きしていた足元の支点に疑いの眼差しを戻すという作業をすればよいはずだ。僕ならば、言語という僕が仮置きしていた支点にこそ疑いの眼差しを向けつつ、今のところ「すべて」としか言いようがない何かに「驚きの目を向ける」ということである。それは当たり前のことを当たり前にやろうとする、ということである。

意識的に驚きの目を向ける、という表現に違和感があることからも明らかだが、当然、不可逆の逆転を遡るような芸当をそう安々と成し遂げることはできない。きっとどこかで無理が生じるだろう。だが、無理を承知で逆転を再逆転しようとすることで見えてくるものもあるはずだ。失敗が運命づけられた試みをあえて繰り返す果てに、わずかに垣間見えるものがあるかもしれない。

僕が今のところ想定している新たな迂回路とはそのようなものである。

こう書くと少々悲観的に聞こえるだろうけれど、僕が求める「あれ」は、そのような動的な試みと相性がいいようにも思えている。なぜなら、永井の独在性も、入不二の現実性もいずれも動的なあり方をしているからだ。永井や入不二が、原始的な驚きから離れずに哲学を遂行することに成功しているのは、そこに力動性が宿っているからではないだろうか。

そして、これから僕がやろうとしているトライアンドエラーの動的な運動には、驚きと疑いの間をつなぐ動性があると同時に、永井の独在性と入不二の現実性の間をつなぐ動性があるような予感がある。うまくいけば、僕は永井と入不二を架橋するような動的な何かを見つけることができるかもしれない。それはなかなか面白い目標設定ではないだろうか。

道徳と法

※1000字くらいです。

ハーバーマスの入門書を読んでいて思ったことを書き残しておく。多分、それほど目新しい話ではないので自分のためのメモとして。

ハーバーマスは道徳と法を重視したようだけど、道徳は内容としての普遍的な正しさであり、法は手続きとしての普遍的な正しさということなのかなあ、と思った。人を殺してはいけない、というのは全員が合意できることだから道徳的に正しくなる。一方で、殺人は刑法上罰せられる、というのは民主主義国家のプロセスを経て決定されたことだから法的に正しくなる、という対比があるという話。

だから、法とは、あくまでも道徳の代用品なのだろう。幸せになることと、幸せになるための手続きをきちんととることのどちらが大事かといえば、当然、幸せになることなのだから。(まあ、きちんと手続きをとらずに結果を手に入れることはできない、という反論はあるだろう。けれど、あくまで手続きは結果のための手段であるとするなら、僕が言いたいことは揺るがない。)

更には、理想的な概念上の法ではなく、実際にこの世にある法律のことを思い起こすならば、そこに手続き的な正しさがあるかどうかさえ怪しい。日本の国会の惨状を思い起こすならば、立法のプロセスは普遍的な正しさがある手続きを経ている「ことになっている」に過ぎない。ちょうど今問題になっているプーチンのウクライナ侵略を持ち出すまでもなく、日本のような民主主義法治国家は独裁国家よりはマシだ。だけど、だからといって、それが普遍的に正しいとまでは残念ながら言えない。

以上のような意味で、日頃我々が目にしている法律とは、二重の意味で劣化版の代替物に過ぎない。道徳の劣化版としての(理想的な)法、そして、(理想的な)法の劣化版としての現実の法律、という関係性である。

更に僕がウィリアムズから学んだことを踏まえるならば、個別の人間の人生にとって必要なのは倫理であり、そこから切り離された普遍的な道徳などというものは幻想にすぎないとも言える。だから、実は、倫理→道徳→法→法律というように、3重に脱線し、間違えてしまっているとさえ言っていいと思う。

だが、つまらない話だけれど、この世界で役に立つのはちょうど逆である。つまり学ぶべき優先順位は、法律→法→道徳→倫理である。だから弁護士は役に立つ。なぜ間違えたもののほうが役立つのかといえば、役立つようにあえて意図的に間違えているからだ。

なぜこんなことをあえて書いたかというと、僕は法学部出身で、法律に関わりが深い人生を歩んできたからだ。だから哲学的にはつまらなくても、僕にとっては書き残す価値がある話だということになる。

永井・入不二・青山・谷口・僕

0 はじめに

永井均先生の古希記念の退官記念的なワークショップを視聴した。

(多分互いに影響を与え合う存在である)入不二基義、(千葉大学時代の教え子である)青山拓央、(日本大学時代の教え子である)谷口一平というメンバーであり、入不二ファンであり、青山さんの本も何冊か読んでいる僕としては楽しみしかなく、かなり早めに会社に休暇の申請をして心待ちにしていた。(谷口さんのことは知らなかったけれど、永井さんの繋がりでTwitterで拝見していたあの方か、と納得。)

視聴した感想としては、まずは、「やっぱり、土俵が重なっている人同士の話って面白いなあ!」というもの。一を伝えれば十を知ってもらえる安心感というのかな。こんな人々に囲まれて、自分の哲学の周囲でワイワイガヤガヤやってくれたら、永井先生も嬉しいだろうなあ。永井先生は、自分に対するコメントより、入不二・青山・谷口の3者での相互のコメントを聞きたい、と言っていたけれど、なんとなく気持ちがわかる。

とっても似ているけれど、実は結構違う4人、できれば、そこに僕や(少なくとも何割かの)聴衆も含めたなかで、何か化学反応が起きないはずはなく、それがとても面白かった。ここからは、その面白かった中身について書いていきたい。

だけど、このイベントは録画配信も予定されておらず、また、当然、録画や録音も禁止とのことだったので、その詳細を書くことはできない。がんばってメモはとったけれど、メモの内容を詳細にネット上に上げることは避けるべきだろう。だから、ここでは、このイベントで何があったかよりも、そこであったことに僕がどう感じ、考えたか、を中心に記録しておきたい。

1 永井の鑑識眼

このイベントでの僕にとっての盛り上がりのピークはふたつあった。

ひとつ目のピークは、永井が、応答の冒頭で、自分がもし優れていたとすれば、鑑賞者として優れていたに過ぎないという話をしていた箇所である。「独在性を有意味に問うことはできないのでは」という風間質問と、無内包の現実性という入不二提案の2つの最重要事項を取り逃がさなかったという点にだけ、永井の哲学には価値があったという話である。

これは、謙遜でもなんでもなく、そのとおりなのだろうと思う。実は僕は、永井のことをそのようには見てこなかった。永井は、幼い子供の頃から自ら設定してきた「私」という自分だけの問題についてだけ考え、それを表現するためだけに、風間くんであれ、入不二であれ、ウィトゲンシュタインであれ、ただ利用してきたのだと思っていた。それは半面では正しいのだけれど、実は永井にとっては、昨日までの自分のアイディアすらも、今日の思考においては単に利用されるものに過ぎない。自分のことも、風間くんのことも、入不二のことも、ただ鑑賞し、そこに含まれているものを丁寧に取り出そうとだけしているのが永井なのである。思い起こせば、確かに永井はそのように哲学をしているのだなあ、ということに気付かされる。僕はそれが見えていなかったのだなあ、と思った。

永井哲学の深まりは、気をつけないと見過ごしてしまう。同じことを繰り返しているように見えてしまう。永井の言葉だけを借用し、哲学の問題設定にもタテとヨコがあるとするならば、そう見えてしまうのは、永井はひたすら、問題をタテに更新し続けているからなのだろう。だが実は永井は、自分の問題設定にこだわりなどなく、風間くんや入不二といった他者の指摘を貪欲に取り入れ、問題を掘り下げ続けているだけなのだ。そして今、永井が取り組んでいるのは、(昔の永井の)私の問題ではなく(風間の)独在性と(入不二の)無内包の現実の問題なのである、ということなのだろう。そうだとすれば、永井が、自分の優れたところは、風間質問と入不二提案に驚くことができたという鑑識眼にこそある、と述べたのは、字義通り、そういうことなのだろう。

2 2つの大事なもの

もうひとつのピークは、永井が青山に対して、神秘的なものが〈私〉と意識という2つもあるのは多すぎるのでは、と指摘したところから始まった応答である。青山が、神秘的なものを一つにしたいという誘惑に簡単に負けてはいけない、と応じると、永井は、自分にも神秘的なものが2つあると認める。青山の〈私〉&意識に対して、永井の2つの神秘とは〈私〉&ロゴス(言語・カテゴリー)である。更に、入不二は、自分ならば、現実性&潜在性であると応じる。(そのときに谷口は発言していなかったと思うが、きっと谷口ならば、〈〉と〈〉を埋める実質の2つである、と言うのだろう。)

このやり取りを通じて、僕の中では4人の違いがかなり明瞭になってきたように思う。

後述するように、僕は谷口に狂言回しの役割を担わせたいので、永井・入不二・青山という3人に注目すると、この場は、3つのベクトルに引き裂かれているように感じた。図にすると次のようになる。

まず、この場では、(その内実はともあれ)入不二の無内包の現実の問題が重要であるということは共有されているので、「無内包の現実」を始発点に置くことに異論はないだろう。青山はそこから意識を重視し、偶然的で常識的なこの世界を描写することを目指す。永井は言語(カテゴリー)を重視し、独在論的な構造でどこまで説明できるかに挑んでいる。

なお、この二者の関係で気をつけなければならないのは、青山は、言語(カテゴリー)も重視しているという点にある。つまり、青山は正確には、無内包の現実・言語・意識という3つの武器を装備しているということである。

一方で、永井は、無内包の現実と言語(カテゴリー)は一体化していると考えている。永井にとっては、言語により、今の私というかたちでカテゴリー化された現実こそが無内包の現実なのである。(入不二との応答でこの点を確認できたことも収穫であった。)だから、永井が重視している〈私〉&ロゴス(言語・カテゴリー)とは不可分であり、癒着した一つのものであるはずである。だからこそ、青山が重視しているものは、〈私〉+ロゴス(言語・カテゴリー)&意識というように2つと数えることができる。

それに対する入不二の立場は少々特殊であり注意が必要だ。なぜなら、入不二は現実性と潜在性という2つを重視していると述べたが、そこでの現実性とは、僕の図で丸で囲むかたちで示した「無内包の現実」ではないからだ。では、どこに「現実性」があるのかといえば、入不二ならばきっと、「この図に書くことはできない。強いて言えば、潜在性のベクトルの先「入不二(現実性)」と書いたところにこそある。」と述べるのだろう。つまり、青山と永井が重視する2つとは、真ん中の丸とそこから出る矢印の2つだが、入不二が重視する2つとは、この図では、矢印と矢印の先の四角という2つとなり、その位置づける場所がずれているのだ。

このような重なりとズレを伴いながら、4人の話は深まっていった。これはとてもスリリングだけど、どこか温かみがある、とてもいい場だった。

3 谷口の立場

僕はさきほど、谷口を狂言回しの役割を担ってもらうと述べた。だが狂言回しというのは不適切かもしれない。谷口は単なる狂言回しではなく、いくつかの役割を担っていたはずだからだ。

まず、実はかなり重要なことだと思うけれど、谷口は、この場を動かす燃料となってくれたように思う。入不二や青山は、その時間配分に応じた適度な発表を行ったけれど、谷口の発表は明らかに過剰だった。だけど、過剰な内容だったからこそ、そこには皆を触発する何かがあり、例えば、冒頭で紹介した、風間くん問題に対する永井のコメントなども引き出すことができた。

そして、その過剰な熱さは、それ自体でとても興味深いものだった。そこには、永井に導かれるようにして哲学の沼にはまり込んでいった一人の哲学者の姿があったし、その哲学者の発言にはいちいち共感できたからだ。

僕は谷口の話のなかで、クオリア問題を否定してみたら、クオリアが感じられなくなった、という話が気に入った。言われてみれば、生きることが哲学に影響を与えるだけでなく、哲学が生きることに影響を与えるということは確かにある。哲学の違いとは生き方の違いではあるだろうが、加えて、生き方の違いとは哲学の違いでもあるのは確かだろう。人は、ある程度は、考えたように生きていくのだろう。

先ほど図にした三人の違いとは、実はそのような違いなのかもしれない。僕は入不二派だから、どうして永井や青山は現実性をそのように捉えるのだろう、なんて疑問に思ってしまうけれど、谷口が言っていたように、考えが異なれば、見える景色自体が違うのかもしれない。

4 谷口の立場2

そして、谷口の話は、当然ながら、その哲学的な内容としても興味深いものだった。僕なりの理解では、谷口は、入不二と永井がどこで袂を分かつのかを見届けようとしたのだろう。クオリアや物自体や時間といったものを入不二と永井の中間にあるものとして捉え、それらを引き裂くようして、入不二の道筋と永井の道筋は別れていくと考えたのだ。

そこでのキーワードは世界寄与性である。何らかのかたちで世界に寄与しているならば、そこにある寄与成分は言語で世界の側から捉えることができる。しかし世界に寄与していないものについては、そこに何か内包があったとしても、それを捉えることができない。つまり、内包の有無と世界寄与性の有無にはずれがありえ、世界寄与性がなくても内包がある、という場合がありうると谷口は考えた。「無寄与的な内容成分」というものがありうる、ということである。谷口によれば、これが入不二のマイナス内包であり、認めるのが入不二であり、認めないのが永井である、ということになる。

そして、谷口は、そのマイナス内包とは、実は時間におけるA変容であると考えた。語りえぬものしかか語ることできないA変容言語によってだけ捉えることができるA変容である。これこそが、時間の最奥部にあるものだと言ってもよい。つまり、谷口によれば、時間こそがマイナス内包、現在の入不二用語で呼ぶならば、潜在する無限内包である、ということになる。

谷口の入不二に対する発言によれば、谷口は、入不二の潜在するマイナス内包に比べ、自分のA変容は顕在しているという点に大きな違いを見出している。入不二はどこまでも現実性は潜在するものだと考えているけれど、このようなかたちで、それを炙り出し、顕にすることもできるのではないか、というのが谷口の主張である。

5 退隠する入不二

僕はここにこそ、入不二と残る3人の立場の違いがあると感じる。

谷口に限らず、永井も青山も、無内包の現実性とは、何か議論の基底にある静的なものであるかのように捉えている。本当にそのように考えているかどうかはわからないけれど、少なくとも、そのようなものとして位置づけようとしているように僕には思える。

一方で入不二は異なる。当日の議論のなかで入不二は言っていたけれど、入不二は、自らの現実論を、永井の独在性のような議論が問えなくなる方向に進めようとしている。つまり、入不二の現実とは、永井の独在性の議論から、どこまでも退隠しようとするものである。入不二のマイナス内包(潜在性)とは、静的に議論の基盤として位置づけられるようなものでなく、動的にどこまでも把握から逃れようとするものなのである。

だから、谷口が行ったように、入不二のマイナス内包(潜在性)を、自らの独在性の議論の枠組みに取り入れ、位置づけることは、必ず失敗しなければならない。なぜなら、それが現実性だからである。

なお、入不二の無内包の現実性は、まずは潜在性として議論されるが、やがて、議論の中心は力としての現実性へと移っていく。それは、退隠する潜在性としての無内包の現実性から、退隠からも解き放たれた無関係の力としての無内包の現実性へと議論は進んでいく、と言い換えてもいいはずだ。

だが、(今回のイベントが永井のイベントだから当然だとは言え)これこそが入不二哲学の肝であるにも関わらず、永井、青山、谷口の誰もが、遍在的な力としての現実性については注目しなかった。この無関心さこそが、「無内包の現実性」とは、永井の独在性の議論と、入不二の現実性の議論の接触点であることを示しているのだろう。入不二はそこから、永井の独在性から距離をとるようにして現実性の議論を深めていき、永井(や青山)はそこを基盤として、独在性の議論に進んでいく。だから、入不二の議論の深まりの方には無頓着とならざるを得ない。(まあ、時間の都合で触れなかっただけかもしれないけれど、とにかく優先順位は低くならざるを得ない。)

6 青山の真摯さ

ここまで、入不二vs永井・青山という図式で考察してきたけれど、もうひとつの対立軸を、青山vs永井・入不二というかたちで描くこともできるように思う。(谷口はトリックスターなのであえて位置づけていない。)

青山は、自らが重視する意識を不純物として描写する。確かに、入不二の現実性や永井のロゴス的な独在性は真実のある側面を描写してはいるけれど、それだけでは足りないのではないか、そこには何か不純物が必要ではないか、という問題意識である。そして、その必要となる不純物とは、なぜかこの世界にあるこの身体と重なり合わせることができる意識なのではないか、という提案を行う。

この日のイベントでは明示的な発言はなかったけれど、きっと、ここでまず問われるべきは、「その必要となる不純物とは意識なのか。」ではなく「なんのために、意識という不純物を必要とするのか。」であろう。

僕の想像では、青山の答えは、「この当たり前の世界を説明できるようにするため。」というものになるのではないか。

そして、これも僕の想像だけど、永井も入不二も、その目的に賛同しないのではないか。きっと、彼らは、そんなことよりももっと別のことに興味があると考えていそうだし、なんで、そっちに興味があるのかと聞かれたら、そっちのほうが面白いから、とだけ答えるのではないだろうか。永井と入不二には、共通して、そんな社会不適合者感が漂っている。

それに比べて、青山は、もっと世の中に真摯に向き合っているように思う。もしかしたら青山も同じ穴の狢で、たまたま彼の興味がそういうものだった、というだけの話かもしれないけれど。

とにかく僕は、議論の隙間を見つけ、それを不純物で埋めていくという青山の姿勢は、とても真摯なものだと感じるのだ。

そんなことを考えていて、僕はどっちのタイプなのだろうなあ、とふと思った。青山にとっての永井のような人が僕にもいたら、僕も青山のようになれるのかもしれないなあ、それはとても幸せなことだろうなあ、と、なんとなく羨ましく思った。

7 一方向性

ここまで、あまり発表の詳細には触れないようにしていたけれど、僕は入不二ファンなので、入不二の発表にあった断裂と循環の議論については触れておきたい。永井の風間くん問題に見いだされる一方向性には、断裂と循環があるという指摘である。(入不二は、自分の発表のパートだけは動画で残すと言っていたので、これからでも観ることができると思う。)

入不二の診断によれば、永井の「私」としてカテゴリー化された無内包の現実性には、〈私〉から《私》という一方向の推移を達成する力はない。なぜなら、〈私〉には、それぞれの〈私〉としての《私》を能動的に構成する力はなく、〈私〉と《私》の間には断裂があるからである。

また、仮に〈私〉から《私》への一方向の推移が成し遂げられてしまったら、〈私〉も《私》も同列に位置づけられてしまい、それは一方向ではなく循環になってしまうからである。

風間くん問題について、一方向性として描写することには、いずれにせよ無理があるのだ。

だが、入不二は、一方向性の議論におけるこのような障害は、一方向性の議論の誤りを示しているのではなく、それが語りうる正しさのぎりぎりの際に到達していることの証左であると考えているだろう。一方向性の議論は、断裂と循環があるからこそ正しいのである。

なぜそう言えるかと言えば、入不二の現実性の議論も、同様の問題を抱えているからだ。入不二が『現実性の問題』で提示した(僕が好きな)円環モデルによれば、入不二の円環モデルの12時のところには、絶対に超えられないけれど、そこを超えてしまったらなかったことにされてしまうギャップがある。入不二自身はそうは言っていなかったけれど、ここにあるのも断裂と循環である。永井の断裂と循環と、入不二の断裂と循環が全く同じものかどうかはわからないけれど、かなり近いものであることは確かだと思う。

そして、ここにこそ、谷口のA変容というアイディアが活きてくるように思う。(非公開の文書を引用するのはよくないかもしれないけれど、一部なので許してください。)谷口のテキストに「概念は、時間によって、そしてただ時間によってのみ、受肉する。」という記載があった。主語を概念としていいかどうかはわからないけれど、超えられるはずのない断裂(ギャップ)を飛び越え、それをなかったものにして循環させてしまうのは受肉する時間である、ということは、かなり言えそうな予感がある。

ただし、そこでのA変容とは「コンロの上で熱湯がぽこぽこしている」のような内包があるものとすることはミスリーディングだと思う。まさしく、ギャップを飛び越えてしまう不思議としてだけ、時間を捉えるべきであるように思える。

8 行われなかった応答

という訳で、結局、この文章が最も伝えたかったことは、このイベントはとても面白くて、刺激的で、色々考えさせられた、ということなのだけど、もうちょっと、このあたりも聞きたかったなあ、という思いも実は少し残っている。

ひとつは、永井先生が入不二先生への応答で、「入不二の議論では、なぜ私が特異点になるかを示せていない。」というものがあったが、入不二先生から、この指摘に対する応答が聞いてみたかった。

もうひとつは、その逆の質問になるのだけど、「なぜ永井は私や今といったカテゴリーを現実性と結びつけ、そこを議論の始発点とするのか。」という疑問が僕のなかにはあり、こちらは永井先生から答えが聞きたかった。

だけど、実は答えは予想できていて、「そう考えるのが面白いから。」とか「そうとしか考えることができないから。」というものになるのだろう。谷口のクオリア否定のエピソードを踏まえるならば、そのように問い、考えることしかできないということこそが、その哲学者の生き方ということなのだろう。(そういえば、永井先生はイベントの中で「根拠はないけれど、そっちのほうがうまく説明できそうな気がするから、くらいの軽さで哲学的な立場は選んでいいと教わった。」というような話をしていた。)

そういう哲学が、平日にも関わらず、何百人に視聴され、こんなに人気を集めるなんて、なんて楽しい世界なんだろう。という感想でした。

ウクライナのこと

いつもは哲学が最優先で、他に大きなニュースがあってもいずれ哲学に戻っていくのだけど、今回はそうもいかないのでここに吐き出しておく。全く哲学な話ではないし、政治素人の特に目新しいこともない話なので、読む価値は全くない。ご承知おきを。

僕が気になって仕方ないのは、当然ウクライナ侵略のことだ。

ウクライナで起こっていることは、多分、死者の数や被害の大きさでは飛び抜けて酷いことではないだろう。これまであった、そして今現在も起きているだろう中東やアフリカでのよく知らない出来事のほうが、よほど悲惨なものである可能性が高い。世界がウクライナに注目するのは、そこで苦しんでいるのが白人だからであり、そして悪のプーチンと善のウクライナ市民の対決というエンターテイメント性があるからではないか、と勘ぐってさえしてしまう。

だけど、やはり僕もウクライナのことが気になる。それはなぜかといえば、ロシアという国連常任理事国が、政情不安でもない国に対して、直接、首都にまで攻撃するというのが衝撃だったからだ。そして、そのような蛮行に対して、国際社会は、経済制裁以上のことができないということが露呈したからだ。これは第二次世界大戦以降、初の事件だと思う。

今回のことから、NATOや日本や韓国などのアメリカと直接軍事同盟を締結している国でなければ、アメリカは軍隊を動かさないということが明らかになった。加えて、軍事同盟を締結していたとしても、そう簡単には助けてくれないだろう、ということも明らかになった。

独立国家ウクライナ相手でいけるなら、中国の一部である台湾はもっと危ない。明確にアメリカと軍事同盟を結んでいないベトナムもやばい。日本だって、日本人が何人も戦い、死んでいかなければ、アメリカはきっと助けてくれない。

僕の中に、ベルリンの壁崩壊以来、すっかり忘れていたあの感覚が蘇ってきている。僕たちは常に(内戦状態にあるなどのきっかけがなくても)突然、日常を奪われる可能性に直面しているのだ。

そして今回僕が学んだのは、このようなときに大事になるのは「物語」だということである。プーチンやトランプには本当にやばいことをやるかもしれないという物語があるし、ウクライナ軍には祖国を愛し、勇敢に戦うという物語がある。僕は当然反トランプだけど、残念ながらバイデンには鈍重で扱いやすいという物語しかなかったのだろう。人が紡ぐ物語が複雑に絡まり合い、政治は思わぬ方向に進んでいく。

専門家は、軍事力を比較したり、経済制裁時の世界経済への影響を考慮したり、地政学的な影響を分析したりするけれど、なかなかそのとおりにものごとは進まない。なぜそうならないかといえば、そこには理性ではすくい取れない感情があり、人間の生き様があるからなのだろう。

重要となるのは「物語」つまり、他者、この場合は世界からどのように見られているか、という視点である。僕たちはプーチンの心の中は読めないし、ウクライナ軍人ひとりひとりの人生も知らない。だけど、僕たちはプーチンに狂った独裁者、または強いロシアを回復しようとするしたたかな政治家という物語を読み込むし、ウクライナ軍人には絶望的な状況でも勇敢に戦う愛国者という物語を読み込む。物語が悪い方向に働けば、(ナチスドイツのチェコ併合のように)プーチンの暴走を止められないという事態を生み出すし、良い方向に転がれば、SWIFTからのロシア排除のような動きにもつながる。(僕は、損得勘定だけではなく、ウクライナ国民の努力が世界を動かしていると信じたい。)

だから、今回のことで僕が気づいたのは、(僕自身も含めて)人は、他者にどのように見られているかを、もっと気にするべきだということだ。人は、他者にとっては、物語の演者である。他者に働きかけるうえでは、わかりやすく、心に訴えるような物語を紡ぎ出すことが有効だ。政治家のような人ならなおさらだ。トランプのようなポピュリストが成功するのはそのためだし、ジョブズのようなプレゼンがうけるのもそのためだ。そして、それは生半可にできることではない。ときにはウクライナ軍人のように命をかけなければ、他者を動かすような物語を紡ぐことはできない。その点で僕は、日本の政治家にも、日本人にも、僕自身にも不満がある。例えば、僕たちは、安全安心で健康で幸福になれるような制度や年収というような静的な状態ではなく、活き活きとした予測不可能な物語をもっと大事にしなければならないのではないか。

もうひとつ、僕が感じているのは、こんなときでも僕は僕自身ができることをするしかない、ということだ。僕が構想しているのは、このサイトにあるとおり「対話の哲学」だ。対話の哲学というからには、プーチンのような独裁者とは反対の立場を表明するものとなるだろう。対話の重要性についての説得力を高めることは、権力者の独断に制限を加えることにつながりうるはずだ。

つまり、僕が哲学をすることは、ひいては、僕が望むような世界をつくりだすための営みともなりうる、ということである。だから、僕が哲学をするにあたっては、ウクライナの人たちを思うことはモチベーションになりうる。今回のことはそのように僕自身と結びつけることもできる。

だが、それはそれでいいことではあるのだけど、実は余計な夾雑物であり、僕の哲学を変質させてしまうのではないか、という危惧もある。実は、僕は僕の哲学に、あまり倫理的な含意を込めたくなかったのだ。だけど、今回のことで、ちょっと気持ちが変わりつつもある。

そんな迷いはあるけれど、ここで吐き出したので、とりあえず哲学のほうに頭を切り替えよう。

スノーボードのこと

※2000字くらいですが、それにしても読者が得るものがなさそうな文章なのでスルーして結構です。

全く哲学ではないけれど、自分のことが少しわかったので、うれしくて書き残しておくものです。だから、僕に興味がある人(つまり僕)以外は読まなくていいです。

今、冬季オリンピックがやっているけれど、僕は平野歩夢のハーフパイプでの金メダルの滑りをきちんと見ていない。

まあ、スノーボードに興味がなければ普通のことだけど、僕は20代の頃、スノーボードが好きで、あんなオリンピックサイズじゃないけれど、ハーフパイプに入ったこともあるから、それは普通のことではない。

(僕は運動があまり得意ではないけれど、スキーは子供の頃からやっていたので、その流れでスノーボードも好きで、黎明期のスノーボードにはハマっていたのだ。)

僕は小さなハーフパイプに入ったことはあるけれど、あれは怖い。まずハーフパイプに入るためには、崖のようなところを真下に滑っていかなければいけないのだけれど、それが結構怖い。そしてガリガリに固められた氷のようなところを失速しないように滑るのも難しい。そして、その勢いを殺さないように壁のようなところを上がっていくのが更に難しくて怖い。

怖いから無意識にスピードを殺してしまい、壁の一番上まで登って、その上に飛び出すことなんて結局できず、壁を登る途中でパタッと向きを変えて滑ることくらいしかできない。

だけど、そのときにわずかに感じる浮遊感が気持ちいいのだ。体が横になりながら斜め上に浮かび上がるような、ちょっと他では味わえない感覚である。ジャンプ台から飛び立つのが縦の浮遊感だとしたら、ハーフパイプの浮遊感は3Dの立体的浮遊感という感じだろうか。その浮遊感は30年近く経った今でも覚えている。

それを感じたくて何回かハーフパイプに入ったけれど、20代半ばになり、怪我をすると色々と支障が生じる立場になり、また、自分の運動神経のなさを思い知ったので、そういうのはやめることにした。

このくらいのことは語れるくらいだから、オリンピックのハーフパイプ競技くらい見てもいいと思われるかもしれない。だけど、僕は見たくないのだ。あれは、僕が好きだったハーフパイプではない。

平野歩夢がリップ(ハーフパイプの縁)から飛び出る瞬間は心が踊る。あんなに高く飛べたらどんなに気持ちいいだろうかと思う。だけどそこからすぐにハーフパイプは高飛び込みかフィギアスケートのように回転数を競う競技になってしまう。くるくる回る平野君を見ていて、あんなの全然気持ちよさそうじゃないしクールじゃない、と感じてしまうのだ。

いや、きっと平野君はクールなのだろう。クールじゃないのは、オリンピック競技化したハーフパイプだ。僕がハーフパイプに求めていたのは、1cmでも高く飛び、より浮遊感を感じることであったはずだ。そのうえで、見たこともないようなグラブを決めたり、ひねりや回転を加えたりして、周囲に自慢することはあってもいい。だがそれは、浮遊感を感じる余裕を周囲に見せつけるためのトッピングであり、ちょっとした遊びの要素に過ぎない。ハーフパイプはおろかワンメイク(ジャンプ台から飛ぶこと)でもグラブなんてできなかったけれど、目指すべき理想としては、そのように思っていた。

そんな理想から遠くかけ離れたハーフパイプなんて見たくない。僕が好きなのは、スキー場の脇にある、誰にも注目されることのない小さなハーフパイプなのだ。

なお、僕は小学生の頃スイミングスクールに行っていたので水泳も好きなのだけど、水泳については、ハーフパイプに感じるようなモヤモヤはない。水泳のトップレベルの選手を見ていると、あんなに早く泳げたら楽しいだろうなあ、と思う。スノーボードで転んで肩を痛めたから、今はもう泳げないけれど、調子よく泳いでいるときに、体が水と一体になったような浮遊感とでも言うべき感覚になったことは今でも少し覚えている。あんなのを感じているなんて羨ましい。

水泳と対比するとよくわかるけれど、やっぱり僕は採点競技が嫌いなのだろうと思う。僕が好きだった自由なスノーボードというものに、誰かの勝手な価値観を持ち込み、その価値観に沿って競わせて、それを商業化していく。僕はそれが許せないのだ。

また、この文章を書いていて気づいたけれど、僕は、そもそもスポーツというのは見るものではなくてやるものだと考えているのだろう。だから僕は、結局水泳がテレビでやっていてもほとんど見ない。

さらに、もうひとつこの文章を書いていて気づいたけれど、僕は、スポーツの魅力とは、快感、それも浮遊感とでもいうべき、ある特定の快感が得られるところにあると考えているようだ。そういえば、僕はスキューバダイビングも好きだったのだけど、あれにも浮遊感がある。また、スポーツではないけれど、最近はまっている哲学対話の魅力とは、うまく対話できているときに感じる浮遊感である。

そう考えると、僕の好みは意外と単純だなあ、と思う。これが今回の大きな気づきである。

上手なセックスと上手な対話

※3800字くらいです。あとタイトルのとおりセックスの話なので注意を。

こういう書き出しをすることにはちょっと躊躇したのだけど、僕はあまりセックスが上手ではない。

手先が不器用なせいだと考えていたけれど、どうもそればかりではないということに最近気づいた。いや、薄々気づいていたことが、より明瞭になったと言ったほうが正確だろう。

こういう話題なので、あまり具体的にならないようするけれど、僕はどのように相手に触れればいいのかがよくわかっていないのだ。わかっていないから、ただ相手が気持ちよさそうな反応をすればいい、なるべく強い反応があればなおよい、そんなざっくりした指針に基づいて行動してしまっていた。

では、具体的にはどのように行動すればいいのか、ということになるが、世にはセックス教則本とでも言うべきものがたくさんあって、その答えをていねいに教えてくれている。(僕は、セックス教則本の作者であるアダム徳永についての文章を書いたこともある。http://dialogue.135.jp/2020/06/21/adam/)

だが、残念ながら、彼らの答えは彼の経験から導かれた、過去の彼らにとっての答えであり、僕の答えではないし、更には、これからの未来の僕にとっての答えではない。他者の過去の経験に基づく知見は参考にはなるが、それを自分自身のこれからの未来に直接導入するべきではない。

では、どうすればいいのかといえば、セックス伝道師のような他者ではなく、当事者、つまり相手と僕自身に聞くしかないのだろう。僕は、相手が望むこと、そして僕自身が望むことを丁寧に把握し、両者を調和させ、そこから導かれた道筋を実現すべく行動するしかない。これは結構難しいことだけど、幸いにもセックスでは五感をフル稼働させることができる。通常のコミュニケーションの場であれば、「気持ちいい?」などと言葉で相手の気持ちを確認し、「こうしたい」などと言葉で自分の気持ちを伝えることしかできないけれど、セックスの場では、触覚や息遣いといった様々な感覚を用いることができる。持てる感覚を最大限に活性化させることで、相手と深い交流をすることができる。これはセックスならではの醍醐味だろう。

そのような交流を、セックスにおける対話と呼ぶこともできるだろう。

上手なセックスとは、五感をフル稼働させた対話的なセックスのことであり、僕は独りよがりで対話的でないからセックスが下手だということなのだ。

そして、対話的なセックスとは、それが終わった後の視点から振り返ってみれば、美しい物語のように見えるだろう。物語とは対話の軌跡であり、丁寧に調和した対話により紡がれた物語は美しいに違いないのだから。僕が目指すべきは、対話し物語を紡ぐようなセックスなのである。

だから、物語を書く際に美しい古典文学に触れたことが役に立つ程度には、セックス教則本に載っている先人の美しいセックスを勉強しておくことはセックスにおいて役立つだろう。だけど古典文学の盗作が決して美しい物語にはならないように、セックス教則本どおりのセックスは決してよいセックスにはならない。

セックスとは、二人で対話しつつ、一つの物語を紡ぐようなものだという比喩は、僕に二つのことの重要性に気づかせてくれる。

ひとつは、時間経過の重要性である。セックスには、一直線に頂点を目指すような短編小説のような良さがあるし、丁寧に細部を掘り下げていくような長編小説の良さもある。臨機応変に二人ならではの物語をつくっていけばいい。簡単に言えば、飽きない程度に急がず対話していけばいい、ということになる。

もうひとつ重要なのは、波のような緊張と弛緩である。二人にとってのちょうどいい接触の具合を探っていくためには、接触の度合いを高めたり、弱めたりして、ちょうどいいところを探っていくしかない。そのちょうどいい地点こそが、二人の結節点であり、その結節点の軌跡こそが二者間での対話から生まれる一つの物語である。だから、僕とパートナーがショートショートの名手でもない限り、セックスにおいては、波のような緊張と弛緩を入れ込み、ちょうどいいところを探りやすいように中長編の物語を書いたほうがいい、ということになるだろう。

・・・

長い導入部となってしまったが、実は、僕が書きたかったのは、この緊張と弛緩の話であり、そのなかで見いだされる結節点の話である。

そろそろセックスの話から離れ、もう少し広く行われているコミュニケーション、つまり言葉による対話の話に戻ることにしたい。

セックスであれば、緊張と弛緩は愛撫の強さなどで生み出されるが、言葉による対話の場であれば、それは言葉の量によって生まれると考えていいだろう。たくさんの言葉を一方的にまくしたてるような場面は緊張した場面であり、わずかな数の言葉しか発せられないような場面は弛緩した場面である。

緊張した対話の代表例は演説の場面だろう。登壇者には聴衆に伝達したいことが明確にあり、そのことについて一方的に何分間も言葉を連ね続ける。その間、聴衆は言葉を発さず、それをただ聞くだけである。

一方の弛緩した対話においては、発話者に伝達したい言葉は明確にはない。例えば、お通夜の場面では、出席者は、滔々と悲しい気持ちや相手を思いやる気持ちを説明するなんてことはせず、ただ一言、「お悔やみ申し上げます。」というような言葉を発するだけである。それもできるだけ不器用なかたちで。なぜそうするのかといえば、そこにあるのは言葉にはできない感情であり、こんなときには言葉は無力だと気づいているからである。弛緩した対話とは、このような場面を思い浮かべてほしい。

考えてみれば、対話とは、演説のように言葉が重視される方向と、お通夜のように言葉が重視されない方向という、二つの方向の間で揺れ動くもののように思う。

喧嘩をしていて自分の正当性を相手にわからせようとするとき、僕は言葉に言葉を足して、まくしたてるようにしてこちらの事情や考え方を理解させようとする。だけど、そのような説明によっても理解が得られなければ、僕は無言となり、言葉を発しないことにより、僕の中にある怒りや悲しみといった感情を、その相手に伝えようとする。演説においても、あえて沈黙の時間をつくり、そこで言葉の裏にある感情を伝えるという技法もある。

そしてまた、言葉にならない感情を、あえて言葉にしていくことにより、その感情が癒やされていくというようなことも起こる。長年言葉にしてこなかった戦争の苦い思い出を、年老いてからあえて語るような場面である。これが、はたして言葉により感情を癒やすのか、時間経過により感情が癒やされたから言葉にできるのかは別として、言葉が前景に出てくるのに呼応するようにして、感情は背景に退く。

このように、対話には、感情から言葉に向かうベクトルと、言葉から感情に向かうベクトルという、二つのベクトルがある。僕はこれを緊張と弛緩と表現したが、それはあくまで言葉の側からの捉え方であり、感情の側からしたら、演説のような場は感情の弛緩であり、お通夜のような場こそが感情の緊張であるということになるのだろう。

だから、対話においては、そこで発せられる言葉の内容だけでなく、それ以上に、現在、言葉が加算される方向にあるのか、それとも言葉が減算される方向にあるのかに注意を払うことが重要だ。言葉が加算されている限りは、そこでは言葉が重要な役割を果たしていることになるので、その言葉の内容に注意を払っていればいい。だけど、言葉が減算されているときは、そこで発せられている言葉ではなく、そこで発せられなかった言葉にこそ注意を払う必要がある。そこには、言葉にしない、というかたちで逆説的に表現された感情があるはずだからだ。

そこのようにして、僕と相手とのコミュニケーションにおいて、ちょうどいい言葉と感情のバランスを調整することにより、僕たちにとっての適切な結節点を見出すことができる。二人の間に一つの結節点を見出すという意味で、文字通り僕たち二人は、二つが一つになる。そして、その結節点を丁寧に維持し、その結節点の軌跡を描くことで、僕たち二人は一つの物語を描くことができる。

いや、理想的な結節点を見出し、それを維持するなどというのは幻想だろう。どうしてもコミュニケーションにおいては想定外のズレが生じる。適切な結節点の維持などというのは、あくまで彼方の理想であり、その理想を目指して対話を継続していくことこそが対話のそもそものあり方だと考えたほうがいいだろう。なかなか完璧に成功するものではないからこそ、対話は面白い。

・・・

一応、最後にセックスの話に戻ると、明らかに、対話とセックスは並行関係にある。ただし、通常の対話に比べてセックスにおいて描かれる物語は、結局、二人の間の恋愛の物語であるという点で、その内容としての多様性には乏しいと言えるだろう。一方で、通常の対話においては、言葉や、せいぜい表情や身振りといったものしか用いられない一方で、セックスは、触覚や息遣いといった様々なものが用いられるという点で、手段が豊かである。つまり、通常の対話とセックスはかなりよく似ているが、対話に比べてセックスは、その目指す目的は狭いが、手段は幅広いという違いがあるという関係にある。つまり対話とセックスは相補的な関係にあるということである。だから僕は、セックスをするように対話をしていきたいし、対話をするようにセックスをしていきたいなあ、と思う。

GIRL FRIEND

※1700字くらいです。

僕は高校生の頃、ある人を好きになった。帰国子女で英語がペラペラで、クラスで一番の成績の女の子だった。僕は頭がいい女の子が好きだったのだ。結局、その恋はうまくいかなかったけれど、それからずっと、僕が好きなタイプは「頭がいい人」としてきたし、実際そうだった。

なお、頭がいいといっても、成績がいいというだけの意味ではない。ROOSTERSのGIRL FRIENDという曲に、「そんなにかしこくないけど いろんなことがわかってる」という歌詞がある。そういうことなんだよなあ、って高校生の僕は思っていた。

高校生の僕の気持ちをより正確に表現するなら、僕は、僕のことを理解してくれる人を求めていた。きっと当時の僕は、母性のようなものを求めていて、母親のように、よしよし、と僕の頭をなでながら、僕のことを全て包み込んでくれるような人を求めていたのだろう。(実の母親がそのような人だったかどうかは別として。)

当然、そのような人などいる訳ないから、高校生の僕の恋はうまくいかなかったし、その後の僕は路線変更していくことになる。

だけど結局僕は、たいして変わることができなかったのかもしれない、と最近気づいた。僕がこのような文章を書いているのは、心の奥底では誰かに理解してほしいと願っているからなのだろうし、哲学カフェのような活動をしているのも、互いに理解しあうことを目指しているからなのだろう。僕は君を理解しようとするから、君も僕を理解しようとしてほしい、そんな場を作り上げようとしているのかもしれない。僕は、僕を理解してほしいという気持ちを手放すことはできなかった。

僕は、僕の何を理解してほしいのだろう。それは決して、僕が好きな食べ物や僕が昨日したことのような事実を知ってほしいということではない。僕が理解してほしいのは僕の心のなかであり、僕が何を感じ、何を考えているのか、といったことである。

当然、人間の内面を完全に理解することはできない。完全に理解できないどころか、全く理解できないという考え方もありうる。哲学的には、他者の痛み自体を直接的に知ることはできない、という議論もあるくらいだ。

だから、僕が僕のGIRL FRIENDに願うのは、僕の内面に興味を持ち、僕の内面を知りたいと願ってくれることだと言ったほうがいい。加えて、いろんなことがわかってて、ちょっと機転が効いた言葉があればなおよいけれど、それはおまけであって、必須ではない。

だけど僕も年齢を重ね、そんな青臭いことは切り離して生きていくこともできるようになった。今の僕は会話において僕の内面の理解なんて求めていない。僕は聞き役を務めるのも苦手じゃないし、僕のことを話す場面でも、海外旅行での失敗談のような面白かった出来事や、テレビやネットから最近仕入れた知識など、差し障りのない話もできる。差し障りがないというのは僕の外の世界の客観的な出来事についての話であり、そのような話であれば、大抵の人は興味を持ってくれる。そのような話で会話を埋め尽くすことはできるし、そのような会話も結構楽しい。

だけど僕は孤独だなあ、と思う。

僕が夢想するのは、このような場面だ。

僕はその人の内面に興味を持ち、その人も僕の内面に興味を持ってくれる。互いに相手のことを知ろうとするけれど、当然、それは決して完全に達成されることはない。だから、僕からその人に向かう興味のベクトル、そしてその人から僕に向かう興味のベクトルが何重にも重ね書きされることになる。これが対話である。

その対話の成果物として何かが生まれる。それは僕の内面自体ではなく、相手の内面自体でもないけれど、それでも、僕たちの内面と何らかの関係があるものが、興味のベクトルの軌跡の集合体として生まれることになる。

このような、何か新しいものを生み出すような営みを、誰かとともにできれば、僕は孤独ではなくなるのかもしれない。

だけど経験上、このような願いは、実現の見込みがない青臭い幻想だということも、重々承知している。

僕は少し疲れているのかもしれない。疲れると、どうも極端な方向に思考が進む。孤独や幻想といった極端な言葉しか思いつかないのは、その現れかもしれない。

言葉と感情

※2400字くらいです

最近、僕のツイッター上は、老犬が亡くなったという書き込みばかり流れてくるようになった。なにかのきっかけで「いいね」をしたら、その履歴に応じて似たような書き込みばかりながれてくるようになったのだ。

僕はそんな書き込みになるべく「いいね」をしている。長年飼っていたペットを失うというのは大変なできごとだから、せめて「いいね」数が何かのプラスになればいいと思っている。

ただ、そうするのには、もうひとつ別の理由もある。僕はその書き込みが好きなのだろう。そこには、ペットを見守る飼い主と、健気に生きて死んでいくペットという、極めてわかりやすい一つの情景が切り取られているのだ。

ツイッターには色々と興味深い書き込みがなされる。不思議な話や面白い漫画や美しい絵もある。ツイッターは思いもよらなかった新しい表現にあふれている。だけど、老犬が亡くなるという書き込みには、別に新しい表現などないし、読者を惹き付けるような工夫もない。たいてい、その犬の写真が貼られていて、犬に対する感謝や、見守ってくれたフォロワーへの感謝や、寂しい気持ちなどが書かれている。ただそれだけだ。

そのような何の変哲もないような書き込みに僕は惹きつけられる。そして「いいね」をすることで、その関係者になれたような気がして、少しうれしくなる。

これは共感の話だろう。僕は、犬が死ぬという出来事に感情を揺り動かされ、死んでいく犬やそれを見守る飼い主に共感している。僕はこの共感の場に惹きつけられている。

この共感とは、僕にとって重要用語だ。僕は共感と言葉による伝達を対立的に捉えている。

言葉と共感は水と油だ。例えば「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という発言に対しては「大変だね。」なんていう、あたりまえで、実質的な意味がほとんどない返事がなされる。この「大変だね。」は、言葉としてはかなり貧弱であり、ただ共感しているという事実を表現しているに過ぎない。その証拠に、「大変だね。」という言葉を発さなくても、ただ理解し苦しんでいるような表情をすれば済むし、「大変だね。」という言葉を発しても、ニコニコと笑っていたら不適切な反応となる。また、「最近、仕事が忙しくて残業続きなんだ。」という言葉に対して、残業せずに効率よく働く工夫を提案したり、残業を生み出す社会構造について説明することは、残業で大変な状況に共感するうえでは邪魔にしかならない。必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉であり、目をみつめて黙ってうなずくことである。

また別の例では、人が痛そうにしているのが伝わるのは、うずくまって苦しそうにしている姿に共感するからである。いかにひどい怪我かを言葉で流暢に説明すればするほど、その人は痛そうではなくなる。

以上のような意味で、共感と言葉は水と油のように対立している。

世間は共感のほうが優勢だ。皆、場の空気を読んで共感し、言うべきでないことを言わなかったり、言うべきでないことを言った人を批判したりする。「残業続きなんだ。」という言葉に対して、いきなり残業を生み出す社会構造について説明し始めてしまったら、きっと煙たがられるだろう。

一方で僕は共感よりも言葉による伝達のほうが重要だと思っている。当然、「残業続きなんだ。」という言葉に対して「大変だね。」という言葉は必要だし、その言葉に沿った適切な表情をすることも重要だろう。だけど、それで終わってしまったら、その残業続きの状況は解決されない。本当になすべきことは、では、その残業続きの状況を改善するにはどうすればいいのかをともに考えることなのではないだろうか。

それが言葉の力である。僕は言葉の力をもっと引き出したいと願っている。当然、言葉には限界があるけれど、「言葉には限界がある。」と言えるほど、人は言葉の力を引き出していないように思う。言葉が共感なんかに負けてたまるか、と僕は思っている。

だが、ふと、それはかなり難しいことなのかもしれない、と気付いた。考えてみれば、感情は言葉とかなり相性が悪い。感情を伝えるときに余計な言葉は不要だ。感情は共感でしか伝えることはできない。「悲しい」という感情を伝えるのは、「悲しい。」という言葉や「誰もいない教会でパトラッシュと一緒に凍え死にました。」という言葉ではなくて、その人の悲しそうな雰囲気であり、フランダースの犬の物語に没入したような共感と呼ばれる感覚である。

このことを「感情は言葉の減算によって伝達される。」と表現できるかもしれない。言葉は、大抵のものごとを伝達することができる。だけど、感情だけは、言葉はうまく伝えることができない。言葉で伝えようとすればするほど、感情は言葉から逃れていく。だから感情を伝達するためには、言葉を抑制的に用いることが重要だ。同情する感情を伝えるために必要なのは「大変だね。」という最低限の言葉である。そして言葉を削ぎ落としたところでこそ働くものが共感である。

僕が世間の人とずれているのは、世間の人が言葉の力をみくびっているからではなく、僕が、感情というものを理解していないからなのかもしれない。僕以外の人は言葉に大きな力があることは重々承知しており、そのうえで、言葉には、感情をうまく捉えられないという限界があることも知っているのかもしれない。僕だけが、感情を理解していないが故に、その限界に気づかず、言葉の力を盲信していただけなのかもしれない。

そんなふうに少し落ち込んだけれど、ツイッターで老犬の書き込みを見て思い出した。僕には、言葉によらずとも、このような書き込みに共感する力がある。ちょっとずれているけれど、僕は僕なりに共感し、他者の感情を理解できている。僕は、僕なりに手持ちの駒でなんとかやっていくしかないのだろう。きっと、みんな、そうするしかないのだろう。

X-A=B

※1600字くらいです。

僕が高校生の頃から抱えている疑問を、あえて今の僕の言葉で表すならば「この言語で捉えられる前の、何か(近似的な表現としては「これ」「世界」)とは何なのか。」というようなものになるだろう。

そして、この疑問を少しでも探求しやすく加工するならば次のようになるだろう。

「この言語で捉えられる前の何かをあえて言語で捉えるならば、どのように捉えることができるのか。また、この捕捉の過程において何が失われることになるのか。そして、捕捉したものに失われたものを付け加えるようにして復元したならば、何が復元されるのか。」

僕が最近考えていることは、こういうことばかりのような気がする。表向きは毛色が違っていても、どこかでこういう話につながっている。

このような構造で思考をしてしまうのは明らかに入不二基義の『現実性の問題』のせいだと思う。

僕が捉えたい何かを近似的に表現するならば、「これ」や「世界」となるだろう。わかりやすいが誤解を招く言い方をするならば、僕はこの眼前に広がる「この世界」に驚いている。そして「この世界」は一体何なのだろう、という疑問を抱えている。

だけど、このような表現には、残念ながら様々な誤りが含まれている。まず、僕が驚く世界とは、僕の視界に捉えられる限りの世界ではない。視界に捉えることができない世界も含む。また、実際に現前している世界に限るものでもない。かつて存在した世界やいつか存在するだろう世界や存在するかもしれない可能性としての世界も含む。そして、物理学的な宇宙というような描写ができるものに限るものでもない。想像上の物語や人の心といった、そもそも世界という言葉がそぐわないようなものさえも含む。また、僕が指し示したいものは、時空的把握という人間が偶然的に持っている性質によって制限されるものではない。そのような意味でも、世界という言葉はそぐわない。他にも様々なかたちで表現の限界を指摘することができるだろう。

だから、「この世界」「これ」「世界」といった言葉は誤解を招く。「これ」と指差しできないものも含むのに「これ」はおかしいし、「世界」と呼べないようなものも含むのに「世界」もおかしい。そうかと言って、もっといい言葉も見つからない。だから、僕はどうしたものかと試行錯誤している。

だけど入不二は、その何かについて「潜在性」という、(今のところ)最も適切な描写を与えてくれた。あえて、この言語で捉えられる前の何かを言語で捉えるならば、それは入不二の「潜在性」なのである。そう考えると、僕は少し居心地がよくなる。

だが、この捕捉の過程においても失われるものはあるはずだ。なぜなら、どんなにうまい言葉を入不二が発明したとしても、そこには何らかの制限が加わっているはずだからだ。では、何が失われることになるのか。

入不二はこの問題にも答えを出してくれている。それは「現実性の力」である。そして、入不二によれば、あえて「潜在性」として言語で捉えられる前の、言語以前の何かとは「現実」である。なぜなら、言語以前の何かは、あえて「潜在性」として言語で捉えることができるが、この捕捉の過程において失われた「現実性の力」を付け加えるようにして、「現実」を復元することもできるからである。

僕は、これは、なかなかいい線をいっている議論だと思う。少なくとも、僕がやるべきだと思っていることに、最も肉薄した議論であり、少なくともこれ以上の議論は今のところ思いつかないほどの議論である。

だけど、僕にとっての入不二の議論の最大の意義は、この議論を通じて、僕がやるべきことを明確に指し示してくれたというところにこそあると思う。

入不二は、次のような式でXに迫ることができることを示してくれた。

X-A(現実性の力)=B(潜在性)

X=B(潜在性)+A(現実性の力)

X=C(現実)

僕は僕なりにA、B、Cを探し求め、入不二とは違うやり方で、僕の問題に更に肉薄していきたい。

AIによる破壊

※約1700字あります。

僕は逆張り的なところがある。株価が下がると株を買いたくなるし、旅の途中で皆が行かない細い路地があると、そっちに行ってみたくなる。僕は臆病でもあるから、あまり大胆なことはできないけれど・・・ 僕は心のどこかで、この世界を作り変えたいと願っている。いや、正確には、僕はこの世界を破壊したいと願っているのかもしれない。

破壊することは楽しい。というか、既存の筋道を辿ることによる凡庸な退屈から逃れる唯一の道は破壊だろう。僕がこの窒息するような世界から逃れるためには既存のものを破壊するしかない。

僕はヒンズー教のシヴァ神が好きで、30年以上前にインドで買ったポスターを今も部屋に貼っている。シヴァ神は破壊の神で、維持の神であるヴィシュヌと並ぶビッグネームな神様だ。シヴァ神のことが好きなのはそういうことだと思う。

だけど、そのような切実な願いがある一方で、僕は、この安定した世界という冬の布団にいつまでもくるまっていたいという気持ちも強い。安定した仕事と固定化した人間関係のなかで心穏やかに過ごしたいという願いは、より切実だ。ここには僕が持つ性質の凡庸さという問題がある。

ただ、より深い問題は、もし僕が安定への執着を捨て去り、破壊の天才になれたとしても、完全な破壊を遂行することはできないという点にあるだろう。破壊したからには何らかの新しい秩序が創造されざるを得ない。たとえ原子爆弾で街を破壊したとしても、そこには苦しむ人々が逃げ惑う焼け野原という新たな世界秩序が創造されるだけである。もし地球を消滅させたとしても、そこには惑星が存在しない宇宙空間という多少異なる状況が出現するだけである。もし僕が、その破壊にコミットし、破壊後の新たな秩序のなかに組み込まれてしまったならば、結局僕は、既に存在する世界に囚われた凡庸な人生を再開することになる。(その人生を生きるのは、きっと、より困難なものになる。)

だから、僕が願う破壊とは、僕自身の破壊でもなければならないだろう。というか、僕は世界よりも何よりもまず先に僕自身を破壊しなければならないはずだ。

だが、僕は、僕自身を破壊しても、僕自身の破壊の先にも残る世界というものを想定することができる。つまり世界の想定というかたちで僕のコミットメントは残存する。だから僕の破壊を完遂するためには、この僕自身だけでなく、やはり世界を破壊しなければならない。想定される世界すらも破壊しつくさなければならない。

そのためには破壊を他者に委ねる必要があるだろう。僕自身を破壊し、そして世界を破壊してくれるような強力な他者である。僕はそのようなものとしてAIを考えている。

だが、論理的には、きっと、AIであっても破壊を完遂することはできない。破壊は継続されざるを得ない。想定しうる最も徹底された破壊とは、破壊に次ぐ破壊というかたちで、構造化され、常態化されたものである。そのような破壊とは、原子爆弾のようないわゆる破壊とは全く異なるものであり、あえて言葉を与えるならば、創造だとさえ言えるだろう。常態化された破壊の構造の創造である。破壊とはつまり創造なのである。

逆に言うならば、真の創造とは、破壊され尽くして新たなものなど生まれないかもしれない、というぎりぎりの地点にこそあるとさえ言えるだろう。何が新たに創造されるかを予想していては、新たなものを創造することなどできない。真の創造とは破壊の痕跡であり、創造とはつまり破壊なのである。

以上の創造と破壊を同一視する観点から、僕は知性に着目している。知性は新たなものを生み出すが、そのためには既存のものを置き換える必要がある。つまり知性とは新たなものの創造であり、既存のものの破壊でもある。創造と破壊と知性は結びつく。

そのような意味で、僕は僕を超えるAIの知性に真の破壊の希望を託す。それはつまり、僕を超える知性に真の創造を託すこととほぼ同義である。

(僕は、そのようなAIには少なくとも、新たな視点に気づくことができる機能、タウマゼインを感じることができる機能が実装されるべきだと思っている。ただし、それだけでは足りないという点が問題である。)